大林宣彦が小津安二郎に見ていた映画人の凄み
戦争を描かないことが戦争を描く手法だった
“豆腐屋としての映画”をつくるようになった理由
日本の代表的な映画監督の1人である小津安二郎さんは、戦争とはまったく縁がないように思われがちです。
山田洋次さんの作品などが松竹映画を代表するものであるように、松竹は伝統的に穏やかな家族映画を撮ってきました。松竹蒲田撮影所に入社することで映画人としてのキャリアをスタートしている小津さんも、やはりそういう映画を多く撮られてきました。ただし小津さんは「映画の文法」とでも呼ばれるようなものを破った作品をつくり続け、独自の世界観をつくり上げたことでも知られています。
映画を勉強している人なら常識として、カットバックをするときにはAさんがレンズの右を見ているならBさんはレンズの左を見るように撮影して、映像を結んだときに互いの目線が合うようにします。これは映画の技術というより制度のようなものです。そういう撮り方をすることによって映画には家族の輪ができます。
しかし小津さんは、同じシナリオを使っていても目線を合わせない撮り方をしました。そうすると、みんながそっぽを向いているようになります。松竹の中でこういう撮り方をすればアマチュアということになります。しかし小津さんは意図的にそれをやりました。伝統的な松竹映画を撮りながら、映画のプロなら決してやらないアマチュアをやったのです。
そのおかげで、『東京物語』をはじめとする敗戦後の日本人の生活を扱った作品では、家族の輪ではなく“家族の離散”が描かれました。
技術によってまったく違う映画になってしまうところに映画の恐ろしさと面白さがあります。
戦争中の映画は、大日本帝国の軍部が仕切っていました。
映画をつくる予算は本当に限られていました。そのこともあり、戦争中は軍部が「このシナリオで映画を撮れ! こんなシナリオの映画を撮ることは許さん」と指導していました。敗戦後、軍部の指導がなくなったあとも、予算がなかったので、8人くらいの監督が集まって一緒に映画を撮っていたこともあるくらいです。
松竹を代表する名監督だった小津さんは、軍部の命令で戦意高揚映画を撮るように命じられてシンガポールに渡っています。