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2020/03/30

source : 週刊文春 2012年10月11日号

genre : エンタメ, 芸能, テレビ・ラジオ

「いろんな職業をしたいんで、1年間だけ時間をください」

 ドリフでは3年バンドボーイをやり、72年にマックボンボンというお笑いコンビを結成した。

志村 2年間やったんだけど失敗でしたね。相棒は僕より年上だったんだけど、「ネタが作れない」って辞めちゃうし。でも不思議なもんで、その頃僕が考えたネタは今でも「バカ殿」の定番コントで使ってますよ。

 そうそう、3年間ドリフのバンドボーイやってる時、「いろんな職業をしたいんで、1年間だけ時間をください」っていかりやさんにお願いして、職業を転々としたことがありました。バーテンとか、工事現場の点灯標識を作る会社とか。いかりやさんには「また帰ってきますから」って説明したんですけど、いかりやさんが勘違いして「志村は逃げた」って言われましたね(笑)。で、僕、加藤(茶)さんにお願いして、またドリフの仲間に入れてもらったんですよ。

 1974年、荒井注が脱退し、ドリフの正式メンバーになった。特に加藤の推薦が功を奏したという。「8時だョ! 全員集合」にも出演するようになったが、子供たちにギャグが受けず、スランプに悩んだこともあったという。

「8時だョ! 全員集合」の収録風景。左からいかりや長介、加藤茶、仲本工事、高木ブー、志村けん ©時事通信社

「ひげダンス」誕生秘話

志村 転機はやっぱり「東村山音頭」でしょうね。当時、いかりやさんがふざけながら僕のことを「おい、東村山の田舎もん」と言ってたんで、それに反抗して「東村山音頭」を(楽屋などで)歌ってたんですね。いかりやさんが「何だ、その歌は?」、「いや、地元ではみんな各家庭に必ずあるレコードで、三橋美智也さんの歌なんです」。それで(「全員集合」の)合唱隊の中で地元の歌を歌うって回があって、初めて歌ったらすごくうけたんですね。で、「あれ、もう一回やろう」ってなって、なんだかわからないんだけどうけちゃったんですね。

「ひげダンス」も、僕がその頃、ソウルミュージックばっかり聞いていて、加藤さんが「俺、しゃべるの疲れたよ、たまには動きだけでギャグやらない?」って言って始めたのが最初ですね。無理に流行(はや)らそうとか、全然ないですよ。生放送ですし、「反応がいいな、あれ。じゃ、もう一回やるか」っていうのがずーっと続いて、お客さんの反応を見ながら、気がつけば1年半とかなっちゃうんですよ。

 ドリフのいいところは、リーダーのいかりやさんがきちっとまとめているんだけれども、各メンバーのアイデアを積極的に取り入れる柔軟性や自由な雰囲気があったことですね。「面白そうじゃん、やってみよう」みたいなノリで、僕みたいな若造の意見もずいぶん取り入れてくれました。

「カラスの勝手でしょ」っていうギャグも、偶然の産物。リハーサルをやっていた赤坂のTBSの近所で子供が歌っていたんです。あんまりくだらないから、面白いなあって思って(笑)。あれも1年半くらいやりましたね。自分で飽きて、「もうあれ、やめていいかなあ」って言ったら、「ああ、いいよ」って。で、やめたその週にTBSにすごい電話が殺到しちゃった。「うちの子供が寝ない。どうすんだっ」って(笑)。