聖書に触れた人々NO21「パイオニアの創立者 松本望氏」

聖書に触れた人々NO21「パイオニアの創立者 松本望氏」2012年11月6日                                                                                                                                仁井田義政 牧師

松本望は、音響で有名な株式会社パイオニアの創立者です。彼は、1905年(明治38)松本勇治牧師の次男として神戸で生まれました。今日は、そのパイオニアの創立者松本望の生涯をお話し致しましょう。

★松本望の生涯を話すにあたって、彼の父親である松本勇治のことを抜きに話すことはできません。彼の父親の生れた時の名字は片柳でした。つまり彼は栃木の片柳家に生まれたのですが、本家の松本家に子供がいなかった為に養子となり、松本姓になったのです。彼は函館商業卒業後、貿易商を夢みてアメリカに渡りました。そこで熱烈なクリスチャン松岡洋右(後の外務大臣)に会いました。その強い影響を受け、聖書の研究に没入し、クリスチャンとなりました。貿易商になるどころか熱心な牧師になった彼は、アメリカにおいても伝道に命をかけました。その後、養父の家がある栃木に帰ってきましたが、即座に養父から「耶蘇バカ」と反対され勘当されてしまいました。それでも栃木で伝道しました。その時の生活は貧しかったようです。その後、役場の書記をしていた菊池ケイという女性を見染め結婚しました。その新婚旅行でさえ徒歩による伝道旅行だったそうです。その「耶蘇バカ夫婦」の次男として、松本望が生まれました。「私は父の信仰をそのまま受け継いだ」ということを松本望が自ら書いています。

★松本望が生まれた時 (明治38年5月)には、家族は神戸市三ノ宮に移っていました。神戸に移り住んでからは松本牧師の家はそんなに貧しい状態ではなくなったようです。しかし父勇治は、子供達に「幼いときから勤労の精神を養っておかねばならない」と、小学3年生の頃から新聞配達、夜は床屋の見習い、牛乳配達と仕事をするように申し渡したと言います。しかも家の入口には「牛乳配達所」と看板を掲げて、仕事の責任を教えたそうです。やがて望青年はラジオの製作会社に入社し、10年務めました。彼の趣味は、自分手製のラジオで神戸港に入港している外国船からの無線傍受でした。松本望の幼少から青年期は、父の松本勇治牧師の影響が大きかったようです。松本勇治牧師が洗礼を授けた人達の中には、やがて聖書学者となる黒田幸吉や東大総長となる矢内原忠雄がいました。そういう意味でも、日本のキリスト教歴史にも大きく貢献した人物なのです。

★ラジオ製作会社に勤めて10年目ぐらいの時なのでしょうか。あるキリスト教関係の団体から「あなたの人柄を見込んで、独立資金を援助しましょう」という話が来ました。彼は独立を決意しました。会社名を「福音電機製作所」と命名し独立しました。昭和12年のことです。福音とは「キリストのよき知らせ」のことであり、私は音を通して世に貢献するという決意が込められていました。さらに昭和14年東京に進出し、音羽に「福音電機製作所」の看板を掲げました。しかし奥さんが機械のコイールを巻くという家内工業的なものでした。昭和22年には、さらに会社は拡大を続け「福音電機製作所」の名前を変え「福音電気会社」となりました。さらに発展を続け、昭和36年に社名を現代の「パイオニア株式会社」と命名しました。

★パイオニアの社名のように、松本望は音の分野の開拓者であることを社訓のひとつとしています。そのことを現すエピソードが残っています。パイオニアがレーザーディスクを世界に先んじて作った時でした。最初その製品は全くと言っていいほど売れなかったそうです。その時の松本望は、弱気になっていた社長や社員に「全くの新製品なのだから、売れなくて当たり前だ。あわてるな!」と言って励ましたと言うのです。今やレーザーディスクの無い家を探すのが難しい程になっていますね。松本望は1994年7月15日、83歳の天寿を全うして召天しました。松本望は、父親のつけてくれた名前がとても気に入っていたようです。「いつも名前の望がどんな時にも一筋の希望を与えた」と言っています。また松本家の墓標には『されど、われわれの国籍は、天にあり』という聖書の御言が刻まれています。

今日の御言は、松本望の名に入っている聖書の御言「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヨハ 15:7)をあげておきましょう。この御言のように、どんな時にも希望を持って生きましょう。

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