1998(平成)年に自由主義史観研究会研究会のプロパガンダ写真研究会が存在していたことを過去に述べた。顧問に藤岡信勝、東中野修道となっており、会員数も30人弱。
 月に1度、第二土曜日、午後1時から18時まで、当初は(名前忘れた)旅館の大広間で会合を行っていたが、途中から東京大学教育学部の一室にて会合が開かれるようになった。

 当初こそ20人弱集まっていたが、平均10数人程度が集まり、各々が写真研究を行い、その結果を最終的に書籍として出版する予定であった。(設立趣意書
 ところが、2、3回程度開かれたのち、顧問はただ存在するだけの存在となり、むしろ自分達がさも成果を行ったように誰に断る訳でも無く、藤岡信勝等はプロ写研の夜の講演会でさも、自分が発見したように語る卑しい姿を露呈する様になった。

 東中野修道も言わずもがな、全く役に立たず、パラマウント・ニュース映画のアーサーメンケン撮影の南京陥落直後の映像を、ハリウッド等の映画撮影所で捏造したなどとのたまう始末。
 プロパガンダ写真研究会(略してプロ写研)は、数名の優秀な人材が検証を行う程度となり、藤岡信勝に至っては、茂木弘道の様な歴史研究どころか中学生以下の能力者に心酔し、不規則発言を繰り返す茂木等について私が「そんな話をしても意味が無い」とたしなめた途端に、藤岡信勝は「そんなことを言うべきではない!」等と研究発表の邪魔、弊害となっていた。
 
 この直後、藤岡信勝不要として一部の優秀な人材だけを集めた者だけの集まりにして更に研究を推進すべきだとするも、藤岡信勝にとってこれ程成果が高い研究会は無いとして、新たな研究会発足を必死で止めていた状態であった、要するに藤岡信勝の様な役立たずを排除して更に一歩進んだ会に私はしたかったのだが、無能な藤岡はそれをされると自分の立場が危うくなり必死で止めたという事だ。

 プロパガンダ写真研究会では歴史研究の基礎知識が有る連中達によって成果が出ていた。
 藤岡信勝、東中野修道、茂木弘道、水間政憲などは名前が存在していたが、要するに基礎研究能力すら無く役に立つわけも無く、毎回邪魔な存在であった、ちなみに水間政憲は田中正明先生の直系と自称するが、実際は藤岡信勝と同じ行動や見様見真似で大差ない。同郷の藤岡信勝の直系がふさわしい。

 水間政憲は数回会に参加したが、言いたい放題、知識の低さを露呈してアイリス・チャン著「ザ・レイプ・オブ・南京」に掲載された写真の分析を割り当てられたが、放棄して逃亡している。
 私はあらかじめ予測して彼らがやらないであろう研究を翌月に発表した。

 プロ写研究会に途中、夏頃から無断で登場し始めた茂木弘道は、基礎知識が異常に低く、要するに自分の主張を公の場で広言したいだけであり、藤岡信勝はおだてあげられるとすぐ乗るので茂木に利用された上、秘密裏に研究を行うとする秘匿性など、毎回参加しても意味が無く、役に立たない藤岡信勝にとってどうでも良い事と成り下がっており茂木が毎回不規則発言を繰り返すことで、藤岡信勝に対する信頼性やの存在意義が亡くなり始めた事に藤岡自身、全く気付いていなかった。

 要するに、1998年2月に始まったプロ写研において、藤岡信勝は役に立たない上に、詐欺師の様な連中にホイホイ引っ掛かるどうしようもない人物であったという事である。
 しかし、藤岡信勝はこうした研究を我がモノにし、さらに今では見る影も無いが、当時注目を浴びていた「歴史教科書をつくる会」の理事という事で、実態が隠され勘違い方向へと進み、幾度となくバカげた詐欺師達のカモとなっていた。中村粲氏とのケンカも本来防げていたにも関わらず知能の低さを露呈させバカ丸出しの結果となった。

 私はその頃、1998年末にプロパガンダ写真研究会に所属しているというだけで横柄な態度をとる栃木の谷原茂夫だったと記憶しているが、私は藤岡に対する憤懣をネットで書いた。
 それを読んだ谷原茂夫なる男が藤岡に対して「寛大なる処置を…」等と、当時、呆れかえったメールなのか手紙なのか分からないが、訴えたそうだ。
  
 私は徐々にプロパガンダ写真研究会が藤岡信勝が中心となり狂い始めていると感じ、藤岡信勝を見限った。プロ写研はその数か月後に解散した。
 当然と言えば当然であるし、研究が出来る人間が消えれば自然消滅するのは当然であり、藤岡信勝は私の悪評を広めた。東中野修道はプロパガンダ写真研究会の成果を見て、2匹目のドジョウを狙うも、そもそも基礎研究能力が無い東中野修道は寄生虫の様に誰かに巣くうしかない。

 結果、当然と言えば当然だが、東中野修道の人徳の低さも相まって南京学会(?)はつぶれた。
 最後に私の1998年に発表した写真検証の成果を盗み、千数百万円の印税を展転社へビタ一文すら払わずに、学歴詐称という意味不明なレッテル貼りのデマを各出版社や各歴史研究団体への私の悪口、産経新聞記者にすらそのデマを流し、未だに続いている。(気づいてないと思ってるらしい)

 藤岡信勝も私が98年末に藤岡信勝を見限った事に対して、これまた同じ様にありもしないデマを流し、例えば日本会議東京へとある件で向かった際に、大変失礼な事をされ私は日本会議東京に対して、吐き気すらする人として失礼な行為、言動を受けた、これは藤岡信勝のデマによるものである。

 この4名、藤岡信勝、東中野修道、水間政憲、茂木弘道ら。
 共通する事がある、それは歴史研究が全く出来ないという事だ。

 歴史研究を行うためには史料を収集し、分析する事が最重要である。
 しかし、この4名は決定的に関連史料がどこに所蔵されているのか?どこへ問い合わせれば収集できるのか?すらロクに理解も出来ない、調べる事も出来ない。

 安易に感じるかもしれないが、基礎能力が劣る連中は研究が出来ない上に新たな発見は一切出来ないし、その調査方法を理解している事が重要であることは言うまでもない。
 それが出来ない人間は水間政憲の様に、既存の史料を歪曲解釈するかロクに史料の等級分別も出来ず、何でもカンでも”一級史料”と叫ぶようになる。

 これは歴史研究を行う者にとって致命的な事である。
 私がなぜ、次々と新たな史料を発見出来るのか?理由は簡単、基礎研究能力を徹底的に鍛えたからであり、以前、3つの質問をブログで行ったが、基礎中の基礎が理解していない人間にとって1つたりとも分からないはずだ。

 1か月経っても、誰も答えず、私はヒントを出し(というよりほぼ答え)漸く1名が答えた程であった。
 その3つの質問を、4名にしてみるといい、恐らくほぼ答えられる者はいないだろう。

 東中野修道は1つだけこたえられるかもしれないが。
 例えるなら、大図書館で書籍を探すための検索方法を理解していなければ永遠に見つける事など出来るわけがない、プロパガンダ写真研究会と南京学会なる有象無象の集団とではこれだけ差が有った。

 そもそも東中野修道自身がその調べ方を理解できていないから出来るはずも無い。
 黄文雄先生から史料を貰い分析するしかないのと同じだ、私であれば台湾のどこそこに存在するなど30分もあれば調査完了出来る。

 通州事件を藤岡信勝や何だか知らない奴がメールを送りつけ「これは通州事件の写真でしょうか?」等と聞いてきたことがあるが、ほんの20分で通州事件犠牲者写真を見つける事が出来た。
 流石に阿保らしいので匿名の人物に対し「所蔵されてるよ」と答えておいたが、どうやら未だに発見できてないらしい。

 基礎研究能力がロクに備わってない連中はこんなものだ。
 それを理解しようとしても藤岡や東中野、茂木、水間などはそもそもその程度すら理解できていない。

 田中正明先生はそれを若かりし頃365日通い詰めたそうだ。
 今はそんなことしなくても良い時代だが、藤岡の仲間達は未だにそんな事すら理解出来ない。

 阿保らしくて…話にならない。
 この4名の話を1万回聞いても何も新たな発見は無い、何故なら基礎が無いのだから真剣に聞いてる連中の姿を見て私は、「阿保なのか?こいつら?」とマジに考えたことも有る。

 そんな連中とまじめに話す気などするわけがない。
 ちなみに東中野修道は98年のラーベ日記を分析する際に中国兵だと分析を行っているが、そもそも中国兵だと断定できる根拠を示せていない。

 これは98年12月13日に東大で行われた「ラーベ日記に反論する」において、私が「これは中国兵ではありませんか?」と質問した事をヒントとしている。
 私は彼らの持つ複雑な機構のモーゼル拳銃を日本兵が持つはずも無いし、日本兵が勝手に武装解除された武器を持ち出し勝手に使う事は無い事を述べた、東中野は軍事知識が藤岡信勝と共に低く、こうした根拠を理解する事が出来なかった様だ、東中野は己で考える能力が相当低い。