糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

04月30日の「今日のダーリン」

・正直、ぼくはえらそうなことは言えない。
 でも、どんぐりの背比べのなかの、
 ひとつのどんぐりとして、書きはじめてみます。

 「ことばというものを、もっと使えるようになる」
 これが、これから先のぼくらに課せられた
 最大の宿題ではないかと思うのです。

 いま、テレビの画面が「自宅の誰か」のかき集めになり、
 そこに「しゃべり」が加わっているという形式になって、
 ほとんど写真を見ながら聞くラジオになってます。
 もともと、「テレビは映像もついているラジオ」として、
 通信の形式のひとつとして発達したものですから、
 歴史がちょっと戻ったということなのかもしれません。
 しかし、雰囲気も装飾も利用できず、
 「つなぎ」やら「間(ま)」の技術も使いづらいので、
 ことばをうまく使えないタレントさんは苦しいはずです。
 優れた落語家だとか一流の漫才師のようなタレント、
 さんざんラジオをこなしてこられた方々や、
 放送台本の書き手と一体になってやれる人なら、
 きっと、こういう時期も乗り切れるのだろうと思えます。
 それにしても、いまのテレビはラジオなのですから、
 重要なのはやっぱり「ことば」なのです。

 もちろん、インターネット上のさまざまな表現も、
 「ことば」が決め手になっています。
 売れっ子のユーチューバーは、ことばができてます。
 いわゆる映像での表現に思えるものも、
 ことばに翻訳できる映像が強いし、それがほとんどです。

 残念ながら、日本の政治のことばは、
 人の胸も打たないし、納得させる力もありません。
 それは、保ち守る側も野に在る側も同じだと思います。
 いま、いろんな国の指導者たちのことばが、ときどき、
 尊敬を持って引用されたりしてるのと、日本は逆です。
 「ことば」としてどう組み立てようどう伝えようという
 準備がそもそも足りてないように思えます。
 「傷つかないように、負けないように」
 という目的ばかりがことばを発達させてきて、
 ほんとうのことばの力が枯れ切っていると思えます。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
言葉で足りないものばかりだけど、言葉にしようとしよう。