予定調和
- 「ほら、もう5時よ。今起きないと朝練間に合わないんじゃないの?」
「ん~、今起きるう~」
「そう言っておいていっつも起きて来ないでしょ!きちんと布団から出るまで私退かないから!」
「も~起きるってばあ~」
1時間に1本しか汽車が来ないような田舎に住む高校生3年生、
天道彩(てんどうあや)は自分の妹の蘭(らん)を朝5時に起こす作業をするようになってからもうすぐ半年になる。
これから寒くなってくるけど、いい加減に一人で起きられるようになって欲しいと思う。蘭はもう高校生だというのに。
蘭を待っていると私も遅れそうなので、一足先に家を出ることにする。
毎朝どたばたしているが1回も遅刻したことはないし、今日もなんとかなるだろう。
私は朝練があるわけではないのでこの汽車に乗ることができなくても遅刻にはならないけど、
妹を起こすついでに早めに高校に行って勉強することにしている。
教室に入ると既に蕪崎霊華(かぶらざきれいか)が数学の問題集を広げていた。
彼女とは小学校から同じという幼馴染。中学に上がるときに私が引っ越して離れ離れになってしまって
もう2度と学校が被ることはないと思っていたけど、偶然同じ高校を受験して再会したという縁がある。
同じ中学校の人が少ないこの高校で彼女は私の最も昔からの友達であり、最も信頼できる友達だ。
「おはよー、あーや」
「おはよう、霊ちゃん」
この習慣も半年ほど前からずっと続いている。妹を起こすついでということで、私から言い始めたことだ。
「やっぱり朝早く来ると集中できていいねー」
「むしろこの時期なら、皆もっと危機感を持っていいと思うんだけどね」
田舎で近くに予備校がないからか、まだ受験生としてのエンジンがかかっていない人が多い。
この時期に朝早く来て勉強しているのがクラスで2人だけというのものんびりしている。
私みたいに医学部を受けるのでなければそれでもいいのかもしれない。
でも医学部じゃなくても全国の受験生と凌ぎを削らないといけないのは皆同じってこと、わかってるのかな。
ここは田舎だけど一応塾はある。数はないからほとんど高校のクラスメイトと一緒だ。
その塾の帰り道、街灯が少なく幅が細い道路の端を自転車で走っていると、暗くてよくわからないが人らしきモノが蹲っているのが見えた。
こんな場所に1人でいるなんて、怪我か病気で動けなくなっている可能性が高い。大変、早く助けないと!
私はその人らしきモノに躊躇することなく声をかけた。
「あのう、大丈夫ですか?」
そして、運命は交錯する――
- ここまであいつらが追ってくるということは、もうお父様は亡くなられたようじゃな。
「お前が死んだら黒の一族は終わりだ。ここも既にあいつらにばれているだろう。
しかし、ここにお前がいることまではわからないはず。まだ外の世界をよく知らないお前を放り出すのは気が引けるが、
ここにいても殺されるだけだ。生き延びろ!そして、優秀な人間を選んで黒の力を注ぎ込み、いずれは世界を闇で覆い尽くすのだ!」
……お父様も無茶を仰る。
妾は珍しくどの力も満遍なく使えるがどれも弱いし、
唯一群を抜いて強いと言われた「普通の人間に黒の力を注ぎ込む力」は1回しか使えぬらしい。
そもそも力が弱い妾は栄養補給もままならぬ。一応人間が食べるものでも栄養になるが、主食は人間じゃ。
目撃者がいないように暗い夜道を1人でいる人間を襲えと言われても、滅多にできるものではない。
田舎で街灯の少ないこの辺りなら狩り自体はしやすいが、老いた者ばかりだから不味くて食えたものではない。
食べると言っても肉ではなく「精力」じゃがな。食べた後は記憶を弄って元通りにしておかないといけぬ。
そうしないとあいつらに捕捉されてしまうからの。
じゃからきちんと後始末はしていたはずなのじゃが、どうしてあいつらはここに妾がいるとわかったのじゃ。
腹に1発貰ってふらふら飛んでいた妾じゃが、ついに力尽きて地面に墜落してしまった。
「つっ、たた……、でもまだ硬い地面ではなかっただけましかのう……」
逃げ出してからずっと着ているこの真っ黒な装束も、もう雑巾のようになってしまった。
妾にもっと力があれば新しい服も飯も簡単に手に入るのじゃろうが、それはないものねだりというもの。
とりあえず今は怪我で動けそうにない。治癒術は先ほど使いすぎたからしばらく使えぬ。
妾はこのまま野垂れ死んでしまうのか……いや、その前にこんな道端で倒れていたら通報されて殺されるほうが先じゃ。
助かるとしたらお人好しに運良く第一発見者になってもらい、隙を見て魔眼をぶつけるしかない。
「あのう、大丈夫ですか?」
周囲を気にする余裕すらなくなっていたのか、後ろから照らされた自転車の灯にすら気が付かなかった。
どうやらまだ相手は妾を警戒していないらしい。
今のうちじゃ。この人間が妾の黒い羽に気付くより早く、心配そうにしている顔に向かって魔眼をぶつける。
……妾のしたことが、なんたる失態。こんな至近距離で魔眼を外すとは。
もう魔眼を使うだけの魔力もない。携帯電話を取り出そうとして目を逸らされるのを考えておくべきじゃった。
ここまでかの……やはり妾はここで通報されて殺されるのか。しかしこの人間は携帯電話の灯で妾を照らすだけで何もしてこない。
すごく眩しいからやめてもらいたいのじゃが。
「えっと、あなた……人間、よね?」
この人間はようやく妾の異様な風貌に気が付いたらしい。
烏のような黒い羽、尖った耳、真紅の虹彩、猫のように垂直に切れた瞳孔を見れば人間なのかと疑いたくなるのも当然じゃな。
幸運なことにこの人間は妾が魔眼をぶつけようとしたことには気が付いていないらしいの。
ここは穏便に、穏便にいくべきじゃろう。怪しまれて通報でもされたら一巻の終わりじゃからな。
「い、一応、人間じゃ」
できるだけ友好的に接して、妾には敵意がないと思わせないといけない。出来るだけ噛み砕いた物言いで、難しい言葉はなしにしてな。
どこまでこの人間を騙せるかのう……。
- 「一応?それってどういう意味?」
当然ぶつけられるであろう疑問なのに、妾は答えを用意していなかった。
「ああ、うむ、いやあ……まあその。少数民族ということじゃ」
「ふーん、少数民族ね。それならちゃんと人間じゃない。羽が生えてる人種なんて、世紀の大発見じゃない!」
こんな胡散臭い格好の妾の言うことを鵜呑みにするとは、とんだお人よしよの。
まあ、今言った「少数民族」というのはあながち嘘ではないがな。
「で、そなたに頼みたいことがあるのじゃが、この傷を治してくれぬか?」
「それ、どうしたの?」
「えーと……そこの木にぶつかってしまっての」
本当はあいつらに襲われたのじゃが、今ここで説明してる時間はない。
「嘘でしょ、木にぶつかった程度でそんなに出血するわけが……」
何でも鵜呑みにしてしまうほど頭は悪くないようじゃな。
魔眼が使えたらこんなまどろっこしい説得なんてことはしなくていいのじゃが……気が急いて上手い嘘が思いつかぬ。
「って、この出血量は不味いわよ!早く救急車を呼ばないと!」
救急車なぞ呼ばれたら、妾を殺すのと同義ではないか!
「それだけは待つのじゃ!救急車を呼ぶより早く確実に治す方法がある」
「それは?!」
「そなたが、治癒術で治すのじゃ」
「え……?」
戸惑うのも無理はない。普通の人間なら妾たちで言う黒の力みたいなものは全くないらしいしの。……あいつらを除いてな。
「治癒術とかふざけたこと言ってる場合じゃないでしょ、そんなファンタジーじゃあるまいし」
「そなたたちから見ればこの妾の格好が既に非現実的だと思うが?」
「でも私は治癒術なんて魔法は使えないわよ?」
「それなら、妾が力を与えてやるからそれを使うとよい」
「でもやり方が……」
「やり方も同時に頭に叩き込んでやる、安心するのじゃ。他の人に見られたら不味いからこっちに来てくれんかの」
いくら田舎で人通りの少ない道とはいえ、時間がかかればそれだけ目撃される確率も上がる。
それに力を注いでいるときにあいつらに見つかれば、それこそその場で殺される。
建物の影に隠れてから、背中の羽を大きく広げて自分と学生を包む。黒っぽい制服を着ているから高校生か中学生で間違いないじゃろう。
妾と背が同じくらいだから高校生かのう?
「えっとこれ、使うたびに寿命が縮んだりとか体の成長が止まったりとかそういうのは……」
「案ずるでない。この力を使うに当たって特に悪いことは起こらぬ。時間がないから詳しい説明は後回しにさせてもらうがな」
体の成長が止まるというのは当たっておる。この学生、中々勘がいいようじゃな。しかし悪いことではないから別に伝える必要はないの。
もし悪いことがあったとしてもこの学生が躊躇するだけだから言わないほうがよいじゃろうしな。
「それでは……いくぞ」
学生は今更怖気づいたのか顔が思いっきり引きつっていて、ごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。妾も怪我のせいで息が上がっておる。
この力を使えるのもこれっきりじゃ。こんな見ず知らずの学生に使ってしまっていいのじゃろうか。
しかし妾もいつ殺されてもおかしくない身、優秀な人間なぞ選んでいる余裕はない。
今は怪我で立っているのも辛い……こんなお人好しが黒の力を持ったからといってあいつらに勝てるとは思えない。
じゃが、今の妾にはこれしか選択肢がないみたいじゃ。
- 妾はいつもの食事のときと同じように、柔らかな首に歯を突き立てる。一刻の猶予も無い。一気に力を注ぎ込む。
「い、いきなり何するのよ!?離してっ……!」
<このたわけ!声を出すでない!人が来たらどうしてくれる?!>
沈黙の暗示くらいはかけておくべきじゃったと後悔した。
そもそもこの学生、妾が噛み付いているのになぜ声が出るのじゃ?
初めは妾が振り落とされそうなほど激しく抵抗していた学生じゃが、しばらくすると大人しくなり、
ときどき体をビクっと痙攣させるだけになった。
黒の一族の身体能力は普通の人間より高い。
屈強な男を腕力で押さえつけることも出来るし、心臓に穴を空けられたり頭と体が離れてしまったりしても時間をかければ回復できる。
しかしそれは万全の体調のときだけで、今の妾はこの人間の抵抗を押さえつけるのにも一苦労した。
「くっ、体が動かぬ……」
この学生に出会う前の戦闘の疲労と怪我の影響も加わって、妾は地面にうつぶせに倒れて動けなくなってしまった。とにかく消耗が激しい。
「うぅ~頭がくらくらするぅ~」
情けないことじゃが、今はこのお人好しを頼るしかない。
「でき、れば、早く治癒術を……」
さっきの学生の悲鳴で誰かが来るかもしれない。それを考えるとすぐにここから離れなければいけない。
「治癒術……こうかな?えいっ!」
黒い霧が妾の傷口に収束し、すぐに霧散する。その後には傷は跡形もなく消えていて、痛みも全くなかった。
疲れで動かなかった体も問題なく回復している。
この治癒速度……妾より圧倒的に早いばかりか、妾が見たことのある黒の一族の誰よりも早いのではないじゃろうか。
「どう?うまくいったかな?」
「あ、うむ。妾より上手いのではと感心したぞ」
「まっさかあー」
この学生は本気にしていないが、この調子で私の力全てが強化されていると考えると、この先が恐ろしい。
いや、頼もしいと感じるべきかの。
「とにかく世話になったな。その力はお礼といってはなんじゃが、好きに使っていいぞ。
もっと詳しく知りたければ明日の夜10時以降にこの近くにある3階建ての廃ビルに来るといい」
妾は羽をバサッと広げて飛び立とうとしたが、大事なことを思い出した。
「あと、このことは誰にも喋るでないぞ。力は使ってもよいがこっそりとな。では、さらばじゃ!」
「あ、ちょっ……行っちゃった。流石に私が飛ぶのは無理だよね、やっぱり」
力は託した。本格的に覚醒するまでどのくらいかかるかわからないが、それを見届けるためにも妾は生き延びないとな。
ふふっ、楽しみにしておるぞ。
-
あまりに非現実的な出来事に遭遇したせいで、彩はしばらくその場にぼうっと突っ立っていた。
「はあ……なんかおかしな力貰っちゃったけど、本当に大丈夫なのかな?」
私も焦って言われるままにされたのが悪いと思うけど人に悪さをする化け物の類ではなさそうだし、まいっか。
試しに軽くコンクリートの壁に術をぶつけてみる。
キュンと跳弾したような音がしてコンクリートに小さな空洞が形成された。
「うわっ、びっくりしたあ。え、コンクリートに穴が空いた?!ま、まあ使わなければいい話よね、うん。危ないったらありゃしない」
軽く使っただけなのに、光球なのか針状なのかレーザー状なのかわからないくらい速かった。
それで威力はコンクリートに直径1㎝くらいの穴を空ける程度。これでは銃を持っているのと変わらない。
他にも色々あるみたいだけど、私には治癒の魔法しか必要ないわね。それより早く帰って勉強しないと。
私は倒れた自転車を起こし、家族を心配させないように帰り道を急いだ。
少し前まで彩たちがいた舗装されていない道で、1人の少女がきょろきょろと何かを探すように周りを見回していた。
やがて大きくため息をつくと携帯電話を取り出しどこかと連絡を取り始めた。
「ごめん晴川さん、見失っちゃったみたいです」
「現場に着いても誰もいないと思ったら、そういうことか。今回の個体の能力はどのくらいわかった?」
「うーんとね、障壁と飛翔と空間転移と……あと何だったかな、透明化と治癒も使ってきましたね」
「攻撃手段を持たない逃げに特化したタイプか。能力の多彩な個体は珍しいが、最後にしては小物だな」
「それに障壁は私でも壊せたし、飛翔もそこまで速いわけでもなかったですね。
空間転移は前戦ったのに比べてかなり発動が遅かったから、知っていたら対処は簡単だと思いますよ」
「透明化と治癒も大したことなかったのか?」
「はい、透明化も治癒も発動が遅い上に回復力も全然ダメで。白石さんの治癒のほうがよっぽど優秀ですね」
「なんだそりゃ、使える能力が多いだけでただの雑魚じゃないか」
「そうなんですよね。これが本当に最後の個体なんですか?」
「ああ、間違いない。その個体さえ倒せば俺たちの戦いは終わる」
「これで最後かあ。なんだかあっけないなあ」
「とはいえ、まだ何か隠している可能性もある。次に遭遇したら警戒しておけよ」
「はーい。じゃあ私もう帰っていいですか?」
「やる気ないな、おい。まあ今日はいいか、さっさと帰って休め」
「お疲れ様でしたー」
少女は携帯電話をポケットにしまうと、夜の闇に紛れて消えた。
あぜ道には虫の声の合唱が響いて静寂を打ち消していた。
-
「お姉ちゃん、もう6時だよ。今日は早めに学校行かないの?」
「えっ、もう6時?そんなはずは……」
枕もとの時計を見ると6時2分。それに寝起きの悪い蘭が自力で起きるのを見るのは初めてかもしれない。
「まさか蘭に起こされる日が来るとはね」
「へへーん、私だってやればできるんだもん。それじゃあお姉ちゃん、先に行ってるね」
そうだ。昨日は怪しい人に変な力を貰ってから色々試してみてたんだっけ。
夢中になってるうちに夜更かししてて……そりゃ起きるのも遅くなるわ。
私が学校に着いたときにはもう席の大半が埋まっていた。いつもより来る時間が遅いのだから当然だ。
「おはよーあーや、今日はどうしたの、寝坊した?」
「あ、うん。ちょっと昨日夜更かししちゃって」
「ふーん、いつも12時に寝てるっていうのに珍しいねえ」
授業はほとんど耳に入らなかった。寝不足なのと、昨日もらった力のことで頭がいっぱいだったのだ。
「先輩!」
ん、あれは……春香ちゃん?
昇降口のほうから手を振って呼びかけてきたのは、赤坂春香(あかさかはるか)。
小学生のときは家も近かったのでよく一緒に遊んでいた。私より1つ年下で、蘭と同じバスケ部。つまり蘭の1つ先輩にあたる。
どうみても茶髪にしか見えない髪の左上を翠のヘアピンで留めて……あれ?
「春香ちゃん、髪染めたの?」
今の彼女は、どこからどう見ても黒髪である。
「いやー、あんまり生徒指導の先生がうるさいもんだからさ。地毛だって言うのに全然聞いてくれなくて。鬱陶しいから染めちゃったんです」
「今年来た沢井先生ね……他に指導するべき生徒はいっぱいいると思うけど」
でも、本当に指導されるべき生徒は大抵生徒指導の目から隠れているので意味がない。
「それより!今度また勉強教えてくださいよ。先輩も受験があって大変とは思いますけど、先生に訊いてもよくわからなくて」
「今の時期だと複素数かな?」
「おおー流石先輩!まだ私が言ってないのにドンピシャです!」
去年は私も2年生だったのだから、1年前にやったことを覚えているのは当然だと思う。
「じゃあ今週の土曜日でいい?いつもの時間で」
「それでいいですよ。先輩って先生より教えるのうまいから頼りになります。それじゃ、お願いしますねー!」
自分では人に勉強を教えるのがうまいとは思っていないけれど、春香ちゃん以外にもよく勉強を教えてと頼まれる。
頼られるのは悪い気はしないし、人に勉強を教えるには自分も十分に理解していなければならないので学力向上にも繋がる。
-
「ごめん霊ちゃん、私ちょっと気分悪いからから塾早退するわ」
「昨夜、夜更かししたからじゃないの?生活リズム崩すなんてあーやらしくないなあ」
「うん、ちょっとまあ……色々あってね」
私は塾から家に帰らずに直接指定された廃ビルに来た。私が小学生だったときに1度肝試しで入ったことがあるが、
殺風景でお宝が落ちているわけもなく、もちろん幽霊などいるはずもなく、
そのときは興醒めしたことと帰って親に叱られたことしか覚えていない。
長い間お金がなくて取り壊せなかったらしいが、そろそろ目処がついたと最近聞いた気がする。
「懐中電灯くらい持ってきておけばよかったわ」
当然ながら電気は通っていないので、中は真っ暗である。曇りなので月明かりも期待できない。しかし魔法の詳細が気になる。
科学的にはどうなっているんだろう?それに少数民族と言ったあの人の正体も気になるところだ。
少し学校の図書館で調べてみたけどそれらしい民族はいなかったし、そもそも背中に羽のある人間など聞いたこともない。
少し入り口で考えているうちに目が慣れてきたみたいだ。これなら人を見つけるくらいなんとかなるだろう。
昔肝試しに来たときと比べて、かなり内部は風化していた。騒いだりすれば床が抜けるんじゃないかと思えるほどだ。
放置しておいて子供の秘密基地などにされたりしたらビルごと崩れて事故が起こりかねない。
「あら?こんばんは。真っ暗なのに灯もなしによくここまで来るとはのう。……必ず来るとは思ってたがな」
昨日出会った人物が会議室などにあるパイプイスに座って待っていた。側には分厚い本が少なくとも10冊は積み上げられている。
こんな暗いところで本を読んでいたら目が悪くなりそうだ。
「こんばんは。昨日はどたばたしたまま別れちゃったから訊けなかったけど、あなた名前はなんていうの?」
「月夜女(つきよめ)。妾たち黒の一族には苗字はないのじゃ」
「黒の一族……聞いたことないわね。本当に少数民族?」
ずっと他の人に気付かれることなく山の奥でひっそりと暮らしてきた、とか?喋り方も若そうな見た目に対して随分と古風だし。
「その前に妾を助けてくれた命の恩人の名前が知りたいのう」
「天道彩よ。漢字は天の道に彩る」
昨日は焦っていた上に暗かったのでよく見えなかったけど、月夜女と名乗った人は歳は私と同じくらいみたい。
昨日は髪もボサボサ、服もボロボロでみすぼらしいとさえ思ったけど、今は腰まである黒髪は指を絡ませたくなるほどに綺麗で、
漆黒のドレスは彼女によく似合っていて気品が溢れている。ロングブーツも黒だから、彼女の赤い目と赤い耳飾がよく映える。
露出を極力抑えたドレスから覗いているぞくっとするほどの肌の白さが妖艶さを強調している。
「その目立つ格好じゃ、ひっそり隠れて生活するしかないわね。月夜女さん、まずは私にくれた力について教えて欲しいわ。
主に科学的視点で」
「科学的視点は無理じゃ。現代科学の範囲では説明できぬ」
「現代科学で無理って……高校理科の範囲だと余計に無理ね。でも月夜女さんって頭よさそうには見えるけど、
現代科学がどの程度かわかってるの?」
おそらく超自然的な力というモノということだろう。でも私だって理科の成績は多少自信がある。高校理科の範囲でだけど。
「ああ、現代科学の範囲というのは言いすぎかの。妾の理解できる科学の範囲では説明は無理というか、
実は妾にも原理はよくわかっておらぬのじゃ。この書物程度の知識くらいなら妾にもあるのじゃが……」
そう言うと月夜女さんは本の山から1冊の本を抜き出して私に渡した。
古い本なのか表紙の絵がところどころ剥げていて、上のほうに「Physical Kinetics」と書いてある。
「えーと、これ洋書じゃない……月夜女さんって英語読めるの?」
- 「そうだの……まず、その力は1日に使える量は限りがあるのじゃ。『回数』ではなくて『量』。
簡単な術ならかなりの回数が使えるが、空間転移などの高度な術を連続で使うとすぐ疲れてしまうのじゃ」
「その量には個人差があるの?」
「うむ。例えば妾なら空間転移は1日に2回が限度じゃ。そなたの場合はわからぬがな」
まあ、そんなものだよね。空間転移なんて便利なものが何十回も使えたら普段全く運動しなくていいから太りそうだし。
「ということは、空間転移が何回できるかで大体の1日に使える量がわかるってこと?」
「そういうことだ。今確かめてみるかの?」
「やってみるわ」
空間転移のやり方は……移動した先に立っている自分をイメージし、そこにふわっと降り立つ姿を強く念じる!
「ほっ、うまくいった……意外と簡単かも。ん?どうしたの?」
「いや、随分転移が早いと思ってな。妾が知っている中でも1番だと思う」
「普通こういうのってこのくらい早いものじゃないの?」
「妾はもっと遅いぞ。そなた、素質があるようじゃの」
「はあ……」
怪しい魔法の素質があるって言われてもねえ。別に私はこれを使いこなして何かをする気はない。
いつもこんな人外の力に頼っていたら、人間として堕落してしまうのがオチだ。
でも発動が早くても回数が使えないと意味ないしなあ。移動しても帰れないんじゃ困るし。
「じゃあ2回目!」
空間転移の消耗度は移動した距離に関係なく常に一定ということで、部屋の中でひたすら転移を繰り返した。
「ひゃく……えっと、今何回目だったっけ?」
「もうよいわ、空間転移100回以上とかほぼ無制限でよい。信じられぬがな。どこも疲れてないかの?」
「特には」
どこも運動していないし、念じるだけなんだから疲れるはずがないじゃない。
「しかし、実際に使うときは透明化も併用するべきじゃな。何もないところにいきなり人が出てきたら目撃した人は当然驚くし、
そうなると多くの人の記憶を弄らないといけなくなるから、大変であろう?」
「そうねえ……」
今こうやって教えてもらう前に、よく考えずに空間転移を使っていたら大騒ぎになるところだった。危ない危ない。
「もちろん透明化と空間転移を同時に使えば消耗も激しくなる。力を同時に使うほど消費も大きくなるのじゃ」
「なるほどね。ありがとう、よくわかったわ。また何か訊きたいことがあったらここに来たらいい?」
「歓迎はしないが質問には答えてやろうかの」
「ありがとう。じゃあまたね」
今度は実際に空間転移に透明化を併用して家に帰ってみよう。
よし!家の玄関前に到着!……あ。自転車を廃ビルの入り口に置きっぱなしだ。自転車ごと空間転移ってできるのかな?
今日は球技大会。3年生にとっては高校で最後の娯楽行事といえる。
その球技の「現役」の部員は出場を禁止されているけど、
ソフトボール部元キャプテンの私は既に引退しているのでソフトボールに出ることができる。
- その決勝。相手は元甲子園出場バッテリーを要する3年2組だ。
バッテリーといってもこの球技大会のソフトボールは盗塁禁止、捕逸暴投はなしだからキャッチャーはただの壁みたいなものだけどね。
「よっしゃー、ここででかいの打って一気に突き放すかあ!」
1点ビハインドの1死1・2塁、打席には野球部のエースピッチャーの進藤くんだ。
今日の試合では4番を打っているけど、野球の試合だと9番だった気がする。キャッチャーの森くんも下位打線だったし、
いくら元レギュラーといっても前の試合でうちのソフトボール部のエース、武田さんをどうやって打ち崩したのか気になる。
守備がよっぽど笊だったとかかな?
とはいえ私たち3年8組もショートの私とセカンドの霊ちゃんしか元ソフトボール部員はいないので、似たようなものかもしれない。
ベコッ
いい当たり!けど……いける!
私は逆シングルで鋭いゴロを捕ると、必要最小限に踏ん張ってセカンドに送る。
「ゲッツーいけるよ!」
セカンドの霊ちゃんがファーストに捕りやすいように胸元付近に正確に送球する。
「よし、ゲッツー!」
打った進藤くんがベンチに戻り辛そうだ。
「進藤、お前ピッチング以外はてんでダメだな」
「め、面目ない……ま、もう最終回だ。あと1回抑えられたらジュース36人分だぜ!」
「この回の先頭打者、確か1番の天道だぞ」
「げっ……外野バック、特にライトバーック!」
このイニングの先頭打者として、まずは私が出て後ろの霊ちゃんに繋げないと。
「せんぱーい!元キャプテンの意地、見せてくださいよー!」
「お姉ちゃん、頑張って!」
室内球技のほうはもう終わったのだろうか、決勝戦ということもありギャラリーもかなり多い。
その中で蘭と春香ちゃんの声援が際立って聞こえた。
下手投げでも進藤くんの球は未経験者には厳しいと思うけど、本職の武田さんに比べたら球速も球威も制球力もない。
コキッ
「――あ」
絶好球だったのに、打ち損じた……!
打球は一二塁間に転がったが、ファーストが体制を崩しながらも掴んだ。まだ、アウトと決まったわけじゃない!
「こっちだ!」
ピッチャーのベースカバーが遅い……間に合う!
ドン!
「いったあー……」
「くっ……」
「おい、大丈夫か?!」
塁上で私と進藤くんは激しく交錯し、転倒してしまった。私は膝を軽く擦り剥いた程度で済んだが、進藤君の様子がおかしい。
「ちょっと、大丈夫じゃねえかもしれん……」
「お前……球技大会なんかで怪我したら洒落になんねえぞ?!」
「右足、捻ったっぽいなこりゃ。すまん森、この後投げてくれ」
「あ、ああ……」
「ごめんなさい、私のせいで……ところで審判、さっきの判定は?」
「アウトです」
- 「ならちょうどいいわね。私が保健室に連れて行くわ、怪我を負わせた張本人だし」
「保健室くらい片足でも行けるっつうの」
「はいはい、そこで意地張らない」
私は次の打順の霊ちゃんに声をかける。凡退した上にこんなことになってしまって申し訳ない。
「ごめんね、こんなことになっちゃって」
「あーやが悪いんじゃないよ。さっきのは送球が逸れたせいでしょ、気にすることはないって。
わたしなら軽ーくホームラン打ってくるから、行くなら早く行ってきなさいよ」
「うん、ありがとう」
実は進藤くんを保健室に連れて行く気など全くない。
今こそあれを試す絶好の機会だし、ただの捻挫だとしても日常生活に多大な影響があるはずだ。
故意でなくても怪我をさせた側として治療費を負担するなどすべきだと思う。
進藤くんは私が霊ちゃんに話しかけている間にぴょんぴょん跳びながら保健室に向かおうとしていた。
「ちょっと!待ちなさいよ、私が肩貸してあげるって言ってるでしょ!」
「付いてこなくていいって言ってんだろ」
「今すぐその足治してあげるって言っても?」
唐突に言い過ぎたのか、進藤くんは目を丸くしたまま硬直してしまった。もう少し順を追って説明したほうがよかったかな?
「……は?いくらなんでもそりゃ無理だろ。お前は魔法使いか何かか?」
「そうだとしたら?」
「い、いや冗談だろ?現実にそんなものいるはずが」
「他の人に見られると不味いからこっちに来て」
私は廊下に誰もいないのを確認して進藤くんを多目的教室に連れ込んだ。
多目的教室と名前はついているが、実際は昔教室として使われていたけど生徒が減って使われなくなった、ただの空き部屋だ。
だから人が入ってくる可能性もほぼない。
「で、俺はこれから何をされるんだ?」
「その足、治してあげるって言ったでしょ」
「胡散臭すぎるぞ……」
最初から信じてもらえるとは思ってない。私は前に月夜女さんを治療したときと同じようにしてみたけど、
今回は霧が発散するのが随分早い気がする。もしかして失敗した?
「……」
進藤くんは目を見開いたまま固まっている。
「えっと、進藤くん、足はどう?」
「動かしても痛みがまったくない……マジかよ。てかお前、さっきの黒いもやもやは一体」
「ごめん、忘れて!」
「うわっ!」
怪我をさせた上に記憶を弄るなんて、罪の上塗りになるかもしれない。でも私がこの力を持っていることが広まるほうがもっと不味い。
怪我は治ったみたいだし、辻褄を合わせるくらいならいいよね。
「……あれ?ここどこだ?さっき天道とぶつかって……どうなったんだっけ?」
「気絶してたから、みんなで運んでここで看病してたのよ」
「そうなのか……悪いな。そういえば試合はどうなった?!」
「さあ。もう終わってるんじゃない?」
「こんなところで寝てる場合じゃねえ!」
- 私も試合の結果は気になるけど、記憶がうまく弄れているか見ておかないと。
「これは……勝ったのか?」
「おう進藤、その様子だと足は大したことなかったみたいだな」
森くんがボールを手の中でくるくる回しながら近付いてきた。あっちゃ~、うちのクラスは負けちゃったかあ。
「足?それならなんともないぜ。それより試合はどうなったんだよ」
「試合なら勝ったぞ。見事クラス全員分のジュース獲得だ」
「いよっしゃー!!」
「右足捻ったってのは何だったんだよ……うおっ、天道?!」
進藤くんだけ弄れば何とかなると思ってたけど、それほど甘くないみたい。
流石に試合を観ていた全員に暗示をかけるのは無理だから、せめて森くんだけでも話を合わせてくれれば誤魔化せるはず。
「あの後保健室に連れてったんだけど、実は足を強く打っただけで、打撲だってさ。だから心配することないよ」
「そうなのか……」
納得してくれたようでよかった。これ以上人の記憶を弄りたくないしね。
でも今回後先考えずに力を使って、記憶を弄っても辻褄を合わせることがいかに難しいかということを痛感した。
ちなみに試合は霊ちゃんがランニングホームランで同点に追いつくも後が続かず、結局じゃんけんで決まったらしい。
12月になり、3年生にとっては最後の期末テストが始まろうとしていた。
この辺りでは雪が降るのは珍しくないものの、5センチ以上積もるのは年に1,2回で頻繁にあるわけではない。
しかし今日はその年に1,2回のうちの1回に当たったらしい。
「雪合戦ならぎりぎりできるけど、雪だるまを作るには少し足りないわね」
「小学校のときやったよね、雪合戦」
「そうそう、ちょうど体育の時間で吹雪になってさ、あれは盛り上がったねえ」
霊ちゃんは白い息を吐きながら空を見上げた。分厚い雨雲が空全体に広がっている。
今雪は降っていないけど、明日はまた大雪になるらしい。
「あのときくらい何も考えずにまた遊びたいなあー」
「受験さえ終われば……あと3ヶ月の辛抱だよ」
そう、あと3ヶ月。あと3ヶ月経てばもう合格発表の日だ。
私は霊ちゃんと別れ、足跡のまだついていないところを踏んで帰る。
この感触も大学に行って地元から離れてしまうとしばらく味わえなくなると思うと寂しい。
月夜女さんを助けたのって、この辺りだったっけ。あの部屋って暖房器具も毛布もなかったけど大丈夫なのかな。
今度差し入れでも持っていってみよう。
「ただいまー」
「大変よ彩、蘭がインフルエンザだって!」
「はあ~?!こんな時期に……」
「うつるから絶対近付いちゃダメよ」
「私今朝起こしに行ってるんだけど……」
最近自力で起きられるようになった蘭だけど、今日は珍しく起きるのが遅かったのだ。あのときはまだ熱はなかったはず。
期末テストまでには回復すると思うけど、それまで勉強の効率がガタ落ちするのはかわいそうだ。
進藤くん以来使っていなかったあれの出番かな。怪我じゃなくて病気ならまだ力を使っても誤魔化しやすいと思うし。
音を立てないように静かに部屋に入ると、顔を火照らせて苦しそうな蘭がベッドにいた。
- 「誰……お姉、ちゃん……?」
「病人は寝てないといけないでしょ?ほら、おやすみなさい」
「あっ……」
蘭の瞼が徐々に下りていき、意識を遮断する。強引な方法だけど、私の力を知られるわけにもいかないので仕方ない。
今考えると進藤くんのときにも初めに眠らせたらよかったかもしれない。
「さて、問題は治癒の魔法が外傷だけじゃなくて病気にも効くかどうか……」
あのとき詰め込まれた知識を探ってみても、治癒の魔法は1種類しかないみたい。
「治癒だから失敗しても変なことにはならないと思うけど、やっぱりちょっと恐いわね」
外傷の治癒と同様にしてみたけど、外傷のときは怪我の部分に霧が集まるのに対し、
今回は黒い煙が少し高い位置から吹き降ろすような挙動をしている。数秒その状態が続いた後、ぴたっと黒い煙は消えた。
対象を自動的に判断して種類を切り替えてるのかな?いつのまにか、蘭もいつも通りの安らかな寝顔に戻っていた。
「蘭が起きて本人の気分を聞くまでわからないけど、一応治ったみたいね」
この力って、怪我も病気も関係なく治せるんだったらわざわざ医学部に行く意味がないんじゃないの?
でも、医学部に行かないと医師免許が取れないからダメか。
「お金さえ払ってもらえれば何でも治します」ってブラックジャックの真似ならできるかもしれないけど、
捕まりそうな上に力もばれそうだから止めておこう。やっぱり真面目に勉強しないとね。
- 受験前にこんなことをしている場合ではないんだけど、久しぶりに月夜女さんのいる廃ビルに来てみた。
「月夜女さーん、お菓子持ってきたけど食べる?」
相変わらずビルの中は真っ暗だけど、今日は晴れていて月明かりがあるだけマシだ。
「あれ?いないなあ……もしかして引っ越した?」
私も前来たときに言ってあげればよかったんだけど、どこかでこのビルが取り壊されることを知ったのかな?
本は若干増えてるみたいだし、ただ出かけている可能性もある。少し待ってみよう。
「……ここ、だ……ゴホッ!」
蚊の鳴くような声が机の辺りから聞こえた。咳と同時に何か飛び散るような音が聞こえたけど、何だろう?
机の裏側に回ってみると、血塗れで息も絶え絶えな月夜女さんがいた。
「酷い怪我……一体どうしたの?!」
「説明は後で。とりあえず早く……きっつ、かはっ!」
喀血……!私は急いで治癒術を発動させたけど、霧が月夜女さんから離れるのが遅い。怪我の程度に治療にかかる時間も比例するらしい。
「ふう……すまぬな。まあ黒の一族なら頭に穴を空けられたり心臓を串刺しにされたりしてもしばらく生きられるのじゃががな。
今回は本当に手遅れかと思ったわ」
「1番最初に会ったときも酷い怪我だったけど、何か事情があるみたいね。よければ話してくれない?」
初対面のときははぐらかされたから訊かれたくないのかと思って訊かなかったけど、
こう何度も大怪我をしているのを見てしまっては理由を知りたくもなる。
「妾はな、ホワイトウイングに追われておるのじゃ」
「ホワイトウイング……?聞いたことないけど、なにそれ?」
「秘密結社、みたいなものかの……人知れずこそこそ活動するという点ではな。普通の人間には知られていないみたいじゃが、
妾たち黒の一族をこの世から消すために存在しておる組織よ」
「今の日本にそんなものがあったなんて……ホワイトウイングなんて、自分たちは天使にでもなったつもりなの?!」
見た目が奇異だからこの世に存在してはいけないの?自分たちにはない力を持っているから嫉妬?どちらの理由にしても許せない。
「黒の一族が嫌いで且つ金も権力もある人間が作ったのじゃろう。新聞とかを見ても黒の一族のこともホワイトウイングのことも
全く載ってないしの。妾の両親もあいつらに殺されたわ。でもあいつらのことは殆どわからぬ、どうしたらよいのじゃ……」
「全く何もわかっていないわけではないんでしょ?組織がどのくらいの大きさかとか、リーダーの名前とか」
何も対策を打たないまま殺されるわけにはいかない。月夜女さんも1人でずっと狙われていて辛かったと思う。
ただ私は困っている人の力になりたかった。
「組織の大きさは……よく、わからぬ。前に襲われたときはそなたより少し幼い茶髪の女だったわ。
今回はその女がなぜか黒髪に染めていて、それ以外に刀を持った男が1人と3人の女。女は3人ともそなたくらいの歳に見えたのう」
「武器は?」
「妾たちと同じじゃ。これとか」
月夜女さんが人差し指を立てるとぽっと黒い球が浮かび上がる。つんと突くと風船のように割れてしまった。
「魔法をぶつけ合うのじゃ。ああ、でも1人だけ直接殴ってきたの。赤い服しか覚えてないが」
「名前はわかるの?」
「リーダーの名前ならお父様から聞いたからわかる。苗字だけじゃが『晴川』という名じゃった。他の人はわからぬ……」
特に珍しい苗字じゃないから、情報としての価値は低い。せめて顔写真でもあれば個人特定はできそうだけど、
殺人を犯してもメディアに全く触れられない連中だ、並大抵の情報封鎖じゃない。
- 「うーん、情報が少なすぎるわね。でも、ここが襲われたわけではないんでしょ?ここにいたら安全なんじゃない?
3月末にはここ壊されちゃうけどさ」
「え、壊されるじゃと?!また隠れ家を探さないといかんのか……」
「だからね、私が大学に入って1人暮らしをするアパートに一緒に来たらいいよ。
大したものは食べれないと思うけど、ホームレスよりマシでしょ?」
「いや、隠れ家があるだけで十分じゃ。すまぬな」
そうだ、こんな目立つ格好してるのにどうやって食べ物とか本を調達してるんだろう?まさか全部拾い物?
「そういえば、いつも食べ物とかはどうしてるの?普通にアルバイトとかはできないよね?」
「いや、それは、あの……人間を……」
「え、人間を食べてるの?!」
食人鬼じゃあるまいし、こんな綺麗な人が人間を食べているところが想像できない。
「違う違う!人間の精力をその、ちょっとな。もちろんその人に影響がないくらいに抑えておるし、
吸った本人にも気付かれないようにしとるわ」
「まるで人間に気付かれないようにこっそり血を吸う蚊みたいね」
「蚊と違って普通の食べ物も食べられるがな。このお菓子も全部貰ってもいいかの?」
「月夜女さん1人でそれ全部食べたら太っちゃうよ」
月夜女さんの好みがわからなかったからスナック系、クッキー系、チョコレート系と一通り揃えて持ってきたけど、
どれも1袋を2人で分けてちょうどいいくらいだ。1人で食べるには多すぎる。
「ふっふっふ。実は妾たち黒の一族は栄養を魔力に変換して貯めておけるから、見た目は自分の意思で変えられるのじゃ」
「う、羨ましい……」
「それじゃ、いただきまーす」
月夜女さんは幸せそうな顔で私の持ってきたクッキーを頬張った。そんなにおいしそうに食べられると、私もお腹が空いてくる。
私が偶然助けたこの人は、思っていた以上に大変な人生を送ってきたみたいだ。私にも手伝えることがあればいいんだけど……。
一方、月夜女を逃がしてしまったホワイトウイングの5人は、暢気に街中を歩いていた。
5人とも普通に歩いているとただの学生とおっさんにしか見えない。
「あーあ、あそこで春ちゃんが引っかからなかったら私たちの戦いも終わってたのになあー」
黒髪のセミロングの少女が嫌味をたっぷりと含ませて春香をなじっている。
ジト目で責められ、言い訳のしようがない春香はひたすら謝ることしか出来ない。
「うぅ、ごめんなさい……」
春香は毒づかれて責任を感じ、縮こまってしまう。元々小さな体格がさらに小さくなる。
「こら青野、あんまり赤坂を責めるなよ。赤坂だって今回の個体がどんな能力を持っているか全部わかってたわけじゃないんだからな」
「でもこれで、私たちが今まで戦ってきた個体の能力は全て出ましたね。おそらくこれ以上はないでしょう。
それにしてもこのような万能タイプは珍しいですね」
女の4人の中で最も年上で大人しそうに見える女性がにっこりと微笑みながら言う。
背も女性陣の中で最も高く、最も低い春香と頭1つ分は差がある。
「逃げ一辺倒かと思ったらいきなり反撃してくるからびっくりしたわ。大したことなかったけどさ」
両手に巻いたバンデージを外しながら、やや華美な赤い服を着た少女が率直な感想を述べる。
人外との戦闘の後でも浮ついた様子はなく、多くの戦いを経験してきた余裕が漂う。
「それと魔眼か。事前情報無しで不意打ちなら対応は難しいが、次に会うときには大丈夫だろう」
「昔夏菜が操られたときみたいにならなければいいけど」
「あったあった、操ってる個体を倒すより暴れる夏菜ちゃんを正気に戻すほうが大変だったっけ」
「それはもう何回も謝ったでしょうが!……嫌なこと思い出させないでくれる?」
自分にとって都合の悪い記憶を呼び覚まされて、黒髪のセミロングの少女は途端に不機嫌になる。
「いやいやごめん、わかったからそんな目で睨まないで、誰もバーサーカナなんて呼んでないから」
「その名前で呼ぶなあー!!」
黒髪のセミロングの少女がギャーギャー喚いているのを、
おっさんと4人の少女の中で最も背の高い大人しそうな少女が呆れた様子で眺めていた。
- 「……どうにかならんのか、あれは」
「いいのではないですか?アタッカーなのだからあのくらい元気があったほうが」
「まあ、4人の誰が欠けてもここまでこれなかったのは事実だな。仮に全員攻撃手段がなかったらどうなっていたことやら」
様々な能力が満遍なく使える万能の赤坂、攻撃・速度特化の青野、治癒・防御・補助魔法に長けた白石、近接攻撃の得意な黒松の4人で
黒の一族をここまで追い詰めてきた。赤坂がまずは牽制し、高火力・高機動力の青野が一気に押し切る。白石は味方のサポートに徹し、
黒松は青野の攻撃が当たりやすいように相手の動きを制限したり障壁を崩したりするのがいつものパターンだ。
ピンチに陥ったことは何度かあるが、この5人を倒した黒の一族はまだいない。
「最後は何事もなく終わるといいですね」
「ああ……そうだな」
男は念願の黒の一族の殲滅が目前に迫っていると確信し、4人に気付かれないようにほくそ笑んだ。
雲の割れ目から糸のように細い月が覗いていた。
1月に入り、いよいよ私たちのクラスもセンター試験一色になってきた。
休み時間でも喋ったりせずに黙々と単語帳と睨めっこしている人が多い。
「霊ちゃんってさ、神主になるって言ってたけど大学はどこ行くの?私医学部以外はよくわかんなくってさ」
「寛容大学の神道学科だよ、知ってる?」
「聞いたことはあるけど、どのくらいのレベルなのかまでは知らないなあ」
こんな名前でありながらちゃっかり国立大学だったりする変な大学……だったような。いや、人の志望校に「変な」とか言ったら失礼だ。
「神道学科だから、同じ大学の他の学部よりかなり楽に入れるんだけどね。それよりあーやはどうしてお医者さんになろうと思ったの?」
「あれ?まだ言ってなかったっけ?」
「私は聞いてないよ。あーやくらい頭がよければ医学部だって入れると思うけど、お医者さんってかなり大変じゃない?
そりゃその分給料はいいけどさ、失敗したらすぐ訴えられたりするし」
「私は困っている人や命をただただ救いたいだけよ。そのために自分の首を絞め続ける未来を受け入れる覚悟はあるつもり」
他の職業でも人を救うことはできるけど、やっぱり直接多くの人を救えるのは医師だと思う。そのためならどんな苦労でも我慢できる。
「へぇー……あーや、人間出来すぎだよ。もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃないの?」
「困ってる人を見逃せない性格だからね。こればっかりは治せそうもないよ」
急に、静かだった教室が騒がしくなる。誰か推薦で受かったとか?歓喜の輪の中心にいるのは……北乃さんだ。
「いいなあ、もう受験勉強しなくていいんだ。あー私も早く受験終わらせて遊びたーい!」
「……」
「どうしたの?恐い顔で北乃さんのほう見て。一足先に受験から開放されるから妬んでるとか……そんなわけないか」
今日なら、復讐で相手に効果的にダメージを与えられる。
どうせ突き落とすなら、できるだけ高いところからのほうがいい。
放課後に普段は立ち入り禁止になっている屋上に行くと、あらかじめ呼び出しておいた北乃さんがいた。
私が知る限りではあまり男子に人気がない北乃さんだけど、今は夕日が綺麗に当たっていてなかなか絵になると思う。
今からその顔も醜く変形させてあげる。
「北乃さん、推薦入試合格おめでとう。」
「遅いわよ天道さん、あたしをこんなところに呼び出してどうするつもり?まさかさっきのおめでとうを言うためだけじゃないでしょうね」
「もちろん違うわ。――復讐は相手が忘れて幸福面してるときにやるのが1番いいのよ」
- 「復讐?あたし、何か天道さんに恨みを買うようなことしたっけ?」
私は北乃さんにかけた暗示を上書きし、手足の自由を奪う。
北乃さんはその場で腰が砕けたようにうつ伏せに倒れ、不自然な体勢でのた打ち回った。
「なっ、あんた、あたしに何したの!?手足に力が……ぐぅ!」
まずは3年間履き古した上履きで顔を踏みつけてあげる。土のついた外履きならもっとよかったけど、ここは屋上だから仕方ない。
「いじめたほうはすぐに忘れるというのは本当ね。私の教科書に落書きしたり、上履きに画鋲入れたりとか、もう忘れたの?」
なんなの、そのいかにも「今思い出しました」みたいな顔は。一足先に遊び放題だからって、調子に乗ってるんじゃないの?
「どうしてあたしがやったって気付いて……」
「あら、この私が気付いていないとでも思ってた?
ふふ、実はもっとエスカレートさせて、はっきりした証拠を残させて痛い目に遭わせてやろうと思ってたけど、
その前にあなたたちがどういうわけかぱったりいじめをやめたからさあ。命拾いしたわね、そのときだけは」
すぐ感情的になって反撃してもいい結果に繋がらないことは、中学で引っ越したときに経験済みだった。
「ま、待って……あたしはその、東さんに言われて仕方なく……ぐはっ!」
「へぇ、仕方なく、なんだ。だから何なの?全然いじめをしていい理由になってないんだけど」
責任転嫁。こういう状況に陥ったときに末端の実行犯がよくとる方法だ。予想はしていたけど、やっぱり黒幕がいたみたいね。
東さんといえば1人しかいない。男子からは引っ張りだこ、女子からは絶大な信頼を得ている東典子(あずまのりこ)だ。
可愛い顔をして裏で酷い工作をするものね。
「こらっ!お前、ここは立ち入り禁止だぞ。何をしている」
生徒指導の沢井先生の声だ。あーあ、北乃さんったらすっかり助かった気になっちゃってる。
これが私の仕組んだ罠とも知らずにね。
「あの沢井先生、私……」
「ああ、天道はいい。北乃、いくら推薦で合格が決まったからって浮かれすぎだろう。合格取り消しになってからだと取り返しがつかんぞ」
「え、なんであたしだけ……」
「お前の、普段の素行が悪いからだ!」
足蹴にされてる女の子の胸倉を掴んで顔面グーパンチとか……体罰なんて言葉で指導できない教師の言い訳、
なんて言ってる沢井先生がリミッターを外すとこうなるのね。恐い恐い。北乃さんも目立って素行が悪いわけじゃないのにね、表向きは。
「先生、体罰はダメですよ。バレたら首になっちゃいます」
「ああ、そうだな。じゃあ天道、後は頼む」
「ふふ、任せてください♪」
私が笑顔で先生を見送るのをぽかんと見つめていた北乃さんは、急に我に返り私に今のおかしな現象の説明を求める。
「なんでよ、なんで教師がいじめてるほうの味方してんのよ!」
「だって私のほうが北乃さんより成績も素行もいいし、先生の信頼が厚いからじゃないかな」
普段の行動の積み重ねが、同じ行動をしても違う結果に繋がる。今回は暗示によるサポートもあったけど、その影響も大きい。
「あんまりやり過ぎると、自分に跳ね返ってくるわよ」
「大丈夫よ、私は北乃さんみたいに間抜けじゃないから。じゃあ、あなたには私の力の実験台になってもらうわ」
「実験台?!一体何をする気なの?」
『他人の自我を歪めて自分の意のままに操る』という、
人として許されない禁断の行為に手を染めようとしている私を良心が必死に止めようとする。
しかし人を操るのはどういうことなのかという邪な好奇心がその良心を凌駕するのに時間はかからなかった。
- 「こういうことよ!」
私は北乃さんの顔を覗き込み、魔眼を食らわせた。
初めに北乃さんの両眼がカッと見開かれ、次第に顔の筋肉が緩んで締まりがなくだらしない顔になっていく。
さっきの沢井先生にかけたような単純な暗示とはかかる時間が違う。まだまだ、自我を歪めるにはもっと力を込めないと――
ぶちっ
ん?今、繊維が千切れたみたいな嫌な音がしたような。何の音?
するとそれまでぐったりしていた北乃さんが突然全身を痙攣させ始めた。
おかしいな?私が月夜女さんに実演してもらったときにはこんなふうにならなかったのに。
えー……と、なんか白目剥いててさらに口から泡吐いてるんですけど。
とりあえず、落ち着いて意識の有無を確認。気道確保はその後。
「北乃さん大丈夫?返事できる?」
返ってきたのは返事とはとても言えない虚ろな笑みだった。
「あは、は、あは、あは」
……あれ。
もしかして、壊れちゃった?もっとじっくりやらないといけなかったのに急いだから失敗しちゃった?
どうしよう。このままここに放置してたら確実に後でばれるよね。かといって持って帰っても処理に困るし。
そうだ、治癒術なら!外傷にも疾患にも通用するなら今回もいけるはず。この歳で傷害容疑なんかで捕まりたくはない。
「……ん。あ、ありゃ?どうしてあたしこんなところで寝てんの?」
意識は戻せたみたいだ。後は記憶障害とかが残ってなければいいけど。
「北乃さん、どこまで覚えてる?」
私の顔を見るなり北乃さんは脱兎のごとき速さで屋上の隅に逃げ込んだ。
「あー思い出した!あんた、あたしに変なことしたでしょ!?頭がパンクするかと思ったわよ!」
ふーん、そこまでの記憶があるということはおそらく頭は元通りになっていると考えてもよさそうだ。
でもさ、屋上の隅って逃げ場がないよねえ。
「じゃあ、もう1回やろうか。大丈夫、今度は失敗しないようにするからさ」
北乃さんは私が何もしていないのに足が震えて立てないみたいだ。今の私がそこまで怖いのかな。
「い、嫌……嫌ああああああぁぁぁっ!!」
そんな怯えた表情をされても、私は止めないよ?
「あー、でも今からここで土下座したら許してあげてもいいかなあ?」
北乃さんがさっきと同じ暗闇の中で一筋の光を見つけたような嬉しそうな顔をして、私の嗜虐心をさらにくすぐる。
「する!今すぐするからもう許してえ!」
プライドを全部捨てて私に無様な姿を晒している北乃さん。
私がこの光景の写真を撮って全校にばら撒いたりしたらどうするんだろ、この人。まあ、すぐ卒業するならあんまり関係ないか。
「ご苦労様。そんな甘い話があるわけないでしょ、この勘違い女が」
涙と鼻水を撒き散らしながら必死に懇願したのにあっさり否定されて、北乃さんの顔が面白いくらい一気に血の気が引いていくのがわかる。
「そんな……あ……」
今度はゆっくり、じっくり、隷属の意識を北乃さんに縫い付けていく。
決して解けないように、呪縛の鎖をがんじがらめに巻いていく。
北乃さんは犬みたいに舌を出しながらはあはあと荒い呼吸しかできなくなる。
力が入らないし、何も考えられなくなるから、口から涎が垂れていることもどうでもよくなる。
「ね、自分の体が操られるって怖くないでしょ?自分の意思を他人に任せるって気持ちいいでしょ?」
「はひ……きもひいいれす……」
明らかに呂律が回ってない。よしよし、いい感じね。
北乃さんは大人しくなり、熱にうなされたときのように目がとろんとなる。すごい幸せそうな顔。
実際に気持ちいいもんね、私も月夜女さんにやってもらったことがあるからよくわかる。
自分が自分でなくなるような不思議なあの感覚。何度でも味わいたいくらいだ。
徐々に北乃さんの意識を覚醒させていく。緩みきった全身にも力が戻っていく。はっきりと目が覚めたときには……
北乃さんは、私のことしか考えられなくなる。
- 「あ、あぁ……天道様ぁ……」
「んー、そろそろいいかな。じゃあ、北乃さんは今日から私に絶対服従ね」
「はい、私は天道様の奴隷であり、天道様の言うことには全て従います」
面と向かって満面の笑みでそんなことを言われると、北乃さんの全てを私に任されたような気がして妙に責任を感じてしまう。
生かすも殺すも何をするのも私次第ということは、その権利に付随する責任も私にあるということだ。
いや、やっぱりそれは重く考えすぎかな。
私と北乃さんしかこのことは知らないのだから、私が北乃さんにやらせたとこは全て北乃さんが責任を負い、私は何の糾弾もされない。
相手は過去に私を虐めたことがあるんだから、その償い分くらいはこき使っても罰は当たんないでしょ。
「他人を自分の意のままに動かせるってのはいいんだけど、こういうときってどう命令したらいいのかわからないわね。
こんなことした経験ないし」
さっきの先生も含めて行動に制限を付ける暗示なら何回もやったけど、他人の意思を歪めて自分の操り人形にするのは始めてになる。
暗示はごく短時間でかけることができるが、単純な指示しかできない。行動をどれだけ制御できるかは術者の技量にかかっている。
それに比べて深層意識を捻じ曲げる今回のような「洗脳」は時間がかかる分、
かけられた人を僕のような卑しい存在に長時間成り下がらせる。
具体的な指示をしなくても自動的に私のために色々と動いてくれる便利な駒となる。
操られた本人に多大な損失が予想できる命令でも迷いなく実行してくれるから、
やろうと思えば世の中をひっくり返すこともできそうなくらい危ない力。
こういうものは慎重に扱わないと自分の身の破滅を招くのが世の常だ。
身に余る力に魅入られ、初めはいい思いをしていても最終的には悲惨なことになる話はよく聞く。
「ああ、様付けは気恥ずかしいから止めて。私の言うことを聞く以外は普段通りに接してよ」
「はい、かしこまりました」
「……それ、普段通りじゃないでしょ?敬語もなしよ」
「はいはい、わかったってば」
漸くいつもの北乃さんの「ような」調子が戻る。
こうやって指示さえすれば他の人からは北乃さんが操られているのを見破るのはかなり困難になる。
今なら何でもやってくれそうだけど、操れる時間の長さも気になる。おそらくこれも力の量と同じで個人差があるはずだ。
周りの人が見てもばれなくて尚且つ継続的にできることといえば……。
「学校から帰ってから自分が何をしたかを書いたメモを毎日私の下駄箱に4つ折にして入れておいて。
私が卒業した後は……体育館の裏でいいや」
「それだけ?なんだ、簡単じゃない」
個人情報タダ漏れ。しかしこれは同時にどの程度の命令まで聞いてくれるか、どこまで命令を制御できるかを知ることも出来る。
北乃さんが卒業してここを離れた後にどうするかも気になるしね。
「ところで、北乃さんの合格したのってどこなの?」
「白鳥大学の農学部よ」
「……どこそれ?」
「マイナー大学で悪かったわね、茨城県よ」
「へえ、随分遠いところね」
毎日飛行機で往復してここまで来てまで命令を実行したら面白いんだけど、まあ流石にそこまではしないかな。
この調子なら北乃さんが操られていると感じる人はそういないはずだ。付き合いの濃い関係にいる人なら気付くかもしれないけど、
気付いたところで何が原因かわからないし、誰がやったかなんて知りようがない。
黒幕の東さんはどんな目に遭わせてあげようかな。入試の前にじわじわ精神的に追い詰めて、私しか心の拠り所がないようにして、
直前で全部ばらして突き放すとか。そんなことしたら入試どころじゃなくなって浪人確定ね。
いや、あの人挫折を味わったことがなさそうだから、ショックを何年も引き摺って引き篭もりになっちゃうかも。
どうせ私以外にも影で色々指図していじめてきたんでしょうし、このくらいボロボロの人生のほうがお似合いだわ。
問題は具体的方法だけど、まずは今日操り人形にした北乃さんを……。
- 「ちょっとお姉ちゃん、聞いてる?!」
「えっ、あ、ごめん、ぼーっとしてたみたい」
そうだった。今は蘭が勉強を訊きに来て……しまった、全然聞いてなかった。
「さっきお姉ちゃん『ククク……』って気持ち悪い笑い方してたけど、どうしたの?何だか様子が変だよ」
え?もしかして顔に出てた……どれだけ熱心に妄想してるのよ、私。
「そんなことないって!そんなことない……たぶん。で、三角関数だっけ?」
「そうだけど、もういいよ。お姉ちゃん疲れてるみたいだし、明日先生に訊いてみる」
「あ、そう……じゃあ私は自分の勉強をしようかな」
もちろん勉強が手に付く状態じゃないことは自分でわかってる。今日は念入りに東さんを貶める方法を考えてから寝よう。
あのかわいい顔を泣き顔でぐしゃぐしゃにしてやるんだから。
それからしばらくして、センター試験が終わって3日後のこと。
下準備は上手くいっているらしく、東さんは順調にクラスから孤立していった。
受験シーズンのピリピリした空気の中に1人でいるのは慣れていないと辛い。
そんなときに優しい声をかければ誰でもすがりたくなるのが人間というものだ。
1ヶ月前は男女混ざった仲良しグループでいつもわいわいと帰っていた東さんが、
今日は1人でトボトボ帰っているのを見計らって声をかけた。
「東さん、元気ないみたいだけどセンター失敗しちゃったとか?自己採点どうだったの?」
「な……750……かな」
かわいいと評判の東さんだけど、頭のほうも学年トップ10に入るくらいだったりする。それを考えると750というのは妥当なラインだ。
医学部志望の私には全く及ばないけど。
「ふーん、それにしてはあんまり元気ないんじゃない?何かあったの?」
「実は……最近急に皆がよそよそしくなったんだよね。受験シーズンでピリピリしてるのはわかるけど、
何だか私だけ除け者にされているというか。私、何か悪いことしたっけ?」
悪いことなら裏で散々してるじゃないの。もしかして私のいじめを指示したことももう忘れてる?
「私は違うクラスだからよく知らないけど、皆もそんなことしてる場合じゃないでしょうに。東さん、私でよければ力になるけど」
「ほんと!?ありがとう……今日どころかセンター終わってから今までずっと学校で話せる人がいなくて
……天道さんが話しかけてくれなかったら私重圧に潰されてたよ」
生徒だけでなく先生も東さんを嫌うように仕向けてあるから、東さんの味わった孤立感は相当なものだっただろう。
でも大丈夫。これからは私が話し相手になってあげる。
1ヶ月限定の、仮初の友人関係だけどね。
シーズンオフであろうと、蘭たちのバスケ部は朝練を欠かさない。
練習時間も他の運動部と比べて多いほうだが、部員に恵まれず大会で目立った成績は残せていない。
「あのう赤坂さん、ちょっといいですか」
「ん?どしたの蘭ちゃん」
練習の後片付けを終えて部室に戻ってきた蘭が、着替え終えようとしていた春香に話しかけた。
「私お姉ちゃんの友達とかよく知らなくて、赤坂さんなら昔からお姉ちゃんと仲がいいから相談したいんですけど……
その、お姉ちゃんの様子が最近おかしいんです」
「様子がおかしい、ねえ。試験が近いから勉強のし過ぎとか?」
「むしろ勉強に集中できてないみたいです。体調が悪いとか、そういうのじゃなくて。
塾が終わってもどこかに寄ってるみたいで帰りが遅いし、昨日も勉強を教えてもらおうと思ったんですけど上の空だったし。
お父さんが注意しても全然効果ないし……赤坂さんからも何か言ってもらえませんか?」
「うーん、確かに試験前にそれは心配ね。わかったわ」
「ありがとうございます!」
- 「そうそう。1コ下だけどね」
春香ちゃんとの付き合いもかなり長い。長いのに春香ちゃんから「先輩」と呼ばれているのは私が高校に入ってからだ。
小学校のときはお互い「彩ちゃん」「春香ちゃん」と呼び合っていたのに、高校に入ったらいきなり「先輩と呼ばせてください!」ときた。
幼馴染なんだからそんな他人行儀な呼び方じゃなくていいのに、おそらく何かに感化されたんだろう。それが今日まで続いている。
「先輩、聞きましたよ~?最近勉強に集中出来てないらしいじゃないですか」
「誰から聞いたの?もしかして蘭?」
「そうですよ、蘭ちゃん心配してましたよ」
確かに最近集中できてないけど、蘭が春香ちゃんに相談するほどだっけ?
「そういえば、少し前まで毎日朝早く来て勉強してたのにここ数日はサボり気味ね。なにかあったの?」
私が最近勉強に集中できていないことは、自分自身でよくわかってる。わかってるけど……本当のことを言うわけにはいかない。
「ちょっと頑張りすぎて疲れちゃってたのかも。休んだほうがいいのかな」
「だったら、塾が終わったら真っ直ぐ家に帰ったほうがいいですね。どこに寄り道してるんですか?」
「どこにって……ほ、本屋よ。生物の参考書でもう少し上のレベルが欲しくて」
「えー、今あーやが持ってるのだって相当レベル高いよ。それ本当?」
魔眼を使って強制的に黙らせようとも考えたけど、ここは人通りもあるし、親しい人にそんな力を使うのはまだ気が引ける。
「ほ、本当だってば!医学部を受けるんだから、今使ってるレベルだと周りと差が付かないんだって」
「へぇー、先輩って努力家ですね。あたしも見習って頑張らないと」
「そうね。その姿勢、わたしも受験生として同じ立場なんだから参考にしないといけないわ」
こういうときに普段の行動がモノをいう。常に努力していることを結果で示し、信頼を積み重ねているからこそ通用する嘘だ。
いつも不真面目なことばかりしていたら、このようなことを言われることはないと思う。
「でも蘭ちゃんが心配してますから、勉強のし過ぎで体調を崩さないようにしてくださいね」
「わかってるわ。この時期に風邪なんて引いたら致命傷だからね」
春香ちゃんの言うとおり、もう受験も近いのだから勉強に集中するべきなのは当然だ。
しばらく月夜女さんのところに通うのはやめよう。受験が終わった3月にまた会いに行けばいいし。
でも、東さんを弄るくらいなら気分転換にいいよね。
裏でこそこそとあの女を陥れながら、ふだんは友達ごっこをするというのがとても楽しい。
全てを奪われた哀れで惨めな敗者の姿をもうすぐ晒してくれるのを想像すると、受験を早く終わらせたいという気持ちも強くなる。
それから月日は過ぎて最低気温が10度を下回ることがなくなった頃、私の受験した大学の合格発表の日が来た。
「やったねあーや、現役で医学部合格だなんて……本当におめでとう」
力を使い不正を働いたことは結局明るみに出なかった。そのせいだと思うけど達成感があまり無い。
「どうしたの?なんかあんまり嬉しくなさそうだけど、具合でも悪いの?」
「あ……いや、受験勉強で疲れちゃってね。嬉しいんだけど、はしゃぐだけの元気がないや……ははは」
本来ならば心の底から喜びを爆発させるような場面も、今は乾いた笑いしかできない。
医学部というからには、入学してからも相当の勉強量が要求されるはずだ。
でも、今の私にその必要があるのかな?
膨大な医学知識を詰め込まなくても治癒の魔法があるし、わざわざ医師免許を取らなくても……いやいや、何を考えてるんだ私は。
それでも、大学に行く意味があまりないような気がする。
ん、あれは……東さん?確か東さんの受験した大学の合格発表も今日だっけ。
血の気が引いて今にも倒れそうな顔してるけど、大丈夫かな?……大丈夫なわけないよね。
最後に私が突き放したときの、絶望に染まりきったあの顔は忘れられない。
そんなに私をじろじろ見ている暇があったら、少しでも勉強したら?まだ後期日程があるでしょう?
- 今のボロボロの心じゃやっても無駄だと思うけど、せめて負け犬らしく足掻きなさいよ。そうしてくれないと面白くないじゃない。
3月もそろそろ終わり、いよいよ実家からアパートに引っ越す日が近づいてきた。
そういえば、大学に入って1人暮らしを始めたら月夜女さんを匿う約束をしてたっけ。
「君、ここから先は立入禁止だ。こんな夜に何の用だ」
いつもの人通りのない道を自転車で走っていると、警備員と「立入禁止」とかかれた黄色いテープが道を塞いでいるのが見えた。
工事でもやってるのかな?
「あのう、ちょっと道に迷ってしまって。駅はどちらですか?」
力を使えば簡単に突破できると思うけど、後で騒ぎになるのが恐い。
警備員の視界から外れ、周りに誰もいないことを確認してから、直接ビルの中に空間転移で飛ぶことにした。
「月夜女さんは……外出中かな?」
一応前例があるので机の下などを覗いてみたが、やっぱりいない。
突然窓の外がピカッと光り、耳をつんざく激しい轟音が響いたのは椅子の下を覗いていたときだった。
「えっ、雷?さっきまで雨なんか降ってなかったのに」
窓から外を見渡してみても雨は降っていなかった。その代わり、6人の人影が空中を飛んだり何かを飛ばしたりしているのが見えた。
明らかに普通の人間にできる芸当ではない。
「もしかして、あれが月夜女さんを狙ってるホワイトウイングってやつ?ここからだと……よく見えないわね」
私は6人に気付かれず、かつ6人の様子がよく見える草陰に空間転移した。
近付いてみると6人のうち1人は月夜女さん、後の5人は刀を持った青年と呼ぶには渋すぎる男と、若い女が4人だった。
「この程度……止める!」
月夜女さんが障壁を体の前に張って光球を防御している間に、背後から別の影が素早く近寄り鋭い蹴りを食らわせた。
人間離れした見慣れない戦い方に目が釘付けにされる。
「うっ、痛あ……」
蹴りをまともに食らってしまった月夜女さんはコンクリートの地面に叩きつけられ、立ち上がることができないみたいだ。
「今だ青野、畳み掛けろ!」
「任せて!これが正義の鉄槌!ジャスティスレーザーレイン!!」
青野と呼ばれた人物が両手を体の前に構え、眩く光るレーザーを月夜女さんに浴びせた。
その太さは直径3メートルほどもあり、月夜女さんはなんとか直前で障壁を張ったもののそれは容易く破られてしまっていた。
「きゃあああああああ!」
月夜女さんは地面に顔を擦りつけながらしばらく滑った後、うつ伏せになったまま細かく震えるだけになった。
1対5なのに容赦が全くない。これ以上放っておいたら月夜女さんが死んでしまうかも……助けに出ようかな?
でも1人を5人で寄って集って殺そうとする集団だ、私も目は付けられたくない。それに私は戦闘経験なんてないし。
だけど、逃げるだけならなんとか……!
「止めだ、月夜女!」
迷っている時間はない!
私は急いで透明化を施し、月夜女さんの背後に空間転移で飛んだ。迫り来る斬撃に目を向けず、月夜女さんを保護することだけを考える。
乱雑に月夜女さんを抱きしめ、元々潜んでいた草陰にもう一度転移する。
「え……もしや、彩か?」
「ふぅ、透明なのによくわかったわね」
私はいつもしている通りにきちんと周囲を確認してから透明化を解く。
「妾を助けてくれる人は彩しかいないしの。しかし今回はまさに危機一髪といったところじゃな、感謝する」
「ふふ、どういたしまして。まずはその怪我を治さないとね」
遠くからではよくわからなかったけど、間近で見ると直視できないほどの痛ましい怪我だった。
さっき蹴られた部分は服が破れ青黒い痣になっている。両翼はチリチリに焦げて細い煙が上がっていた。
「まだこの近くにいるはずだ、探せ!」
ちょっとここで治療するのはやめたほうがいいかな。
どんな連中かもっとよく見ておきたかったんだけど、早めに移動したほうがいいみたい。
「すまぬな、妾に力がないばかりに迷惑をかけてしまって」
「いいのよ、私もあの怪しい集団を何とかしたいのは一緒だし。
でも、もうあの廃ビルは使えないわね……私が引越しするまでは私の部屋に隠れてたら?流石にご飯は出せないけど。
引っ越した後は前に言ったとおりアパートに一緒に住めばいいよ。
できるだけ物を置かないようにすれば2人寝られるスペースはあるから」
お節介と思われるかもしれないが、私の「困った人を放っておけない病」が黙っていなかった。
- 「でも、妾がいるとホワイトウイングが彩の家を襲撃するかもしれぬぞ?それでもよいのか?」
そのくらい十分に織り込み済みだ。あっちもまだ世間で表沙汰になっていないのなら、
普通の家を襲ったりなどと目立つ行動はしないだろう。
「私が護ってあげるから、安心しなさい」
私は月夜女さんが不安にならないよう、にこっと笑って見せた。
「あーあ、また夏菜が派手にぶっ壊すから片付けが大変ね……」
夏菜が放った光線は地面に焦げ痕を残しながらビルの壁を3枚貫通し、最後の1枚に大きな凹みを作っていた。
「しょうがないでしょ、後どのくらいダメージを与えたら倒せるかわかんないんだから常に全力で行かないと。
やっぱりアタッカーは火力が大事だしな!」
「でも撃つ前に技名っぽいのを叫ぶのはいらないんじゃ……」
「いや、あれは正義の味方には必要不可欠な要素だから外せないね」
夏菜が言うには、撃つ前にそれっぽい台詞を言わないと気分が乗ってこないらしい。
他の4人から恥ずかしいから止めろと言われても、既に癖になっていてつい言ってしまうのだった。
「悪いな、俺があそこで決めていればこの後片付けも今日で最後だったんだが……すまない」
決して若くはないが、それでもおっさんと呼ぶには精悍すぎる顔立ちである晴川毅(はるかわつよし)は刀を鞘に納め、
ばつが悪そうに4人に詫びを入れる。
「晴川さんは悪くないですよ。前回と同じ転移の早さなら確実に仕留められてましたし」
「それなんだが、俺には月夜女が転移『させられた』ように見えたんだが、気のせいか?」
「それなら前回と転移の早さが違う理由になるけど、そうなると月夜女の仲間がいることになるんじゃない?」
夏菜が自分の術で壊したビルの壁を整理しながら、その状況で考えられるありがちな結論に達する。
「そこなんだよな。月夜女が見える範囲から助けたのなら、姿を消していても必ず誰かが気付けるはずなのに、誰も気付かなかった」
5人がいかに戦闘に集中していたとしても、至近距離にいる黒の一族の気配に気付けないほど経験が浅いわけではなかった。
「もしかして、その仲間は気配を消せる力があるのではないですか?」
「そう考えるのが妥当だな。俺達に全く気付かれない相手となると、かなり厄介だぞ。先制されると一気に崩されかねない。
……しかし、黒の一族の総領のあのときの言葉はやはり嘘か。『あとは私の娘の月夜女しかいない』って言っただろ!」
総領以外の生き残りがいただけでもショックなのに、さらに認知されていない残党がいるとなると手に負えない。
今まで透明化で姿を消せる個体はいても、気配までも消せる個体はいなかったのだ。
「いや、でも、その人だって知らなかっただけかも知れませんし、まだ仲間がいるって決まったわけじゃ……」
「甘いよ、白石さん。あいつらは一族の存亡がかかってるんだ。わざと少なめに言って追撃を逃れようとしてると考えたほうがいい」
「全く、総領は信じてもよさそうと少しでも思った俺が馬鹿だったな。それにな、白石」
「はい?」
「あいつらは人じゃない、悪魔だ。何回も言わせるな」
- 初めて飲んだビールの味は、苦くてとても美味しいものではなかった。
まさか入学式が終わってすぐに飲み会があるとは思ってなかったし、あるとしても普通にアルコールを勧められるとも思わなかった。
あとでわかったことだけど、ここに入った人は殆ど20歳以上なので毎年このタイミングで飲み会をやっているらしい。
「ねえあーや、履修登録もう終わった?私まだ迷っててさ、よかったら一緒の講義受けない?」
その飲み会が終わってから、殆どの時間を共に過ごしているのがこの阿南涼子(あなんりょうこ)さんだ。
肩に届かない長さの髪を少し脱色し、緩いウエーブをかけている。上は派手な模様の入った黒のミニワンピ、スカートは編み上げで、
靴はごてごてしたニーハイブーツ。私もファッションに詳しいわけではないけど、そんな私でも彼女が「服に着られている」のはわかる。
所謂大学デビューというやつだ。その身の丈に合っていない格好はともかく、数少ない現役合格組同士ですぐに仲良くなった。
他にも何人か声をかけてきたし、私も当たり障りのない返事をする。みんなできるだけ人脈を広げようと必死だ。
先輩が「大学は人脈が最も重要」なんて言っていたけど、それにしても必死すぎる。
私は「友達」なんて対等な立場は望んでないの。
必修枠を除いたコマにはロクな講義がない。ここは楽な講義を取って単位を稼ぐほうがいい。
「先輩から聞いたんだけど、技術論って講義が楽らしいよ。私もそれ受けるから、一緒に受ける?」
「あっ、それ私も聞いたー。他に面白そうなのないし、それにしようかな」
「よかった、実は他の友達はみんなそれ取らないって言ってたから不安だったんだ。
ところで阿南さん、今日の講義終わったらうちに来ない?実家からみかんが届いたんだけど、1人じゃ食べきれなくてさ」
「ごめん、今日は講義の後にテニス部の新歓に出てみるつもりだから。また今度もらうわ」
なんだこの女、生意気な。私に反抗しようだなんて、何様のつもりなの。
「来なさい」
「……は……い」
阿南さんが抑揚のない返事をしたのを確認してから、周りを見渡して目撃者がいないことを確かめる。本来は順番が逆だけど、
目撃者がいれば月夜女さんのご飯が増えるだけ。大した問題じゃない。昼休みのこの講義室には前のほうにカップルが1組と、
窓際にいる私たちの反対側に女5人の集団がいる。どちらのグループも私たちに気付いている様子はない。
どうせ断っても同じなのだから、余計な手間をかけさせないで欲しい。あなたなんかに拒否権があると思ってんの?
こうして月夜女さんのご飯にしてあげる人もこれで5人目だ。
ホワイトウイングに狙われている月夜女さんを外に歩かせるのは危ないので、必要なものは私が全部調達するようにしている。
それも随分手馴れてきた。どんどん広がる一方的な人脈に舞い上がっているのが自分でもわかる。
相手が先輩だろうと教授だろうと関係ない。表向きはそれぞれの立場相応の対応をしていても、
周りが私の息が掛かった人たちだけになると天道様、天道様とちやほやされる状態に至福を感じていた。
「ただいまー」
「お帰り、彩。今日は一段と活きのよい人だの」
私は電気を点けず、カーテンを閉め切って真っ暗な部屋に入る。灯りを点けると月夜女さんが眩しがるからだけど、
私も暗いほうが物がよく見えるから問題ない。逆に最近は陽の当たる場所は明るすぎて辛い。
月夜女さんは私が部屋着に着替えている間にもう阿南さんにかぶりついている。
「そんなに急がなくても、しっかり暗示はかけてあるから逃げたりしないのに」
阿南さんは魂の抜けたような表情で月夜女さんのされるがままになっている。
前回は催眠のかけ方が甘かったせいか途中で解けて大変なことになったけど、
今回は阿南さんが私に十分気を許していたので上手くいったみたいだ。
「のう、彩。お願いがあるのじゃが」
「ん、何?」
「この人間の暗示を解いてくれぬか?前回みたいに暴れられると困るから、沈黙と金縛りを重ねがけしての。彩なら出来るであろう?」
「……どうして?今のままでも食べられるからいいじゃない」
- 「肉に火を通すのと一緒じゃ。恐がらせたほうがより美味しく食べられるのでな」
いくら月夜女さんのお願いといっても、限度がある。阿南さんにこれ以上迷惑はかけられない。
「だめ。そこまですると阿南さんがかわいそうだし、これで我慢して」
「記憶なぞ後で消せばよいではないか、解いてくれぬか、のう?」
「そういう問題じゃないでしょ!」
月夜女さんはわかってない。例え後で記憶を消せても、阿南さんにそのような体験をさせるのが嫌なのだ。
今の状態なら阿南さんは何も感じず、傷付けることもない。
「まだ、良心が残っとるらしいの」
「え、何か言った?」
振り返ってみても、月夜女さんはきょとんとしているだけで変わった様子もない。気のせいだったかな。
「いいや。まあ、このままでも食べられぬわけでもないし、頂くとしようぞ。彩も食べてみるかの?」
「いいよ、私は……」
「あ、そう。美味しいのに」
私も月夜女さんと同じように他人から精力を啜るようになったら、もう普通の人間でなくなってしまう。
そんな不安も、月夜女さんとの付き合いが長くなるにつれて薄れていった。
彩がぐっすり眠っているのを確認して、起こさないように静かに同じ布団に潜り込む。そして痛くしないようにそっと首筋に噛み付く。
初めの頃はそれでも無意識に抵抗されたりもしたが、最近はすっかり慣れたのか妾をすんなりを受け入れてくれる。
<彩……『こっちに来るのじゃ』>
……う、ん
<また、来れたのう。彩の心の奥底に>
ここ、きもちいいから
<ここにいるときは妾に全てを曝け出すのじゃ。隠し事は出来ぬ>
はい……
<じゃあ、早速訊いていくかの。阿南という女、実は彩も食べてみたかったのではないかの?>
……そんなことは
<なら、どうして物欲しげな顔でこっちを見ていたのじゃ?素直でないのう>
え……嘘……
<無意識に体が求めているのじゃ。捕まえたのは彩なのだから、遠慮することはないのに>
でも……食べたら私……人間じゃなくなる……
<そんな小さなことで躊躇してたのか。妾と同じ黒の一族として生きるのは嫌か?>
それは……ちょっと……
<彩も、あの男と同じだな>
……え……?
<彩も晴川と同じで、黒の一族を疎んでるおるのじゃろう?蔑んでおるのじゃろう?
いつも優しくしてくれているのも、決して心からではない、やはり上辺だけじゃったんじゃな……>
……違う……
<違う?なら彩が黒の一族になっても問題ないな?>
そう……かな……
<妾は、1人で寂しいのじゃ。彩が仲間になってくれると嬉しいのじゃが>
1人で……かわいそう……
<黒の一族になるためには、人間の精力を食べないといかん。できるかの?>
嫌……同じ人間を襲って食べるなんて、私にはできない
<ふふっ、そうか。彩は妾の玩具なのじゃ。妾の言うとおりにしておればよい。何も考えず……妾に全てを委ねれば、幸せになれる。
玩具に理性なんて要らないから、捨ててしまおうかのう>
え……
- <彩は妾の人形。人形だから、何も考えなくてよい>
私は、月夜女様の人形……
<彩は妾のペット。ペットだから、ご主人様に従うことが幸せ>
私は、月夜女様のペット……
<彩は妾の虜。妾に言われるがまま、操られるのがすごく幸せ>
私は、月夜女様の虜……
<彩は妾のロボット。妾の命令を勝手に実行してしまう>
私は、月夜女様のロボット……
<彩は妾の奴隷。妾の命令には逆らえない>
私は、月夜女様の、奴隷……
<彩は妾のもの。彩の心も体も、全部妾のもの。妾の気持ちは、彩の気持ち。妾の言うことは、彩の望んだこと。
そうすれば、ずっと気持ちいい。ずっと幸せなのじゃ>
私は、月夜女様のもの……
<ふふ、今の言葉、絶対に忘れたらいかんぞ……忘れないように、心の奥底にしまっておくのじゃ。
自力だと絶対に思い出せないが、妾がここで話しかけたときだけ思い出せるからの>
うん……
<今日はここで終わり。また妾が『こっちに来るのじゃ』と言ったらここに来るのじゃ。それでは、眠るがよい>
この人間が寝てからこうやって暗示をかけるのも、これで何回目じゃろうか。
このアパートに来てから毎日だから、それなりの回数はいっておるはずじゃ。
その割に効果が現れないのは、この人間の意志が強いから?それとも妾のかけ方が下手なだけか?
何故か暗示も洗脳もこの人間に対しては短時間しか持たないから、
意に反した行動を無理矢理させるのはこれまで積み上げてきた信用をぶち壊しにする最後の手段にするしかない。
逆にこの人間の意に反した行動でなければ、妾に身を委ねることをこの人間の方から望むような状況ならば話は違ってくる。
妾がこの人間を操り、力を存分に振るわせ暴れさせても信頼関係を維持したまま、
という展開が都合よく起これば後は自分から進んで力を使うことになるじゃろう。
確実にこの人間の心は歪んできておる。
妾に依存し、与えられた力に酔い、他の人間を虐げることが楽しくなり、道徳意識が曖昧になってきておる。
この人間はお人よしな上に真面目だからじゃろうか、力を試し使うことに随分と時間がかかったがもうじきじゃ。
いい加減、妾は猫を被り続けるのも疲れた。これ以上覚醒が遅れるとあいつらに見つかる危険性も高まる。
黒の一族の命運は彩、そなたにかかっているのじゃぞ。
次の日、私は違う学部の友達である西野貴子(にしのたかこ)さんを人目につかない講義棟の裏に連れ込んだ。
講義棟の反対側は雑木林になっていて、わざわざここに来る人は皆無といっていい場所だ。
「ごめん月夜女さん……今日のご飯は別に確保したから、つまみ食いを許して。もう私、我慢できないの……」
大柄な西野さんが私の後ろを付いてくるのを確かめながら、人に見つからないように慎重に歩みを進める。
「この辺でいいかな。じゃあ西野さん、全身の力を抜いて……手も足も全く力が入らない……」
西野さんは虚ろな目を私に向けたまま、ぐったりとして私に身を預ける形になる。
「さて、いよいよだけど……」
自分が人の道を外れる行為をしようとしている自覚はある。
でもそれもこんな美味しそうな食べ物を目の前にした時点で無視できるほど小さくなっていた。もういい、あれこれ考えるのも面倒だ。
食べ方は頭でわかっている。小説とかでよくいる吸血鬼が首筋に噛み付いて血を啜るような感じ。
精力を吸う場合は血を吸うわけじゃないから、血が出るまで思いっきり噛む必要はない。
ん、これは……味までは今まで食べたことがなかったので知らなかったけど、人間の精力ってこれまで食べたもので例えるなら
「メロンとバナナを足して2で割ったような味」がする。私みたいな甘党なら大好きだけど、中には嫌いな人もいるんじゃないのかな。
人間以外なら違う味がするのだろうか。それとも個人差があるのかな?
- そうだ、確か昨日月夜女さんが「恐がらせるとより美味しくなる」って言ってたっけ。早速試してみよう。
沈黙と金縛りの暗示をかけて、意識だけ覚醒させて……。
ぼんやりしていた西野さんの表情が次第にはっきりしてくる。さっきまで私が精力を吸っていたのは覚えているはずだけど、
自分の状況を理解するのに少し時間がかかっているみたいだ。
初めは戸惑っていたのに、自分の手足が全く動かせないことと喋れないことを自覚すると、なかなか恐い顔で私を睨んできた。
「んー!んんー!!」
恐がってるというより、怒ってる?魔法で威嚇射撃でもすれば少しは恐がってくれるかな?
「んぅ……」
威嚇で済ませるつもりが、狙いが外れて西野さんの左肩に当たってしまった。
瞬く間に彼女の着ている服の淡い緑と血の色が混ざって黒い染みを作っていく。
まあ肩なら今すぐ死ぬことはないだろうし、治すのは後回しでいいよね。
目に涙を浮かべてまで震えているみたいだし、早めに頂いてしまおう。
再び西野さんの首に口をつけようとしたとき、私の右肩も彼女の左肩と同じようにどす黒く染まる。痛みはワンテンポ遅れてやってきた。
「くぁっ……銃?!」
全身が一気に冷えるのがはっきりわかる。体は冷えたのに汗がどっと出てくる。
振り返ると丈の短い長袖Tシャツにローライズのジーンズパンツと、ラフな格好をした女が1人、立っていた。
「とうとう尻尾を出したわね」
まさかこの女、ずっと私を尾行していたの?全然気がつかなかった。さっきは無警戒だったのは確かだけど、
ここに来るまでは念入りに振り向いて確認したのに。
「お前、黒の一族には見えないけどその力はどうしたの?」
もし見つかったのが一般人なら記憶を消すなりですぐ対処できたのに、よりにもよってあいつらとは……ついてない。
どうせ記憶を消すのは一緒だとしても、一筋縄ではいかないかもしれない。
「答えないんだったら力ずくで吐かせるけど、いいの?」
「それはこっちの台詞よ」
こっちもあいつらの情報を引き出すチャンスだ。それにいざとなれば西野さんという人質もいる。
……ちょっと待って。相手は普通の人間じゃない。どんなに暴れても表沙汰にならないホワイトウイングの人間だ。
もしここで私が殺されたら揉み消されてなかったことにされるんじゃ……。
「へぇ、私1人なら勝てると思った?1対1って思っちゃうのはどうかと思うなあ」
まさかそこの雑木林に?!ざっと見た感じだと全く人影は見えないけど、何人潜んでいるかわからない。
透明化すれば何とか……さっき撃たれた肩がズキズキして集中できない。このまま透明化しようとしても時間がかかる上に不完全になる。
治癒が先?そんなことをすれば目の前の女に攻撃されて余計にボロボロになるだけだ。
先制攻撃されなければなんとかなったかもしれないのに……!無意識に西野さんを抱えている腕に力がこもる。
「それで人質のつもり?やるんだったら……」
女が小さい光弾をいくつか撃ってくる。そうだ、障壁を張らないと!
「お願い、私の想いに応えて!」
少し透けた濃い紫の障壁が目の前に現れたが、それは私の足に光弾が当たった後だった。足も封じられた……本格的に不味い。
光弾も私が撃ったときの銃のような速さはないものの、避けられないくらいの速さは十分あった。ただ、私が障壁を出すのが遅いだけだ。
「ちゃんと盾になるように持ったほうがいいんじゃない?」
そもそも、障壁の展開が間に合ったところで光弾を防ぎきれるかというと、そんな保障はどこにもない。
実際に障壁を使ったのはこれが初めてだからだ。
「おおー、障壁まで使いこなすなんてやるじゃん。こりゃちょっと本気をだしていこうか」
正面は障壁で体全体をカバーできてるけど、側面は無防備のままだ。今雑木林の中から攻撃されたら打つ手がない。
ドーム上に自分を囲むように障壁が張れたらいいんだけど、そのようなことはできないらしい。
障壁を張ったまま治癒を使おうにも、隙を見せたらおそらく側面から蜂の巣だ。
ここは一か八か……空間転移で逃げる!雑木林に何人いようと、逃げるまでは集中を保って耐えてみせる。
- 「あ、ちょっ、転移も使えるの?!」
さっきの光弾とは違う、レーザー状のモノを撃ってきた。人質もろとも吹き飛ばそうってこと?!お願い、耐えきって!
「逃がすかあぁぁ!」
いつもならサッと転移できるのに、怪我のせいか余計に時間がかかっているように感じる。
まだ障壁は余裕があるみたいだけど、いつ側面から攻撃されるかわからない。早く――
「いたっ!」
転移は成功したみたいだけど、変な体勢で飛ばされたらしい。後頭部を思いっきり打って頭に星が飛んだ。
転移先でまたトラブルにならないように自分のアパートに飛んだはずだけど、ここどこだろ?
西野さん、ちょっと重いから私の上からどいて……。
「あら、彩が転移を失敗するとは珍しいのう」
「あ、月夜女さん……ここ、ひょっとして私のアパートのバスルーム?」
「そうじゃが。風呂は服を脱いで入るものと思っていたが、違うのか?」
「いや、ちょっと焦ってて……いたた」
急に痛みがぶり返してきた。既に結構な量の血が排水溝に流れてしまっている。
「どうしたのじゃ、その怪我は?!まさかあいつらが……」
「そうよ。……ごめんなさい。私のせいで月夜女さんの居場所もばれたと思う。どうしよう、他に行くあてもないし……」
「案ずるでない。顔を見られただけじゃろ?そんな1日や2日ではわからぬよ。最近は個人情報の扱いが厳しいと聞くしの」
「そうは言ってもねえ……黒の一族の関係者がこの大学内にいるってことがばれただけでもかなり動きにくいよ」
撃たれてできた3ヶ所の傷は全部貫通しているらしかったけど、魔法で治療するのは大して時間はかからなかった。
「しかし、あいつらの仲間がこの大学内におることもわかったのじゃろう?なら、先に捕まえて何もかも吐かせればよいではないか」
「私も顔見ただけなんだけど……」
初めて見る顔だったから、医学部ではない。いや、声はどこかで聞いたことがあるかもしれない。雰囲気もだ。
あれは、確か、月夜女さんが廃ビルの近くで襲われていたときだったと思う。レーザー状の攻撃もよく似ていた。
名前は……あのときおっさんが呼びかけていたはずなのに、思い出せない。
せめて苗字だけでも絞れたらまだ何とかできたかもしれないのに。
「ほれ、確か彩は大学の入学アルバムを持っておったじゃろ。もしかしたら載っておるのではないか?」
あの講義棟はほぼ1年生の講義しかないから、あの周辺にいる人はほぼ1年生と見て間違いない。でもそう簡単に見つかったら苦労しない。
あいつらはあいつらで見つからないように隠蔽工作でもしてるだろう。まあダメ元で探してみよう。何もしないよりはマシだ。
――いた。この顔だ。このセミロングでストレートの髪型も、勝気そうな雰囲気も。あの女だ。
青野夏菜、それがあの女の名前らしい。
「工学部電気電子学科……女の割合が1割以下とは、随分男女比が極端なところじゃな」
「電気系とか情報系で男女比が半々の学部があったら私が見てみたいわよ。うちの医学科だって男のほうが多いんだから。
……問題はそこじゃないと思うんだけど」
学部さえわかれば、どの講義を受けているか大体わかる。そこで本人がいればさっさと不意を突いて捕まえたらいいし、
いなければ他の女から情報収集するだけだ。これだけ女の人数が少なければ全員何の情報も持っていないなんてことはないだろう。
万一ダメなら操って利用してもいい。
- 青野さん……自由に動ける夜は、今夜が最後になるかもね。
一方で、当の本人である青野夏菜(あおのかな)は彩を逃がしたことを心底悔しがっていた。
「あっちゃー、逃げられたかあ。この前の月夜女といい、転移使うヤツばっかりだな」
今まで何十体と黒の一族を倒してきたけど、空間転移を使えたのは月夜女以外には1人しかいなかった。
そのときは転移・透明化が無力化できる白石さんの力で攻略できたけど、あれは術の使用中、
さらに使用後しばらくは白石さんが完全に無防備になるから安易に頼るなって晴川さんが言ってたっけ。
転移のときに必ず隙ができるからそこを狙え、か。あの障壁は簡単に崩せそうにないけど、
形は今までのヤツと一緒だから多方面から攻撃すればいい。
いちいち反応が鈍かったし、1対多数かもってハッタリも信じてたみたいだから、戦闘慣れしてないんだろう。
まあ、黒の一族に洗脳されてるだけみたいだから当然か。洗脳されてるだけなのに私の攻撃を受け止められるほどの障壁を張れるとは、
多少素質があるんだろうね。相手が無警戒だったから写真もバッチリ撮れたし、
鞄から私の使ってるのと同じ英語と数学のテキストが覗いてたから、この大学の1年生ってことも確定。
これだけ絞れればあいつのアパートが割れるのも今夜だろうし、明日の朝には皆揃って張り込むこともできる。
あいつを操っている黒幕、とくればもう月夜女しかいない。おそらくこの前月夜女を助けたのもあいつの仕業だろう。
でもまさか私のいる大学に悪が潜んでいるとは……これが主人公補正ってヤツ?
こそこそ悪いことしてる悪党は、必ず正義の味方に見つかって倒されるのがお約束ね。
向こうは運が悪かったなんて思っているんだろうけど、残念ながらこれが現実よ。
芝生の上に点々と散った固まりかけた血を眺めながら、私は晴川さんに今起きたことを報告しようと携帯電話の電話帳を開いた。
昨日アパートから帰って1時間半だけ寝て、それから朝までずっと起きていた。最近は完全に昼夜逆転の生活を送っているので、
夜中にずっと起きているのはもう慣れた。逆に昼休み前後の講義が苦痛で仕方がない。
夜中に何度もアパートの周りを見回ってみたけど、怪しい人は見つからなかった。
やっぱり1日で単なる大学生の住所を突き止めるなんて無理に決まっている。
入学アルバムで私の名前くらいはわかったかもしれないけど、住所はどこかに問い合わせないとわからないはず。
このご時勢、警察でもない限りそう簡単に個人情報は漏らさない。ましてや怪しい秘密結社なんか相手にされるはずもない。
それでも、どちらも「顔と名前がわかっている」だけで条件は同じだ。ぐずぐずしていては私が捕まる可能性のほうが高いだろう。
なんとしても今日、青野とかいう女を捕まえないと。
「もし私が出かけているときにあいつらが襲ってきたら、すぐに転移でここに来て。たぶん私が近くにいるから」
私が地図で示したのは、ほぼ全ての1年生がそこで講義を受けるという例の講義棟だ。
少し前に2人でこっそり大学内を回ったことがあるから、おそらく迷うことはないだろう。
「うむ、彩も気をつけるのじゃぞ」
「今度あの青野とかいう女が来たら返り討ちにしてやるわ!来る前に先制して捕まえるつもりだけど。
お土産楽しみにしててね、月夜女さん。いってきます」
「気をつけるのじゃぞー。……ふう、妾も昨夜は緊張しっぱなしだったしのう。
気分転換に『Introduction To Modern Economic Growth』の続きでも読もうかの」
月夜女は部屋の本棚から1000ページはあろうかと思われるハードカバーの分厚い本を取り出し、
いつも彩が勉強に使っている机に広げて読み始めた。
彩の部屋のすぐ隣の部屋で息を殺していた男が1人の人間の気配の消失を確認すると、通信機器で外部と連絡を取り始める。
「これで今部屋にいるのは月夜女で確定か……操られた住人の外出を確認した。今から5分後に突入する。皆、準備はいいな」
- 「はい」
「おっけー」
「いいですよ」
「了解」
トイレに透明化したまま転移した私は、透明化を解いてこれから微分学の講義があるやや大きめの講義室に入った。
「ちょっと早く着すぎたかな。まだ誰もいないし」
しばらくするとひょろっとした青年が講義室に入ってきた。
「あの、ここの学部の青野夏菜って人を探しているのですが、知ってますか?」
「ああ、青野さん……顔だけなら知ってるけど、喋ったことはないや。女子に聞いてみたら?」
「そうします。どうもありがとうございました」
その後、その青年は数学のプリントを熱心にチェックし始めた。小テストでもあるのかな?
次に声をかけたのは3人組の女子学生。
「夏菜ちゃん?さっきバイトで今日は休むからノートお願いってメールが来たよ」
「バイトって……これって必修の講義のはずですが?」
「そうだけど、急に呼び出しがある代わりに時給が信じられないくらい高いから辞めたくないんだってさ」
「なにそれ」
学業よりバイトを優先するのなら、大学なんて辞めてしまえばいいのに。
「でも何のバイトかは教えてくれないのよねえ、古沢さん、聞いたことある?」
「私は『正義の味方』ってことだけ教えてもらえたけど……どういう意味なんだろう。ヒーローショーのきぐるみとか?」
「正義の味方」……十中八九、ホワイトウイングのことだろう。そのバイトの呼び出しで必修の講義を休む……なんか嫌な予感がする。
「どうもありがとうございました!」
嘘でしょ?!さっきアパートを出るときにも誰も隠れてないか確かめたはずなのに。
人目につかない場所に全力で走り、アパートに転移した先で目に入ったのは――
窓ガラスが派手に破られ、本棚の本が撒き散らされた薄暗い部屋だった。私が出かけていた数十分の間にここまで……手遅れだったの?
そうだ、このガラスの割れ方とカーテンの外れ方、窓を侵入に使ったというより脱出に使ったように見える。
だとしたら外にまだいるはず!
「うわっ、眩し……」
朝日を直接浴びてしまい、眼が眩んでしまった。回復にしばらくかかったけど、
次第に車のほとんどない駐車場で人が縦横無尽に動き回っているのがぼんやり見えてきた。
その中でかろうじて月夜女さんがどれかは判別することができる。それがわかればまた前回と同様に転移で……あれ?
透明化が……できない?さっきまで問題なくできてたのに……どうして?
仕方ない、転移だけでも……ちょっと、何で……空間転移もできない?
今まで力が使えなくなることがなかっただけに、焦る。頭が上手く回転しない。とにかく今は月夜女さんを助けるのが最優先だ。
障壁は出せるから、最悪私が盾になって攻撃を全部受けたらいい。
倒れて動けなくなっているところに集中砲火を浴びている月夜女さんを庇うようにして、光弾やレーザーの飛び交う戦場に飛び込んだ。
既に焦げ痕や削られて穴になったアスファルトの部分も多く、激しい攻防が繰り広げられていたことを物語っている。
「月夜女さん!」
「彩?」
よかった、間に合った!間に合った……けど、今回の相手の数は5人。
それに逆光になっていてそのうち2人の顔は見辛くてよくわからない。
囲まれてるから一方向しか展開できない私の障壁じゃ防御しきれないし、いきなり絶体絶命。
- 「自分から助けに来ておいてなんだけど、どうやって脱出しようかこれ……転移と透明化はなぜか使えないし」
月夜女さんと互いに背後を預ける形になる。やっつけることは考えなくていい。ただ、逃げる隙さえ作ることができれば……。
でも、あの人間離れした動きをする殺人集団と戦うの?戦闘経験皆無のド素人の私が?そんなの、やる前から結果が決まってる。
そもそも恐怖で足が竦んで動けそうにない。殺気が充満したこの空間の雰囲気に飲まれてる。
「月夜女さん、私があいつらをひきつけるからその隙に逃げて。私、情けないけど怖くてここから動けそうにないから」
どうやってあいつらをひきつける?転移も透明化も封じられ、戦力差に圧倒的な差がある集団に囲まれたこの状態から離脱できる方法は?
足が動かせなくても頭は動かせる。あいつらが私の助太刀に面食らっている間に考えなきゃ!
「怖気づくでない。妾に力はないが、そなたはあいつらを蹴散らせるだけの力を持っておる。その力を惜しみなく振るうがよい」
自分が殺されそうだというのに、私よりはるかに落ち着き払った声で月夜女さんが背を向けたまま囁く。
「そんなこと言われても……」
その声に釣られて私も声が小さくなる。銃だけ持たされていきなり戦場に放り出されても何もできるわけがない。
かといって今回は逃げ切れそうもない……思わず1歩後退り、月夜女さんの翼と私の背中が密着する。
「あれ、先輩……ですよね?」
先輩、という懐かしい響きがこの修羅場に場違いな人物がいることを示す。私を「先輩」なんて呼ぶ人物は私の知る限り1人しかいない。
「春香ちゃん?!」
あいにくここからだと逆光で目が開けていられないので、顔を見ることができない。
でもこの声は間違えるはずがない。最後に別れてから2ヶ月も経ってないのだから。
「あの人がいつも勉強を教えてもらっているという先輩なのですか?」
「そうです!この近くの大学に入学したっていうのは聞いてたんですけど、
まさか月夜女に操られているなんて……白石さん、もう少し頑張ってください。速攻で倒しますから!」
操られてるのはどっちよ。こんな怪しい組織に入ってる春香ちゃんのほうじゃないの!?春香ちゃんがあの殺人集団の一員?
冗談もいい加減にして。
「春香ちゃん!その人の言うことを聞いてはダメ!」
「先輩こそ、月夜女の言うことなんか聞いちゃダメです!そこを退いてください!」
「退かない!」
ここで春香ちゃんだけでも説得して仲間にできればまだ勝機はあるかもしれない。
いや、説得なんてしなくても魔眼で無理矢理仲間にできれば……。
「彩、右!」
「くぅ!」
何も考えずに障壁を右に向けたのでギリギリ間に合った。
春香ちゃんだけに注意が向いていたので月夜女さんがいなかったらどうなっていたことか。私が守られてどうするのよ。
「マジ?制御できるギリギリの出力で撃ったのに防がれた……」
さっき撃ってきたのは昨日の青野とかいう女だ。相手は本気で殺しに来てる。黒の一族じゃない私諸共闇に葬るつもりらしい。
もちろん私だって死ぬのは嫌だ。嫌だけど……うう、緊張で足が動かないのに戦いなんてできるわけがないじゃない!
「何をぐずぐずしておる!?早くあいつらを攻撃せぬか!」
急かされても自分と月夜女さんを守るために障壁を展開するのが精一杯で、攻勢に転じる余裕なんて全くない。
月夜女さんが背中で私を押してくる。後ろの様子をちらっと見ると、
最初より間合いを詰められてる……このままでは不味い、何か手を打たないと……。
そうだ。私は力があるらしいけど使いこなせない、月夜女さんは力がないけど経験はある。その2人を合わせられたら、どうだ。
方法は……あれしかない!
「月夜女さんがやってくれない?」
「妾がそなたを操れというのか」
「そう。私に力があるのなら、戦い慣れしてる月夜女さんが使えば1番効率が良いと思ったから」
この状況を打開するためなら、月夜女さんに命を預ける覚悟はある。元々月夜女さんの盾になるつもりでこの戦場に飛び込んだんだ。
月夜女さんなら信用できる。怖くて足が竦んでるのも、戦いに対する恐怖が無視できるようになれば関係なくなる。
「よし、では妾が合図したら振り向いて眼を合わせるのじゃ」
- 「わかった」
後は月夜女さん次第。月夜女さんなら私の力を自在に使ってこの怪しい集団から逃げ切ってくれるはず。私は気を静めて、月夜女さんに全て任せればいい。深呼吸して、頭を空っぽにして月夜女さんを受け入れるだけでいい。
正面の春香ちゃんは手を出してくる様子はなく、青野とかいう女は飛び回ってこっちの出方を伺っているだけで何もしてこない。やるなら今しかない!
「今じゃ!!」
合図と共に振り向いて月夜女さんと眼を合わせる。
そこで私が見たのはいつもの気品に溢れた月夜女さんの顔ではなく、策に嵌った獲物を嘲るような影のある笑顔の月夜女さんだった。
どうして、そんな顔してるの……?
- その一瞬の気の迷いが私たちの明暗を分けた。
私のように眼を合わせた相手の意思を強引に捻じ曲げることができるのは珍しいらしく、
私以外だと少しでも相手に不信感があるだけで通用しなくなるという。
だから本来魔眼というのは相手の不意を突いたり本性を隠して取り入ったりしないと使えない代物だ。
それなのに、私は月夜女さんの裏があるような顔を見て思わず拒絶してしまった。
頭に浮かんだ疑問を口に出す前に、月夜女さんが異常に気付いたらしい。でも、それすらも遅かった。
私が一瞬迷った時点で私たちの負けは決まってしまっていた。
側面から見覚えのあるレーザーが月夜女さんを吹き飛ばす。20メートルほど飛ばされた後、
アスファルトに摩り下ろされて散らばった黒い羽根が痛々しい。
「何しようとしてたか知らないけど、私たちはそんな怪しい行動をぼーっと眺めてるようなトロい正義の味方じゃないんでね!」
起き上がりかけた月夜女さんに赤い服の女が踵落としでもう1度ダウンさせ、
起き上がれなくなったところに鞭打つように殴る蹴るの暴行を加える。
こんな仕打ちを受けなければならないほどのことを月夜女さんがしたの?月夜女さんは月夜女さんなりに一生懸命生きてただけじゃない。
ただ、生き延びてただけじゃない……。
自分もこの後月夜女さんと同じ目に合わされる様子がありありと頭に浮かんで1歩が踏み出せない。
動いて、動いてよ、人の命がかかってるのにどうして動いてくれないの!?
怖い。戦うのが怖い。死ぬのが怖い。
助けに行く前にこの身を盾にしてでも護ると覚悟したはずなのに、いざその状況に直面するとできない。
私の月夜女さんを護りたいという想いは、自分の身の危険で打ち消されるような柔なものだったんだ。
いや、足が動かなくてもできることはある。外して月夜女さんに当たってしまう危険を考えても、ここからあいつらを狙い撃てば!
しかし、その行動は無防備になった後ろからの攻撃で阻止された。
血は流れてないけど、まるでソフトボールをぶつけられたかのようにふくらはぎが大きく腫れている。
「先輩、いい加減にしてください!」
「春香ちゃん、私の邪魔をするの?」
「先輩の頼みでも、これだけは譲れません!」
「晴川さん、今のうちに早く!」
私は初めて私に真っ向から対立しようとする春香ちゃんにたじろいですらいた。
付き合いの長い春香ちゃんなら私の味方になってくれると思ってたのに、どうして……。
「何よ……どうしてそこまで必死に月夜女さんを殺そうとするの?」
「月夜女が黒の一族だからです。それ以外に理由が要りますか?」
「きゃあああああーーーー!!」
青野とかいう女のレーザーを無防備な状態で食らい、月夜女さんの悲痛な叫び声が耳に響く。
あの晴川という男はよほど強力な洗脳を春香ちゃんに施しているらしい。
まずは春香ちゃんをどうにかしないと月夜女さんを助けられないみたい。早くしないと月夜女さんが殺されてしまう!
「やめてええええええええ!!」
こんなときに、私は泣き叫ぶことしかできないの?折角月夜女さんからこの力をもらったのに、 身近な人を救うことすらできないの?
自分の無力さに苛立ちを隠せない。
冬子が全身を満遍なく痛めつけ、夏菜のありったけの魔法をぶつけられては月夜女でもひとたまりもない。
意識までは取られなかったことがむしろ不運だった。晴川は蹲って動けない月夜女に容赦なく御神刀を振り下ろす。
「これで終わりだ、月夜女!」
「ぎええええぇぇぇっ!」
黒い両翼を切り落とした感触が晴川の両手にしっかりと伝わってくる。
濁った悲鳴を上げた月夜女は背中の傷口からどす黒い血を流しながら鬼のような形相で晴川を睨みつけた。
「おのれえ、晴川ぁ……」
「もう勝負はついた。諦めろ、月夜女!」
どのような反撃が来ても対応できるように、晴川は刀を構えなおした。
その両脇の夏菜と冬子も腰を低くしていつでも動けるように待機する。
- 「ふ、ふふふ……」
苦痛に顔を歪めながらも気味悪く笑う月夜女に、対峙する3人は一層気を引き締める。
「気をつけろ!まだ何か変化して襲ってくるかも知れん!」
しかし既に月夜女の足は膝から下が砂のようにボロボロになって崩れてきており、歩くことすら困難になってきている。
「黒の一族は妾が最後なのは確かじゃ、望みが叶って嬉しかろう。じゃがな……これで終わりと思わぬことだな、晴川ああああアアアア!!!」
思わず耳を塞ぎたくなるような壮絶な断末魔を発した後は、白いさらさらの灰のような塊になった月夜女の残骸があった。
「ふん、結局ただのハッタリか。死んだら終わりに決まってるだろうが」
灰に近づいて月夜女が2度と再生しないことを確かめて、晴川は付着した血を拭いてから刀を鞘に納める。
「最後なだけあって、捨て台詞がベタベタでしたね」
冬子はバンデージを巻いたままの両手で乱れた髪をざっと整えながら、感慨深げに灰の塊を見つめていた。
「ふっ、またもや勝利してしまったぜ……」
元気が有り余っているのか、疲れの見える他のメンバーと違い1人で夏菜はなにやら妙なポーズをとっている。
「青野、その言い方だと俺が言っているように聞こえるから止めてくれ」
「そう?じゃあ……」
今度は月夜女の残骸を指差しながら、やや演技のかった声で決め台詞を言った
「私たちと会ったのが運の尽きよ!」
晴川と冬子は夏菜のこの行動を見慣れているらしく、冷ややかな視線をぶつけている。
「……晴川さん、私と夏菜がこれで同い年って未だに信じられないんですけど」
「まあ黒松、これも今回で最後だから大目に見てやれ」
自分の決めポーズに満足した夏菜は晴川と冬子に向き直ると突然何かを思い出したように「あっ」と声をあげて、がっくりと肩を落とした。
やっとのことで最終目的である黒の一族の殲滅を完了したにも関わらず、その顔は失意の底に沈んでいる。
「そういえば、まだ戦隊モノのお約束アイテムが出てない……結局、巨大ロボどころか変身スーツすら出ないうちに最終回とは……はあ……」
「お前は子供か。一体何を期待してホワイトウイングに入ったんだよ」
ヒーロー願望の強い夏菜の危機感のない言葉に、晴川と冬子は毎度の事ながら呆れて苦笑せざるを得なかった。
夏菜はこうした浮き沈みが激しい面もあるが活躍はめざましく、夏菜だけで黒の一族を戦闘不能にまでしたこともかなりある。
「いや、待てよ。これはもしかしてこの後第2第3の新勢力が出てきてホワイトウイングの戦いもまだまだ続くんじゃ……」
「縁起でもないことを言うな。まだ月夜女に操られていた女の処理が残ってる、気を抜くなよ」
夏菜と冬子にそれぞれ指示を飛ばすと、晴川はもう一度月夜女の残骸を一瞥してから彩に目を向けた。
護れなかった。守れなかった。悲しい。悔しい。涙が止まらない。
2対5で人数的にも不利な上、私は今回が初めての戦いだ。勝てるわけがなかった。転移が使えなくても手を引いて走って逃げればよかった。
私がずっと側にいてあげなければいけなかった。あのとき一瞬でも月夜女さんを疑ったのがいけなかった。
全部、私のせいだ。
……いや、違う。
悪いのはホワイトウイングだ。晴川だ。
晴川が黒の一族を根絶やしにしようとしなければ、こんなことにはならなかった。
悪いのは全部あいつらだ。
そもそも、こんな殺人集団が世間の目に触れずにこそこそ活動しているのが許されていいはずがない。
相手が法律を無視するなら、私も無視しないと勝ち目がない。どうする、晴川を殺す?でも、殺すだけでいいの?
殺すよりもっと晴川に苦痛を、屈辱を、絶望を味わわせるには……。
戦闘の真っ只中で考え事をしていた私は、自分の首にスッと腕が回されてもすぐには反応できなかった。
「ちょっと、何するの!?」
「おとなしく、して!」
背後から手際よく絞め技を決められ、あっけなく意識を手放してしまう。
「晴川さん、準備できた?」
「あと少しだ」
すぐに意識は戻ったものの、頭がすごくぼんやりする。このまま、私もあいつらに殺されるの……?
- 左腕にチクッと痛みが走り、急速に私の意識は闇に沈んでいった。
意識が朦朧としていたところに晴川に麻酔薬を打たれ、彩はぐったりと晴川に体を預けていた。
警戒を解いて晴川の周りに4人が一斉に集まる。
「先輩、大丈夫なんですかね?」
「事故が起こる可能性を極限まで低くした新薬だ。黒松が事前に動きを封じたから刺す場所を間違えたなんてこともない」
ホワイトウイングがこのように超法規的な行動をしても一切世間に晒されないのは、晴川の財力とコネの賜物である。
「はあっ、はぁ……間に合ったみたいですね、晴川さん」
「ああ、白石もよく頑張ってくれた。転移持ちが2体もいたなら白石が封じないと捕まらないからな」
白石と呼ばれた女は膝に手を付き、息も絶え絶えながらも安堵の表情を浮かべた。
「それに黒松の手際も見事だった。例の青野の暴走の後に練習した甲斐があったな」
「またあのときみたいに梃子摺るのはごめんですからね」
冬子がちらっと夏菜を見ると、当の本人は止めてくれといわんばかりに話を逸らそうとする。
「う~、またその話か……そんなことより、黒の一族の掃討完了を祝って焼肉行こうよ!食べ放題の!」
「えー、行くんだったらケーキバイキングに決まってるでしょー!」
「私はイタリアンビュッフェがいいかな……」
「どうしてあなたたち食べ放題ばっかりなのよ。こういうときは皿の回ってない寿司屋とかでも大丈夫でしょう。ですよね、晴川さん?」
4人に期待の眼差しを向けられた晴川だが、口から出た言葉は冷静そのものだった。
「お前らなあ、月夜女に洗脳されたこの女が力を失って、さらにホワイトウイングのことの記憶の整理をさせるまでが俺たちの役目だ。
それが終わるまではお祝いムードに入るな」
「はーい」
「……はい」
「わかりました」
「了解」
「では、白石は魔力を使い切っているみたいだからしばらく休んでおけ。白石以外で現場の後片付け。
赤坂はこの女を医務室に運んだ後に合流。それでは各自、行動開始!」
黒の一族の殲滅を目的として活動してきたホワイトウイングは、その役目を終えようとしていた。
「しかし、人払いの結界を破って戦闘に乱入し月夜女を助けようとしたこの女……しばらく様子を見たほうがよさそうだな」
晴川はホワイトウイングの情報処理班に天道彩の個人情報を調べるように連絡した後、自分も戦闘現場の復旧作業に取り掛かった。
目が覚めると、見慣れた8畳の自分の部屋が目に入る。
まだ何も入ってない棚がある本棚、あんまり使いこなせている気がしないノートパソコン、勉強机の上を占拠してる分厚い本もそのまま。
でも、いつも隣で寝てる月夜女様がいない。それに月夜女様じゃない誰かが部屋にいる……。
「あ、先輩。おはようございます。丸1日寝てすっきりしましたか?」
春香ちゃんが以前のままの爽やかな笑顔で寝起きの私を迎えてくれる。
2ヶ月くらいしか離れていないのに、この笑顔を見るのは随分久しぶりに感じる。
そうだ、確か月夜女様を助けに行って、それで助けられなくて、
私はあいつらに眠らされて……春香ちゃんがここにいるってことは、夢じゃないよね。
「春香ちゃん、私……」
「いいんですよ。先輩は月夜女に洗脳されて悪いことをしただけ。月夜女が悪いだけで、先輩は悪くありません」
悪いこと?月夜女様を助けることが悪いことなの?私には春香ちゃんのほうが悪いことをしているようにしか思えない。
「そう、かな」
「それに何かの罪で逮捕しようにも、証拠がないですよ。
普通の人があの力を信じることもないでしょうし、先輩はもうあの力は使えないはずですから。」
力が使えない?本当に?
- 「ごめん春香ちゃん、ちょっとトイレ行ってくる」
私が眠っている間に何かされたの?あいつらなら力封じの魔法とか使ってきても不思議ではない。試しに透明化をしてみる。
……さっきの戦闘中にはできなかったのに、今は問題なくできる。なんだ、大丈夫じゃない。
でも今は黙っておこう。
月夜女様が「万一私が倒されたら、正気に戻った振りをしてホワイトウイングに近づけ」と言われたことを守らないと。
「あ、いつの間にかガラスが直ってる。後始末もきちんとするなんて、正義の味方は違うわね」
「正義の味方だなんて、そ、そんなことないですよおー」
うわ、思いっきり照れてる。上辺だけのお世辞でもやっぱり嬉しいものなのだろうか。
「ところで春香ちゃんはいつからホワイトウイングに入ってるの?」
「そうですね、高校に上がるのと同時くらいだったから……2年前ですね。あたしが4人の中だと1番早かったです。1番年下ですけど」
そのとき玄関の呼び鈴が鳴り、ぞろぞろとホワイトウイングの残りのメンバーが入ってくる。
あの青野って女、またいるし……講義棟裏で襲われたのを加味しなくても、乱暴できつそうな雰囲気から生理的に苦手な人だ。
「皆さん、ごめんなさい。私が黒の一族に加担したばっかりに、こんなことになって」
「いや、君が動いて証拠を残さなければ余計に月夜女を探すのに時間がかかっただろう。その点では君に感謝している」
私がホワイトウイングに見つからないようにもっと慎重に動いていれば、月夜女様も殺されずに済んだ。
2人でホワイトウイングを倒すって約束したのに、私が足を引っ張ってどうするのよ。自分の軽率さが恨めしい。
「力も抜けきったようだし、この御神刀を手に持ってみてくれないか」
晴川は長細い袋から鞘に収められた刀を取り出し、私に渡してきた。これが月夜女様を葬った御神刀。
これさえなければ黒の一族は両翼を切り落とされることなく、魔法でダメージは与えられても殺すことまではできない、
と月夜女様から聞いたことがある。これさえなければ……しかし今この刀を奪ったところで意味がない。
もう黒の一族は全滅して、この世にいないのだから。
「どうだ、熱かったりしないか?」
「いえ、何とも無いです」
嘘だ。おそらくこの刀は黒の力を感知することもできるのだろう。
火傷するほどとまではいかなくても、刀を熱く感じたのは確かだったからだ。
晴川は刀を袋に戻すと、今度は紙切れを渡してきた。
「これは……初めて見ましたけど、小切手ですか?」
「よく知ってるな。使い方は自分で調べるなり人に訊くなりしてくれ」
「この部屋の修理代ってことですか?」
「それもあるが、口止め料も兼ねている」
部屋をざっと見る限り、壁を張り替えたり窓ガラスを新しくしたりといった大掛かりなものは既に終わっている。
つまりこの小切手に書かれた「100,000」の殆どが口止め料ということだ。
「いいか。例え親にもこのことは話すな。ネットなども論外だ。もし誰かに話したら……殺すからな」
ただの脅しでないことはこの男の今までの行動からはっきりしている。そこまでしてあなたたちの活動を世間から隠したいの?
私が素直に承諾したところを見て、あいつらはぞろぞろとこの部屋から出て行った。部屋に残ったのは私1人だけ。
「はあ……どうも信じられないわね」
いつもそこの椅子で難しそうな本を読んでいた月夜女様。
机の上に開きっぱなしになっている本のタイトルはIntroduction To Modern Economic Growth……近代経済成長とか、
どこからこんな分厚い本を持ってきてるのよ。いつの間にか、本棚の本の半分は月夜女様が持ってきた本に占領されている。
ここに来たばかりのときは本格的な学術書ばかりだったけど……語学系以外は何でも揃っているみたいだ。
心理学、物理学、経済学、地学、その他色々と文系理系和書洋書に偏りが無いばかりでなく、
どの本も今私が受けている教養レベルより一段上の専門書ばかりだった。
この内容を読んで理解するにはそれなりの前提知識が要求されるはずだけど、
もし全て理解できていたとしたら世界でも珍しいオールラウンダーの秀才と言われたかも。
伊達にいつも本ばかり読んでいるわけではなかったらしい。そのような硬い本ばかりかと思えば、
「『拷問・処刑・虐殺全書』……題名だけで怖い本ね」
そんなふうには見えなかったけど、ひょっとして月夜女様の趣味なのかな?
だとしたら、随分と物騒な趣味を持っていたみたいだ。全然気がつかなかった。
それともう1冊、気になるタイトルの本があった。
「『いちばんわかりやすいソフトボール入門』この本だけすごく浮いてる……」
- 言ってくれれば手取り足取り教えてあげたのに。まずあの長い爪を切らないとダメだけど。実は意地っ張りだったんだ、月夜女様。
第一、いなくなったら教えてあげられないじゃない。
ソフトボールは敵味方あわせて18人いないとできないのに、誰とやろうと思ってたのよ。
フォームの解説に使われているピッチャーの連続写真が、水分を吸ってふやけた。
「許さない……晴川、何回殺しても殺し足りないわ……」
春香ちゃんまで巻き込んで。社会の影でこそこそと。この10万円だってお前にとっては端金なんでしょう。
絶対に根城を押さえて、悪夢を見させてやる。
仕返しなんて温いもので終わらせない。晴川の全てをぐちゃぐちゃに汚してやる。晴川の全てをめちゃめちゃに壊してやるんだから。
信頼も、結束も、絆も、友情も、愛情も、全部。私が歪んだものに変えてやる。
月夜女様を殺したことを、心底後悔できるようにね。
彩は涙を洗面所のタオルで拭くと、春香に連絡を取り始めた。
月夜女に植えつけられた復讐心に囚われて周りが見えなくなっている彩は、
朝日が窓から差し込んで作られた自分の影にうっすらと大きな翼のようなものが映っているのに気付くことはなかった。
春香ちゃんに連絡を取ってみても、「答えられません」の1点張りで全く情報を得ることができなかった。
おそらく晴川に堅く口止めされているのだろう。私を信用している春香ちゃんならどうにかなると思っていただけに、かなりショックだ。
そうなると、私が知っている人で且つホワイトウイングと接触のある人といえばあの女しかいない。
「青野夏菜、ね……」
春香ちゃんがダメな以上、あの女に訊いても結果は見えている。それでも根気よく尾行し続ければ何か掴めるはずだ。
春香ちゃんは質問攻めで警戒されてしまったから尾行の対象としてはアウト。
長丁場を覚悟しないといけない。講義を全部休んででもあいつらの根城を突き止める。
四六時中透明化で青野とかいう女を付回した結果、大学の試験期間直前にあいつらの根城を突き止めることができた。
とあるビルのエレベーターの操作盤が鍵になっていて、特定の操作をすると本来存在しないはずの地下に行くようになっていた。
降りてから少し歩くと透明化と転移を封じる装置があり、尾行はここで中断された。
頑丈そうな扉の前には重厚な銃を構えたガードマンが2人もいて、
その2人による許可証らしきものの確認、磁気による認証、暗証番号、指紋、瞳孔、静脈のチェックとセキュリティ面には穴が無い。
最も厄介なのが透明化と転移を封じる装置で、これのせいで「扉が空いている隙に潜り込む」ということができない。
でも、警戒されていないうちに近付くことができれば……。
慣れない尾行で神経が磨り減っていた私は、いつもの私なら絶対にやらないような暴挙に出てしまう。
頑丈そうな扉の前まではすんなりと入れた。ここからが本番だ。
「すみません、晴川さんに呼ばれてきたんですけど、今、中にいますか?」
「ここ最近はずっと篭りっきりだから、いると思いますが……一応許可証を見せてもらえますか?」
「許可証は……これよ!」
「うっ……ああ……」
強い暗示をかけた魔眼で片方を戦闘不能にし、もう片方には弾幕をお見舞いする!
「な、何者だ!?」
私の弾幕を全身に食らい、瀕死の重傷を負いながらもガードマンは反撃してきた。早さを重視しすぎて威力が不十分だったらしい。
銃弾が右の太ももを掠めて走れなくなる。
「痛っ、しぶといわね!」
そこに初めて人の命を奪うことに対しての躊躇いは微塵も無かった。
ただ、やらなければ自分がやられる。当たり前の生存本能がガードマンの頭に風穴を空けた。
「こ、殺しちゃった……」
瞬きをしなくなった眼で見つめられると自分がこの人の命を終わらせたんだという実感が遅れてやってきて、
爽快感と罪悪感が混ざった複雑な気分になる。やっぱりこの力は人に当てると簡単に命が奪える凶器に違いない。
でもこれから敵の根城に侵入してこれを使ってたくさん人を殺さないといけないんだ。こんなところで動揺してなんかいられない。
- 情報を無理矢理引き出したガードマンの精気を吸い尽くしミイラみたいにしてから、私は頑丈そうな扉をどうやって突破するか考えていた。
元々はガードマンを操って扉を開けさせようとしたけど、彼は扉を開ける手段を持っていなかった。
ガードマンにも中に入らせないとは徹底している。開錠装置をハッキングして破ろうにもそんな機械も技術も無い。
「やっぱり強引に扉を壊すしかないのかな……」
装備を整えてまた後日、なんてやっていたら警備が厳しくなって余計に侵入しにくい。
軽く撃っただけでもコンクリートを貫通するくらいの威力だ、思いっきり力を込めて撃てばヒビくらいは入るかもしれない。
前に試し打ちしたときには舗装された道路が大きく陥没するくらいだったから、ひょっとしたら……。
私はこれでもかというほどゆっくり時間をかけ、掌に意識を集中させる。
フルパワーの威力が通用するかわからないけど、やってみるしかない。
「いっけえええぇぇーー!!」
掌から50センチ程離れた地点から赤黒い光が迸り、轟音が響くと共に土埃が舞い視界が遮断される。
同時に私の体は力を使った反動で後ろに吹っ飛び、硬い壁に背中を叩きつけた。
「いたた……これ、威力を上げすぎると反動が大きくて使いづらいわね」
力の消費量もはっきりしないし、威力がいくら大きくても毎回吹っ飛んで敵に無防備な姿を晒していたのでは、避けられたときにどうしようもない。
しかしその威力を目の当たりにしたとき、同時に私の理性も吹っ飛んだ。
あれだけ強固に見えた扉は床にわずかな痕跡を残すのみになり、天井は大きく抉れて大小様々な配線が剥き出しになっている。
避難訓練のときによく聞いた、けたたましいベルの音が反響されて聞こえてくる。
これだけの力があれば――
まだ20にも満たない女子大生が持つにはあまりにも強大なその力は、彼女の恐怖心を全能感で塗り潰すのに十分だった。
侵入を食い止めるためのシェルターが何重にも降ろされ行く手を阻むが、
入り口の扉を破壊できた私にとっては数秒の時間稼ぎに過ぎなかった。
「これだけ暴れて誰とも会わないっていうのは妙ね」
もし武装した警備員みたいなのがぞろぞろ出てきても、まとめて吹き飛ばせばいいけど。
シェルター以上に厄介なのが複雑な内部構造で、案内板らしきものも全く見かけないので探索はかなり非効率だった。
どの程度の広さなのかわからないと、力の配分もできない。再びシェルターが私の進路を妨害する。
「そんなもので私を止められると思ってんの?」
これまでに何枚も壊してきたように、そのシェルターも壊そうとした。
だが、壊れない。壊せなかった。
そのシェルターだけが特別頑丈なわけではなく、あれだけスムーズに出せていた「赤黒い光線」が全く出なくなったからだ。
調子に乗って無駄撃ちし過ぎたのかもしれない。
体は火照っているだけで特に疲れているわけでもない。転移と透明化はこの建物内でも無効化されているらしい。
もっと慎重に行動するべきだった。
冷静に考えれば、敵陣に乗り込むというのに足首まであるふわふわのフレアのスカートなんて穿いてくるのが馬鹿げている。
いくら私が普段丈の長いスカートしか穿かないにしても、今日くらいは動きやすい服装であるべきだった。
「あなたは既に包囲されている。大人しく投降しなさい」
メガホンの耳障りな音声が聞こえてきたので振り向いてみると、
どこから湧いてきたのか盾を構えた機動隊らしき集団が通路にぎっしりと詰まって私の退路を塞いでいた。
どうやら私が力を使い果たすのを待っていたらしい。
体が熱くて流す汗とは別の、嫌な汗が腋を湿らせる。
このまま拘束されれば、当初の目的である晴川に会うことはできるだろう。しかしそこで反撃の機会が与えられるとは思えない。
体がすごく熱い。緊張しているから?
いや、違う。
なんなのよ、この熱さ。風邪や運動で体が火照ってるとか、そんな生易しいものじゃない!
「はぁっ、はぁ……まだ……まだ、終わりじゃ……終わりじゃない……」
「取り押さえろ!」
たくさんの足音が迫ってくる。こんな人数、丸腰の私に太刀打ちできるわけがない。でも、ここで諦めるわけには……。
「私は、月夜女様のためにも、ここで、終わるわけにはいかない……!!」
- 全身の細胞が燃えてる……みた……い。
「あああああアアアアア!!」
苦しくて前屈みになっていた私の背中から、服を突き破って勢いよく何かが生えてくる。
その生えてきたものはすっぽりと私を包み込み、突撃してくる機動隊の動きを止めさせた。
「これは……翼?」
よくある天使の翼をそのまま黒くしたような翼。月夜女様の翼にそっくりだ。
それに全身に力が漲るこの感じ……今までに経験したことがない、心地よい高揚感。
「怯むな!先手を取って攻撃される前に倒せ!」
しまった、銃?!
慌てて私はそれまで力が使えなくなったことも忘れて障壁を出そうとした。障壁は出たものの反応が遅く、何発かが私の急所を襲う。
しかしその銃弾は私に着弾することはなく、私の目の前で淡い紫の壁に当たって弾かれた。
「おい、あれ……通常武器が一切効かないっていう」
「黒の一族に例外なく存在する全方位型障壁、闇界障壁……これがある相手だと俺たちには攻撃手段が無い。
もう晴川さんは絶滅したと言っていたが、生き残りがまだいたとは」
闇界障壁……そういえば私も月夜女様に訊いてみたことがある。
これがあるからホワイトウイングは魔法の使える特殊な人材をわざわざ育てる必要があったらしい。
障壁だけでなく、きちんとあの光線が出せるかどうかも確かめておかないと。
この集団も、攻撃手段がなくなったのなら早く逃げればいいのに。命が惜しくないのかな?
「避けないと、死ぬよ?」
軽く溜めたつもりだったけど、機動隊の大半を床ごと消し去るには十分な威力だった。
光線の通った後は死体すら残らず、中途半端に半身だけ削り取られた人がのたうちまわっている。
大量虐殺という背徳感を伴う行為に、酔ってしまいそうになる。
「えーっと、まだ生きてる人は……なんだ、いるじゃない」
壁際でかろうじて光線をやり過ごした数人が銃を地面に降ろして両手を挙げている。
私から逃げ切れないことがわかっている、そこそこ頭の切れる集団のようだ。
「晴川のいるところまで行きたいのだけど、誰か案内してくれる?案内してくれたら大人しく帰してあげようかな」
1人を除いて全員拒否したから、断末魔をあげる暇も与えず片付けた。全員拒否すれば誰かを操って連れて行かせるだけだから、
余計な手間がかからなくてよかった。どんなに組織第一に育てられても、どこにでも自分の事が一番大事な弱い奴はいるものだ。
大きな部屋に出た。まず巨大なスクリーンが目に入る。スクリーンにはこの建物内のあらゆる場所が表示されていて、
どうやら監視カメラの映像らしい。見たこともないコンピュータがずらっと並べられていて、この部屋が司令室なのは一目瞭然だった。
しかし、肝心の晴川の姿が見えない。入り口から見えない死角に隠れているのだろう、と思い不用意に一歩踏み込んだのが不味かった。
ここは敵の本拠地なのだから、どんな罠があってもおかしくないのだ。
私の視界に晴川が入ったときには、彼の持つ御神刀が翼を切り落とす寸前。
「何……御神刀が通用しない?!」
機動隊の銃弾を弾いたのと同じ、淡い紫の障壁が晴川の刀を防いでいた。もしかしてこの障壁って御神刀も防げるの?それって……。
「お前、ぼうっとするな!早く逃げろ!」
「はい!」
私が虚を突かれている間に、案内を頼んだ人に逃げられた。逃がすということは、彼がいても足手まといにしかならないと考えたのだろう。
「で、これからどうするかだ」
晴川は私から軽い身のこなしで間合いを取り、警戒を緩めないままで私に話しかけてきた。
「そこのスクリーンで全部観させてもらったが……お前はあの月夜女を匿っていた天道彩で間違いないな?」
「そうね。そして月夜女様を殺したのもあなたで間違いないわね?」
「ああ。しかし、あのときのお前は確かに黒の一族ではなかった。黒の一族なら御神刀が持てないからな」
「へえ、やっぱりあれはそういう意味があったのね」
軽く翼をはためかせただけで、ふわりと体が浮き上がる。
もちろん魔法の補助があるからこの浮力が得られているのだろうけど、最初から立ち位置で人を見下せるのは気分がいい。
「ここに乗り込んできたということは、俺を殺しに来たのか?」
「殺してしまったらそれで終わりじゃない。私がしたいのは『復讐』よ。あなたにはこれからたっぷりと苦痛を味わってもらわないと」
「つまり俺を生け捕りにするってことか?ついさっきまでただの人間で、力の使い方も戦い方もわからない小娘が……自惚れるな!」
- 「自惚れてんのはどっちよ!?黒の一族が気に入らないからってこの世から消そうとするなんて、そんなことが許されると思ってんの!?
絶対に許せない……あなたを……お前を、許さない!!」
怒りに任せて光線を乱射してみても、晴川は軽々とかわしてしまう。それに、当たり所が悪くて殺してしまっては大変だ。
貫通力を抑え、力の差を見せ付けるだけでいい。戦うのが怖かった数ヶ月前の私とは別人みたいに落ち着いている。
晴川の攻撃を全く受け付けない安心感もあるけど、晴川の戦闘経験ではどうにもならないほどの力の差が肌で感じられた。
「どうした?俺を生け捕りにするんじゃなかったのか」
「そうやって挑発してもダメよ」
「それに……時間をかけると増援がくるぞ?」
晴川は既にかなり息が上がってきていた。避けきれずに何発か食らってしまった影響もあるのか、最初のときより明らかに動きが鈍くなっている。
「大丈夫よ。もう終わりだから」
ばら撒いた弾の1つが刀に当たり、澄んだ音を立てて晴川の手から離れる。
刀はくるくると回転して離れた位置にある机のキーボードに切っ先が刺さった。
「くそ、ここまでか……」
「随分と粘ったけど、お前の体力より私の力のほうが上だったみたいね。じゃあ、私の言うことを聞いてもらいましょうか」
「何だ、俺を操り人形にしようってのか」
御神刀が手から離れて追い詰められているはずなのに、こいつの顔に疲れは見えても焦りは全く見えなかった。
痛めつけ甲斐のある、いい精神をお持ちみたいね。
「それだと面白くないわ。復讐は相手の幸福を刈り取り苦しみ悶える顔を見て初めて成功したといえるのに、
それをしないなんて本当にもったいない。私の命令はこれよ」
晴川の顎を手で持ち、無理矢理私と視線を合わせる。これがここに苦労して潜入した1番の目的だ。
「生きなさい。精根尽き果て、周りに誰もいなくなっても、自らの人生から逃げるな。醜いまでに生にしがみつきなさい」
捕まえた。
お前を殺していいのはこの私だけ。死んであの世に逃げるなんて許さない。
他の誰にも殺させはしない。死にたくなっても死なせない。死にたいとすら思わせない。
これも、月夜女様と同じ追われる側の気分を存分に味わってもらうため。
これから本拠地を潰されて私に怯えながら彷徨ってもらうのに、簡単に心が折れてもらわれたら困るから。
今の私の力をもってすれば、ガチガチに行動を縛って飼い殺すのは後からいくらでもできる。
まずは私の見えない檻の中でじわじわ追い詰められる恐怖を味わうがいいわ。
「今の、暗示ってヤツか」
「そうね。わざわざかけなくてもよかったかもしれないけど、私が殺す前に死なれたら困るし」
「当たり前だ!お前のような黒の一族を全滅させるまでは、俺は死ねない!」
私に負けて何をされても文句が言えない立場のくせに、威勢だけはいい男だ。
「いつまでそんなことを言っていられるかしら?正義が必ず勝つのなら、世の中こんなに腐敗していないわ」
私はキーボードに刺さったままの御神刀を近くでじっくりと眺めた。あの時は柄と鍔しか見えてなかったからよくわからなかったけど、
刃を見ると今まで斬られた黒の一族の怨恨が溜まっているのかかなりくすんでいて、お世辞にも綺麗な刃とは言えない。
「ふーん、これが御神刀……薄汚い刀ね」
何気なく刀を掴もうとすると、バチッと火花が散って体に鋭い痛みが走る。
刀に黒の一族が触れないようにまじないが仕掛けてあるみたいだ。
「言っただろう、黒の一族は触れられないと」
「前に触ったときにはちょっと熱いだけだったんだけどねえ」
「お前、やはりあのときは嘘を……」
その御神刀ごと吹き飛ばす、強烈な閃光が私を襲った。眩しくてよく見えないけど……この火力の光線を撃つのは青野しかいない。
「よっしゃー!クリーンヒット!」
「晴川さーん、助けに来ましたよー!」
もう自分が何人も人を殺しただからだろうか。戦いに対する恐怖が全くない。不思議とこいつらに負ける気がしない。
これでクリーンヒット?笑わせないで。
「あれ?確かにクリーンヒットしたはずなのに……無傷?」
「赤坂!青野!お前らの攻撃はこいつに通用しない!黒松が到着するまで時間を稼げ!」
そうやって普通に春香ちゃんを仲間だと思ってるのがムカつくのよ。
無理矢理洗脳して戦いに巻き込んでるくせに。春香ちゃんは正義の味方気取りの男の片棒を担ぐような人じゃない!
- 「春香ちゃん、騙されてはダメ!あの男のやろうとしていることは、ただの弱いもの虐めよ!
少数民族を数の暴力で虐げているだけなの、春香ちゃんならわかるでしょ!?」
「え……どうして黒の一族があたしの名前を知ってるの?」
私に名前を呼ばれた春香ちゃんは信じられないといった様子で目を見開いていた。
私には春香ちゃんがそのような反応を示すのが信じられない。
「私よ、先輩の天道彩よ!もしかして、わからないの?!」
「軽々しく先輩の名前を騙らないで!先輩は決して黒の一族なんかじゃありません!普通の人間です!」
「そんな……この前、アパートの駐車場で戦ったときに会ったばかりじゃない!」
「その程度の辻褄合わせが通じると思いましたか?どうせ遠くから見ていただけでしょ?」
ダメだ、おそらくホワイトウイングに関係のない話でないと信用してもらえない。
「小学生のときにたくさん遊んだでしょ!?一緒に廃ビルに肝試しに行ったじゃない、忘れたの?
高校のときは学校の勉強いっぱい教えてあげたでしょ!」
「……さてはあなた、先輩の記憶を覗きましたね?先輩と肝試しに行ったのは覚えていますけど、あなたと行った記憶はありません!
勉強を教えてもらったのもあなたではありません!!」
「だから私がその先輩だって言ってるじゃない!信じてよ!どうして信じてくれないの!?」
「春ちゃん、みえみえだからわかると思うけど、あいつは私たちの心を乱して戦意を下げようとしてるんだ。
まともに相手をしないほうがいい」
どうして私の言うことは聞いてくれないのに、あの青野とかいう女の言うことには素直に従うの?もう……手遅れなの?
仲良く勉強を教えていたあの頃の関係には戻れないの?
「晴川さん、うわっ、大変!すぐに治癒かけますね」
「ああ、すまない白石……」
続々とあいつらの仲間が増えてくるけど、いくら数が増えようと関係ない。
誰が来ようと完膚なきまでに叩き潰して、自分たちの今の立場をわからせるだけだ。
固まって防御しようとしていた4人をまとめて吹き飛ばし、その反動で壁に叩きつけられた体勢をゆっくりと立て直す。
私とこいつらの単純な火力の差は歴然としていた。
「反動の重力制御もできてない初心者のくせに、この威力はないわ……」
よろよろと最初に立ち上がったのは、直前まで私の光線を相殺していた青野だ。1番華奢で体力もなさそうなのに、根性だけは一人前らしい。
「あら、わたしが最後?ごめんなさいね、わたしが遅くなったせいで苦戦を強いることになって」
ホワイトウイングの5人目……最後の1人か。
「わたしが引きつけておくから、白石さんはみんなに治癒を!」
「すみません、お願いします」
肩まである栗色の髪を左右2つの黒いリボンで半端に纏めていて、
はっきりした顔立ちでさらに真っ赤なTシャツなので遠くからでも非常に目立つ。
黒で揃えたスカートとサイハイソックスは青野と同じだが、青野の地味なグレーの服と比べると派手さだけは雲泥の差だ。
「気をつけろ黒松、ヤツは戦い慣れてはないが今までの黒の一族とは桁が違う!」
戦闘経験の絶対的な差はどうしようもない。しかし、それをものともしない能力差が今の私にはあった。
あいつらのどんな攻撃でも私の闇界障壁は破れてないから、私の攻撃を避け続けることしかできない。
「わたしたちが2年間でどれほどの黒の一族を討伐して経験を積んできたか、見せてあげるわ!」
その赤い服の女の言葉に反して、戦況には大して影響がなかった。
2年間の経験がどうした。そんなもので覆しようのないほどの力の差の前には無意味なのよ。
「せぇい!……?!なにこれ、かった……」
「これならどうよ!ゼロ・スターライトカノン!!」
背後から至近距離で攻撃しようと、直接殴打でこようと結果は変わらない。
「えーと、私たちの術が全然通用してない?なんで?」
「なんだあの闇界障壁は……青野、黒松、一旦下がれ。アレを使うぞ」
アレ?アレって何のこと?まだあいつらに手札があったなんて……。
アレが何を指すのか思案しているうちに、晴川の手から黒っぽいものが投げられる。
黒っぽいものが何なのか私が把握する前に、目が眩むような閃光と耳が壊れるような大音響が意識を丸ごと刈り取った。
うあ……頭がガンガンする……。閃光弾とかどう対応しろっていうのよ。とにかく、体勢を立て直さないと……でもまだ目がよく見えない。
これだけ無防備な格好でいればいくら闇界障壁が守ってくれていても限界な気がするが、今のところ体に痛みは感じない。
- 「むむ、やはりこの闇界障壁も自分の意思で解除しない限り常時発動するタイプか……」
「晴川さん、あんまり無理すると刃がこぼれちゃいますよ」
「冬子のほうも全然ダメだね、ヒビすら入ってないじゃん」
「わたしの手のほうが痛いんだけど……足でやろうかな?」
次第に目もはっきり見えてくる。
晴川の突き刺した刀が、闇界障壁に1筋の亀裂を作るのを他人事のようにぼうっと眺めてしまっていた。
「何してんのよ!」
「あと一息だったのに!」
私が一喝して5人が散らばると、亀裂はみるみるうちに修復されて周りと見分けがつかなくなった。
「防御力もだが、再生速度もハンパじゃないな、ありゃ」
「ど、どうしましょう……そろそろ私の魔力も尽きそうなんですけど」
「仕方ない、退却だ!別の対策を練るぞ!」
「ちょっと、ここを捨てる気!?どこに逃げるのよ?」
「俺に当てがある。逸れないように皆ついて来い」
閃光弾にさえ気を付ければ、あいつらは私に何もできない。無理に追いかけなくてもよさそうね。もう目的は全部果たしたし。
春香ちゃんはこれからじっくり洗脳を解いていけばいい。
春香ちゃんだけじゃなくて、全員するつもりだけど。晴川に孤独もたっぷり堪能してもらわないと。
「もう1回これを食らいな!」
また閃光弾!今度はまともに食らわないように目をつぶって耳を両手で塞ぐ。これだけ防御すれば閃光弾も大丈夫なはず……。
しかし、全く破裂した気配が無い。
「しまった、今度は煙幕!」
気付いたときにはもう遅い。煙幕をよくわからずに恐がっていた間抜けな私だけが残っていた。
あいつらがいなくなってから人気の無くなったホワイトウイングの本拠地内で、私は大きな鏡のある所を探していた。
「まあ、トイレでいいか」
自分に生えた翼がどうなっているのか気になる。私の意志で動かせるということは、
神経も筋肉もきちんとしているということだし、構造は触っただけだとわかりにくい。
鏡に映った自分の姿を見て、目を疑った。
「え、これって……月夜女様?」
よく見るといつもの私であることは間違いない。髪も月夜女様に比べたら短い。
それでも、自分を月夜女様と見間違えるのに十分な条件は揃っていた。
ブラウスを破って生えてきた大きくて烏のような黒い翼。
前は髪に隠れていたのに、髪を押しのけて見えているピンと尖った耳。
一昨日短く切ったばかりなのに、今見ると長く鋭く伸びている爪。
そして、鏡を見て初めて気付いた、透き通った真紅の瞳、猫のように垂直に切れた瞳孔。
少し睨んでみるだけで、自分でも怖いくらいの顔が鏡に映っていた。本気で凄んでみると、自分の顔なのに背筋が凍る。
「フフフ……そういうことね……」
私が天道彩だって信じてもらえないわけだ。春香ちゃんがわからないのも無理はない。纏う雰囲気が違いすぎるもの。
ただの人間だった頃の私は、自分で言うのもなんだがどこから見ても真面目な優等生という空気しか纏っていなかった。
それが今はどうだ。極悪非道の限りを尽くす悪魔か、世界征服を目指す魔王といったところかしら?
いいか、それでも。
月夜女様が遂げられなかったことを、私がやってあげる。
私はポケットから携帯電話を取り出し、妹の蘭に電話をかけた。
「もしもし、お姉ちゃん?いっつもメールなのに電話するなんて珍しいね、何かあったの?」
「いや、そっちに帰る前に蘭の声が聞きたくなってさ」
- 「あはは、お姉ちゃん、テスト前にホームシック?そりゃー、初めての1人暮らしで不安なのはわかるけどさ、
お姉ちゃんなら彼氏とかもういるんでしょ?」
蘭は彼氏という存在を過大評価しすぎている気がする。男なんて上辺だけの優しさを少し見せるだけで、
後は何もしなくても向こうから勝手についてきてくれる金づるでしかない。
むしろ最初から何もしなくても色々と擦り寄ってくるから、私にとっては邪魔なだけだ。
「いや、まあ、そうかもね……ところで、テスト期間が済んだらすぐにそっちに帰るってお父さんに言っておいて」
「はーい。私も楽しみに待ってるから、テスト頑張ってね」
「うん、それじゃ」
テスト?頑張るわけないでしょ。単位なんてもう要らないのにさ。
もうあいつらに怯えながら暮らすこともない。今度は逆に私があいつらを怯えさせる番。
蘭は今の私の姿を見たらどんな反応をしてくれるのかしら。
- 私の地元は街灯もあまりないため夜になるとかなり暗くなる。駅前ですら寂れていて全く賑わっていないので、
黒の一族が住み着くには最適だったのだと今更になって気がついた。都会だと人目が多くて狩りもしにくい。
でも、それは月夜女様のように力が弱くて、自分たちが狩られる側でもあったときの話だ。一方的に狩る側に回ってしまえば、
そんなことは考えなくてもよくなる。それだけの力があれば、あいつらのことなんて気にする必要はないのだ。
真面目に試験を受けるのも馬鹿馬鹿しいので、テスト期間中はこの力についての理解を深めていた。
今までは空間転移、透明化、治癒くらいしか使ったことがなかったから、他にどんなことができるのか把握していなかった。
頭の中に知識としては入っていても、実際に使ったことのない部分のほうが多かったのだ。
どうしてこんなに便利なものを最初から使おうと思わなかったのだろう。
最初から遠慮なく使っていればわざわざ勉強なんかして大学に入る必要もなかったし、月夜女様も死ななくて済んだのに。
誰か仲間が欲しいと思った。もし世界が私に跪いても、1人だと手に余る。
いや、関係が対等な仲間じゃない。私の言うことを何でも聞いてくれる、下僕が欲しい。魔眼で洗脳したような操り人形じゃなくて、
黒の一族の手下。どうせ手下にするなら親しい間柄がいい。となると、まずは霊ちゃんかしら。
「ただいまおかけになった電話番号は、電源が入っていないか、電波の届かない……」
仕方がない、霊ちゃんは後回しでいいや。メールじゃなくて、久しぶりに声が聞きたいし。えーっと、次は……次は……次……
アドレス帳にはたくさん友達のアドレスが登録されているのに、改めて連絡を取ろうと思える友達がいなかった。
小学校卒業と同時にここに引っ越して、新しい中学校では周りは幼稚園からずっと同じメンバーで排他的だったから馴染めなかった。
勉強やスポーツで頑張ればどうにかなると思ったがそれは逆効果で、嫉妬からか露骨に冷たい態度をとられることもあった。
私は普通に皆に認められようと思っていただけなのに。
高校だと霊ちゃんと春香ちゃんにべったりで他の人とあまり仲良くしなかった。
そのときは不自由しなくても、せめて同じソフトボール部の人とはもっと仲良くなっておくべきだったのかもしれない。
春香ちゃんは多分会ってはくれないだろう、状況が状況だし。
「ねえお姉ちゃん、聞いて聞いて!うちの部が全国に行くことになったんだよ!」
「へえ、すごいじゃない。うちの部ってそんなに強かったっけ?」
「実は今年から三鷹っていう先生が赴任してきてね、その先生めちゃくちゃバスケが上手いの!教えるのも上手だし、
何より『生徒に勝たせてあげたい』って思いがこっちまで伝わってくるっていうか……それに振る舞いがびしっとしててカッコいいし!」
要するに、きちんとバスケの経験があって指導力のある先生が顧問についた結果というわけね。
「それとね、これはもう聞いたかもしれないけど、今年のソフト部は2回戦敗退だったらしいよ。エースの人が怪我しちゃったとか」
「ふーん」
「それとさ、通学路にあるあの本屋が潰れて困ってんだよねえ……ひょっとしてお姉ちゃん、今日帰ったばっかりで疲れてる?」
空間転移で一気に帰ったのだから、疲れているはずがない。
「蘭、大事な話があるんだけど」
「え?ど、どうしたの、急に改まって」
「私ね、魔法が使えるようになったの」
「……えっと、冗談だよね?」
「冗談かどうかは自分の目で確かめてみて」
物質創造――テスト期間中に練習を重ねて、なんとか服くらいなら自在に作れるようになった。
力を手に入れたときには既に存在は認識していたが使い方が難しい上、
対価を払わずモノを手に入れるという行為に後ろめたさがあったから使わなかったのだ。
私はその力を使い、蘭の着ている服を変えてみた。純白のワンピース。
装飾のごてごてしたドレスはたまに失敗することがあるが、この程度ならもう楽勝だ。
「おおおー、本当だ。これさえできれば服買わなくても済むし、すごいよお姉ちゃん!」
「じゃあ今度は別の魔法を試すから、もっと近付いてくれる?」
ある程度蘭が近付くのを待ってから、私は椅子から急に立ち上がって蘭に抱きついた。
さあ、蘭……今から私が生まれ変わらせてあげる。
<ちょっとお姉ちゃん?……痛っ?!今度は……何の、魔法なの?声が、出せない……>
<それはね……蘭を黒の一族にする魔法だよ!! >
蘭の首に噛み付いて口が塞がっているので、頭に直接話しかける。
<黒の、一族?何、それ……嫌、私、そんなのになりたくない!離して!>
- ここからが肝心だ。月夜女様が私に力を与えてくださったときは、心はそのままで力だけ強引に押し付けた形になり、
覚醒に随分と時間がかかった。本来ならば、心を砕き、溶かしてドロドロにして、力を受け入れやすい形に再構成しないといけない。
一旦魔眼で先に私への隷属意識を縫い付けてからなら心の再構成は確実に成功するがそれは二度手間だし、
こうやって力を流し込むと同時に心を変容させていったほうがより早く力が体に馴染む、と月夜女様が叩き込んでくれた知識にある。
<大丈夫だから、そんなに怖がらないで。ねえ、蘭。この力を使うとね、世界征服も夢じゃないのよ>
<世界、征服?はは……お姉ちゃん、漫画じゃないんだからさあ……冗談はよしてよ>
蘭と会話を交わしながら、力を全身にじっくり浸透させていく。焦る必要はない。ゆっくり時間をかければ失敗しないはず。
<だって通常兵器は効かない、対策部隊も歯が立たないなんて、無敵以外の何者でもないでしょう?
せっかく邪魔者が誰もいないんだったら、好きに暴れてみたいと思わない?>
もしかしたら世界には私に対抗できる勢力があるかもしれないが、少なくとも日本の中には私を阻むことができるものはいない。
ただ、世界征服は最優先の目的ではない。いかに晴川を苦しめるかが第一で、世界征服はその目的のための包囲網みたいなものだ。
<お姉ちゃんが他にどんな魔法を使えるのか知らないけど、そんなことしたら困る人がいっぱい出てくるよ。
いくら自分が1番強いからって、していいことといけないことがあると思う>
<そんな弱者なんて私に何もかも搾取されるか、玩具にされてればいいんじゃない?どうして私がそんなことまで気を配らないといけないの?>
どうせぴいぴい文句を言うことしかできないのだ。そんなのは気にする必要がないし、目障りなら煮るなり焼くなりどうとでもできる。
私に歯向かったところで何もできやしない。
<酷いよ、それ。お姉ちゃん、どうしちゃったの?昔はそんな自分勝手じゃなかったじゃない……>
<昔は力がなかったから、自分勝手に出来なかっただけよ。
それにね、蘭。その困る人に蘭が含まれるのなら、私は蘭にも同じことをしないといけないわ>
<え?>
<私に歯向かっているのだから、当然でしょう。でも自分の妹にそれは気が引けるから、
一緒に世界を支配する側に来ないかって言ってるの。悪い提案じゃないでしょう?>
<う……うーん……>
蘭は何を迷っているのかしら?いつもべったりだった私とずっと一緒にいられる。強大な力も手に入る。
悪いことは何もない、いいことずくめじゃない。
<蘭は私のことが大好き。それは間違いないわね?>
<う……ん……>
<私も蘭のことが大好きよ。もちろん恋愛感情とか変な意味じゃなくて、妹としてね>
私のこれまでの行動から蘭への愛情は十分に伝わっていると思うが、
こうしてはっきり口に出すと自分の妹に愛の告白をしているようで恥ずかしい。
<お姉……ちゃん……>
蘭の意識が朦朧としてきたのがわかる。蘭の心が無防備になり、奥の柔らかいところが露になる。
<ぼうっとしてきた?気持ちよくなってきたでしょう。そのまま、ぼんやりしたままでいいんだよ……>
<んん……>
蘭の頭を優しく撫でて、反応が鈍くなったのを感じて背筋がゾクリとする。あともう一押し。
<蘭なら、私と一緒に来てくれるよね?>
<……やっぱり、お姉ちゃんは裏切れないよ>
頭がぼうっとして何も考えられないままの蘭から、心の奥底の言葉を引きずり出す。
<お姉ちゃんと2度と会えなくなるのは嫌だから、ついていくよ>
蘭のその選択は自由意志であるようで自由意志でない、鎖つきの自由意志。
<よかった。やっとわかってくれたのね>
力を受け入れる速度が上がっている。もう黒の一族である私を怖がることもない。蘭が自分から私の頭を自分の首に押し付けてくる。
<ずっと、こうしてたい……>
これまでも何かと私にべったりだった蘭だが、ここまで甘えられるのも久しぶりだ。最初に堕とすのを蘭にして本当によかったと思う。
<このまま、時間が止まればいいのに>
<そういう胸焼けしそうな甘い台詞は止めなさい>
<お姉ちゃん、ムードぶち壊しだよ……>
その甘い言葉とは裏腹に、蘭の心は手で直接触れられないほどに鋭く尖り、硬く、冷たく、原型を思い出せなくなるほど歪な形に変えられていた。
私はようやく蘭の首から口を離し、全身が弛緩した蘭をベッドに横たえる。体も十分に冷え切っていて、これならすぐに覚醒が始まりそうだ。
- 「あれ、もう終わり?」
「そうだけど、もっとして欲しかった?」
「なんか全身がすーっと冷えていって、心の底から凍えて、私が私じゃなくなるような不思議な感じがしてとっても気持ちよかったよ。
うーん、何て言うんだろ?例えようとしたけどそれっぽいものがないなあ……」
普通の人間に擬態していた変身を解く。既に黒の一族への警戒心は取り除いてあるので、蘭が怖がることもない。
「わあ、綺麗な翼……これって飛べるの?」
「もちろんよ。最初はちょっとコツがいるけど、そんなに難しくなかったし」
「最初は黒の一族が何なのかわからなくて怖がっちゃったけど、異形の怪物になるわけじゃないし、
これなら普通の人間と大して変わらないじゃん。……暑いからクーラーつけよっか」
ベッドから立ち上がった蘭の顔は紅潮していて、汗ばんですらいた。
「暑いの?」
「うん。体が火照ってるみたいで。これってさっきの魔法の副作用?」
「そうね、そろそろよ」
「え、何が……ぐ……」
蘭が膝を折って床に手を付きぶるぶると震え始めた。なるほど、きちんと手順を踏めばこんなに早く覚醒するものなのね。
「はあっ、ああ……暑い、体が熱いよ……し、死にそう……」
「大丈夫、私のときもそうだったから。もう少し我慢して」
「あ」
そのとき、蘭の背中から服をビリビリに突き破って真っ黒な翼が生えてきた。大きさも私のものと全く変わらない。
「ふふ……これが私の翼かあ……えへへ」
蕩けた顔で生えてきたばかりの翼を撫でる蘭の手は爪が鋭く尖っていた。
目も先ほど三鷹先生について語っていたときのようにきらきらした輝きは失われ、紅い色で氷のように冷たい印象を与えた。
「彩―!蘭―!ご飯よー!降りてきてー!」
階下から親が呼ぶ声が聞こえる。黒の一族である私たちは普通の人間と同じ食事をとる必要はないが……。
「ちょっと、この力試してきてもいい?」
「命を粗末にしたらダメよ」
「殺すなってこと?えーいいじゃん、どうせいても邪魔なだけなんだし」
少しは躊躇いってものがないのかしら。あんなに大好きだったのに。自分を育ててくれた大切な親でしょう?
ああ、でも私も蘭のこと言えないか。
「違うわよ。殺してもいいけど、一撃で即死させるなんてもったいないことはするなってこと」
「なーんだ、そういうことならいいや。お姉様はやらないの?」
「せっかくだし、蘭に2人ともやらせてあげるわ」
しばらく蘭のワンピースが血に汚れていく様を眺めていたが、どうも手加減ができていないらしい。
ついさっき力をあげたばかりだから、それも仕方ないが。これからゆっくり経験を積んで、私の僕にふさわしくなってくれればそれでいい。
時を同じくして、霊華は途方に暮れていた
「参ったなあ。ケータイなくすとか……悪用されたらどうしよう」
また電話帳にアドレスを登録し直さなければならない。同じ学部の人、サークルの人、バイト先の人……はどうにかなる。
問題は今すぐ出会えない人。高校の友達とか……。
「地元に帰ったら久しぶりに遊ぼうってあーやと連絡とろうと思ってたんだけどなあ。
まあ、クラス会は夏休みにやるって言ってたし、そのときに訊けばいっか!」
そのクラス会は2度と開かれることのないことを、今の霊華が知るはずもなかった。
黒の一族やホワイトウイングに関する情報が世間に全く漏れていないことを考えても、
晴川が警察やマスコミに何らかの操作を加えていることは明らかだった。
数えられる程度の業界の実力者を抱き込めば発信してもらいたくない情報を封殺することなど簡単なのだから、
まずはそれを逆に利用してあいつらを追い詰める。庶民感情の犯罪への憎悪や覗き見趣味を煽れば、立派なメディア・リンチの完成だ。
それに一旦火が付けば、あとは放っておくだけであいつらの情報も丸裸にできる。
- この戦いの目的は勝つことだけじゃない。勝つのは当然。どれだけあいつらを苦しめられるかが問題だ。
反省の言葉は要らない。反省したところで月夜女様を殺した事実が消えるわけではないから。
これからずっと、一生、罪を背負い続けるの。
8月下旬の午後7時ならば太陽は沈んでから時間があまり経っておらず、外はまだ十分に明るい時間だ。
その最中、恰幅のよい男が駅前で街頭演説をしていた。
「ぜひとも私、寺岡銀一朗に清き一票を……なっ、何だね君たちは!?」
大きな翼を広げて優雅に選挙カーの上に降り立った姉妹を見て、男は目を丸くした。
「あれ、おじさん私たちのこと知らないの?ダメだよ、最近のニュースくらいはチェックしとかないと」
「ちょっとそのマイク、私に貸してくれないかしら?」
一見選択肢が与えられているようで、拒否することは許されていない問い。
「まさか君は……月夜女姫!?ひいっ、命だけは助けてくれ!」
「ほんとに命だけでいいの?富と名声と健康を毟り取られてもまだ生きたいなんて、根性あるなあ」
「……」
全てを失い放浪する自分を想像したのだろうか、男は言葉を発することができずに青ざめている。
「蘭、やっちゃっていいよ。でもマイクは汚さないでね」
「ふふ、名前答えられたからサービスで楽に逝かせてあげるね、おじさん」
蘭がニヤニヤしながら素早くマイクを奪い取り、鋭い爪で男の喉を抉る。夥しい量の返り血で蘭の服はべとべとに汚れるが、
元々黒いキャミソールにロングスカートも黒だったので汚れはあまり目立たない。駅前の喧騒が一気にパニック一色に染まる。
「いいですかー皆さん。こうやって楽に逝けるのはすごく珍しいことだから、期待したらいけませんよー。はい、お姉様」
「今から1時間後に人・物を問わず無差別破壊をします。範囲は大体半径10キロ。巻き込まれたくない人はここから10キロ以上離れなさい。
……もっとも、10キロ離れたからといって身の安全は保障しませんけどね!アハハハハッ!!」
私がこうやって暴れる前に人を避難させるのは、無駄に人間を殺さないようにするからだ。
逃げ惑う人間を一気になぎ払うのも面白いが、いつもそれをしているとあっという間に人間がいなくなる。
人間がいなくなると私の精力を吸う相手もいなくなるからそれは困る。
足が竦んでしまったのだろうか。OLらしき人物が人気のなくなった交差点の真ん中でガタガタ震えている。
あのくらい怖がっていれば精力もかなり美味しくなっていることだろう……蘭もいないし、先に食べてしまおう。
「あうーーーっ!」
「あーっ!お姉様、摘み食い?!『1時間は人間を襲わない』って決めたのお姉様でしょ!ずるーい!」
ちっ、見つかったか。
「いや、この人があまりにも美味しそうだったから……つい」
「じゃあ私も貰う!」
「……そんなにがっつかなくても、分けてあげるわよ」
私だって最初は人の精力を啜ることに抵抗があったのに、蘭といえば覚醒してすぐに両親の精力を吸い尽くすほどに飢えていた。
味をしめた蘭は近所の人も無差別に襲い始めたので、人間がいなくならないように私がルールを決めたのだ。
無計画な乱獲は種の絶滅を早めるから避けなければならない。1時間で半径10キロだと、逃げ遅れた人間がそこそこ出てくる。
もし逃げられても範囲外にいる安心しきった人間を襲うだけ。もちろん蘭には内緒だ。
夜の闇を否定したいかのようにどんどん点けられていく照明を適当に壊していたら、予告していた1時間が過ぎたようだ。
ここからしばらくの間は蘭と別行動をとることにしている。2人でいるといつも獲物の取り合いになってしまうからだ。
それにしても、いくら私たちが全国を転々として暴れまわっているとはいえ、あいつらが全く反撃してこないのが気になる。
もう諦めたか、策を練っているのか。隠れていても事情を知らない人から臆病者と罵られ、私にボコボコにやられても多方面から非難の嵐。
どちらにしても詰んでいる。ここからどう動くのか楽しみで仕方がない。
力を存分に振るったせいで廃墟と化した元市街地を、女が足に包帯を巻いた男に肩を貸して歩いていた。
逃げ遅れたのだろうが、女のほうは男を置いて逃げれば助かっただろうに。つくづくお人好しな人物のようだ。
「もう少しで安全地帯ですから、頑張りましょう!」
「赤の他人の僕にここまでしてくれるとは、本当に申し訳ない。この礼は必ずさせてもらいます。お互い生きてここを抜けられたらですけど」
いきなり正面に回りこみ、2人の驚く顔を眺めようと思ったが……ん、この顔はどこかで見たことがある……?
「しまった、見つかった!」
「え……ど、どうしよう」
- 「お前……もしかして、東さん?」
場の空気が凍る。あれ、やっぱり他人の空似だった?
「そういうあんたこそ……天道さんね?」
やはり間違いない。高校のときに私が徹底的に叩き潰してやった東典子だ。こんなところで出会うとは、世間は狭い。
「今のうちに私を置いて早く逃げてください」
ただの怪我人に興味はない。今はこの女を再び嬲ることができるという興奮で頭がいっぱいだった。
顔があのときほどやつれてないということは、あれから立ち直ったのかしら。
「久しぶりね東さん、元気にしてた?」
「私をどん底に突き落とした本人がよくもまあ……テレビで見たときになんとなくあんたに似てると思ったけど、
まさか同一人物だったとはね。珠子を狂わせたのもあんたの仕業でしょ!」
「珠子?誰それ?」
「あんたを虐めてた北乃珠子さんよ!彼女、一人暮らしを始めてすぐに重度のホームシックになって、毎日高校で異常行動を起こすから、
今は精神病院で軟禁されてるらしいわ。それも今の化け物になったあんたの姿を見れば納得だわ」
ああ、確かいたっけ、そんな人。こいつから言われるまですっかり忘れていた。
「北乃さんには実験体になってもらったのよ。すっかり忘れてたけど」
「実験体……?人の人生を壊しておいて、何とも思わないの!?」
この女は何を必死になっているのだろう。自分だって羽虫の1匹や2匹潰したところで何とも思わないくせに。
「そうね、あえて言うなら『因果応報』かしら?」
「どう見ても優等生にしか見えなかったあんたが、こんなえげつないことをしてるとは信じられないわ」
典子は足元に転がっている手ごろな大きさのコンクリートの破片を拾い、ぽんぽんと軽く上に投げた。
「生憎このくらいしか武器っぽいものがないけど、これでも当たれば結構痛いはずよ!」
刺々しい破片は一撃で致命傷を与えることは難しくても、打撲による戦力低下は十分に見込める武器だ。
弾数もここなら申し分ない。この女のコントロールも悪くない。
ただしそれは私が普通の人間だったときの場合だ。コンクリートの破片は闇界障壁に阻まれ、乾いた音を立てて地面に落ちた。
「え……何今の……」
「ククク……アーハッハッハ!ああおかしい。そんなくだらないモノで私を傷付けられると思ったの?」
目に映るこの女の追い詰められた表情が、これからの食事の最高の調味料だ。
「お前じゃ、私に敵わない。身の程を知りなさい」
口の端に冷笑を刻みながら、私はこの女の首を鷲掴みにしてそこに指の爪を食い込ませた。
月夜女姫がいる位置からそれほど離れていない地点では、蘭が若いカップルを見つけていた。
美男美女とまではいかないが、2人とも付き合いが長いのか垢抜けた容姿をしている。
「ごめんなさい……私が忘れ物を取りに行きたいって言ったばっかりに……」
「落ち着け弓子、まだ殺されると決まったわけじゃない」
「そうそう、まだ諦めるのは早いよ。私には言葉が通じるんだから」
もちろん、言葉が通じるからといって話が通じるわけではない。全ては蘭の気分次第だ。
「私の言うことに貴方たちが素直に従ってくれたら、命だけは助けてあげてもいいよ」
ニタニタ笑っているその顔を見ると嘘である可能性も大いに考えられる。しかし他の選択肢は用意されていない。
「えっ、ほんとに?」
「まずは2人の名前を教えて欲しいな」
「大谷弓子です」
「……叶野善治だ」
「ふーん。じゃああなたたち2人にやってもらいたいことは……大谷さん」
「私?」
蘭は何もない空間から抜き身の刀を生成すると、2人の前に放り投げた。
目立った装飾がないのに高級そうなオーラを纏ったそれは、岩石さえも斬れそうな煌きを有している。
「この刀で叶野さんの喉を突き刺して」
2人以上で逃げている人間を見つけた場合に、蘭がいつもしていることだった。カップルの場合は必ず女に男を傷付けさせる。
男女ともにいい反応が見られるのでこの催しを蘭は毎回楽しみにしていた。
- 「え……善治……」
「弓子、いいんだ。俺はお前のためなら死ねる」
「おおっ、カッコいいねえ」
こんなに引き裂きがいのある絆は久々だよ、と2人には聞こえないように蘭はつぶやいた。
「でも、首を突き刺すなんてしたら善治が死んじゃうよお……ぐすっ」
「ああ、そこは心配しないでいいよ。たくさん人を殺してきてわかったんだけど、
大量出血にさえ気をつければ、喉を刺されてもそう簡単には死なないはずだから」
「私たちが助かる道は、それしかないんですよね……善治、ごめん……」
喉を刺してもすぐに死なせないというのは本当だ。
蘭は満足する量の精力を吸い取ってもまだ息が通っていれば約束どおり生かして帰すつもりでいた。
こうして愛し合う者同士が傷付けあう図というのは何度見ても飽きないほどに美しい、と蘭は2人の姿に見蕩れていた。
しかし弓子は構えたままで一向に動こうとしない。
「……ダメ!私には出来ない……無理よ」
弓子が刀を足元に落としてしまうと、善治が駆け寄り抱きついてよしよしと頭を撫でている。何とも模範的な彼氏さんだと蘭は感じた。
「なあ、月夜女姫の妹さん。俺が自分で喉を突き刺すのはいけないのか?」
「それじゃあ見せ物にもならないじゃん。ただの自傷行為なんて面白くも何ともない」
「そうかよ……じゃあ、これであんたの喉を突き刺したほうが手っ取り早いかもな!」
地面に落ちた刀を拾い上げ、そのままの勢いで蘭に踊りかかる。蘭の喉元目掛けて突き出された刀は、先端が欠けて淡い紫の壁に突き刺さった。
「なっ、見えない壁が……」
思わず蘭と目を合わせてしまった善治は、その顔に浮かぶ怖いくらいの笑顔に腰が引けてしまう。
「ねぇ、私今とっても機嫌がいいの……だから特別に正しい人の愛で方を教えてあげる」
腰が引けたまま、あまりの恐怖に声も出せなくなった。間違いなく2人とも殺される。
弓子を守らなくてはいけないのに、善治は蘭の目の前から足が一歩も動かせなかった。
「邪魔」
善治を軽く振り払った蘭は、ゆっくりとした足取りで弓子に近付いていく。
「い、いや……来ないで……」
弓子は尻餅をついたまま怯えた表情で後ずさろうとするも、すぐに蘭に顎を掴まれてしまう。
「ちょっとの間、私のお人形さんになってもらうだけだよ。意識も感覚もそのままにしておいてあげる」
つまり、自分の意図しない動作が全て自分のやったこととして記憶に刻まれるということだ。
「ほら大谷さん、私の目を見て」
「あっ……」
泣きじゃくっていた弓子の目から涙が引いていき、感情が削ぎ落とされていく。数秒も経たないうちに虚ろな表情を善治に向けていた。
「じゃあ貴方にはこれを。重いから落とさないようにね」
先に生成した質素な刀とは全く異なる、禍々しい装飾が大量に付けられた諸刃の大剣が弓子の両手に握らされた。
普通の女性には手に余る代物ということが一目瞭然だが、眉をピクリとも動かさずに弓子はその剣を善治に向けて構えた。
「叶野さん、だっけ?早く彼女を解放してあげないと、火事場の馬鹿力の使いすぎで壊れちゃうよ」
「この……外道が!弓子、目を覚ませ!」
「……」
弓子は善治の言葉を完全に無視し、無言のまま大剣を横に薙ぎ払った。
振り回す大剣を刀で受けようとした善治だが、防御しきれずに吹っ飛ばされてしまう。刀が折れなかっただけでも幸運だった。
「くそっ!なんて力だ、パワーが違いすぎて受けきれん!」
「男と女だもの、そのくらいのハンデがないと平等じゃないじゃん。それに呼びかけても無駄だよ。聞こえてはいても返事ができなくしてあるからね。
さて大谷さん、これから自分のすることをよーく覚えておいてね。あとで感想を聞かせてもらうから」
急所を狙わず、敢えて四肢を狙って攻撃してくる弓子の斬撃に善治の体力は瞬く間に奪われていった。
「やばいな、これは……」
振り下ろした大剣が地面に突き刺さると、それまで感情の起伏を封じられていた弓子の顔が初めて苦痛に歪んだ。
「ぜ……んじ」
「弓子、意識が戻ったのか!」
足をふらつかせながらも弓子に近付き両肩をがっしりと掴んで激しく揺すり善治は呼びかけたが、
返ってきたのは蚊の鳴くような小さな声だった。
- 「これ、以上……善治を、傷付けたくない、から」
蘭の呪縛に抗い懸命に言葉を紡ぐ弓子の姿に、善治は胸が熱くなる。
リミッターを外していた反動が一気にきたのか、今の弓子は善治よりも疲れきっていた。
「あいつめ、弓子になんてことしやがる!」
自由に口がきけるうちに、これだけは伝えておかなければならない。
弓子はその一心で、思うように動かない頭を振り絞って善治に自分の意思を伝えた。
「わたシを、ころシて」
「は?何言ってんだ弓子……そんなの、できるわけないだろ!」
「ありゃあ、ちょっと術のかけ方が甘かったかな。お姉様みたいに上手くやるにはもっと練習がいるかも」
瓦礫の山の頂に座って2人の様子を眺めていた蘭が、翼をはためかせながら側に降りてくる。
「退いて」
蘭は自分より背の高い善治を片手で突き飛ばすと、再び弓子の顔を覗き込む。
小刻みに震えていた剣を持つ手がしっかり固定されたのを確認して、蘭はにっこりと微笑んだ。
「勘違いしてるかもしれないけど、この術は私が死んでも解けないよ。彼女が死ぬか、私が自分から術を解くかの2つだけ。
貴方が死んだら術を解いてあげるけど、そうしたら彼女がどんな反応をするか、わかるよね?」
「なあ、1つ訊いていいか」
「別にいいけど、何?」
「俺たちはあんたの因縁の相手でもないし、あんたを狩るホワイトウイングでもない、ただの一般人だ。
それなのにどうしてこんな残酷な仕打ちをする?」
「理由?そうだねえ、お姉様に『命を粗末にするな』って言われたのもあるけど、やっぱり1番の理由は……」
蘭が嗜虐的な笑みを顔面いっぱいに貼り付けて口にしたその一言は、2人の心を粉々に打ち砕いた。
「滑稽だからよ」
善治の瞳には、救いようがないほどに堕ちた悪魔の姿が映っていた。
「晴川さん、聞こえますか?」
「どうした、黒松?」
「月夜女姫を視界に捕捉しました。現在若い女性を捕食中で無防備ですが、どうしますか?」
「全員合流するまでその場で待機。前回5人がかりで敵わなかったんだ、単騎突撃は自殺行為に等しい」
「できるだけ早く来てくださいよ。『月夜女姫の妹』の目撃情報もありますし、合流されると今度こそ勝ち目がありませんからね」
「ああ、努力する」
- ホワイトウイングで接近戦を担当している黒松冬子(くろまつとうこ)は、倒壊したビルの影から月夜女姫の様子を伺っていた。
呼吸を整え、バンデージを巻いた拳を握り直す。冬子が晴川から叩き込まれたのはルールのある1対1の一般的な格闘技ではなく、
純粋に相手を壊す武術だった。ナイフすら闇界障壁で弾かれてしまうため武器は一切使えず、
あくまで殴る、蹴るでしか黒の一族にダメージが与えられない冬子だったが、元々武道を嗜んでいたこともあり、
相手の飛び道具をかわして懐に入れるようになってからは敵の障壁を崩して攻撃の起点を作るのに重要な役割を担っていた。
本部を襲撃し、わたしたちを撃退したあの黒の一族の個体は「月夜女姫」と名前が付けられた。最初に誰が呼び始めたのかはわからない。
いつの間にかテレビや新聞でもそう呼ばれていたし、容姿も月夜女にそっくりで違和感がなかった。
しかし月夜女という名前自体は世間に広まっていないはずなので、月夜女姫自身が名乗り始めたのだろうと晴川さんが言っていた。
本部が襲撃されてから、わたしたちは各地の基地を転々としながら月夜女姫の行方を追っていた。
晴川さんはあり余るほどのお金とコネを持っていて、放浪生活でも初めのほうは大して苦に感じなかった。
でも、その財力とコネをちらつかせて従えていた協力者が次々と月夜女姫に引き剥がされていき、
それまで存在すら世間から隠されていたホワイトウイングがマスコミに丸裸にされた。
もちろんわたしたちの顔も割れ、「日本の平和を裏で守ってきた正義の戦士」なんて一時期は持ち上げられたけど、
次第に誰が流したのかわからない根も葉もない噂がこびりつき始めた。
月夜女姫とその妹が各地で暴れ始めてからはわたしたちが役立たずと罵られるようになり、晴川さんも様々な嫌がらせをされていた。
さらには予め1時間の避難する時間を与える慈悲深さ、それと清々しいまでの残虐さを併せ持つギャップ、
何者も寄せ付けない強さと美しさで月夜女姫を崇拝する人さえ出てくる始末だ。
あの人間離れ……いや、現実離れした美貌にわたしも少し羨ましいと思わなくもないけど、
それを足しても街を壊して暴れまわっている化け物を崇めるなんて馬鹿げてる。
何がカリスマよ。どうせ自分の住んでいる街が襲われたら一目散に逃げるくせに、人の苦労も知らないで。
なんで正義側のわたしたちが世間から叩かれなきゃいけないのよ。月夜女姫の印象操作のせいにしても、わけがわからない。
しかし、このまままた5人で月夜女姫を襲撃したとしても倒せる可能性はかなり低い。
なにしろ1回フルメンバーで挑んで、本体に傷1つ付けられずに負けているのだ。傷を付けたのは月夜女姫を守る強力な障壁だけ。
今まで戦ってきた黒の一族にも全員闇界障壁は存在していたけど、普通の銃とかは防げてもわたしたちの魔力を使った攻撃には無力だった。
御神刀でひびが入ったということは完全に無敵じゃない。それでも今のわたしたちの火力では壊すことがほぼ不可能な強度だった。
どんな強固な障壁も例外なく壊せてきたわたしの拳もあれには通用しない。
1回目の戦闘で苦戦しても、2回目で対策を立てれば倒せたこれまでの敵とは違う。
勝てる気がしない。でも、戦わなくてはならない。わたしたちが戦わなければ、黒の一族がこの国を破壊し尽くすだけだから。
今わかっている唯一の弱点は、わたしたちと違って月夜女姫は戦闘慣れしていないこと。そこを突くしかない。
で、どうしてわたしがこんなところに1人でポツンといるのかというと、索敵だ。
月夜女姫は街を破壊するときのみ単独行動することがわかっていて、ヘリコプターなんて目立つものを使うと2人がかりで襲われることもわかっている。
1人でも勝てそうもないのに、2人だと勝率は絶望的だ。
なので、大人数でバラバラに効率よく索敵して、後から合流するという作戦になった。
大人数とはいえ実際に戦うのは私たち5人だけだからそれ以外の人はあんまりいないけど。
今回はたまたま襲われた街の近くにわたしたちが滞在していて、月夜女姫の単独行動のうちに見つけられたというまたとないチャンス。
これを逃したら次はないかもしれない。
後は合流を待つだけだけど……通信機の位置表示を見ると全員かなり離れている。これは間に合うか――
「ねえ、そこの貴方。面白そうな機械持ってるじゃん。私にも見せてよ」
「しまった!」
- 月夜女姫を注視するあまり、後方の警戒が疎かになっていた。まさかこんなに近くに妹のほうがいるなんて!
ここはまず身の安全を確保しないと。それから仲間に連絡!
わたしは妹のほうから距離をとるべく、かつ月夜女姫に見つからないように瓦礫の隙間を全速力で駆け抜けた。
「晴川さん、妹のほうの襲撃を受けました!引き付けつつ、街の中央を目指します!」
「わかった!それと……」
引き付けるとは言ったものの、落ち着いて周りを見渡すと誰もいなかった。ひょっとして速く走りすぎて振り切ってしまったかしら?
「いっただきいー♪あれ、このマークって……ホワイトウイング?」
信じられない……あの速さについてくるどころか、回り込まれた?そんな!?
「おい、どうした黒松!応答しろ!」
「貴方がお姉様の言ってた晴川さん?はじめまして、天道蘭です♪」
ん、天道?どこかで聞いたことがあるような……。
「なっ、お前、黒松をどうした!」
「え、黒松?それって……」
「返して!」
通話に意識が向いている今なら取り返せると思ったけど、能力が未知数のこいつには無謀な賭けだった。
「嫌」
蘭は2メートルほど飛び上がり、わたしが拳を空振りした隙を狙って脳天に踵落としを食らわせてきた。
頭の中がぐらぐらして平衡感覚が保てなくなる。
もし蘭の履いているものが踵の尖ったハイヒールだったならば、これだけで頭が割れて即死していてもおかしくない。
「そうそう晴川さん。黒松さんだけど、早く助けてあげないとお姉様が何をするかわからないよ。何されるんだろうねえ……」
クスクスと影のある笑い方をして、蘭は通信機を地面に叩きつけると靴のつま先でグリグリと液晶部分を割って使い物にならなくした。
あの分だと通信機は生きているかどうかわからない。
「じゃあ黒松さん、何して遊ぶ?」
一瞬清廉な顔立ちに戻った蘭の顔が、すぐに狂気に塗り変えられた。
逃げることも叶わず、わたしは完全に蘭の玩具にされていた。
姉の月夜女姫と同じ性能の闇界障壁を持つだけでなく、姉より力を使いこなしていて戦闘自体も上手い。
おまけに得意の接近戦で打ち負けるとなれば、最初に蘭に見つかった時点でわたしの運命は決まっていたのかもしれない。
「黒松さん、治癒術かけてあげるからもう1ラウンドやらない?」
「ふざけ、ないで……ぐ……見下すのも……はあ……いい加減に……」
もう、体が倒れないように支えるだけの力しか残ってない。
動き辛そうなロングスカートのくせに月夜女姫とは段違いのあの機敏な動作……思い出しただけでさらに戦意が削がれる。
「だってさあ、私がかなり手加減したのにこれでしょ?まさかさっきので全力でした、なんてことはないよね?」
「……」
悔しいけど、言い返せなかった。少し組み合っただけで、それほどまでに力の差があることを痛感したから。
これでは5人全員で挑んでも簡単に殲滅させられるかもしれない。
そうなると他のメンバーに出直してきたほうがいいと伝えたいけど……通信機は壊されている。
「ちょっと、ほんとにさっきので全力なの?どいつもこいつも張り合いがない……こりゃあ5人揃って本気の半分でやっとちょうどいいくらいかなあ」
嘲弄されることに慣れていないわたしに、蘭の一言一言が鋭利な棘となって心に突き刺さっていく。
明らかに手を抜かれてるのは感じられたけど、まさかここまで差があるとは。
時間稼ぎならできた気がした……でもそれは「できた」わけじゃなくて「わざとさせられた」だけだったみたい。
もう1人誰かがここに近付いてくるのを感じる。急いでいないということは、わたしの仲間じゃない。と、いうことは……。
「蘭、さっきホワイトウイングの通信機を拾ったんだけど、誰か見かけてない?」
心身共に傷だらけでこの姉妹に1人で対峙することになろうとは。早く誰か助けに来てくれと祈る以外にわたしに何ができる?
でも……ここで皆と合流してもこの姉妹を撃退できるだけの戦力が5人合わせても足りそうにない。
撃退どころかわたしを助けて逃げることすら難しい。
「ああ、それならこの人、黒松さんのだよ」
「えーと……蘭がボコボコにしすぎて、よくわからないのだけれど」
今のわたしの顔って、そんなに酷いの。服は上下ともビリビリに破れボロ布同然になっていたし、
全身傷だらけで骨も何箇所か折れているのはわかるけど、顔は鏡がないからよくわからない。
「まあ、この見覚えのある黒のリボンで纏めたツーサイドアップは間違いなく黒松さんね」
- これからこの2人に好きなだけ弄られ、精力を吸われ尽くされて死んでしまうの?
ホワイトウイングに入ってから、命の危機を感じたことはこれが初めてじゃない。
何度も死にかけたし、敵の罠に嵌められて泣きたくなるような状況も経験した。
それでも諦めなかったから、黒の一族を残り数体のところまで追い詰められたんだ。
心を折られなければ、まだ勝機はある。いざというときに安心して背中を任せられる仲間がわたしにはいる。皆を信じよう。
「可愛い顔が台無しよ……痛かったでしょう。よく我慢したわね」
「……」
「それにこんなにボロボロになっても立っていられる精神力、賞賛に値するわ」
「あなたに褒められても嬉しくないんだけど」
何をするつもりなのよ。褒め殺しでわたしが心変わりするとでも?
「そんなに刺々しくしないで。これから私たちと一緒にやっていくんだから」
「……はあ?わたしがあなたたちに手を貸す?全く、悪い冗談だわ」
普通の人間と黒の一族は永遠に相容れない存在なの。仲良く共存なんてできるわけがない。
人間を食べる黒の一族に協力しろだなんて、こいつは自分の言っていることの意味がわかっているのかしら。
「私も蘭も、元々は普通の人間だったの」
「それは初耳だわ……本当に?」
「あら?晴川は私が人間から変化するところを見てるはずだけど、聞いてないの?」
もし月夜女姫の言っていることが本当なら、今後黒の一族はどんどん増えていく。そうなると世界が廃墟と化すのもますます早くなる。
むしろ既に数え切れないくらいに黒の一族が増えているのかも……大変!早くこのことを皆に知らせないと!
「それで、今まで何人の人間を黒の一族に堕としたの?」
「まだ私は蘭だけよ。そしてお前が2人目」
「あなたの味方になってホワイトウイングの皆に迷惑をかけるくらいなら、死んだほうがマシよ!」
こういう状況のときの模範解答のような台詞が、口から出せた。
だが、意地に体がついてこなかった。
「生きたい」という生命にとって当たり前の欲求が、わたしの理性を押さえ込んでいた。
「そう言って実際に舌を噛み切って死ねる人間は殆どいないけどねえ。怖くないよ、最初はチクッとするけどすぐ楽になるから」
「そうそう。さあ、力を抜いて……」
「あなたが魔眼を使うことくらい、晴川さんから聞いてるわよ!」
目を逸らしたから噛み付かれる瞬間はわからなかったけど、噛み付かれた首筋だけでなく、全身を鋭い痛みが駆け回った。
「いっ……」
<これからゆっくりお前を真っ黒に染めてあげるからね>
何なの、この感覚は……頭の中に月夜女姫の声が響いてくる。
その言葉は脳に直接刻まれるような強制力さえ感じられて、自意識を保つのが急に難しくなる。
<勝手にわたしの中に入ってこないで……頭がおかしくなりそう>
<お前が黒の一族になれば、今やっている街の無差別破壊はやめてもいいわ>
<信用できないわ。他にもっと酷いことをやるつもりね>
<しないわよ。大体、そんな約束も守れないような人が、わざわざ避難する時間を設けると思う?>
<それもそうね……>
頭のネジを1本ずつ外されているような危険な心地よさ。
脳を直接撫でられているような不快だけど癖になる不思議な感覚。
このままでは手遅れになる、一刻も早く引き剥がさないと、とは思っていても力がまるで入らない。
<それに、私たちの目的は普通の人間との共生よ。晴川みたいに黒の一族だけを一方的に排除しようとするほうが間違っていると思わない?>
言われてみればそうだ。能力が発現してから晴川さんに「黒の一族は存在しているだけで世に災厄をもたらすから排除しなければならない」と言われて、
今まで特に何も考えずに黒の一族を討伐してきたけど、盲目的な行動だったのではないかと思えてくる。
<私は晴川のような過激派さえいなくなれば、これまで黒の一族を駆逐してきたホワイトウイングを許してもいいと思ってるわ>
<晴川さんが、わたしたちを洗脳していたというの?>
この時点で既に冬子の体は完全に月夜女姫にもたれかかる姿勢になっていて、
手足はだらりと垂れ下がったままで時折ピクッと痙攣する以外に動きはなくなっていた。きりりと引き締まっていた顔はもう面影もなく、
ぼんやりと開かれた口からは甘い声が漏れ始めている。
<そう。月夜女様があいつに殺された時は悲しくて、悔しくて、涙が止まらなかった……>
どうしてだろう。月夜女を散々痛めつけたのはわたしなのに、まるで自分の大切な人を亡くしたように胸が痛い。
どれがわたしの感情で、どれが月夜女姫の感情なのかわからなくなってきた。
- <お前がしている行為は、殺人と大差ないのよ>
<そんな……>
そう言われると、罪悪感に押し潰されそうになる。今まで数え切れないほどの黒の一族を狩ってきた。
直接手を下したのは全部晴川さんだけど、わたしがしたのはその手助けに違いない。
冬子が意思を感じられない目からぽろぽろと涙を流す様を蘭が興味深そうに覗いていた。
<でも大丈夫。お前がやったことは全部晴川のせい。そうでしょう?>
<……その通りです……>
すーっとしみこんで来る声を聞き続け、なんだか瞳孔が広がっているような気持ちいい感覚に浸ってる。
<素直に答えてね。自分を捻じ曲げた晴川が憎い?>
<はい……憎いです>
月夜女姫の質問に肯定するたびに、底なし沼に引きずり込まれているような気分に陥る。
まだ頭の片隅では質問に疑問符が浮かんでいるのに、体が先走って制御できていない。
気付いたときにはもう沼の水面が首の辺りまで達しているようで、自力で出られそうになくなっていた。
<私は晴川に復讐しようと思っているのだけど、協力してくれない?>
<はい、わかりました……つきよ、め……ひめ、さ……ま>
会話に流されるままに月夜女姫様に心からの隷従を誓った瞬間、邪な力が魂を汚していく早さが急激に上がる。
でも、それでいい。真夏の生暖かい風が冷え切った私の体を撫でるのが気持ちいい。
ん?何か背中がムズムズして……。
<もう、大丈夫そうね>
月夜女姫様が口を離して数秒も経たないうちに、ボロ布同然だった服の隙間から立派な黒い翼が生えてきた。同時に全身が発火しそうなほど熱くなる。
「う……ああ……ああああアアアア!!」
両手の爪がギリギリと音を立てて鋭く伸び、暗くてよく見えなかった周囲の様子もはっきり見えるようになった。
黒の一族は暗闇だとこんなふうに見えているのか。元の裸眼の視力も悪くはなかったけど、これなら遠くの仲間も格段に見つけやすい。
「おめでとう。これでお前もただの人間から私の手駒に昇格ね」
「はい、ありがとうございます」
うふふ、月夜女姫様に認めてもらっちゃったあ。嬉しい。この期待を裏切らないように、しっかり働かないとね。
「これから言う私の指示に従いなさい。蘭も聞いておいて」
月夜女姫様の手足となって働けることの喜びに心が震える。
ああ、今なら月夜女姫様を崇拝する人間が出てくるのもわかる気がする。なんとなく、私の心が月夜女姫様の鎖に縛られているのがわかる。
晴川に従っていたときにはない、魂の呪縛による強制力に頭と体が突き動かされる。それがたまらないほどに心地いい。
人間の精力ってどんな味がするのか、今から楽しみね。
晴川たちホワイトウイングが現場に駆けつけたときに見たものは、蘭に足蹴にされている冬子だった。
蘭は短い髪をかきあげて晴川たちを紅い瞳で一瞥すると、ニヤリと不敵に笑った。
「黒松!しっかりしろ!」
「あ、晴川さん……?」
「ギリギリセーフってところだね。もう十分サンドバッグにして遊んであげたから、黒松さんは返してあげるよ。それっ!」
「きゃっ!ん……」
乱暴に蹴飛ばされてホワイトウイングに返された冬子は、服が血をたっぷりと吸っていて見るからに痛々しい。
「おいおい、助かるのかこれ……足が変な方向に曲がっちゃってるけど」
「ごめん、なさい……皆が来るまで、持ち堪え、ごぼっ!」
「治癒は私に任せて!皆さんは黒の一族の相手をお願いします!」
上は涼しげなキャミソールで、下は動き辛そうな薄手の生地のロングスカートという華美な装飾のない服を身に纏った蘭は、
敵が目の前に現れたというのに余裕を崩さなかった。
「今日はほんとについてるよ。さっきは若いカップルを襲ったんだけどさあ、女のほうの反応が最高だったね。
操って彼氏を痛めつけさせてから意識を戻してあげたら『もう嫌……生きていけない……』だってさ!
彼氏を傷付けたくらいで自己嫌悪に浸ちゃってんの。『殺してください』って言うからゆっくりじっくり殺してあげようと思ったら、
今度は死ぬのが怖いって泣き叫ぶの。それが楽しくて楽しくてさあ……くくっ、お腹が捩れるかと思ったね」
「こんな悪魔がまだ生き残っていたとはな……人の心を弄ぶその行為、最低だな」
倒れた冬子と治療に徹する秋生を庇うようにして、残りの3人が前に出る。
- 「さらにこうやって正義ぶってるおっさんも虐めることができるんだから、ラッキーとしか言いようがないね!」
「そうやって調子に乗っていられるのも今のうちだよ!」
春香の影に隠れて密かに力をためていた夏菜が、急に飛び出して一気に蘭との間合いを詰める。
「これでも食らいな、デビルバニッシュ・デュアルアサルト!!」
夏菜が圧縮された高密度のレーザーを蘭に放つが、間一髪で避けられてしまう。
しかしレーザーは闇界障壁を貫通し、蘭本体にもそれなりのダメージを与えていた。
「いてて。へえ、なかなかやるじゃん」
「ふっふっふ。レーザーを極限まで圧縮することにより、類稀な貫通力と衝撃波による追撃ができるようにしたのがこの技よ!」
「馬鹿!暢気にこっちを向いて技の解説なんぞしてる場合か!」
「夏菜ちゃん、危ない!」
春香が横から夏菜を押し倒したことにより、蘭が放った光弾は夏菜には当たらずにコンクリートの破片を細かくしただけで済んだ。
「もー、夏菜ちゃんはいちいち技名を叫んで使用後はポーズをとらないと気が済まないの?」
「テンションが上がらないのよ。冬子だって毎回叫んでるじゃん、『せぇい!』とか『とぉっ!』とか」
「あなたと一緒にしないでもらえるかしら?」
春香と夏菜が振り向くと、腰に両手を当てて不満そうな顔をした冬子が立っていた。
「あ、冬子ちゃん。もう戦えるの?」
「ええ、流石白石さんだわ。もう腕も足も全く問題なし。それより、お喋りしながら勝てる相手じゃないわ、集中して!」
月夜女姫と同じ魔法を防ぐ闇界障壁を持つものの、硬さは夏菜か冬子の攻撃で壊せるくらいで無敵というほどではなかった。
その代わり月夜女姫より戦い慣れしていて、致命打になる閃光弾や晴川の攻撃は確実にかわしてくる。
攻撃も広範囲を一気に焼き払う術が厄介だが月夜女姫ほどの威力はなく、このままいけば何とか倒せそうには見えた。
「やっぱりこのくらいがちょうどいい刺激ね」
蘭に焦りは見えないものの初めに見せていた余裕は消え去り、確実にその体に疲労を蓄積させている。
「まだ……やれる!」
4人が一斉に蘭に飛びかかろうとしたとき、後衛にいる秋生が声を張り上げた。
「皆さん、待ってください!何か違う気配が近付いてきています!」
いち早く別の存在の接近に気付いた秋生が背後を振り返ると、月明かりでも大きな翼が確認できる距離に月夜女姫がいた。
「白石、どうした……くそっ、出やがったか!」
「蘭、いい加減遊びすぎよ。朝になっちゃうじゃない」
ここで晴川は後一歩まで追い詰めた蘭の討伐を諦め、全員に逃走を指示した。
いくら片方が手負いとはいえ、以前負けた相手が同時に襲ってこられては勝ち目がない。
「素直に逃がしてあげると思った?」
蘭は自分のほうに向かってきた5人に対し、両手を広げてまだ戦意があることを明らかにする。
「そのボロボロの体で、止められるものなら止めてみろ!」
「満身創痍なのはお互い様でしょ」
今なら逃げ切れると思ったが、逃げるのに成功したのは冬子のみで残りの4人は挟まれたままだった。
閃光弾は使い切っていてもうない。しかしまだ煙幕が残っている。
「それに私、まだ治癒術使ってないし」
ホワイトウイングが身を削ってやっと追い詰めたと思っていたのに、蘭に焦りが全く見えなかったのはそういうことだったのだ。
「次に会うときは必ず倒す」
まさか平和を守る正義側の自分たちがその言葉を吐くことになるとは思いもしていなかった晴川は、
次の月夜女姫の一言により逃走すら安易にできるものではないと思い知らされる。
「そういう台詞は必ず逃げられる状況で言うものじゃないの?」
初回の交戦での月夜女姫の射撃の精度は最低ランクと言ってよいほど未熟だった。前回はそれを物量でごまかして当てていただけだ。
距離をとれば弾幕の密度も薄くなり避けるのは容易いと晴川は考えていた。
だが、煙幕を2人にぶつけて視界を奪い逃げ出した晴川たちは足元に走る赤黒い線に気付く。
「どこに逃げようと無駄よ。どんな避け方をしようと関係なく当たる術を編み出したから、大人しく力の差を思い知りなさい」
「晴川さん、上にも!」
「何だこの馬鹿でかいのは……」
巨大な魔法陣が夏の夜空に描かれていた。魔法陣自体が大きすぎるのでどのくらいの高さに描かれているのか目測ができない。
足元の魔法陣は端が見えないほどに大きい。
お前たちがどこに逃げようと関係なく当たる――つまり、この魔法陣の覆っている部分全てが術の有効範囲。
- 「白石、上だ!上に目一杯障壁を向けろ、お前なら防げる!」
「それ、無駄だよ。だってお姉様のこの術、足元からもくるから。
ついでに言っておくと、貴方程度の障壁の強度じゃお姉様の術は防ぎきれないよ」
晴川たちの背後から攻略のヒントとも絶望を加速させる覆しようもない事実ともとれる言葉を蘭が投げつける。
「ぐあああああぁぁぁぁああああぁっ!」
足元と頭上の魔法陣から大量の黒い稲妻が発生して天と地を紡ぎ、身を貫く。
1方向からの攻撃しか防げない晴川たちにはこの術に対抗できる方法など、ない。
幸いなのは、月夜女姫が殺傷力を抑えたおかげで動けなくなるだけで済んだという点だ。命までは取られていない。
月夜女姫に思いっきり顔を踏みつけられて、ようやく晴川の意識がはっきりしてくる。
「お前たちを生かすも殺すも私の気分次第ということがこれでわかったかしら?」
「この……悪魔め。調子に、乗るな」
月夜女姫の暗示が効いているのか、ここまで完璧にやられても晴川は強気な姿勢を崩さない。
その態度が暗示の優秀さを示し、ますます月夜女姫に自信をもたせる。
「まだそんな態度がとれるの。本当に気丈ね。その気丈さに免じて、今日はこれで終わりにしてあげる」
敵に情けをかけられて晴川は自尊心を傷付けられたが、自分の命が月夜女姫の手の上であることは否定できない事実なので言い返せない。
「次は私のほうから遊びに行くから、ビクビク怯えながら待ってなさい。
それじゃあ頑張ってね、せ・い・ぎ・の・み・か・た・さ・ん♪あははははは……」
陽が山の隙間から顔を出す頃にはこの地に大きな傷跡を残した2人は別の場所に移動したらしく、
廃墟と化した元市街地でホワイトウイングのメンバーだけが絶望に打ちひしがれていた。
俺が黒の一族を狩り始めたのは、偶然やつらを見かけたときの単なる生理的嫌悪感からだった。
普通の人間にはありえない色の紅い目に猫のように縦に裂けた瞳孔、大きくて先がツンと尖っている耳、
背中から生えている黒い翼はフィクションによくいる悪魔にしか見えない。それに人目を忍んで夜にこそこそと人間の精力を吸っている。
少なからず人間に危害を加えているのだ、それを駆除して何が悪い。俺はやつらを蚊やゴキブリと同じ害虫としか見ていなかった。
さらに当時の俺には駆除するだけの金とコネがあった。やつらを狩るためだけに俺は私兵集団「ホワイトウイング」を組織し、
同時に数えられる程度の業界の実力者を抱き込みうるさいマスコミや警察を黙らせた。
しかしその害虫の駆除には想定外の障害があった。
やつらを殺そうにも銃器、刃物、爆発物、毒ガスと様々なものを試したが、闇界障壁という奇妙なバリアのせいで全て効果がないのだ。
おまけに怪しい術まで使ってくる。ますますやつらを野放しにするわけにはいかなくなった。
古今東西のあらゆる武器を試しても駄目な中、とある神社に祀られている御神刀を使ってみてはどうかという意見があった。
俺は仏だの神だのといった類は全く信じていなかったが、他に頼るものもないので試しに実戦で使ってみると、
驚くことに闇界障壁を無視して攻撃することができた。その後の調査で闇界障壁を無効化できるのはおそらく俺だけであること、
黒の一族を殺すには翼を切り落とすのが最も有効であることを知る。
ある程度数を狩るとやつらも警戒してきて、こちらが逆に撃退されることもあった。
御神刀以外では閃光弾しか効かないので、私兵集団といってもまともな戦闘員は俺だけだった。
この状況を打開したのが俺の最も信頼できる友人、白瀬大喜(しらせだいき)の発明した薬だった。
魔法覚醒剤と名づけられたそれは、素質のある者が接種すれば闇界障壁を無効化できる力が備わるという画期的なものだった。
しかし素質のある者というのが「15歳から25歳の日本人女性の極一部」という縛りがきつい。
「15歳から25歳の日本人女性」の条件に当てはまる人間の時点で約650万人しかいない。
さらに素質の無い者が接種した場合の死亡率が0.05%という危険な薬だったが、背に腹は代えられない。
- あらゆる手段を使って手当たり次第にこの薬を使った。もちろん0.05%分の死者も出たがそのたびに隠蔽した。
そうした苦労の末に能力の発現した4人を探し出し、金で釣ったり脅しをかけたりしてホワイトウイングで訓練した結果が今の彼女たちである。
周囲からはハーレムと冷やかされるが、こいつらと恋愛ごっこをしている場合ではない。
偶然か必然か知らないが4人とも無駄に器量がいいからそうやって冷やかされる破目になる。その程度の煩悩を断ち切れないほど俺は弱くない。
それに化け物退治をするのだからか弱い女より運動能力の勝る男のほうがよかったが……魔法覚醒剤の仕組みからそれは不可能だと大喜から言われた。
「……というわけだ。はっきり言って今の戦力だと勝ち目がない」
「半径約1キロだっけ?反則だろそりゃ。どう対処しろっていうんだよ」
「だよなあ……今までの黒の一族とは次元が違いすぎる」
「でもここで諦めたら、日本……いや、世界は月夜女姫に蹂躙されるんだろ?だったら可能性がある限りやるしかないだろ」
「そうだな。何か手があるのか?」
「御神刀で闇界障壁に傷が付いたのなら、その御神刀の力をより引き出せるようにする方向で研究中だ。まずあの障壁を何とかしないと話にならない」
「悪い、大喜。結局こんな大事に巻き込んでしまって」
「いいってことよ。毅みたいにどーんと金を出してくれるスポンサーがいないと俺も研究できないしな」
「ありがとう。恩に着る」
そのうち直接会ってゆっくり話がしたいが、今の状況で会うのはリスクが高すぎる。盗聴対策を施したこの通信機での通話が妥協点だろう。
ホワイトウイングの正体はマスコミに暴かれたが、魔法覚醒剤やそれを開発した白瀬の存在がまだ割れてないのは不幸中の幸いだった。
これが割れるとさらに世間のバッシングが酷くなるのは目に見えている。
それに、今滞在しているホワイトウイングの支部ならそう簡単に見つからないはずだ。前回本部の場所が月夜女姫に割れたのはおそらく尾行と思われる。
だから今回は透明化を無効化できる白石に協力してもらって徹底的に警戒した。
結局は移動中に離れた都市で天道姉妹の襲撃の報告があったので杞憂に終わったが。
未だにわからないのが、月夜女を狩ったときには確かに普通の人間だった天道姉妹が、完全に黒の一族と化している点だ。
普通の人間を黒の一族にする力でもあるのだろうか?だとすると黒の一族が指数関数的に増えていき、収拾がつかなくなるが……。
突然、侵入者を知らせるけたたましいベルの音が響き渡る。ここも本部と同様の硬いセキュリティに守られているはずだが……まさか。
「おいおい……冗談だろ……」
監視カメラに映っていたのは、紛れもなく天道姉妹だった。
俺がわざわざ助けに行ったのは仲間意識なんて綺麗なものではなく、これだけの戦力を1から再び揃えるだけの手間を嫌っただけだ。
前回は妹のほうの実力を見誤りやられてしまったが、今回は閃光弾や煙幕で初めから逃走に徹する。
月夜女姫もその妹も、正面からかち合って勝てる相手ではない。
その見通しすら甘かった。
繰り返される、一方的な展開。反撃は全て封じられ、逃げ出すことも許されず、しかし決して息の根は止めない生殺しだった。
「どうして……ごほっ、この場所がわかった……?」
「あら?思った以上に救いようのない馬鹿なのね。お前、頭に脳味噌入ってないんじゃないの?」
「発信機の類は調べたはずだが……甘かったか……」
そもそも仕掛けるタイミングすらなかったはずだ。他のメンバーにもチェックを徹底させたが、自分でも慎重すぎると思ったくらいである。
「そうじゃなくて、もっと簡単な方法があるじゃない」
月夜女姫は勝ち誇った顔で、それがさも当然のことであるかのように言った。
「裏切り」
その可能性を少しも疑わなかったわけではない。ただ、他のメンバーの言動はいつもと全く変わらず、
偽者が紛れ込んでいるという感じもなかった。そもそも、仲間を信じられなくなったら月夜女姫を倒すことなどできない。
その可能性を考えたくなかっただけかもしれない。
「頭のよろしくないお前にさらにヒントをあげましょうか。裏切り者はそこに転がっている4人の中にいるわ」
- 「えっ……?」
「でたらめよ!どうせ私たちの間の信頼を崩そうって魂胆でしょ!?」
「でも夏菜、それ以外にどうやって月夜女姫がこの場所を知ったのか説明できないわ」
「黒松さん……それはそうですけど……」
今までこんな敵の詭弁による揺さぶりは何度も経験してきたはずなのに、まんまと術中に嵌ってやがる。だから、俺が皆を纏めなければならない。
「お前ら、不安なのはわかるが今は喋るな!」
一喝して全員の注目を自分に集める。
「月夜女姫よ、悪いが俺は敵の言うことを素直に聞けるほど頭がよくないんでね」
「そう。別に信じたくなければ信じなくてもいいけど、放っておくとお前たちのやってることは全部私に筒抜けよ?くくく……」
何かを隠した虫唾の走る笑い方だった。俺はどうすればいい――どの行動を選んでも悪い結果にしか繋がらない、嫌な予感がする。
- 月夜女姫とその妹に基地の支部を追い出された私たちホワイトウイングは、晴川さんに連れられてとあるビジネスホテルに泊まった。
本部が襲われてから続いているこの放浪生活だけれど、毎日こんなホテルに泊まるお金を5人分もぽんぽん出せる晴川さんは
一体何者なのだろうといつも思う。でも、この人のおかげで終わりの見えない放浪生活のきつさもいくらか和らいでいるのも確かだ。
逃避行が野宿だと私や赤坂さんあたりはすぐにへばりそうだし、私たちの体調のことをしっかり考えてくれているという安心感がある。
「白石さん、ちょっといいですか?」
今にも布団に入って寝ようとしていた私は、オートロックのドアをノックする音でぼんやりしていた頭を覚醒させられた。
「あーごめんなさい白石さん、寝てました?」
ドアを開けると寝巻き姿の見知らぬ女性が立っていた。……違う、髪を結っていないだけでこれは黒松さんだ。
髪を解いた黒松さんを見たのはこれで初めてではなかったけれど、見慣れてないせいで毎回誰なのか判断するのがワンテンポ遅れてしまう。
「いえ、大丈夫です。何か用ですか?」
「白石さんとお話がしたいなって思って。部屋に入れてもらっていいですか?」
本当は疲れているからすぐに寝たかった。しかし、私は頼み事を断るのがかなり苦手だ。
つくづく損な性格だと自分でも思っているけれど、成人した今でも治る気配がないのでもう諦めている。
黒松さんを部屋に入れて備え付けの椅子に座ってもらってから、私はベッドの上に座って黒松さんと向かい合う。
「それで、お話っていうのは何ですか?」
「今日月夜女姫が言ってた『私たちの中に裏切り者がいる』って件です」
「それなら、私だけではなく全員で話し合ったほうがよくないですか?」
「その必要はありませんよ。もう私は誰が裏切り者なのかわかりましたし、証拠もありますから」
赤坂さん、青野さんの2人のうちどちらかが裏切り者――今日の2人の言動をよく思い出してみる。特に変わったところはなかった。
それに裏切る理由もよくわからない。弱みを握られたとか?世界を破滅に追い込もうとしている相手に手を貸さなければならない弱みって何なの……?
「根拠の無い決め付けでないのなら聞きます。赤坂さんか青野さん、どちらなんですか?」
不自然に黒松さんの口角がつりあがった。大切な仲間が敵の手に落ちているかもしれないというときに、なぜそんな顔をするのかが私には理解できない。
「きひひひ、『どちらか』ねえ……もう1人いるじゃない、目の前にさあ!!」
黒松さんが私の両肩を持っていきなりベッドに押し倒してくる。
不意を突かれたのもあるけれど、肉弾戦スタイルの黒松さんの腕力に私が敵うはずがなかった。
「な、何するんですか……」
「そうだ、暴れられると困るから先にこれをしておかないとね」
上に覆いかぶさった黒松さんの目が妖しく真っ赤に光る。急いで黒松さんを退かせようとして足をばたつかせても無駄な抵抗にしかならなかった。
「……ぁ……ぅ……」
目を背けようとしたときにはもう手遅れ。手足の自由が全く利かなくなったばかりか、声が喉に張り付いたようになって声がうまく出せなくなる。
黒松さんって肉弾戦一辺倒だと思ってたのに、いつの間にこんな力を身に付けたの?
「もうわかってると思うけど、私が月夜女姫様の言っていた『裏切り者』よ」
助けも呼べない、人目も期待できないこの状況で安直に黒松さんを部屋に入れたことを今更ながら後悔する。でもどうして黒松さんが……。
「は……」
「ん~、何か言いたそうだけど全然聞こえないなあ。そうだ、こうすれば」
顎が外れそうなほど大きく口を開けて、黒松さんが私の首筋に噛み付いてきた。一体黒松さんはどうしてしまったの?
これではまるで黒の一族そのものじゃない!
<私の声が聞こえる、白石さん?>
「ん……」
甘ったるいものが頭の中に充満したかのように、思考速度ががくっと落とされる。
<黒松さん!これはどういうことですか?どうしてこんなことを……>
<だからさっきも言ったでしょう。私はもうそっち側の人間じゃないのよ>
黒松さんの背中がもぞもぞと動いて間もなく、服を突き破って真っ黒な翼が生えて私の視界を奪った。
<そんな、これは黒の一族の翼……>
<ふふっ、羨ましいでしょう?月夜女姫様からこの力は戴いたのよ>
- <黒の一族に寝返るなんて、黒松さんはこの世界がどうなってもいいのですか!?>
さも誇らしげに黒の一族になったことを告げる黒松さんだけれど、こんなのホワイトウイングでずっと一緒にやってきた黒松さんじゃない。
月夜女姫に踊らされているだけだ。
<どうなってもいいなんて思ってないわ。私は月夜女姫様の望むまま、この世を黒の一族の住みやすい世界に変えたいだけよ>
<それはエゴの塊です。月夜女姫さえよければそれでいいのですか?!>
<当たり前よ!月夜女姫様さえよければ、私はそれでいいの!>
<……う……>
言い返さなければと言葉を探すけれど、頭の中が絡まってうまく考えられなくなってきた。
――絡まっているだけじゃない。外側から順番に解されて、消されてきている。
消した後には黒くてどろっとした何かに全部置き換えられてきている。
私を、変えようとしている……。
<それに白石さんってさ、晴川に脅されて嫌々そっち側に付いているのでしょう?そこまで意地になる必要もないじゃない>
確かに私はこの仕事を自分から進んでやっているわけではない。可能ならば今すぐに普通の人間としての生活に戻りたいと思っている。
それができないのは晴川さんが私の大切な人や物をちらつかせて脅しをかけているからだ。
<それは……そうですけれど……>
<執着する理由がないわね。白石さんも今のホワイトウイングの戦力で月夜女姫様に敵うわけがないって、
口には出さなくても心の中では思ってるんでしょう?>
そんなこと、わざわざ口に出さなくても皆わかっている。わかってはいるけれど……ここで諦めたら、今までの苦労が水の泡じゃない!
<頑固だね、白石さんは。それじゃ、持久戦と行きましょうか>
<じきゅう、せん?>
<朝になって誰かがこの部屋に入ってくるまで白石さんが意識を保っていたら白石さんの勝ち。どう、簡単でしょう?>
この一縷の望みに賭けるしかない。後は私の精神力次第。
<いいですよ。朝まで耐えられればいいんですね>
<そうそう。耐えられればいいのよ。耐えられるなら、ね……>
冬子が秋生の動きを封じた時点で、既に勝負はついていた。
今の秋生は目が一応開いてはいるものの、深いトランス状態にあり心が全くの無防備のまま放置してあった。
「そんな心身共に疲れきった状態で私の心を揺さぶる攻撃に耐えられるわけがないじゃない。
脳味噌とろとろの状態で正確な判断を下せっていうのがそもそも無理だけどさ」
冬子は秋生の首筋から口を離し、今にも寝てしまいそうな秋生の顔をじっくりと眺めていた。
首筋には噛み跡がくっきりと残り、冬子の唾液が大量に付着している。
今なら冬子がいくら好き勝手に性格を歪めても、秋生は全て素直に従ってくれる。
ホワイトウイングの女性陣の中で最も年上なこともあって、いつも落ち着いていてニコニコ笑顔を絶やさない。
ホワイトウイングに加わるのを嫌がったのは、生き物の命を絶つ行為に関わりたくなかったからだと聞いていた。
そんな優しい秋生が自ら進んで殺掠を行うような人間になったら、それまでの秋生を知る人間はどんな反応をするだろうか。
殺戮を恋焦がれるような、今とは真逆の性格にしてみても面白い。あるいは、ただひたすら淫乱な変態に。
秋生は過去に言いがかりに近い噂を流されたことがあった。
「長年付き合っている彼氏がいながら、その大人しそうな顔に釣られた男を片っ端から食っている淫乱女」
という秋生の裏の顔の存在を主張するものだ。
そのときは本人と秋生の性格を知る人全員が否定したのですぐに噂は消えたが、それが真実になれば……。
「おっと、いけないいけない。『黒の一族にする以外に余計な刷り込みはするな』って月夜女姫様から言われていたのだったわ」
何より優先するべきは月夜女姫の意思。冬子は唾液塗れの秋生の首筋に再び噛み付くと、黒の一族に変えるべく力を流し込み始めた。
- <……つめたい……きもち、いい……>
<いい、白石秋生さん。あなたは生まれ変わるの>
<うまれ、かわる……>
<黒の一族になって、月夜女姫様に全てを捧げるのよ。もう晴川に嫌々従うことはないわ>
<わたしが、くろのいちぞくに……>
<黒の一族になれば今以上の力が手に入るし、ずっとこのまま若いままでいられる。それは素晴らしいことではないかしら?>
<はい……>
秋生の顔からはは自分の体が作り変えられるという恐怖は微塵も感じられず、むしろこれから起こることの期待に染まっていた。
<よし、そろそろね>
冬子は秋生の首筋から口を離しぺろりと舌なめずりをして、これから秋生の体に起こるであろう変化に胸を高鳴らせる。
「あ……もっと……もっとしてください……」
「もう十分だから、あとはじっとしていなさい」
「そうですか……あ、耳が」
乱れてボサボサになった秋生の髪の隙間から、先の尖った耳の先端がぴょこんと顔を出していた。
「なんだか急に部屋が暑くなってきましたね……黒松さんは暑くないですか?」
「冬子『様』でしょ、冬子『様』。その力をあげたのは誰だと思ってるのよ。それに私は暑くないわ」
「申し訳ありませんでした、冬子様。先ほどから汗が止まらなくて……うぅ……はあっ……」
沈黙の暗示がとっくに切れていることに冬子が気付いて秋生の口を慌てて手で塞がなければ、
悲鳴がホテルの同じ階全体に聞こえてしまっていた。
「ん~~~~!ん~~~~~!」
長く伸びた爪で無意識に布団を引っ掻いてずたずたにしながら、
一気に生えてきた黒い翼がもたらす今まで感じたことのない感覚に秋生は酔いしれる。
「ふう、間一髪だったわ」
「もう、冬子様は乱暴です。悲鳴を上げられたら何か困ることでもあるのですか?目撃者は証拠の残らないように殺せば何も問題はないでしょう」
「月夜女姫様から目立つ行動は極力控えろと言われてるのよ」
「なるほど……これで『裏切り者』は2人目。晴川も追い詰められましたね」
「きひひひ、全くだわ。それじゃ白石さん、朝にならないうちに月夜女姫様に挨拶に行くよ。私に付いてきて」
ベッドの布団から零れ落ちた綿を放置したまま、普通の人間でない2人はすうっとそこから姿を消した。
少し考えればわかることだ。
月夜女姫が現れてから俺が見ていないところで黒の一族と接触したのは黒松ただ1人。
しかもそのときボロボロにやられている。あのときにきっと何かされたに違いない。とりあえず今日は黒松だけ別行動にしてみて様子を見よう。
とにかく今は月夜女姫の言っていた「裏切り者」を突き止めるほうが先だ。
「でもさ、何で冬子だけ単独行動なの?危なくない?」
「今回の黒松の仕事は偵察だ。機動力のある者が適任だろう。その点だと青野でもよかったんだが、お前は1人にすると調子に乗るからな」
「うー……」
青野がふて腐れるが、放っておいても問題がないので無視する。
「本当は黒松さんが『裏切り者』だと疑っているんですよね、晴川さん?」
白石め、余計なことを。わざわざ不安を煽ることを皆の前で言わなくてもいいだろうに。
「え、そうなの、晴川さん?」
「……今まで単独行動もたくさんあっただろう。別に月夜女姫の言ったことが気になるわけではない」
「そうだよね、あんなの絶対月夜女姫のでたらめに決まってるよ」
「本当かなあ……」
皆ここまで精神的揺さ振りに弱い奴らではなかったはずだが、どうしてしまったんだ?
次に俺たちが月夜女姫の襲撃を受けたのは、月夜女姫が別の街に現れたと報告があってから3時間後のことだった。
泊まっていたホテルごと焼き払われ、崩れつつあるホテルから脱出するだけで全員疲れきっていてとても戦えるような状態ではなかった。
- 俺たちから離れた地点をわざわざ直前に襲撃して「裏切り者は黒松ではない」ということをアピールしているようにも感じる……一体何が目的だ。
「今日は一段とチームワークが悪いわね。誰か1人いない気もするし、どうしたのかしら?」
「白々しいぞ、お前が全部仕組んだくせに」
「仕組んだ?何のことかしら。黒松さんがここにいないのはお前が別行動をさせたからでしょう?『裏切り者』かどうか確かめるためにね」
全てお見通しよ、とでも言いたげな顔で月夜女姫は地べたに転がされた俺たちを見やる。
「お前、どうしてそれを……」
「さあて、なぜかしらね。ふふふ……」
裏切り者は黒松ではなかったということか?となると考えられるのはここにいる赤坂か青野か白石かということになる。
そもそも月夜女姫は裏切り者が「4人の中にいる」と言っただけで1人とは断定していない。黒松と他にもう1人いるのか……?
もしかしたら既に俺以外の全員が月夜女姫の手に堕ちているということも……いや、俺が仲間を信じられなくなってどうする。
決して裏切り者などいない!
「絶対、この中に情報を漏らしてる人がいるよね」
「そうだね。私も仲間を疑いたくないけど、ここまでやられると……ねえ?」
「もう、晴川さんが黒松さんを疑ったりするからチームがバラバラじゃないですか!どうするんですか!?」
どうするんだって……俺が訊きたいぞ、白石。本当にどうしたものか……。裏切り者はいるのか、いないのか。いるとしたら誰なのか。
どうやって調べるのか。拷問でもして吐かせる?そんなことをしたらそれこそホワイトウイングはお互いが信じられなくなって終わりだ。
個々の力で倒せるほど月夜女姫は弱くない。だからといってこのままだと……。
まだあちこちで煙が上がっている中、天道姉妹は地面に這い蹲る4人を見下ろして嘲っていた。
「うふふ、困ってる困ってる。追い詰められて命からがら見せる抵抗ほど見てて楽しいものはないね。お姉様、次はどうするの?」
「そうね、今度はこちらが追い詰める番なのだから、ゆっくり楽しみたいわ」
次は、晴川に最後の引き金を引かせよう。ここまで疑心暗鬼になっていれば下準備は万全のはず。
自分の行動のせいで仲間が寝返ってしまうのだから、もう目も当てられないでしょう。
まだまだ苦しんでもらうからね。
ホワイトウイングのメンバー5人は、24時間営業の飲食店の机に集まっていた。
ここに来るまでに何度も天道姉妹の襲撃を受け、睡眠も満足にとることができずに全員疲労困ぱいだった。
「はーるーかーわーさーん。このまま逃げ続けてもあたしたちが消耗するだけだよ。何とかならないの?
ふあぁ、眠う。もう3日もアイス食べてないしい……」
赤坂が机にあごを乗せて今にも寝てしまいそうな顔で訴える。
きちんと飯は3食食わせているが、月夜女姫にじりじりと追い詰められているのは確かだった。
「だが、今の戦力では勝算がないだろ?そもそもまともにダメージを与えてすらいない」
何度交戦しても、月夜女姫の障壁すら破れなかった。しかも向こうはまだまだ余力を残して戦っているように見える。
「それに、閃光弾も使い切った」
この状態で戦っても、勝負になるどころか逃げることすら難しい。
「とにかく今は支部に行き、対抗策を練るんだ」
「あと半分以上かあ、きっつー……」
青野が不満を漏らすのも仕方がない。道路はボコボコ、線路はグニャグニャで使える交通手段が空路くらいしかないからだ。
一応船も使えるが、空港が無事な内は使わなくてもいいだろう。どうせ道中で襲われたら死ぬのは同じだ。
晴川がそろそろ移動しようと席を立ったとき、店の机が軽々と吹き飛ぶような爆風が晴川たちを襲った。
屋根に大きな穴が空き、店内の照明が殆どやられて視界が一気に暗くなる。
- 「くそ、もう見つかったか」
ここまで細かくこちらの情報が漏れていると、晴川も本格的に裏切り者の存在を否定できなくなってくる。
「一体何が……助けてくれ……」
幸いにも他の客はいなかったものの、店員が頭から血を流しながら助けを求めている。
「しっかりしてください!」
「待て赤坂、そいつに治癒術は使うな!」
「え?でも今使わないとこの人死んじゃう……」
「死にそうなのは俺たちも一緒だ。俺たちがやられたら誰が月夜女姫を倒すんだ?」
ホワイトウイングが倒されたらどちらにしてもこの店員も死ぬ。
今までは一般人の救助も戦闘中にやってきたが、今の疲弊したホワイトウイングにその余裕はない。
「見つけた」
晴川が振り返るとすぐ後ろに月夜女姫が壮絶な笑みを浮かべて立っていた。
晴川は素早く袋から御神刀を取り出し斬りつけたが、またしても障壁に弾かれる。
完全に狩る立場と狩られる立場が逆転していた。
「お前ら、まだいけるな?白石の防御が通用しない以上、纏まっていたらただの的だ。散らばって狙いを絞らせるな!」
散らばったとしてもあの超広範囲攻撃を使われると全く意味がないのだが、手加減しているのかまだ初回の1回しか使われていない。
相手に慢心があるうちがチャンスである。
晴川は夏菜に指示して店の壁を破壊させ、各自バラバラに逃げるように伝えた。集合場所は言わなくても4人はわかっている。
「その様子だと、もう閃光弾は使い切ったのかな?」
「うわっ、こっちにも!?」
夏菜は目の前に出現した蘭に行く手を阻まれ、戦闘態勢を取らざるを得なくなった。
「逃げられないってわけね……お前なら攻撃が通じる分、月夜女姫より勝てる可能性がある!」
他の4人の援護が期待できなくても、夏菜は今まで1人で黒の一族を何人も伸してきた自信から蘭に真っ向勝負を挑んだ。
蘭がここまでの戦いで本気の半分しか出していないことを夏菜は知らない。知らないからこそ、無謀にも向かっていくことができる。
「貴方ってなかなかタフだから長く遊べるんだよね。今日も楽しませてもらうよ!」
「青野、倒すことを考えるな!相手の隙を作って逃げろ!」
「わかってる!」
「わかってねえな、あれは……」
いつもなら相手から先制攻撃される前に誰かが感づいて直撃を免れているものだが、
この寒気がするほどの威圧感を放っている敵の接近に誰も気が付けなかった。それほどまでに皆疲れきっているということだ。
「きゃあああああ!!」
「大変、春香ちゃんが!」
やろうと思えば5人全員を一気に攻撃することもできるのに、今日の月夜女姫は執拗に春香ばかりを狙っていた。
チームで最も強固な秋生の障壁でさえ歯が立たないのに、薄っぺらな春香の障壁では気休めにしかなっていない。
現時点ですでに戦力は晴川たちが下回っているのに、さらに春香が欠けて決定的な差が開くのは避けなければならない。
「きゅう~」
最早立ち上がる気力すらなくなった春香は目を回して力尽きてしまった。元々春香は夏菜のように打たれ強いわけではなく、
音を上げてへばってしまうのは4人の中でいつも最初だった。
「白石!黒松!赤坂の介抱を頼む!」
ぐったりと動かなくなった春香を揺すったりして反応を見ていた秋生と冬子が、なにやらこそこそと話をしている。
「白石さん、春香ちゃんの容態は?」
「ぐっすり眠っています。心身ともに疲れきった状態で且つ信頼できる仲間ですから魔眼が非常に効きやすかったですね」
「へえ、そう。わざわざこのタイミングでかけなくてもよかったかもしれないわね。春香ちゃんって基本的に何に関しても甘いから」
「おい、白石と黒松!後ろから来てるぞ!集中力を切らすな!」
「だから何?」
冬子は晴川に冷めた目を向けると何の躊躇もなく気合の乗ったストレートを撃ち込む。
晴川はギリギリで顔を逸らして避けたものの、突然の冬子の豹変に驚きを隠せない。
- 「私に指図していいのは月夜女姫様だけ。あなたに従う義理はないのよ」
「そうか、お前がやはり月夜女姫の言っていた『裏切り者』だったんだな。悪魔に魂を売るとは堕ちたものだな」
かつて仲間だった冬子にも殺すつもりで刃を向けた晴川だったが、いくら振り回してもかすりもしなかった。
ゆっくりと体を変化させて正体を現した冬子はケタケタ笑いながら一定の間合いを保っている。
「温い、温すぎだわ。そんな調子で月夜女姫様を倒そうだなんて、笑っちゃうわね」
「黒松、お前、その姿は……」
冬子の烏のような黒い両翼に尖った耳、鋭く伸びた爪、紅い瞳はまさに黒の一族そのものだ。
「常に冷静沈着なあなたも今回ばかりは動揺が隠せないみたいね。どう、この姿。綺麗でしょう?」
冬子は見せびらかすように手をひらひらさせるが、その行動は晴川の頭を更に熱くさせた。
「……お前は俺が最初に黒の一族を狩り始めた理由を知らないからそんなことが言えるんだ」
「何なのよ、その理由って」
「俺はその魔に堕ちた醜い格好が、反吐が出るくらい嫌いなんだよ!」
怒りにまかせて冬子に斬りかかった晴川だが、月夜女姫と同じ薄紫の障壁に阻まれる。
それでも晴川はギリギリと力を込めるのを止めず、しばらくするとピシッと1本の亀裂が走った。
「私の闇界障壁に月夜女姫様と同等の強度があるわけない、か……でもこれだけ硬ければ十分ね」
かわすばかりでなく攻撃に転じた冬子は、防御一辺倒になった晴川にさらに口汚く罵声を浴びせる。
「大体さあ、まだ自分が特別だとか思ってんの?あなたなんて御神刀がなければただの一般人じゃない。
私たちがいないと何にもできないくせに、威張っちゃってさあ!ああ、今は御神刀があっても何もできてなかったわね」
冬子の魔力の込められた弾丸のような胴回し回転蹴りが直撃し、頭が割れたかのような激痛で晴川は防御の体勢に入ることすら出来なくなる。
「あら、まさか胴回し回転蹴りがクリーンヒットするとは思わなかったわ。
あなた、私が手を抜いていなかったら頭が原形を留めてなかったわよ?治癒術かけてあげましょうか、薄鈍さん?」
「まだ動けるぞ、お前こそ俺を甘く見すぎ……ん、体が……?!」
晴川の体勢がぐらりと傾き、御神刀を地面に突き刺してそれに寄りかかる格好になる。
「なんだ、急に体に力が入らなく……」
「逆回復魔法を使わせていただきました」
いつから晴川の背後に立っていたのだろうか。そこには以前の温和な雰囲気はそのままで黒い翼を生やした秋生がいた。
逆回復魔法――相手に外傷を与えずに衰弱させて戦闘力を奪うことができるので、秋生が好んで使おうとした術だった。
実際は秋生の消耗の割に黒の一族には効果が薄いので殆ど使われることはなかったが。
「白石……お前もか」
「ちょっと、白石さん?せっかくいいところだったのにどうして邪魔するのよ!?」
「申し訳ありません、冬子様。月夜女姫様から『早く春香ちゃんを連れて戻ってきなさい』との命令がありましたので」
「それなら仕方がないわね。叱られないうちに戻るとしましょう」
「待て……」
春香を抱えて転移しようとした2人を晴川が膝を地面につけたまま呼び止める。
「何かしら?」
「赤坂をどうするつもりだ?お前たちの仲間にするつもりか?」
「さあ?私は聞いてないから知らないわ」
「そうそう、忘れるところでした。晴川さんに月夜女姫様から伝言があります。」
それまで温和な雰囲気だった秋生の周りの空気がさっと冷えたように感じる。
「明後日の午前0時に月夜女姫様が大事な報告をなさるそうなので、テレビをチェックしておきなさい、とのことです」
「一体、何をする気だ……」
その問いがまるで聞こえなかったかのように、2人は晴川を無視して春香を抱えて別の場所に転移してしまった。
「晴川さん……まだ、生きてる?」
うつ伏せに倒れこんでいた晴川にボロ雑巾のようになった夏菜が声をかけたのは、黒の一族全員が引いてからしばらく経った後だった。
「ああ……何とかな」
「他の皆の姿が全然見えないんだけど、知らない?」
何も知らない夏菜はここで初めて晴川から過酷な現状を知ることになる。
裏切り者の存在を信じざるを得ない証拠があってもまだ希望にすがりたい夏菜にとって、この事実は重すぎた。
- 「白石と黒松が月夜女姫の言っていた裏切り者だった。赤坂は……その2人に攫われた」
「えっ、嘘……裏切ったってどういうこと?」
「もう2人とも黒の一族と何ら変わらなかったよ。おそらく月夜女姫は普通の人間を同族に変えてしまう力があるのだろう。
信じられんが、あれを見せられたら信じるしかない」
この中に裏切り者がいるという、月夜女姫が言っていた通りだった。
晴川はまさか黒の一族に体まで変化させられているとまでは思っていなかっただけに、ショックが大きい。
「ならこんなところでのんびりしてる場合じゃないでしょ!早く春ちゃんを助けに行かないと、春ちゃんまで黒の一族にされるってば!!」
「2人で行ってどうなる?返り討ちにされるだけだ」
「でも……」
「赤坂のことは諦めろ。あいつらに攫われた以上、無事に帰ってくることはないだろう。辛いだろうが、今は月夜女姫を倒すことだけを考えろ」
春香を見捨てるという選択。救出に行ったときにこちらに勝算があればそのような行動は考えられないが、
戦力に大きな開きがある今はこのような非情な選択をしなければ一網打尽にされかねない。
「それで私が『はいそうですか』って納得できると思う?2年以上一緒にやってきたんだよ、今更見捨てられるわけないじゃん!
私はそこまで割り切れないよ……」
強すぎる結束力がここにきて仇となる。晴川は仲間を助けたいという夏菜の気持ちは痛いほど理解できた。
だからといって今は感情だけで動いて玉砕していい場面かというとそうではない。
「確かにお前は俺を含めた5人の中では1番強い。火力と俊敏な身のこなしは群を抜いているし、
障壁は張れないが攻撃を食らってもある程度は持ち前の根性で耐えられるだろう」
実際、夏菜の活躍がなければここまで黒の一族を減らすことができたかどうか怪しい。今
回も攫った相手が普通の黒の一族ならば迷わず助けに行っている。1人だけでも残ったのが夏菜なら、晴川と2人で組めば十分に勝算はありえた。
ただ、その相手が月夜女姫では分が悪すぎる。勝機のない襲撃は晴川たちの損害を増すだけだ。
「しかしそれで俺たちが月夜女姫を倒せるかどうか、それはお前も理解できないわけじゃないだろ?」
夏菜は答えに詰まり、顔を伏せた。
やってみなくちゃわからない、というありがちな言葉はもう通用しない。過去に何度も苦渋を味わわされたのは紛れもない事実だからだ。
「皆、どうしてこんなことに……」
不安で泣き出しそうになるのを堪え、明らかに無理をしている顔で夏菜は強がった。
「そう、だね……私たちがやってるのはこの世界の未来が懸かってる戦いなんだから。
春ちゃんには悪いけど、こっちは準備を整えてから行かないと犬死にになっちゃうし」
非情な選択をしなければならないほどの状況に、絶望感が漂う。
「ところで、お前も黒の一族になってたりはしないよな?」
「わ、私は白石さんや冬子ちゃんみたいに演技が上手くないから無理かな……」
「そうだよな、お前がもし寝返ってて味方のふりをしようとしてもオーバーアクションですぐにばれそうだしな」
「うーん、変な点で信用が得られてて複雑だ……」
もう戦える者が2人しかいないという絶望的な状況でも、雇い雇われの関係を超えた決して揺るがない絆の強さが晴川と夏菜の間にはあった。
月夜女姫が予告した日の午前0時。各局が特番体制を組んでいるらしく、どこも似たような内容を放送していた。
テレビに映し出されたのは、月夜女姫と囚われの身となった春香だった。
月夜女姫は体のラインが曖昧になるほどのゆったりとした豪勢な漆黒のドレスを着込んでおり、
背中の部分だけばっくりと開いていて大胆に露出させていた。尖った耳には銀白色のイヤリングをしている。
「テレビをご覧の皆さん、こんばんは。私がこの日本を支配する黒の一族の長、月夜女姫よ」
「何よこいつ、女王様にでもなったつもりなの?偉そうに……」
テレビを観ている夏菜は毒づいたが、現場にいるであろう撮影スタッフは物音すら立てなかった。
「今日は皆さんにお知らせがあるわ。ここ、ホワイトウイングの元本部に囚われているのは、ホワイトウイングのメンバーの1人、赤坂春香」
「春ちゃん、ぐったりしてるみたいだけど大丈夫かな……」
側に走るパイプに手錠で両手を繋がれて座ったまま軽く万歳をしている格好の春香だが、目にはしっかりとした意思の光が感じられまだ敵の手には堕ちていないように見えた。
「今から24時間以内にこの赤坂春香を他のホワイトウイングのメンバーが助けに来ない場合、避難所とその周辺にいる人間を皆殺しにするわ。
どの避難所でどの程度の範囲になるか、いつ皆殺しにするかは私の気分次第で」
- 撮影スタッフもそこは聞かされていなかったらしく、テレビの向こうもざわつき始めた。
「静かに。大丈夫よ、きっとホワイトウイングは避難所の人たちを見殺しになんてしないわ。正義の味方だもの、当然でしょう?」
月夜女姫はテレビの中にいるのにも関わらずまるで直接射竦められた気がして、晴川と夏菜はぶるっと体を震わせた。
「こいつ、赤坂を出汁に何万人もの人を人質にとりやがった」
「ど、どうすんのよ……」
「ああ、そうそう。わかってると思うけど、普通の軍隊を投入するのは死人が増えるだけだから止めておきなさいね。
では、最後に囚われた春香ちゃんの言葉を」
画面が春香のアップになり、月夜女姫が画面外に消える。
ぐったりしているように見えるが外傷は見当たらず、精神的に少し参っている程度らしい。
「あの、あたしがふがいないせいでたくさんの人に迷惑をかけてしまって……その、謝ります。ごめんなさい。
まずあたしを拘束している犯人ですが、月夜女姫とその妹、白石さんと冬子ちゃんの4人です。
さらに晴川さんは知っていると思いますが、月夜女姫は普通の人間を黒の一族に変える力を持っています。
晴川さん、あたしにはどうしたらいいかわかりません。助けに来て欲しいのは確かですが、
まともにぶつかるとどうなるかはわかっていると思います。だから、無理は言いません。
できるだけ多くの人が幸せになれる方法を考えてください。あたしは晴川さんのこと、信じてますから」
「春香ちゃん、そんなふうに綺麗事しか言わないとカンペがあるんじゃないかって疑われるわよ」
「あ、あたしは別にそんなつもりじゃ……」
「こんな極限状態でも台本に書いたような台詞が言えるとはねえ。ホワイトウイングはさぞかし厳しい訓練を課しているのでしょうね」
「……」
これ以上月夜女姫と会話を交わしても視聴者によくない印象しか与えないと思った春香は、キッと月夜女姫を睨みつけたまま押し黙る。
自分との付き合いが長い相手に正論で言いくるめる自信もなかったし、下手に刺激して余計に不利な状況になるのも困る。
「では、春香ちゃんはもう言いたいことがないみたいなので、ここまでにしましょう。じゃ、カットしてー」
どの局もほぼ同時にニュース番組に切り替わり、先ほど流れていた内容を繰り返していた。
「操られて言わされてるわけじゃ、なさそうだな」
「私は春ちゃんがあそこまで堂々とした態度を取れる人だったとは思ってなかったわ。
春ちゃんってこういう場面になったら『はわわ、えっと、その、どうしようどうしよう』ってなるタイプだと思ってたし」
「お前、2年以上ホワイトウイングで一緒に活動してきて赤坂のこと何にもわかってないんだな。
赤坂はちょっとしたことならすぐあたふたしてしまうが、一度肝が据わるとああ見えて打たれ強いんだぞ」
その「一度肝が据わった」状態というのが本当に窮地に立たされたときにしかならないので、
今の春香はテレビに映された見た目以上に追い詰められていることになる。
- 意識がぼんやりしながらも、あたしは現状把握に努めようとしていた。
視界は真っ暗。目が慣れてきても「どこかの部屋」ということしかわからない。
足は自由に動かせるけど、手は片手ずつ手錠でパイプのようなものに繋がれていて外せない。
そしてなにより、全身を覆っている脱力感。魔法も一切発動できない。
手錠くらいならあたしでも何とかなりそうなのに、何もできない今だとびくともしない。
「あら、春香ちゃん。目が覚めたみたいね」
不意に暗闇の中から先輩の声が聞こえたような気がして、びくっとしてしまった。
気絶する前の記憶がはっきり思い出せないけど、確かあたしは月夜女姫にやられたからここに囚われているはず。どうして先輩の声が聞こえるの?
「赤坂さん、お久しぶりです。本当は昨日会ったばっかりですけど」
今度は蘭ちゃんの声……疲れてるからかな、空耳が酷い。それか夢だ、夢に違いない。
「ちょっと、聞こえてるなら返事くらいしなさいよ」
「ひゃいっ!?」
何か尖ったもので頬をつんつんと突かれて、素っ頓狂な声が出てしまった。もしかして夢じゃない……?
「あの、ひょっとして先輩と蘭ちゃんですか?」
「そうそう。でね、春香ちゃん。今の自分の状況わかってるかしら?」
「わかりません……まず、ここはどこなんですか?」
「ホワイトウイングの元本部よ。だからそんなに怖がらないで」
「え、そこって今は月夜女姫がいるって報告があったような。先輩たちも捕まっちゃったんですか?」
「違うわ。なぜなら、春香ちゃんを捕まえさせたのは私だから」
うぅ、頭がこんがらがってきた。月夜女姫と戦ってやられて捕まってるはずなのに、
先輩があたしを捕まえさせたってどういうことだろ?ひょっとしてやられた後に保護してくれたとか?
それともあたしを奪還するためにここまで来てくれたか。どっちだろ?
「えっと、なんだかよくわからないですけど助けてくれたんですね、ありがとうございます」
「なんか赤坂さん、勘違いしてない?」
「『助けた』という表現はあながち間違ってはいないわね。間違ってはいないけど、おそらく勘違いもしている」
「どういう意味、ですか」
少し真実を知るのが怖かった。小さな灯り1つとない真っ暗な部屋で、私は先輩や春香ちゃんの姿が全く見えないのに、
先輩たちはまるであたしがきちんと見えているかのような話ぶりだからだ。いや、まさかね。暗視スコープとか着けているんだろう、きっと。
しかし次に先輩が発した言葉でその楽観的な予想はあっさりと否定された。
「私が助けたのは『晴川から』ということ。あと、私が月夜女姫である、ということよ」
最初に交戦したときからなんとなく似ている気はしていた。でも、あの時は月夜女の印象のほうが強かったのだ。
先輩本人の口から告げられても、事実を素直に受け入れられない。
「じゃあ、今まで戦ってきた月夜女姫は全部先輩だったってことですか!?」
「そうよ。ここを最初に襲ったのも、あちこち都市を壊して回ったのも、ホワイトウイングを襲ったり惑わせたりして追い詰めたのも、
全部私。春香ちゃんのよく知っている先輩、天道彩の仕業なのよ」
「そんなわけない!あの優しかった先輩がそんなことするなんて、ありえないです!どうして……ひぐっ」
泣いちゃだめだ。いくら酷いことをしたといっても、先輩にも何か事情があるのかもしれない。
先輩は理由もなく他人を困らせて楽しむような性格じゃない!
「どうしてって言われてもねえ。滑稽だから。それだけ」
「ただ自分が面白いからって理由だけで、何の罪もない人をたくさん殺したりしてたんですか……?」
「そうよ。悪いかしら?本当は普通の人間に配慮なんてする必要は全くないのだけど、無計画に殺しすぎると数が減るからね。
事前に避難する時間をあげているのだからむしろ感謝して欲し」
「そういう問題じゃないでしょう!!どうしちゃったんですか、先輩。元に戻ってくださいよ……」
こんなの、あたしの知ってる先輩じゃないよ……。
「それは無理ですよ、赤坂さん。お姉様は月夜女様に力を戴いて今の力を手にしたんです。私はお姉様から。
そこの元ホワイトウイングの2人も完全に堕ちちゃってるし、黒の一族が世界を支配するのも時間の問題だと思いますよ。
だれもお姉様には敵わないんですから。誰もそんな力を自分から手放したりするわけがないじゃないですか」
月夜女から力を貰った?そんな力が月夜女にあったなんて。そのまだ誰も知らない重要なことを私に教えるってことは、
もしかして、生きて返すつもりがない……?それともう1つ、
「そこの元ホワイトウイングの2人ってどういうことですか!?」
- 「私のすぐ後ろにいるじゃないですか。って、普通の人間の赤坂さんには見えてないんだっけ。ほら、2人も赤坂さんに話しかけてあげたら?」
2人も捕まって先に黒の一族にされたのかな?だとしたら、私もいずれ……。
「あなたがここまで間抜けだとは思わなかったわ。
だって、晴川より私と接触する機会が多いのに私が黒の一族になっていることに微塵も気付く気配がないんだもの」
「おかげで、私の魔眼にきれいにかかってくれましたね」
「冬子ちゃん、白石さん……そんな」
もう無理だ。既に2人も敵側に回られていては、ホワイトウイングに勝ち目は無い。
蘭ちゃんの言ったとおり、世界が黒の一族に支配されるのは時間の問題。
「冬子ちゃんなんて気安く呼ばないでくれる?まだ私とあなたが対等な立場のままだと思ったら大間違いよ」
肝臓の辺りに何の前触れもなく鈍い衝撃が与えられる。肺の中の空気が押し出されて息をするのが苦しい。
暗闇だから殴られたのか蹴られたのかはわからない。
「ふーん、いつからお前はそんなに偉くなったのかしら?」
「でもこいつは普通の人間ですよ?それにこれから黒の一族になったとしても私より立場は下のはずではないですか?」
「誤解しているようだけど、お前の立場はただの人間よりほんの少し上なだけよ。
春香ちゃんには蘭と同等のポジションに就いてもらうわ。つまりお前より上ってこと」
「ちょっとそれどういうことよ!私のほうが先に」
「文句あるの?」
姿が全く見えないのに、凍てつくような殺気が全身で感じられた。
月夜女姫と対峙したときでも、これほどの殺気を感じたことはまだない。特に寒いわけでもないのに鳥肌が収まらない。
「……ありません」
「穀潰しが調子に乗ってんじゃないわよ、全く」
誰にでも優しくできて、決して我侭を言わなかった先輩とはまるで別人だ。本当に先輩本人なのか疑いたくなってくる。
でも、テレビを通した犯行声明の後はあたしのよく知ってる優しい先輩に戻ったように感じた。人質の扱いとしては手厚すぎるくらいだ。
食事は今まで食べたことのないくらい豪華なものが出たし、外に出たり外部と連絡を取ったりする以外の要求はほぼすんなり聞いてくれる。
拘束具は全部外してくれたし、部屋の照明も先輩が眩しくならない程度なら許してくれた。しかし全身の気だるさはいつまで経っても抜けず、
魔法もずっと発動できない。そうやってたくさんの無関係な人の命と引き替えに生かされている自分が嫌になって、
2人で逃避行を続けているであろう晴川さんと夏菜ちゃんに申し訳なくなった。
先輩があたしを軟禁し始めてから、既にかなりの時間が経っていた。
犯行声明で言ったことを実行していれば、相当な数の人が犠牲になっているはずだ。
「もう何万もの人間が死んでいるのに何も行動を起こさないとは、
実は晴川って自分以外の人間はどうなってもいいって思ってるんじゃないのかしら」
「実際に殺してるのは先輩たちじゃないですか!晴川さんのせいみたいに言わないでください!」
「世間の非難の矛先は晴川に向けられてるわよ?」
そんなの、長いものには巻かれることしかできない一部の人だけだ。大多数の人は黒の一族が悪いってわかってるはず。
「晴川さんはそんなことでへこたれたりするほど弱くないです」
「じゃあ、そこに春香ちゃんが黒の一族になって襲って来たらどうなるでしょうね」
「やっぱり、先輩……」
遅かれ早かれあたしもこうなる運命なのは簡単に予想できていたた。
軟禁されて最初に変わり果てた冬子ちゃんと白石さんを見てから覚悟はできている。
「私の言ったことに誘われてあいつらがここに来てくれたら目の前で春香ちゃんを黒の一族にするのを見てもらう予定だったけど、
このまま待ってても来そうにないしね」
先輩が両肩をがっしりと掴み、そのまま押し倒してきた。すごい怪力だ。
あたしがベストコンディションだったとしても、振り払うことはできなさそう。
そして間髪入れずに首筋に噛み付いてきた!!
「く……ぁ……」
途端に声が出せなくなる。元々の気だるさに加えてさらに力が吸い取られたように脱力して、弱弱しい抵抗しかできない。
痛いわけじゃない。しかし自分の体の中に異物が染みこんでいくおぞましい感触に体の震えが止まらない。
<どうしてそんなに嫌がるの?何もデメリットなんてないのに>
体の中がぐつぐつ煮えたぎっているみたい……火あぶりになっているかのように全身が熱くなって、汗が滝のように噴き出してくる。
- <デメリットならあります……あたしが黒の一族になったら、それこそ世界の終わりです!>
<終わりではないわ。私と一緒に世界を作り直すの>
<そんなの……きゃあああああああ!!やだ、爪が……>
爪が硬く、鋭くなり、まるで刃物のように変化していた。もう時間がない!
<ほらほら、次は耳が尖ってきてるわよ?>
もっとゆっくり変化するものと思っていただけに、動揺が隠せない。先輩に耳を撫でられて、余計に意識がはっきりしなくなる。
<んはあ……>
このまま先輩の好きにさせたらだめだ。間違いなく、黒の力に飲み込まれる。
あたしが、あたしでなくなってしまう。
<そろそろ翼が生えてくる頃かしら?>
だめ……飲まれちゃだめ、絶対だめ!
頭がぼうっとしてくるにつれて全身の倦怠感はいつの間にか消え去り、代わりに力が漲ってる。今なら反撃することもできるかもしれない。
体は黒の一族にされようとも、心まで汚されるわけにはいかない。
<はあ、はあ、ふぁあああああ!!>
崖っぷちに片手1本でぶら下がっているような危機的状況で、脳髄を焦がすほどの快楽に襲われる。
それを気持ちいいと頭が認識したがるのを懸命に打ち消していく。我慢に我慢を重ねて、反撃の機会をじっと待つ。
<これはまた立派な翼ね……体の変化はこれで完了。次は心を……>
突然、どんよりとしていた思考が晴れてクリアになる。先輩の羽毛の1本1本、壁の僅かな歪みまでくっきりはっきり見える。
周りの動きが全部スローモーションに見えるくらい、感覚が研ぎ澄まされてる。
きた……今だ。
<させ……ないっ!!>
思いっきり手に力を込めて先輩を引き剥がそうとすると、バチッと黒い火花が飛んで先輩の体が壁まで吹き飛ばされた。
「効いた……?御神刀でも駄目だったのに」
黒の力だと闇界障壁は効果がないのかな?
「いたた……やってくれたわね」
さっきは不意打ちだから当てられただけで、1対1だと能力差がありすぎる。
ここは晴川さんと合流して改めて作戦を練り直したほうがいいかもしれない。有効な攻撃手段ができただけでも大きいはず。
先輩がどのくらいこの迷路のような本部に詳しいかわからないけど、あたしだって何回も出入りしてるから土地勘はある。
黒の一族になったせいで視界もよくなったし、逃げ切ってみせる!
先輩が体勢を立て直す前にバッテリーの抜かれていた通信機を回収して部屋を飛び出し、一直線に出口を目指す。
照明がギリギリまで抑えられている今でも、転移阻止装置は働いているらしく空間転移は使えない。
「そこまでよ!」
やっぱりそう簡単には逃がしてくれないみたい。白石さんと冬子ちゃんの2人がかり……しかも、黒の一族となった2人だ。
あたしもパワーアップしているとはいえ勝負になるかどうか。
「器用貧乏だったあなたが、私に敵うかしら?」
「このままホワイトウイングに合流されると色々と困りますからね。反逆者は洗脳してあげないといけません」
「あたしは負けない!」
いつも通り光球で攻撃しようとしたけど、いつもよりかなり弾が大きい。
その分反動も大きくて撃った後によろめいてしまった。色もいつもなら真っ白なのに今は赤紫っぽくて異様だ。
「「きゃあああああ!!」」
爆煙が晴れると、2人は力なく横たわっていた。あれ?こんなに2人とも弱かったっけ。それともあたしが強くなったから?
でも、これなら……この力があれば、ホワイトウイングの逆転も夢じゃない。早く合流して3人で平和を取り戻すんだ!
春香が通り過ぎた直後に2人の黒の一族はむくっと起き上がり、顔を見合わせてぷっと吹き出した。
どうしよう。
晴川さんと連絡が取れたのはいいんだけど、なぜか透明化できないから目立ちまくりだし。
それに本部の外に出ても転移もできないってどういうこと?おかしいなあ、黒の一族になる前でも少しなら透明化と転移はできてたのに。
- 「うわっ、出たあ!ば、化け物お!!」
「とと、ごめんなさいー!!」
休んでいた路地に入り込んできたおじさんにいきなり驚かれて、化け物呼ばわりされたあたしもびっくりして逃げ出してしまった。
この調子だとこのまま晴川さんと夏菜ちゃんに会っても疑われそうな気がする。なんとかしないと……。
そうだ、白石さんや冬子ちゃんが普通の人間の姿でホワイトウイングに潜伏できたのなら、今のあたしも普通の人間の姿に戻れるはず。
ふらふらっと立ち寄った駅の中の化粧室で自分の今の姿を確認する。
目が紅い。充血しているわけじゃなくて、普通はこげ茶色のはずの虹彩が鮮やかな紅に染まっている。瞳孔が縦に割れていてまるで猫みたいだ。
長く伸びた爪はかなり切れ味がよくて、気を付けていないとあちこちに切り傷を付けてしまってすごく迷惑。早く爪切りで処理したほうがよさそう。
耳たぶは尖っているだけで硬さは以前と変わらないけど、やっぱり奇怪なことには変わりはない。
そしてさっきから邪魔な大きくて黒い翼。烏の羽によく似ているけど、どういうわけか軽く羽ばたいただけでかなり浮き上がることができる。
飛びすぎて天井に頭をぶつけてしまったくらいだ。
「お願い、戻って……」
頭の中の知識を頼りに、目を瞑って念じてみる。
目を開けてみると、見慣れた自分の姿が鏡に映っていた。
「よかったあ……一生あの格好でいることになんてならなくて」
これなら化け物呼ばわりされることもないはず。
大丈夫、黒の力を手に入れても心はそのままだし、あたしは力に振り回されはしない。
「おい、あれって人質になってた赤坂ってヤツじゃないか?」
人通りの多い場所に来ると、あたしを指差してはこそこそと話をしている人があちこちにいる。
いやー、あたしもすっかり有名人だなあ。え、ちょっと、そんなにぞろぞろ寄ってこないでよ、照れるってば。
「あんたが捕まってなかったら俺の子供は死なずに済んだんだよ!責任取れよ、偽善者め!」
え……?
「被害者面して同情誘ってるのがみえみえですげームカつく」
いや、やめて、どうしてそんなこと言うの……?
「何万人も犠牲にしてのうのうと生きてるなんて恥ずかしくないの!?黒の一族を倒せないんだったら、さっさと死ねばいいのに」
あたしはあたしなりに精一杯頑張ってるんだよ?それなのにどうしてこんなこと言われなくちゃいけないの?
皆……そんなにあたしが嫌いなの……?あたしは皆の味方なのに、どうして応援してくれないの?ねえ、どうして、どうして!?
「い、いや……いやあああああああああっ!!」
感情の乱れに伴って、体の変化を抑えていられなくなる。
蹲って普通の人間の姿に戻ろうとしても両手の爪はギリギリと音を立てて伸びてくるし、翼も勝手に広がってくる。
尖ってきた耳を両手でふさいでも、罵声は全部シャットアウトできない。
「うわ、こいつ黒の一族だったのか!?」
「きゃああああああああ!化け物!殺される!!」
そう、だよね。あたしは化け物だよね。あってるよ、それで。皆、人の心は覗けないもんね。
「はあ、はあ……うぅ……えぐ……ひっく……」
漸く落ち着いて自分の変化が静まったとき、あたしの視界には誰もいなかった。
晴川さんならこういうことを言われても平気そうだけど、あたしは晴川さんほど図太くないから……はっきり言って、辛い。
心が折れそうだよ……。
その傷悴した春香の様子を、物陰から声を殺して笑いながら眺めている人物がいた。
晴川さんと落ち合う場所として指定されたのは、街から離れた港だった。ここなら人目につかないし、落ち着いて話もできる。
「春ちゃーん!よかったあー、ほんとに無事に帰ってきて……」
夏菜ちゃんは懐中電灯を持ってぶんぶん手を振っていたからわかりやすかった。
近くに寄って顔を見直してみるとなんとなくやつれているような気がする。やっぱり逃避行はきついんだろうなあ……。
「春ちゃん、捕まってからあいつらに変なことされなかった?私はてっきり春ちゃんも黒の一族になって襲ってくるものかと……」
「大丈夫だよ。あたしは見ての通り自力で脱出してきただけ。それに月夜女姫も人質の扱いに慣れてないのかな、やたらと丁重に扱われたし」
- それから2人にあたしが手に入れた情報、それと黒の力について包み隠さず話した。
あたしが黒の一族になった姿を見たときにはびっくりしてたけど、改めてホワイトウイングに味方することを告げると意外とすんなり納得してくれた。
「改造手術で脳改造の直前に脱出かあ。
『彼女を改造した黒の一族は、世界征服を企む悪の秘密結社である。改造人間赤坂春香は人間の自由のために、黒の一族と闘うのだ!』
……おおっ、これはお約束の正義の逆転フラグ!最高のシチュエーション!よーし、燃えてきたあ!!」
夏菜ちゃんのいつもと変わらないペースにあたしもやる気を分けてもらえる。攻略の糸口は掴めた。
もう、何をするにも中途半端で「器用貧乏」と言われてたあたしじゃない。
チームのお荷物……とまでは思ってなかったけど、最底辺から一気に主力に躍り出た。
「いや、改造人間って夏菜ちゃん……まあ、似たようなものだけどさあ」
改造人間の前に秘密結社もどこか違うような気がするけど、そんな些細なところを突っ込んで夏菜ちゃんのやる気を削がなくてもいっか。
「でも、これで大幅な戦力アップですね、晴川さん。……晴川さん、あんまり嬉しそうじゃないですね。もしかしてまだ疑ってますか?」
せっかくあたしが命からがら脱出してきたんだからもう少し嬉しそうにしてもいいのに、晴川さんの顔はいつもに増して険しい。
「赤坂、普通の人間の姿に戻ってくれるか?」
「あ、はい」
本当は黒の一族の姿でいたほうが楽なんだけど、あの格好は目立つからなあ。
そこから先は、見るも無残な惨殺行為が行われた。
いきなり晴川さんが銃を取り出して至近距離からあたしの頭を狙って全弾発射。叫び声をあげる暇さえない。弾がきれた後は御神刀で滅多斬り。
体から頭が離れて足元に大きな血溜まりを作った。
信じていた晴川さんに裏切られたと認識できたのは、胴体がうつ伏せに倒れた後。
頭の中の大事にしなければならないものが、純粋な悪意と憎悪と殺意に侵食されていく。
おかしいな、死んでも不思議じゃない怪我なのに、まだ意識はある。
頭にあれだけ銃弾を撃ち込まれて、さらに頭と体が切り離されてもまだ生きてるって……黒の一族の体の頑丈さに寒気がすると同時に、感謝した。
まだ、あたしは死ねない。
「ちょっと晴川さん、何やってんのよ!?」
春香の返り血を浴びた晴川に夏菜は食ってかかる。その晴川は春香から目を逸らして怒りをあらわにして口を開いた。
「あのな青野、お前さっきの赤坂の話が本当だと思ってるのか?あんなできすぎた話がありえるか。
白石と黒松のときはわからなかったが、今回はあからさますぎたな。俺をみくびるのもいい加減にしろ!」
「春ちゃんが裏切ったっていう証拠は何もないでしょ!どうして春ちゃんを信じてあげないの!?
信じられなくて疑うより、信じて裏切られたほうがいいに決まってるでしょ!やりすぎだって言ってんのよ!」
「そんな甘い考えだと、油断して背を向けた瞬間に何をされても文句が言えないぞ。しかし、もう少し楽に逝かせてやればよかったな」
行きすぎた人間不信が晴川と夏菜の間に軋轢を生じさせる。
「晴川さんのバカ!仲間を信じてあげなくて正義の味方が務まるわけないでしょ!」
「綺麗事ばかり並べていればいいと思うなよ。そういうのがもう通用しない戦いだってのがまだわからないのか?今はこの死体の処理を考えろ」
順調にきていたときには目立たなかった、晴川の度を超えた現実主義と夏菜の理想主義の違いが浮き彫りになる。
「自分で仲間を殺しておいてよくそんな台詞が吐けるわね……」
「ちょっと2人とも、人を勝手に殺さないでよ」
「「え……?」」
のそりと立ち上がり、手足を軽く解しながら2人を見やる。
さっきまで死体と思われていた人物が立って話をしていれば驚くのも無理はない。想像以上の再生速度にあたしもびっくりしたくらいだ。
「まさかホワイトウイングにもあたしの居場所がないとは思わなかったよ……
もうあたしを受け入れてくれる人は先輩しかいないんだね……うふふ」
どうせこいつ、あたしのことを月夜女姫と戦う駒としか見てないんだ。
それにこいつ、あたしの力なしで先輩に敵うと思ってるんだ。
そんな思い上がった蛆虫はあたしが殺しておかないとね。
- 「思ったとおりか……あれでまだ死んでいないとは信じられんな」
心の底に渦巻く闇が、溢れんばかりに溜まった負の感情が、あたしを取り返しのつかないところまで堕としていく。
もう、どうなってもいいや。
「春ちゃん、晴川さんが信じてなくても、あたしがいるじゃん!一緒に月夜女姫を倒そうよ!」
何よそれ。あたしに先輩を殺す手伝いをして欲しいって?笑えない冗談はよしてよ。
「夏菜ちゃんだってこいつに従ってるだけの犬じゃない。もう……遅いよ」
正義の味方のつもりでいた自分が急に馬鹿馬鹿しくなる。いくら高い給料を貰ってても、
どうして普通の高校生が生活を投げ打ってまで命を危険に晒さないといけないの?しかも最近は負け続けでこのままいっても勝ち目ないし。
頑張ってるのに一般人から浴びせられるのは罵詈雑言。そもそもあたしを殺そうとした奴の言うことなんて聞いていられない。
「やるしかなさそうだな。青野、覚悟を決めろ」
「う……春ちゃん、ごめん!」
こいつらがあたしを殺そうとするのなら、返り討ちにしてやる。
夏菜ちゃんは後回し。まずはあたしの人生を滅茶苦茶にしてくれたあの男だ。
この男さえいなければ、あたしは正義の味方ごっこなんてしていないで普通の高校生活が送れたのに。こいつさえいなければ!
「死ねえええぇーーーー!!」
「む、でかいっ?!」
この距離なら夏菜ちゃんは間に合わない。晴川も避けられない。
「晴川さん!」
力の限りの怨恨を込めて放った光弾はコンクリートの地面をガリガリ削りながらも速度を一定に保ち、完全に晴川を捉えていた。
1発だけで十分な気もしたけど、すっきりしたかったから必要以上に乱射した。
「死ね死ね死ね死ねええええええぇぇーーー!あはは、楽しい……あ、あれ?」
晴川に今のあたしの術を止める力はないはず。誰かが、晴川を守ってる……?
爆煙が晴れたとき晴川の手前に立って障壁を張っていたのは、
ホワイトウイングに補充された新しいメンバーとかそんなことはなくて……少し前にあたしが突き飛ばしてきた、先輩だった。
「月夜女姫?!」
「先輩?!どうして……」
先輩のところから脱走してきたばかりなのに、怒っているようには全然見えなくて、むしろ優しく微笑んでいるようにさえ見える。
その笑顔が今は逆に怖い。
「ダメじゃないの春香ちゃん。こいつを殺したら」
「おい、どういうつもりだこれは」
「あら、命の恩人に対してその言い草はないんじゃないかしら。私が割り込んでなかったら、お前は消し屑も残ってなかったわよ」
先輩は月夜女を殺したホワイトウイング、特にそのリーダーである晴川を殺したいほど憎んでいるんじゃなかったっけ。
なのに今更助けるってどういうことなの……?
「先輩、どうして邪魔するんですか?こいつは先輩の敵のはずじゃ」
「春香ちゃん、とりあえず落ち着こうか」
先輩がまるで仏のような優しい笑顔を浮かべながらあたしに向かって歩いてくる。
頭に手を置いてなだめる様は、昔あたしが友達と喧嘩して先輩に感情に任せて八つ当たりしたときの対応そのままだった。
「今あいつを殺したらもったいないわ。あいつには世間への見せ物役と、私の玩具役と、
人間が私に支配される様を見届ける役をやってもらわないといけないからね」
「そう、ですよね、殺しちゃったらそれでおしまいですよね。……何なの、私は先輩と話してるの、邪魔しないでくれる?」
あたしが邪魔をしてきた夏菜ちゃんに手を出すより先に、先輩があたしと一緒に倉庫の屋根に転移して2人を見下ろす格好になった。
「私があの2人を大人しくさせてくるから、春香ちゃんはここで待ってて」
2人と対峙した先輩は余裕たっぷりで、あたしの知っている先輩より何倍も輝いて見える。
あたしはそれをだらしなく口を開けて見蕩れてしまっていた。
「晴川さん、どーすんの、逃げるの、戦うの?」
「逃げるぞ!」
あれは晴川がいつも使ってる閃光弾!先輩は懐中電灯を向けられて眩しかったのか咄嗟の対応ができていなかった。
- 「くうっ!また……」
「先輩!あたしが代わりにあいつらを追います!」
「待って春香ちゃん、急ぐ必要はないわ。あの2人で蘭たちを突破するのは無理でしょうから、ゆっくり行きましょう」
あたしが追いついたときには既に2人は蘭ちゃんと白石さん、冬子ちゃんの3人に組み伏せられていた。
蘭ちゃんの強さはあたしも戦ったことがあるからよくわかってる。5人がかりでも蘭ちゃんが手加減してやっと互角だったんだっけ。
2人だといい遊び道具にしかならなかったんじゃないかな。
「蘭、よくやったわね。後で何かご褒美をあげましょうか」
「えへへ、やっぱりお姉様に褒められるのが1番嬉しいな」
蘭ちゃん、先輩に褒められてすごく幸せそうな顔してる。あんなに至福の表情をした蘭ちゃんをあたしは見たことがない。
「月夜女姫様、私も頑張りましたよ!」
夏菜ちゃんを押さえつけている冬子ちゃんも嬉しそうに先輩に報告する。
「あ、そ」
「え……私には何もないんですか?」
「ただの駒が苦労の押し付け?まだ自分の立場がわかっていないようね。お前は私の命令をこなして当たり前なの。
そこに見返りを求めることが間違ってるのよ」
「なんですってえ……」
さっきの蘭ちゃんへの対応とは正反対だ。ご褒美はなくても、せめて労いの言葉の1つや2つかけてあげてもいいのに。
ここまで露骨に差別されると冬子ちゃんがかわいそうだ。
「冬子様、ここは黙って引いておいたほうが」
白石さんがいきり立つ冬子ちゃんをなだめると、冬子ちゃんは不満を前面に押し出しながらも口をつぐんだ。
「……」
「先輩、冬子ちゃんに冷たく当たりすぎじゃないですか?もう少し優しく接してあげても……」
口に出してから、しまったと思った。あたしだって先輩に逆らえば冬子ちゃんのように酷い扱いをされる可能性だって十分にある。
昔は誰にでも分け隔てなく接してきた先輩が今は他人を平気で虐げているのだから、従順なふりはしておかないと不味い。
でも、あたしに向けられた言葉は叱責の類ではなかった。
「春香ちゃんはまだ完全に黒の一族にはなっていないようね」
「それはひょっとして……心、ですか」
体のほうは自分で鏡を見て確認したとおり、黒の一族の特徴が欠けることなく発現していた。
心のほうは先輩に手を加えられる前に脱走したから、まだそのままの状態にあるということかな。
「今ならホワイトウイングに戻ってその黒の力を使って私を倒そうとすることもできるけど、どうする?」
「そんなの、言うまでもありません」
あたしは白石さんに組み伏せられている晴川の顔面をしゃがみこんで侮蔑の目を向けた。
どうしてあたしは今までこんな男の言いなりになっていたんだろう。憎たらしくて仕方がない。
「どうしてあたしを助けてくれなかったの?」
「あれは明らかに俺たちを釣るための罠だろ、飛び込むわけにはいかない」
「それで言い訳のつもり?それでも危険を顧みずに助けにいくのが正義の味方でしょ?この薄情者」
絶対に許すもんか。そのまま死ぬまで一生、自分の犯した罪に苛まれ続けろ。
「よくもあたしを殺してくれわね。あのときあたしがどんな思いでいたかわかる?
痛いとか苦しいとかももちろんあるけど、それだけじゃない。
信じてたあんたに裏切られて、悲しいやら悔しいやらで頭がぐちゃぐちゃになった……」
「つまり、俺が殺そうとする前は邪心のひとかけらもなかったんだな?」
「そうよ!でも今更謝っても遅いわ。あんたが何をしようと、あたしは許さないから」
先輩が近くに寄ってきて、仲介をするかのようにあたしを晴川から遠ざける。
「これでわかったかしら?お前は自らの手で春香ちゃんを黒の一族に寝返らせたのよ。
春香ちゃんを信じていれば強力な戦力になってたでしょうに、もったいないわね」
「全部、俺のせいだって言うつもりかよ?」
「少しは自分で考えたら?ふふふ……」
先輩がぐいっと顔を近づけてくる。こうして近くでじっくり先輩の顔を見る機会はすごく久しぶりだ。
前から美人だなとは思っていたけど、今は整いすぎて冷たいくらい。綺麗すぎてむしろ怖いという表現がぴったりだ。
先輩に落ち度は全くないけど、正直これは周りから嫉妬されても当たり前だ。アイメイクを一切せずにあの睫毛はあたしも反則だと思うから。
- 「じゃあ春香ちゃん、これから心のほうもしっかり黒の一族になってもらうからね」
「はい……」
「赤坂、今ならまだ間に合う!」
「んう……」
晴川が呼びかけても、春香の返事が帰ってくることはなかった。
春香は月夜女姫に抱えられたまま噛み付かれていて、外から見たのでは意識があるのかどうかすらわからない。
<あれ、さっきと違って体が熱くならない……むしろ冷たい……>
<春香ちゃん、さっきはごめんね。本当はこっちからやるべきなのだけど、
体の拒絶を押し切って無理矢理体だけ変化させたから、きつかったでしょう?>
<ううん、いいんです、先輩。私こそ脱走なんてしちゃってすみませんでした>
外気に晒されて体が冷えるのとは逆で、体の芯からだんだん四肢が冷たくなっていく今まで経験したことのない不思議な感覚を私は楽しんでいた。
何かあたしの闇界障壁に当たったのか、鈍い衝撃が体に伝わる。
「ちっ、無防備な今なら大丈夫だと思ったんだけどなー」
「こいつ、私が目を離している隙に……申し訳ありません月夜女姫様、ひいっ!?」
絶対に何か罰を受けると思って身構えた冬子だったが、月夜女姫はギロリと睨んだだけで何もしてこなかった。
何も言ってこないことが冬子の恐怖心をさらに煽る。
<もう体が凍えて、血が通ってないみたい……>
<ねえ、春香ちゃん。今の私のこと、どう思ってる?>
<え?そうですねえ……かっこいい、ですかね>
あたしに言わせれば、先輩はアレに関すること以外は非の打ち所がない完璧超人だ。それは今も昔も変わらない。
その高嶺の花っぷりに引いてる人が多いらしいけど、そんな偉大な先輩と関わろうとしないなんてもったいない。
昔の先輩とは色々と変わっちゃったかもしれない。それでも先輩は先輩なわけで。
<どうして?今の私は月夜女姫で、世界を闇で覆いつくそうとしているのよ?>
<自分勝手な理由で黒の一族を駆逐しようとした人間が悪いんです。先輩はそれに反発しただけ>
今になってやっと、初めて月夜女姫と戦ったときに言っていた意味がわかった気がする。
月夜女姫、つまり先輩がたった1人のいじめられる側で、私たちホワイトウイングが大人数のいじめる側だったんだ。
こういう場合、どんな理由があろうといじめる側が悪いに決まってる。
<よかった、春香ちゃん……きてくれたのね>
<できたら、先輩のお手伝いをしたいな。……ダメですか?>
<ふふ、その言葉を待っていたわ。もちろん大歓迎よ>
<やったあ、嬉しい……>
<春香ちゃんの身も心も全部私のもの、それでいいのね?>
<奴隷でも何でも、先輩の好きなようにこき使ってくれていいんですよ。私は先輩のお手伝いができるだけで幸せですから>
束縛の鎖でぎゅうううっと心を締め付けられると嬉しすぎて泣きそうになる。
束縛してくれるということはあの素晴らしい先輩があたしを認めてくれたということだし、
これからずっと憧れの先輩と一緒にいられるということだから。
<じゃあまずは、さっき邪魔をしてきたゴミのお仕置きといきましょうか。勢い余って殺したらダメだからね>
<わかりました、先輩……>
あたしが夏菜ちゃんのすぐ側に立つと、夏菜ちゃんはあたしから顔を背けて呆れたようにため息をついた。
「はあ~、ついに春ちゃんまで黒の一族になっちゃったかあ。で、次は私ってこと?」
「先輩、どうするんですか?」
「お前には特別お世話になったからねえ。その分をみっちり楽しませてもらおうかしら」
「だってさ。楽しみだね、夏菜ちゃん♪」
「……どいつもこいつも毒されちゃって、バカじゃないの」
夏菜がボソッと呟いたその言葉は、冬子に暴行を加える春香の狂声にかき消されて誰の耳にも届くことはなかった。
私が目を覚ますと、周りは全く光のない闇と化していた。両手にがっちりと手錠が嵌められていて動作に制限がかかっているものの、
それ以外は自由に動けるらしかった。少し離れたところでガチャガチャと金属が触れ合う音が聞こえる。
- 「そこにいるのは誰?」
「お、青野か。まさか一緒の部屋に入れられているとは思わなかったな」
よく聞き慣れた、晴川さんの声だ。
「見ての通り真っ暗だ。悪いが魔法の火力を調整して明かりをつけてくれないか」
「こういうのは春ちゃんが得意なんだけどな……」
春ちゃんは今この場にいないし、黒の一族になってしまっている。私はぶっ放すのは得意でも細かい調整はダメなのだ。
「うわっ!?」
案の定失敗して、暴発した魔法が天井に穴を空けてしまった。別に脱出しようとして穴を空けたんじゃないから!
……って言っても多分通用しないんだろうなあ。どうしよ。
しかし天井が壊れて結構大きな音が出たにもかかわらず、外はシーンと静まり返ったままだった。
「どう見ても牢屋だな、ここ」
正面は鉄格子で、隙間から覗いてみても見張りらしきものはいなかった。
それ以外は窓もない普通のコンクリートの壁……じゃなかった、1ヶ所だけ扉がある。
中は水洗トイレだった。
「トイレが設置してあるということは、この監禁は短期間で済ませる気はないと考えたほうがいい。ご丁寧に布団もあるしな」
「そんなあ……ねえ、あの天井の穴から脱出できない?」
風が吹き込んできているから、外に繋がっているのは確実だ。
「このままここにいても何をされるかわからんからな。よし、ここは脱出に賭けよう」
こんなざる警備じゃ、脱出してくれと言っているようなものだ。天井を上に登るとすぐに外に出たらしい……が、
部屋の中と同じく真っ暗だった。月明かりどころか、外灯や建物の明かりすら見えない。ここは人が全然住んでない山奥なのかな?
手錠を繋ぐ鎖は魔法で壊すことができたけど鋼鉄の輪の部分は壊せないのでそのままにしたまま、
私の魔法の明かりを頼りにしばらく闇夜の中を彷徨った。
晴川さんは御神刀や閃光弾など装備を全部奪われて丸腰だし、私の魔法は月夜女姫には通用しない。一刻も早く戦力の増強が必要だ。
いや、そうじゃない。
私が、私自身が強くならなきゃいけないんだ。黒の一族全員を倒せるくらいに強く。この魔法の力をもっと自分のものにするんだ。
「だめだよー、勝手に外に出ちゃ」
開けたところに出た時点で聞きなれた声で背後から話しかけられ、警戒を強めながら2人揃って振り向く。
背中から黒い翼を生やし、一目で人外に堕ちたとわかる姿の春ちゃんが紅い目を細めて笑っていた。
「しまった、つけられた!?」
「つけてないよ。埋め込んだものはあるけど……発信機なら。生体エネルギーで動く最新型らしいよ。
だからあんたたちがどこにいようとわかるってわけ」
「いつの間に……」
逃げても無駄だとわかった以上、ここで春ちゃんを倒すしかない。
御神刀は今ないから戦闘不能にして拘束までしかできないけど、うまくいけば人質として使える。
「赤坂、お前1人か?」
「そうよ。本当はどうしようもないゴミ2人と一緒に来るはずだったんだけど、
あたしが殺してしまいそうだからって先輩に言って1人にしてもらったの。あの2人、力もないくせに生意気なのよ。
おまけに先輩にやたらと突っかかるし」
「ゴミ2人って……白石と黒松のことか。仮にも仲間なのによくそんなことが言えるな」
本人がいないから好き勝手に言っているわけではなさそうだ。この言い方だと本人の前でも平気で罵っているに違いない。
正義の味方としてのやる気はイマイチだった春ちゃんだったけど、仲間意識だけは4人の中の誰よりも強かったのに。
「仲間?あの2人とはそんな対等な関係じゃないよ。ゴミじゃないとしたら……駒、かな。
何でも言うこと聞いてくれて便利だよ、あんまり役に立たないけどね」
さりげなく逆手で髪の毛を耳にかける仕草が上品で、子供っぽさが抜け切れてなかった以前の春ちゃんとは違う。
私より1つ下には全然見えない。裾が膝上までと短い真っ赤なショートラインの豪奢なドレスも今の春ちゃんにはよく似合っている。
本当にこれが春ちゃんなの?
威圧感、というよりこれは邪気……全身にこれを浴びているだけで悪寒と吐き気がしてきて、気分が悪くなってくる。
「ほら、どうしたの?折角あたしが先手を取らせてあげようと思って待ってるのに、もう戦う前から諦めてるの?」
春ちゃんは自分の闇界障壁の強さを過信して油断してる。チャンスだ。
あいつらの闇界障壁みたいな全方位型のバリアは1点集中攻撃に弱いのがお約束……のはずなんだけど、それはダメだった。ならば!
- 「とっておきを見せてあげる!」
「夏菜ちゃんの技なんてもう全部見てるよ。今更とっておきも切札もないでしょ?」
「アレをやる気か」
「そう、アレよ。晴川さんは危ないから離れてて」
月夜女姫と初めて対決した日からいざというときのために皆に隠れて練習してたんだ。私の機動力を最大限に生かした全包囲攻撃。
攻撃中に敵の周りを縦横無尽に駆け回ることにより、敵を翻弄して真正面からのまともな防御はさせない。
「アクセラレイト!」
力の全てを足に込め、誰も追いつけないほどに速く。
「え、ちょっ……」
春ちゃんは私の動きについてこれてない。目で追うことすらできていなかった。
「身体能力は上がっても、戦闘技術はそのままみたいね!」
攻撃の瞬間だけ、足のブースターを切る。攻撃が終わった直後から再び加速。
この切り替えを早くスムーズにできるようになるのに私がどれだけ修練を積んだと思ってんの。これを打ち破れるものなら、打ち破ってみろ!
「くっ……」
「青野、いけるぞ!そのまま押し切れ!」
余裕ぶっていた春ちゃんに初めて焦りの色が見えた。さらに闇界障壁にいくつも亀裂が走る。ここまでくればもう少し!
「……フフフ、闇界障壁にヒビ入れただけで嬉しそうにしちゃってさあ」
春ちゃんの纏う雰囲気が一変した。
手を額に当てながら不敵な顔をちらっと見せて、もう一方の片手から赤紫の光弾を何発も撃ってきた。
私のレーザーはそれに簡単に打ち負けて、一斉に私自身に襲い掛かってくる。焦っているように見えたのはフェイクだったの?!
数が多い上に1つ1つが大きくて、避けきれない!!
「うあ……!!」
「青野!大丈夫か!?」
つ、強すぎ……模擬戦じゃ春ちゃんには1回も負けたことなかったのに、この違いは何なの……。
「残念でしたー。なーにが『アクセラレイト!』よ。小手先の技に頼ったところで絶望的な能力差は埋めようがないのに」
「くそ、以前の赤坂とは次元が違いすぎる……」
以前の春ちゃんの光弾は威力が低く、牽制以外には使い道がなかったくらいだ。それが黒の力を得ただけでこれほどまでに変わるものなの?
「この力、ほんとにいい。この力があれば全部あたしの思い通り。誰もあたしに逆らえないの、アーハッハッハッハ!」
あり余る力に溺れ、月夜女姫にいい様に使われていることにすら気が付かない哀れな春ちゃんの姿がそこにあった。
「春ちゃん、自分が何やってるかわかってんの?」
「わかってるよ。正義面して先輩を殺そうとしてたり、なあんにも考えずにそれについていったりしてるあんたたち2人より、余程ね!」
真正面から説得にかかってもダメだ。まずその高慢な態度を力ずくで止められないと話にならない。
「変わったな、赤坂。その傲岸不遜な態度、月夜女姫にそっくりだ」
哀れみを込めて晴川さんが言った言葉に、春ちゃんは逆に嬉しそうに目を細めた。
何を考えているのか、春ちゃんは口の中でクスクスと笑い声を上げる。
「それはあたしが先輩に近付いたってこと?憧れの先輩に似てきたって言われるのは悪くないね。じゃあ帰ろっか、2人とも」
こうして、私たちは再びあの真っ暗な牢獄の中に逆戻りしてしまった。
脱獄を実行した割には何の懲罰もなく、あっさりと晴川さんは部屋に戻された。
「で、私は特別待遇ってわけ?」
「特別待遇ってわけじゃないわ。少し操り人形気分を味わってもらおうと思ってね」
魔眼を使うつもりね……わざわざ予告してくれるとはありがたい。
直接相手の目を見なければ絶対にかからないんだから、顔を逸らして目を瞑っていれば言いなりになんてならないはず。
「ほら、顔を逸らさない」
片手なのにすごい力だ。でも目を開かなければ魔眼も通用しまい。
その考えが浅はかだったことをすぐに思い知らされる。
硬く瞑っていた瞼が手によって強引に開かれ、私の左目は不意にグワッと見開かれた。
「やばっ……」
眼球を動かせばまだ抵抗できたが、そこまで時間の猶予は与えられなかった。目を逸らそうと思ったときにはもう目が動かせない。
- 「ふふふ……これでお前は私の傀儡ね。返事は?」
「はい……」
やられた……自意識はそのままで、全身の自由を奪われた。
自分の意思だと指一本動かせないのに、月夜女姫の言うことは体が勝手に動いて命令を実行してしまう。
何をやらせる気なの……?
「今度は逃げたりしないようにね。またきついお仕置きをされたくはないでしょ?」
首輪に繋がれている長い鎖を鉄格子に繋ぎ、再び晴川さんと牢屋で2人きりになった。
「お仕置きって言ってもなあ……別に何もなかったじゃないか。青野、お前何かされたのか?」
「いや、全然」
嘘付け、現にこうやって操られてるじゃん!と訂正しようにも、それができないもどかしさだけが残る。
早く私が操られてるってことを知らせないと……体の主導権は月夜女姫が握ってるからそれもできない。
「はあ……はあ……」
「どうした青野、さっきから息が荒いが風邪でも引いたのか?」
「平、気……大丈夫、だから。ほら……」
手にともした明かりで自分の顔を照らす。鏡でわざわざ自分の顔を見て確認しなくても、顔の筋肉が緩みきっているのが感じ取れる。
熱病にうなされているというよりは、興奮に頬を紅潮させているといったほうが近い。
「顔がすごくいやらしいんだが。ああなるほど『あっち』かよ。まあ1人で勝手にやるのは構わんが、無駄な体力を使うなよ」
いつもの私ならそんなだらけた顔しないでしょ、いい加減気付いてよ!
さらに口から舌を垂らしたまま、四つんばいになって晴川さんに近付いていく。
もう、やだ……こんなことしてるとほんとの犬みたいじゃない!
そうこうしているうちに晴川さんの背後から正面に両手を回して、抱きつく。これ、明らかに晴川さんに何かしようとしてる……。
「うふふ、捕まえたあ……」
これが自分なのかとびっくりするくらい色っぽい声で晴川さんを官能の世界へと誘う。
バカね、晴川さんにそんな色仕掛けが通用すると思ったら大間違いよ!
「こら、やめろ、暑苦しい」
ぐわっと口を大きく開けて、その口を晴川さんの首に近づけて――これって、まさか。
「あ~む!」
がぶりと、いった。
「ぐあああっ!?」
操られるままに晴川さんの首筋に噛み付き、
予め砂糖が入ってるコンデンスミルクにさらに砂糖を加えたようなどろっとした甘ったるい味が口いっぱいに広がる。
私は甘いものが大嫌いだからすごく不味い……気持ち悪くて吐き出したいけど、それもできない。
やっとのことで私を振りほどいた晴川さんは、今の私が放つ異様な雰囲気に気圧されてる。
「あ、ごめん。痛かった?殺すまで吸い尽くすつもりはないから、大人しく吸わせてよ、ね?」
「……こいつ、操られてやがる」
これがお仕置き……こうやって、回りくどいやり方で私と晴川さんの仲を引き裂こうってわけね。
こんなもの、私くらい精神力が強ければ……んん……。
「逃げられないよ。晴川さんだって鎖に繋がれてるのは一緒でしょ?」
鎖を手繰り寄せて晴川さんとの間合いを詰めていく。晴川さんは今武器を持ってないのに、
私が魔法で一方的にいたぶるつもりなの?どうにかしないと……。
「この、目ぇ覚ませ!!」
小気味いい音が部屋に反響した。
「痛た……あ、魔眼解けてる」
「ふう、ビンタ程度で解けるくらいの強さの魔眼でよかった。前回お前が操られたみたいに数日拘束するわけにはいかないからな。
その前にあのまま青野に殺されるほうが早かったかも知れん」
暴走してチームの皆に迷惑をかけた嫌な記憶が頭をよぎる。
あの後しばらく「バーサーカナ」なんてあだ名が付けられて皆に散々弄られたのに、晴川さんまであのことを思い出させないで欲しい。
- 「ごめん、晴川さん」
「もういい、不可抗力だったんだろ?」
「そうだけど……」
「まずは状況確認が先だ」
魔法で周囲を明るく照らして確認してみると、最初に入れられた牢屋と全く同じつくりだった。
ただ、今回は拘束具が手錠から首輪に変わっている。鎖の壊れた手錠はそのままだ。
首輪自体は手錠と似たような素材でずっしりと重くて簡単には壊せそうになかったけど、首輪と鉄格子を繋いでいる長い鎖は何とかなりそうだった。
「でもこれ壊しても私たちの行動が筒抜けだから意味ないかあ……」
「それにまたアレをさせられるのはお互いきついしな。ここは大人しくしておいたほうがいいか」
晴川さんは私を先に寝かせてくれようとしたが、
これから何をされるのかという緊張と寝ている間にまた暗示をかけられたりしないように警戒していたから、結局一睡もできなかった。
- 晴川たちが監禁されているところと同じ建物の中で、私は他の黒の一族の4人を集合させていた。
会議室というよりは机のない教室といったほうが近い部屋だ。
その部屋のホワイトボードにはこれから晴川たちが受ける拷問の数々がぎっしりと書かれている。
「とりあえず月夜女様が持っていた『拷問・処刑・虐殺全書』からよさそうなのを抜き出してみたのだけど、他にやりたいものがあるかしら?」
「先輩、どうせ瀕死になるくらい痛めつけてもすぐに治癒術で治せるんだから、もっと処刑っぽいのでも大丈夫ですよ」
「何か他にあるの?」
春香ちゃんはにこにこしたまま、元々爽やかなスポーツ少女だったとは思えないほど猟奇的な提案をしてきた。
「あたしが昔読んだ本の中に『逆さに吊って鋸で股から切る』ってやつがありましたよ。
そうやって切ると胸の辺りまで刃がこないと死ねなくて、内臓をずたずたにされる痛みを意識がはっきりとしたままで味わい続けるそうです。
やってみたくないですか?」
「なるほど、鋸引きはあったけどその発想はなかったわね」
股から切るとなると途中で骨盤を切ることになる。腕や足の骨とは頑丈さが違う。
それだけに長引くだろうし苦痛も比べ物にならないはずだ。直接腹を切るより楽しめる。
「お姉様は鞭使ったことあるの?」
「え、ないけど……というか、使ったことないのが普通でしょう?」
「あれ、使いこなすの結構難しいよ。私は何回か使ったことあるんだけど、上手に振らないと自分に当たるんだよね」
「蘭って素手じゃないと肉の感触が味わえないから嫌とか言ってたのに、いつの間に使ってたのよ」
「好奇心だよ。お姉様は街を襲ってたときは魔法を試してたみたいだけど、私は物質創造も満遍なくやってたから」
蘭は私より後に力を手に入れたにもかかわらず、より上手く力を使いこなそうと試行錯誤していたため技術だけなら私よりも上かもしれない。
さっきからそこで黙ってるゴミとクズとは向上心が違う。
「薬漬けはしないんですか?」
「ああ、普通は依存症なんてそう簡単に治せないから忘れてたわ。
薬で釣ってより残酷な方法も試せるし、いいかも。問題はどうやって調達するかだけど……」
「あのー……」
「ん、何?」
薬漬けを提案したゴミでないほう――ゴミが僕にしてきた人間、白石秋生だったか――が自信なさそうに手を上げていた。
「折角青野さんは女なのですから、陵辱をなぜしないのですか?
このような場合輪姦は行われないのが不思議なくらい当たり前の行動ですし、精神的に追い詰めるのに有効な方法だと思うのですが」
ふむ、陵辱に輪姦ねえ。クズが言っている言葉の意味はわかる。だが……。
「お前、ちょっとこっちに来なさい」
作り物の微笑を貼りつかせた顔で、たった今不躾な発言をしたクズを手招きする。なぜか春香ちゃんが1人でニヤニヤしているのが見えた。
「いかがいたしましたか、月夜女姫様」
全く悪びれる様子のないクズの首を鷲掴みにして爪を食い込ませて、そこで私が初めて怒りをあらわにする。
「あの不潔で無様な体勢でやる動物丸出しの行為がね、私は大っ嫌いなのよ!
あんな下劣な行為をまるでステータスのように求める現代社会が異常なの!
あれを見るなんて、どうして私が気持ち悪い思いをしないといけないの!?
さてはお前も、アレが男女間の優秀なコミュニケーションツールとか思ってる猿ね!」
クズのほうは気管が圧迫されて呼吸も満足にできていない。黒の一族だから呼吸困難で死ぬことはないにしても、
人間のときと同等の苦しさを味わっているはずだ。喉から流れた血が私の手を赤く染めていく。
「も、申し訳、ございません、でした……」
「どうしてあんな無意味なものを皆やりたがるのかしら。
人類を人工授精、もしくは優秀なクローンのみで作り、国が養育院でまとめて育てれば親は全部労働力になるのに。
それがわからない発情期の獣には教育が必要ね」
クズを蹴り飛ばすと、栓が外れたかのようにどばっと首から血が溢れ出す。
すぐにクズ自身で治癒術を使っていたため出血は間もなく収まったが、それなりに大きな血溜まりができていた。
- 椅子の肘掛に左肘をおいて頬杖をつき脚を組んで座ると、ドレスの裾の下からちらりとブーツの先が覗く。
スムース革の黒のピンヒールのロングブーツ。最近やっとハイヒールで歩くのにも慣れてきた。
「クズを蹴ったせいで靴が汚れてしまったわ」
靴を軽く浮かせ、春香ちゃんと目をあわせる。これ以上の言葉は要らない。
それだけで春香ちゃんは弾かれたように動いて私の前に跪き、躊躇いなく舌を私の靴に這わせる。
綺麗にしろとも、靴を舐めろとも私は言う必要がない。
「んむ、れろ、れろ、んむう、ぴちゃ……」
屈辱を押し殺すどころか、逆に嬉しそうに春香ちゃんは私の靴を舐める……というより、しゃぶっている。
私が何も言わなくても靴裏まで丹念に舐めてくれる。私が具体的に指示しなくても春香ちゃん自ら進んで私の意思を汲み取ってくれる。
靴を舐めさせるという行為は、忠誠の度合いを確かめる方法としてはポピュラーなものだ。
元々先輩後輩という上下関係があったことも影響しているのかもしれない。
これを見る限り、私と春香ちゃんの主従関係は最高に固いものとみていいわね。
もちろんゴミとクズの2人もこの水準まで私に対する隷従意識を高めてある。
「ねえ、そこのゴミ。私にもアレ、やってみようか」
蘭が私の真似をして靴を浮かせる。靴は私とお揃いのものだ。徐々にではあるが、蘭も私の僕に遠慮なしに横柄な態度がとれるようになってきている。
「月夜女姫様なら別にいいけど、なんであなたの靴なんか舐めなきゃいけないのよ」
形式上の立場の違いはあるが、蘭とゴミに直接の主従関係はない。しかしゴミのほうはもっと自分の立場をわきまえて欲しいところだ。
「やってみようかって言ったら、やりなさいってことだよね?」
反抗的なゴミを、蘭が優しく脅す。見た目と口調は穏やかなままで、言っている内容だけをきつくする。
そのギャップがより一層恐怖をかきたてることを蘭もわかってきたらしい。
「春香ちゃん、反対側も」
「はい、ありがとうございます」
蘭に命令されても、まだゴミのほうは動こうとしない。動こうとはしていないが、視線が蘭の顔と靴との間を何度も往復している。
「もっとはっきり言わないとわからないかなあ」
蘭は呆れたような顔をすると共に、さらに靴をゴミのほうに突き出した。
「私の足元に跪いて、私の靴を舐めて綺麗にしなさい」
自分の妹の成長に感心する。蘭も遂にここまで言えるようになったとはね。
蘭の上から押さえつけるような物言いにゴミのほうもたじたじになっている。
「わ、わかりました……」
春香ちゃんと比べると、やはりゴミのほうは靴を舐めることにかなりの抵抗があるらしい。
両手に靴を持ってからもしばらくは唇を震わせるだけで動きが止まるし、
屈辱感を抑えられないのか舌先をちょんと触れさせただけでなかなか次に進もうとしない。
「あれ?折角『舐めさせてあげてる』のに、私に感謝の言葉もないわけ?」
勢いづいて蘭はさらに高飛車に出る。「お前の抵抗の意思など全て踏みにじってやる」と言わんばかりの強い力のこもった瞳でゴミを見つめている。
「この、いい加減に……」
ゴミが何か言いかけたが、蘭の見下すような視線を真に受けてビクっと体を強張らせた。
あの表情を見てしまえば、逆らう気が失せるのも仕方ない。気の弱い人間なら目をあわせただけで殺せそうだ。
「1回だけなら聞かなかったことにしてあげるよ?」
この貫禄こそ、私の僕に相応しい。私の真似をしているうちに自分のしていることが板についてきたみたいね。
「ありがとう、ございます……」
「まさか靴の上っ面だけを適当に舐めて終わらせよう、なんて考えてないよね?」
初めから靴底を舐めるのは抵抗があっても仕方がない。
果たして蘭は暴力に訴えずに、言葉と表情と雰囲気だけで従わせることができるかしら。
このままあの女を手懐けることができれば私の僕として1人前だ。
「あの、冬子様が無理なら、私がやりますけど……」
「貴方はもう従順だからこんなことをやらせても面白くないのよ」
あの様子じゃ、私と春香ちゃんほどの主従関係になるためにはそれなりに時間がかかりそうだ。
でも急ぐ必要はない。じっくりと立場の違いをわからせてやればいい。魔眼を使って言うことを聞かせるより、そのほうが蘭の練習になる。
- 「そういえばさあ、貴方がさっき言ってた『りょうじょく』とか『りんかん』って何?」
蘭がゴミに靴を舐めさせながら、さっきのクズの発言に食いついている。
蘭には知る必要もないし、世の中には知らないほうがいい情報もあることを教えておかなければならない。
「ああ、それはですね……」
「お前は蘭と口を利くな!蘭が穢れる!」
急に立ち上がったから、春香ちゃんの手を踵でゴリッと踏みつけてしまった。骨が折れてしまったかもしれない。
そんなことより今は蘭のことが大事だ。
「あ、ちょっと、お姉様!」
蘭の手を引っ張って別の部屋に連れて行き、クズとの関わりを絶たせる。
一旦興味を持ったものを「調べるな」と止めても人間の好奇心というのはそう簡単に抑えられるものじゃない。
「蘭、ちょっとこっちを向いてくれる?」
「何、お姉……さ……ま……」
私を強く拒絶している相手ならともかく、蘭なら心の壁を瓦解させることなど容易い。魔眼を使って蘭の意識の全てを私に集中させる。
ああ、なんて可愛いのかしら。
可愛いだけじゃなくて可憐さも併せ持つ顔立ちに、私と同様の長い睫毛。
子供と大人の両方の魅力が掛け合わさった、ベストなタイミングで体の成長が止まっている。
さっきの貫禄と余裕に満ち溢れた顔もいいが、こうやって魂を抜かれたような惚けた表情もいい。
魂を抜かれたような惚けた表情をしているのは今の私も同じだった。
「私が蘭に見蕩れちゃってたらダメじゃないの」
気を取り直して蘭の記憶を弄り始める。優しく、ゆっくり、確実に。
蘭には学校の保健体育で教えてもらうくらいの知識があればいい。
男が出した精子がどうやって女の子宮に到達するか?そんなもの、蘭は知らなくていいし知る必要もない。
だが他の人間全員まで制限するつもりはない。そうすると人間がいなくなってしまう。
だからこれは姉である私のただの我侭。
記憶を消すだけではまた今回と同じことが起こるかもしれないので、
ああいうのはただひたすら下品でわいせつなものだという偏見を植え付けておく。
蘭は一生純潔無垢のままでいて欲しい。
ずっと人間の汚い部分を知らないままでいて欲しい。
尿が出る不浄なところを舐めたりする現実があるなんて知って欲しくない。
もし私の蘭に風紀紊乱なことを吹き込もうとする不埒な奴がいたら、全員八つ裂きにしてやる。
「これでよし、と。ほら、蘭、何ぼーっとしてるのよ」
蘭の肩を軽くぽんぽんと叩いて意識を覚醒させる。蘭は寝ぼけ眼で私を見た後、自分の今の状況を判断するまで少し時間がかかった。
「う~ん……あ、あれ?ごめんなさいお姉様、私ちょっと気が抜けてたみたい」
「少し疲れてるのかもね。今日は早めに寝なさい」
それにしてもあのクズ、普段は大人しいふりをして本性はあんな淫乱女だったとはね。ほんと、人は見かけによらないわ……。
自分がどうして怒られたのかわからない秋生は、自分の作った血溜まりを掃除していた。そこに部屋に残っていた春香が声をかける。
「いやー、見事にあたしの予想どおり先輩の地雷を踏んじゃったね、白石さん♪」
「赤坂さん、知ってたなら言ってくれてもいいのではないですか」
「何でわざわざ自分で楽しみを取り除かないといけないのよ。
黙ってれば2人のうちどっちかは引っかかるとは思ってずっと楽しみにしてたのに」
「……赤坂さん、なかなかえげつないことをしますね」
秋生の恨みのこもった目つきも、今の春香には弄りがいのある獲物にしか見えていない。
「蘭ちゃんに2人がまだ激しく怒られてないって聞いてたから、その時点で2人に言っておけばこういう事態は未然に防げたかもね。
でも、あたしはあんたに卑猥な発言をしろとは言ってないし、勝手に引っかかったのが悪いんじゃない?」
春香の言い分は無茶苦茶ではあるが、月夜女姫に叱られて動揺している秋生の心の傷を抉るには十分だった。
- 「先輩も変わってるよねえ。内臓とかグロテスクなのは平気なのに、あっち系のことは耐性ゼロだし。
昔から軽い下ネタ程度で嫌な顔してたけどね。あ、グロテスクなのがだめだったら医者やっていけないか」
「あそこまで毛嫌いする人は初めて見ましたよ。化石みたいな貞操観念ですね」
「あたしも先輩以外には知らないなあ。どんな育ち方をすればああなるんだか。どこの時代の頑固親父ですかって感じよ」
元々天道彩はグロテスクなものは苦手で、ごく普通の感覚を持つ女の子であった。
医者を目指すのにそれではいけないと思い、中学生の間に自分で克服したのだ。
それが今は黒の一族となって残虐性が増幅されているに過ぎない。
月夜女姫がその方面の話が未だに苦手なのは、親が無菌状態で育てすぎたのが原因だった。
「あそこまできついセックスヘイターじゃなかったら、先輩は頭も顔も運動神経もいいし、
友達想いで性格もいいから人間関係も円滑にできただろうにねえ……今言っても遅いけど」
「そういえば、今晴川と青野さんを一緒の牢に入れてますけど、大丈夫なのですか?」
秋生から見れば、月夜女姫が男と女を同じ牢に入れていることが信じられなかった。
見張りも置いていないし、そういう行為に及ぶ可能性も十分に考えられる。
「先輩のことだから多分わかってないだろうね。でも、あの2人は『色恋沙汰とかめんどくさい』って言うタイプだから心配ないと思うよ」
男1人に女4人という組み合わせで2年近く何も起こらずに済んだのも、晴川の貞操観念が強かったからに違いない。
しかしその情に流されない過剰なまでの冷血さが春香を堕とすことになった。
「それに、2人を同じ牢に入れておくのは目的があるらしいよ。あたしは知らないけど」
春香はこれから2人を待受ける運命に心を躍らせ、秋生はその運命に少しだけ同情した。
晴川と夏菜の2人は別の部屋に移動させられて、そこで壁から生えた短い鎖で手足を拘束された。
牢屋と同じくここも真っ暗で、黒の一族でない者は視界が完全に閉ざされる。晴川たちは目隠しをしているのも同然だった。
「まずはオーソドックスに鞭からいってみましょう。覚悟はいいかしら?」
「……やりたいならさっさとやればいいだろ」
晴川はふてぶてしい態度で月夜女姫の言葉を受け流す。
「そうやって冷静を装うのもいつまで持つかしらね!」
言いながら勢いよく鞭を振り下ろすが晴川に当たることはなく、先端が月夜女姫自身の闇界障壁に当たって跳ね返った。
「このっ、このっ、どうして当たらないのよ……」
「先輩、あたしは夏菜ちゃんのほうをやってもいいですか?」
「ええ、いいわよ。……鞭も練習しておくべきだったかしら……」
「じゃあ私も夏菜ちゃんのほうにしよっと」
春香が床を鞭で叩いてバシィンと景気のいい音を響かせるが、夏菜のほうもそれで恐がる様子もない。
「1回やってみたかったのよねー、これ」
春香も初めてなのは変わらなかったが、初回の振り下ろしで夏菜の太股に赤い筋を付けた。そのまま腕や顔に次々と赤い筋を刻んでいく。
その間夏菜は打たれた瞬間に眉をひそめるだけでそれほどきつそうには見えない。
「あれ?なんか……楽しい……」
「……」
夏菜からは春香が見えていないはずなのに、夏菜は氷のような清冽な鋭さをもった目で春香を冷静に睨みつけている。
「こうなったら、意地でも悲鳴を上げさせてやる……」
月夜女姫は晴川に当たった回数より自分の闇界障壁に当てる回数のほうが多く、鞭を振り慣れていないのが一目瞭然だった。
「月夜女姫様、私がやりましょうか?さっきから全然当たってないじゃないですか」
「う、うるさい!お前たちはそこで指をくわえて見てなさい!」
春香は上手くできているのに自分はできていない焦りから、月夜女姫はさらに鞭の精度を落とした。
「お姉様も赤坂さんも全然ダメだなあ。赤坂さん、代わってもらってもいいですか?」
「全然ダメって……あたしも?」
蘭は夏菜の前に立つとにいっと口を歪めて、鞭を水平に構えた。
これから蘭に打たれる夏菜は来るであろう衝撃に備えてぐっと気合を入れなおす。
「本当の鞭打ちっていうのは、こうやるんだよ!」
春香の鞭とは段違いに威力の高い鞭打ちが夏菜を襲う。その威力は腹部の服が破け、さらにその下の柔らかい肌まで裂けて血が滲むほどだった。
「っ……!」
- 「さあて、夏菜ちゃんはいつまで耐えられるかなあ?フフフ……」
夏菜からは見えていないのに、はっきりと感じられる雰囲気だけでぞっとさせるような薄ら笑いを浮かべながら蘭は鞭を振り上げた。
相変わらず悪戦苦闘している月夜女姫に、蘭の興奮する声が届いてくる。
「しけた声出すなぁ!もっと叫べぇ!」
「いいっ……」
あちこちの皮膚が破れ、足を伝って血が流れている。奥歯が欠けるのではないかと思えるほどぎいっと歯を食いしばって耐えている夏菜の様子からは、
絶対に悲鳴を上げるものかという執念がこれでもかというほど伝わってくる。
「蘭、いつの間にマスターしたのかしら……」
蘭は月夜女姫が見たこともないような酷薄な表情で鞭打ちを楽しんでいた。
自分の妹があんなに上手に扱えているから、月夜女姫の拙さが余計に際立っているように感じる。
目の前の晴川も顔には出さないが心の中で嘲笑っているに違いない。
羞恥に耐えられなくなった月夜女姫は、次の蝋燭責めにうつるように指示した。
しかし、蝋燭責めは鞭打ちに比べるとかなり短い時間で終わった。
蝋燭責めが終わると2人は鎖を外され、元の牢屋に連れ戻された。
首輪をつけたまま晴川は剥き出しのコンクリートの床にゴロンと大の字に寝転がり、夏菜は膝を抱えて小さく蹲った。
「青野、その傷何ともないか?」
「……すっごいヒリヒリする。ところでさ、ああいうのってボンデージ衣装とかでやるのがお約束じゃないの?
月夜女姫は漆黒のドレスだからまだいいとしても、その妹とか服だけなら清純系の正統派ヒロインにしか見えなかったんだけど」
「服だけは、な。それ以外の見た目や言動は悪魔以外の何者でもない」
固まった血がこびりつき、さらに焦げ付いている夏菜の服は原形を留めておらず、辛うじて布が肌に引っ付いていると言ったほうが近い状態である。
「でもお前があの鞭打ちに耐えられるとは思わなかったな。大したものだ」
「月夜女姫が蝋燭責めで『眩しいから止める』って言い出してなかったら間違いなく悲鳴上げてたけどね。
まあ、お約束をわかってない連中なんて所詮あの程度よ。鞭打ちもあの妹以外は下手糞だったでしょ」
蝋燭程度の明かりすら直視できないのか初めは目を背けながら責めていたものの、
眩しいのが我慢できずに月夜女姫が早々に中止するように言ったのだった。
「あいつらの目的は拷問でも屈服させることでもなく純粋に俺たちの反応を面白がっているだけだからな。
無反応を徹底すればいずれ飽きるだろう。今回はよくそれを守った」
「晴川さん、次は何が来ると思う?」
「鞭打ちといい蝋燭といいあいつらのやっていることは所詮SMプレイの真似事だ。となると……青野、SMプレイってほかに何があるんだ?」
「19歳の普通の女子大生にそんな知識があるわけないでしょ」
「ま、まあ、あいつらも慣れてないみたいだからそこまで多彩な責めはしてこないはずだ。ただ、陵辱は覚悟しておけよ。
悪者に捕らえられたヒロインが犯されるという展開はありがちだからな」
「ちょっと止めてよ、私まだそういうことやったことないのに」
「最悪、俺を操って犯させるかも知れん。あいつらは全員女なんだからこれが1番可能性高いかもな」
「……」
夏菜もこの歳になれば悪者に負けたヒロインがどうなるかくらい知っている。そのまま殺してしまうケースは少ない。
春香のように他の仲間を釣る餌にされることもある。または、懐柔されて悪者の言いなりになるか。
しかし、夏菜の知識にあるのはここまでだ。
その方面の本を読んだことがない夏菜は、ヒロインが犯されて頭が壊れた雌奴隷にされることがあるとは知らない。
「今日鎖に拘束されるときに服を脱がされなかったから、やらない可能性も考えられるが……悪い、不安にさせた」
今日の鞭打ちや蝋燭責めももちろん初体験だったが、「犯される」というのはどのような気分になるのか夏菜には想像しにくかった。
その分未知の恐怖として夏菜の体を締め付ける。
「そ、そういえばさ、晴川さんはこの状況で何かしたいと思わないの?」
「何かって何だ」
「そりゃー……真っ暗な密室に男と女が2人きりで時間があり余るほどあるから……って、恥ずかしいこと言わせないでよ!」
- 首輪で鎖に繋がれているとはいえ、便所に行けるくらいの行動の自由は残されている。
実際にやろうと思えば暗くて相手が見えずともやること自体は可能だろう。
夏菜もこれまでの過酷な逃亡生活でやつれていながらもまだ肌は荒れていないし、健康的な若さを保っている。
夏菜は性格こそ子供っぽいが器量は中々で、体型も無駄がなく洗練されている。
並の性欲の持ち主とこの状況で2人きりだと襲われても不思議ではない。
しかしこれを晴川は月夜女姫の罠と踏んだ。
「あのな、青野。お前こそ今の状況を考えろ。余計なことして体力使ってる場合じゃないだろう。それとも、誘ってると受け取っていいのか?」
「そんなわけないでしょ、言ってみただけ。私は今も昔も色恋沙汰には興味ないから」
秋生と冬子には彼氏がいると晴川は聞いたことがあった。春香は厳しい部活とホワイトウイングの活動の両立で彼氏を作る暇がないというのはわかるが、
夏菜の高校時代の部活はあまり活動のない家庭科部。大学も特定のサークルに属しているわけではない。
「その顔で男が寄り付かないとは思えないな。付き合ったこととかないのか?」
「高校のときに1回だけ、告白されて付き合ったことはあるよ。
でもねえ……別に相手の人が嫌いだったわけじゃないんだけど、恋愛って面倒じゃない?
どうして皆あんなにくっついたり離れたりに必死なのかわかんないわ」
外見や服装に気を使うのも異性の気を引くためでなく、あくまで身だしなみの範囲。夏菜にとってはそれ以上の意味を持たない。
「それにそういう色恋沙汰で人間関係が壊れる人も多いでしょ?それなら友達のままでいいじゃんって思うんだけど。
色んなものを犠牲にしてやっと男をもぎ取ってもその人と一生付き合うわけじゃないしさ。
こういうことがわかんないから、皆から子供って言われるのかなあ」
夏菜がそんなことを言えるのも、夏菜はまだ人を本気で好きになった経験がないからだった。
夏菜の学部には掃いて捨てるほど男がいるのに、仲がよくても皆男友達止まり。
そこに夏菜を落とそうと企む男がいたとしても、まずは夏菜の恋愛観から変えなければならないので攻略難易度は高い。
「女でそこまで恋愛に興味がないのも珍しいな」
「今時恋愛以外にも楽しいことがいっぱいあるんだから、おかしくはないでしょ?
私はね、皆のヒーローを目指してたの。ジャンルは何でもいいから、弱きを助け強きを挫く、みたいな感じのヤツをね」
「警察でも目指してたのか」
「警察とはちょっと違うんだよね、それじゃ点数稼ぎに忙しくて勧善懲悪にならないし。
でも今私たちがやってることは正に皆のヒーローでしょ、平和を守る正義の味方。
憧れてたけどまさか自分がなるとは思わなかったなあ。相変わらずそれっぽい変身スーツや巨大ロボは出てこないけどさ」
誰もが子供時代に憧れ、やがてそれが作り物の世界にしか存在しないことを知って諦める夢。しかしそれらは普通男子の夢だ。
「いつも思っていたんだが、どうして変身スーツや巨大ロボなんだ?お前は女なんだからそこは魔法少女だろ?」
「あー魔法少女ね……あれはどれもこれも衣装がやたらヒラヒラしてて戦いにくそうだし、変に肌の露出が多いからやだ」
「問題はそこなのかよ。……俺は、正義の味方側になるべき人間ではなかったのかもしれないな」
化け物退治ということで甘えを捨てようとしたところが行き過ぎて非情になった。
仲間を脅迫で集める、仲間を見捨てる、仲間を最初から信じないで切り捨てる……これではどちらが善でどちらが悪かわからない。
平和を愛する心はあっても結果を重視するあまり、正義の味方として根本的なものを軽視してしまっていた。
「お前みたいな純粋な心の持ち主が1番正義の味方に向いてるよ」
「いや、私も……現実の戦いを舐めてたよ。ゲームみたいに負けたら最初からなんてわけにはいかないんだから、
時には晴川さんみたいに非情になる必要もあると思う。月夜女姫より前の敵はたまたま弱かったから上手くいってただけで、
今思うとあんなふざけた戦い方をしてたら途中でいつやられててもおかしくなかったよ」
そのやり方でそれまで大した挫折を味わわずにここまできたのだから、夏菜の能力の高さが伺える。
「俺は聖人君子にはなれないが、もう少し正義の味方らしくしてみるとするか」
晴川は寝転がった体を起こしてあぐらを組んで座りなおし、静かに宣言するように言った。
- 「よーし、そうなったらまずはお約束の変身スーツだね!」
「どれだけ変身スーツが好きなんだよお前は。
まあ、2人でここを出ることができたら白瀬に頼んでみるから、それまで名乗り口上でも考えておくんだな」
「うん!」
暗くて顔を見ることができなくても、声のトーンから夏菜が顔を輝かせて喜んでいるのがはっきりとわかった。
いつまで続くかわからない牢獄生活を耐えるモチベーションを保つためのわかりやすい指標だった。
月夜女姫たちが私刑に飽きたところで、晴川たちを解放するとは限らない。だが、そこで悲観的になっていても事態は好転しない。
「『夏菜参上!とぉうっ!』……これじゃシンプルすぎる。でもあんまり長いと名乗ってる間に敵に先制されるからなあ、うーん……」
命ある限り戦う、そう「思い込まされて」いることに2人はまだ気付いていなかった。
晴川と夏菜の2人は昨日鞭打ちと蝋燭責めをされたあの部屋にまた入ることになった。
今回は壁の鎖ではなく、台の上に革のベルトで手足と頭を固定される。
今回も暗闇で部屋の中に何が用意されているか2人は見ることができない。
「2人とも丸1日飲まず食わずでは辛いと思うから、今回はミネラルウォーターくらい飲ませてあげるわ。喉がカラカラでしょう?
飲みやすいようにキンキンに冷やしておいてあげたから、たっぷり飲みなさい」
晴川の頭のすぐ側にドン!と音を立てて2リットルペットボトルに入ったミネラルウォーターを置く。
もう1人の方にも同じように蘭が置くと、僅かに顔が引きつるのが見えた。
「じゃあ飲ませてあげるから口開けて。はい、あーん」
思いのほか素直に応じた晴川に、口内の粘膜が傷つくことなどお構い無しにペットボトルの口を突っ込んだ。
「ちょっとお、口開けてくれないと飲ませてあげられないじゃん。早く口開けてよ」
すんなり言うことを聞いてくれた晴川とは逆で、蘭は言うことを聞かない青野とかいう女に手こずっているようだ。
喉を握ってえずかせ口が開いた隙に押し込んでいた。
最後は多少苦しそうな顔を見せるも、晴川は2リットルの水の一気飲みをこなした。
一方の青野とかいう女は半分を少し過ぎたところで限界が来たらしく、激しくむせて体をばたつかせている。
昨日の鞭打ちには耐えられても、今日の水責めには耐えられなかったらしい。
「お腹の中空っぽなんだからまだ入るでしょ?飲まないと息ができなくて余計に辛いと思うけど」
「ごぼっ、おぶぶ、ごぶぶぶ……」
「ほらあ、ちゃんと咥えてないからいっぱい零れてる」
飲みきれなかった水が溢れて、台の下にぽたぽたと垂れている。1本目が終わっただけで青野とかいう女は既に満身創痍で息も絶え絶えになっていた。
もちろん、1本だけで終わらせる気など全くない。
「あっちも飲み終わったみたいだし、2本目にいきましょうか」
「飲めばいいんだろ、飲めば」
口では強気な晴川だったが、1本目に比べると飲むペースがかなり落ちている。
ペットボトルの腹を凹ませて水を流し込む早さを上げると、ついに晴川も苦悶の表情を浮かべてもがき始めた。
「んおっ、ごぼ、げぼげぼげぼっ……」
「早く飲まないと息が続かないわよ……って、鼻が開いていたわね」
飲ませられながらも最低限の呼吸が出来ていた鼻を急に指で摘むと、拘束具を壊しかねない勢いで晴川が暴れだす。
その動きが多少弱まったところで、2本目のペットボトルは空っぽになった。
「ゲホッ、がはっ……はあっ、おぶうっ!?」
水から解放されて大きく息を吸い込もうとした晴川の口に、春香ちゃんが3本目のペットボトルを捻じ込んだ。
気管に水が入り込んだのか、苦しげに眉を寄せ目に涙を浮かべながら全身をのたうたせている。
「あんたなら休憩時間なんかいらないよね♪」
鼻は私が摘んだままなので、晴川が息をするにはこれを飲み干すしかない。
息を整える暇さえ与えられずに矢継ぎ早に水を飲まされては、精神力の強い晴川も限界に違いない。
晴川の腹が水でみっともなく膨れたのを確認して、私はもう片方の女の様子を見に行った。
こちらも妊婦のように腹が膨れ上がっていて、その瞳の中の光は弱弱しいものになっている。
水で内臓が圧迫されているのか、ひゅうひゅうと呼吸に擦れた音が混ざり普通に息をするだけでも苦しそうだ。
- 「それじゃ、腹を押すなり殴るなりして吐かせて。あと、そのままだと吐瀉物が気管に詰まって窒息するから顔は横にするのよ」
「夏菜ちゃんいくよー、せーの!」
「ぐげええええっ!」
蘭の全体重を腹にかけられ、希釈された胃液がごぼごぼとあの女の口から溢れ出す。
「けほっ、うえっ、おえっ……」
「もう1回お腹の中空っぽにしちゃおっか。まだまだ水はたくさん残ってるからさあ……」
一方、私は春香ちゃんに晴川のぶっくりと膨れた腹に拳を叩きつけさせていた。
元々武道の経験もなく腕力もか弱い春香ちゃんだが、黒の一族となった今では腕力自慢の男くらいはゆうにある。
「先輩、何か吐く水に血が混ざってるみたいなんですけど大丈夫ですかね?もしかしてあたし殴りすぎですか?」
「いいのよ、そのくらいで。ここでしっかり吐いておかないと後々苦しいわよ」
殴られている晴川に答えている余裕はない。いつもならこの程度のパンチなど腹筋に力を込めて軽減できるのに、
度重なる水責めで憔悴しきった体ではそれも叶わない。ただ私に無様な面を晒すだけだ。
水っぽい胃酸の血の割合が高くなってきたところで、春香ちゃんの手を止めさせた。
「今の気分はどうかしら?」
「……」
「ふーん、あくまで無反応を貫くつもりなの。まあいいわ、今のうちからギャーギャー喚かれてたら、この先耐えられないでしょうから。
それじゃ、続きといきましょうか」
水責めは晴川が腹を押されなくても勝手に真っ赤な水を吐き出すようになるまで続けられた……。
まだ疲れが残ってふらついているというのに、晴川たちはまたあの部屋に連れてこられた。
今回は晴川だけを台の上に固定し、夏菜は隣で見学するように指示される。
黒の一族が眩しがることもなく、普通の人間の2人はお互いの様子がよく見えるように、薄暗い明かりがつけられた。
「昨日は水を飲ませてあげたけど、まだ食べ物を食べてないからお腹が空いたでしょう。
これが終わったらお前たちにも食べさせてあげるから、もう数時間辛抱することね」
私は晴川のボディーガードのような服を破いて、みっちり鍛えられて綺麗に6つに割れた腹筋をあらわにする。
ボディービルダーとまではいかないが、おそらく一般人ならここまで鍛えないだろう。その腹も今は昨日殴ったせいで青痣だらけになっていた。
「そうだ、この晴川の腹から目を逸らしたらダメだからね」
「何をする気なのよ」
「ふふ、いいもの見せてあげる。でも、流石にこのまま切ると不味そうね」
一旦治癒をかけて傷を治してから、みぞおちから腰の辺りまでつつっと爪を走らせると、
ワンテンポ遅れて赤い線が引かれたように血が滲み出る。次は左右の肋骨に沿って。
大学は解剖実験とかやる前に出てきてしまったから、私に専門的な知識はない。
それでも、何回も普通の人間を実験台にしてこんなふうに腹を裂いてきた。腹の皮をはがすだけならそこらの外科医より上手いかもしれない。
必要な分の切込みを入れ終わったところで、あの女はこれからやることにやっと気が付いたのだろう、
カタカタと震え必死に目を逸らそうとしている。さっき私が暗示をかけたのだ、どうせ無駄な足掻きでしかない。
「嫌、やめて、こんなの見たくない……」
見たくないと言いつつ、目は私の指示した位置に釘付けになったままだった。
それを確認して、最初に入れた体の中心の傷に手をかけて腹の皮と肉をメリメリと音を立てて引き剥がす。
まだ元気に脈打っている、健康的な人間の臓器が目に飛び込んできた。
「ぐあああああああああっ!」
「いやああああああああっ!」
「初めてまともに叫んでくれたわね……その調子でもっと泣き叫んで頂戴」
普通に生きていればまずお目にかかれない、人間の内臓。
人体の構造が書かれている本でも大抵は絵で説明されているので、それ以外だと人体模型くらいしかない。
見る機会といえば手術か、交通事故などで内臓が飛び出した怪我人か。
それと同じまだ生きている人間のものだ、精肉屋に並んでいる肉とは新鮮さが違う。
「どう?なかなか見られるものじゃないわよ」
「うっ……早く……閉じなさいよ……気持ち悪い……」
「冗談でしょう?これからが本番なのに。じゃあまずは」
- 爪で中を切らないように腸のあたりに慎重に手を突っ込み、臓物を引きずり出していく。生臭さが鼻を突くが、もうこんなものは慣れている。
「ぐ……がはぁ!」
太い血管を上手く避けて切開できたから、出血量は大したことはない。
出血量さえ多くなければ、人間というのは内臓を外部に露出させても半日くらいは生きられるという。
ただ、こうやって内臓を引きずりだされると人によってはあまりの痛みにショック死することもある。だから慎重にいかなければならない。
「お姉様、こいつ寝ちゃったよ」
「塩、そこにすり込んで。用意させてたでしょ。でも一気にすり込んだらダメよ、ナトリウム過多になるから」
「ぐげぐぎゃああああああ!」
「もうやめて!こんなこと……う……う……うげええええぇぇっ!」
青野とかいう女の両手で口を塞いだ隙間から胃液が溢れ出てくる。
黒の一族を散々殺したくせに人間の内臓見ただけで戻してしまうなんて、意外と軟弱者なのね。
「ありゃー、また見事に吐いちゃったねえ。免疫なかったんだ。夏菜ちゃんってこういうのに強いと思ってたけど」
「げほ、げほっ……春ちゃんこそ何でこんなもの平然と見ていられんのよ」
「あたし?あたしはもう慣れちゃった。だって人間なんてたんぱく質と脂肪とカルシウムの固まりでしょ。
それに夏菜ちゃんだって黒の一族の腕をもぎ取ったことがあるじゃない」
「たまたま光線が当たって腕が取れたのと、今の状況を一緒にしないでくれる?あの時だって精一杯我慢してたのよ……」
私は消化器官を大方出し終えると、ほぼ空洞になった体の中で未だに鼓動を続けている器官に手を伸ばす。
血管の繋がったままのそれを取り出すと、晴川たちの顔色が一気に青くなった。
「ちょっとそれ、どうするつもりよ。まさか……」
「あ、そうだ。折角だからお前に止めを刺させてあげましょう。蘭、小ぶりなナイフを1本出して」
「こんなのでいい?」
蘭が出したのは私が思っていたものより大ぶりではあったが、ナイフには違いない。
「ありがとう。では青野さん、このナイフで晴川の心臓を刺しなさい」
空洞になった晴川の腹から目を逸らせない青野とかいう女の暗示を上書きし、血みどろの両手で優しく彼女の手にナイフを握らせる。
「誰が……え?」
前回操られたときとは違い口が利けることを知ると、なぜか女は勝ち誇った顔になり、
「かけ方が……甘いのよ!」
握らされたナイフをポロリと足元に落とした。
それでもなおナイフを拾おうとする体に脂汗をかきながら抵抗しているため、小刻みに体が震えている。
馬鹿な女だ。今回暗示を甘くかけたのはわざとで、そうやって必死に暗示に抗う格好を見て私は楽しんでいるというのに。
落としたナイフを再び女ががっしりと逆手で掴み、頭上まで掲げていた。
そんなに高く上げなくても心臓に穴を空けるには軽く刺すだけで十分なのに、張り切っちゃってまあ。
「こんなところで死ねるかよ……!」
「晴川さん……私ならまだ、平気だから。大丈夫。まだ、耐えられる」
「でもさあ、このまま心臓出しっぱなしにしてたらどっちにしても死ぬと思うよ?
こいつも苦しいだけだからさっさと逝かせてあげたほうが良いと思うなあ」
「黙れ……気が散る……」
夏菜は鬼気迫る顔で春香を睨むが彼女は全く気にも留めず、
「そう?じゃあ……鞭打ちも追加しちゃおっか?この前使ったイバラ鞭はどこにいったかなあ」
「お前らなあ!人が苦しんでいるのを眺めて何がそんなに楽しいわけ?はっきり言って頭いかれてるんじゃないの?!」
「嬉々として月夜女様を狩っていたお前には言われたくないわね。これは私の大切な人を奪った報いよ」
初めて自分の本棚からあの本を見つけたときから決めていた。
絶対にこの女と晴川はあの本に書いてあるような死んだほうがマシと思えるような責め苦を与えてやろうと。
「夏菜ちゃんだって自分の嫌いな人が痛い目に遭ってたらいい気分になるでしょ?それと同じだよ。そーれ!」
「違う!……ああっ!」
背後からイバラ鞭でざくざくと傷を付けられた痛みに耐え切れず、夏菜は思わず掲げたナイフを振り下ろしてしまう。
刃を肉に突き立てた感触が夏菜の心を削るが、突き立てられたのは心臓ではなかった。
「ぐうっ……げほっごぷっ」
胃液で酸化していない、鮮やかな色の血の泡が晴川の口から吐き出される。
「へえ、肺に穴を空けてさらに苦痛を与えるなんて、お前もこいつに恨みがあったの?」
「いや、これは手元が狂っただけで……私、何てことを……」
「暗示に身を任せればお互い楽できるのに、素直じゃないからこんなことになるのよ」
「うううう……ああああアアアア!!やめてええ!こんなこと、私にさせないでええええ!!」
- 目が血走り、心が狂い乱れてぐちゃぐちゃになっているのがはっきりと見て取れる。
髪を振り乱しながら振り下ろしたナイフは今度こそ晴川の心臓に突き刺さった。
晴川は目玉が飛び出しそうなほど大きく目を見開き、一際大きな呻き声を上げて心臓から噴水のように鮮血が噴き出す。
「ああ……アア……」
「大丈夫よ、このタイミングで治癒をかければ」
理屈は未だにわからないが、どうみても助かりそうにない怪我や病気でもこの治癒術を使えば治せる。
この程度なら10秒もあれば完治するだろう。黒い霧が晴れると私が腹を切開するまえの状態に戻っていた。
引きずり出した内臓も全て元の位置に戻っている。
「ほらね、飛び散った血はそのままだけど体は元通り。殺さないって言ったでしょ?」
「うう……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
私の声が聞こえていないのか、壊れた人形のように謝罪の言葉を繰り返している。
「じゃあ次はお前の番ね」
「それで大人しく従うと思ったら大間違いよ!」
私は「殺さない」と言っているから、これ以上失うものはない。だからこの女は命令を素直にきかなければならない理由もない。
しかし、決して逃げられない檻の中で強がったところでちっぽけなプライドが保てるだけだ。
「夏菜ちゃん、変なところで意地張らないほうがいいよ。時間をかけるともっと過激で残酷な私刑になるかもしれないしね」
「くそ……」
夏菜は生きたまま麻酔も無しに腸を引きずり出すより辛い私刑は思いつかなかったが、ここで無意味に突っ張ったところで何も進まない。
観念せざるを得なかった。
「私の爪は切れ味がいいからそこまで痛くないはずだけど、内臓をかき回されるのは尋常じゃない痛さらしいから覚悟しておいたほうがいいかもね」
この一連の解剖で女の方は精神的にかなり参っている。
あんまり急に事を進めると壊れて復讐の効果が薄れるかも……そのときは治癒で回復させて責めを続行すればいいだけの話だ。
「ああ、そうそう。晴川にはやるのを忘れてたけど、今度は自分で自分の胃を握り潰してもらおうかしら」
「できるわけないでしょ!死ぬわよ、そんなことしたら!」
胃を握り潰したくらいでは人間は死なない。
そのまま放置すれば死ぬかもしれないが、胃を全部切除しても生活できている人間もいることをこの女は知らないのかしら?
「握る手の骨を砕いておいたら時間がかかってさらに楽しめるわね」
「最低!最っ低よ、この人でなし!」
「これで最低なんて言ってもいいのかしら?こんなの、まだまだ序の口よ」
私刑が思っていた以上に過酷なものだと理解し、この女の顔からみるみる血の気が引いていく。拷問という言葉すら生温い。
普通の拷問ならば傷の治療のためにある程度の休憩時間を与えるが、この私刑では瞬時に傷が癒せるのでそれは必要ない。
私が止めるまで絶え間なく苦果が続く。
「お前、私たちをどこまで痛めつければ気が済むのよ……」
どこまでって、決まってるじゃない。
「私が飽きるまでよ。それまで精々楽しませて頂戴ね、囚われの正義の味方さん」
飽きるまでとは言ったが、いつ飽きるかは私にもわからない。
まさか、殺してもらえるなんてそんな甘いこと考えてたということはないわよね。
簡単に楽になろうとしてんじゃないわよ。
生きたまま麻酔無しで解剖という肉体的・精神的苦痛を同時に味わう私刑の後、月夜女姫は約束どおり晴川たちに食事を提供した。
それもコンビニ弁当などではなく、一食が2000円以上もするような豪華なものばかり。
毒が入っていると警戒しても、栄養剤を無理矢理飲まされるので意味がない。
月夜女姫がそこまで気を使うのも、「弱った虫を虐めても反応が薄くてつまらないし、私刑には万全の体調で臨んでもらいたいから」
という理由だった。怪我も私刑を受ける前に治療され、破れてしまった服もまともなものが支給される。
- もちろん酸鼻を極めた様々な私刑も続行された。口から泡を吐いて気絶するほどの電気ショック。
焼きごてを前座として、さらに焼け爛れて皮がべろりと剥けるほどの火あぶり。
爪を自分で剥がさせたり、指と爪の間に火薬を詰めて爆破したり。
引き伸ばし器で関節を外され、腹を裂いた部分から傷口を広げて内臓だけで体が繋がっている状態にされたこともあった。
わざわざ切れ味の悪いぶつ切り包丁で指の先からゆっくり骨を粉砕されたり、
大きな杭を四肢に打ち込まれて壁に固定されて磔の形にされたり。自分で引き千切った自分の肉を食べさせられたこともあった。
そこまで凄惨な扱いをされながらも、晴川たちは決して自殺を図ることはなかった。
いや、できなかったのだ。なぜなら、月夜女姫の暗示により戦い続けることへの執着が強められているから。
だからいっそのこと死んだほうが楽であろう私刑でも「殺してくれ」とは言わなかったし、生きて帰るために必死に耐えていた。
するだけ月夜女姫が喜ぶので、許しを請うこともしなかった。
そして今日もいつもの部屋に首輪の鎖を引かれながら歩いていく。
「なあ、お前らどこでこんな拷問の方法を仕入れたんだ?とても20歳前後の小娘が持ちえる知識とは思えないんだが」
元は若い女ばかりの今の黒の一族がここまで自分たちに苦痛を与える手段を知っていることに晴川は驚きを隠せなかった。
その分野に詳しいような危ない人種はいなかったはずだ。
「月夜女様の遺品のおかげよ」
「あいつの仕業かよ。全く、とんでもないものを遺してくれたな」
「月夜女様があの本を遺しておいて下さらなかったら、お前たちをこれほど痛めつけることも出来なかったでしょうし、感謝してるわ」
「ただのSMプレイの真似事だと思った俺が馬鹿だったか……」
晴川はこれ見よがしに大きなため息をつくと、恨めしげに月夜女姫を見上げた。
「お前……こんなことして、満足か?俺たちを痛めつけているのは本当にお前の意思なのか?
俺たちを痛めつけたところで、月夜女は生き返ったりしないんだぞ」
晴川の首輪の鎖を引いて前を歩いていた月夜女姫はそこで初めて振り向いて、
その綺麗すぎて触れてはいけないような顔を晴川の目の前に晒した。
「自分がやりたいからやってるに決まっているじゃない。追い詰められて死に物狂いのときに見せる抵抗なんて、最高の見せ物よ。
その凛々しい顔が恐怖に染まる様をもっと見たいわね」
人を傷付けて楽しむその心が元々「天道彩」が持っていた心を大きく歪められてできたものだというのは
以前の彩を知る人物なら容易く見破れるほど、今の月夜女姫には昔の天道彩の印象は変わっていた。
変わらないのは、整った顔立ちが見せる優しそうな笑顔。しかしその笑顔は向けられた者に癒しを与えることはなく、逆に対象を萎縮させていた。
「悪趣味極まりないな」
「それに月夜女様の失われた幸せは戻ってこなくても、その幸せを奪ったお前たちの幸せは奪うことができる」
月夜女姫は晴川たちを苦しめることが第一で、それ以外は二の次だった。
いかに苦痛、屈辱、絶望を刻み込むことができるか、それだけを考えていた。
「安心しなさい、今日は多分1番楽な部類だから」
部屋に入ると今回も真っ暗で、晴川たちには何も見ることができない。
ただ、地を這う生き物が大量にいることだけは音でわかった。
「せんぱーい、言葉の通じない生き物を操るのってやっぱりかなり難しいんですけど」
「そこまで精密に操る必要はないわ。ただ本能のままに襲わせればいいの。さて、今日は一切の拘束を行わないわ。
この部屋の中で蛇と遊ぶだけ。簡単でしょ?」
昨日までの壮絶な責めに比べたら、随分と温い。
出血毒は痛みを伴うが肉を引き千切られたり骨を砕かれたりするよりかははるかに軽い痛みだ。
しかし夏菜は手にともした明かりで春香の周りに蠢く蛇の姿を見るなり悪寒に襲われたかのようにブルブル震えだす。
そして一目散に入り口の扉に向かって走り出した。
「無理無理無理、蛇は無理ー!!」
前方を確認する余裕もないほど必死に逃げていたため、入り口で待ち構えていた秋生に顔面からぶつかってしまった。
「あら、青野さんは蛇が苦手でしたか?」
「いった……ちょっと白石さん!退いてよ!!」
「退けませんね、月夜女姫様の命令ですから。それより後ろ、来てますよ」
「ひいぃっ!?」
夏菜が振り返ると、おぞましい数の蛇が床を覆いながら彼女に近付いてきていた。
種類の判別までは出来ないが、「蛇」という事実だけで夏菜に苦痛を与えるには十分だった。
- 「蛇はダメだって……言ってるでしょうが……」
それまでの怯えた顔から一変して真剣な表情になり、一息ついて力を溜め始める。
「待て青野、その方向で撃ったら俺に当たる!俺がそっちに行くまで待って……」
だが夏菜はその警告が聞こえていないのか、溜めるのを止めようとはしなかった。
「消し飛べえ!!」
軽く溜めただけで簡単にコンクリートの壁に穴を開ける威力の夏菜のレーザーが、今回は全力で射出された。
大量の蛇は壁際まで吹っ飛ばされ、部屋の隅に塊となって残った。
「これで助けるのは2回目よ、晴川」
一方の晴川は月夜女姫の張った障壁のおかげで無傷で済んでいた。
魔法覚醒剤で能力が発現した4人は同時に対魔法抵抗力も上がっているらしく、
普通の人間なら消し飛ぶような威力の魔法攻撃でも戦闘不能に陥るだけで済むくらいまで軽減できる。
御神刀にもそれと同程度の防護作用があるが、今の晴川は御神刀を持っていない。
夏菜の攻撃を生身で受ければ間違いなく晴川は消しカスと化していた。
「……頼んだ覚えはないんだがな」
夏菜は苦手な蛇を一掃してやっと平静を取り戻したのか、へなへなとその場に座り込んで呼吸を整えていた。
「はは、は……誰よ、私は蛇が大の苦手っていうのばらしたのは」
月夜女姫がこの弱点を知っているはずもない。このことは仲のよい数人にしか話していないことだからだ。
「私ですよ」
ホワイトウイングにいたときには誰も見た事のなかった意地悪い笑みを浮かべながら、夏菜の後ろにいる秋生が告げた。
「白石さん!?」
「思っていた以上の反応っぷりでしたね。私も月夜女姫様に申し出た甲斐があったというものです」
口調こそ丁寧だが、結局は秋生も夏菜を遊び道具としか捉えていないという事実を突きつけられる。
「白石さんもあいつらと同じだってことをすっかり忘れてたよ」
「それに、まだ安心するのは早いですよ」
「くそ、こいつらまだ生きてやがる!」
夏菜が晴川のほうを見ると、あれだけ派手に吹っ飛んだ蛇たちが何事もなかったかのように晴川に纏わり付いていた。
既に太ももの辺りまで巻きつかれた晴川は歩くこともままならない。
「晴川さん!」
「お前は離れとけ。近付いたらお前も餌食にされるぞ。寄られたくなければ手にともした明かりを消せ!」
夏菜が魔法を使うのを止めた後も、晴川に纏わりつく蛇の数は増えていく。
そして夏菜も自分に近付いてくる存在の気配が多くなってきているような嫌な予感がしていた。
両腕を抱えて震えていると、二の腕に刺されたような痛みが走る。
慌てて明かりをともして確認してみると、やはり蛇が噛み付いていた。
噛まれた痛みはそこまでないが、二の腕にぐるりと巻きついて鱗と肌を触れ合わせられるだけで身の毛もよだつような嫌悪感に襲われる。
「きゃああああああ!なんでこんなに囲まれてるの?!」
「この蛇、夜行性に決まってるでしょ。元々視覚に頼ってないんだよ。
夏菜ちゃんの体温が室温と同じにならない限り、明かりを消しても意味ないんだよ」
逃げ道を封じられた夏菜は以前脱獄したときのように天井を壊してここから脱出しようと考えた。
蛇から逃れられるならこの後のことなど考えていられない。
だが、この部屋の天井は夏菜の射撃を受けてもびくともしなかった。
「嘘……でしょ?」
「夏菜ちゃんの行動なんて全部お見通しだよ。天井が低いから飛んで逃げることもできないし……どうするの?」
春香が言葉で追い詰めなくても、夏菜は最初に噛み付いた蛇を引き剥がすことに必死で動くことができなかった。
一度噛み付いた蛇は片手で引っ張っても中々離れず、魔法による刺激を与えても少し怯むだけで大した効果がない。
「この蛇、普通の蛇じゃない!?」
「あ、そうそう。言い忘れてたけど、その蛇たちは私の魔法で強化してあるからちょっとやそっとじゃ死なないよ」
蛇を操っている春香は夏菜が魔法で抵抗するのを見越して先手を打っていたのだ。
そもそも生身の蛇なら最初の夏菜のフルパワーの攻撃で消し飛んでいるはずであり、2人はそこまで気が回らなかっただけだった。
- 「はあ、はあ、これじゃ、きりがない!」
夏菜が初めに噛み付いた1匹を漸く振り落としたときには、新たに5匹の蛇が体のあちこちに噛み付いていた。
それが10匹になり、20匹になり、やがて噛み付くスペースがなくなってくる。
「晴川さん……たす……け……」
蛇に噛まれた痛みと蛇自体の重さのせいで夏菜の動きは緩慢になっていき、遂にどさりと床に横たわった。
もう体のほとんどを蛇で覆われているのに、さらに夏菜に蛇が殺到する。
「青野!しっかりしろ!」
自身も顔まで蛇に巻きつかれながら懸命に夏菜に呼びかける晴川だったが、夏菜は倒れたままピクリとも動かなくなってしまう。
「おいお前ら、青野をこのまま放っておいたら死ぬぞ!殺したくはないんだろ!?」
「大丈夫よ。あの蛇、毒は持ってないもの」
「おい、あれ……!」
視界が蛇で覆われていく最中、それまでじっとしていた夏菜が弓なりに体を仰け反らせるのが晴川から見えた。
「んんー!んうー!!むぐううう!!」
噛む場所が無くなった蛇が、夏菜の口の中に入ろうとしていた。
咄嗟に噛み切ろうとした夏菜だったが、激しく動く鱗の皮膚を噛み切るだけの余力はなく、一気に食道まで蛇の侵入を許してしまう。
そうなるとざらざらした鱗が粘膜を傷付けるだけでなく、あちこちを蛇が食い破って耐え難い苦痛と嫌悪を夏菜に与えた。
「春香ちゃん、女の方は一旦引かせて。その分を晴川に回して」
「わかりました。上手くいくかな……」
春香がまるで子供をあやすような動作で夏菜に群がっていた蛇たちを誘導し、晴川に向かわせていく。
蛇が引いた後に残ったのは、夏菜が吐いた血に塗れたまま夏菜の体内を蹂躙する1匹の蛇だけだった。
赤く染められた尻尾を口からはみ出させてくねくねとのたうっている光景は長い舌にも見える。
月夜女姫はその蛇の尻尾を掴むと勢いよく引き抜いた。
「ぐげぐぎゃぁぁっぐげぐっぐぐがぁぁぁあああああ!!!」
引きずり出された真赤に染まっている蛇はやや弱っていたが、月夜女姫はそれを晴川に放り投げる。
そのとき飛び散った鮮血が夏菜の顔に斑点を作り彩を添えた。
「ごほごぼっ!あ、がは……」
「そこに突っ立ってるクズ、この女息ができてないみたいだから喉に治癒術かけてやって」
「はい、かしこまりました」
虚ろな目を天井に向けながら噛み痕だらけの全身を晒している夏菜に、
秋生は治癒術をかけながら月夜女姫に聞こえないようにそっと耳打ちした。
「青野さんは運がいいですね」
「なん、でよ」
気管の傷が治りかけてきている夏菜が苛立たしげに口を利く。
「蛇を使う拷問は口に入れられるものもありますが、性器に入れられるものも定番なのですよ。知っていましたか?」
「知るわけないでしょうが……」
「あなたたちはまだ性器周りの責めをされないだけ幸せなのです。
今までの私刑も初めから服を脱がせてからやれば効率がよいのですが、月夜女姫様は人の裸を見るのが嫌いみたいですからね」
どうせその類の責めがなくても、代わりの責めなどいくらでもある。
夏菜にとってはその類の責めより、本来処刑に使われる責めの後無理矢理治療されるほうが辛かった。
人外の治療技術だからまだ命があるのであって、普通の人間の治療法では2桁は確実に死んでいる。
「そこで、今度赤坂さんが月夜女姫様の目を盗んでやってみようと提案しています。
責めすぎてアソコがガバガバになってしまうかもしれませんね。覚悟しておいたほうがいいですよ」
「い、今更処女を失ったところで、私がショックを受けるとでも?」
「声が震えていますよ」
「くっ……」
夏菜も晴川と同様に性に淡白だったので、自慰は辛うじて知っていてもそれ以上は友人の話をたまに聞く程度であった。
夏菜の体のほうは十分に成熟していても、知識のほうはまだまだ子供同然。
強がりをあっさり秋生に見破られ、夏菜は遠くから聞こえる晴川の呻き声を聞きながら未知の恐怖におののくのだった。
- 月夜女姫と蘭がたまたま所用で私刑に関わらない日に、春香は秋生と冬子の2人に今日しかできないことをやろうと提案した。
その提案とは前に秋生が言い出して月夜女姫にこっ酷く叱られた「陵辱」だ。
「でも、このようなことをして本当に大丈夫なのですか?」
秋生は自分の望んだことができるという期待よりも、月夜女姫にこっそり逆らうという後ろめたさのほうが大きい。
「平気だってば、先輩はあたしに関しては甘いからね。正直に言えば多分許してくれるよ」
春香が晴川の首輪に繋がれた鎖をいつも以上に乱暴に引っ張りながら言う。
この3人で私刑をするのは滅多にない機会で、普段秋生と冬子は助手のようなことしかやらせてもらえていない。
一切の光がない、暗闇の私刑執行室に着く。まずは秋生の逆回復魔法により衰弱させ、無駄に抵抗させないようにする。
そして身に着けているものを剥ぎ、凍てつくような外気に全身の地肌を晒させる。
晴川は筋骨隆々とした逞しい肉体を、夏菜は若くて健康的な魅力に溢れる肉体を黒の一族の3人に視姦される。
「服を脱ぐとますますムキムキに見えますね、晴川さん。その体にふさわしい逸物もお持ちのようで」
「夏菜って華奢って言ったら聞こえはいいけど、肉付きは悪いわね。特に胸とかさ」
「年下のあたしより小さいんじゃないの?ここに来てから毎日美味しいもの食べさせてあげてんのに貧相な体だねえ」
「私と比べたら皆どんぐりの背比べですよ」
人間だったときのスタイルのよさなら秋生が最もよかったが、体型が自由に変えられる黒の一族にとっては秋生の自慢は何の意味も持たなかった。
「胸に脂肪の塊なんてものがあっても邪魔なだけでしょ」
夏菜が見えない3人に向かってぶっきらぼうに呟く。
確かに戦闘で殆ど動く必要のない秋生ならともかく、激しく動き回る夏菜にとっては邪魔にしかならない。
男の気を引く必要が感じられない夏菜にとっては不要の代物だった。
「これはまた、わかりやすい負け惜しみですね」
秋生が夏菜の申し訳程度に膨らんだ胸を両手で揉みしだくが、夏菜は言葉を発せずにじっと耐え忍ぶ。
「それじゃあ早速、夏菜ちゃんには犯されてもらいまーす!」
春香の宣言を聞いて、夏菜は内面の動揺を悟られないよう必死に冷静を装った。
いつかこうなると予測はしていたことだ、心の準備はとっくにできている。
「どうせ俺が操られるのだろうが……青野、できるだけ痛くしないように努力はする。こういうときは経験者がリードするものだからな」
「私、晴川さんならいいよ……」
年の離れたカップルが初めてまぐわうかのような甘い雰囲気が漂うが、春香がそれを地獄に塗り変えた。
「あれ、何を勘違いしてロマンチックなムードになっちゃってんのかな?そんな甘っちょろいことするわけないじゃん。あんたたち、入ってきて」
どやどやと男の集団が入ってきて、部屋の中の男女比が逆転する。
暗闇で何も見えない晴川と夏菜には何人入ってきたかがわからないことが不安を掻き立てる。
「そんなねえ、長い間やってきて上司と部下を超えた関係になってもおかしくないような男に処女を捧げられるとか、
都合のいい話があるわけないでしょう?夏菜は顔も見たことのない見ず知らずの男にやられて散らすのがお似合いよ。
あなたたち、本来突っ込むべき穴だけじゃなくて口もお尻も同時に使って徹底的に犯し尽しなさい!そおら!」
夏菜は男の塊の中に投げ込まれ、冬子の指示で盛った男の集団が一気に夏菜に殺到する。
男たちは手探りでしか夏菜の位置を把握できていないが、
逃げまわる体力が最初から奪われている夏菜は柔らかい皮膚を男たちの手によって揉みくちゃにされる。
唇も胸も秘穴もごつごつした手で容赦なく触られる。
「やだあ……やだやだやだあああああああ!」
夏菜の顔はテレビで流れたこともあり、知っている人も多い。
よほど性欲がない男でなければ、夏菜ほどの女性が裸に剥かれていて「犯せ」と言われたら本能に逆らえない。
誰も彼もが我先にと夏菜の陰門にその逸物を突っ込もうとするため、雌をめぐって争う獣そのものだった。
「ひぎっ、ぎゃあああああああ!……たい、痛いって!メリメリいってる!!」
「ウオオオオオオ!!」
夏菜の処女膜を破った男は雄叫びをあげて、さらにピストン運動を始める。激しい動きに服を脱がされて冷えていた体が熱くなってくる。
「流石処女マンコは一味違うぜ!この締め付け、たまんねえ!最高だ!」
- そして今度は夏菜の尻が狙われる。座薬すら入れたことのなく、今まで何者の侵入も許してこなかった砦が突破される。
「おおかってえ、尻の穴はきっついわあ……」
「嘘、そんなのそこに入るわけないでしょ!?無理無理!痛い痛い痛い痛い痛い痛むぐう!んんー!?」
「おらおら、上の口も休んでんじゃねえぞ」
髪を鷲掴みにされ、口を抉じ開けられて逸物を咥えさせられる。吐き出そうとしても体に力が入らないのでどうしようもない。
「はーい、先着3名決定♪この後は順番だから、私が肩を叩いた人から空いてる穴を使ってやってね。
あと今やってる3人はイッたら交代してもらうから、ごゆっくり~」
3人から同時に責められ、口は塞がって声も出せない夏菜は強い恐怖を感じ体が動かせなくなる。
口を塞いでいる逸物を噛み切る力すら出せない。このままでは肉体的にも精神的にも壊される。
群がってきた男は何人いるか見当もつかない。終わりが見えない恐怖に体が、心が、耐えられない。
「途中から快楽に変わって楽になるとでも思ったかしら?ああ、でも夏菜ってそういうの見ないからわからないかもね」
強姦は犯している男が一方的に快楽を貪れるだけで、犯されている側は男が飽きるまで半永久的に、一方的に苦痛を味わうだけ。
この場合は男が力尽きても次から次へと新しい男が補充されるので耐えなければならない時間も引き延ばされている。
「はっ……はっ……で、出る、おおおおおぉぉぉっ!!」
「むうんんー、んんーー!!」
頬を伝う涙とは別の体液が陰門から漏れ出す。男の放った白濁液に混じって血と蜜が太腿から床にぽたぽたと垂れる。
そのタイミングを見計らって、冬子が男の背後から首筋にがぶりと噛み付いた。
「……ぷはぁ!美味しい……イッた直後の人間の精力の味を知ってるのはたぶん私だけね。教えたら皆やりたがるから内緒にしててよかったわ」
夏菜の処女を散らした幸運な男は絶頂を迎えて頭が真っ白になった最高の気分のまま、冬子に首から精力を吸われ尽くされ果てていた。
「よかったわね、人生で最も幸せなまま逝けるなんてさ」
冬子が男に囁いた言葉は誰の耳にも届かずに周りの狂声にかき消される。
冬子が男を片付けても、その男が亡くなっていることに気付く者は1人もいなかった。
その後、初めて口が開放されて再び喋ることができるようになった夏菜はここぞとばかりに暴言を吐いた。
「げほっ、おえっ、あんな不味いもの飲ませるなんてどういうつもり!?」
夏菜はどこにいるかもわからない冬子に向かって喚き散らす。
「初体験が目隠し4Pなんてすごく貴重なんだから、楽しまないと損よ?」
「あれを楽しめ?ただ単に気持ち悪くて痛いだけじゃない!今下に突っ込んでる2人も早く終わってよ!痛いんだってば!」
「今こんなに嫌がってる夏菜だって、私の手にかかればへろ~んってなっちゃうんだから……」
「今、何か言った?」
「いいえ。さあ、あなたが6人目よ!」
冬子は側に待機していた男の手を引いて夏菜の頭を掴ませた。
最後の男の逸物が抜かれた後、はっきりしない意識で夏菜は陵辱が終わったことを感じた。
「お、終わったの……?」
長く辛い犯され方だったがもう男が群がってくる気配はない。
「まさか。これからが面白いのに」
夏菜は仰向けに寝転がったまま、ぼんやりしていると冬子の声が聞こえてくる。
しばらくそのままでいると、両耳に柔らかく湿った細長い触手のようなものが侵入してきて不快感がぐんと高まる。
「何これ、気持ちわる!?」
「ああ、これ最初は気持ち悪いと思うけどすぐに気持ちよくなるから我慢して……って鼓膜破ってるからもう聞こえないか」
歯をカタカタ鳴らして震えている夏菜の耳の中を、触手は遠慮なく侵していく。
鼓膜を突き破って侵入した触手は耳管を通って鼻腔の嗅細胞まで達し、
そこで形状を変化させてそれぞれ脳神経である内耳神経と嗅神経に癒着し、結合した。
「今から夏菜に自分がどういう状態になってるか見せてあげるから、もう少し待つのよ」
生きながらにして頭の中を他人にかき回される気分を味わうのは何回目だろうか。
それは今まではいずれも魔眼によるものだったが、今回は視覚、聴覚、嗅覚を封じられたままという過去に例のないやり方だった。
その封じられたはずの夏菜の目にある人物が映し出される。
その人物は床に仰向けになり両耳から赤い触手をゆらゆらと生やしながら、目を見開いて驚いているように見える。
「これ……私?」
- 夏菜は目に見えている自分が口を動かし喋っているのがわかる。まるで鏡に映った姿を見ているようだ。
しかし、瞬きはしているのに視点が自分の意思で動かせない。声は録音した自分の声を聞いたような違和感がある。
「どうやら見えたみたいね。面白いでしょ、これ」
触手に鼓膜が破られているはずなのに夏菜は冬子の声を聞き取ることができた。
その声もまた少し前まで喋っていた冬子の声と違って聞こえる。
「ど、どうなってるの……?」
そもそも、暗闇のはずなのにどうして自分の姿を見ることができるのか、違和感だらけだった。
最初は鏡像に見えた自分の姿も、右手を動かそうとすると目に映っている自分も右手を動かすから余計に頭が混乱する。
「感覚の共有、と言えば理解しやすいかしら。夏菜が今見ているもの、聞こえているものは全部私と同じものよ。
もちろんダブったりしないようにフィルターをかけることもできるんだけど、夏菜は見えてたほうがいいでしょう?
拒否しても見させるけど」
否応無しに見せられる今の自分の精液塗れの惨めな姿に夏菜は顔を背けようとするが、目に映る自分の顔が動いただけである。
「まあ、これも肉体変化の応用なんだけどね。私くらいコントロールできるのは他にいないと思うわ。
夏菜の耳に差し込まれてる触手、どこから生えてるか見てみる?」
大きな翼の後ろにあって確認し辛いが、夏菜は冬子の視点でそれがまるで尻尾のような位置にあるのを見た。
それが2本ともそれぞれ左右の耳に繋がっている。夏菜に見せている側から、耳に差し込まれた2本より一回り太い3本目の触手が生やされた。
そうすると何も変化がない夏菜にも尾骨のあたりから痺れるような快感が背中を走り抜ける。
「っ!?うへえ、気持ち悪いってば」
「嘘つき。ほんとは生えたとき気持ちよかったくせに。じゃあこれを……」
寝転んだままの夏菜の目の前に触手の先端を突きつけて、冬子が言い放つ。
「奉仕してもらいましょうか」
「ほう……し?」
冬子に言われた言葉の意味が理解できないのか、夏菜はキョトンとした顔をしている。
「いや、奉仕しろって言われても、具体的に何すればいいのかわかんないんだけど」
冬子はそれを聞いて夏菜の無知さ加減に思いっきり呆れた表情を見せた。
「夏菜、もうこの前20歳になったのにその無知っぷりは不味いわよ……いいわ、私が教えてあげるから」
触手の先端をさらに夏菜の顔に近づける。またもや夏菜は顔を背けようとするが、今度はぴくりと顔の筋肉が動いただけだった。
「逃げようとしてもダメよ。感覚は共有してるけど、夏菜の体の支配権は全部私が握ってるんだからね」
「あっ……あ……」
口も動かせなくなったので、夏菜は不明瞭な声しか出せなくなる。
「奉仕する悦びと奉仕される悦びが同時に味わえるわ。普通の人間には絶対に味わえない感覚よ、しっかり堪能していきなさい」
冬子は夏菜の両手を操り自分の触手を大切そうに包ませ、そのまま夏菜の唇と舌で舐めしゃぶらせる。
「んっ、んっ、じゅる……」
「気持ち悪さ」に対しては心の準備ができていた夏菜だったが、
それとは全く異なる「快楽」に意識の逆を突かれて頭の神経がショートしてしまった。一瞬意識が飛び、再び強烈な快楽によって呼び戻される。
死んだ魚のようだった目の色が変わり、色めき立って快楽に飢えたの雌の目に成り下がっていく。
「そう、先っぽの口の部分は舌の先で軽くつつくように……咥え込んだら咽喉の奥でよく味わって……」
自分でやるだけより、何倍も気持ちがいい。一旦きっかけを作ってしまえば夏菜もこのシンクロする悦楽に逆らえない。
後は冬子が何もしなくても夏菜は一心不乱に触手の先端に舌を這わせ続ける。
「うぅん、んんっ、そうそう、いい調子よ」
人外の肉欲の世界に絡めとられたら、2度と抜けることは出来ない。
ヌチャヌチャと卑猥な音が聞こえること、よがり狂いながら、触手にうっとりしている自分が客観的に見えること、口内の柔らかい感触。
奉仕しているのに同時に奉仕されているという矛盾しながらも噛み合う感覚にたちまち虜になる。
「ちょっと、ストップ、ストップ!夏菜ったらいつまでやれば気が済むのよ」
「だってえ……気持ちいいんだもん……」
これがついさっきまで奉仕の意味も知らなかった夏菜と同一人物の姿なのだろうか。
あれほど嫌がっていた触手が今では欲しくてたまらない、見えていないはずの瞳に欲情の色がありありと浮かんでいる。
「もっと、それ、欲しいのお……」
「そういうときはね、自分の手でアソコを押し広げてここに入れて欲しいっておねだりするのよ」
「……こう?」
- 夏菜に顎を引いて上目遣いで尋ねられると、冬子のほうが誘惑されているのではないかという気にさせられる。
夏菜の押し広げられた陰門からはまだ血と精液が混じった液体が零れていた。
おねだりさせる予定であった冬子だが、夏菜のくりくりとした可愛い瞳の破壊力に思わず引き込まれる。
感覚を共有しているということは、冬子がごくりと生唾を飲み込んだことも当然夏菜に伝わる。
「い、いいわ。そのまま、夏菜の貧相な語彙で私を誘ってみなさい」
夏菜はいつもの芯が通った声ではなく、甘ったるい猫撫で声で冬子の挑発に答えた。
「冬子お、強がってるのが私にもまるわかりだよお?ほんとはあ、冬子のほうが入れたくてたまらないくせにい」
これから味わう禁断の快楽への期待と自分が冬子を誘惑しているという事実に酔い、夏菜は恍惚とした表情で冬子に扇情的な視線を送る。
「……ちっ!そうよ、もう、我慢の限界よ!」
自分の思考を夏菜に見透かされた冬子が忌々しげに舌打ちをした。
広げられた陰門に触手をズブズブと沈め、一息に貫く。膣がぎゅっと収縮し、それをがっちりと受け止めた。
「ひっ!?あ、あっ、きたあああぁぁぁああああ!!」
夏菜と同時に、挿している冬子も抗いようのない愉悦に襲われ足腰に力が入らなくなる。
冬子はこれが初めてではないとはいえ、自分の秘穴にも同じ触手が刺さったのと等しい刺激を受け一瞬頭が真っ白になる。
「さっきの輪姦でいい感じに解されてるわね。いつまで意識を保っていられるかしら?」
この二重快楽のよさを知ってしまえば、もう普通のプレイに満足できなくなる。
冬子のほうは言わずもがな、夏菜も既に手遅れだ。単純に感度を2倍にされるよりも始末が悪い。
「しゅごいいい!突っ込んで、突っ込まれて、気持ちいいが、頭の中で、ぐりゅぐりゅ回ってるう!!混ざって、1つになってるう!!!」
冬子が自発的に潜り込ませようとしなくても、夏菜のほうからもりもりと触手をより深くまで咥えこんでいく。
「夏菜ったら、顔面壊れすぎよ!ははっ、目がイッちゃってるって!!自分が今どんな顔してるか、見えてるんでしょう?」
触手をニュルニュル動かすのはそのままで、冬子は自分の割れ目に手を伸ばす。
そこはこっちにも何か突っ込んでくれといわんばかりに蜜を垂れ流している。
「私のおまんこもぐちょぐちょになっちゃったじゃない……そっちに突っ込んだまま、オナニーしてあげる。
これも普通の人間だと実現不可能な感覚よね」
アナルセックスならできなくもない。だが、秘部で他人と繋がったまま自慰をする感覚を得ることは普通の人間にできる範囲を超えている。
「気持ちよすぎて、らめ、頭、こわ、こわっ、壊れ、おかしくなる!」
ぐちゅりと音を立てて冬子が自分のヴァギナを弄る度に、自慰の快感が追加で快楽の渦に混ぜ込まれて自我を保てなくなる。
「はあ、はあ、そろそろ、ガツガツ突いちゃいましょうか!」
子宮口に穴を空ける勢いでグリグリと抉る。1回突くごとに子宮が揺さ振られ、その振動が精液で満たされた中身を撹拌する。
「そんなに突いたら、中に入っちゃうって!」
「最初からそのつもりだけど?」
触手を突然きゅっと細くし、ちょうどぱっくり口を開けた子宮口に滑り込む。
その中で触手をうねうねと動かすと、触れ合った肉壁から生じる甘い電流が2人を悦ばせる。
「ああっ、そこでぐちゅぐちゅやるの、あ、あ、反則うう!」
「普通の人間にはできないから反則技かもね。でもこういうことするときにルールなんてないわ。私が気持ちよければそれでいいのよ!」
この繋がった状態で冬子が気持ちいいということは、そのまま夏菜も気持ちいいことになる。
夏菜がぶしゃあと潮を噴き、冬子もそろそろその高みに達しようとしていた。
「うわ、中で、ずずって、吸わ、吸われてる!?」
夏菜から吸い取られた精液は冬子の体内でタールのような真っ黒い粘液に変換される。
その粘液は本来の生殖機能が失われる代わりに、どぎつい催淫効果をもたらすものとなる。
「これを膣の中に注がれたら、夏菜は淫欲の虜になって男を漁る淫婦になるのよ……」
しかしいくら男を漁り続けても、禁断の快楽を知ってしまった今では永遠に満足できない。
触手が脈動し、管の中を粘液が走りぬける。それだけで射精に似た感覚がどっと押し寄せて理性を壊していく。
冬子は夏菜が、夏菜は自分が浅ましい雌犬に身を堕とすことを想像して胸が高鳴る。
冬子が愉しそうに口の端を歪ませた。
「きひひ……たーっぷり注いで、夏菜の頭をぶっ壊して、エロエロなことしか考えられなくしてあげる!」
びくっと冬子が全身を震わせる。
- そしてカッと目を見開くと、びゅるびゅると下品な音をたてながら夏菜の体内で触手の先端が噴火した。
「いっ?!あああああぁぁぁああああついいいいい!!」
「くううううぅぅぅぅぁぁぁぁああああああ!!」
2人とも痙攣が治まらない。冬子は夏菜の上に跨った姿勢のまま、意識を飛ばしてしまった。
白目をむいているので、ギリギリで意識を保てている夏菜も視界が閉ざされる。
「はあ、はあ、気持ち、よかったでしょ?まだ終わらせないからね」
膣内に入り込むために細くした触手が再び太さを増していく。
夏菜の息遣いに連動して膣が収斂し、ぎゅっ、ぎゅっとリズムよく締め上げる。
粘液の催淫効果により、静まることのない絶頂の余韻に漂ったままでいられる。何度イっても、イきたりない。
「これ以上は、だめだめ、気持ちよすぎて、死ぬって!あはっ、お腹の中で、触手が、太く、おっきくなってきて、きつきつになってきてる!」
次第に触手のストロークを激しくしていくと、本能が理性を凌駕してこの快楽に慣れている冬子ですら喋る余裕がなくなってくる。
「ああっ、ひいん、んふっ、ちょっ、待って……」
体力の限界、体が全く動かなくなるまで快楽を得ようと忘我状態になった夏菜が、冬子に襲い掛かった。
「もっと、もっと、もっと、ちょうだいいいいいぃいい!」
とうとう夏菜は我慢できなくなり、両手で自分の秘部に刺さっている触手を掴んで扱き始めた。
軽く触手を揉むだけで気絶しそうになるほどの衝撃が2人の頭を揺さ振るのに、そんなものを扱かれては正気を保つのは難しい。
「ひっ、いひひっ、うひゃあああああああああああああ!!いいいいいいいいいいいいい!!あは、あははははははははははははははは!!」
「白石さん、かけ方が雑、これ、もう、解けかけてる!私まで、壊れる、から、やん、止まりな、さいよ!
この、くぅ、はあ、はあ……はあぁぁぁん!!」
本能を剥き出しにした夏菜の思考に押し流され、冬子も夏菜に遅れながらも潮を撒き散らした。
冬子の支配を振り切るほどに暴走した夏菜は、繋がれた触手を通して逆に冬子の頭の中を蹂躙した。
普段なら冬子に向けられる夏菜の意思は封殺することができるのだが、それを跳ね除けるほどに今の夏菜の情欲は強くなっていた。
感覚を共有している2人はどちらが犯し、どちらが犯されているか曖昧になってくる。
「私を犯して!冬子の色で私を染め上げてえ!!」
現状では確かに形の上で犯されているのは夏菜のほうだが、精神的な優位性も夏菜のほうにあった。
フィルターを使っても押し切られるなら耳に刺さった触手を物理的に抜いて感覚の共有を絶てばいい、と冬子は考えたが
「ぬ、抜けない?!」
より深く繋がりたいという夏菜の意思が冬子の行動を阻害する。冬子は触手どころか手足の自由も利かなくなってきていることに気付いた。
「変なところのスイッチが入ったっぽいわね……ってうわ!?んうぅっ!?」
夏菜が上半身だけを起こし、ぬっと両手を伸ばして冬子の顔を捕らえた。そしてそのまま引き倒し、冬子の唇へ自分の唇を重ねた。
夏菜に急に唇を奪われ目を白黒させた冬子だが、唾液を送り込まれ歯茎と咥内に舌を這わされると瞬く間に警戒心が薄れていった。
夏菜の舌が冬子に「こっちに来て」と語りかけてきているようだ。
冬子は誘われるままに夏菜の舌に自分の舌を絡ませる。
ちゅぷちゅぷといやらしい音が響き、冬子は自分が今何をしているのかはっきりわからなくなる。
夏菜の鼻息が冬子の顔にかかると、冬子のまぶたがずんと重くなる。
夏菜がゆっくりと口を離すと2人の間に涎の橋がかかった。
「なんとなくキスしたくなったからあ……しちゃった」
「ふぁ……今だっ!!」
そのまま多幸感の海に浮かんでいたい気持ちをなんとか堪えた冬子は、
気が緩んでいる夏菜の隙を突いて両耳に差し込んでいた触手を引き抜いた。
「ひぎっ」
夏菜が小さく奇声をあげて動かなくなったのを確かめると、しゅるしゅると3本の触手を自分の体内に収納し冬子はやっと一息つくことができる。
「ふう、一時はどうなることかと思ったわ。ここまで派手に壊れると思ってなかったから、治療は白石さんに任せたほうがよさそうね」
このまま夏菜を放置すれば調教を施した自分たちがどうなるか見当もつかない。殺されるのならまだいいほうだ。
最悪、晴川たちが今受けているのと同じ私刑を処されるかもしれない。
- 「……!!」
そのとき冬子は背後から突き刺さるような視線を感じ、恐る恐る振り向いた。
押し潰されるようなプレッシャーのおかげで、振り向く前に視線の主を十中八九予想できていたが――。
夏菜が男の集団の中に投げ込まれて犯されているとき、晴川は仰向けのまま夏菜のことを心配することしかできなかった。
1人や2人ではなく、もっと多い人数であることが簡単に予測できるほどの数の興奮した男の声。
まだそのような行為すらしたことのなかった夏菜の気持ちを想うと、何もできない自分が情けなくて心が痛んだ。
「ちょっと!あたしが目の前で裸を見せても全然勃たないってどういうことよ!?……って、見えてないんだっけ」
「……」
晴川はむすっとした表情で春香の言葉が聞こえなかったふりをする。
「ねえ、ずっと寝転がってるのも暇でしょ。あたしと気持ちいいこと、しよ?」
春香が晴川に甘ったるい声で話しかけてくる。
晴川からは見えないが、今の春香は月夜女姫と顔を合わせているときには決して見せない艶っぽい表情をしていた。
「……」
「ここでも無反応を貫くつもりね……そんなんだから冷血人間って言われるのよ。
それとも、そこまであたしに性的魅力がないって言いたいわけ。へえ、そう……」
素足で晴川の萎えっぱなしの逸物を思いっきり踏みつけ、そのままグリグリとつま先を押し付ける。
「いっで……」
「ごめん、あたし足コキとかやったことないからやり方よくわかんないや。こうやって踏みつけたらいいのかな?」
半端な知識で逸物を痛めつけても、被虐趣味ではない晴川は萎えるばかりだった。
私刑ではまだ急所責めはされていないので、実質これが初めての急所責めとなる。
「やっぱりこれ間違ってるかも。じゃあ、次はパイズリでどう?でもこのままじゃできないから、こうやってもみもみして……」
春香が自分の胸を揉んでいくと、たちまち乳房が膨らみ春香の小柄な体格に不釣合いな大きさになる。
それでいて弾力と張りは十分にありはちきれんばかりの形を保っている。
「これで大体FかGくらいかな。これをずっとあのクズはぶら下げてるのかあ、重たいったらありゃしないねえ。
ほんとはローションつけたほうがいいんだろうけど、あたしの蜜をあんたの逸物に塗って……これでいっか」
極上の柔らかさが晴川の逸物を挟むと、晴川も本能を理性で抑えておけるのも限界が近くなる。
ゆったりとしたテンポで逸物を扱いて、晴川の意思に反してむくむくと持ち上がる逸物に春香はハアッと熱い吐息を吹きかける。
「く……アア……」
「おお、硬くなってきてる。やっぱりあんたも男だね。あたしのおっぱい、気持ちいいでしょ?
ああ、もうすっごいガチガチだよ。我慢汁も出てきてるねえ……」
魔に堕ちた春香に強制的にイかされるなど屈辱にもほどがある。晴川は自制心を限界まで発揮させてひたすら忍耐に努めようとした。
「あたしのこと、エッチなことなんて全然知らない子供だと思ってたでしょ?
でも、この歳でそういうこと全く知らないのってあの純真無垢な蘭ちゃんだけだと思うよ。
あんたや先輩に見せてたのは全部あたしの外面。本当のあたしはこういうことにも興味津々な女の子なんだよ」
理性を振り切って本能に身を任せてしまえばどんなに楽なことか。
しかしそれは同時に晴川のプライドをずたずたに切り裂く、決して許されないことだった。
「我慢しなくていいよ。ここに来てから抜いてないでしょ?夏菜ちゃんが同じ部屋にいるしね。
ほら、溜まったの全部出して……楽になっちゃえ」
春香はストローでジュースを飲むかのように晴川の鈴口に吸い付く。
畳み掛ける春香の言葉、逸物を包む魔悦に耐え切れず、晴川の精神力は限界を迎えた。
「……うっ!?」
「ふぁっ!?うぶぅっ!!」
抜く機会がないので溜まりに溜まっていた精液が春香の口内に出され、飲み込めなかった分が口から溢れ出す。
いいように手玉に取られてしまった晴川は羞恥心に潰されそうになった。
- 「ふふっ、出た出た。あったかい、白いどろどろがこーんなにたくさん。まだ処女のあたしにイかされちゃうなんて、恥ずかしーい。」
顔面精液塗れになった春香は口の周りについたどろどろしたものを舌でぺろりと舐めとった。
「本で読んだとおりこれって苦いんだね。それじゃ、いよいよ本番にいくよ」
そそり立ったままの逸物に春香が自分から割れ目にあてがう。
「あ、うあ、ちょっと、んあっ、きついかも……」
そして初めて自分の体が逸物をクチュクチュと音を立てて飲み込んでいく感触をじっくりと味わい、そのまま処女膜を破らせた。
「ん、あた、た……。はっ、入っちゃった、ね。全部入ったよ」
晴川も意識が飛びそうになるのを懸命に堪える。1度絶頂を迎えてさせられても、そう何度も春香の思い通りにさせるつもりはなかった。
春香の割れ目から流れる鮮血が晴川の股間を赤く染めていく。
「折角あたしとセックスしてるんだからもっと喜んだらどうなの?それとも気持ちよすぎてもう何も考えられないとか?だらしないなあ」
春香が腰を振り始めると晴川も再び射精感がこみ上げてくる。
このまま中に出したらどうなるか、晴川にはわからない。妊娠する?その場合、生まれてくる子供はどうなる?
「あん、ああん、んふ、ああぁん、やんん……いい、いい!これ、病み付きになりそう!」
夏菜を犯す男たちの声に春香の嬌声が混じる。生まれて初めて受け止める未知の快楽の激流を心の底から堪能している。
「ねえ、あんたのあそこどうなってるの。ねっ、出したいんじゃないの?我慢してるの?
そうだ、もしこのままあたしがイっちゃうまで我慢できたら、あっちで犯されてる夏菜ちゃんを助けてあげてもいいよ。
まあ、無理だと思うけど」
肉と肉がぶつかる音が次第に激しくなる。
春香は身を魔に堕とす前に読んだ本の知識を頼りに、どうすればより気持ちよくなれるかを手探りで探す。
「我慢強いねえ、あんた!さっさと出しちゃえば楽になれるのに、意地張っちゃって」
上下に激しく動いているせいで大きな乳がぶるんと揺さ振られ、
そのたびに弾力のある乳が叩きつけられて平べったくなったり元に戻ったりを繰り返した。
「お前、の、いいなりに、なんて、なるか!」
「えー、いいでしょ?ねえ、出・し・て♪」
「……我慢できたら、夏菜を助けられるんだろ?」
「出してよ」
「断る!」
自分の未熟な性技では晴川に出させることができないと悟った春香は強硬手段に出た。
春香の声色がぐっと冷たくなり、口調が上から目線になる。
「出しなさい」
それでも晴川は無言の拒絶を押し通す。
「……」
だが、普段の春香からは想像もできないほどドスを効かせた最後の一言にだけは、晴川も総毛立って逆らうことができなかった。
「出せ」
闇の向こうで春香がどのような表情を浮かべているか考えるだけでも恐ろしいほどの有無を言わせぬ物言いに、圧倒される。
「ぐあああああああああああぁぁぁぁあああああ!!」
「ああっ、あ、あ、ふああああああーーー!!」
晴川の悲鳴と共に精子が春香の膣にぶちまけられた。
かつて上司と部下という関係にあった2人は、立場が逆転し捻じれた関係で結ばれた。
望む望まないという違いはあったものの2人揃って絶頂を迎えた後、下半身が繋がったまま春香はパイズリに使った豊満な胸のまま晴川に倒れこむ。
荒い呼吸を整えた後春香は自分の頭の上にある晴川の顔に向かってふうっと息を吹きかけ、晴川が嫌そうにするとにひひと笑った。
「お腹の中に精子がいっぱいだあ……これでもし妊娠して子供ができたら、大切に育ててあげるからね」
「人間と悪魔のハーフをか」
「そんな中途半端にしておくわけないでしょ?産まれたらすぐに人間の痕跡も残らないくらい真っ黒に染め上げて、
今のあんたと同じように痛めつけて、それでその怒りの矛先を父親のあんたに向かわせるの……ああ、そう考えると子供は女の子がいいなあ」
自分の言っていることに陶酔しきっている春香に、晴川は心の奥底から恐怖が沸きあがってきて、屈辱感をあっさりと塗り潰してしまった。
「狂ってる……」
自分の子供すら復讐の道具としか見ていない春香に、晴川は本能を抑え切れなかった自分を悔やんだ。
しかし、頭の片隅にはそれとは別に「仕方がない、仕方がなかったんだ」という諦めの気持ちもあった。
- 「そこのクズ、あたしはもう満足したからこいつ使っていいよ」
夏菜を犯す順番を待っている男たちの相手をしていた秋生はこくりとうなずいて晴川に近づき、
仰向けになったままの晴川を冷ややかな目で見下した。
「初めての赤坂さんにイカされるなんて、晴川さんは本当にどうしようもない男なのですね」
「……赤坂は、お前が思っている以上に陰険だぞ」
「そうですか。では経験豊富な私が本物の極楽を味わわせてあげますよ。それに抗おうとすれば地獄ですけどね」
春香によって2回も射精させられて疲弊している晴川の逸物に、秋生は馴れた手つきで愛撫を始める。
未熟な春香のときとは段違いの快感が逸物から全身に駆け巡る。
どこをどうすれば男が悦ぶか、知り尽くしているかのような巧みな愛撫だった。
細い指がそれぞれ緩急をつけてうねうねと触手のように逸物に絡みつき、時折思い出したように一体感を持って撫でられる。
「お、お前、こんなことをどこで……」
「その言葉、私のことを真面目で大人しい女だと思っていましたね?皆私を見た目で判断するのですね……それが罠とも知らずに」
「どういう……意味だ」
手を休めず定期的に晴川の逸物に快楽を送りながら、秋生はゆっくりと語り始める。
「昔、私に『長年付き合っている彼氏がいながら、その大人しそうな顔に釣られた男を片っ端から食っている淫乱女』
って噂が立ったことがあるの、覚えてますか?あれはですね、実は本当のことなんですよ。
私は人の頼みが断れない性格ですから、セックスのお誘いも断れないのです。そうしているうちにセックスするのが楽しくなってきて、
彼氏だけでは満足できなくなって、偶然に故意を絡めて私の大人しそうな容姿に釣られる男を逃さず捕まえてやりまくってましたね。
もちろんそんなことをしていれば私のイメージが壊れますから、やった男全員に『ばらしたらもうやらせない』と約束させていました。
皆私とやれなくなるのが惜しいらしくて、黙っていてもらえましたよ」
風俗店などで働かずにここまでの技術を得るには、相当量の経験を積まないとできることではない。
秋生は表向きは清楚で男に疎い女を取り繕いながら、裏は色欲に狂った雌だったのだ。
「そういうのを、世間じゃ淫乱っていうんだぞ」
「ええ、淫乱ですよ。でもそれが何か?
あなただって赤坂さんのような何にも知らない女と交わるより、私のようなやり慣れた女とやるほうがいいですよね」
普段はどこに隠しているのか不思議なくらいの、むせ返るほどの発情臭が秋生から匂い立つ。
「それでこの後、私がここをひと舐めすれば大半の男は頭が快感を受け止めきれずに意識が飛びます」
逸物の1番敏感なところ、先端からカリにかけてを秋生の舌のざらざらした部分が優しく包み込む。
ゆっくり動かしながら艶かしく舌を抜き取ると、晴川の頭にいくつもの閃光がはしり、爆発する。
それを晴川は眉間にしわを寄せて苦悶の表情を浮かべながらも耐え切った。
「ぐ……おお……」
「へえ、2回出した後とはいえ私のこれに耐えられるとはやりますね。では……こうやって玉をこりこりするのはどうですか?」
天にも昇るような絶妙な圧迫感に加えて、鋭い爪がときたま逸物や股間を傷付けることさえちょうどいい刺激に感じられる。
「も、もう止めろ……限界だ……」
「限界?これからの間違いですよね?」
そう言うなり秋生はひんやりと冷えた左手でガチガチの逸物を体液が漏れないようにぎゅっと強く握った。
「私が許可するまでイッてはいけません」
「あがああっ!痛い、いああああああ!」
そのまま耳の後ろに舌を這わせたり、乳首を弄ったりと多様な責めで晴川を快楽と苦痛の狭間に連れ込む。
暗闇で次はどこからくるかわからない晴川は身構えることもできない。
「あら、泣くほど気持ちよかったのですね。立派な大人の男が泣くなんて……くすくす……」
「いいから、早く、その手を、放してくれ……」
「『イカせてくださいお願いします白石様』と言えたら放してあげますよ」
「この……下衆が……ぐああああ!?」
睾丸を鋭利な爪の先で突かれ、手放しそうになる意識をなんとか手繰り寄せる。
「早く言わないと股間が爆発するかもしれませんね」
「わ、わかった、言う……」
秋生の口元がつりあがるが、当然晴川はそれを見ることはできない。
- 「イカせて……くだ、さい……お願いしますしいいい!?ああああぁぁぁあ!」
屈服の言葉は逸物を握った手をゴリッと弄った刺激により中断される。
「言えてませんよ?きちんと最初から最後まで言えないと、イカせてあげられませんね」
「はあ、はあ、くそ、イカせて、ください、お願いします白石さああああああ!?あひいいいいい!」
逸物を引き千切れんばかりに引っ張られ、晴川はみっともなく喘ぐ。主導権を握られた晴川は、最早秋生の玩具と化していた。
「ふふ……もう少しだったのですけれど、惜しかったですね。さあ、もう1回どうぞ」
「早く、早く、イカせろ、イカせろおおおおおお!!イカせてくれえええええええ!!」
一旦高ぶり出した性欲はそう簡単に収まらない。いくら性欲が薄く淡白な晴川といえど、今回の秋生のテクニックには翻弄されていた。
「言葉が違います。落ち着いて、ゆっくり言ってみてください。で、も……落ち着いてなんていられませんよね!
ほら、ほらほら、ほおら!アハハッ、意識が飛ぶのが早いですか、それとも股間が爆発するのが早いですか?!」
秋生は左手で逸物を強く握り締めたまま、空いた右手で猛烈に股間をこね回す。晴川の顔が涙と脂汗でくしゃくしゃになる。
言葉を紡ぐ余裕すら与えられず、獣じみた奇声しかあげられなくなる。
「晴川さんが最初に抗おうとするのが悪いのですよ。抗ったら地獄ですよと忠告したのに無視するから、このようなことになるのですよ」
秋生の声は今の発狂している晴川には届かない。暴れたいのに、力が入らないから弱弱しい抵抗しかできない。
「恥ずかしい顔をしていますね。青野さんが見たらきっと失望されますよ。
まあ、今は本人も見ている暇はなさそうですけれど。さて、そろそろ次に行きたいので放してあげますね。はい」
「……ア」
秋生は手を離すと同時に逸物を咥え、喉を鳴らしながら大量の精液をごくごくとおいしそうに飲み下す。
晴川は自分の何かが抜き取られているような錯覚に襲われた。射精の快感がすうーっと引いていくと共に意識も薄れていき――
「寝ないでくださいね。まだ終わりではありませんよ」
首輪の鎖を引いてゴンゴンと硬い床に後頭部を打ち付けられ、乱暴に叩き起こされる。
「う……あ……」
「先ほどの赤坂さんで出さなかったのですか?溜まりすぎです。それでは、前戯は終わりにしますね」
「今のが前戯だと……もう出ないぞ」
「晴川さんが出すつもりがなくても、私が搾り取りますから。それにまだ3回しか出していませんよね」
精液を吐き出し続けてぐったりしている逸物を手コキで否応もなしに勃たせると、
放心状態の晴川の上にまたがり逸物を掴んで自分の秘部にずぶりと突っ込んだ。
「く、ううう……。ふう、まだまだ溜まっているはずですよ。私の中に全部出してください。
搾りかすくらいは残しておいてあげますから、安心してくださいね」
秋生が腰を振り始めると暴力的なまでの快感が晴川を貫き、4回目の発射はすぐに訪れた。
秋生はこれで晴川の精力のほぼ全てを搾り取ろうとしている。
晴川にも秋生がしようとしていることに感づいてはいたが、既に理性でどうにかできる段階ではなかった。
「ああっ、さっきの、不自然な、締め付けはなんだ、ぐわっ、挿入した途端に、ぎゅっと」
「はあああぁあん、またきたああああ!あは、やりなれてるからガバガバだと思いましたか?アソコを締めるくらい朝飯前ですよ!」
個人差では説明できないほど、春香より肉が締まっている。
人間では到底出せないほどの膣筋力で、秋生は晴川の逸物を擦り切れんばかりに扱く。何回目かの射精で、遂に精液に血が混じり始める。
「やめろ、あああっ、やめへくえ、こえ以上やっひゃら壊えるううううううう!」
神経を直接いたぶられているかのような感覚に頭が破裂しそうになる。
晴川は頭の処理能力を超える量の快楽を流し込まれ、狂い死にするか廃人になるかの瀬戸際だった。
「くああっ、もう半分壊れかけてますよ。それに、はあっ、そうして涙ながらに哀願されると、余計に止めたくなくなるのですよ。
さあ、蛇口が壊れてもいいですから、どんどん出し続けてください!」
気持ちいいのに、止めなければならない。気持ちいいから、止められない。気持ちいいのに苦しい、辛い、きつい。
気持ちいいから……されるがままになる。
- 「あん、はああん、月夜女様もどうしてこのような良いことばかりの私刑をやろうとしないのか理解に苦しみますね。本当にもったいない……」
「本当、こんな見苦しい行為を私に見せるとはどういうつもりなのかしら」
喧騒の中でも凛としてよく通る月夜女姫の声が響きわたった。その声で陵辱劇はぴたりと突然の終焉を迎える。
今日1日はここに現れるはずのない人物の登場に、秋生と冬子の思考が固まった。
「あ、あの、これは……」
秋生が冷や汗をかきながら頭をフル稼働させて言い訳を探そうとするが、
直前まで晴川と交わり快楽を貪っていたので頭の切り替えがうまくできない。
「これは?何なの?説明してもらえるかしら?」
心の弱い者ならその目で睨まれただけで気絶しそうなほどのきつい面持ちで、腰が砕けて立てない秋生を見下ろす。
「赤坂さん、そう、赤坂さんがこの陵辱を私刑にと提案されたので、3人で実行しておりました」
「この部屋のどこに春香ちゃんがいるの?でたらめなことを言っているとその首、へし折るわよ」
「「え……?」」
部屋の中に春香の姿はどこにもない。いた痕跡もない。
いつの間に、と秋生と冬子が目を合わせていると、部屋の入り口からいつもと変わらない、
体型は元に戻っているし服もきちんと着込んでいる春香が歩いてきた。
「あーあ、やっちゃったね。2人とも、現行犯は言い逃れできないよ」
表向きは哀れみを込めた表情をしているが、秋生と冬子には今の春香の心中が手に取るように分かる。
「ちょっと、いつの間に逃げてたのよ?」
冬子が春香を指差しながら裏切りを働いた仲間を追求した。
「逃げた?何のこと?あたしは今日初めてこの部屋に来たんだけど」
「明らかにはかったようなタイミングで来ておいて、堂々と嘘をつくな!」
冬子に怒鳴られても春香は痛くもかゆくもない。むしろ春香はこれから猫が鼠をいたぶるようなねちっこい視線を2人に向ける。
「ここは先輩に裁定を任せます。あたしのことは先輩が1番よくわかってくれているはずですから」
「晴川さんの証言を聞けばわかりますよ!」
「どうなの、晴川?」
衰弱し、焦点の定まらない目のまま晴川はボソッと答える。
「……赤坂と白石に犯されたな。冬子は男の集団に指示して夏菜を襲わせていた」
「ほら、これで信じてもらえますよね!?」
しかし春香はそのさらに1枚上をいっていた。「月夜女姫は春香に甘い」ことを最大限利用した、春香にしか打てない手だ。
「うわあ……。こいつクズのくせにあたしに濡れ衣を着せようとしてますよ。
しかも先輩以外はやっちゃいけないはずの記憶弄りまでしてるし、救いようのないクズですね」
「月夜女姫様!白石さんの言っていることは本当です!信じてください!」
冬子が加勢に入っても、春香は臆することなく嘘を並べ続ける。春香は月夜女姫の背後に隠れ、体をすり寄せて甘える仕草をした。
「せんぱあい、クズとゴミが共謀してあたしを嵌めようとしてるんで、助けてくださいよお。
あたしがそんないやらしいことなんてするわけないのに、馬鹿ですよねえ」
春香の策略の前には、数の有利など意味を成さない。
今すぐに月夜女姫が春香の股間を触ってみれば簡単にわかることなのだが、春香は月夜女姫がその行為をしようとしないことも読んでいた。
さらに2人も淫行に淫行を重ねることになるので月夜女姫にそのような提案をすることはできない。
そもそも2人は今の春香の態度に激昂していて冷静に考えることすらできていなかった。
「冬子お、なんでもう抜いちゃうのお?もっとやろうよお、ほら、ここの穴に触手突っ込んでずっこんばっこんってさあ。
ほら早くう、ねえったらあ」
目も見えず、耳も聞こえないせいで周りの状況が把握できない夏菜が空気を読まずに体をくねらせながらおねだりを始めた。
両足をM字に開き、陰門を指で広げている様からは恥じらいのかけらも感じられない。
今度は冬子の背筋が凍る番だった。
「とーうーこったらあ、無視するんだったらここでオナニー始めちゃうよお。私だったオナニーのやり方くらいは知ってるんだから。
こうやっておまんこを広げてそこに手を突っ込んでえ……あは、見て見てえ♪
いっぱい犯されたからあ、子宮のお口がパクパクしてるよお。ここに指を……あがっ?!」
- 月夜女姫が夏菜の頭を鷲掴みにすると、壊れた笑みのまま夏菜の動きが止まった。
「目の毒だわ。ここまで派手に壊されると元通りにするのに時間がかかりそう。
人の玩具で勝手に遊んだ上に壊すなんて、とんだ僕もいたものね」
「「申し訳ありませんでした!」」
秋生と冬子が揃って土下座すると、月夜女姫は靴のヒールの部分で秋生の頭部をぐりぐりと踏み躙った。
「ふん、春香ちゃんがこんなはしたないことをするわけがないじゃない。
2人とも、嘘をつくならもっとありえそうな嘘にしたらどうなの。明日の私刑は2人追加ね」
秋生と冬子が春香の悪辣なやり方に唖然としている側で、晴川は陵辱が終わってほっと胸を撫で下ろしていた。
真実を捏造した春香だけが、不機嫌な月夜女姫の背後で悪魔の本性を露にして薄笑いを浮かべていた。
- 全く光の入らない牢屋の中に安らかな寝息と衣擦れの音だけが聞こえる。
牢は毎日掃除されて清潔に保たれ昼夜逆転の生活を余儀なくされている2人の疲労を癒し、心が折れるのを際どいラインで防いでいる。
心身ともに疲れ果てて泥のように眠っている2人を、月夜女姫が屈み込んでその様子を見ていた。
どんなに警戒心が強い人間でも体調が万全でなければ神経を尖らせていられる時間も短くなる。
月夜女姫は2人がぐっすりと眠りこけているのを確認してから、2人を起こさないように静かに人差し指の先を爪で軽く傷つけた。
突き刺した爪と指の間から黒ずんだ赤色をした静脈血がじんわりと滲み出てくる。
その見た目だけは人間と大差ない。だが、これを普通の人間が飲み続けると……。
月夜女姫は眠ったままの夏菜の耳元に口を近づけ、そっと囁く。
「さあ……いつもの、しましょうか」
月夜女姫の指が夏菜の唇に触れると、夏菜は目を閉じたまま月夜女姫の指に吸い付いた。
「ん……」
夏菜から発せられた声が示すのは拒絶ではなく曖昧な肯定。
月夜女姫の指を咥えたまま、夏菜は緩やかに目を開いていく。その目は僅かながら紅がさしつつあった。
この反応は夏菜の意思で目を開いているのではなく、条件反射のようなものである。
今夏菜がしていること、見ているものは特殊な経路で記憶に刻まれ条件が揃わなければ夏菜は思い出すことができない。
その条件というのが「月夜女姫の血を飲ませること、または月夜女姫の指から滴る血を見せること」だった。
「あのゴミが余計なことをするからまた1からやり直す破目になったけど、そろそろ量を増やしてもよさそうね」
一旦夏菜の口から指をすっと放すと、月夜女姫は自分の指を爪でさらにざくりと深く傷付けた。
傷の深さに比例して溢れ出す血液の量が増す。
そのとき、無表情にその様子を眺めていた夏菜の顔がぱあっと輝いた。
今にも血が零れそうな月夜女姫の指が唇に接触する前に、飛びつくように指にむしゃぶりつく。
「ぢゅうううう、ずずっ、じゅるじゅる……」
夏菜は眉根をハの字に寄せ、1滴も零さないよう夢中で傷口の血を啜った。ふんふんと荒い鼻息が月夜女姫の指にかかる。
「そんなに音を出したら晴川が起きてしまうわ。ほら、音を立てて飲むのは下品よ、止めなさい」
月夜女姫にやんわりとたしなめられた夏菜は起き上がりかけた体を再び布団の中に戻し、飲むペースを少しだけ落とした。
「ちゅ、んぅ……」
夏菜のこの一連の反応で、暗闇でもきちんとものが判別できるくらいに夜目が利くようになっているのがはっきりとわかる。
夏菜も晴川もまだ気付いていないが、虹彩の赤色化と魔力の増大の傾向も認められる。
気付いてからでは手遅れ。しかし、2人のどちらかが気付いたところで夏菜が堕ちるのを止める手段は無い。
月夜女姫の穢れた血は既に夏菜の深層意識だけでなく表の人格さえ変えようと手を伸ばしていた。
今日は磔にされて晒されたとき以来の、外での私刑執行だった。
磔は飢えと渇きに苦しむのみならず、自重で肩を脱臼させてそれが胸を圧迫し、横隔膜の活動を阻害して呼吸困難にし、
心肺機能を極限まで酷使させて絶命させるという本来は死刑に用いられる手法だ。
それを絶命寸前で止められてまた別の私刑を実行されるのだからたまったものではない。
今回の場所はとある高校の体育館。
晴川と夏菜の2人はそこのステージの上に立たされ晴川は冷静に観客を見渡す余裕まであったが、
夏菜は怯えと憎悪の入り混じったようなぎこちない顔を観客に向けた。
月夜女姫はステージから予め用意させたマイクで整列させた人々に呼びかける。
「さあ皆さん、今日は日頃の鬱憤を晴らすチャンスよ。何と、皆さんからのリクエストに応じて私たちがこの2人に私刑を加えます!
このだらしない正義の味方に受けてもらいたい責めを今から募集するわ。何か思いついた人は手を挙げなさい」
しかしここにはホワイトウイングを強く憎んでいる人間はいなかったらしく、誰も彼も俯くばかりで手を挙げる人間は皆無だった。
「あら、ここの人間はまともな人間ばかりのようね。ここで自ら進んで手を挙げたらここにいられなくなってしまうもの、
そう簡単には発言できないわよね。じゃあ……私から勝手に指名していこうかしら。それから、今からこの2人から目を逸らすのは禁止ね」
俯いていた顔が一斉に上がり、首輪に繋がれた2人に視線が集中する。
服を剥かれていなくても、この首輪に繋がれている姿を見られるだけで夏菜はかなりの羞恥心を感じた。
「じゃあそこの……お前」
月夜女姫は音もなく少女の目の前に転移し、マイクを向ける。
- 「ひゃあっ!?え、あ、私ですか?」
指名された少女は短めの黒髪で桃色のリボンをしており一見高校生か中学生かといった印象で、
背は特に低いわけではないがまだ幼さが払拭し切れていない容姿をしていた。
落ち着きなくおどおどしているせいで見た目よりさらに幼く見える。
「そう、お前」
「そんな、急に言えって言われても……」
はっきりした態度をとらない少女に対し月夜女姫はニコニコしながら返答を待っている。
「どうしたの、ないの?」
「無理です、私には……他の人に……」
「へえ、そう」
月夜女姫が笑顔のまま納得したような素振りを見せたので一瞬安堵した少女だったが、
突然月夜女姫が真顔になったので心臓が飛び出しそうなほどびっくりしてしまう。
「じゃあ、お前が死ぬ?」
少女は思わず一歩後ずさり、声が出せずに首だけを左右に振る。
「まあ、私も鬼じゃないから10秒だけ猶予をあげるわ。じゅーう、きゅーう……」
少女にマイクを向けて、月夜女姫はゆっくりとカウントダウンを始めた。
「う、うーん……ええと、火あぶ」
「……876543210!」
少女が何か言いかけたのを無視して、一気に早口でカウントをゼロにする。
それと同時に月夜女姫は少女の胸の中にマイクを持っていないほうの手を突っ込み、素早く心臓を抉り取った。
少女のぽっかりと空いた胸の中心から赤い染みがじわじわと広がっていく。
「あら残念、時間切れね」
「は……あ、あ……ごぼ」
月夜女姫は少女の顔と抉り取った心臓を見比べ、満足そうな笑みを浮かべた。
「今のお前、とてもいい顔よ。理不尽な死を与えられてあっけにとられたその顔、写真に撮っておきたいくらいだわ」
月夜女姫は少女を横目で見ながら鼓動を止めつつある心臓に口付けし、
少女が最期の力を振り絞って自分の心臓に手を伸ばそうとしたのを見計らって
「無駄な努力ご苦労様」
ぐちゃりと心臓を握り潰し、くすりと笑った。
事態を飲み込むのに時間がかかったのか、少女が血溜まりにうつ伏せに倒れた後になってやっと甲高い悲鳴が場内に響いた。
春香がさっと差し出した白いタオルで手についた血を拭きながら、月夜女姫は悲鳴を上げた女性に歩み寄る。
「うるさいわね、この程度のことでいちいち騒がないで。お前は何か希望はある?」
目に涙を浮かべて髪を振り乱していた悲鳴の主にマイクを向け、月夜女姫は返事を待った。
「む、鞭で……」
少しでも迷うと殺される。そう思った悲鳴を上げた人物は即答せざるを得なかった。
乏しい知識をフル動員してひねり出したその答えに、月夜女姫はやれやれと言いたげな顔で肩を竦めた。
「鞭ねえ……前やったことあるんだけど、あれから私も練習したからやってみる価値はあるわね」
前回の鞭打ちでは悲鳴をあげずに耐えることのできた2人だったが、今回はそうもいかなかった。
「練習した」と言っている月夜女姫は格段に鞭の扱いが上達しており、
さらに殺傷効果の高い鞭を使用したため服はもちろん肉が裂けて骨が見え出すのにそう時間はかからなかった。
「うぁ……あ……ぁ……」
月夜女姫にとってはこれでもウォーミングアップのつもりだった。
晴川はこの時点で既にぐったりとうなだれ、口からは息なのか声なのか判別できないものが漏れ聞こえている。
「……」
一方夏菜は目を伏せたまま口から泡を吹き、背筋を仰け反らせてピクピクと痙攣させていた。
その様子を月夜女姫がにこやかに見下ろす。
「ん~、失神させずに苦痛を長引かせるのって案外難しいのよね。鞭打ちはこのくらいにしておきましょうか。
蘭、私が次を決める間に2人に治癒術かけておいてね。じゃあ次は……お前で」
月夜女姫にマイクを向けられたのは紫の服で金髪に染め首には品のないアクセサリーをジャラジャラとつけた、
いかにもチンピラ風な格好をした若者だった。
「俺?そうだなあ……まわしとかどうっすか?」
- 自分には危害を加えてくることがないと安心しているのか、若者は臆することもなく答えた。
その顔は他人の運命を支配する愉悦に染まっている。
「まわし?聞いたことがないわね、もっと具体的に言ってくれるかしら?」
月夜女姫はてっきり縄で吊り下げて回転させる駿河問いのようなものだとばかり思っていたが、
次の若者の答えを聞いてとたんに頭に血が上った。
「別の言い方をすれば集団レイプのことっすよ。知らなかったんすか?あんた、意外とうぶっすね」
少女とは違い若者は少しも気後れしていない。
若者が今の彼女の心情を読み取れていればとても平然としてはいられないから、単に空気を読む力が足りないだけだ。
「ごめんなさい、よく聞こえなかったわ。もう一度言ってくれる?」
過去に秋生を問い詰めたときと同じ、作り物の微笑を貼りつかせた顔で月夜女姫が若者に再び尋ねる。
「だから集団レイプって言っ」
珍しく月夜女姫が再びチャンスを与えたのに、若者は人生のターニングポイントの選択を誤った。
「死ね」
若者は自分の意識がぷつりと切れる直前に、一切の表情が消えた不気味な月夜女姫の顔を見た。
月夜女姫の感情のない声を聞いて、自分の発言を悔やむ時間はなかった。
鋭い爪を一閃すると数秒もしないうちに若者の喉元から血が溢れ出し、
目玉がぐるんとまわって白目をむいたタイミングで首がごとりと音を立てて床に落ちた。
首から上がなくなった体は首から噴水のようにしばらく血を噴き上げていたが、
勢いが弱まると仰向けに倒れて後方の乳児を抱えた母親に血のシャワーを浴びせた。
「しまった、私にそういう発言をしたことをじっくり後悔させてから殺せばよかった……まあ、いいか」
若者がどのような行動を取ったにせよ、月夜女姫はここの避難所の人間は皆殺しにする予定だったのだから、
死ぬのが早いか遅いかの違いでしかない。
「醜い性欲の塊……気持ち悪い男ね。そんな下賤な人間は一刻も早く消すに限るわ」
気を取り直して、月夜女姫は次の私刑内容を決める人間の指名を再開した。
途中で目を逸らしていた女性を先ほどの若者と同様に殺した以外は、公開私刑は割とすんなり進行した。
私刑の区切りに毎回治癒術をかけているため体の負担は受けている私刑の内容に比べるとそれほどでもないが、
精神的苦痛はとっくに限度を超えていた。
「では、最後に。この私刑に見事耐えることのできたこの女に素敵なプレゼントがあるわ」
「ふん、どうせロクなもんじゃないんでしょ……」
無反応を装うという晴川との約束も守っていられないほど、今の夏菜は荒廃してしまっていた。
これほど多種多彩な責めを受けてまともな精神状態でいろと言うのが無理な話だが。
「今からこいつに、ここの避難所の人間を皆殺しにしてもらうわ!!」
それまでに3人も目の前で殺されても大きな混乱の起きなかった人々が、悲鳴と怒号の入り混じった声をあげながら出入り口に殺到した。
「……やればいいんでしょ、やれば」
柱に繋がれた鎖を外され冷めた目で覚悟を決めた夏菜は、ゆっくりと歩いて人ごみに近付いていく。
「やめろ青野、お前は人殺しになってもいいのか?!」
「大丈夫だよ、晴川さん。いい方法がある」
夏菜の顔はこれから大量殺戮をするとはとても思えないほどリラックスしていた。
「おい、早くしてくれ!殺される!」
「ダメだ、扉に鍵がかかってるみたいに開かない!」
扉に群がる人々の頭上に、助言を与える天使のように優雅に現れた春香が死の宣告とも取れる言葉を口にする。
「あ、そこね、夏菜ちゃんがちゃんと全員を殺せるように術で鍵かけておいたから。普通の人間には破れないよ」
「くそお!どうにかなんねえのかよ!!死にたくねえよ!」
「後ろ、もう来てるわよ!」
首輪の鎖をジャラジャラと引き摺ったまま、夏菜は溜めの動作に入っていた。生身の人間なら溜めなくても致命傷にはなる。
それなのに溜める理由は、人を狙うふりをしながら人が逃げるための時間を稼ぐためと、
誤射に見せかけ壁に穴を開けてそこから人を脱出させるのが狙いだった。
「おおおおおおりゃああああああ!!」
人ごみがざっと2つの塊に分かれた部分を狙い、渾身の力をぶつける。
- 「さあ、皆そこの穴から脱出し……嘘、壁に穴どころか傷すら付けられないなんて!」
避難所の壁程度なら軽く貫通できると踏んでいた夏菜だったが、春香の施した障壁は予想以上の強度でレーザーを受け止めていた。
「何してるの……早くやってよ……」
夏菜は背後から春香のねっとりと絡みつくような声を聞いて、心臓がきゅっと縮こまる。
「ああもう!言われなくてもやるってば!」
それでも表向きは人に向けて撃っているように見せ、ぎりぎりで避けられるのを計算して狙いを僅かに外していく。
今狙っている人が逃げるのを諦めたら当たってしまう、危ない賭けだった。
「あのさ夏菜ちゃん、実は人を殺すのが怖いんでしょ?黒の一族のときはあんなにノリノリで狩ってたのにさあ」
「そ、そんなことないよ」
「夏菜ちゃんって嘘がすぐ顔に出るよね」
「……う」
図星を突かれて夏菜は時が止められたかのように硬直してしまう。
ぎこちない動きで春香の顔色を確かめると別段怒っているわけではなく、年不相応の淫靡な視線を向けていた。
「いいよ、じゃああたしがお手本見せてあげる。よーく見ててね」
春香は人の塊の中から無造作に1人選び出して掴み上げ、夏菜の前で首を押さえて押し倒した。
「ぐ……あ……放、せ」
偶然摘み出された男は首を掴んでいる春香の手をどけようとするが、人外の怪力には到底敵わない。
ばたばたともがいても無意味に体力を消費するだけだ。
「あたしの今のお気に入りの殺し方は……こ・れ♪」
「ぎいいぃぃぃやああああぁぁぁっ!!」
肋骨の中心やや下から角度をつけて手をみぞおちの方向に向け、胸の中に潜り込ませる。
ぶちぶちと肉と血管が引き裂かれる音の後、抜き出した春香の手にはまだドクドクと脈打っている心臓が握られていた。
「あたしも先輩の真似してるうちに大分うまくなったかな?
ほら、見て。心臓って綺麗に取り出せると体から出した後もちょっとの間だけどまだ動いてるんだよ」
春香の狂気を湛えたその瞳は、快楽殺人者となんら変わらなかった。目の前の人の心を持たない化け物の姿に男は凍りつく。
「早く戻してあげさいよ、それ……」
「お断りー」
春香に握り潰され肉片となった心臓が、目を見開いたままの男の顔面にびちゃびちゃと散る。
「今、夏菜ちゃんもやってみたいと思ったでしょ?面白いよこれ」
私もやりた――
春香の邪な誘いに夏菜はぐらりと心を動かされるが、それを紛らわすように2人を隔てている闇界障壁を殴りつけた。
ゴンと鈍い音と共に夏菜の拳が弾かれる。
「ふざけ……ないで……私は今の春ちゃんみたいに他人の命をなんとも思ってないような腐った人間にだけは、絶対にならない!」
夏菜は湧き上がってくる黒い衝動を押し殺した。
最近、夏菜は晴川が月夜女姫たちに責められているのを見て「自分もやってみたい」と思う自分に危機感を覚えていた。
それでもまだ、その感覚が普通でないことは自覚できている。しかし、日を追うごとにその感覚は強くなってきていた。
このまま放っておけば理性で抑えきれなくなり、自分も春香たちと同じ殺人狂になってしまうのではないかという不安があった。
そんな自分の身の内に秘める欲望を振り払いたくて、夏菜は春香に語りかけた。
「春ちゃんだって最初は黒の一族を攻撃するのにも躊躇ってたよね?そんな春ちゃんなら人の痛みがわかるはず。
もう止めようよ、こんなこと。ね、まだやり直せるよ。だから……目を覚ましてよ!」
月並ながらも気持ちのこもった言葉を春香に投げかける。
春香のささくれ立った心を元に戻したい……その夏菜の想いが届いたのか、春香の様子に変化が生じた。
「う……ううう……」
血に濡れていないほうの手で顔の半分を押さえ、春香はその場に蹲った。
突然何かの発作に襲われたかのようにはあはあと息を切らし、その表情は酷く苦しげだ。
「春ちゃん……まさか、正気に」
耳はいくらか小さくなり、燃えるような紅だった眼はちかちかと明滅して本来のこげ茶に戻ろうとしている。
「安心、しない、で……まだ、完全に先輩の呪縛から、解き放たれたわけじゃない、から……」
「皆が春ちゃんの帰りを待ってるよ!春ちゃんにも大切な家族が、友達がいるでしょ?!思い出して、さあ!」
春香は両手で自分の頭を抱えていやいやと首を振った。
それでも夏菜の呼びかけに応じて春香の体は明確に変化しており、残るのは黒い両翼だけとなった。
「夏菜ちゃん、だめ……頭が、割れそう、なの……あたしは先輩の何……だっけ……?」
「もう少し!春ちゃんはこのままずっとあの月夜女姫の言いなりでいいの?そんなわけないでしょ!?
元に戻って!元の優しい春ちゃんに戻ってよ!」
- 「あ、あたしは……先輩の、奴隷……なんかじゃ、ない!!」
翼の輪郭がぐにゃりとぼやけた。
「ああああああああああああああっ!!」
春香が一際大きく絶叫した直後、黒い両翼が崩れるように消え去った。真っ赤なドレスの背中に空いた2つの穴から素肌が覗いている。
「春……ちゃん?」
春香はゆっくりと顔を上げ、憑き物が落ちたかのようにさっぱりした笑顔を夏菜に向けた。
その姿はどこからどう見ても普通の人間で、黒の一族の面影はどこにも残っていない。
「ごめん、夏菜ちゃん。あたし、皆に迷惑かけちゃったね」
「春ちゃん、謝らなくていいよ。それより元に戻れてよかった。この調子でいけば、他の皆も……」
他の皆も、同じように心に訴えかければ正気を取り戻してくれる。
ここから1人ずつ仲間を月夜女姫から取り返していって、また皆で力を合わせられたら月夜女姫はきっと倒せるだろう。
逆境を乗り越えた友情パワーにはどんな悪も敵うはずがない。
今の春香への説得で手応えを感じた夏菜は、自分が皆を助けるんだという使命感に燃えた。
春香の叫び声で体育館全体がシーンと静まり返る。春香以外の全員の視線が春香に集中した。
一般人の中からはホワイトウイングの逆転劇に期待に胸を膨らませ、ちらほらと歓声すらも聞こえてくる。
「やはり、力で無理矢理作られた関係は脆いな」
「それは逆よ。力で強引に縛った関係だからこそ、ちょっとやそっとじゃ壊れないのよ。自然にできた絆なんて儚いもの。
信頼は築くのは何週間も、何ヶ月も、場合によっては何年もかかる。それでも崩れるときは一瞬って話はよく聞くでしょう」
「おいおい、現にあそこで春香が正気を取り戻しているのが見えないのか?」
月夜女姫は腕を組み、
「ええ、春香ちゃんが抜けたのは困ったわね」
と、どことなく棒読み気味に言った。その態度に晴川は一抹の不安を覚える。
「はあ、ずっと立ちっぱなしで疲れちゃったわ」
月夜女姫は1つ前の発言より声量を上げて、ため息と共に何気なく呟いた。
普通ならこれはただの独り言だが、後ろに控えていた秋生と冬子はこれを聞き流すという失態を犯してしまう。
「そこに突っ立ってる2人、私が『疲れた』って言ったのが聞こえなかったみたいね。この私を地べたに座らせるつもりなのかしら?」
月夜女姫に背を向けたまま話しかけられ、そこで2人は漸くビクッと反応を示した。
「はい、今すぐ椅子をお持ち致します!」
「冬子様、おそらく月夜女姫様は……」
月夜女姫は冬子のその言葉を聞くなり2人の方向に振り向いて冬子にかつかつと靴音を響かせて歩いていき、
彼女の翼の端を摘んでグッと力を込めた。
「いだだだだ!いきなり何するんですか!?」
秋生の助言を無視して歩き始めていた冬子は月夜女姫の目だけが笑っていない笑顔を振り返って翼越しに見てしまい、
顔面に冷や汗をつうっと垂らす。
「ち、が、う、で、しょう?私、そんなこと頼んでないんだけど」
「冬子様、ここは私が」
秋生は元々月夜女姫が立っていた場所にすっと腰を降ろして四つん這いになり、翼をしまってから
「どうぞおかけください」
と流し目で合図をした。
月夜女姫はその四つん這いになった秋生の背中にドスッと音を立てるようにわざと勢いをつけて座る。
露出度は普通のプリンセスラインのドレスと変わらないのにも関わらず、
黒紫の配色が本来ドレスが持つ華やかさや繊細さを打ち消して毒々しい印象を与える。
月夜女姫はふわりしたとスカートが落ち着かないうちに、いつもの脚を組んで左腕で頬杖をつくスタイルに座り直した。
そして手持ち無沙汰になっておろおろしている冬子をちらりと見ながら、今の彼女にぐさりと深く突き刺さるような言葉を言い放つ。
「使えない奴……」
奴隷としては最悪の部類に入る烙印を押されて、冬子は汚名返上を焦ってしまう。ただでさえ月夜女姫からよく思われていない冬子だが、
月夜女姫は本人がいくら努力しようと一定値より評価も待遇も良くするつもりはなかった。
元々憎きホワイトウイングの人間なのだから当然である。
「白石さん代わってよ、私が椅子の役やるから!」
「いいですけど……」
「ねえ、誰が勝手に動いていいって言ったかしら?」
月夜女姫は秋生の髪の根元を掴んで上に引っ張り上げた。髪の生え際だけでなく、首の部分にも多大な負担がかけられる。
「い、痛い……も、申し訳ありませ……」
息が詰まりかけながらも秋生は何とか謝罪の言葉を搾り出せた。
それを聞いて月夜女姫はふんと不機嫌なため息を漏らし、さらに手に力を込める。
「質問に答えなさいよ。誰が動いてもいいって言ったの?」
「ぐ……え……」
- 髪の毛の大半を素手で毟り取られるかのような激痛に耐えられず、秋生はバランスを崩して床に肩を打ちつけた。
「ええと月夜女姫様?それ以上やると白石さんが大変なことになりそうな気が……」
「このくらいで壊れるような奴隷なら要らないわ。お前たちは私の奴隷である自覚が足りない」
「おい、止めろよ」
それまで黙って月夜女姫の虐待を見逃していた晴川が初めて口を開いた。
「あら、春香ちゃんを見捨てるような人間にも思いやりはあるのね。今のこいつらがどうなろうとお前には関係ないでしょう?」
「関係ある!俺が4人をこの戦いに巻き込まなければこんな酷い目に遭わされることもなかったんだからな。
俺には4人を平和な生活が送れるように元に戻す責任と義務がある」
「へえ、そう……じゃあ今回は特別にその言葉に免じて止めてあげるわ」
月夜女姫が秋生の頭から手を離すと抜けてしまった黒い髪の毛が何本かひらひらと舞う。
秋生はくしゃくしゃになった髪型を直そうともせず再び四つん這いの体勢になった。
「白石と黒松、1回冷静になって自分で考えてみろ。今こうやって月夜女姫の言いなりになって虐待を受けているのがおかしいと感じないか?」
「おかしいのはあなたのほうよ。どうして月夜女姫様にこき使われるのがいけないことみたいに言うの?」
「こいつは……」
冬子から予想の斜め上の答えが返ってきたことで、晴川は月夜女姫の洗脳の強力さを再確認すると共に説得の言葉が通用しないことを悟った。
そうなると、春香の洗脳が夏菜の説得で簡単に解けたことが怪しくなってくる。
信頼できる人間だから洗脳も軽めにしておいたのか、それとも……。
「私はそこに突っ立ってる無能はいなくなってもいいんだけどねえ」
「そ、そんな月夜女姫様ぁ……あの、肩をお揉み致しましょうか?」
冬子のそのゴマをする行為がさらに月夜女姫の神経を逆撫でしてしまった。
月夜女姫は肩に置かれた冬子の手を叩き落とし、上下関係にまかせて辛辣な言葉を並べる。
「軽々しく私に触れるな。今更ご機嫌取りのつもり?目障りなのよ、この役立たず。私が呼ぶまで視界に入るな」
「ひっ、も、申し訳ありません!」
それを言われた冬子がどう思うかを理解した上で、月夜女姫はあえて突き放した言い方をする。
月夜女姫がかつて天道彩だったときには、言葉の刃の使い方を正す立場にいた。
昔は自ら進んで傷ついた人を守り、優しい言葉をかけて傷を癒す優等生だった。
今はその言葉の刃の陰惨さをよく理解しているからこそ、効果的に他人を傷付けることができる。
冬子は月夜女姫の視界に入らないようにステージの隅で縮こまり、しゅんと落ち込んだ。
「……とまあ、作られた関係ならばこんなふうに乱暴に扱っても文句の1つも言わずに働いてくれる素晴らしい関係が築けるの。
羨ましいでしょう?」
「そんな酷い扱いをしてるから赤坂が離れるんだろ。仲間が1人抜けたのに暢気なものだな。このままだと全員青野に説得されるぞ」
秋生も冬子も晴川の目から見ればとても自分から喜んで付き従うような扱いには見えない。
春香は2人よりは扱いがよさそうだが、奴隷としてこき使われている点では2人と同じだ。誰も奴隷となることなど望んでいるはずがない。
だから夏菜の呼びかけに応えて正気を取り戻せたのだ。
「ああ、そのことだけど……」
髪の毛の先を右手でくるくると弄りながら、月夜女姫がぽつりと言った。
「今私がお前とこうしてのんびりお喋りしている理由、少しは考えてみたらどうかしら?」
今の月夜女姫の落ち着きぶりは、度を超えていて不気味なくらいだった。
まるで春香の頭の中を見透かしているようなゆとりを持ちながら春香の様子を眺めている。
「春香が寝返ったところで返り討ちにする自信があるからだろ?
だがいくらお前でも白石と黒松まで寝返られたら確実に勝つ自信はないんじゃないか?」
「さて、それはどうかしらね。それより、私ばかり見てないで春香ちゃんのほうも見てあげたら?」
「ん?赤坂を見ても別に何も……!?」
夏菜も晴川と同時に「何か」に気付いたようだ。
姿形は以前の人間になっていた春香だが、身に纏う雰囲気がはっきりとホワイトウイングにいたときは異なるものであると感じられる。
「おい、まさか……」
晴川の一抹の不安は確信に変わった。
にたり、と正気に戻ったはずの春香が妖しい笑みを浮かべていた。
「――なあんちゃって」
- 夏菜の必死の訴えは、相手が人の心を理解できる存在なら十分に心に響いただろう。
逆に人の心を無くしてしまった化け物に対しては何の効果もない。
今の春香は後者だった。
「あはははははは、馬っ鹿みたい!何なの、さっきの使い古された常套句は。
『目を覚まして』なんて使い古されすぎて埃被っちゃってるって。
あたしと先輩の関係はそんな安っぽい説得で崩れるほど柔じゃないの。
夏菜ちゃんってばさっき思いっきり期待してたよね、そうやって顔がころころ変わるのが弄ってて面白いよ」
夏菜は春香に騙された怒りより、説得で元に戻すのは無理なのかという落胆で頭がいっぱいになる。
「そんなのアリなの……人をおちょくるのもいい加減にしてよ!私の言葉は春ちゃんに全然届かなかったの?そんなわけないよね!?」
「一生懸命だったから言っちゃ悪いんだけど『だから何?』としか。
それに先輩の言いなりでいいのかって訊いてたけど、ずっと、一生、永遠に言いなりでいいに決まってるでしょ。
あれ、夏菜ちゃん目が潤んでるけどもしかして泣いてる?うーん、ちょっと虐めすぎちゃったかな~……だからって止めないけどね」
紅い眼も、大きな黒い翼も、尖った耳も、凶悪な爪も一瞬で元に戻った。
ぬらりとその爪に舌を這わせる仕草を春香に見せ付けられて、夏菜は言葉に詰まる。
夏菜は自分より年下の春香が殺人鬼のテンプレとされている仕草をするのを見て、
春香がもう自分の手の届かないところに行ってしまったのを感じて悲しみに包まれた。
ぷつっと集中が途切れ、夏菜の頭にノイズのように別の思考が割り込んでくる。
自分が目の前の春香と同じように黒い翼を生やし、自分の親の首筋にかぶりつく姿がありありと頭に浮かんだ。
しかもその顔は嫌々ではなく、背筋が凍るような残忍さに染まっている。
月夜女姫に捏造された虚偽記憶に映る自分の幻影にじわりじわりと心を食われ、夏菜は苦悩の色が濃い。
毒を吐き続ける怪物を頭の中に飼わされているようなもので、夏菜の正常な思考を執拗に妨害してくる。
「どうしても殺したくないんだったら、夏菜ちゃんを操って無理矢理やらせるしかないねえ」
それだけは絶対に避けたかった。
自分以外の誰かに体の主導権を握られて自分ではどうにもならない最悪な気分だけは、2度と味わいたくなかった。
「やるから。それだけは、やめて」
毅然とした態度で春香の提案を断ると、今度こそ夏菜は腹を括った。
1人ずつ刃物で頭を落して殺せとは言われていない。
せめて痛みを感じる間もなく消し飛ばしてあげたほうが、夏菜もここの人もお互い傷つかなくて済む。
「はい、これで全員掃討完了だね。お疲れ様、夏菜ちゃん」
「……」
夏菜の表情が途中から変わってきたのを春香は指摘せず、あえて見逃して放置した。
殺戮を夢想するだけでなく実際に実行に移すことで罪悪感は急速に消え去っていく。
焼けた肉の臭いが充満する避難所に佇む夏菜はほんのりと薄笑いを浮かべていた。
もう私刑のネタが尽きたのか、あいつらは最近専ら公開私刑しかしなくなってきた。
犬みたいに鉄の首輪を付けられて公衆の面前に晒されるのは最初恥ずかしくて仕方がなかったけど、もう慣れた。
それにどうせ公開私刑を見た人間は全員殺されるんだから、どれだけ見られても関係ない。
その上、公開私刑は最後に唯一のストレス解消イベントが用意されるのが嬉しい。
皆殺しにして避難所ごと潰すから、未だに他の避難所の人間には知られてないみたいだし。
晴川さんは「殺人を楽しむようになったらあいつらと同じだぞ」とは言ってたけど、正直楽しまないとやってられない。
普段鬱積している分なのか昔より術の威力も上がってるし、
無抵抗な人間を薙ぎ倒していくのはすっきりするからもっとやりたいとさえ思う。
「なあ青野、お前公開私刑の最後にいつもやらされてる皆殺し、最近楽しんでやってるだろ」
「楽しんでるよ。そっかあ、晴川さんはずっと見てるだけだもんねえ。今度あいつらに言ってみようか?」
元々お堅い印象の晴川さんの顔がさらに強張る。あれ、やっぱり嘘でも嫌々やらされてますって言わないとまずかったかな。
「お前、これ以上いくと取り返しのつかないことになるぞ。次回の公開私刑から命の重さを考えてみろ」
「命の重さって言われても……私はあいつらに命令されてやってるだけだもん。そんなに恐い顔しないでよ」
- 「何……お前、この暗さと距離で俺の顔がわかるのか?」
あれ、晴川さんは見えてないのかな?私は最初からこのくらい見えてた気がするけど。
「最近のお前、どこか変だぞ。本当にあいつらに何もされてないんだろうな?」
「されてないと思う……たぶん」
自分の事なのに、はっきりと断言できない。1番考えられるのは疲れきって寝ている間に何かされている可能性だけ。
それでも冬子の変貌の早さから考えると、黒の一族に変えられるのにかかる時間は3時間もかからない計算だ。
あいつらにその気があって、尚且つ私が隙を見せていたら私はとっくに黒の一族になっているはず。
それにしても暇だ。晴川さんは筋トレしてるけど、一緒になって鍛える気は起こらない。
ああ、早く逃げ惑う人間をまた蜂の巣にしたい。頭だけ消し飛ばして壊れたロボットみたいな動きをまた見たい。
上手いタイミングで消し飛ばせば、体が脳からの信号を打ち消せずに力尽きるまでぴょんぴょん跳び続けたりして面白い。
一瞬で消し飛ばさない程度に火力を落として、丸焦げになりながらのたうち回る姿は何度見ても飽きない。
体の中心から遠いところから順に撃ち抜いていって、じわじわと嬲り殺すときに殆どの人が訴えてくる命乞いの声が耳に心地いい。
……というか、わざわざ公開私刑を待たなくても目の前にあるじゃん。ちょうどいい玩具が。
「ねえ晴川さん、筋トレするくらい暇なんだったら私と遊ばない?」
「お前もここに来て何日も経てば、これが俺の日課だってわかるだろ。後にしろ」
お前の日課なんてどうでもいいの。私が暇なんだから付き合いなさいよ。
私は筋トレに集中しているこいつに向かって光弾を軽く打ち込んでみた。
「ぐあっ?!青野、何をする!」
「あ、ごめん。痛かった?大丈夫、殺すつもりはないから」
「こいつ、また……!」
そういえば、前にもこんな場面があったっけ。そのときは月夜女姫に操られるがままにこいつを襲ったけど、今回は違う。
私の意志で、私が楽しむために、こいつを襲っているのだ。
「逃げられないよ。晴川さんだって鎖に繋がれてるのは一緒でしょ?」
あの時と同じように、鎖を手繰り寄せて晴川さんとの間合いを詰めていく。前回と同じ展開なら、ここで……。
「この、目ぇ覚ませ!!」
ビンタなんて、来るのがわかっていれば簡単に避けられる。
「なっ、避けられた?!」
「同じ手がまた通用するとでも思った?」
殺さない程度に手加減して、こいつの手足を撃ち抜く。あのストレス解消イベントのおかげで私も随分手加減が上手くなったと思う。
「悪いけど、今回の行動は全部私の意志だから。ふふ……血がいっぱい流れてすっごく痛そう。
でも、殺しさえしなければあいつらが治してくれるから問題ないでしょ?」
どうして自分が今まで手を出そうと思わなかったのか不思議で仕方がない。
もしかして、あいつらは私が暇を持て余さないようにこいつと同じ牢屋に入れたんじゃないかな。だとしたらあいつらに感謝しないとね。
「まさかあいつら、これを狙って俺を青野と同じ部屋に入れたのかよ……」
「あら、今頃気が付いたのかしら?」
月夜女姫の声が背後から聞こえてくる。全部……見られてた?
私が振り返ると月夜女姫とその妹が横に並んでいつの間にやら牢屋に入っていた。
「今日もまた公開私刑?」
「いえ、もうその必要はないわ。蘭、晴川にこの女の姿がよく見えるように部屋の明かりをつけて頂戴」
明かりがつくまでの数秒の間に、部屋の中に続々と黒の一族が転移で同じ部屋に現れる。
明かりをつけてこの部屋に集まるということは、今日はここで何かするつもりね。
月夜女姫が私と晴川さんの首輪の鎖を鉄格子から外した。私たちの行動範囲が少しだけ広くなる。
「こいつら、いつの間に部屋の中に……」
「いつの間にって、さっき転移で入ってきてたじゃない。見てなかったの?」
「見てないというか、見えるわけないだろ。真っ暗だったのに」
「ちょっとやだ、やめてよ、見えてる私のほうが異常みたいじゃないの」
こいつが見えていないのがおかしいに決まってる。何回も魔法で明かりを付ける私のことも考えて欲しいわ。
- 「やっと気が付いたの。いくらなんでも遅すぎるんじゃないかしら?」
冬子……お前の裏切りからホワイトウイングの内部崩壊は始まった。今は月夜女姫だけでなくその妹と春ちゃんからも虐げられている。
その扱いの酷さは私でさえも同情してしまうほどだ。
「今更気付いても手遅れですよ。青野さんの心はもう月夜女姫様の虜になっていますから」
白石さん……序列としては1番下らしく、丁寧語は相変わらずだけど昔の柔和な顔は見る影もない。
私の心が月夜女姫の虜だって……そんなことあるわけないでしょ。今でもあいつはホワイトウイングをばらばらにした悪の親玉よ!
「あたしたちが何もしてないと思った?甘いなあ、夏菜ちゃんは」
春ちゃん……大きすぎる力はこうも人を狂わせてしまうものなの?
今は仲間のはずの白石さんや冬子を罠に嵌めたり、正気に戻ったフリをしたりなど月夜女姫以上にタチが悪い存在になってしまってる。
月夜女姫に対する擦り寄りとか嘘をついて騙しても何も思わないとか人格的におかしくなってる。
前は素直で真っ直ぐないい子だったのに……。
月夜女姫に売女よろしく色声使っていたのには吐き気がした。
「貴方、もううんざりでしょこんな生活。こっちに来ない?楽しいよ?」
月夜女姫の妹……確か蘭とかいう名前だったはず。私はこいつの人間だったときの性格は知らないけど、
少なくとも抑制されてなければ呼吸同然に大量殺戮を繰り返すような危険人物ではなかったはずだ。
「きゃ、いきなり何すんのよ!」
背後から月夜女姫がやんわりと両腕で私を包み込んできた。
いかにも高そうなドレスは肌触りがよく、それだけで張り詰めていた心が解されたような気さえする。
そして私の耳元にそっと囁いた。
「いつもの、しましょうか」
「いつ……もの……?」
いつものと言われても、全く身に覚えがない。
ここに連れて来られてやったことといえば、こいつらから私刑という名の責めを受け続けるだけ。
私は筋トレみたいな日課としているものもないし……。
「青野に、手を……出すな!」
晴川さんが血だらけの体を引き摺って飛び掛ってきたが、丸腰では月夜女姫の闇界障壁は破れない。
今、闇界障壁は私と月夜女姫を大きく包むような形で展開している。
ということは、密着している私が攻撃すれば障壁の影響を受けずに月夜女姫にダメージを与えることが出来る。
滅多にないチャンスじゃない!
「何がいつものなのか知らないけど、舐めるのもいい加減にして!」
思いっきり後ろ手に渾身の力を込めたつもりだった。でも、直前まで自由自在に発動できていた魔法が出てこない。
体のどこかにストッパーが仕掛けられているような、変な感じがした。
「ほーらほーら、どうしたの?私を倒すんじゃないの?今しかないわよ、やってみなさいよ」
私を虚仮にしている月夜女姫の顔が直接見なくても安易に想像できる。
自分の思い通りに体が動かないことがたまらなく悔しい。
「ぐ……」
頭の中はこいつを倒さなければという思いでいっぱいなのに、気持ちが空回りするばかりで体が付いてこない。
「青野!どうした、今なら……ぐはあっ!!」
「さっきからうるさいよ、おっさん。静かに見てられないの?」
晴川さんが自分より背の低い蘭に胸倉を掴まれ、足先を浮かせられていた。ばたばたともがくほど蘭の手にも力が込められる。
「静かに見ていられるわけないだろうが!」
「いいのよ、蘭。好きなだけ叫ばせてあげなさい。いいスパイスになるから」
「このお……」
晴川さんから鬼のような形相で睨まれながら、月夜女姫は自分の左手の人差し指を反対の指の鋭利な爪でぶすりと刺した。
とたんにに血の珠が膨らんでいき、黒ずんだ赤い血がぽたぽたと床に滴り落ちる。
「ほら、思い出した?」
おかしい……見たことがないはずなのに、見たことがある。
矛盾してる。けど、おかしくない。私は覚えていないだけで、前にもこうやって……。
「いい、におい……」
月夜女姫に言われるまでもなく、私は半ば無意識に血の滴る指へ自分の唇を近づけていく。
- 「おいしそうなにおい……」
そうだ、血がもったいない。早く舐め取らないと!
「ん、ちゅぱ……はあ……ん……んく……」
一口飲むたびにアルコールをはるかに上回る速度で胃から吸収され血液の流れに乗って全身を回り脳に到達し、頭をジーンと痺れさせる。
するとやがて体から余計な力がぐんぐん抜けていく。
理性がぐずぐずに崩れていって自分をコントロールできなくなっていく。
「ふふふ……もう完璧ね」
やっぱりこの味、初めてじゃない。
私を黒の一族に近づけてくれる甘美で濃厚な味。
もうこれで何回目なのかわからないくらい味わった。
美味しい……きもち、いい……。
「嘘だよな青野、まだ操られてるんだよな……おい!返事をしろ、青野!」
艶めかしく血を舐め取っていた私がふと動きを止めて晴川さんを見たその目は数分前の注視しなければ気付かない程度の紅さではなく、
月夜女姫のものと寸分違わない燃えるような真紅の瞳だった。
「今すぐその血を啜るのを止めろ!」
この血を飲めば飲むほど、余計に喉が渇いてる気がする。
飲んでも飲んでも渇きが収まらない。いくら飲んでも満たされない。
だからずっと飲んでいられる。
一口飲み干す度に全身を走り抜ける冷たさにもうすっかり病み付きだ。
「あ、夏菜ちゃんの爪伸びてきてるよ!」
この爪でこいつの首を切り落としたら首からがぶがぶ血を飲めるのになあ、となんとなく考えた。
「耳も私たちと同じになりましたね」
俗に言うエルフ耳ってヤツだよね、これって……。ゴブリンとかトロール系列の耳みたいにゴツゴツはしてなくて、スッと細いタイプだ。
片手で触って確かめてみると想像してたものより硬い。
「あとは翼だけど……そろそろね」
みるみるうちに黒の一族へと変貌していく私の姿に、晴川はぎりっと歯を噛み締めた。
「畜生、手遅れかよ……」
晴川はその異様なありさまにはじめ目を見開き、次に自らの力不足を嘆いた。
天道彩が月夜女姫に変化するのを監視カメラ越しにみたことはあるが、固い絆をこのような形で粉々にされるのは未だかつてなかった。
1人目の冬子は救援が間に合わず、2人目の秋生は裏切り者に気がつけず、3人目の春香は自らの手で引き金を引き、
そして4人目の夏菜は見せ付けるように目の前で体を弄られて。
遂に晴川は1人になった。
これで毎日私刑を受け続ける生活もおしまいだ。私は今日から責められる側から責める側にまわる。
人も殺し放題だし、街も壊し放題。綺麗事ばっかりの正義の味方なんてもう真っ平だね。
「はい、今日はここまで。また欲しかったら私のために働くことね」
「……ひひ」
なんで私がお前のために働かないといけないのよ。馬鹿馬鹿しい。
「あら、返事はどうしたの?」
後は皆と同じ黒い翼さえ生えれば、私も黒の一族の仲間入り。ああもう、待ちきれない!想像しただけで体が熱くなってくるわ!
「あが……が……ああああアアアア!!」
メキメキと音を立てて骨組みだけが先に形成されて、その後すぐに羽根が生え揃う。
やった……これが私の翼!ちゃんと動く!ちゃんと飛べる!重力制御も随分楽になった。身体能力も桁違いだ。
早速レーザーの威力がどのくらい上がったか試してみよう。
牽制にしか使えない威力だった春ちゃんがあの威力になるんだ、
4人の中で1番高火力だった私ならとんでもないことになっているに違いない。
ちょうどそこにいい的もあることだし。
「お前、自分で正義の味方になりたいって言ってただろ。それでいいのかよ。違うだろ!?
月夜女姫にいいように惑わされてんじゃねえよ!今やってることが本当に正しいのかどうか、自分でよく考えるんだな」
晴川は諭すような口調で説得を試みるが、最早暴走状態の私には効果がなかった。
私の変質してしまった本能が負の感情を撒き散らす。
- 「ふふふ……そんなの、もう関係ないよ。今からやることは、今までやってきた正義の味方とは真逆。
命があるモノも無いモノも全部。私の目に映るモノ全部。
骨の髄まで精力を吸い尽くし、この爪で引き裂き、微塵に刻んで、徹底的に焼き尽くし、
この絶対的な力でバラして、殺して、壊し尽くすの!あははははははははははははははは!!」
月夜女姫の血で口元を真っ赤に染めた私は与えられた黒の力に振り回され、ブレーキの壊れた狂戦士と化していた。
「お前を野放しにしたら地上は一瞬で地獄絵図だな……」
しかし、今の晴川にそれを止める術は一切ない。ただ、自分も巻き込まれないように逃げ回るしかない。
「正に『バーサーカナ』ですね」
前に私が操られたときも歯止めが利かずに暴走しちゃったけど、これほどではなかった。
まずあの時とは与えられた力の大きさが違う。洗脳にかけた時間も違う。
数日拘束しただけで解けるような生易しい洗脳でないことは、他の元ホワイトウイングのメンバーの成れの果てを見て明らかだった。
「まずはお前たちからよ……」
至近距離で撃っても威力がわかりにくいと思い、天井を壊して上空から撃ってみることにする。
持ち味の機動力も大幅に強化されていて、実に扱いやすい。
少し溜めた時点で私の今までの力との違いがはっきりとわかる。溜め方は変えてないのに魔力の収斂度が桁違いだ。
――皆壊れちゃえ。
「微塵に砕けろおおおお!!」
3メートルほどのレーザーの太さは以前と変わらないが、魔術の余波で発生した旋風が威力の違いを物語っていた。
雷が落ちたような轟音が響き渡り、直接レーザーが当たらなかった範囲まで爆風で木っ端微塵になる。
刑務所らしき施設は跡形もなく、代わりに大きなクレーターが空いている。
頭が体に追いつけない。もっと暴れたい。もっと壊したい。もっと殺したい!
「3回目。いい加減、命を大事にしたら?」
「お前だけには言われたくないな」
月夜女姫が晴川を守った……?それより、私の本気をあんな大雑把な障壁で防がれたのが気に入らない。
私の邪魔をするのなら、お前も殺シテヤル。
「あら、力を与えた私にも牙を剥く気なの?」
「……てやる……壊シテヤル……殺ス……ウウ……ガアアアアア!!」
いい機会だ。ここでこいつを倒せば私の天下は約束されたようなもの。
さっき全力でぶっ放したばかりなのに、疲れが全くない。体がいくら疲れようが限界を超えて動ける。
残量を気にすることなく好きなだけ破壊と殺戮を楽しむことのできる膨大な力。
この力を得た私に勝とうだなんて無謀――
「玩具の分際で図に乗るな」
「ッ!?」
上空に浮かんだまま、ボディーブローを食らったかのように動けなくなる。
なんて重圧なの……あんなに遠くから凄まれただけなのに、手足がまるで言うことを聞かなくなった。
魔眼を食らってるわけじゃない。ということはこの私があいつに萎縮してるっていうの?
「ウオオオオオオオオォォォォオオオオ!!」
自分を縛り付けるもの全てを弾き飛ばすように、両腕を広げて腹の底から吼えた。力の渇望に応えて、さらなる力が全身に漲る。
私では扱いきれない量の力を呼び込んだため骨と筋肉がミシミシと軋んで悲鳴を上げてるけど、そんなの気にしていられない。
今は目に映る6人の命を絶つことだけを考えればいい。
「いひ、いひひっ……皆殺しだァ……」
舌をだらりと垂らして虐殺の宣言をした。どうやって殺してあげようかなあ。
爪でみじん切りが先か、レーザーで丸焼きが先か。怪力で手足をねじ切ってみるのもいい。
「あの様子じゃお前たちも標的に入ってるみたいだが、よくのんびりとしていられるな」
「私も随分と過小評価されたものね。自分の玩具の暴走をこの私が止められないとでも?」
私を無視してお喋りに興じているこいつらのせいでイライラが最高潮になる。
もっと怖がりなさいよ、もっと怯えなさいよ。
もういい。命乞いすらさせてあげずに一瞬で消し飛ばしてやる。
「過小評価してんのはどっちだあああああああ!」
普段なら1発撃っただけで激しく消耗して動けなくなるような大技を、手当たり次第にとにかく連射する。
- あっけないなあ、この人数じゃあっという間に片付いちゃう。
たった6人殺しただけじゃ私の破壊願望は満たされない。
100人単位で人間が固まっているところをこのレーザーで薙ぎ払えば、かなり気分がすっきりするに違いない。
「こんなんじゃ全然満足できないわ……もっと、もっと殺さないと……」
「1人も殺していないのに満足できないのは当たり前よ」
殺したはずの月夜女姫が私の首輪から垂れた鎖を掴んで背後に浮かんでいた。
まさか、あの雨のように乱射した私のレーザーを全部防ぎきったってこと?信じられない……。
「お前を意図的に暴走させてそれを無理矢理押さえつける。
そうすることにより、決して解消されることなく無限に溜まり続けるフラストレーションがもたらす苦しみは並大抵ではないでしょうね」
「この私を押さえつけるって?やれるもんならやってみ――!?」
鎖をぐいと引っ張られて息が詰まり、言葉が最後まで言えなかった。
「とりあえず下に落ちて、頭を冷やしなさい!」
鎖を首がもげそうなほどの勢いで振り回され、そのまま私の作ったクレーターに投げ落とされる。
落下距離があったから受身は取れたけど、全身に受けた衝撃のせいで大の字のまま荒い呼吸をすることしか出来ない。
「つう……」
瞼を開くとぞくりとするような笑みを浮かべた月夜女姫が私を見下ろしているのが見えた。
「お前は今誰に歯向かっているかさえわからないようね」
黒の力を得た今でさえ、戦闘経験だけでは埋められない大きな実力差が私と月夜女姫の間にあった。
「いつまで寝てるの」
「かはっ、あぐう……」
追撃ちとばかりに紺色のブラウスと赤と黒のチェックスカートの間から覗いていたお腹を踏みつけてくる。
踏みつけられていては立ち上がることも出来ず、足蹴にされる屈辱をいつまでも味わうことになる。
「や、止め、ろ……」
「止めろ?止めてください月夜女姫様、でしょう?そのくらいも言えないのかしら、このクズは」
「ぎっ、やああああ!!」
靴のつま先でグリグリと内臓を刺激され、涙を浮かべて懇願していた顔がさらに歪む。
「まだ反省してないみたいね。ほら、言ってみなさいよ。『私は月夜女姫様に絶対の忠誠を誓います』とね」
「だれが言うか、そんなこと……」
力で屈服させられても、心まで折らせるつもりはない。大体、こいつに従うことになったら自由に暴れられないじゃん!
「魔眼で無理矢理言わせてもらいたいのかしら?」
「あ……わ……わた……」
こいつ、また魔眼を緩めにかけて私の反応を楽しんでる……言いなりになるのは私のプライドが許さないし、
かといって完全に拒絶できそうな強さでもない。
「私、は、月夜女姫サまに、はあ、絶対の、忠誠をチかひ……まふ」
くそ……悔しい。上辺だけとはいえ、自分の思ってもいないことを強引に口が紡いでいく。
こんなヤツの言いなりになるなんて、耐えられない。
「あはっ、そんないかにも『無理矢理言わされました』みたいな言い方で私が満足すると思ったのかしら?
今度は自分の意思で言って御覧なさい」
今度は手加減一切なしの魔眼を私に食らわせる。
本来の私の自我を封じるのではなく、月夜女姫との従属意識のみで動く人形となるように深層意識から頭を弄られる。
「私を他の3人と一緒だと思わないで!」
最後の一線を越える直前に、目を逸らしながらこいつの顔面を狙って攻撃を試みた。
手から放たれた赤黒いレーザーが、ふわりと揺れた月夜女姫の髪を数本焼き切る。
「おっと、惜しかったわね」
絶好の反撃の機会だったのに、間一髪で避けられてしまった。ただ、私も伊達にあの私刑を耐え抜いてない。精神力には自信がある。
3人はあっさり堕とせたかもしれないけど、私はそう簡単にいくものか。
踏みつけられていた足は退けられた。立ち上がることもできる。ここから、反撃、を……。
反撃なんて、できるわけがなかった。立ち上がるだけで、それ以外の動作をする体力の余裕は全く残っていなかった。
これが限界を超えて動いた報い……いくら疲労を感じないようになっていても、やはり物事には限度がある。
私がこいつに勝つには、好きなだけ全力を出せる序盤に一気に勝負を決めるしかなかったんだ。
その背徳の力に頼った今回でさえ打ちのめされた。こいつとの力の差に今一度愕然とさせられる。
- 「へえ、私の魔眼を耐え切るとはやるじゃないの」
途中でなんとか振り切れたからよかったものの、魔眼をまともに食らってしまったのは事実だ。
自意識もドロドロしてるし、足元もおぼつかない。
かなりヤバい。
「そんなにふらふらして、辛くないのかしら?本当は私の僕になりたいんでしょう?」
「はい、私は……!?いやいやいや、月夜女姫様の……う……」
私の意図しない言葉ばかりがぽんぽん口から飛び出す。少しでも油断したら平伏してしまいそう。
そうなったら今の私には2度と戻れない気がする。それだけはさせたくない。
「中途半端だけどこのままにしておこうかしら。見てて面白いし……」
「嫌」
このの否定は私の意思?それとも月夜女姫が言わせた言葉?頭の中がごちゃごちゃして区別が付かなくなってきた。
辛うじて月夜女姫の支配に抗うのが精一杯だ。
「嫌?それじゃあお望みどおり、止めを刺して楽にしてあげましょうか」
この不安定な状態で魔眼を食らえば、私が月夜女姫の僕になるのは決定的。
せっかくあいつの仲間にならずに黒の力を手に入れたのに。私は、壊し尽くさなくちゃ、殺し尽くさなくちゃ……。
上半身を起こしていられなくなり、私は自分の膝に手を付いた。月夜女姫が一歩一歩近付いてくるたびに心臓の鼓動が激しくなる。
ムリだ、私じゃどうやってもこいつには勝てない。戦闘技術はともかく、スペックが違いすぎる!
「はあ、はあ……」
月夜女姫は腕まくりをして自分の左腕を反対側の爪でざっくりと傷付けた。
「あ、ちょっと深く切りすぎたかしら」
こぷこぷと溢れてくる血が零れて月夜女姫の黒くて長いスカートの生地に吸い込まれていく。
その様子に釘付けになった私は、猫背で両手を前に突き出したゾンビみたいな情けない格好でふらふらと月夜女姫に歩みを進めていった。
どうして私の体があいつの血をここまで求めるのか自分の体に訊いてみたかった。
月夜女姫から流れ出る血を見ただけで呼吸が荒くなり、
口元からはつぅっとはしたなく涎が零れ落ちるのはどう見てもあいつに何か仕込まれたに決まってる。
でも、今更それがわかったところでこの状況はどうにもならない。
「ああ……血、血ぃ……」
月夜女姫の人を見下した笑い方に腹が立つけど体が言うことを聞かない。
「そうそう、これ飲みたければ飲んでもいいけどこれ以上飲んだらもう私無しじゃ生きられない体になるわよ。よく考えてね」
月夜女姫がにやにやしながらさらっと重要なことを言う。
私で私に止めを刺させるつもりなの、こいつは。どこまで卑劣なまねを……。
「青野、そんな見え見えの誘惑にあっさり負けるな!まず月夜女姫から目を逸らせ!」
遠くから誰かの声が聞こえる……でも小さくてよく聞き取れない。
「いいのお?私の僕になった人間の末路、今まで散々見てきたでしょう。それでも自分からその身分に成りたがるのなら、私は止めないわ」
今度ははっきりと月夜女姫の声が私の頭の中に響く。ただ、何故か言ってることが理解できない。
私の自意識をスルーして頭の中の記憶領域に直接書き込まれているかのような違和感がある。
とうとう手を伸ばせば月夜女姫の傷口に届く距離まで近付いてしまった。
今ならまだ引き返せる。
あっ、手に血が付いちゃった……美味しそう……。
一口だけなら大丈夫、だよね。
まだ、まだ引き返せる。
「ちゅっ……」
自分の人差し指を丁寧に舐る。
頭が痺れて感覚がなくなってしまうほどに気持ちいい。
でも、もう、止めなきゃ……止めないと……どうなるんだっけ……?
ああっ、月夜女姫の血が溢れてる傷口がもう目の前にある……ちょっと首を動かせば届いてしまいそう……。
まだ……まだ、引き返せる。
手を引っ込めて顔だけ突き出す姿勢になる。目が傷口から逸らせない。涎が止まらない。
「先輩、あんなに血をだらだら流しちゃって平気なのかなあ……」
「それだったら、黒の一族は造血機能が普通の人間に比べて優れてるから一気にどばあーってならない限り命に別状はないって
お姉様が言ってたよ。一気にどばあーってどのくらいかわかんないけどさ」
飲みたい。飲みたい。飲めない。もどかしい。こんなに近くにあるのに。自分の中の何かが邪魔してる。
……舌の先っぽでちょこっと味わうくらいなら、いいよね。
- 思いっきり舌を伸ばしたまま、そっと傷口に近づける。
ちょんと血に接触しただけで体全体がびりびり感電してるみたい。
頭の中が真っ白に塗りつぶされる直前でやっと舌を引っ込めることができた。
「俺は青野の協力が必要なんだああああああああっ!!」
「ククッ、何それ。今更何をしても無駄よ。
こいつは自分で堕ちる早さを調整できても、もう決して自力では戻っては来れないところまできてしまっているもの」
これ、もう1回やったら意識が飛んじゃうかな?
すごく気持ちいいんだろうなあ。ちょっと怖いけど、それ以上に楽しみ。
頭がほわ~んとしてて、考えるのが、めんど……くさく、なって……き……た……。
どうせ気絶するなら傷口に吸い付いて思いっきり啜っちゃえ。
体の底から湧き上がる欲求に突き動かされるままに月夜女姫の左腕の傷に吸い付く。
はむ。
破壊衝動が抑圧されて、先走っていた体にやっと頭が追いついてくる。
そのうち私のほのかに残っていた目の光がすぅーっと見えなくなっていき、瞳がどろんと濁る。
私の心がボキリと折れる音が聞こえた気がした。
「かくーんとすっきり飛んじゃったみたいね。うわ、見てよこいつの間抜けな面。私こんなに大きく白目を剥いた人間見たことないわよ。
口も半開き、涎も垂れっぱなしで汚らしい」
「死んではないんだな?」
「当たり前よ、ここで殺すなんてもったいなさすぎるわ。もしかして、私刑がここで終わりだとでも思ってた?
……本当の地獄はここからよ。さあ、私に忠実で従順な玩具よ。目覚めなさい」
あれ……私寝てた?いつの間に……?
さっきまで何してたんだっけ……思い出せない……。
「じゃあ改めて、私に忠誠を誓ってくれるかしら?」
寝惚け眼のままで声の主を探し、月夜女姫様の姿を見つけると勝手に嬉しさがこみ上げてくる。
「あぅん……いいですよ……」
というか、自分の主に忠誠を誓うのは当たり前じゃないの?何を今更。
それより今の私、すごくだらしない顔を月夜女姫様に向けちゃってる。なんだか頭がふやけて顔に力が入らないよお……。
「私、青野夏菜はぁ、月夜女姫様に絶対の忠誠を誓いますぅ」
うわあ……自分で言ってて引いちゃうくらいの猫撫で声が出た。媚が過ぎて嫌われないといいけど……。
「はい、よくできました。……と言いたいところだけど、お前はホワイトウイングにいたときに散々私に迷惑をかけてきたからねえ。
私、お前のことが嫌いなの。どこかその辺りで好き勝手やってれば?」
「いえ、私はこの力を与えてくださった月夜女姫様に恩返しがしたいんです。
ぜひ私を月夜女姫様の僕にしてください。何でもしますから、お願いします!」
何が何でも月夜女姫様の側に居たい。月夜女姫様の役に立ちたい。月夜女姫様に尽くしたい。月夜女姫様のためなら死んでもいい。
直前まで月夜女姫様を殺そうとしていた私が仲間にしてくれと頼むのは非常識ってわかってるけど、
私は月夜女姫様と一緒じゃないと生きていけそうにない。
「本当に何でもする?」
月夜女姫様は私が自分に心酔していることがわかっていながら、わかりきった質問をする。
「はい!何でもします!私の月夜女姫様を思う気持ちが本物であることを証明するためなら、この命も惜しくありません!」
「じゃあ、自分で自分の手の指の関節を1つずつ全部砕いてみてくれる?魔法は使わずに、指の力だけでやるのよ」
「自分の、ですか?いや、えーと、それは……」
「あ、そ。じゃあいいわ、さようなら」
踵を返して私の元を去ろうとする月夜女姫様を見て、私は目の前が真っ黒になる。
はっと気がついたときには無意識に月夜女姫様の右足にしがみついていた。
「待ってください!」
「何」
さっき遠くから一喝されたときと同じ顔だ。この距離で見下されると迫力がまるで違う。あまりに怖いから咄嗟に顔を伏せてしまった。
「あの……やっぱりやらせてください!お願いします!だから、見捨てないで……」
月夜女姫様が怖すぎて目を見て話せないけど、誠意を訴えるには相手の目をしっかり見ないと伝わらないし……怖い、けど我慢しなきゃ……。
「わかったわ。関節を全部外したら指を砕くためのプライヤをあげるから、頑張りなさい」
またあの失神しそうなほどの痛みを体験しなくちゃいけないのかあ……でも月夜女姫様の命令だ、
やるかやらないかじゃない。やるしかないんだ。
とりあえず、右手の小指からやることにする。
一旦捻じってから関節の可動幅を超えて指を思いっきり曲げると、グキッと鈍い音がして関節が外れた。
「あつっ、痛た……」
- 黒の一族になっても体の頑丈さが増しているだけで、痛覚は以前と変わらない。
そのまま次々に指の関節を外していく。反対側の左手をやるときは右手の激痛に耐えながらになるから、右手の倍以上の時間がかかった。
「はあ、はあ、全部、外しました……」
「確かめさせてもらうわよ」
当たり前だけど、脱臼した指をあちこち曲げられたらとんでもない激痛が襲ってくる。
「ぎゃああああ!痛い、痛いです!!」
必要以上に月夜女姫様が弄っているから止めてくださいって言おうと思ったけど、
へそを曲げられて今までの苦労が水の泡になるといけないのでひたすら我慢するしかない。
「じゃあこれ、プライヤ」
「あ……」
指の関節が脱臼していて使い物にならないため、プライヤを掴むこともままならない。
脂汗を流しながらなんとかプライヤの先端部分に小指を挟み込むと、
一旦ごくりと唾を飲み込んでから一思いにハンドルを力いっぱい握り締めた。
「く……ああっ、きっつー……」
グキリと嫌な音がして、プライヤが関節にのめりこんだ。経験するのはこれで2回目だけど、回数をこなせば慣れるような痛みじゃない。
脱臼させた指に力を入れなくてはいけないこともあって、2重の苦しみに苛まれる。
右手の指の関節を全部砕いた後左手にとりかかろうとするけど、手が痛くてプライヤを持っていられない。
悪戦苦闘した結果漸く挟めても、握力が足りずにギリギリと関節が軋むだけで痛みが増すばかりだった。
黒の一族になったせいで関節が丈夫になっているのかもしれない。でも、月夜女姫様のためならこの程度……。
「く……くぉんのぉおおお!」
やっと左手の小指の関節を全部砕くことができた。あと指の関節っていくつあるんだっけ……?
「痛々しすぎてみてられんな……」
晴川が目を逸らしても、あの嫌な音だけは聞こえてくる。まるで自分の関節を砕かれているような錯覚に陥りそうになる。
「もうだめ、我慢できない、夏菜が必死すぎて……あは、あはははは!」
冬子は夏菜の汗びっしょりで涙目になりながらの自傷行為に思わず噴き出した。
「黒松、元仲間があんな状態になっているのがそんなに面白いか?」
クックと頭を抱えながら震えている冬子からは、人情のひとかけらも感じられない。
「面白いわよ。なりふり構わないにも程があるでしょ?
そこまで気に入られようとしてるのが哀愁をそそるわね……相手は夏菜がさっきまで大嫌いって言ってた月夜女姫様なのにさ!
面白いったらありゃしないわ」
かつて共に戦った記憶があるはずなのに、その仲間が苦しんでいるのを見てゲラゲラ笑える神経が晴川には理解できなかった。
それに冬子が言った言葉はそのまま冬子にも当てはまる。
「それはお前も同じだろ?あいつに色々と酷いことをされてもまだ付き従ってるお前も似たようなものだ」
「何言ってんの、全然違うわよ。私の場合は何度か月夜女姫様の機嫌を損ねても罵倒されるだけで、
見切られることなくずっと使い続けてもらってんの。わざわざ手を傷めないと使ってもらえない夏菜と一緒にしないでくれる?」
今の環境に不満があるどころか一種のステータスのように語る冬子に、晴川は失望の色をあらわにした。
「遂に奴隷自慢まで始めやがった……すっかりあいつに飼い馴らされてるな、黒松」
「むしろもっと私をこき使ってほしいわ。これからもずっと月夜女姫様の忠実な奴隷としてお仕えしていくんだから。あぁん、幸せぇ……」
冬子はまるで夢見る乙女のように頬をぽおっと赤らめて陶酔状態に陥る。
このまま放っておいても冬子はこの幸せな気分のまま月夜女姫に従い続けるのだろう。
例え作られた感情でも本人が幸せならそれでもいいのかもしれない。
ただし夏菜の場合は、冬子以上に過酷な待遇が待っていることが予想される。
「お前ら、揃いも揃ってやりすぎだ!もう十分だ、そこまでやらなくてもいいだろ!?」
「やりすぎかどうかは月夜女姫様が決めることだわ」
怒り心頭に発し吠えている晴川を冬子は涼しい顔で聞き流していた。
最後の左手の親指の付け根の関節を砕き終わって、
私はそのとき初めて自分が地面に水溜りができるくらい大汗をかいていることに気がついた。
- 「月夜女姫様、できました!」
「そう、頑張ったわね」
私が誇らしげに見せてきた右手の人差し指を月夜女姫様が引っ張ると、指が不自然に伸びた。
「いだだだだ!関節を砕いてあるんですから、引っ張らないでくださいよお……」
「その手でなら私の僕になることを許すわ。
ただし、私がその関節が治ってるところをみつけたらそのときはまた脱臼するところからやってもらうからね」
でも、この指の状態だとできることがかなり制限されるんじゃないかな……これじゃ、細かい作業どころか普通に物を持つことすらもきつい。
「これから存分にこき使ってあげるから、覚悟しなさい」
「はい、ありがとうございます」
月夜女姫様に僕として認められて、少しだけ落ち着きを取り戻す。
春ちゃんのときもそうだったっけ。今、晴川を殺したらいけない。大事な月夜女姫様の玩具なんだから。
「よかったわねえ夏菜、月夜女姫様の奴隷にしてもらえて」
「あ、冬子。指の関節砕くだけで奴隷にしてもらえるなら安いもんだよ。
いやあ、これから月夜女姫様のために頑張れると思うと腕が鳴るなあ」
「ぷっ、あ、いや、私も夏菜に負けないように頑張らないとね」
あれ、どうして冬子は笑っているんだろう。私、何か変なこと言ったっけ?
「これでよし、と。さて晴川、これでお前の部下4人が全員私の駒になったわけだけど、感想は?」
ここまでこてんぱんにやられたらいくら晴川でも意気消沈しているだろうと思ったけど、
あの男はまだまだやる気十分の目で月夜女姫様を睨みつけていた。
「……ここで俺が降伏宣言をするとでも思ったか?」
まだ諦めてないなんて、往生際が悪い。
さっさと投了して負けを認めちゃったほうが気分も楽になるのに、ここでかっこつけても誰も評価しないっての。
「そうやっていつまでも油断しているといい。後で足元をすくわれて命乞いをしても遅いからな!」
「この状況で強がっても、意地を張っているようにしか聞こえないわね」
私と同時にこの牢屋に入れられたときから遅かれ早かれこうなることはわかっていたはずだ。
今度こそ本当に持ちうる手札全てを失ったのだから、私たちの言うことに1から10まで従うしかない。
月夜女姫様が手の甲を口に当てて高笑いするのを私たちは畏敬の眼差しで見つめ、
あの男だけは苦虫を噛み潰したような顔で目を背けていた。
永遠に続くと思われた牢獄生活は、ある日突然終わりを迎えた。
「『ぎりぎりまで希望を与えておいてから直前で突き落としたほうが効果的でしょう?』か……調子に乗りやがって」
俺があの牢屋の外に放り出されたのは、青野が黒の一族になってからしばらく後だった。ご丁寧に御神刀まで返してくれている。
刀を鍛え、仲間を集めて、じっくり戦力を整えてもう一度挑戦してこいだと……俺を軽んじ侮るのも大概にしろ。
いつか、その慢心を後悔に変えてやる。俺に止めを刺さずに生かしておいたことを自分の死の間際に悔やむがいい。
だが、今の俺がそう言っても強がりにしかならない。
俺がホワイトウイングに戻ったときには、大部分の人間は離反してしまっていた。
むしろ少数でも俺の帰りを信じていた人がいてくれたことに驚いた。
この絶望的な状況では勝利を諦めてしまう人間が出てくるのもやむなしと思っていたが、
俺がいない間にとある人物が必死に皆を引き止めていたと白瀬から聞いた。
蕪崎という名前らしいが……まさか、あいつか。あの特徴的な苗字は忘れにくい。
「あ、晴川さん!おかえりなさい!お久しぶりです!」
先が腰に届くほど髪の長い女だ。以前会ったときにはあそこまで長くなかった。
歳は確かあの天道彩と同じ、順調に進学していれば今は女子大生ということになる。
「ああ、久しぶりだな。御神刀を預かったとき以来か、直接会うのは」
- 彼女の名前は蕪崎霊華(かぶらざきれいか)。俺が御神刀を預かっている神社の一人娘だ。
話を聞くと蕪崎は天道と高校のときに深い交友関係にあったという。
その関係でどうしても親友を救うために力を貸したい、ということだった。
しかし過去の魔法覚醒剤のテストでは微弱な陽性。
これでもかなり珍しい部類だが、黒の一族どころか一般人に傷つけることすら不可能というレベルで実戦投入は見送られていた。
「足手まといにはなりません!むしろ囮として使っていただいて構いません!」
そしてこれが、蕪崎がここを訪ねた1番の理由だった。
「なぜそこまで前線に立つことに拘る?話し合いに行くんじゃないんだぞ」
「私があーやを止めるべきだったんです。高3の12月の時点であーやの様子がどこかおかしいことに気付いていたのに、
私も受験を言い訳にして深く追求しませんでした。あーやの1番近くにいた私しか止める人がいなかったのに……私の言うことなら、
あーやもわかってくれるはずです!お願いです、自分だけ安全なところで待っているのが耐えられないんです!」
戦いの場に女を連れて行くだけでも気が引けるのに、何の戦闘経験のない蕪崎なら論外だ。
だが俺は、蕪崎ならこの絶望的な状況の打開策になりえるような気がした。
この確固たる意志が訓練でも揺らがないのなら、短期間で鍛錬の成果も驚くほどになるはず。
蕪崎を説得して引き下がらせようとして苦労するより、戦力として数えたほうが建設的だ。
魔法覚醒剤が駄目なら御神刀はどうだ。元々保管場所は蕪崎の神社だったわけだし、もしかしたら……。
御神刀を構えた蕪崎は剣道の経験でもあったのか、初めて刀を構えたにしてはかなり型にはまっていた。
部屋の中の空気がピンと張り詰めたような気さえする。
「なんかこの刀、刀身が光ってませんか?」
「ん?そう言われればそう見えるような気も……明かりを消してみるか」
部屋を真っ暗にすると、蛍光塗料を塗ったかのように刀身の部分が光っていた。
蕪崎が御神刀を持ってきちんと集中したときのみ光るらしく、俺が持っても蕪崎が構えを解いても光を発することはなかった。
「なあ、晴川。これってどう見てもお前より蕪崎さんのほうが適性あるんじゃないか?」
白瀬の指摘に俺は盲点を突かれた。
御神刀は俺がそこそこ扱えたために、適合者を調べることが疎かになっていた。
魔法覚醒剤の適性はかなりの人数を調べたが、御神刀の適性は俺以外に調べた人数は数十人程度だった。
俺も御神刀の力を十分に引き出せていなかったらしい。俺が止めを刺すことに拘る必要はなかったのだ。
「蕪崎、改めて訊くぞ。月夜女姫と直接戦う覚悟はあるか?」
覚悟がなくても対抗できる戦力がほぼゼロの現状だと戦ってもらうしかないのだが、蕪崎は俺の目を見てはっきりと言い切ってみせた。
「当然、覚悟はできています。むしろわたしが直接あーやと対峙できるなんて、これも運命ですね。
鍛えてもらえるなら本望です。私からもよろしくお願いします!」
あの天道彩と深い関係にあった人物を選んだことが吉と出るか凶と出るか。
どちらにせよ一蓮托生、ここから前に進むしかない。
両手の関節が粉々に砕かれているというのに、玩具は私の命令に文句1つ言わずに従ってくれた。
わざわざ玩具だけに重いものを運ばせたり、手先を使う細かい作業をさせたり、明らかに嫌がらせとわかる命令にも忠実だ。
ここまでなんでもやらせてくれると、もっと苛めたくなる。
「月夜女姫様、そのカプセルは何に使うのですか?」
玩具が昨日運びこませたカプセルに興味を示したらしい。
確かにこのカプセルは人間を入れるには少し小さく、高そうな機械が付属していて見ただけでは用途がよくわからない。
「これは生命維持装置よ。生きたまま脳だけを摘出してこのカプセルに入れると、普通の何倍も寿命が延ばせるの。
それで将来医学が発達して、脳を新しい生身の体や機械の体に移植できるようになるのを期待するのがこの装置の目的よ」
「でも、治癒術で何でも治せる私たちがこれを使う必要はないと思うのですが」
当然、この装置を本来の目的で使うわけではない。
- 単に生命維持のために使うのなら、私が倫理問題を無視させてまでして作らせた「意思を外部から見えるようにする装置」も必要がない。
脳だけになったら何も見えないし、何も聞こえない、何も触れられない、何も食べられない……何もできない。
そんな状態で半永久的に飼ってあげるの。しばらくしたら発狂するでしょうから、そうなったらまた頭を弄って元に戻して再び狂わせる。
わざわざこんな装置まで用意してあいつらを生き永らえさせてあげるとは、なんて私は優しいのかしら。
「それはカプセルを数えて自分で考えなさい」
「数えてっていってもなあ……4つなのがヒントなのかな」
それに自分が入ることになるとは微塵も想像していないようね。
そのときは両手の繋がってない手錠と鎖を引き摺ってる首輪は外してあげるから、その分だけは楽になるかもね。
「それより、お腹が空いたでしょう。散歩に行くわよ」
「え、本当ですか!?やったあー!」
散歩に行くときに両手をついて四つん這いになることも最初はかなり痛がっていたが、
最近は慣れてきたのかそれとも食事の喜びのほうが大きいのか、特に嫌がることもなくなった。
一目で人々を戦慄させ戦意喪失させる程凄まじい気迫と殺気を振りまく私は、狩りのときに攻撃する必要がない。
足が竦んで動けない人間に玩具が食いつくのを見ていればいい。
両手が使えない玩具は捕食するときに犬食いのように地面に這い蹲る格好になるが、
そんな惨めな食べ方をする玩具を眺めているだけでも私は楽しめた。
「ごちそうさまぁ、ああ、お腹いっぱい」
「……ねえ、また私と戦ってみない?」
玩具に返事をする暇も与えず、玩具のおでこに自分の左手を添える。
「え、ちょっと月夜女姫様?」
「おやすみ」
言葉と共にパチンと指を鳴らすと玩具は糸が切れた人形のように全身から力が抜け、どさっと地面に転がった。
他の4人とは違い、この玩具の本来の人格は意識の奥底に閉じ込めるだけにしてある。
本来の人格とはいっても元々の正義感溢れる性格からはかけ離れてしまっているものの、
必死に頑張って貶されて惨めに這いつくばって私に言い寄ってくるような卑屈な性格とは大違いだ。
この女が嫌っていた「自分の意思を無視されて他人にいいように操られる感覚」を私がこのように意図的に性格を切り替えるまで
延々と味わわせている。お前が大嫌いなはずの私に尽くしている自分の姿を見続けるのは辛いでしょう?
だから、完全に壊れてしまう前に感想を訊いてあげる。
「青野夏菜、起きろ」
私の呼びかけと同時に玩具の瞼がカッと開き、目玉がぎょろりと動いて私と目が合う。
玩具が私を敵と認識するのに少し間があったが、
ついさっきまで猫撫で声で私に媚を売っていたのと同一人物とは思えないほど敵意のこもった目を向けてきた。
「よくも私の心を弄んでくれたわね……月夜女姫!」
玩具は私との間合いを保ちながら両手の治療をし始めた。
あーあ、治したらまた自分で砕かないといけないのに、学習能力がないのかしら。
「こんなことをしてまでお前にヘコヘコしてたなんて、自分で自分が許せない……殺す……絶対ニ殺ス……
いひっ、いひひひひひひいいいいい!!」
血も涙もないキリングマシーンとなった玩具が目をぎらつかせ狂った笑い声を発しながら私に襲い掛かってくる。
ただ、勝負の行方はやる前から明らかだった。
大学の講義棟の裏で初めて出会ったときに比べて、戦闘経験の差はかなり縮まっている。
それで火力は段違いなままだから、私が負けるはずがない。
最初はわざと傷ついて夢を見させてあげたけど、パワーとスピードしかないこいつなら能力差で捻り潰すのも簡単だ。
「グルル……殺ス、殺スゥ……」
疲れ果てて仰向けになった玩具がかすれた声で呟いている。私との実力差を身をもって体験出来てよかったわね。
お前は弱者を嬲る強者じゃない、強者に嬲られる側の弱者なの。
もっとゆっくり痛めつけながら屈服させたほうがよかったかしら。
体が頑丈になっているから普通の人間のときにはできなかった私刑も……まあいい、また今度にしよう。
お互い血だらけになった姿だが、消耗度は私のほうがはるかに小さい。
仰向けになった玩具の顔をのぞき込むと、もう目を逸らす体力も残っていないらしく一切の抵抗を諦めてぼんやりと見つめ返してきた。
その様子を確かめてから、自分の血がべったりと付着した指を玩具の口に咥えさせる。
「さあ、また私に従順な玩具になりなさい」
そして、2重の自己嫌悪に溺れなさい。
「ウ……ア……」
- 血を飲ませるという行為はある一定の量までは私に対する忠誠心は刻まれず、
大抵の人間は身に余る力に振り回されひたすらに破壊を欲する狂戦士と化す。
その欲望は破壊の限りを尽くしても決して満たされることなく、溜まり続けるストレスにやがて自我は押し潰される。
その状態で精神を縛って破壊行動を封じ続けるとどうなるかは、この玩具を使って実験中だ。
私の仮説では心がバラバラに砕け散って一切の感情が消え去るのではないかと予想している。
その仮説が正しければそれ以上この女に苦痛を感じさせることができなくなるので、
そうなれば術で治療して再び発狂するまで繰り返すつもりだ。
しばらく放心状態で虚空を見つめていた玩具だが、
やっと自分がしたことの重大さに気がついたのか玩具は私に抱き付いて泣きじゃくり始めた。
「申し訳ありません月夜女姫様、私、急に何でも壊してみたくなって……月夜女姫様を攻撃するなんて……どうして……」
私への依存の影響を受けている時間が長すぎて、本来の自分がどちらなのかわからなくなっていてもおかしくない。
私への依存による束縛を外して自由になった状態を操られていると勘違いするようになれば、
そこからさらに自己矛盾による深みに嵌らせてやる予定だ。
単に屈服させるだけなんて簡単だし、つまらないし、復讐にならない。
一生消えぬ恐怖がこびりついた顔のまま自分の心が蝕まれる感覚をいやというほど味わいながら、
どっちつかずの心で私に対する憎悪と畏怖の間を彷徨い続けるがいいわ。
期間は私が許すまで。
そんなことはお前が死ぬまで絶対にありえないけどね。
「謝るのはもういいから、まずやることやりなさいよ」
「え、やることとは?」
一般的な多重人格とは異なり従順なときとそうでないときで記憶は共有しているはずだから、
覚えていないのは単にこいつの頭が悪いだけだ。
「最初に私の僕にしてあげる条件を言ったはずよ」
「条件……ああ、指ですね!でも、どうして私ったら自分で治しちゃったんだろう……」
指を砕かせたら、次は服だ。このために今日はいつもの赤や黒のロングドレスではなく、汚れの目立つ白のドレスにしてきたのだ。
「これ、お前が汚したのだから今すぐ洗ってくれない?」
「でも私、物質創造はできませんよ?洗うのなら……えーと、脱いでもらってもいいですか?」
何もわかっていないこいつの顔面に拳を食らわせる。今の手ごたえだとこいつの奥歯が欠けてしまったかもしれない。
本当にこいつは1から説明しないとわからない馬鹿なのかしら。少しは自分で考える力を付けさせないといけないわね。
「いった……」
「どうして私が服を脱がないといけないの。このまま服を舐めて綺麗にしなさい」
「は、はいぃ……」
実際はこいつに洗ってもらわなくても私が物質創造を使えば服なんてあっという間に元通りに出来るのだが、
気分がいいからこのままにしておこう。
さて、次はもっと無理難題な命令を押し付けてみようかしら。頑張ればできそうなくらいにしないと効果が薄いわね……。
それから数年の間、黒の一族の討伐に特化した戦闘技術の全てを蕪崎に叩き込んだ。
蕪崎の飲み込みは早く、友人を救いたいという思いが強くやる気に現れていたため心身ともにめきめきと鍛えられた。
白瀬の研究の成果もあり最初は蛍光塗料のような安っぽい光だった御神刀も、今では御神刀の名に恥じない神々しい光を放っていた。
あいつらの慢心を利用できるのはたったの1回。青野が黒の一族に加わった以降、新たな黒の一族の存在は報告されていない。
仲間を増やそうと思えばいつでも増やせそうなのにそうしないのは何か理由があるからか、それとも余裕を見せているだけなのか。
どちらにせよ、絶対に負けられない戦い。失敗すればあの私刑地獄を再び味わされることになるかもしれない。
蕪崎以外の戦力も欲しかったが、あいつらによって操作された世間からの印象のせいで協力者すら得るのも無理だった。
もたもたしているとあいつらはあいつらで経験を積んでしまう。のんびりしていられない。
10分前にレーダーで青野の現在位置がここから100キロ以上離れた位置に移動したことを確認した。
あいつらは空間転移で移動するから距離は関係ないが、しばらく街で暴れるつもりのはずだ。
最低限の見張り以外の戦力はいないと思っていいだろう。
もしかしたら月夜女姫もいない可能性もあるが、そのときは内部調査と思えばいい。
「ここか……」
- 手に持ったランタンで、派手に壊された元ホワイトウイングの入り口ゲートを照らす。
中に続く通路は薄明かりが付いており、操られた人間のための視界が確保されている。侵入の際にその照明は好都合だ。
ダメージソースのない普通の人間を無駄に投入しても何もできずに一方的に殺されるだけなので、侵入するのは俺と蕪崎だけにしてある。
あいつらに人海戦術は通用しない。蕪崎の結界の範囲では本人ともう1人守るのが精一杯だ。
俺の装備はいつもの仕事着に機動力を落とさない程度の量の閃光弾と銃器。
蕪崎は白い小袖に襠有りの緋袴という巫女装束を着込んでおり、檀紙で長い黒髪を後ろで束ねている。
「蕪崎、待ち合わせたときにも訊いたが、今から激しい戦闘を繰り広げるのにその格好でいけるのか?」
すると蕪崎は、まるでいくつも修羅場を経験してきたかのような悟りきった表情で入り口ゲートを見据えた。
「私はこういうときの雰囲気って大事だと思うんです。この服だからこそ、あーやの心に訴えられる。
昔の私を思い出して手が緩むかもしれないですしね」
今までの俺なら「そんな下らないものが通用するか!」と一蹴していただろう。
ただただ黒の一族を倒すことだけを追い求め、部下の意思を蔑ろにする。
そうして4人を失って、やっと本当の信頼関係の大切さを学べた。今度こそ、あのような悲劇が起こらないように。
蕪崎を部下としてではなく、共に戦うパートナーとして大事にしていかなければならない。
「実はこの巫女装束、一見動きにくそうに見えますけど身体強化の術式が施してあってジャージとかより身軽に動けるんですよ。
白瀬さんの研究のおかげです。
1回着ると再び使えるようにするのに仕込みにすごく時間がかかるので訓練の時には使ってなかったんですよ。
それに、なんとなくですけどこの服装なら邪な力から護ってくれそうな気がしますから」
御神刀の前例があった以上、これも間違いではないのかもしれない。実際に確かめるにはあいつらと戦ってみるしかない。
刀と巫女装束という組み合わせ、これも一種の様式美。戦う本人の意思を尊重すれば、メンタル面でもよい効果が得られるに違いない。
「やり残したことはないな?」
これから自分の命が危険に晒されるというのに、蕪崎は全く動揺していなかった。
訓練の成果もあるが、本人の精神力の強さもあるだろう。
「大丈夫です。こういうときに『正義は勝つ』って決まってますから。お約束ってやつですよ」
蕪崎のふんわりとした優しい笑みに、俺も改めて気を引き締めなおした。
「お約束」という言葉が口癖だった青野のことを思い出す。今思えばこの言葉が青野の活躍の原動力だったのかもしれない。
「いくぞ蕪崎。まずは黒の一族の親玉、月夜女姫を討つ!」
「はい!」
お約束、か。
正義の味方が悪を追い詰めた最後の最後に大ピンチに陥ることもよくある話だ。
それでもそのままやられてしまう正義の味方はかなり稀。
物語の最後には大抵勝ってハッピーエンド。
正義が負けて悪が蔓延る世の中なんて誰も望んではいない。
どんな過程を経ていようとも、最後は必ず正義が勝つ。
それが物語のお約束……予定調和だから。
- 晴川が久しぶりに私に会いに来ていると見回りの玩具から連絡があった。若い女連れらしい。
私があれだけ準備期間を与えたのに1人しか仲間にできていないとは……相当追い詰められてるわね。
攻撃が通じる少数精鋭で挑むのは間違ってないと思うが、折角待ってあげたんだからがっかりさせないでよ?
「……遅い」
こちらの準備は万端だ。
司令室を改装して作ったホールは重々しい雰囲気が漂い、あちこち飛び回るスペースは有り余るほど確保できている。
こんな豪華な戦いの場まで用意して待ってあげてるのに、何をのろのろしているの。
そんなに警戒して進まなくても監視カメラの電源は全部切ってあるし、
僕5人も全員外に出るように言ってあるしそれ以外にも罠や戦闘員も全く配置してないのに。
脚を組んで左手で頬杖を付くいつもの姿勢でそんなことをのんびり考えていると、
明かりが徐々に部屋の入り口に近付いてきて動きが止まった。
扉が閉まっていても、隙間から漏れる光でわかる。
部屋に突入するタイミングを計っているのだろうか。それならこっちから出向いても――
扉が僅かに開き、そこから閃光弾が投げ込まれた。
また閃光弾で怯ませてから奇襲か。いつまでも同じ手が私に通用するとでも思ってんの?
しかもどうせ私の動きを少し封じただけであいつらには攻撃手段がないはず。慌てる必要はない。
「やああああああああっ!!……くっ」
ほら、やっぱりね。
闇界障壁は御神刀をがっちりと受け止め、傷1つ付くことなく私を守ってくれる。
大体、巫女装束なんてふざけた格好で私に戦いを挑むなんて余程の馬鹿……え!?
素早く飛びのいて間合いを取った御神刀の使い手の顔を見たとき、懐かしさがこみ上げてきて思わず呼びかけてしまった。
「霊……ちゃん?」
忘れるはずもない、初詣のときに毎年見ていた霊ちゃんの巫女姿。
あのときは毎年かもじを付けて髪の長さを足していたが、そのとき見たのと全く変わらない艶やかな長い黒髪をしている。
「よかった。まだ覚えていてくれたんだね、あーや」
見張りの言っていた若い女ってまさか霊ちゃんのことだったとは。
高校のときのみずみずしさはあまり残ってないが、その分大人の女性としての魅力は増していて成長の止まっている私との時間差を感じる。
「お前は変わってないな、月夜女姫。数年前と、何も……不気味なくらい時間の流れを無視している」
晴川も数年前に見たときと殆ど変わりない。
小型のランタンを腰にぶら下げ、やや大きめのハンドガンの銃口を私に向けている。
変化があるとすれば、あれから少し……表情が柔らかくなった気がする。
「いいえ、あーやは変わってますよ、何もかも」
月夜女様に出会ってからの私しか知らない晴川と、それ以前の私をよく知る霊ちゃん。
どちらが本来の私をよく知っているかは考えるまでもない。
「私の知るあーやはそんな冷たい目をしてなかったし、何の躊躇もなく他人の命を奪ったりしないし、
他人の幸せを踏みにじるどころか迷惑をかけることすらなかったし、他人を痛めつけて喜ぶような人じゃなかった!」
刀を構えたまま霊ちゃんが語気を強めて私に呼びかけてくる。
まさか昔を思い出す格好をした霊ちゃんが直に訴えれば、私が改心するとでも思ってたのかしら?なんて浅はかな考えなの。
「ふうん……それで、霊ちゃんは以前の私に戻ってもらいたい、と。残念ながら、それは無理な相談ね」
何でも話し合いで決める事は理想中の理想であるが、意思決定が遅く審議が前に進まない。
「自分の意見を押し通したいなら、力づくで私を倒してからにして欲しいものね。
ほら、私を倒しに来たんでしょう。さっさとかかってきたら?」
私が椅子から立ち上がって両腕を広げて隙を晒しても2人はピクリとも動こうとしなかった。
この距離からでも霊ちゃんが緊張しているのがわかる。
私が挑発してあげたんだから、こういうときは感情に身を任せて斬りかかってきてもいいのに。どうせ私には効かないが。
感情に嘘をついて理性を先に置くのが全部正しいとでも思ってるのかしらね。
「蕪崎、御神刀の光が消えてるぞ。何か気になることでも……」
「すみません晴川さん。わたし……まだ、あーやを傷付けることに迷いがあるみたいです……」
晴川の焦燥した顔が見ていて面白い。霊ちゃんの性格はわたしもよく知っている。
ここに乗り込んでくる前にどんな訓練を積んできたのか知らないが、霊ちゃんが友達を傷付ける言動をとれるわけがない。
昔の私以上に誰にでも優しい、八方美人なのだから。
- 「できるわけないよねえ、霊ちゃんが私を傷付けるなんて」
霊ちゃんは自分の中の葛藤と戦っているのか、俯いたまま動かない。
人選を間違えたわね、晴川。
霊ちゃんは私を傷つけることが出来ないと思うけど、私は元友達だからといって手が出せないわけじゃない。
「そっちが手を出さないんだったら、こっちから行こうかしら」
まずは小手調べ。床と天井に部屋いっぱいの魔法陣を描き、上下から同時に雷撃を浴びせる。
これにすら対処できないのなら、それほどまでに甘い考えで私に挑んだことを後悔させてあげなければならない。
「来るぞ!全力で防御しろ!」
「は、はい!」
晴川が霊ちゃんのすぐ側に寄る。でも2人かたまったところでこの攻撃は避けられないわよ?
「さあ、平伏しなさい」
御神刀が光り、霊ちゃんと晴川を包むように球体の障壁が展開された。私の闇界障壁と同じ、どの方向からの攻撃も防御できる形だ。
へえ、2人を殺さないように手加減したとはいえ少しはやるみたいじゃないの。
「友人に対しても容赦ないな……」
霊ちゃんは優しい。優しいが故に、甘い。そんな優しい戦い方で私に勝てるはずがない。
「どうしてそんなに悪者になろうとするの?あーやは自分のせいでたくさんの人が傷ついているのに、何も思わないの?」
「別に。普通の人間なんて世界に60億人はいるんだから、1000万人くらい殺しても誤差みたいなものじゃない。何か問題ある?」
「どうしちゃったの、お医者さんになって困っている人を救いたいって言ってたあーやはどこに行ったの?」
霊ちゃんもおかしな質問をする。私はもう霊ちゃんの知ってる「あーや」じゃないの。
困ってる人間なんて放っておけばいいじゃない。
もし私を困らせる人間だったらさっさと殺すか、
死んだほうがマシと思えるような苦痛を与えてから惨たらしく殺すか、
ひたすらいびって楽しむかの3択しかない。
「人間なんて助けても遅かれ早かれ死ぬことには変わりないのに、汗水垂らして自分の周りの人間だけ助けて満足するの?
下らないわね。助けが要るような弱者は大人しく死んだほうがいいんじゃないかしら。そうすれば周りの足を引っ張ることもないしね」
「それは間違ってる!そんな考えだと、自分が困ったときに誰も助けてくれなくなるよ。それでもいいの?」
「私が困ったときは助け『させる』のよ。いえ、むしろ私が困らないように僕が働かないといけないんじゃないかしら?」
それで役に立たない僕はどんどん捨てていけばいい。ああ、ただ捨てるのはもったいないから精力を吸い尽くしてから捨てないとね。
「うーん、完全に与えられた強大な力に酔ってる……本当の自分を見失ってる。
できるだけ話し合いで解決したかったけど、どうやら無理みたいね」
1度肩を大きく上下させ、深呼吸してから霊ちゃんは改めて刀を構えなおした。同時に御神刀がぼうっと神秘的な光を放ち始める。
「晴川さんは今まであーやを殺すために戦ってきた。でも私は違う。私は……あーやを元に戻すために、あーやと戦う!」
「どれだけ決意を固めたところで、霊ちゃんは私に傷1つ付けられないよ。まさか、本気で私に敵うと思ってたりするのかしら?」
私はうまく手加減して2人を殺さないように気をつけるだけでいい。
私も術をかなり使いこなせるようになったから、昔のように勢い余って殺してしまうなんてことはもうないだろう。
「ふう……踏ん切りがつきました。今ならいけます!」
「よし!」
踏ん切りがついたとか、覚悟を決めたとかで戦況が変わるのなら誰も苦労しない。
軽く遊んであげた後、生まれ変わらせてあげよう。きっと霊ちゃんも喜んでくれるはず。そして再び晴川を絶望の底に突き落としてやる。
「あーや、少し痛いけど我慢してね……」
霊ちゃんはいかにも動きにくそうな巫女装束からは想像もつかない速さで私との間合いを詰める。
研ぎ澄まされた一閃が私を襲うが、私は油断しきっていて動こうともしなかった。
「はああっ!!」
霊ちゃんの放ったお手本のような斬撃に、
今まで1度も破られたことのない私の闇界障壁が窓ガラスを突き破って粉々にしたときと同様の派手な音を立てて叩き割られた。
「な……に……!?」
障壁が壊された衝撃で体が後ろに仰け反り、一瞬だが2人に無防備な姿を晒してしまう。
「よし、いける!」
破られた闇界障壁が修復される前に、晴川が銃弾を全身に浴びせてくる。
私は迫り来る弾丸に反応しきれず、あちこちに被弾して戦闘力をごっそり持っていかれた。
「胸に銃弾を数発食らってもまだ動けるとはな、化け物め!」
- 逃げ回りながら治癒術は使い辛く、回避に専念しようにも怪我のせいで思うようにいかなくなってきている。
霊ちゃんの2撃目を辛うじてかわした私は、余裕を崩さないまま晴川たちに掌を向けた。
「効いた、わ……」
砲撃の術に慣れてなかった当時の私の全力……それでもあいつらはまるで防御できていなかった。
範囲はさっき見せてもらった。今度は強度のほうを見せてもらうわよ。
「反撃が来るぞ!集中しろ!」
「はい!」
あいつらが避けようとしない判断は正しい。
さっきの霊ちゃんのスピードなら避けようとしても撃ち落せる自信がある。
昔なら狙いが定められずになかなか当てられなかったが、今は違う。
「いい判断ね」
2人をすっぽりと包むほどの太さのレーザーを放ったが、がっちりと障壁で防がれてしまった。
決して私の力が劣化しているわけではない。今までに私が対峙した誰よりも頑丈な障壁なだけだ。
「ほっ、全部防げた……」
なるほど、数年間遊んでいたわけではないようね。でも……。
「これが昔の私の全力……そして今の私の全力の1割よ。あと10倍は強くできるの。
わかるかしら?成長してるのはお前たちだけだと思ったら大間違いよ」
「それで俺たちを絶望させたつもりか?そういうことを自分からばらすヤツは最後にやられるのがパターンなんだよ。
俺たちがここに乗り込む前にどれだけ鍛錬を積んできたか、お前に見せてやる!」
「へえ、随分と自信があるようね。いいわ、見せて御覧なさい……お前たちの鍛錬の成果とやらを!!」
僕に頼らず、逃げも隠れもせずに1人でどっしりと構えて正々堂々敵を迎え撃つ。
わざわざ霊ちゃんが私に会いに来てくれたんだ、ここは私が直々に相手をしてあげないと霊ちゃんが不憫だ。
まさか昔友達だった霊ちゃんと戦うことになるとは思ってなかったが、思った以上に実力があるみたいだから久々に楽しめそうね。
しばらくの間、激しい消耗戦が繰り広げられた。
飛翔は怪我のせいで使えず空間転移と透明化は発動する前に潰されるため使えない私は、
霊ちゃんが御神刀で闇界障壁を破り私がノックバックしている隙を狙って
晴川が銃弾を撃ち込む息の合ったコンビネーションの前に傷を増やしていった。
ずっと闇界障壁に頼りっぱなしの戦闘をしていたため反応が鈍く、致命傷には至らないまでもかなりのダメージを負ってしまう。
治癒術を使う隙はあるが、外傷は治せても体力の消耗は避けられない。
一方の晴川たちは私の攻撃を確実に防御し自分たちの攻撃を当てられているものの、
決定打が与えられず疲労の蓄積の影響が色濃く出始めていた。
「どうしたの、まさかその程度の攻撃で私を倒せるとでも?」
「く、くそっ……!確かに手応えはある、だが……」
「はあ、はあ、これが、実戦……」
霊ちゃんは膝をついてしまっているが戦意は喪失していないようだ。御神刀がまだ微かに光っている。
それに対して私はそこまで疲れきってはいない。
一方的にやられていた今までよりは善戦したようだけど、私を倒すにはまだまだ足りないわね。
「これで、終わりにしてあげる」
障壁の強度が保てないほど霊ちゃんは疲弊してる。霊ちゃんは私相手によく頑張ったよ、だから……ゆっくり、おやすみなさい。
霊ちゃんに直に当たっても命に別状がないくらいに威力を落とす。
霊ちゃんの外傷を最小限に反撃の意思だけを削ぐ。弾が迫っても霊ちゃんは動けないし、障壁も出せない。
勝負あったね。
「まだだ!」
離れて銃を構えていた晴川が霊ちゃんの前に飛び出し、両腕を顔の前で交差させて防御の態勢に入った。
まさか、霊ちゃんを庇って盾になるつもり?!
晴川は私の放った大量の小さめの弾丸を全身に受け、がっくりと膝を折った。
それに遅れて腹を押さえたところからは手にべっとりとつくほど血が滲み、激しく吐血する。
「がっ!?ぐ、さ、流石に生身で当たると効くなこれは」
晴川は胸を押さえてぜえぜえと荒い呼吸をした後、再び鮮血を床にぶちまけた。
余計なことを……!
「晴川さん!御神刀を持たずにあれに当たると危険です!下がっててください!」
「そうも言ってられねえだろうが……」
晴川はアドレナリンのですぎで痛みを感じていないだけだ。
どう考えても致命傷で、すぐに治療しないと絶命は免れない。ここで晴川を殺してしまうのはあまりにもったいない。
- 「全く世話が焼ける」
今御神刀を持っている霊ちゃんなら耐えられる攻撃でも、晴川に当たれば致命傷になる。
私刑の最中ではなく、戦闘中に晴川に治癒術を使うことになろうとは思ってなかった。
これは決して晴川に情けをかけたわけではなく、余裕を見せ付けたわけでもない。
黒い霧が晴川を包むと、晴川の出血が瞬く間に収まっていく。
「俺に治癒術を使う余裕まであるだと……いや、お前は」
晴川は私に銃を向け、はっきりと言い切った。その背後の霊ちゃんも御神刀を杖にしてゆらりと立ち上がる。
「やはり、俺をどうしても殺したくないんだな。そうとわかれば、いくらでも蕪崎の盾になれる」
「晴川さん、私ならまだ……」
「助けたいんだろ、親友を!お前は攻撃に専念しろ。俺のことは気にするな。守るものがあるからこそ辛くても耐えられる、戦えるんだ!
――行け」
殺せないんじゃない、殺したくないだけ。私が殺さないと確信したから捨て身の行動がとれたのか、大した執念だ。
御神刀を持たない晴川なら、晴川が避けきれない範囲の攻撃をすれば簡単に消し飛ばせる。
面倒なことになった。私に殺す気がないとわかっているから、晴川はいくらでも盾となって霊ちゃんを守ろうとするだろう。
弾が逸れて晴川の急所に当たっても死なないようにすると攻撃は温くなる。
そこで霊ちゃんの反撃をこれ以上食らえば……私の身も危ない。
簡単なことだ、晴川の足だけを封じて動けなくすればいい。
霊ちゃんのことを1番よく知っているのは私だし、私のことを1番よく知っているのも霊ちゃんだ。
お互いのことをよく知っていることが私にとってプラスになるかマイナスになるか。
……ん?そういえばさっきまで晴川の背後に立って霊ちゃんの姿が見えない。目の前に見えているのは晴川だけだ。
まさか私の後ろ?いつの間に!?
私が振り向く前にあのガラスが粉々に割れるような音が聞こえた。
頭や心臓を銃で打ち抜かれようが手足をもぎ取られようが迅速な治療を受けられれば助かる黒の一族でも、
唯一の弱点である背中の両翼を切り落とされるとどうしようもない。
私が体をくるりと反転させている間に霊ちゃんはさらに1歩踏み込み、両腕がピーンと伸びた突きで私の胸に迫る。
私が今まで決して見たことのないような霊ちゃんの真剣な顔が見えた。
「う、ぐ」
霊ちゃんはより一層輝きを増した御神刀で、霊ちゃんの気迫に押されて動けなかった私の胸を貫いていた。
以前私に触れられることすら拒絶していた御神刀は、刃の半分を私の背中から露出させて血を滴らせていた。
「残念、ながら、そこは急所じゃないのよね……」
胸が苦しくて言葉がすらすら出てこない。本当は痛いはずなのに、私の頭は痛みより驚きを処理するのに忙しいらしい。
「あってるよ、これで」
普通の人間の常識なら刀で心臓を刺し貫かれたら死ぬに決まっているが、私は違う。
「なん、でよ」
「言ったでしょ。わたしはあーやを倒しに来たんじゃない、元に戻しに来たんだって。痛いでしょ?本当にごめんね」
やっと私を倒せたというのに、霊ちゃんは嬉しさと悲しさが混ざったような複雑な表情をしている。
ざわざわとした嫌な感覚が刺された部分から全身に広がって、腰砕けになってしまう。
この感覚は……力が急速に消えて弱まってる!不味い、このままでは……。
全ては私の慢心の結果。2人を生かしたまま戦闘不能にすることに拘った結果だ。
高慢という名の油断が私と2人との実力を拮抗させていたのだ。
「謝るくらいなら、今すぐ御神刀を抜いて!」
しかし霊ちゃんは聞く耳を持たず、御神刀に更に力を込め始めた。刀身が眩しいくらいに光って目を開けていられない。
全身が発火しそうなほど熱い。ちょうど、私に初めて翼が生えたときみたいに。
「あーやの中の黒の力を浄化してるんだよ。これであーやも普通の人間に戻れる」
- 「それは嫌!お願い、やめて!」
御神刀を握っている霊ちゃんの腕を爪で切り裂こうとしたが、爪はいつの間にか短くなっていて引っ掻くことしかできない。
体内に宿る大きな力が霧散していく。これが全てなくなったら私は……霊ちゃんと同じ普通の人間になる。
霊ちゃんが私と同じになるのではなく、私が霊ちゃんと同じになる。
「心配しなくても、わたしがついてるから……」
黒い翼は根元から純白に染められていき、尖っていた耳も丸くなっていく。
このままだと月夜女様から受け継いだ力を全部失ってしまう。それだけは……それだけは、絶対に嫌!!
思い出せ、考えろ、相手が霊ちゃんならどんな対応をすればいいか――
「……霊ちゃん、ありが、とう」
長く伸びた爪も尖っていた耳も元に戻り、純白の翼を持ちながら微笑んだ私の姿には邪な魔王の面影はなく、
神々しい天使という例えが相応しいものだった。
「あ!月夜女の呪縛が解けた……もう悪者にならなくていいんだよ、あーや。ずっとわたしと一緒にいようね」
真っ白になった翼は形を維持できずに崩れるようにして消え、
月夜女様と出会う前の霊ちゃんがよく知っている姿に戻った私は安らかな寝息をたてながら気を失った。
浄化を終えた霊華は彩に御神刀を突き刺したまま、肩で息をしていた。
疲れきっていながらも霊華は彩が意識を失う間際に呟いた感謝の言葉を噛み締め、達成感に満ち溢れていた。
「やり、ましたね」
「まずは初勝利だ」
静まり返った部屋の中で、2人はゆったりと勝利の余韻に浸る。
「晴川さん、このまま少し休んでいいですか?ちょっと御神刀を抜く力も出なくて……」
今の霊華では御神刀はただの薄汚れた刀になっているので、そのまま抜くと彩が死んでしまう。
浄化されて普通の人間に戻った彩に黒の一族の頑丈さは失われている。
「ああ、いいぞ。俺も、もう体が動かん」
晴川はその場にどさっと腰を下ろすと、外部に連絡を取り始めた。
他の黒の一族が帰ってくる前に、ここから彩を連れて撤収するつもりなのだろう。
「あの場面であーやがわたしから目を離すなんて、よくわかりましたね」
「おそらく『ちょこまか鬱陶しいから晴川の足を潰そう』とでも考えていたんだろう。
そうなればお前からあいつの注意が逸れることは簡単に予想できる」
あのとき、月夜女姫に気付かれないよう背中越しに小声で霊華に指示を出したのが見事に当たったというわけである。
「あのときはわたしを信じて託してくれて、ありがとうございます」
「俺のほうからもお礼を言いたい。仲間を信じることの大切さを教えてくれた。
これで俺も汚れたヒーローから脱却できていればいいんだがな」
彩を正気に戻したら、残りは5人。
妹の蘭以外はいずれも彩より弱く、彩と互角に戦えた霊華と晴川なら各個撃破に徹すればまず負けない。
問題の蘭だけは綿密に罠を張り、ホワイトウイングの元メンバー全員を揃えて総力戦を挑んでやっと勝機が出てくる。
油断しきっていた姉より格段に強い。彼女だけは苦しい戦いが予想される。
「そろそろ、抜いてもいいかな。刺しっぱなしだとあーやも痛いだろうし」
霊華が御神刀を握り直し、浄化したときと同じように集中すると再び刀身が光り始める。
このまま御神刀を引き抜けば、何事もなかったかのように胸の傷は塞がって元通りになる。
霊華の親友の、誰とでも分け隔てなく接することのできる心優しい彩に戻る。
「待って」
目を瞑ったまま、彩が呟いた。
「あれ、もう目が覚めたんだ。今から御神刀を引き抜くけど、痛くないから力を抜いて」
「だから待ってって言ってるでしょう」
よく聞くと、彩から発せられてはいるものの聞き慣れた昔の彩の声ではないような奇妙な違和感がある。
瞑られていた目がゆっくりと開かれ、彩が霊華を真っ直ぐ見据えた。
「あ、あーや、その目……」
それは禍々しい光を湛えた燃えるような紅の瞳。見た者に等しく畏怖を与える歪んだ笑顔。
「浄化し切れてなかっただと!?」
私は御神刀を握り締めた霊ちゃんの両手首を手でがっちりと掴み、止めを刺し損ねた友人を嘲弄した。
御神刀自身の黒の一族を拒絶する障壁が、今なら私の浄化のために開放されている。
こんな忌々しい刀なんて、浄化の力を押し戻して穢してしまえ。
- 「うふふ……霊ちゃん、私の姿が元に戻ったからって浄化するのを止めたでしょう?甘いね。
私は自分の意思で普通の人間の姿に戻ることも出来るのよ」
「でも、翼が消えるときに『ありがとう』って……」
「そんなの、浄化を止めてもらうための演技に決まってるでしょう?
結局霊ちゃんも私のことを敵なのに元友人だからって信用しすぎなのよ。でも仕方がないよね、私たち『友達』だもの」
御神刀の光が神々しいものから暗いオーラを放つ異質なモノへと変わっていく。
刀身がボロボロになり、切っ先の部分だけが辛うじて元の形状を保っている。
「御神刀が穢されている……あれだと使い物にならないぞ!」
「御神刀だけじゃないわ、霊ちゃんも一緒に体の芯から真っ黒に染めてあげる」
上辺だけでも口から出した「私と一緒にいたい」という言葉を、真実にしてあげる。
「晴川さん!」
助けを求めてきた霊ちゃんに素早く反応して、晴川が私に向かって全弾発射をお見舞いする。
しかし無情にも鉛弾は私に届くことなく薄紫の障壁に弾かれた。
「ちいっ、俺はここで見ていることしかできないのか?!」
「悔しい?何も出来ないのが悔しいの?あはっ、いい気味!そこで自分の無力さを思い知るがいいわ!」
かわいそうにねえ……目の前で自分の相棒が好き勝手に弄られてるのに、何もできないなんて。
弄るこちら側としては最高にいい気分だ。
御神刀は根元から先端まで完全に穢され、禍々しいオーラを放っていて元々の御神刀からは似ても似つかぬ刀に成り果ててしまっている。
霊ちゃんが穢されるのも時間の問題だ。
私は1対の翼を背中から再び生やした。ただしそれは骨格だけしか形成されておらず、黒い羽は生え揃っていない。
「この翼の先端で突き刺された人間は、私と同じ黒の一族になるのよ……」
私は数年の間で首に噛み付くだけでなく、このような方法でも相手を同族に変えることができるようになっていた。
この方法なら力を注ぎながら口で会話も出来るし、何より体の変化を自分の目で見やすい。
「や……やめて……嫌……」
霊ちゃんは体を捩って私から離れようとするが、両手を私に掴まれているためささやかな抵抗にしかならない。
別に死ぬわけじゃないのだから、そんなに嫌がらなくてもいいのにね。
「1番効率よく力が注ぎこめるのは心臓なんだけど……痛くないよ、刺された人は皆気持ちいいって言ってるから」
巫女装束の上から霊ちゃんの胸を目掛けて翼の先端を振り下ろす。
霊ちゃんは現実を認めたくないのか、抵抗を諦めてその瞬間は目を瞑っていた。
しかし、いくら霊ちゃんの胸部に尖った骨の先端を近づけようとしても押し戻されて胸まで届かない。
「何なの、これは……」
霊ちゃんと翼の間で強い斥力が働き、どうしても胸に突き刺すことができなかった。
「こういうときのために、装束に魔除けの呪いを仕組んでおいたのよ」
なるほど、巫女装束ならば露出度が少なくこのような呪いは有効に働くというのはわかる。
ただ……詰めが甘かったね。
「ここならいけるみたいね」
いくら巫女装束の露出が少ないといっても、タートルネックというわけではないのだから首の部分は素肌が晒されている。
私はその部分を翼の先端でちょんちょんと突いた。
「しまった、首……!」
御神刀による障壁は御神刀自体を穢すことにより無効化した。
両手が使えない状態では首を完全に防御できる手段など存在しない。
自分の身の危険が間近に迫っている今なら心の動揺も誘いやすい。
「霊ちゃんは私の黒の力を浄化すれば人類は平和になると思う?」
「それは、まあ……」
絶体絶命の危機の最中に突拍子もないことを話しかけられて、霊ちゃんは案の定戸惑ってしまった。
「それは霊ちゃんが知らないだけで、今だってどこかしらで黒の一族に関係なく揉め事は起こってるじゃないの。
その原因はどれもこれも正義と正義のぶつかり合い。あれも正義、これも正義って認めてるから醜い争いが起こる」
「でもそれはいろんな人がいるんだから当然……だよね。何が善で何が悪か決められないことなんて世の中にたくさんあるから」
- 「その通り。何でもはっきり善悪が決められるほど世の中は簡単じゃない。だから……唯一にして絶対の指導者に全てを委ねるの。
善悪は多数決で決めるより、一人が決め、それを正義と定義するほうが簡単だしね。最高指導者が何人もいるから争いが起こるのよ」
「その独裁者にあーやがなるってこと?
それだともしあーやが間違った道に進もうとしたときに正そうとする人が誰もいなくなるよ、それでもいいの?」
「独裁というより絶対君主制ね。
そういうときのために、霊ちゃんには私と同じだけの力を持ってもらって、
私が間違った道に進もうとしたときに歯止めをかける役をやってもらいたいの。それならいいでしょう?」
もちろんこれは上辺だけ。実際に私の仲間になれば意見くらいはさせてあげるが、それを聞くかどうかは私の気分次第だ。
そもそも意見したくなることすらなくなるだろう。
私の僕になれば私の言うことは絶対でそれに逆らおうとする気など微塵も起きなくなるのだからね。
「何なら全権を霊ちゃんに譲ってもいいわ。どう、世界の全てを霊ちゃんにあげるって言ってるのよ。これでもダメ?」
「ふん、傀儡政権にするつもりなのがバレバレだな」
私は世界征服など大して興味がないのだから、晴川の言葉は半分当たりで半分はずれだ。
大雑把な部分だけ指示して後は霊ちゃんに任せることになってもいいと私は思っている。
こういうことは自分は表に立たずに裏で糸を引くほうが賢い。
いつもの霊ちゃんなら見抜くことも容易いような甘言も、
止めを刺すつもりはなくてもいつでも止めを刺せるような極限状態をいつまでも強いることにより判断を狂わせることができる。
「……」
ほらほら、悩んでる悩んでる。
「蕪崎、諦めるな!何のためにここまで頑張ってきたか、もう一度思い出せ!」
霊ちゃんに晴川の言葉は届かない……後は霊ちゃんの本心次第。
「私は全知全能の神ではないからどうしても補いきれない欠点はあるわ。
でも、霊ちゃんと一緒ならその欠点も補える。お願い……私と一緒に来て?」
私が人に頼みごとをするなんて、いつ以来だろうか。
ただしこれも表面上は依頼なだけで、実際は強迫に近い。
晴川は固唾を飲んで霊ちゃんの返答を待っているが、私はそこまで切羽詰ってはいない。
霊ちゃんの性格を考えたら自ずと答えは予想できる。
晴川、いくら待ってもお前の望むような答えは霊ちゃんからは出てこないわよ。
「わたし、は」
それまで黙っていた霊ちゃんがゆっくりと口を開いた。
「訳の分からない大義名分のために命を賭けられるほど、できた人間じゃない」
そのまま搾り出すようにして次の言葉を紡ぐ。
「……でも、あーやのためなら命を懸けられる!それくらいわたしにとってあーやは大切な存在だから!!」
「ふふ、そこまでストレートに好意をぶつけられると照れるわね」
ここまでは私も予測できた。ただし、次の答えは想定外。
「だから、わたしはあーやを普通の人間に戻す!そのためにわた」
「どうしてわかってくれないの」
頭がぐらりと傾いて霊ちゃんは最後まで言葉を言うことができなかった。
普通の人間がこれに刺されれば数秒も経たないうちに意識レベルがガクンと落される。
刺さりが甘いか。
さらにぐぐっと奥まで尖った骨を首に埋めていく。
「く、うう……」
意識が朦朧としながら霊ちゃんが喘いでいる姿が紅白の巫女装束に映えて艶っぽい。
長い黒髪が跳ねたり波打ったりして色気を振りまいているみたいだ。
反対側の翼の先端もずぶりと首に埋めていく。一旦刺した部分は刺し口の皮膚がきゅっと締まって強い力でないと抜けなくなる。
「うう……ここであーやを止めないと……わたしが、あーやを助けないと……いけ、ないのに……」
「蕪崎、気をしっかり持て!飲まれたら何もかも終わりだぞ!こういうときは、想いの強いほうが勝つんだ!」
想いとか、絆とか、そんな曖昧な精神論で私の術から逃れられるとでも思ってるの?
だからお前はいつまで経っても負け犬なのよ。本当、おめでたいわね。
- 「馬鹿ね、こうなったらもう終わり。堕ちるところまで堕ちるしかないのよ」
「はーっ……はーっ……はーっ……」
霊ちゃんは金魚みたいに口をぱくぱくさせながら眉間にしわを寄せ、みるからに苦しそうだ。思っていた以上に拒絶反応が強い。
しかし、ここでどれだけ霊ちゃんが私の支配に抗おうとしても最終的な結果は同じ。抗えば抗うほど苦痛を長引かせることにしかならない。
霊ちゃんを苦しませることは私の本意ではないので、さらに力を注ぐ速度を上げて抵抗の意志を奪い取ってしまおう。
「霊ちゃん、ここで私に逆らっても自分が苦しいだけよ。体の力を抜いてみて」
「ぐぐ……ああっう……んんんっ、がはっ、ぎいいい……」
返事をする余裕すらないか。
戦闘なら蘭に遅れを取るかもしれないが、力を注ぐやり方に関しては黒の一族の中で1番数をこなしてきたと自信を持って言える。
無秩序に増やされて収拾がつかなくなると困るので、他の黒の一族には勝手に同族を増やすことを禁じているからだ。
ただ、ホワイトウイング以外に変えたのは全て普通の人間で、素質の無い人間にこの力を与えても外見の変わり方からして不完全であり、
そんな醜い失敗作はすぐに切り捨ててきた。
でも、霊ちゃんならもし失敗作になったとしても特別に愛でてあげるつもりだ。
「もうあとは時間の問題なのに、随分と粘るのね」
「まだ、ここで心を折られるわけには、いかない……はあ、はあ、ひはぁっ……晴川さん、今のうちに……逃げてください。
はや、く、わたしが、わたしでいられるうちに」
「建前でもそんなこと言うな!ここで見捨てるほど俺は冷たい男じゃない!振り切ってこっちに戻って来い!」
「どうして、ですか……わたしが晴川さんを襲っちゃうかもしれないんですよ?
ここでわたしと晴川さんがどちらも倒れたら、誰があーやを救うんですか?!」
「だから、お前しかいないんだよ。お前が倒れたら全部終わりなんだよ。
お前が親友を助けたいって気持ちはこの程度で折れるようなものじゃないだろ?
お前のその心の強さを見込んで俺はお前が前線に立つことを許可したんだよ。……まだ負けたわけじゃない、ここからだ!」
ただの言葉がどれだけの力を持つか、それは私もよくわかっている。
使い方によっては人を傷付ける刃にもなり、傷ついた人を癒す治療薬にもなるのだ。
仲間を駒としてしか見ていなかった昔の晴川なら、この場面で霊ちゃんを見捨てていただろう。
それが霊ちゃんの心の傷をさらに深めることになっても、自己保身を優先させることに迷わなかったはずだ。
それが今は霊ちゃんの心を繋ぎとめようと必死に呼びかけている。
その晴川の努力を嘲笑うかのように、
私は精神領域を侵される気持ちよさに抗いながらも晴川に逃走を促す霊ちゃんに更なる追い討ちをかける。
「大丈夫、恐くないから。心身全てを私に預けて……そうすればもっと気持ちよくなれる。私を見て……さあ、私の瞳だけを見るの」
促されるままに私と眼を合わせた霊ちゃんはびくりと痙攣した後、私から目が離せなくなる。
だんだんと霊ちゃんの目は霞がかったかのように曇り、口元には法悦の笑みが浮かんできていた。
「んくっ、だめえ……いやあぁっ……はひぃ……」
うーん、可愛いなあ。
こうして心をどろどろに溶かされていく人間は可愛い。
切なげな声を上げながら身を捩じらせる姿はかなりラブリーだ。
「あぁん、はぁ、はぁ、あっ、くぅん……ひゃあん……」
半開きになった口からは淫らな喘ぎ声と共に透明な唾液が零れ、焦点が合わない目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
その涙に悔し涙は含まれていない。混じりけのない歓喜の涙だ。
「気持ちいいでしょう、自分の心が闇に侵されていくのが。嬉しいでしょう、人間の心が消えて無くなっていくのが。
もっとしてって……言ってみて?」
「もっと、してぇ……」
魂が蕩けて、何も考えられない霊ちゃんは私の声を聞いてるだけで気持ちいいはず。
気持ちいいという感情が更に快感を呼び、更に気持ちよくなる。
どす黒い悪夢の快感の無限増幅。
これが完成した今、霊ちゃんはどこまでも、どこまでも堕ちていくしかない。
「ずっと、ずっと一緒にいようね。もう、晴川なんかに惑わされたらいけないから」
「うん……」
- これから黒の一族になってもらう霊ちゃんに、紅白の巫女装束は似合わない。
巫女装束はそのままで、白い小袖は黒に染め、深紅の緋袴は臙脂色に。私とお揃いの耳飾も付けてあげよう。
初めは簡単なワンピースくらいしかできなかった物質創造の力も、
今では装飾のごてごてした複雑なドレスを全くのゼロから作るのも容易くできるようになった。
蘭が簡単に作ることのできる武器類はなぜかさっぱりだが、これは個人差というものなのだろう。
「いい、これから霊ちゃんは身も心も黒の一族になるの」
「はい……」
抑揚のない返事を霊ちゃんが返す。抵抗の意思が全然見られない。
私の言ったことをスポンジに染み込む水のように余すことなく受け入れてくれるだろう。
激しく体を揺すったり捩ったりしていた動きも次第に緩慢になっていく。
「耳が尖って髪の隙間から顔を出す……私の耳みたいにね」
「耳が……尖る……」
霊ちゃんの艶やかな黒髪の隙間から尖った耳の軟骨がひょっこり顔を出す。
やっぱりこうやって体の変化を目の当たりにするのはいいわね。
「次は爪……この爪で何でも切り裂いてみたくなる」
「何でも……切り裂く……」
爪が伸びると同時に、人形の様に何も写さず虚ろだった霊ちゃんの瞳に意思の光が戻ってくる。
その瞳は私と同じ燃えるような紅で、見つめられると私まで背筋がゾクゾクしてしまう。
「最後は翼……」
ここまでくれば、もう言葉は必要ない。握っている霊ちゃんの両手首からでも異常な体温が伝わってくる。
霊ちゃんの背中が膨れてから翼が服を突き破るまでにいささかタイムラグがあったが、
私に勝るとも劣らないほどの立派な翼が無事に生えてきた。
役目を終えた両翼の毒牙を両手で片方ずつ外すと、その傷痕には刺青のような複雑な模様の痣が残った。
翼の毒牙を使う方法だとこのような「私の僕になったという証」が自動的に刻まれるのがまたいいところだ。
「おめでとう。霊ちゃんは生まれ変わった。心も体も新しい自分に生まれ変わった。
霊ちゃんはずっと憧れていた体を手に入れた。嬉しいでしょう?」
私が握っていた手を離しそっとたおやかな指を霊ちゃんの頬に這わせると、霊ちゃんは新たに与えられた力の大きさに喜び身を震わせた。
「嬉しいです……これが、私……この力が、私のもの……」
喜悦に染まりきりうっとりとした霊ちゃんの顔を見ていると、私もつられて嬉しくなってくる。
「ああ、自分の変化の余韻に浸りたいのはわかるんだけど、まずこれを抜いてくれないかしら?」
「も、申し訳ありません!では、いきますよ」
刃が毀れてボロボロになっているのに痛みは全くなく、血も流れなかった。
抜いた直後から胸に開いた穴が逆再生されたかのようなすごい勢いで塞がっていく。
「痛くないですか?」
「ええ……」
一旦浄化されれば元の力を取り戻すには結構時間がかかると予想していたが、そうではないらしい。
むしろさっきより強くなってるような気さえする。
「あの、月夜女姫様。私にこのような力を授けてくださり、ありがとうございます!」
「え、ええ!?」
霊ちゃんがニコっと笑いながら私の腕にしがみついてきた。
女同士でやられると私としては気恥ずかしいだけなのだが、霊ちゃんがこのうえなく幸せそうなので引き剥がしにくい。
霊ちゃんの注意を逸らそうとして、話題の転換を計った。
「ね、ねえ、その刀で試し斬りしてみる?」
「そこの人間でですか?」
数年の間だけだが苦楽を共にしてきた晴川を霊ちゃんはまるで汚物を見るような目で一瞥する。
「いえ、晴川は殺したらダメよ。さっき晴川が救援を呼んでいたでしょう?私たちがその救援を殺すのよ。もちろん皆殺し」
「なんてこった……」
自分のせいで敵が1人増えた。
自分のせいで御神刀を失った。
自分のせいで仲間が犠牲になった。
うふふ、正義感の塊の晴川でもこれでは自分の力のなさを嫌でも自覚するしかないわね。顔面蒼白なのも仕方ない。
「お前がどんな行動をとろうと、ここに霊ちゃんの連れてきた時点でこうなることは決まっていたのよ。
これこそが予定通りの約束された結末、本当の予定調和。
最後に正義の味方が悪を倒して世界に平和が訪れました、
めでたしめでたし……ってそんなことが都合よく現実に起こるとでも思ってたのかしら?」
- ハッピーエンドはたまにしかないから物語として成り立つのよ。その裏には数え切れないほどのバッドエンドが折り重なってるの。
残念ね。お前は行き着いたのはビターエンドにすらならない、悲惨で救いようのないバッドエンドってわけ。
それにこの先いくらコンティニューしても、さらに条件が悪くなって延々とバッドエンドにしかたどり着けない。
この先お前を待ってるのは生き地獄だけ。
唯一の逃げ道であるデッドエンドにはさせない。
そのために倒れても倒れても私に挑んでくるように、命ある限り戦い続けるように最初に暗示をかけた。
辛いでしょう?苦しいでしょう?無尽蔵に湧く気力に体が付いてこれなくなるまで、精一杯足掻くのよ。
体が動かせなくなったら、そのときは私が大切に飼育してあげるから、楽しみにしておきなさい。
「今度こそお前を倒せると思ったのに……まだ、ダメなのかよ!くそっ!!」
晴川は床に拳を何度も叩きつけ、唇を噛んで悔しさを体現している。
それを私と霊ちゃんは気分よさそうに互いに含み笑いを浮かべたまま眺めていた。
「ああ、でも皆殺しはやめてあげてもいいわね」
「えー、私は早く試し斬りがしたいです、月夜女姫様ぁ」
高校のときは対等だった友人関係が跡形もなく崩れている。本人はこの関係で満足しているようだからこのままでも問題ないだろう。
むしろ愛慕の情を前面に押し出してベタベタくっついてくるから少し暑苦しい。
その歪んだ上下関係を作ったのは私以外の何者でもないが。
「まあまあ、急かさなくても後で気が済むまでやらせてあげるわ。
そうね……お前に関係のある人物1人を殺すので勘弁してあげようかしら」
「誰だ、その人物って」
こいつの人間関係をクズ3人に調べさせたが、
予めこのような事態を見越していたのか親密な関係である家族や友人は巧妙に隠蔽されていて時間がかかった。
その中で浮かび上がってきたのが魔法覚醒剤の開発者であるこの人物。
「白瀬大喜」
晴川の顔色がみるみる青ざめていく。効果覿面ってところかしら。
「お前、どこでその名前を?いや、それよりもあれのことをどこで知った?」
「少しはその足りない頭を使って考えたら?
お前の仲間が4人も私の僕になってるのよ。自分たちがなぜ戦うことになったか、黙らせておくはずがないでしょう?」
「そういうことかよ……」
こうやって追い詰めて追い詰めて、追い詰めた最後の最後まで残酷な選択肢を迫るのが面白い。
「救援を殺すのを俺が見届ければ、大喜には手を出さないんだな?」
「白瀬さんと救援の人たちの命の重さにはっきり差をつけた答えね……見殺しにされる救援の人たちがかわいそう」
霊ちゃんが手にした刀の切っ先で晴川の腹部を軽く小突き、罪悪感を煽る。
今の霊ちゃんにしてみれば、最初に出会ったときに「絵に描いたような大和撫子」と褒めてくれた白瀬も、
顔も見たことのない救援の1人の命の重さも同じだった。吹けば飛んでしまうような軽さだと思っているのは私も同じである。
「く……仕方がない。ここで大喜を失うわけにはいかない」
「じゃあ答えが決まったところで、そこに磔にされてもらいましょうか。前にやったことあるからどういったものかはわかるわよね?」
「月夜女姫様、磔にした後にこいつの体を切り刻んでもいいですか?」
どうやら霊ちゃんも蘭と同じタイプで、私が抑制しておかないと手当たり次第に人間を襲い続けるほど危ない性格になってしまったらしい。
あの、虫も殺せないような霊ちゃんがねえ……。
「だから急かさないの。
どこをどんなふうに傷付けたらどのくらい痛がるかとかここまでなら傷付けても死なないとか全部後で私が教えてあげるから、
今はその刀を振り回すのは止めなさい」
少ない数の人間で長く楽しめる方法を教えておかないとあっというまに人間を殺し尽してしまいそうだ。
久しぶりに霊ちゃんに会ったということでお互いの近況について話に花を咲かせていると、
晴川が呼んだらしい救援隊がぞろぞろと入ってきた。その数は15人ほどで全員晴川と似たような武装をしている。
「あ、皆さんお疲れ様ですー」
「すごいな……あの月夜女姫をほんとに元に戻しちゃってるよ」
2人とも翼を引っ込めて普通の人間の姿で談笑していればそう見えても無理はない。
- ここで、この救援隊がこの部屋から出られないように部屋の入り口に不可視の障壁を張る。
「よし、他の仲間が戻ってこないうちに急いでここから撤退するぞ」
「そういえば蕪崎さん、晴川さんはどこですか?」
「え、晴川さんですか?私の後ろにいるじゃないですか……ほら」
入り口方向からは私たちの影になって見えにくい位置に磔にされ、布を噛まされて声が出せない状態の晴川の姿が救援隊の人々の目に映る。
驚いた顔が全員そっくりで私は思わず吹き出してしまった。
「つまり、こういうことよ」
2人で揃って翼を生やすと、1人だけ腰を抜かしている人間がいた。
半分は入り口へ殺到し、もう半分は果敢にも銃で対抗しようとしている。
……ええと霊ちゃん、さりげなくまた私の腕にしがみつくのはやめて欲しい。
「それじゃあ、貴方たちはここで……私に殺されてね♪」
天使のような悪魔の笑顔とはこういう顔のことをいうのだろう。
私が椅子に座ってゆっくり眺めようとした時点で霊ちゃんは3人目の獲物に斬りかかっていた。
「はい、ざくーっと」
「ぎぃやあああああ!!」
血の海に救援隊の14人が顔を沈めるのにはそこまで時間はかからなかった。そのうち大半の死体は霊ちゃんによって膾切りにされている。
「最後の1人くらいは楽に殺してあげようかなあ……頭から体を一刀両断とか」
「ひっ、た、助け……」
最後に部屋の隅に追い詰められた男は尻餅をつき、早くも降参のジェスチャーをしている。
その態度が霊ちゃんの癇に障ったのか、あからさまに霊ちゃんは不機嫌な顔になった。
「楽に殺してあげるって言ってるんだから『ありがとうございます』でしょ?
それともそこの人みたいに手足をぶちぶちーって千切られたり、
あっちの人みたいに胸を刺されて私にニヤニヤ眺められながら逝ったりするのがいいの?
私、そういうことをされたい趣味の人ってあんまり好きじゃないんだよね」
霊ちゃんはガタガタ震えている男の眉間に軽く切っ先を当て、つうっと血を滴らせる。
「大体、この状況で自分だけ助かるわけないでしょうが。もしそう考えてたんだったら、貴方頭がお花畑ね」
そのうち男の血の気が抜けて土気色に変じ、はっきりと全身の精力が抜け落ちていっているのがわかってくる。
「あれ?どうなってるんだろこれ」
最終的にその男はミイラのように干からびた姿に変じた。
「へえ……なるほど、いくら斬っても切れ味が落ちないと思ったらそういうことだったのね」
返り血を何度も頭から被った顔で霊ちゃんは満悦そうな笑みを浮かべた。
しかし不思議なことに手に持った刀には血が一切付着していない。
魔を退ける御神刀は私の力により人間の生き血を吸う妖刀となっていた。
「この刀、本当に便利ですね。筋も骨も関係なくスパッと斬れますから爽快感が今までと段違いです」
だからそうやって嬉しそうに刀をぶんぶん振り回すのは止めて。手元が狂って私までスパッと斬られたらたまらない。
他の僕ならはっきり言えることも霊ちゃんの眩しい笑顔を見るとなぜか言い出しにくい。
「じゃあ、晴川が基地に帰らないうちに白瀬を殺しに行くわよ。場所ももうわかってるしね」
「あれ?救援隊を皆殺しにする代わりに白瀬さんは助ける約束だったような気がするのですが」
「いつ私がそんな約束したのよ。『白瀬を殺す代わりに救援隊の皆殺しはやめてもいい』とは言ったけど
『救援隊を皆殺しにしたら白瀬を見逃す』とは言ってないわ」
私は「救援を殺すのを俺が見届ければ、大喜には手を出さないんだな?」との晴川の問いに答えていない。
選択肢を用意したふりだけ見せて、結局は両方始末するつもりでいたのだ。
もし殺さないと約束していたとしても、私は晴川の信用を得る必要などないのだから約束を反故にしても何のリスクもない。
「うわ、月夜女姫様ってえげつないですね……」
「顔は綺麗なまま殺して、生首を基地の入り口に飾っておくのがいいかしら。
白瀬の身の安全を確かめようとして基地に急いだのに、それを見て絶望する晴川の顔が目に浮かぶわ!
くっくっく……あーはっはっは!!」
真っ暗な元ホワイトウイングの基地の司令室に、凶悪な現代の魔王として君臨した月夜女姫の狂声が木霊する。
右手を頭に添えて笑うその人物は、月夜女の闇に身を堕とされた天道彩という人間の成れの果てだった。
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