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魅魔竜伝 ‐壱‐ 作者:北原樹恒
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八章

 魔物の気配が、近づいてくる。

 後ろから、徐々に追いついてくる。

 しかしカムィは、特に警戒もしていなかった。

 近づいてくるのは、よく知っている竜族の気配だったから。

 そうだ。

 あの時「二度と近づくな」とは言ったものの、半月も経てば血の効力はすっかり薄れていることだろう。きっと、我慢しきれなくなって戻ってきたのだ。

 仕方のない奴だ。だけどこれで、こちらから探しに行く手間は省けた。

 気配が追いつく。

 葉ずれの音とともに、目の前に舞い降りてくる。

「……カンナ?」

 久しぶりに目にする、黄金の髪、黄金の瞳。

 知らず知らずのうちに、口元がほころんでいた。


* * *


 目の前に、カムィがいる。

 甘い、匂いがする。

 魅魔の血の匂い。

 カムィの匂い。

 欲しい。

 欲しい。

 あの血――

 カムィが、こちらを見つめている。

 触れたい。

 あの顔、あの身体――

 一瞬、笑ったように見えたのは気のせいだったろうか。少し怖い顔をして、カンナを睨んでいる。

 だけどそれが、いつものカムィだ。

 紅い瞳、紅い唇。

 漆黒の長い髪。

 対照的に白い肌。

 なにも変わっていない。

 なにもかもが懐かしい。

 触れたい。

 抱きしめたい。

 頬ずりしたい。

 そして――欲しい。

 あの血。

 世界中の宝珠を集めたよりも貴重な、魅魔の血。

 魔物を狂わせる、至高の血。

 カムィの白い肌。細くて長い首。

 そこに優しく口づけて……

 違う!

 違う、そうじゃない。

 勝負は一瞬だ。一撃で、殺さない程度に、だけど意識を失うほどの深手を負わせればいい。そうすれば魅魔の力を行使することもできない。

 え?

 殺す?

 深手を負わせる?

 誰が――?

 ……あたしが。

 誰を――?

 ……カムィを。

 カムィを?

 どうして?

 どうして?

 どうして?

 当然だ。

 魅魔師は敵、すべての魔物の敵ではないか。

 すべての人間は魔物の餌であり、すべての魅魔師は魔物の敵。

 そう、カムィは敵。

 すべての竜族の敵だ。

 だから、その血肉を喰らって殺すのだ。

 ……殺す?

 ……カムィを?

 あたしが?

 どうして?

 いったいどうしてしまったのだろう。思考が錯乱している。

 自分はここで、なにをしているのだろう。

 カムィを前にして、立ちつくしている。

 脚が動かない。手が震える。

 なにをしようとしているのだろう。

 抱きつこうと?

 襲いかかろうと?

 わからない。

 わからない。

 頭も、身体も、混乱している。

 腕も、脚も、それぞれが対立する意志を持っているかのように、統制の取れた動きができずにいる。

「あ……あ、っと……」

「カンナ、あんた……」

 カムィに睨まれて、びくっと姿勢を正す。その一瞬だけ、全身の細胞が揃って動いた。

「あんた……私と別れてから、人間を襲った?」

「えっ、う、ううんっ! 食べてない、襲ってない。我慢したよ!」

 どうしてだろう。

 どうしてこんな、弁解めいたことを言うのだろう。

 そんな必要ない。カムィがあたしを捨てたんだから。

 もう、言うことをきく必要なんかない。最後に口にした魅魔の血には、もう、カンナを縛る力は残っていない。

 このまま、襲ってしまえばいい。ほら、今なら隙だらけだ。

 だめ、できない。

 やりたくない。そんなこと、したくない。

 したくない?

 どうして……

「……だろうね。竜に襲われたって話、まったく聞かなかった。もう半月になるのに……あんたがこんなに我慢できるなんてね」

 自分の指に針を押し当てるカムィ。指先に、紅い血の珠が生まれる。

 わずか一滴の血。なのに、たちまち周囲は甘い香りで満たされる。

「……はい、ご褒美」

「え」

 カムィが手を差し出してくる。

 カンナの目の前に、差し出される。

 信じられない。

 信じられない。

 あのカムィが、自分から進んで血をくれるだなんて。

 考えるより先に、身体が動いていた。惹き寄せられるように一歩前に出て、指先を口に含む。

 魅魔の血が口中に広がる。

 カムィの味。

 甘い。

 甘くて、泣きそうになるほどに懐かしい。

 嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しい。

 嬉しい。

 夢みたいだ。

 やっぱりカムィは優しい。

 やっぱりカムィは素敵。

 やっぱりカムィのことが……

 ……

 …………大好き。

 本当に、大好きだ。

 なのに、どうしてだろう。

 どうして、あんなことを考えたのだろう。

 カムィを襲って、殺してしまえだなんて――

 どうして、そんなことを。

 どうして……

「――!」

 そうだ!

 そうだ!

 違う!

 違う違う違う、違う!

 あたしじゃない!

 カムィを殺そうとしているのは、あたしじゃない!

 突然、背後で大きくなる気配。

 この気配!

 ……竜族!

 成竜の……あの女!

 いけない!

「……カムィっ! 危な……っ」

 カムィを突き飛ばして、盾になろうとした。

 だめ、間に合わない。

 一瞬遅かった。

 なのに――


 目も眩むばかりの閃光。

 その青い雷光はカムィではなく、正確にカンナの身体を貫いていた。


* * *


「カ、ン……ナ?」

 一瞬、なにが起こったのかわからなかった。

 久しぶりに、目の前に現われたカンナ。

 気まずいのか、怒られたことで怯えているのか、不自然に戸惑ったような表情をしていた。

 それが突然血相を変えたかと思うと、青い閃光がその身体を貫いた。

 そして――

 目の前に、血まみれで倒れている。

 一撃だった。

 幼いとはいえ最強の魔物である竜族が、たった一撃で倒されていた。

 なにが起こったというのだろう。

 気配が消えない。

 カンナが深手を負って意識を失っているというのに、魔物の殺気が消えない。

 いや、むしろ大きくなってさえいる。

 気づかなかった。

 カンナが傍にいたから。

 カンナの気配に紛れていたから。

 もうひとつの気配に気づけずにいた。

 こうして、カンナの気配が消えるとはっきりわかる。

 違う。

 違う。

 カンナと似ている、だけど違う魔物の気配。

 それが意味するところは、ひとつしかなかった。

「な……」

 目の前に、ゆっくりと舞い降りてくる魔物。そのまま、倒れているカンナの背中を踏みつける。

「道案内と目眩まし、ありがとう。おかげで簡単に間合いに入り込めたわ」

 カムィよりも少し年上くらいの、美しい女性だった。

 その声も、姿形も、怖ろしくなるほどに美しい。

「何者、だ……っ」

 声が、震える。

 全身に鳥肌が立っている。

 怖い。

 怖い。

 危険だ。

 気配でわかる。

 これは、危険な魔物だ。

 これは……

「私?」

 ふっと笑みを浮かべる。カムィを見下すような表情で。

『私の名は、イメル』

 イメル。

 こいつは危険だ。

 この名は危険だ。

 近づきたくない。

 今すぐ、ここから逃げ出したい。

 なにしろこいつは――

「竜族……の、成竜……っ」

 カンナとよく似た、しかしさらに強大な魔の気配。

 イメル――雷光を意味するその言葉が真名であるならば、それは彼女が正真正銘の竜族であることの証だ。偉大なる竜に由来する雷の名を許されるのは、竜族の中でもほんの一握りしかいないと、子供の頃に母から教えられた。

 おそらく……いや間違いなく、本物だろう。

 だから、彼女は美しい。見とれてしまいそうになるほどに。

 だから、逃げたくても逃げられない。身体が、彼女の意志に反してこの場を去ることを拒否している。

 もう遅い。

 第一、向こうにとっては一撃でこちらを殺せる間合いだ。今さら、竜族相手に逃げるなんて不可能だ。

「どうする?」

 赤銅色の瞳がカムィに向けられる。

 この状況を面白がっているような、あるいはカムィを嬲っているような表情で。

「……?」

『命乞いをするなら、しばらく飼ってやってもいいぞ? 殺さずにその血を啜るのは、私でも少々手間だからな』

 最終的な勝者は決定している、だからこそ余計な手間暇はかけたくない――そんな、絶対の自信を帯びた声。

 カムィの眼前に立つのは、魔物の霊長たる「力」に裏付けられた、絶対的な存在だった。禍々しいまでの存在感に溢れている。魅魔の血を持つ身でなければ、たちどころにその場にひれ伏していたことだろう。

 しかし、カムィにはそんな行動は許されない。

「……ふん」

 最後の望みを託して、腰の短剣に手を伸ばす。

 勝機が、まったくないわけではない。

 カムィの血にはそれだけの力がある。だからこそ、イメルもすぐには手を出してこないのだ。

「殺されるか、飼われるか……か」

 冗談じゃない。

「どちらもごめんだなっ!」

 叫びながら、前へ跳んだ。

 短剣を抜くと同時に、自分の太腿を浅く斬る。

 刃が魅魔の血に濡れる。

 右手で柄を握りしめ、左手を添える。

 全体重を乗せて、イメルの胸に突き立てる。

 ……いや。

 突き立てようと、した。

「なんの遊びだ、これは?」

 それはまるで、堅い黒檀の古木に剣を突き立てようとしたような感触だった。刃が通らない。

 普通に考えればあり得ないことだった。並の武器では傷つけられない魔物の皮膚も、魅魔の血の前ではただの獣の毛皮と変わらない。事実、カムィの短剣はカンナを易々と傷つけることができる。

 なのに――

 カムィの表情が強張った。成竜の力が、まさかこれほどのものとは。

「竜族の力を舐めすぎたようね、小娘が」

 短剣を握っていた右手の手首を掴まれる。見た目は細く美しい女の腕なのに、力自慢の大男すら足元にも及ばない怪力だ。

「――っ!」

 ほんの軽く、手を少しだけ捻ったようにしか見えなかった。

 それだけで、カムィの肩と肘が鈍い音を立てた。

 激痛が走る。声にならない悲鳴が上がる。

 肩を脱臼していた。あるいは折られたかもしれない。力の抜けた手から短剣が落ちる。

 それでも諦めなかった。まだ自由な左手で反撃しようとする。たとえ無駄な足掻きであっても、なにもしないよりはましだ。

 しかし、イメルの方が速かった。

「ぐ、……ぅっ」

 喉を掴まれる。

 万力のような力で締められる。

 カムィの足が地面から離れた。この細い腕のどこにそんな力があるのだろう。腕一本でカムィを吊り上げている。

 必死にもがく。脚をばたつかせる。しかしそれは、イメルの指が喉に喰い込んで、より苦しい思いをするだけの徒労に終わった。

 苦しい。

 息が苦しい。

 腕に力が入らない。もっとも、たとえカムィが渾身の力を出せたとしても、イメルの前では赤子に等しいのだが。

 それでも戦意だけは失っていなかった。いや、失ってはいけないのだ。まともに呼吸もできない状態で意識をつなぎ止めておくためには、尋常ならざる意志の力が必要だった。

 イメルを睨みつける。

 諦めてはいけない。

 諦めなければ、戦う意志さえ持ち続けていれば、まだ形勢を逆転する機会はあるはずだ。

 簡単には殺されないはず。簡単には殺そうとしないはず。

 そこに賭けるしかない。

『私はお前をすぐには殺さない、まだ勝機はある……そう思っているようね?』

 カムィの心中を見透かしたようにイメルが言う。

『魅魔の血は魔物を支配する代わりに、魔物に力を与えもする。だけどせっかくの血も、殺せばその価値がなくなる。そして生かしたまま一滴でも口に含めば、身体を支配できる。確かにそう、……でも』

 イメルは長い舌を伸ばすと、自分の指を舐めた。

『魅魔の力は決して万能ではない。ねえ、正気を失っても魔物を支配できると思っていて?』

「……!」

 その言葉を聞いた瞬間、カムィは血の気を失った。イメルが何をしようとしているのか、瞬時に悟っていた。

 それは、カムィがもっとも怖れていたこと。

 カムィには……人間には、抗いようがないこと。

 この世でもっとも甘美な恐怖。

『なるほど、並の娘よりは抵抗力があるのかも知れない。だけど……』

 イメルの指が下腹部に触れてくる。剃刀よりも鋭い爪が、音もなく衣服を切り裂いた。

『だけど知っていて? 幼竜と成竜が、どれほど『違う』ものなのか』

 魔物の唾液に濡れた指が、顔に近づいてくる。喉を掴まれて喘いでいた口の中に滑り込んでくる。

「あ……や、ん……ぅ、あ……」

 甘い。

 そして熱い。

 触れられた舌がとろけてしまうほどに。

『そこの小娘と同じに考えないことね。本物の竜と交わった人間がどうなるか、魅魔の血を持つ者なら知っているでしょう?』

 知っている。もちろん知っている。

 竜族に犯された人間の末路。

 ほぼ例外なく発狂し、ただ魔物から与えられる快楽を貪るだけの生き物に成り下がってしまう。いや、耐えきれずに死んでしまう者の方が多い。

 それは、人間の限界を超えた快楽なのだ。

 カンナに犯されたカムィが正気を保っていられたのは、カンナが竜族としてはまだほんの子供で、カムィが魔物の力に抵抗力を持つ魅魔師だったからだ。あるいは同性であったことも影響しているのかもしれない。

「……や……や、め……」

 怖い。

 恐怖で唇が震える。

 イメルは人間のことを、魅魔の力のことを、よく知っていた。その恐るべき力も、その弱点も。

 魔物を操るのは、血そのものではない。魔物を支配するのは魅魔師の意志の力であり、血はその媒介に過ぎない。

 正気を失った魅魔師など、魔物にとっては極上の餌でしかないのだ。

 そして――

 いかなカムィといえども、成竜に犯されて無事でいられるとは思えない。

 嫌っ!

 嫌だ、嫌だ!

 イメルに犯されること、それだけは嫌だ。

 それだけは、どうにも抗いようがない。

 その前になんとかしなければ。

 なんとか逃れなければ。

 頭ではそう思うのに、身体が動かない。

 それは肩を外され、喉を絞められているためではない。

 理性はどんなにそれを拒絶しても、既に身体はそれを望んでいた。

 強すぎる力。

 竜族の、人間を魅了する力。

 カンナとは桁違いの力に、既に捕らえられかけていた。

「や……いやぁっ! ――っ」

 イメルの指が内腿を滑る。カムィの『女』の部分に触れる。

 ただそれだけで、身体が破裂してしまうかのような衝撃だった。指が入ってきた時には、もう悲鳴すら上げられなかった。

 カムィの身体を侵す指。少しずつ、少しずつ、焦らすように、しかし確実に奥へ進んでくる。

 熱い。

 触れられている部分が、侵されている部分が、灼けるように熱い。

 触れられている部分から、身体が溶けていくようだ。

「あ……、あぁ……」

 恍惚とした表情で、甘ったるい声を漏らす。

 熱い液体がとめどもなく内腿を滴っている。まるで失禁してしまったかのような感覚だったが、しかしそれは快楽に導かれる蜜だった。

 透明な糸となって滴る蜜。

 まるで、身体が内部から溶けて流れ出していくようだ。

 身体と同時に、意識も溶けていく。

 手足の感覚がなくなっていく。

 残っているのは性器の感覚だけ――そんな気がした。

「……は、ぁっ……っ」

 もう、喉を掴まれていることすらわからない。

 感覚が下半身だけに集中している。

 胎内で蠢いているイメルの指だけがすべてだった。

 自我なんて存在しない。ただただ、快楽を求めるだけ。

 たったひとつのこと以外、なにも考えられない。

 もっと。

 もっと。

 もっと気持ちよくなりたい。

 もっと気持ちよくして欲しい。

 狂ってしまうくらいに。

 他になにも考えられない。なにもわからない。

 自分が誰なのか。

 今、なにをしているのか。

 すべて忘れている。

 自分が魅魔師であることも、魔物を狩る使命も、記憶の彼方に消し飛んでいた。

 望むことは、ひとつ。いつまでもこの快楽の海で揺蕩っていることだけ。

 だから、首からイメルの手が離れ、地面に落とされたことにも気づいていなかった。ただ、自分の中から指が抜け出たことに強い虚無感を感じていた。

「ぃ……ゃぁ……」

 いやだ、いやだ、やめないで欲しい。

 自ら脚を開く。指で女の部分を広げる。

「……めない、で……も、っと」

『もっとして欲しいの?』

「欲しい……欲しいの、ねぇ……ねぇ!」

 身体が疼く。

 欲しい、欲しい。欲しくて仕方がない。

 この想いが満たされなければ狂ってしまう。

 どうせ狂うならば、快楽の中で狂いたい。

『もちろん、やめるわけがないわ。これからが本番よ。そして、本当の快楽を知って死ぬことになる。この上なく幸せな死に方でしょう? 生きたまま喰われることさえ悦びになるのだから』

 仰向けになったカムィの上に、イメルが覆い被さってくる。顔を、下腹部へ近づけていく。

 長い舌を伸ばす。

 人間を発狂させる力を持った舌を。


* * *


「あ……ぁ……、……っ」

 声が、聞こえる。

 甘ぁい、声。

 知ってる……この声。

 誰の……声、だっけ。

 甘ぁい、匂い。

 誰の……匂い、だっけ。

 ほら、目に映っているのに。

 見えない。

 もう、視界が霞んでいる。

 もう、意識が混濁している。

 見えない。一番見たい人が見えない。

 ……そうだ、カムィだ。

 カムィの声だ。

 でも、どうして?

 どうして、こんな甘い声を出してるの?

 どうして、こんなに甘い匂いがするの?

 あたしはここにいるのに。

 あたしはカムィに触れていないのに。

 どうして、カムィはこんなに悦んでいるの?

 カムィに触れている魔物がいる。

 カムィを犯している魔物がいる。

 許せない。

 許せない。

 許せない。

 許せない。

 あたしのなのに。

 あたしのものなのに。

 カムィを悦ばせていいのは、あたしだけなのに。

 カムィに触れていいのは、あたしだけなのに。

 カムィに……

 カムィに…………

「……カ……カムィに触るなぁぁっ!」

 これだけの深手を負ってもまだ身体が動くなんて、自分でも思わなかった。

 それでも、足が地面を蹴る。

 爪が閃く。

 イメルの顔をかすめ、鮮血が飛び散った。

「――っ、この……っ」

 目を押さえたイメルが、怒りの形相を向ける。

 カンナの爪に引き裂かれた左眼が、血に染まっていた。

「この……死に損ないの小娘がっ!」

 腕を振る。

 もう、かわす力は残っていない。

 カンナのものよりも長く、鋭く、力強い爪が、胸から首にかけてを深く剔っていく。

 切断された動脈から血が噴き出し、カンナは今度こそ力尽きて倒れた。


* * *


 紅い――

 視界が紅い。目に映るものすべてが紅い。

 のろのろとしか動かない左手で、カムィは無意識に顔を拭った。

 紅い。

 顔を拭った手が、紅く染まっている。

 ああ、これは……

 ようやく理解する。

 これは、血だ。

 だけど、誰の血だろう。

 カムィの手や顔には、こんなに出血するほどの傷はない。

 ああ……あれだ。

 紅い視界の中で、カンナが倒れている。

 全身血まみれだ。

 周囲に飛び散ったカンナの血。あの血を浴びたのだろう。

 でも、カンナはどうして倒れているのだろう。

 ああ……そうか。

 イメルだ。

 ほら。

 倒れたカンナに馬乗りになり、その鋭い爪を深々と突き立てている。

 そうだ。カンナはイメルに襲いかかって、返り討ちにあったのだ。

 ……やっぱり、子供だ。

 考えが足りない。

 勝てるはずがないではないか。

 魔物の霊長である竜族。

 それも、成熟した個体。

 勝てる道理はない。

 竜族の子供だろうと、魅魔師だろうと。

 逆らうだけ無駄なのだ。

 なのに、どうして?

 どうして……

『カムィに触るなぁぁっ!』

 それが、最後に聞いた声。

 そう、カンナの声だった。

 カンナは、カムィを助けようとしたのだ。

 どうして……

 イメルの最初の一撃で、既に瀕死の重傷を負っていたのではないか。

「このクソガキっ、よくも私の目をっ!」

 イメルの顔に、先刻までの美しさは欠片もなかった。恐ろしい形相で、カンナの胸に、腹に、何度も何度も爪を突き立てている。

 その度に飛び散る血飛沫。

 カムィはその光景を、ぼんやりと見つめていた。

 イメルも血を流している。左眼が真っ赤だ。

「……目?」

 カンナがつけた傷。

「き……ず?」

 なんだろう。

 なにか、大切なことを思い出しかけているような気がする。

 紅い……

 血……

 傷……

 人間では傷つけられない竜族が、傷を負っている。

 同じ竜族のカンナだからできたのだ。魅魔の血を持ってしても傷つけられなかったイメルに、傷を負わせたのだ。

 傷……

 血が流れている。

 血。

 そう、血だ!

「わ……た……私は……」

 なにをしている。

 私は、こんなところでなにをしている。

 なんのために、ここにいる!

 血だ。

 選ばれた血を持つ者だから。

 魅魔の血を受け継ぐ者だから。

 だから、ここにいるのではないか。

 なのに、今までなにをしていたのだろう。

 イメルに魅了され、犯され、与えられる快楽の虜になりかけていた。

 こんなに胸が張って。

 こんなに股を濡らして。

 冗談じゃない!

「私は……魅魔師、だ」

 魔物を狩るために、生きてきたのだ。

 姉を、母を、殺した竜族に復讐するために、生きてきたのだ。

 こんなところで座り込んでいる時ではない。

 動け。

 動け!

 自分の身体を叱りつける。

「……く……そ」

 下半身にまるで力が入らない。

 まだ、甘美な痺れが残っている。

 いつまでも、その余韻に浸っていたくなる。

 だけど、そんなことは許されない。

「う……く」

 すぐ傍に、自分の短剣が落ちていた。

 のろのろと手を伸ばす。

 指先に触れる、硬く冷たい金属の感触。

 ほんの少しだけ、意識が明瞭になる。

 剣を握れ!

 立て!

 立って、戦え!

 自分を叱咤する。

 イメルは今、カンナにとどめを刺すことに気をとられている。カムィを見ていない。カムィに戦う力が残っているなど、努々思っていない。

 隙だらけだ。

 しかも、片眼は傷ついて死角になっている。

 狙うのはあそこだ。カンナが残してくれた傷。あそこなら、カムィの刃も通るはずだ。

 動け!

 動け!

 思い通りにならない身体に命じる。

 あいつは竜族だ。

 憎むべき敵だ。

 竜族は、仇。

 母の仇

 姉の仇。

 そして。

 そして……

 カンナの!

「こ……のぉっ!」

 最後の力を脚に注ぎ込む。

 短剣を構え、地面を蹴って身体ごとぶつかっていく。

 傷ついた目にはまだ視力が戻っておらず、完全な死角となっていた。イメルの反応が遅れる。

 はっと気づいてこちらを向いたその左眼に、魅魔の血を塗った刃が吸い込まれていった。

「……がっ、ああぁぁぁ――――っっ!」

 周囲の樹々さえ震えるほどの絶叫。

 叫びながら闇雲に腕を振り回す。カムィの身体は弾き飛ばされ、カンナに折り重なるようにして倒れた。

 短剣を握っていた左腕は爪で剔られ、骨まで砕かれている。それでも、刃はイメルの左眼に深々と突き刺さったままだ。

「く……ぅ、ふっ」

 激痛に顔をしかめながらも、なんとか身体を起こす。まだ終わっていない。とどめを刺さなければならない。

 もう両腕は使えないが、それでも顔にはカムィ本来の表情が戻っていた。

「……もう、終わりにしよう。これ以上一瞬でも貴様の顔を見るのは不愉快だ」

「……はっ!」

 イメルが短剣を引き抜く。傷ついた目を押さえ、苦痛に顔を歪めながらも、カムィを見くだすような笑みを浮かべた。

「ちょっと私の動きを封じたくらいで、勝った気になっているの? どうやってとどめを刺すつもり? 両腕の使えない、それどころかろくに動くこともできない状態で?」 

 確かに、イメルの言う通りだった。

 肩を外され、腱を痛めている右腕。

 深く肉を剔られ、骨を砕かれた左腕。

 まるで力の入らない脚。

 もう、武器を持つことはおろか、立ち上がることもできない。

 目の傷からイメルの体内に入った魅魔の血はごく少量だ。ただでさえ強い力を持つイメルのこと、わずかな時間動きを封じるのが精一杯だろう。

 しかし、それで充分だった。

「別に、私が手をくだす必要もないだろう?」

「なに?」

「……カンナ!」

 低い声で、その名を呼んだ。

 傍らに倒れている魔物の少女の名を。

「なにを戯れ言を。小娘はもう死んだも同然……」

 倒れているカンナに向けたイメルの視線が、そのまま凍り付いた。

 驚愕に開かれた目。

 顔に困惑と恐怖の色が浮かぶ。

「じ……冗談、……だろ……?」

 力なく地面に倒れたままのカンナが、ゆっくりと腕を持ち上げていく。

 真っ直ぐに、イメルへ向けて。

「な……なに動いてんだよっ、クソガキがっ!」

 イメルは我を忘れて怒鳴った。

 こんなこと、あるわけがない。カンナはもう瀕死の状態で意識もない。動けるはずがないのだ。

 なのに――

「忘れたのか? カンナは、私の血を飲んでいるんだ」

「――っ!」

「カンナ、そいつを始末しろ」

 冷たい口調で命じる。小さな声だったが、その声には『力』が込められていた。

 魔物を支配する、魅魔の力。

 カムィの血を口にしたカンナの肉体が、その声に応える。

 魅魔の血は、カンナ自身の意志ではもう動かせない身体さえ支配していた。

「死んでろよ、てめぇはっ! ……畜生っ、畜生っ、畜生っ! 畜生ぉっ!」

 イメルの声にも、表情にも、まったく余裕がなくなっていた。

 動けない。身体が動かない。

 短剣に塗られたカムィの血によって、一時的とはいえ動きを封じられている。

 カンナの掌が、真っ直ぐイメルへ向けられる。

 肌がぴりぴりする。

 髪の毛が逆立つ。

 カンナの腕が、青い燐光を放っている。

 それは、竜族が、偉大なる竜の末裔である証。

 魔物の中でも竜族だけが持つ力。

 雷を操る力――

 目も眩むばかりの閃光。

 爆発音と、身体に叩きつけられるような衝撃。

 カムィは固く目を閉じていたが、それでも視界が真っ白になった。


 そして、カムィの視力が戻った時――




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