ファミリーヒストリー「神田伯山~南米に消えた先祖 見つかった父の形見~」5代前の先祖が南米に向かい、その後…


出典:『ファミリーヒストリー「神田伯山~南米に消えた先祖 見つかった父の形見~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「神田伯山~南米に消えた先祖 見つかった父の形見~」[字]


講談師・神田伯山。100年以上前、5代前の先祖が南米に向かい、その後、消息不明になっていた。今回、その人物がパラグアイで暮らし、柔術を広めていたことが判明する。


番組内容

今、最もチケットが取れないと言われる講談師、松之丞改め神田伯山36歳。明治末期、曽祖父は徳冨蘆花に憧れ佐賀から上京し、早稲田で英文学を学ぶ。その後、立ち上げた出版社で、トルストイ全集の発行に携わった。そして、5代前の先祖は南米に渡り“柔術”を広め、パラグアイの英雄となっていたことが判明する。さらに、父の転勤で家族が暮らしたブラジル。亡き父の、ある形見が残されていた。伯山さんは驚きを隠せなかった。

出演者

【ゲスト】神田伯山,【語り】余貴美子


『ファミリーヒストリー「神田伯山~南米に消えた先祖 見つかった父の形見~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

ファミリーヒストリー「神田伯山~南米に消えた先祖 見つかっ
  1. 清太郎
  2. 伯山
  3. 当時
  4. 庄太郎
  5. シズヨ
  6. 仕事
  7. 古舘家
  8. 昭和
  9. 年後
  10. 柔術
  11. 神田伯山
  12. 曽祖父
  13. 克彦
  14. 取材者
  15. 柔道
  16. 小源太
  17. 先祖
  18. ミヱ子
  19. 家族
  20. 結婚


『ファミリーヒストリー「神田伯山~南米に消えた先祖 見つかった父の形見~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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待ってました!
(拍手)

今回のゲストは 今 最も
チケットが取れない この方です。

(拍手)

え~ 一席 申し上げたいと
思いますけれどもね。

本当に 何でしょうかね
昼の食いつきというのは

座った瞬間に うわって盛り上がって
いい感じの空気なんですけど

意外に落ち着いているという感じが
あるんですけど

どういうことなんでしょうかね。

今年2月 神田松之丞から

この大名跡を襲名しました。

真龍軒 これを見逃さない。
ニヤっと笑って ブンッ ブンッ ブンッ。

先ほどより 一層強く振り回しますと

ビューンと放った この最後の一投が
早いのなんの!

神田伯山さんの本名は 古舘克彦。

東京都豊島区の出身です。

どうも 失礼します。

現在36歳。

最近 自らのルーツが
気になるようになったといいます。

こんばんは。 「ファミリーヒストリー」
司会の今田耕司です。

さあ 今回はですね 一緒に
VTRを見ることができないんですが

スタッフからは
壮大な歴史があると。

今回のVTR すごい大作のようです。

神田伯山さんの「ファミリーヒストリー」
ご覧下さい。

♬~

神田伯山 本名・古舘克彦さんの
古い戸籍を調べると

曽祖父・清太郎の代まで

佐賀県唐津市 西旗町で
暮らしていたことが分かりました。

そこは知ってますね。

人口12万 江戸時代
唐津藩の城下町として栄えました。

古舘家の菩提寺 松雲寺。

江戸時代に建てられた墓石が並ぶ
古舘家は 歴史ある家でした。

かつて この地域では

住んでいる地域が
「ちょう」か「まち」かで

武士か商人かを
区別していたといいます。

古舘家があったのは 西旗町。

古舘家のルーツを探るため
次に向かったのは 唐津市近代図書館。

今年3月に放送した
古舘伊知郎さんの回でも出演頂いた…

伯山さんの古舘家の
そもそものルーツは

古舘伊知郎さんと
同じでした。

伯山さんの先祖の記録が
残されていました。

(黒田)こちらですね。

「古舘與四郎」
というふうに書いてます。

古舘與四郎は
伯山さんの6代前の先祖。

「御普請方帳付」という役職であった
というふうに書いてあります。

その中で
廻り役というのは

やはり 下役として
材料の調達

または そういう大工的な
直接 建築に

携わるようなことを
やっていたと考えられます。

與四郎の仕事は 城の石垣や塀の修繕。

禄高は 「四石二人口」。

1年に およそ米20俵が
支給されていました。

しかし 明治になると
武士だった古舘家は 職を失います。

そこで 4代前の高祖父・小源太が
就いたのは

炭鉱作業員を監督する仕事でした。

伯山さんの曽祖父・清太郎の手記に
小源太のことが書かれていました。

これですかね。
よく分からないんですけど…。

小源太が働いていたのは
唐津にあった牟田部炭鉱。

郷土史家の楢崎さんに
炭鉱跡を案内してもらいました。

(取材者)じゃあ もう
ここに炭鉱があったという…。

幕末から明治にかけて 唐津近郊では

全国の石炭の およそ3分の1が
産出されていました。

小源太は 気性の荒い作業員たちを
まとめなければなりませんでした。

犯罪者とかね 流れ歩いてる人とか
そういう荒くれの人たち。

そして 明治22年に生まれたのが

小源太の長男・清太郎。

伯山さんの曽祖父です。

清太郎は このあと ふるさとを離れ
激動の人生を歩むことになります。

いや いいですねぇ。

小源太 初めてですよ 知りましたね。
ゾクッときますね。

小源太さんの顔も やっぱり
ちょっと何だろう

時代のせいなんでしょうか
疲れた顔してるっていうか

着物の着方も だらしないし。

武士じゃなくなるっていうのが

当時 どれほど
すごいことなのかっていうのは

我々には想像つかないですけど
でも 何か そういうものを一旦

あの写真があるってことで 何かちょっと
かいま見えた気がしますけどね。 うん。

伯山さんの曽祖父・古舘清太郎。

幼い時から 成績は優秀。

明治34年
地元の名門 唐津中学に進学します。

そして 18歳になると
父と同じ 炭鉱の仕事に就きました。

しかし 清太郎は
仕事に なじめませんでした。

「眞暗な湿っぽい地の底に
鎖を引づり廻ること三年

暗に動くカンテラの灯や
地の底に響く鶴嘴の音は

依然として心細く
無気味で堪らなかった」。

これは 清太郎です。

清太郎は 仕事のつらさを忘れようと
読書に熱中します。

ある日 一冊の本に出会いました。

作家・徳冨蘆花の「自然と人生」。

巧みな自然描写に心打たれます。

「何となく見えぬ世界に
憧れる様になった。

何処からともなく
誘い出されるような聲が聞こえて

微妙な音楽が野にも
山にも充ち満ちて

響き渡るような
気がした。

私は起っても坐っても
居られなかった」。

感銘した清太郎は 炭鉱の仕事を辞め
上京を決意します。

「唯 一種の憧れの心があった計りに
蘆花氏の弟子たらんと決心した」。

向かったのは 東京府北多摩郡
千歳村粕谷にあった

徳冨蘆花の草庵でした。

そこに 一人
農作業をしている男性がいました。

徳冨蘆花 当時42歳。

ベストセラーになった小説「不如帰」で
知られる人気作家でした。

「見た氏は 田舎で想像して居たとは
全然違って居た。」

徳冨蘆花記念館の倉庫に
あるものが保管されていました。

そういう 弟子になる人については
蘆花は断ってはいたんですね。

ですけども 誰とも会わないかというと
そうでもなく

まあ それは蘆花の気持ち次第で
ご機嫌がいいと会うとか 会わないとか

というふうな時が
かなり あったみたいです。

(取材者)結構 徳冨蘆花さんという方は
難しい方というか…。

そうですね。 気難しい。

にもかかわらず 清太郎は
その熱意を買われ

蘆花の門下生になることを許されました。

その2年後。

23歳になった清太郎は
蘆花のもとで学びながら

早稲田大学 英文学科に進学します。

かねてから 同じ佐賀出身の
大隈重信が創設した早稲田でも

文学を学びたいと思っていました。

同期には 「直木賞」で知られる作家
直木三十五

児童文学作家の坪田譲治
詩人の西條八十

後の直木賞作家
鷲尾雨工などがいました。

鷲尾雨工の自伝に
清太郎のことが記されていました。

「すぐに興奮してしまう
情熱家タイプの男で

これが 休憩時間に教壇で卓をたたいて
弾劾演説をやらかした」。

24歳となった清太郎は
ある女性と同せいを始めます。

唐津時代の幼なじみで
7歳下の福岡シズヨ 当時17歳。

シズヨは ある事情を抱えていました。

元は 老舗の鉄砲火薬問屋の娘。

しかし 6歳の時に父が失踪したため
苦労して育ちます。

清太郎は 駆け落ち同然で
シズヨを上京させ

一緒に暮らすことにしたのです。

当時 清太郎は 師である徳冨蘆花に
こんな手紙を書き送っています。

その後
清太郎は 早稲田大学を無事 卒業します。

当時のことを
伝え聞いていました。

卒業後 清太郎は定職に就かず
小説家を目指します。

そんな中 長女・光子が生まれました。

夫に収入がなかったため

妻・シズヨは 乳飲み子を抱えながら
必死に働きます。

おでんの屋台を始めたほかに
ちょうちん張りなど

いくつもの仕事をこなしました。

そんなシズヨのことが
当時の新聞で取り上げられています。

「健気な 女おでん屋。

夫君は 徳冨蘆花氏に
私淑した人」。

「若い婦人が 丸々と肥った
女の子を背負って

夕方から 夜更の
一時二時頃迄

一人二人と来る
お客を待っています」。

妻・シズヨに負担ばかりかけていた
清太郎は

やむなく 就職することにします。

今も続く
能の専門書を扱う出版社でした。

こちらに その当時の
日本橋の店舗の写真と

ここに ちょうど
多分 社員だろうと思われる姿が写って

もしかしたら こちらにですね
ひいおじい様ですか

…も もしかしたら 写ってるのではないか
というふうには推測されますね。

そして大正7年
長男・融が誕生します。

後の伯山さんの祖父です。

そんな中 上司の神田豊穂から
新たに出版社を作ろうと誘われます。

そして 神田の他に 早稲田時代からの友人
直木三十五らと共に

春秋社を立ち上げました。

清太郎 この時29歳。

春秋社は 思想書専門の出版社として
今も続いています。

(取材者)失礼しま~す。
こんにちは。

神田豊穂の孫 現在の春秋社社長
神田 明さんと

いとこの有さんです。

これですね。

これが 祖父なんですよね。

その脇にいる この方が古舘さん。

何か どことなく俺に似てるな。

春秋社が最初に出版したのが
「トルストイ全集」でした。

新聞に 思い切った広告を掲載します。

すると 想定以上の注文が殺到しました。

ここですか。

清太郎は 自ら翻訳も手がけました。

春秋社は その後も
「ドストエフスキー全集」や

「世界大思想全集」などを出版し
売り上げを伸ばしていきます。

清太郎の収入も安定し
荻窪に自宅を構えることができました。

しかし 春秋社を立ち上げて18年後の
昭和11年。

清太郎は 社長の神田豊穂と
経営方針をめぐって 衝突します。

これをきっかけに 清太郎は
春秋社を離れることになりました。

そして 自ら小説の執筆を始めます。

広大な満州の原野を疾走する

馬賊を描いた
作品でした。

しかし 思ったように
売れません。

この時 またしても立ち上がったのが
妻・シズヨでした。

自ら仕立てた
洋服などを売って

夫・清太郎を支えたのです。

いや だから常にね 妻に苦労かけてんだな
っていうのが 何かね。

おでん屋でも そうですし
それが新聞にもなって… って。

それで着物 売ってっていう 何かちょっと
清太郎も芸人ぽいっていうかね

ちょっとこう 何か あんまりこう
何でしょう 家庭を というよりも

結構 自分のパッションのままに
突き進んでしまう

人だったのかなっていうのは
このVTRからだと うかがえますけどね。

何か だから 派手にやろうっていうのが

私も ちょっと でも
何か成功して 糸口 見つけたら

そうしようっていうふうな気概は
常にあるので そこは ちょっと似てるな。

夫・清太郎を
支え続けた…

シズヨは 幼い頃
父親が失踪し

苦しい生活を
余儀なくされました。

失踪したシズヨの父
福岡庄太郎

伯山さんの4代前の高祖父のことを
調べたところ

思わぬ事実が
浮かび上がりました。

私にすると 曽祖父になるのかな
…の写真ですか。

唐津に住む…

古い写真等
いくつかあるんですけども。

福岡家は もともと唐津藩の時代から
鉄砲火薬問屋を営む 大きな商家でした。

長男だった庄太郎は
身長が180センチもあり

その上 柔術が得意でした。

家業の火薬問屋を継ぎ
二十歳の時に結婚します。

ところが その数年後

突然 商売を放り投げ
姿を消してしまったのです。

それも 海外へ。

この時 長女・シズヨは6歳
弟・輝雄は 4歳でした。

大黒柱の父がいなくなり

シズヨは 幼い時から家事を手伝い
母を支えます。

庄太郎の失踪理由について
僅かに語り継がれているのが…。

取材を進めると 福岡庄太郎のことを
調べている人がいました。

失礼します。

仙台大学准教授で
近代柔道の歴史を研究する…

南米に普及した柔道のことを
調べているうち

偶然 福岡庄太郎の存在を知りました。

明治35年 庄太郎が まず向かったのは
アメリカ・ニューヨーク。

そこで庄太郎は サーカスの演目として
「柔術」を見せていたことが分かりました。

今日のメインのイベントが
「柔術」だということが書いてあります。

日本における 見せ物小屋のショーの
宣伝の広告記事になります。

柔術の乱取りや演舞を
観客の前で披露しました。

同じ頃 一緒に
ステージに立ったのが

後に ブラジルに渡り
グレイシー柔術の礎を築いた

コンデ・コマこと 前田光世でした。

庄太郎がアメリカに渡って 3年後

日露戦争で 日本が勝利したという
ニュースが飛び込んできます。

アメリカでは 小国 日本が
大国ロシアに勝利したのは

柔術に秘密があるのではと
話題になりました。

(藪)まあ この柔術ブームというものは
どういうものだったのかということで

例えば これが 小さな日本人が

大きなロシア人を
手玉にとって 投げ飛ばすという図です。

少し 見にくいんですが

下に 「JIU-JITSU」という文字が
書かれてるのが読み取れるかと思います。

このような形で 日露戦争を

日本人の柔術 対 ロシア人のレスリング
といった形で

模写するようなことというのは
よくありました。

その後 庄太郎は
アメリカ各地で柔術を披露して回ります。

そして 明治39年。

今度は 南米アルゼンチン
第三の都市

ロサリオに向かいました。

ここで 庄太郎は
新たな試みをします。

そんなこと
やってたの?

庄太郎が挑戦したのは
レスリング選手との異種格闘技戦でした。

彼は 身長が180センチ近くあったんですが
上半身 脱いでいますが

非常に よく鍛えられた筋肉をしてる
というのが

見えるんじゃないかと思います。

こうやって した時に

彼 これ親指ですけど
相当 でかいんですよ。

僕も 手 大きい方ですけど
かなり大きい。

実力を認められた庄太郎は

ロサリオで花形の職業だった
「騎馬警官」を任されます。

ところが ロサリオに渡って9年後
38歳の時に 肺結核で倒れてしまいます。

騎馬警官を辞め
療養することになりました。

きれいな空気を求めて
向かったのが

隣国パラグアイの首都
アスンシオンでした。

すると 庄太郎の病は癒え
再び 柔術を始めることができました。

間もなく
新たな興業の誘いが舞い込みます。

当時 南米で大人気だった
レスリングチャンピオン

マッカランとの対戦。

マッカランは 体重110キロ。

「片腕で5人の男を持ち上げる」という
怪力の持ち主でした。

大正5年10月14日。

対戦は 首都アスンシオンの
国立劇場で開催されました。

残念ながら 庄太郎は
4ラウンドで フォール負けを喫します。

ところが…。

その後 庄太郎は
パラグアイに とどまり

花屋を営みながら 柔術の道場を開きます。

39歳の時 ドイツ系移民の女性と結婚。

その後 5人の子供に恵まれました。

もう 白くなっちゃってますんでね
古いんで。

そして日本を飛び出して
38年後の 昭和15年。

家族を残し 姿を消した
後ろめたさを抱えながらも

娘・シズヨとも再会を果たしました。

この時 シズヨが どんな気持ちだったのか
それを伝え聞いている人はいません。

ただ 写真の裏には
シズヨの字で

「昭和十五年四月十日
父が四十年振り

帰京した日」と
書かれていました。

その後 パラグアイに戻った庄太郎。

昭和22年 首都アスンシオンで
69年の波乱の生涯を閉じます。

庄太郎が亡くなった時
地元の新聞には追悼記事が掲載されます。

いや すごい… すごいですね。

いや~ 何が すごいって その
異種格闘技を先祖がしてたっていうね。

というか そんな資料が残ってるんですね。

よく調べましたね~。
いや~ びっくりしちゃったな。

すぐ もう 取材やめて
福岡庄太郎を調べたいぐらいの。

ハハハハハハ…!
早く インターネットで調べたい。

ハハハハハハ…!

何か あと すごいなと思うのが
どの面さげて 日本帰ってきてんだって

その 凱旋みたいな感じで 40年ぶりに
子供とかをね そういうふうに

今の価値観で言うと
まあ 当時も そうでしょうけど

勝手に外国行っちゃって
それで向こうでもね 家族をつくって

40年ぶりに戻るっていう… 何か その。

まあ でも いい身なりしてましたね。

何か そこの裕福さは うかがえて。

でも まあ
だから 清太郎もそうなんですけど

やっぱ行動力が 先祖 あるな。

まあ 当時の人だからなんですかね。

何か すごく そこは面白いですね。 うん。

父・古舘清太郎
母・シズヨの長男として

大正7年に生まれたのが 融。

後の伯山さんの祖父です。

融は 中学に入って柔道を始めると
めきめき 実力をつけていきます。

進学した日本大学でも
柔道部で活躍しました。

これ 三段の免状だな。

「参段ニ列ス」と書いてる。

向こうっ気が強そうな
顔してますね。

その後 融は
東京・日本橋にあった 三越に就職。

23歳の時 太平洋戦争が始まりますが
軍隊には行きませんでした。

何回か聞いたことありますけど。

終戦から 3年後。

伊勢丹で働いていた
大木榮子と結婚。

後の
伯山さんの祖母です。

その後 融は三越を辞め
新たな仕事に就きます。

タクシーの運転手でした。

戦後復興で 道路が整備されるにつれ
タクシーの需要が高まり

高収入が見込めました。

昭和26年 長男・猛に続き
生まれたのが 次男・豊。

後の伯山さんの
父です。

豊もまた 父と同様に柔道に熱中します。

中学の時には
地域の大会で優勝するほどでした。

その後 父・融は 念願だった
個人タクシーの資格を取得します。

ところが 昭和41年。

そんな古舘家を 不幸が襲います。

妻・榮子が 病気で
46歳の若さで亡くなったのです。

更に その1年後のことでした。

今度は 融が網膜離と診断されます。

すぐに手術を受けました。

すると 思いもよらぬことが起こります。

融は 片方の目の視力を
失ってしまったのです。

そのため 個人タクシーの仕事も
辞めざるをえませんでした。

ヘレン・ケラーじゃないけど…。

一挙に来ましたからね。

当時 高校1年生だった豊は

大学生だった兄と共に
アルバイトに精を出します。

大学進学を希望していた豊は
学費を稼ぐため

1年間 働きながら
浪人生活を送ることを決めます。

そして 見事
立教大学への合格を果たしました。

豊は 入学しても
自分だけではなく

弟・悟の分まで
学費を稼ぎました。

他の人は 塾とか行ってたんですけど…

そこで 一人の女性と出会います。

2つ年上の女性でした。

交際を始めて しばらくして

豊は ミヱ子の両親に
結婚の挨拶に行くことになりました。

その時の様子を 伯山さんの母
ミヱ子さんが語ってくれました。

豊は 一切 手を出すことなく
やられていた学生をかばい続けました。

豊27歳 ミヱ子29歳の時でした。

いや もうね 父とか母の代になってきて
そうですね

何か その
何て言ったらいいのかな…

何か不思議なね こう ず~っと
つながりで 6代前から見てくるんで

何か ちょっと みんな
先祖が どこか似てるとこがあって

やっぱ うちのおやじは
こう 筋が通ってるっていうのは

一番 その三男の末っ子には
苦労させないんだっていうんで

一生懸命 アルバイトして
まあ 生きてきたんでしょうね。

本当に 悟叔父さん 言うように
筋通ってるっていうか

いい生きざまだなと思いますねぇ。

手術中に停電してっていうの
初めて聞きましたね。

あの 目は 失明してるっていうのは
聞きましたけど

その 3人も子供がいてとかっていう
でも 自分は仕事ができない。

で 目も不自由になった
どうしようっていう。

何か もう今だと その祖父の気持ちも

気力が萎えていくっていうのも
何か分かるような。

そこで奮起する
おやじの気持ちも分かるし。

神田伯山さんの母・ミヱコさんの実家
石塚家。

曽祖父・利太郎の代まで

埼玉県 権現堂川村
上吉羽で暮らしていました。

現在の幸手市です。

あっ突然すいません。

石塚冷子さんです。

冷子さんの曽祖父・大吉と

伯山さんの曽祖父・利太郎が
兄弟です。

あっ…。

「石塚氏は
上吉羽村の開発人」。

まあ この辺を開拓した人
なんでしょうかね。

戦国時代 石塚家が中心となって

利根川沿いで
大規模な新田開発を行いました。

この中で ですね…。

ここに 石塚利重という
お名前がありまして。

石塚利重。

伯山さんの5代前の
先祖にあたります。

石塚家は 名主として 3, 600坪もの
広大な土地を所有していました。

そんな石塚家に
大正5年に生まれたのが順一郎。

後の伯山さんの祖父です。

昭和12年 日中戦争が始まると
順一郎は 21歳で出征します。

配属されたのが 鉄道第一連隊でした。

昭和14年 順一郎は
過酷な戦場から 無事 復員します。

その後 東京市電気局に入局。

やがて 市電の運転士になりました。
当時の花形の職業でした。

終戦後の昭和21年 順一郎は結婚。

その4年後に生まれたのが
次女のミヱ子でした。

後の伯山さんの母です。

当時のお母様…

こちらが
石塚さんということになります。

そして 高校を経て 専門学校卒業後
貿易商社に就職し 古舘 豊と出会います。

昭和54年に 結婚。

その4年後。 豊は
ブラジル支社への転勤を命じられます。

当時 ミヱ子は
2人目の子供を妊娠中だったため

豊は 単身赴任をすることになりました。

赴任先は
ブラジル南部に位置する ペロタス。

人口およそ30万の町でした。

豊は ここで フカヒレや 果物などを
日本に輸出する仕事を担当します。

ある日 豊は ひょんなことから
改めて 柔道を始めることになります。

教えてたんだよね。

その いきさつを知る人が見つかりました。

(取材者)よろしくお願いします。

現在 道場の師範を務める
フェルナンドさん。

ブラジルのオリンピック代表候補になった
経歴の持ち主です。

これを きっかけに
豊は 柔道を教えるようになります。

まもなく
豊に うれしい知らせが届きます。

次男が 誕生したのです。

豊は 克彦と名付けました。
後の 神田伯山さんです。

名前は
自分が好きな柔道選手から とりました。

柏崎克彦。

幻のモスクワオリンピック代表で

「寝技の柏崎」と呼ばれた
伝説の柔道家です。

(取材者)こんにちは。
ああ どうぞ どうぞ。

その…

現在 自宅で道場を開いています。

恐縮です。

妻・ミヱ子は
生まれたばかりの克彦の写真を

ブラジルの豊に送りました。

その返信の手紙が残されています。

敬語なんだね。

克彦が1歳になって

ようやく 家族は ブラジル・ペロタスで
一緒に暮らし始めます。

古舘家が暮らしていたアパートです。

部屋は 402号室。

当時…

古舘家のことを よく覚えていました。

兄貴もね
しっかりしてたけど。

昭和61年 豊は 3年間のブラジル勤務を終え
家族とともに 日本に帰国します。

ところが その8年後

豊は 42歳の若さで
亡くなったのです。

はい 引き込まれちゃいますね。 何かね。

まあ あの子供なんでね 細かいことは
分かんないんですね 大人の事情はね。

ただ まあ うちのおやじは
そういって 亡くなってったっていう

でも衝撃でしたよね 子供心にね。

あと そのね 教え子の方が
あんな立派になって ブラジル代表のね

選ばれそうになるぐらい…
選ばれたんでしたっけ?

(取材者)代表候補ですね。
候補になったぐらいっていう。

うちのおやじも
早くに死んじゃったんで

そういうふうに教え子たちとかも
そっか まだ生きてんだなとかって

当たり前なんですけど あんな存命でね

いまだに柔道されてるっていうのも
何か うれしいですし

それも何か 古くは むしろ
福岡庄太郎にも つながることですし

何かこう 連綿と歴史っちゅうのは

どっかで
つながってるんだなっていうのはね

今のVTRからも 何か分かりましたね。
う~ん。

平成6年 突然 父・豊を亡くした 克彦。

当時 小学校4年生でした。

(豊田)
こちらが 古舘克彦さんになります。

それまで明るかった性格が 一変します。

その後 進学した高校でも…。

ここに
古舘克彦さんが いらっしゃいます。

そんな克彦が
唯一 楽しみにしていた授業があります。

歌人でもある 森本 平先生の国語でした。

その 森本 平先生です。

次第に 明るさを取り戻していった克彦。

このころ興味を持ったのが 落語でした。

「誰か出したんじゃあないかい?」。

「台所に転がっていたんだから
出したものが あるんでしょうが」。

特に 夢中になった落語家がいます。

すごくて もう立てなかったですね。
すごすぎて。

そして 選んだのが「講談」でした。

講談師・神田松鯉の門をたたきます。

松鯉さんは 入門当初の
克彦のことを よく覚えています。

入門すると 神田松之丞と名乗ります。

すぐに 頭角を現していきました。

姉弟子の 神田鯉栄さんです。

よろしくお願いします。

弟弟子には
こんな一面もあったといいます。

入門から5年で 二ツ目に昇進します。

ストーン 払い落とした途端

真龍軒の前から
武蔵の姿が 消えてなくなった。

なぜ 武蔵の姿が消えてなくなったのか。

本講談 これから
面白くなるところでございますが

なんと なんと お時間が
いっぱい いっぱいと やるわけですが

ちょっと後ろの時計 見てみましょう。

皆さん ラッキーです。
まだ3分 時間が余っておりました。

この続きを
申し上げても よろしいでしょうか。

(拍手)

現在 数々のテレビ番組に出演。

チケットは すぐにソールドアウト。

いつしか 時代の寵児と
呼ばれるようになったのです。

いやいや 何か あのね どっから
話していいかって感じですけどね。

まあ師匠のね いろいろ お話を

また姉さんも いろいろ出て頂いて
もうありがたいですね。

そう考えたら 血だけじゃなくて
いろんな人の尽力があって

ここまで来てるなっていうのをね
まあ つくづく感じますね。

(取材者)
改めて ご自身の「ファミリーヒストリー」
ご覧になって いかがです?

何か幅広かったですね 先祖がね。
いろんなこと やってたなと思ってて

そこに 今 出てきた人 誰一人欠けても
今の私がないんだなっていうね。

月並みですけど
それは 如実に思いましたね。

で これから 私自身が
松之丞から伯山に 今なって

そうすると 今度は
伯山も 今6代目なんですけど

初代からの歴史があるわけですね。

そうすると また僕は僕で
その名跡としての血筋みたいなものを

どっかで 芸として後世に託していく。

何か 古舘家 古舘としての血筋と
神田伯山としての講釈師としての血筋

両方を 何かすごく
いとおしく思うっていうかね

何か それを改めて
今回ので思いましたね。

今から 100年以上前

南米アルゼンチンや パラグアイで
柔術家として活躍した

伯山さんの
4代前の高祖父・福岡庄太郎。

取材を進めると

その子孫が 今も パラグアイで
暮らしていることが分かりました。

首都 アスンシオンで
薬局を営む…

庄太郎の孫にあたります。

そして 父・豊さんが 商社マンだった当時
家族で暮らした ブラジル・ペロタス。

豊さんから柔道を教わった
フェルナンドさん。

今も大切にしているものがあります。

フェルナンドさんは 豊さんから贈られた
言葉を 今でも はっきり覚えています。

そして 今年2月。

誠に ありがとう存じます。
大変にお待たせを致しました。

ただいまより 神田松之丞 改めまして
六代目・神田伯山

真打昇進 襲名披露口上を
申し上げる次第でございます。

44年ぶりとなる 講談界の大名跡
六代目・神田伯山を襲名しました。

講談師・神田伯山さんの
「ファミリーヒストリー」。

新しい世界に挑戦し 懸命に生きた
家族の歳月がありました。

ほんとに
何か いい映像だったっていうか

う~ん
何か頑張んなきゃなと思いますね。


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