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この作品 「【期間限定Web再録】遍在する彼の面影【~5/1】」 は「羽日」「8893」等のタグがつけられた作品です。

2019/4/28に発行したはばくさ本の期間限定全文公開です。時折、羽場君を思い...

りいざ

【期間限定Web再録】遍在する彼の面影【~5/1】

りいざ

2020年4月15日 23:40
2019/4/28に発行したはばくさ本の期間限定全文公開です。

時折、羽場君を思い出しながら計画を進める日下部さんの4/28までのお話と、5/1に日下部さんを思い出す羽場君のお話の二本立て。

彼等の正義とは何か、何故羽場君を救ったのは境子先生ではなかったのか等の考察を織り交ぜつつ、犯行準備中の日下部さんの葛藤や羽場君との出逢いを描いた作品です。

肉体関係はあったけれども、恋愛という意味では両片思いだった二人のお話。

注意

・羽場君が日下部さんと境子先生の両方と同時期に肉体関係を持っていたという描写を含みます。(境子先生に関してはそういった関係があるという言及のみ、本命は日下部さんです)
・ゼロの執行人の作中年を2018年とした表現があります。
・公安警察及び境子先生に対して批判的な内容を含みます。
・法的な事柄について、ふわっとした知識で書いていますので鵜呑みにされることのないよう、お願いします。

また、
・元々技術力があった日下部さん
・復讐一直線じゃなくて、かなり悩みまくっている日下部さん
・羽場君をかなり買い被り過ぎてる感のある日下部さん
・毎回、酒の力でとんでもない決断をしてしまう日下部さん
・性愛に対して妙にシビアな日下部さん
・でも何故か端っから受け指向だった上に受けの才能があったご都合主義な日下部さん(あくまで全年齢範囲の描写ですよ)
・「許せません」の行動に理由づけしてみたらエキセントリックさが減ってしまった感じの羽場君
等も含みます。

元々、これのこれの続きに当たる話を夏コミで出すにあたって宣伝をかねて4/28~5/1に限定公開をしようかと思っていたのですが、ゼロシコ公開2周年(数日遅れましたが)ということでもう少し長めに公開することにしました。ご自宅での暇つぶしにでもしていただければ幸いです。

在庫はまだありますので、もし紙で欲しいと思ってくださる方がいらっしゃいましたらBOOTHからお願い致します。
https://riiza.booth.pm/items/1350741
現在外出自粛中のため発送は日曜日のみです。

このお話の三十数年後に仮出所する日下部さんとそれを待っていた羽場君の話を現在執筆中です。当初の予定よりかなり遅れていますが、BOOTHによる通販先行で頒布予定です。

また、本作は初執行時から色々と考えていた考察をかなり詰め込んだ、と言うかこれを書いてたら考察が深まったと言う感じの作品なのですが、考察が高じて考察本も出していますので、よければこちらもよろしくお願い致します。

とあるはばくさ民によるゼロシコ考察1
https://riiza.booth.pm/items/1751082
if(notExists(you) == TRUE){
free(myLife);


何かを見るたびに、彼を思い出す。そこかしこに、彼の思い出が遍在する。
何を見ても羽場の記憶を再生し始める私の脳は、きっとどこかが壊れてしまったのだろう。時折、「日下部さん」と呼びかけてくる懐かしい声が、幻聴に過ぎないと言うことは嫌というほど知っている。
それが二度と戻らないものだと、痛いほどに理解している。

書斎に入ると、大半が空になった作り付けの書棚が目に入った。
今残っているのは、コンピューター関係の技術書のみだ。空いた空間ではサーバー類が静かに音を立てていて、その横では圧力ポットから取り出した緑色の基盤が窓から射し込む光を反射していた。
羽場が「日下部さん、こういうのがお好きなんですね」と面白げに眺めていた美術展の図録も、羽場に貸したことのある絶版済の法学書も今はもう無い。
計画を思い付いて以来、自宅にある物を少しずつ処分してきた。特に、書籍の類は真っ先に。
どのような思想も物語も、私の犯行の犠牲にするべきでは無いからだ。
私の犯行理由は思い上がった公安警察に対する裁きと復讐であり、それ以上でもそれ以下でもないのだから。だからこそ、何かに感化されたなどという逃げ道は全て塞いでおかねばならない。
この部屋に残すのは、犯行の確かな証拠だけで良い。私の人間性を表すような物など、何一つ必要ない。
そして万が一、私以外の人間が被疑者として挙げられる事が無いように、警視庁の破壊が終わった後に犯行声明を各メディアに自動送信するように設定する予定だ。
現役の検察官が実行したとなれば検察もただでは済まないが、今の公安検察は腐りきった傀儡に過ぎない。公安警察の息がかからない新たな公安検察に生まれ変わる先駆けとして、私は……公安検察と無理心中してやろうと決めたのだ。

窓際のデスクの傍らに置かれた技術書の表紙には、とぐろを巻いて威嚇する蛇が黒一色で精緻に描かれている。
「日下部さんって……蛇がお好きなんですか?」
この本を見ながら怪訝そうに訊ねてきた時の、彼の声が脳裏をよぎる。
あれは確か、彼と寝るようになって暫くした頃。普段は基本的にセーフハウスで会っていたが、一度だけだと強請(ねだ)られて彼を泊めた日のことだ。

「……それは技術書だぞ、コンピューター関連の」
意外な問いに目を見開き、彼の視線を辿って苦笑しながらそう答えた。
「え? これ技術書なんですかっ?」
「まあ、気持ちはわかるがなあ。ここの技術書は動物の表紙が定番なんだ」
彼が見ていた本を手に取り、「見てみるか?」と手渡す。
「あ、ほんとに技術書ですね……でもどうしてこんな物を?」
パラパラとページを捲った後に、彼は首を傾げてみせた。
「趣味と実益を兼ねて、といったところだ。昨今はサイバー犯罪も増えてきたし、捜査資料を読み込むにもそれなりに知識があった方が良い。……公安警察が上げてきた捜査資料を、私はあまり信用していないから尚更な」
眉を顰めながらそう答える。
「なるほど。それにしても、こんなにお忙しいのに日々の研鑽を怠らないなんて、流石日下部さんですね!」
目を輝かせて私を見る彼を見ると、歳を重ねる毎に無くしていったものがまだ私の中にあると信じられる気がした。
公正なる正義への忠誠心。自分こそが正義を執行する者だという自負。掲げた理想。真実の追求。
現実に揉まれて、日々の業務の中で磨耗してしまったそれらを、期待の目で見上げてくる彼が奮い立たせてくれる。

「……全っ然、分からないです」
真剣な顔でページを繰ってみた彼が降参、とばかりに顔を上げた。
「それはそうだろう。割と上級者向けだからな、それは」
法律書とは全く別種の難しさだと分かっているだろうにそれでも挑戦してみるのは、私が捜査資料を読むのに役立つと言ったからだろうか。その勤勉さに頬が緩む。
「上級者向け……捜査資料を読むのにそこまで必要ですか?」
怪訝そうに問い掛けながら、彼は本を閉じた。
「この本に関して言えば必要ないだろうな。これは完全に趣味の領域だ」
悪戯めいた笑みを浮かべながらそう言ってやる。
「趣味……で、これですか」
半ば呆れたような面持ちで彼は本を差し出した。
「興味を持ったものはついつい突き詰めてしまう性分だからな」
それを受け取って書棚に仕舞う。
「まあ、元々こういう物が好きだと言うのもあるが」
「そうなんですか?」
「ああ、5歳年上の従兄がいわゆるマイコン少年でよく一緒に遊んでくれたんだが、その影響もあってな。昔は法学部と工学部のどちらを選ぶか随分悩んだものだったなあ」
改めて書棚を見渡すと、法律書と技術書で8割程を占めている。心持ち法律書の方が多いだろうか。
「では、どうして法学を選んだんですか?」
私の視線につられるように書棚を見回した羽場がそう問い掛けてくる。
「当時は法学部に行かなければ法曹資格は取れなかったからな。対して情報処理は独学でも学べないということは無い、そう言うことだ」
その選択をしたからこそ羽場に出逢えたのだなと、内心で過去の自分に感謝の念が湧いてくる。
「なるほど。それにしても、いくら好きなことだからといっても検事の激務の合間を縫ってこれだけの勉強をするなんてなかなかできませんよ。日下部さんは本当に凄いです!」
キラキラと輝くあの瞳に、何時も救われていた。
私には……彼が必要だったのだ。

カタカタとキーを叩く音だけが部屋に響く。
「日下部さん、それはやめてください」
そんな懐かしい声と共にキーボードを叩く指先を掴もうとする手が見えた。少し日に焼けた長い指先にハッとして一瞬手が止まる。けれどその手は、次の瞬間には消えていった。
これは幻覚だ、決して羽場の意志などではない。羽場が……止めている訳ではない。
こんな幻覚を見ることが増えたな、とふと気付く。私は迷っていると言うことなのだろうか。
椅子の背に寄りかかって、疲れの溜まる目元を指先で圧迫しながら考えた。
それは許されないことだ。
私だけが彼の正義を覚えている。何者にも屈しようとしない熾烈な正義を。潰されてしまった、あの誰よりも真っ直ぐな心のかたちを。
そう、きっと潰されてしまったのだろうとあの後、何度も何度も考えた。そうでなければ、あの羽場が自ら命を絶つなどあり得ない。彼が最も重要視していた彼自身の正義を、奴らはきっと貶めたのだと。
そして彼は……汚名を(そそ)ぐことなく逝ってしまった。あれほどまでに正義に拘る彼を、被疑者のまま死なせてしまった。
だからこそ私は彼が居なくても、私の正義を執行しなくてはならないのだ。
私と彼が目指した、真実に基づいて何者にも忖度しない、正当かつ公正な正義を貫く力を公安検察にもたらすためには、公安警察のあの横暴な力を削がねばならない。そして腐りきった公安検察も、もはや……一度叩き壊すしかないのだ。
不意に、涙腺が緩むのを感じた。
何故、私は今、泣いているのだろうと不思議に思う。いくら古巣とはいえ、公安検察のことはとうに見限ったはずだ。それを叩き壊すことを哀しむような感情は持ち合わせていないはずだというのに。
最近、感情と涙腺の連携が壊れているような気がしてならない。昔は殆ど泣くことなどなかったはずだが、一生分の涙をこの一年で絞り出しているのかもしれない。
決して止まる訳にはいかないのに、また溢れ出してきた涙は画面を曇らせ、頭の中で構築してあったロジックを侵し始める。
プログラミング作業を手放した私の脳は、最後に見た彼の姿を再生し始めてさらに涙腺を緩ませる。
「は、ば……羽場っ……!」
今すぐにでも彼に逢いたいと言う衝動に駆られながら自らの腕を握りしめる。今隣の部屋のベランダから飛び降りれば、それは叶うのかもしれない。
だが、この国の正義は是正されねばならないのだ。
国益のために法を掻い潜っては他者を踏みつけて、それを正義のためと(うそぶ)くあいつらに異議を叩きつける。そして彼の無念を晴らしてからでなくては、あちらに行っても羽場に顔向けが出来ない。
公安警察の奴らは被疑者とその家族の人生もまた、不当に脅かされて良いものではないということを分かっていない。罪は正当な手順で公明に裁かれ、過不足のない刑罰をもって更生を促す。それが出来なくては法治国家とは呼べない。
それを理解しているならば、彼を自殺に追い込むほどの執拗な取り調べなど、するはずがない。
そもそも何故、公安警察が拘置所で彼を取り調べたのだ。
……あまり考えたくは無いが、やはり私の協力者であることが岩井から漏れたという線が濃厚だろう。それが知られたからこそ、奴らにとって邪魔な彼はあれほどまでに追い詰められたということだ。
国を守りたいという意思は百歩譲って理解するが、危険人物を社会から隔離する目的で冤罪を被せたり、不当に重い刑罰を科することを看過できるはずがない。それは法への信頼を失墜させる行為であり、法治国家への反逆に等しい。
検事にとって冤罪とは、敗北以上の忌むべきものだ。
無実の人間とその家族の人生に取り返しのつかない不利益をもたらし、その一方で真犯人を野放しにする。それを意図的に作り上げようとするあいつらと戦うために、羽場は協力してくれていた。
その手法が違法捜査だったことに恥じ入る想いはあるが、そもそも先に禁を破ったのはあいつらだ。そしてその強権に刃向かうために選べる手段など、他には存在しなかったのだから致し方あるまい。
私が検事としての誇りを失わずに済んだのは、彼のおかげだ。
彼が居たから、私は検事として戦えた。
羽場は、失われてはいけない存在だった。
「……羽場の無念は必ず晴らしてみせる」
そう、自分に言い聞かせながら私は涙を拭い、デスクに置いたシンプルなカレンダーを見やる。印がつけてある4月28日と5月1日までの日数を確認してから画面を睨み付けた。
立ち止まっている時間はどこにも無いのだ。NAZU不正アクセス事件の捜査資料はシステムへの侵入方法については参考にはなったが、侵入した後の目的が全く違う以上、大した助けにはならなかった。
全くの専門外であるカプセルの再突入設定はNAZUのネットワークに侵入して探し回った内部資料から、なんとか設定機能にアクセスする目途は立ったが、当初の計画よりも調査に時間が掛かりすぎた。
その他にも特定地域に向かう自動車の検出とナビの暴走処理、ガス栓の操作、ガス報知器の無効化、IoT圧力ポットの発火、はくちょうへの通信暗号コードの変更、それら全てに綿密な下調べが必要であり、しかもろくにテストもできないとくる。
やらなければならないことはあまりにも膨大で、一つのミスも許されない。連日の睡眠不足のせいか頭痛がすることも増えたが、これ以上睡眠時間を増やしたら間に合いそうに無い。
気が遠くなるほどの作業量に押し潰されそうになりながら、傍らに置いたあの本を見やった。獲物を狙う蛇、その姿が自分に重なる。
ああ、そうだ。あいつらの喉元に食らいついてやるまでは、私は決して止まる訳にはいかないのだ。

「日下部さん! またそんな食事してるんですか?」
冷蔵庫からゼリー飲料を取り出した所で、そんな声を思い出す。
あの時は、公園で昼食をとるサラリーマンを装って背中合わせのベンチに座っていた。無言で書類を渡してきた後に、立ち去るはずの彼が携帯を耳に当ててそう言ってきたのだ。
名前を呼びかけるなんてルール違反だぞ、と思いつつも私の身体を気にかけてくれる言葉につい頬が緩んだ。
とは言え、この後のスケジュールを考えると仕方がないんだがな、と心の内で独りごちた後に「言い訳しても無駄ですよ」と、まるで心の声が聞こえたかのように返されたのには随分驚いたものだ。思わず二つ目の握り飯を喉に詰まらせそうになって、慌ててゼリー飲料で流し込む羽目になったくらいに。
「身体が資本なんですから、時間が無くてもきちんと食べてください。……明日、何か作っていきますから」
その言葉に、思わず振り返りそうになるのを必死に堪えたのを覚えている。
翌日、宅配業者を装って訪れた羽場が置いていった段ボール箱の中にはいくつもの保存容器に収められた惣菜類が入っていた。日持ちする物、しない物、冷凍保存が出来る物、それぞれに付箋が貼られていたそれらは、しばらくこの冷蔵庫の中で大きな存在感を示していた。
今、冷蔵庫の中にあるのは、ミネラルウォーターとアイスコーヒーのペットボトル、ゼリー飲料だけだ。
計画を思いついて以来、自宅での食事はこれと固形栄養食のみ。体力を落とすわけにはいかないと考えて昼食だけは庁舎の食堂で食べてはいるが、ろくに味を感じない食事を無理に詰め込んでいるだけだ。
忙しさにかまけてつい簡単な物で済まそうとする私を諌めてくれた彼は、もう何処にも居ない。
最後に自炊をしたのは何時だったのかも、もう覚えていない。出番の無くなった調理器具も少し前に処分してしまった。

最後の仕上げである自動起動用の設定ファイルを所定の位置に配置して、一息をついた。
あとは設定時刻が来れば、自動的にノーア経由で国際会議場を爆破するためのプログラムが走り出すはずだ。
指定した時刻は2018年4月28日11時25分10秒。間違いが無いかを確認するためにその時刻を変換するコマンドを入力して、表示された値に口元が緩んだ。
黒い画面の中で光る「1524882310」という数字の「88231」部分を、指の先でゆっくりと愛おしむ。モニターの仄かな熱と硬さに、あの日防護板越しに感じた羽場の手の温もりがよぎった。
私は彼の冷たい肌を知らない。物言わぬ身体に取り縋るどころか、その顔を見ることすら叶わなかったのだから。
私が知っている彼の最期の体温はアクリル板越しの、あの自分のものか彼のものかすら曖昧だった温もりだけだ。
表示されているのはコンピューターが時刻を処理するための値だ。サーバーの中で1秒ごとにカウントアップされているその数値に「88231」が入るのは、この桁に限って言うならば11日につき1回訪れる10秒間。それ自体は特に珍しいものでもない。
だが、公安警察による警備点検の時間帯にそれが存在することに気付いた時、その偶然に思わず息を飲んだ。彼が背中を押してくれているような、そんな気がしたのだ。あの頃のように羽場が共に戦ってくれるように思えた。
起爆時刻を考えるとガス栓を開けるには少々早い時刻だったが、それはプログラムの中で調整すれば良いだけのことだ。
現場のネット環境が整うのが遅くて大分冷や冷やさせられたが、ガス栓とガス報知器、IoT圧力ポットへの疎通は先程確認出来た。
実機を用いた圧力ポットの発火試験もクリアしている。ガス栓に関してはシミュレータを使用するしかなかった点に懸念が残るが、国際会議場の爆破計画についてはそれ以外の懸念事項は無いと言って良いだろう。
事前に建設会社とレストランの運営会社のサーバーから入手していた計画書通りにそれらが配置され、計画通りに事が進む事に安堵と共に何処か重苦しさを感じる。
私は、無意識にどこかで頓挫することを望んでいたのかもしれない。元々、舞台の構築を何も知らない他者に委ねたこの計画は、ほんの少しのイレギュラーで破綻しかねない危うさを孕んでいる。
例えばネットワークの開通が一日遅れたとしたら、設置される圧力ポットの機種が変更になったとしたら、ガス報知器がネットワーク対応ではなかったら。考えられ得る条件の組み合わせ次第では幾らでも頓挫する可能性はあった。
だが、舞台は整ってしまった。
ここに来るまでに犯した数々の罪名とその過去の判例が、不意に脳裏に浮かぶ。
積み上がった罪状は既に片手の指では足りないほどで、これだけでも実刑は免れないだろうが……それでも、殺人は特別だ。
殺すことが目的では無いから爆破時刻は公安の警備点検終了間際を設定したが……恐らく犠牲者がゼロと言うことはないだろうな。
私は明日、きっと人を殺すのだ。これまで数え切れないほど見てきた犯罪者達と同じように。
そう思った瞬間、キーボードの上に置いた指先が削除コマンドを打った。
画面に映るそれを睨み付けたまま、エンターキーの上で指先が何度も宙を掻く。置き時計の秒針が刻む音が、妙に五月蝿く聞こえた。
この設定ファイルを削除すれば何も起きない。今ならまだ引き返せる。だが……
黒焦げた焼死体、原形を留めない肉塊、恐怖と苦痛を留めたままの顔、過去の担当事件で見た中でも凄惨なそれらの記憶が不意に浮かび上がってくる。
「……っ」
それに呼応するように胃の腑からこみ上げてきたものを咄嗟に押さえ込んだ。口に当てた手の下で胃酸を必死に飲み下し続けるにつれ、不快な脂汗がじっとりと滲んでくる。
痛ましさと怒りしか湧かないあれを、明日……私が引き起こす、のか。
被害者達を時に嘲笑し、相手が悪いと責め、身勝手な理論で正当化する輩を心の底から侮蔑していたはずだ。同じ場所に堕ちるなど言語道断だと頭の中でもう一人の自分が喚きたてる。
「っ……」
またこみ上げてきたものに急かされて、傍らに置いていたペットボトルを手に取る。キャップに彫られた溝の上を脂汗に濡れた指が一度滑り、再度捻ってやっと開いたそれを呷る。流れ込んできた水の一部が、勢い余って顎を伝う。
生温い水の味が上ってきていた酸味を薄め、嚥下する喉の動きが妙にはっきりと感じられた。
「……はぁ」
嘔吐感を押し戻したのを確認してから、椅子の背に身体を預ける。部屋の照明がいやに眩しく感じられて両目を手で覆った。

「日下部さん」
私に全幅の信頼を寄せていると言わんばかりの朗らかで力強い声が、脳裏をよぎって私を苛む。

「羽場が自殺したわ」
あの日、全てを覆した報せが頭の中を木霊する。

私は……なにも最初からこんな復讐を考えていた訳では無かったはずだ。
奴らを決して許せないとは言え、仮にもこの国の正義を守る立場だ。
燃えたぎる程の激しい怒りも、身を切り刻むような悲しみも、どす黒くて底冷えのする憎悪も、それら全てを心の奥底の箱に押し込めて、暴れるそれを鎖で縛って必死に見ない振りをしていた。
越えられない一線の前で立ち往生しながら、それで良いと必死に自分に言い聞かせていた。
公安警察に骨抜きにされている公安検察の立て直しを(もっ)て奴らに楯突くことを、羽場に対するせめてもの手向けにしようと考えていた時も確かにあったのだ。

「10年前の、あの理想に燃えていた君はどこへ行ってしまったんだ?……岩井」
新人の頃に正義を志して熱い議論を交わした同志は、もはや同志とは言えない存在になっていた。
「……あなたこそ、10年も経ったのに何時まで青臭い理想論を振りかざしてるのかしら? 日下部君」
岩井も、それ以外の上司も、そして同僚達も……誰も、私の話など聞きはしない。
私の持つ正義を肯定して同じ目線で語り合えたのは、ここ数年ではもう羽場以外にはいなかったのだと改めて思い知らされた。
そして、公安検察の独立性を取り戻すために奔走すればするほど、長い物に巻かれる体質になってしまっている公安検察の不甲斐なさを改めて目の当たりにすることになった。

はくちょうが帰還する日を知ったのは、何処までも空回りする自分の無力さを痛感し始めた頃だ。
何が「負け知らずの敏腕検事」だ。誰一人、説き伏せることすら出来ないじゃないかと、自宅で酒を呷っていた時だった。付けっぱなしになっていたテレビから「5月1日」という決して忘れることの出来ない日付が流れてきたのは。
そのニュースは火星探査機のはくちょうが、5月1日に地球に帰還するというものだった。サンプルの入ったカプセルを探査機本体から切り離して太平洋上に落下させると言う図解を見ながら、仄暗い欲望が私の中で身をもたげるのを止められなかった。
火星という死の星から、羽場の命日にはくちょうが帰ってくる。
まるで、羽場が帰ってくるようじゃないか。
それならば、太平洋上などではなく私の上に落ちてくれば良いものを、と考えてから「いや」と頭を振った。
そうだ、どうせ落ちるのなら……あいつらの、そう警視庁の上にでも落ちれば良い。
その屋上で腕を広げて待ち受けるのだ。降りてくる羽場を。そうしたら私も、羽場のいる世界に飛び立つことが出来る。
そんな昏く甘美な想像と共に、正義を守る者として必死に蓋をして押し殺していた憎しみが、アルコールに浸された脳から滲み出てくる。
「NAZU、か……」

忘れもしないNAZU不正アクセス事件。
被告の味方を装ってはいるが端っから戦う気のない弁護士と信用のおけない公安警察の捜査資料。羽場から橘弁護士が弁護を請け負うとの情報を得て、警戒をしていた案件だった。
公安警察が出してきたアクセスデータに不審な点を見つけた私は、押収済みの被疑者のパソコンではなく、何故か提出されていなかったZーFRONT社のネットワーク管理用のサーバーのログにならば生のデータが残っているのではないかという考えを羽場との打ち合わせの場で漏らした。
そして私の依頼でそのデータを盗み出そうとした彼は、逮捕されたのだ。
彼を発見したのは警備員ではなく、偶然そこに居合わせた公安警察だった。無人のオフィスで彼等が真夜中にそこに居る合法的な理由などあるわけがない。大方、同じことを考えて更なる証拠の捏造でもしようとしていたのだろう。或いは……羽場の動きが勘付かれていたのか。

あの時の調書にはNAZUのネットワークにアクセスする手段が詳細に記載されていた。まさか、1年近くも経ってセキュリティホールがそのままということは無かろうが、参考にはなるだろう。私が担当した事件の調書だ。わざわざ手に入れるまでもない。
侵入に成功したとして問題はその先、だな。精密誘導システムとやらの目標地点を書き換える方法。おそらくその為のユーザインターフェースを備えているのだろうが、使用者にどの程度の天文学や物理学、宇宙工学の知識を要求するものなのか次第では安易に弄る訳にもいくまい。
それに書き換えたところで修正されてしまっては意味がないから、何かしらのロック方法も考えねばならない、か。
ニュースの話題は同日に開催されるサミットとそれに合わせて開業されるエッジ・オブ・オーシャンの国際会議場に移っていた。
警察が威信をかけて警備するサミットの会場。そしてその中心となるのは公安警察。例えばもし、この会場が爆破されたとしたら――

始めは、酒に惑わされた昏い妄想を楽しんでいるつもりだった。
翌朝には馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすのだろうと思いながら、やり場のない感情の発散をするつもりだった。
だが実際には、書き散らかした計画書は酔った頭から出て来た割には出来が良く、ついまじまじと眺めた後に計画の詳細を詰め始める自分がいた。
一度解放してしまった怒りと憎しみは、二度とあの箱には仕舞うことが出来なくなってしまっていたのだ。
大分昔、まだ経験が浅い若造だった頃、娘を殺された復讐に殺人を犯した被疑者に「それで娘さんが喜ぶと思うのですか」と問いかけて、被疑者を激昂させてしまった事を思い出す。
確かに私は、何も分かってはいなかった。今頃になってそれを痛感する。
故人の感情よりも何よりもただ、私の憎しみと憤りの行き場が無いのだ。例えこの先が破滅でも、このまま何も無かったかのように生きていくことなど出来はしない。
復讐という道を見つけてしまった感情は、ダムから放流される水のように勢いよく流れ始めてしまい、もはや止める術が見つからない。
外れてしまった(たが)は、何処かへ転がっていってしまった。

黒い画面の中でカーソルが明滅する。
職務上、死刑の求刑という形で間接的に人を殺したことはある。その執行も、カーテン越しという形式的なものだが何度か立ち会った。
だが、あれとは違うのだ。
この先に行くということは、あのカーテンの向こう側に立つということと同義。だが、それでも――

「人を殺める罪は、自らの命でもって償うとあの時決めたはずだ」
そしてこれは私の復讐であるのと同時に、この国の正義のために……必要な犠牲なのだ。

「民間人に被害を出さなければ良いだけのことだ」
自分に言い聞かせるようにゆっくりと、そう呟いた。
それが自分が辛うじて許容できる犠牲の範囲なのだと無理矢理に折り合いをつけてから、画面に映るウィンドウを睨み付ける。
黒背景のウィンドウに映り込む自分の顔は酷く醜く見えた。見たくないという衝動のままにキーを打ち込めば、削除コマンドは呆気なく消えてしまう。そのまま続けてログアウトを行い、勢い任せにサーバーにアクセスしていたノートパソコンを閉じた。

寝室に作り付けられたクローゼットの前で、緩めただけだったネクタイを外してハンガーに架ける。クローゼットの中もまた、書棚と同じように広い空間が空いている。
季節の終った服。彼を抱き締めた服。彼に抱き締められた服。もう必要の無い夏服。それら全てを処分し終わったクローゼットに残っているのは、当面の仕事着と最後に外で会った日に羽場が忘れていった春用のコートだけだった。
これもそろそろ処分しなくてはな、と思いながらハンガーから外して袖を通す。
体格が違う上に細身のコートは二の腕が入らず、前腕だけを通すと奇妙なマントのように腰の辺りで揺らめいた。
ベッドの上で背中から抱き込まれるのが好きだった。自分より小さな男だったのだと改めて思い知らされて、その滑稽さに口元が歪む。
袖口を鼻先に近付けても、羽場の匂いはもうしない。
彼は私の全てを書き換えていった。心の在り方も、この身体も。
彼の持つ鮮烈な正義が眩しくて、全てを奪いつくすような熱量を持つ瞳で求められるのが心地よかった。
全てを、差し出したくなる男だった。

中途半端に纏っていたコートを脱いでベッドに広げ、その上に倒れ込む。
疲れ切ってはいたが目だけは冴えている。おそらく今日もろくに眠れそうにないが、それでも体は休めておくべきだろう。
明日は休出の予定はないから昼前までは休める。アリバイという意味では無理にでも休出を入れたいところだったが、「最近、顔色が良くないです」と事務官に押し切られたのだ。
彼には苦労をかけることになるな、と申し訳なさが押し寄せてくるのは敢えて無視することにした。
気怠さをおしてベッドサイドに置いていたリモコンを手に取り照明を落とすと、窓の外は既に夜明けの気配がしていた。
夜明け前の深い青はいつも羽場の瞳と、それに映った自分を思い出す。もう二度と、あんな顔をすることはないだろうが。
カーテンを閉めるために起き上がる気にはなれないなと思いながら顔をコートに埋める。縋るような気持ちでその滑らかな裏地を撫でさする。
ここ一年で事あるごとに縋ってきた物言わぬそれは、行き場のない感情も浅ましい劣情もただ静かに受け止めてくれる。
先のことから逃避した頭に浮かぶのは、彼のことだけだった。

「……あと4日、か」
私の残り時間。羽場の一周忌に私はこの命と共に計画を終わらせる。
たとえ彼岸と此岸(しがん)に別れようとも私達は一心同体、そうは思っていたがこれでやっと羽場の傍に逝ける。この一年は彼の不在を思えばあまりにも長くて、何かを為すにはあまりにも短かった。
一心同体という言葉を、羽場はどう捉えていたのだろうか? という疑問がふと浮かび上がってくる。
初めてその言葉を出したとき、それはリスク管理と価値観の共有を表すものとして伝えた。危険で違法な作業を頼む以上、信頼感は何よりも重要だからだ。
「私はお前を決して切り捨てない」という宣言であり、そして決して切り捨てないからこそ羽場が窮地に陥ればそれは私に直結するのだと自覚させるために。
無くしてしまった正義の道に戻れたことに浮かれ、功を急いで無茶をしがちだった彼を(いさ)めるために。
私達の正義観は似通っていて、何かを問いかければ打てば響くように望んだ答えが返ってくる。それを確認する度に私達の結束は高まった。
まるでもう一人の自分のようで、だが自分よりもさらに純度の高い正義を持つ彼に魅せられた。

彼の危険は私の危険であり、私の信念は彼の信念であり……だが、相手の無事や幸福を自分の喜びだと思っていたのはきっと私だけなのだろう。
僅かな時間を積み重ねるような逢瀬が殆どだったが、それでもそんな時間を共に過ごすうちに、いつの間にか羽場が笑っていてくれることが自分の幸せだと思うようになっていた。
それに気付いた時、あの言葉に願望が混じり、そしてそれに縋るようになった。
「一心同体だ」と言えば彼はそれを肯定する、そのやりとりに密かな喜びを感じていた。
私にとって、彼は真に半身だったのだ。
それでもお前が居なければ生きていけない、などと口に出すことは出来なかった。
だが、もしあの頃それを伝えられていたなら、お前は踏み止まってくれただろうか? 絶望の淵でも私のために生きてくれただろうか? 彼にとっての私は、それだけの存在になれていたのだろうか?
身体を重ねていたからといって愛や恋の証明になると思えるほど若くもなく、身体を求められていたからといって自分の存在丸ごとを求められたと考えられるほどおめでたくもない。自分も男だ、若い男の性の身勝手さなど分かり切っている。
だが十近くも年の離れた、その上どこからどう見ても可愛げの無い長身で筋肉質のこんな中年男をどうして彼が抱き続けたのか、皆目見当もつかない。
……単に彼の趣味が悪かったというだけなのかもしれないが。
ただの性欲なのか支配欲なのか或いはそれ以外の何かなのか、その形がなんであれ強く執着されていると感じていたのはきっと私の思い上がりだったのだろう。そうでなければ、私が置いて行かれた理由がわからない。
私だけが、この身体の深い場所に消えないものを刻みつけられてしまった。胸にぽっかりと空いた穴は、羽場以外のものでは埋められそうにないというのに。

思えば、彼に出逢う前は他者の存在を自分の拠り所にすることなど一切無かった。
背中を追い続けた父がそうであったように、反社会的人間達からの恨みを買うことも、上の人間から煙たがられることも辞さずに、己の正義を貫き通すことを良しとしていた。(いたずら)に群れることもなく、ただ自分の信念だけを支えに生きてきた。自分の人生よりも多くの日本人の人生の方がずっと大切だと、そう自分を律しながら。それが検事としての務めだと。
それでも司法修習所の教官に任官された頃にはそれらを貫き通すことの困難さに直面することも多く、若い頃ほどには真っ直ぐではいられなくなっていた。
権力に媚びずに真実と公正さに拘る自分が「扱いにくい」と陰で評されていることはよく知っている。
あの異動は現場に拘る自分への報復人事の気配すらしたが、そこで羽場に出逢えたのは私にとっては僥倖(ぎょうこう)だった。だが、彼にとってはどうだったのだろうな……

司法研修所から地検公安部に出戻って、相変わらず事あるごとに圧力を掛けてくる公安警察にうんざりしていた頃、以前は見かけなかった一人の若手弁護士の動きが目に留まった。
橘境子弁護士。ここ数年で公安事件を多く担当し、その全てで負けている。そしてその事件は公安警察から圧力を受けたものが殆ど。
元より公安事件は検察側の勝利が九分九厘決まっているようなものだが、実際に相対(あいたい)してみると彼女の弁護はいつも小さな違和感があるものだった。
表向きは被告を弁護しながらも、ここを突けと言わんばかりの小さな論理の穴をさり気なく見せつけてくる。追求せざるを得ないそれを突けば、裁判は被告にとって都合の悪い方向にするすると流れていく。それも一度だけの話ではない。正直なところ気味が悪かった。
無能なのかと思って調べたが刑事部担当の事件ではそのようなことは無く、逆転無罪を勝ち取ったことすらある。その経歴も、学部在籍中に司法試験を突破し、弱冠23歳で弁護士資格を取得した後に25歳で独立というもので、無能どころかかなりの才媛であることは疑いようもない。
そして彼女のあの行動が意図的なものだと気づき始めた冬の終わり頃、司法研修所の教え子であった羽場に再会したのだ。

「日下部教官?」
地裁の謄写室から出てきた人影に久しぶりに聞く敬称で呼ばれて顔を上げると、彼が立っていた。
その姿に、一年前に見た研修所での鮮烈なワンシーンを思い出して目を見張る。
「君は……羽場君か」
「お久しぶりです。覚えていてくださったんですね。嬉しいです」
眩しそうに破顔する姿に、何故か陰のような引っ掛かるものを感じた。研修所時代の彼は、遠目に見ても陽の塊のような存在感を放っていたというのに。
自分を見て一年前の苦いものを思い出したのかと一瞬考えたが、それならばわざわざ私に声を掛けることなどしないだろうと思い直す。
「ああ。しかし……何故ここに?」
黒のコートからグレーのスーツを覗かせて書類鞄を携えた姿は仕事中に見えるが、司法研修所を罷免になった彼は今は法曹界とは関係のない場所で生きているのだろうと思っていた。
だが意外なことに、「今はここで事務員をしているんです」と手渡された名刺には「橘境子弁護士事務所」と記載されていた。

教え子と言っても、彼が司法修習生だった頃にはそれ程付き合いがあったわけではない。
集合修習の担当教官ではあったが、彼は大勢いる担当修習生の一人に過ぎなかったし、羽場の方も希望進路ではない検察の教官には積極的に話しかけてくるようなことも無かった。
そんな彼を良く覚えていたのは、修了式のあの騒動と、懇親会で「任検(にんけん)する気は無いのか」と問いかけた時の回答が印象的だったからだ。
そして、検察に欲しいと思った彼の優秀な成績で裁判官に不採用だった理由も。
検察官も同様だが、裁判官の採用において成績や適性が充分であり、採用枠が空いていたとしても、採用に至らないことは稀にある。
原則的に不採用理由は当人にも明かされることはない。教官室で裁判教官達が嘆いているのを漏れ聞いて、その残酷で抗いようもない理由で落とされた者がいるらしいとは思っていたが、部外者である私にはそれが誰なのかは知りようもなかった。
志望者本人の努力では決して覆ることの無い不採用理由。身辺調査で近親者の前科や、反社会的組織への関与が確認された場合がそれだ。本人には全く問題が無くとも、採用することが出来ない。
その不幸な不採用者が羽場だと確信したのは、あの修了式の騒動の時だった。

羽場と再会した日の晩、仕事帰りに彼を行きつけの店に誘ったのは以前から気にかかっていた橘弁護士の関係者であるということもあったが、世間話の合間に一度垣間見えたどこか思い詰めたような顔が気になったからだった。
彼のその様子は、何かを話したがっている人間のそれだということは容易に見て取れた。
今更罷免についてどうこうということは無いだろう。私に彼の罷免を取り消すような権限が無いことはわかっているはずだろうし。
もしかしたら橘弁護士の件ではなかろうかというのは私の希望的観測だが、もし彼が橘弁護士の行いを知っているのなら、看過することなど出来る訳もないということは修習生時代の様子から推測出来る。
元より話したがっている者の口を開かせるのはさほど難しいことでもない。
必要なものはそれを漏らすことに対する大義名分あるいはそれが不可抗力であったという言い訳と、漏らしたことで不利益を被ることは無いという安全の保障。そして――

「あの、日下部教官」
緊張と逡巡を孕む少し硬めの声と共に、空になったグラスが置かれた。俯いてロックグラスを握る彼の両手の指の間から、残った氷を通過した光が良く磨かれた黒のカウンターテーブルに零れ落ちる。
「今はもう教官ではないから、「教官」は要らないぞ」
同じ酒が入っているグラスを傾けながら、横に座った彼の顔を見やった。
私が頼んだウイスキーと同じ物を注文したのは彼だが、酒の力を借りるために無理に強い酒を選んだというわけではなさそうだなと、そのあまり変わっていない顔色を確認して思う。
そもそも緊張しながらも一口目で一瞬表情を緩ませていたのだから、単純に酒の好みが近いということか。
「……では、日下部検事」
意を決したように顔を上げた彼に、ニヤリと笑いかける。
「今は仕事中ではないと思うのだが?」
その夜色の瞳を覗き込むと、面食らった様子で彼は目を瞬かせた。
「ええと……日下部さん、で宜しいでしょうか?」
少し困惑したように目尻を下げながら返す彼に、今度は柔らかめの笑みを返した。
「ああ、それで構わない」
「では、日下部さん」
その呼びかけに目線を送ると、彼は逡巡しているかのような素振りを見せた。
「あの……」
「どうした?」
「あ、いえ……この店は良く来られるのですか?」
明らかに、言いかけていた言葉とは別のものであろう質問だった。
「たまに、だな。昔、検事の先輩に連れて来て貰ったんだ。それ以来時々来ている。最近は後輩を連れてくることもあるな」
そう簡単には話さないか、と考えながらそう返す。
「今日は、何故私を?」
「大きな枠で言えば君も法曹界の後輩、みたいなものだろう? まあ、これも何かの縁だと思ってな」
「そう、ですか……」
彼の手に握られたグラスの中で、氷がからりと揺れた。
「迷惑だっただろうか?」
「そんなとんでもない! ありがとう、ございます」
グラスに残った最後の一口を呷る。酒の熱さが喉を下りその芳香が鼻に抜けるのを味わいながら、こちらを見る彼の表情から緊張が抜けたことを察して一息をつく。

――相手の口を開かせるために必要な要素は大義名分あるいは正当化と安全保障。そしてそれを後押しするのは、話す相手との心理的距離の近さだ。

空になったグラスをコルク製のコースターの上に戻しながら、ちらりと背後を窺う。
店に入った時には埋まっていた奥のテーブル席が空いているのを確認してから、カウンターの奥でグラスを磨いている初老の男性を見やった。
「マスター、奥の席を使わせて貰って構わないだろうか?」
この席は心理的距離を詰めるのには良いが、内密な話には向かない。
無言で頷いたマスターに、礼と共に次の一杯を注文してから席を立つ。軽く肩を叩いて促すと、彼もそれに従った。

テーブル席のソファに差し向かいで座り、酒を舐めながらの雑談は研修所の頃の話や昨今の社会情勢の話、守秘義務に反しない程度の仕事の話と、とりとめもなく流れていく。
研修所時代の話や法の話は彼の傷に触れるかと躊躇したが、むしろ彼の方が積極的に話を振ってくることに驚いた。
最近判決の出た重大事件に対する見解を求められ、それに応えるとそれを踏まえて更に深い質問や彼の見解が返ってくる。
若手の頃に同期達と熱く交わした法律談議を思い出させるやり取りに、知らず知らずのうちに気分が高揚するのを感じながら、一年前にうっすらと思った「彼の正義は私のそれに似ている」という印象は間違いではなかったのだと確信した。
そして、以前から漠然と半ば冗談のように考えていたアイディアに、彼はうってつけなのではないかと思いついてしまったのだ。

「ところで私は職業柄、口は固い方なんだが」
酒が残り少なくなってきた頃合いを見計らって、そう切り出した。
「え? ……はい」
キョトンとした顔でこちらを見る彼に、軽い笑みを向ける。
「君は、何かを私に話したがっているのだと感じたのだが、違うだろうか?」
単刀直入に切り込むのが、彼に対しては有効ではないかと判断してのことだ。
「そうだな、例えば……」
その表情を見逃さないよう、真正面からその瞳を見据えた。
「君はもしかして、橘先生が何をしているのか知っているんじゃないか?」
その瞬間に目を見開いた彼の表情で、疑惑が確信に変わる。
「やはり、橘先生はわざと負けているのか」
低い声でそう問う。
「……はい」
グラスを握る指をピクリと動かし、眉を寄せて何事かを考える素振りを見せた後に彼は渋々と、といった様子で肯定した。
それを見て、やはりあれは人畜無害に見せかけたとんだ女狐だなと苦笑が浮かぶ。
「公安事件に限ってということは、公安警察の差し金か?」
「公安警察であるという確証はありませんが……おそらくは」
「そうか……君はどうしたいんだ? 彼女を告発したいというのなら相談に乗るが」
それができる心境ならば、彼はとうに話を切り出しているだろうなと思いつつもそう問い掛けた。
「ありがとうございます……ただ、自分でもどうしたいのか決めかねているんです」
やはりそうか、と思いながら胸の内で言葉を選ぶ。
「ふむ。だがそれは……君には似合わないのではないだろうか」
ポーカーフェイスが苦手らしい彼には、自分の提案は難しいかもしれないと一瞬躊躇したが、それでも私は彼が欲しいと思った。思ってしまったのだ。
「……似合わない?」
虚を衝かれたような顔で、彼が言葉を返す。
「ああ。去年の修了式の時、私もあそこに居たのだがあの時の君なら恐らく迷いもしな――」
「あれは忘れてください! ……お恥ずかしい話です」
私の言葉を遮って、彼が気恥ずかしそうに顔を背ける。
「いや、とても忘れられそうにないがなあ。あの眩しさは」
「まぶ……しさ、ですか?」
怪訝そうに眉を寄せてこちらを見た彼に、一つ頷いてから言葉を続ける。
「ああ。長くこの仕事をしているとな、多くの者が忘れてしまうものがある。正義に身を捧げるという覚悟と、己の正義に対する自負だ。……恥ずかしながら私自身も忘れかけていた」
新人の頃には誰もが多かれ少なかれ持っていたそれは、多忙さと現実の厳しさに磨り減らされてしまう。組織の中で上手く生きていくためには、時に自身の正義を忘れた振りをすることが必要で、特に家族という守るべき者を得た同期達は早々にそれを手放していった。
彼等を横目に見ながら、ああはなるまいと己の正義を守り続けて来たつもりだった。だが違っていた。
「あの時の君を見て、忘れかけていると気付いたんだ」
正義を志し、それを貫くことを理不尽に奪われようとしている時に、自らの保身すら顧みず、なり振り構わずただ真っ直ぐにぶつかっていく。あの姿を眩しく、そして美しいと思ったのは、私自身の己の正義に対する姿勢が彼には及ばないからだ。守ってきたはずの己の正義がいつの間にか磨り減って、くすんでしまっていたことに気が付いてしまった。
「あれ程までに純粋で苛烈な正義を、私は他に知らないと思った。やり方は確かに誉められたものでなかったが、あの憤りは君の志が高いがゆえのことだろう?」
訝しげだった彼の表情が、面映ゆげに紅潮していく。
「それと、君は覚えているだろうか? 集合修習開始時の懇親会で私は君に「任検する気は全く無いのか」と聞いたことがあるんだが」
「え……?」
「君の答えは「裁判官以外を目指すつもりは全く無い」と、はっきりしたものだったよ。どちらにも肩入れせず、上から圧力をかけられることも無く、良心に反した弁護をすることも無く、ただ己の良心にのみ従って真実を見極め、公正な判断を行うことのできる存在が裁判官だと。検察の起訴内容を鵜呑みにする裁判官が多いことも知っているが、己の職責を真摯に果たすことで冤罪を防ぐ最後の砦にもなれる。それこそが正義であり、自分の目指す道だと言っていた」
任官する前の部署で圧力にうんざりとしていた身としては痛いところを突かれた答えで、苦笑いをするしかなかったのを思い出す。
現場を知らない若者の戯れ言と切り捨てることは出来なかった。
その考え自体は恐らく、私も読んだことのある元裁判官の手記に影響されてのものなのだろう。
理想的ではあるが困難な道だ。現にこちらの出した起訴内容の真偽を真剣に検めようとする裁判官はそう多くはいない。信頼されていると言えば聞こえは良いが、彼等の関心は大抵は量刑に集約されている。
それも彼等の多忙さを考えれば仕方のないことなのかもしれないが。年数を重ねた検事が日々の忙しさに振り回されて理想を失っていくのと同じように。
「現役の検事で、しかもこれから教わる教官に面と向かってそう言い切る胆力はなかなかに印象的だったよ」
法廷で会いたいものだと思ったんだがな、という言葉を飲み込み、手の中のグラスに視線を落とす。
きっと立場の違いはあっても、同じ志を持つ者として尊敬のできる裁判官になっただろうに。
「覚えています。失礼なことを言ったのに、教官はその時「法廷で会えるのを楽しみにしている」と仰ってくだった。……私の力が至らなかったせいでそれは叶いませんでしたが」
ああ、彼は今もまだその理由に気付いていないのだなとその言葉と表情で知った。
恐らく問題となった近親者との親交が薄いのだろう。不祥事を起こしたり暴力団や過激派のような厄介な組織に関わる身内を、我が子から引き離す親の行動は当然だ。ただ、彼の希望進路の障害になることを知らなかったのか、言えなかったのか、それによって彼は大きな傷を負ってしまうことになってしまった。
君のせいではないのだ、と言ったところで何の救いにもなりはしないだろうし、偶然漏れ聞いた話であってもこれは職務上知り得た秘密だ。言うわけにもいくまい。

「私から裁判官の使命を奪うなど許せません」と言い募ったあの時の彼の姿を、大抵の者は個人的な視点からの幼稚な我が儘の発露だと思っただろう。
だがあれは、冤罪を見逃さず、真犯人を野放しにすることもなく、被告人の不当な不利益を見逃さないという姿勢を持つ裁判官は稀有な存在だという認識のもと、その数少ない裁判官となる自分を失われてはいけない存在だと客観視してのことだったのだろう。
そして恐らく、周囲から見ても採用間違いなしだと思われていたにも関わらず不採用であったことに、彼は何かしらの不正――例えば自分の代わりに不採用であるはずの者が不当に採用されたといったような――を感じ取った。
だからこそ彼は「許せません」と言ったのだ。真実はどうあれ、不正の匂いを感じて彼の正義に基づいて糾弾しようとしたのだ。
何者にも臆することなく、自らの正義を貫く。その姿は、高潔で美しかった。

「それにしても、そんなことまで覚えてらっしゃったんですね」
「記憶力には自信があるからな」
照れ臭そうな彼に、笑いかけながらグラスを傾ける。
「ところであの時聞いた君の考えからして、そもそも弁護士事務所で働いているというのが大分意外に感じるのだが。弁護士自体、嫌っているような節がなかったか?」
そう問いかけると彼は困ったように苦笑した。
「嫌いとまでは言いませんが、確かに弁護士は法曹三者の中では一番なりたくなかった職業です。勿論、素晴らしい方もいらっしゃることは理解していますが、依頼者の利益を第一とする以上、私個人の正義を貫くのは難しい」
手にしたグラスの中を覗き込むように視線を移した彼の声が沈んでいく。
「今の職場は就活中に知り合った知人に紹介されたんです。法曹界以外で就職するつもりだったので最初は断ったんですが、あまり上手くいかなくて」
その手の中で、僅かに残る琥珀色に浸かった氷がその傾きに合わせて滑る。
「まあ当然ですよね。この歳で就業経験が無い上に経歴を見れば何故法曹界で無いのかと疑問に思われる。正直に話せば問題のある人間だと思われますし、司法試験に受からなかったから諦めたのだと嘘をついても企業は志望者の氏名をネット検索しているみたいですぐにバレました。自分のSNSからはそういった情報を消しても、それが逆に不自然に見えて周囲のアカウントまで調べられてしまったようです」
「……そうだったのか」
プライドが高いように見える彼が、自分がなれなかった法曹の、それも弁護士の下について働いているというのは意外だったが、あの後やはり大分苦労したらしい。
「年下ながら尊敬のできる女性だと……最初は思っていたんです。とても聡明で、度胸があって、明るくて、落ち込みがちだった私を何かにつけて気にかけてくれて」
テーブルに肘をついた彼の頭が俯いていく。
「彼女を支えることで、法曹界に関わり続けるのも悪くないのではと思い始めていました」
額をその両手で鷲掴むようにして表情を隠した彼の声に、隠しきれない嘆きが滲む。
「ですが私は……気付いたらそこで、依頼人への裏切りという悪事の片棒を担いでいた」
その頭を突き破ってしまいたいとでも思っているのではないかというほどに、震える指がそのこめかみに食い込むのが見て取れる。
弁護士にとっての禁忌であるそれは、彼の信念とは真逆の所業だ。
検察側が圧力に負けた、或いは警察が提出した証拠の不備や捏造を見抜けなかったという前提が必要とはいえ、被告の味方であるべき弁護士が意図的に冤罪を作り上げ、あるいは不当な量刑を科することに加担するなど言語道断。
そもそもそれ自体あってはならないことだが、そのようなことが起こった時には最後の砦として、法の番人として尽力すると裁判官を志していた若者が、間接的にとはいえそれに加担させられるとはなんという皮肉か。
以前から燻っていた橘弁護士とそれを背後で操る公安警察の輩に対する憤りが膨れ上がると同時に、彼の姿に胸が痛む。
「そこがそんなに辛いのなら、何故辞めない?」
その痛ましさについ、その震える手をとって慰めたいような衝動を感じながらも静かに問いかけた。
「それは……拾って貰った恩もありますし、1年も経たずに辞めたとなると再就職もさらに難しくなりそうで」
顔を歪ませながら薄く笑う彼に、ふとある可能性に気付く。下世話な興味に過ぎないとそれを意識から外そうとしたところで、そうではないなと思い直した。
これは、これから持ちかけるつもりの提案の前に確認しておくべき事柄だ。
「不躾な質問になるが……橘先生に惚れていたのか?」
その問いに、一瞬目を見張った彼が口元を歪ませる。
「そうですね……付き合ってはいます。三ヶ月位前に、こちらから告白しました」
二人だけの小さな事務所で共に働く男女のことだ。大いにあり得るだろうとは思ったが、その言葉を聞いて何故かざわりとした奇妙な不快感が胸に走った。
「ですが……今はもう、自分の感情がよく分かりません。弁護士としては心底軽蔑していますが、女性としては魅力的だとも思う。見限ろうとしたのに、結局踏み切れなかった」
己の信念と情の狭間で苦しむそんな彼を見ながら、君には悪いがいっそ好都合ではあるなと功利的な自分が顔を出す。
「先程日下部さんはああ言って下さいましたけど、今の私はつまらない人間ですよ。夢を絶たれて、ただ日々の生活のために働いて、心情的には看過できない不正を見つけても断罪することもできない。でも、もしかしたら……これが大人になるということなんでしょうか」
そう言って、彼は自嘲するような歪んだ笑みを浮かべた。
「……私はただ、法曹界への未練を捨てられないだけなのかもしれません」
ぽつりと呟かれた言葉は、何処か空々しく響く。
「それは違うのではないか? 未練があるとすればそれは法曹界にではなく、君の正義を実現する道に対してだろう」
「やめて下さい!」
強い口調で遮ってきた彼の目には、薄らと涙が浮かんでいた。
「もう、どうやったってそこへは戻れないんです。そんな未練は……気付くべきじゃない」
それを荒々しく拭いながら吐き捨てられた言葉に、やはりなと思った。聡い彼が自らの感情に気付いていない訳がないのだ。
橘境子は大馬鹿者だ。落ち込む彼を気にかけていたそうだが、彼が一番望むものを全く理解していない。それどころか、こんなにも彼の傷に塩を塗り込んだ。
だが、私なら。
「羽場君」
あの日見た彼の光を、もう一度見たかった。自分になら、それを再び呼び覚ます策があると思った。
私なら、彼が望む道を用意することが出来る。
「君を見込んで、一つ提案があるのだが――」

自覚は無かったが私はきっと孤独だったのだろう。あの時の衝動は、彼ならその孤独を埋めてくれると無意識に予感したものだったのかもしれない。私の傍に共に立ってくれる彼が、同じ目線で戦ってくれる彼が特別な存在になっていったのは必然だったのだと思う。
他の多くの日本人の人生よりも、羽場の人生の方が、命の方が私にとってはずっと大事になってしまっていたのだと思い知らされたのは彼が居なくなってからだった。
「その志は私も同じだ」という言葉に縫い留められてしまったあの時、私が一番守りたいのはお前なのだと言えていたら何かが違っていただろうか。
私が常に言っていた言葉だからこそ、同じ事を言う羽場を説得することが出来なかった。
彼が私に捧げてくれているものが崩れるのが恐いと、そんな些末事に囚われて彼の存在そのものを失ってしまった。
「多くの日本人」の中で、一番守りたかった人は羽場だったというのに。

「では日下部さん、私のことは「羽場」と呼び捨てて下さい」
彼が協力者になることを承諾してくれた後、彼はそう言った。
あの時彼は笑っていた。直前まであんなにも辛そうにしていたのが嘘のように。
私は彼を一時的には救ったのかもしれない。だが、彼を死に追いやった遠因が、私であることは確かだ。

「……日下部さんは、気にならないんですか?」
何時だったか、薄闇の中でぽつりと呟かれた言葉が不意に浮かび上がってくる。
「何をだ?」
胸の上に乗せられた頭の、その少し長めの髪の手触りを楽しみながら余韻に浸っていた時のことだ。

「私が調査のためとは言え、境子とも寝ていることについてです」
少し不機嫌そうな彼が、上目遣いでこちらを見ながらそう言った。
彼と寝るようになったきっかけは、残念ながら正確なところを覚えていない。羽場が言うには、私が誘った……らしい。所謂、酒の過ちというやつだったが、お互いに具合が良かったのかその後も度々続いていた。
自分が抱かれることを強請(ねだ)ったということも、それが思いの外よかったことも余りにも意外だったが、過去に付き合ってきた女性達との情事で微妙な物足りなさを感じたことを思い返せば妙な納得感もある。
……いや、あれ以前にも何度か羽場に抱かれる夢を見て困惑したことがあったか。恐らく、私自身の願望としては元から密かに存在していたものなのだろう。
相手が男だからなのか、羽場だからなのかは正確には分からないが、それを確かめるつもりなど毛頭ない。
ただ、私が求めていたのは羽場なのだということだけは確信できた。
「なんだ、そんなことか」
彼を絶望の淵から掬い上げたのは私だ。橘境子ではない。私だけが羽場の、その正義を渇望する心を満たしてやれる。
その自負がある限り、彼女に嫉妬心など生まれようもなかった。
いや……厳密に言えば、胸の奥を爪の先で引っ搔く程度の不快感が無いわけではない。だがそれは些末事だ。羽場が彼女と関係を持つことで情報が引き出せるなら、そちらの方がよほど利がある。
「そんなこと、って」
私と羽場の間で一番重要なのは、私達の正義を全うすることだ。そして、それこそが私と彼を強く結びつけてくれる。
「お前が誰と寝ていようが、お前と一心同体なのはこの私だろう? それに、それが私とお前の正義のためであるなら仕方のないことだと思うが」
第一、羽場と彼女との関係が切れたら羽場を協力者としている意味も半減するのだ。そうしたら、きっと彼は今以上に危険な調査を望むだろう。
「そういうことじゃなくてですね……」
口を尖らせる彼に苦笑しながらその後頭部をくしゃりと撫で、引き寄せる。
その唇に軽く口付けてから、その首筋から背のラインをなぞりつつ下唇を食むように愛撫する。
燠火(おきび)のように燻っている性感を焚きつけてやろうという魂胆に気付いた彼が、一度身体を引き離して「そうやって誤魔化すんですね」と寂しげに笑った後、私に覆い被さってくる。
十近くも年下の男に「私以外を抱かないでくれ」などと取り縋れるわけもない。しかも自分が頼んだ調査のための行動を咎めるような、そんな理不尽なことは。
ただでさえ、お前に幻滅されないように必死なんだ。……そんなみっともない真似が出来るものか。

次々に浮かび上がってくる過去の光景に、走馬燈にはまだ早いんだがな、と身を起こしながら身体の下に敷いていたコートを引き抜いた。
その塊を一度抱き締める。再度仰向けに寝転がり、それを広げて両肩の辺りに手を差し入れて掲げてみる。
このコートを着た羽場に押し倒された事もあったなと思い出す。だが、空っぽのコートは彼の不在を強調するだけだ。
「これも捨てなければ、な」
ぱたりと腕を下ろし、それを抱き締める。
最後に残った、私の思い出の品。
ここに来るまでに、私の人となりを示す全ての物を処分してきた。
誰かに余計な迷惑をかける事と、犯行動機について間違った推測をされる事を避けるために始めた事だが、それには意外な効果もあった。
思い出の物を捨てる度に恨みの感情が研ぎ澄まされていくのを感じたのは、この世界との繋がりや未練といったものを一緒に捨てていたからなのかもしれない。
両親の形見を処分した時に自分の親不孝さを申し訳なく思うことを止めたように、最後に残ったこれを捨てた時にはきっと、迷いも全て捨てられるのだろう。
もうすぐ羽場の元に逝く自分にはもう、必要がないものだ。逆説的に言えば、これを捨てることで羽場の元に逝けると確信できる気がする。
いや、そう思いでもしなければ手放すことが出来ないのだなと気付いて、「あと少しだけだ」と呟きながら彼の抜け殻に顔を埋めて目を閉じた。

頬を撫でる微かな風に気付いて、目を開く。
「ここは……?」
気が付けば、私は殺風景なコンクリートの床の上に居た。
屋根も壁も無く、上を見上げれば薄くたなびく雲が月に掛かっている。
床の端の辺りに幾つか見える赤いランプの光と、足下に白線で描かれた大きなHの文字。それを見て、ここが何処かの屋上で、あの光は航空障害灯だと気が付いた。
訳も分からぬままその縁まで歩くと、その高さに身が竦むのを感じる。
眼下に広がるのは堀に囲まれた緑地と、そこから少し視線を動かした場所に、見慣れた赤レンガ造りの建物。
「警視庁の屋上、か?」
そう呟いた直後、背後でカッと光が射した。
夜間にはあり得ない光量に驚いて上を見上げれば、まばらな星空の中を一際大きくオレンジ色に輝く光が線を描きながら横切って行く。
その光を知っている、と唐突に思った。何の根拠もなく、ただ確信だけが湧き上がる。あれは彼だ、と。
「羽場……」
思わず呟いた言葉に呼応するかのように、その巨大な火の玉は一度光を強めた。
「羽場……ここだ! 私はここに居る! 早く帰ってきてくれ!」
その呼びかけに気付いたかのように、その光は軌道を変えてこちらへ近付いてくる。
見る見るうちにそれは大きくなり、視界を全て覆うほどの光量の中に、確かに人影を見たと思った。
精一杯に腕を伸ばし、爪先立って、それにもう少しで手が届くところで、とても懐かしい匂いを嗅いだ気がした。全身を包み込む温かさに目が潤んだ。その瞬間――
「なっ……?」
何者かに右足を掴まれた感触と共に、ずるりと足元が沈み込む。
落下するような、水の中に沈められるようなそんな感覚に思わずぎゅっと目を瞑った。
あるかもしれない衝撃に耐えようと咄嗟に身構えたが、暫く待ってもそれは来なかった。水の中で揺蕩うような不思議な感覚に目を開けて、目の前に広がる光景に息を飲む。
「なんだ、これは……」
まるで巨大で透明な地球儀の中に沈められたようだった。頭上には裏返しになった日本列島が浮かび、海の代わりに薄雲がたなびく空が広がっている。
「どういうことだ?」
呆然としているうちに、その光景がゆっくりと小さくなっていくのに気付いてハッとした。
沈んでいる。いや、下に引っ張られている。
足元を見ると、黒いモヤのようなものが纏わり付いているのが目に入ってゾッとしたものが背筋を駆けた。
「離せ!」
思わず自由な方の足でそのモヤを蹴ったが、全く手応えがない。
その遙か下方には、赤茶けた大地。そこに向かって緩やかに下降しながら、躍起になって足をバタつかせていると急にそのモヤが広がり始めた。
「な……っ⁉」
見る見るうちに私を飲み込むほどの程の大きさとなったかと思うと、それが収縮するように人の形に近付く。次の瞬間、そこには私と同じ位の背丈の男が立っていた。
丁寧に撫で付けられた白髪交じりの黒髪、僅かな乱れすらないブラックスーツの襟元には秋霜烈日のバッジが輝いている。その顔は紛れもなく――
「わた、し……だと?」
見慣れている、だが違和感を覚える顔はそれが鏡ではないことを知らせていた。
「お前の正義は何処へ行った?」
静かに紡がれた問いが、牙を剝く。
「……っ、何処にも行ってなどいない!」
「どうだか。人を殺してまで通す信念など、正義であるものか」
鋭く抉るような言葉と共に、それは薄く笑った。
「お前に、何がわかる!」
「わかるとも。私はお前だ。今まで築き上げてきたお前の全て、お前の正義だ」
ついとその男が上を指さした。
裏返しの日本列島。
私が大切にしていた人達の住む島。その中枢に赤い光が移動して、そして一度瞬いた。
その光は美しくて、そしてどこか禍々しい。
「お前の正義は今、死んだ」
断罪する声が重々しく響き、その指が私の喉元に伸びる。
「お前が、お前自身が殺したのだ」
その両手が首にかけられても、私は逃げることが出来なかった。
「それでも……それでも、わた、しはっ!」
息苦しさに苛まれながら、言葉を絞り出す。
「は……ばの、いな、い……せかい、は……っも……う」
湧き上がる涙で歪んだ視界の中で、その男が痛ましそうに眉を顰める。
ああ、確かにお前は私だ。お前だって、羽場の死を嘆いている。
そうだ、もう耐えられないのだ。彼の不在にも、身に余る程の恨みを持ち続けることにも。
首を絞められたまま、彼の視線から逃れるように目を逸らすと、先程よりも近くなった大地が見えた。
赤い水面が点在し、そこかしこで火の手が上る異様な光景は、何処かで見た地獄のイメージそのままだった。

何処か高所から落ちるような感覚にビクッとして目を開く。
そこにあるのは見慣れた寝室。
「夢……か」
先程の夢の中の光景を反芻しながら、私はまだ迷っているのだなと自嘲した。腕の中のコートを抱き締めて、やはり復讐など私には無理なのではないかと考えてからハッとする。
窓から射し込む日は高く、既に朝という時間を過ぎている。それに気付いてチェストの上の置き時計に視線を向けて、そのまま血の気が引くのを感じた。
「12時20分……」

足が縺れるのを必死に動かしてやっと辿り着いたリビングで、ローテーブルの前にへたり込んだ。
テレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。
画面が表示されるまでの時間がやけに長い。ドクドクと(はや)る自分の鼓動が五月蝿い。
最初に映ったのは炎だった。そして轟音。
「警察官数名が死傷したとのことです。繰り返します――」
「死傷」と確かにアナウンサーはそう言った。少なくとも1人は死んだ。……私が、殺した。
これが、私の……望んだ結果か。
「は……ははは……はっ……ぁ」
乾いた笑いが洩れる。
実感など、無いに等しい。
だが、折れた鉄骨と炎の向こうで無残な姿を晒す建物は、ここ数ヶ月で何度もニュースに映っていた国際会議場だ。12時15分に起爆するようにプログラムを書いたのは私だ。
「っあ、あああああああああっ─!」
私が、私がやったのだ。公安警察に、目にもの見せてやった。これは私が望んだ復讐だ。悪いのは羽場を殺した公安警察だ。これはこの国の正義のための犠牲だ。羽場と同じように、あいつらも正義のために犠牲になるべきなのだ。これが私の望みだ。私が望んだことだ。それを達成したのだ!
なのに……だというのに、何故こんなにも苦しい。復讐を成し遂げたというのに何故、全く溜飲が下がらない!
思わず胸を掻きむしり、喉が詰まる感覚と共に涙がぼろぼろと溢れ出る。
「こんなものは正義ではない」と、夢で見たあの自分が冷酷な声を投げつけてくる。
「はば……わた、しは……っ、私はっ!」
ガリガリとカーペットに爪を立てる。縋れるものなど、何処にも無かった。






罪は、正しく裁かれるべきである。無辜の人を断罪することなく。真犯人を野放しにすることもなく。
量刑は多過ぎることも、少な過ぎることもなく公平に。
それが、私達の目指した正義だった。

天網恢々疎にして漏らさず。
天罰を待たずとも、罪多き私には死罪こそが相応しい。

だからこそ、もう止まれない。警視庁にはくちょうを堕とす計画を、止めようとは思えない。
恨みは消えない。そして、彼の帰還を待ち侘びる心も止められない。

腐りきった公安検察に、断罪などされたくはないのだ。
私が認める真の正義は彼の正義。あの羽場の正義に裁かれたいと願うのは、私には過ぎた願いなのかもしれない。

それでも……(はくちょう)こそが、私の刑の執行者であって欲しいと、そう願っている。
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