中村哲医師殺害の犯人は、用水路をどんどん引くので、水を高く売って活動資金を稼いでいるローカルのNGOたちの水が高く売れなくなり、商売が難しく死活問題になり、憾みを買った

2019/12/08 ブログ
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アフガニスタンで銃撃され死亡した中村哲医師(1946年9月15日福岡県福岡
市生まれ、2019年12月4日死亡、享年73歳、西南学院中学校・高等学校、九
州大学医学部卒、ペシャワール会現地代表、ピース・ジャパン・メディカル・
サービス=PMS総院長)の妻・尚子さん、長女・秋子さんは12月6日、首都
カブール市内の病院で遺体と対面、アフガニスタンのガニ大統領は同日、大統
領府で尚子さん、秋子さんと面会し、深い哀悼の意を伝えた。日本時間の7日
午後7時半から、アフガニスタン政府主催の追悼式典がカブール国際空港で行
われ、式典の後、中村哲医師の遺体は妻の尚子さんらに付き添われ、日本時間
の7日夜、帰国の途に就いた。銃撃犯は、「水を売って活動資金を稼いでいる
ローカルのNGOたち」と見られており、「中村哲医師が用水路をどんどん引
くので、水が高く売れなくなり、商売が難しくなって死活問題になっているた
め、憾みを買った。その上、中村さんは、みんなに感謝されていたため、ジェ
ラシーから妬まれてもいた」と言われているという。タリバンやISに殺され
たのではない。これは、アフガニスタンの隣国パキスタンのジャーナリストの
見方だ。以下のように続ける。


 山岳地にまで沙漠が広がるアフガニスタンでは、水が高く売れる。ところ
が、中村哲が運河などもどんどんひくので、沙漠が緑地になったりしていると
ころもあって、この先、まだまだ水を引くといっていたので、水を売る商売が
できなくなった人たちに襲撃された。しかも、革命派のなかにも水を売る人た
ちがいたため、彼らにとって水は革命のための資金源でもあった。彼らからし
てみると、沙漠を緑地に変えられることで、資金源を断たれていた
 加えて、ローカルのNGOたちが、地元であまり信用されなかったのに対し
て、中村哲医師は感謝され信用されていたため、その憾みもあった

 アフガニスタンの土地は標高が高く、少々掘ったくらいでは水は出てこな
い。かなり掘らなければならない。中村哲医師のNGOがそれに役立ってい
た。中村哲医師は、特別な技術を持っていたわけではなく、日本が古くから
持っていた井戸を掘る技術で運河をつくり砂漠を緑地化していっていた。この
日本の井戸を掘る技術は、アフガニスタンにはない技術だった。
 アフガニスタンのローカルのNGOは、寄付金を集めて井戸を掘って、出て
きた水を高く売っていた。ところが、中村さんは、日本からの寄付金で井戸を
掘る活動をしていたので、出てきた水で商売をするようなことはせず、さらに
自力で掘れるようにと、井戸を掘る技術を無償で教え提供していた
 中村さんは、銃撃されても生きていたが、病院まで運ばれる道路が悪かった
こともあって出血が酷かったのだろう。
 中村哲医師は、イスラム教の影響も受けていたようで、イスラム教の人たち
はよく「神が守ってくれる」ということをよく言うが、彼もそんなふうに思っ
ていたのかもしれない。
 「ペシャワール会」のペシャワールはパキスタンの町の名称で、彼はもとも
とパキスタンで医師として活動をしていた。一部報道では、パキスタンにいら
れなくなったなどと書かれているようだが、そんなことはない。国からの圧力
はなかった。追い出されたわけではない。ただ、一般の人からはここよりアフ
ガニスタンで活動した方がいいといったようなことを言う人はいたかもしれな
い。

 中村哲医師は、医師として活動していたころ、お腹を壊して下痢に苦しんで
いる人が診療所に来て「下痢止の薬を下さい」と言っても、「薬で症状を抑え
るよりは、下痢でお腹のなかの悪いものを全部出してしまった方がいい」とっ
て、決して下痢止の薬を処方しなかった。当然、西洋医学の製薬会社は、彼の
やり方を嫌がっていただろう。
 「普通の医者として日本で勤務していれば、楽に過ごせたものを、わざわざ
アフガニスタンの危険な場所で活動をするということは、物凄く勇気のいるこ
とだと思う」
 多くの人が中村哲医師の勇気を賞賛していた。
 アフガニスタンでは、米軍のコントロールはなくなっている。米国はアフガ
ニスタンでは、ただ基地を守っているだけで、アフガン軍に守らせながら、タ
リバンと戦闘を続けている。米国本土から操作される無人の攻撃機やドローン
が飛んでくる。
アフガン軍とタリバンが戦闘になるようなことはない。たまに、アフガン軍の
なかにはタリバンの味方をする人たちがいて、米兵を殺してしまったりするこ
とが起きている。
 米軍は撤退するといいながら、一部残そうとしているけれど、残っても意味
はない。むしろ帰還できる兵士と残る兵士の間で、争いが起きるのではない
か。米軍さえ撤退すれば、アフガン軍はタリバンに従うだろう。
 イシュバールという詩人がいて、ペルシャ語、パキスタン語、英語が喋れ
て、それぞれの言語で詩を書いているのだが、彼の有名な詩に、「山が残るだ
ろう アフガンが残るだろう」という詩がある。アフガンはどこからも支配さ
れたことがない民族だということを意味している。彼らは一週間食糧がないな
かでも、戦い続ける。
 そんなアフガニスタンには、30年から40年ほど昔にはバーミヤンのあたりに
湖もあった。当時、その湖を観た観光客はみな、「これは世界で一番美しい湖
だ」と言っていたほどきれいな湖だった。
 ソ連軍がアフガニスタンを侵攻しようとした35年前、ソ連とアフガニスタ
ンの間に凄いアスファルトの道路をパキスタンとの国境辺りまでつくってい
た。ソ連は、「これで我々はパキスタンに入ってカラチの港を使うことができ
る」と言っていた。カラチは、パキスタン南部、アラビア海沿岸にあるパキス
タン最大の都市で。インダス川河口の西に位置する。シンド州の州都であり、
世界有数のメガシティである。ところがタリバンの物凄い抵抗にあって、結
局、道路の建設は、パキスタンとの国境のところで止まって計画は頓挫してし
まった。まさに、山が残りアフガンが残ってきた。