「原子雲の下に生きて」と題する本があります。
この本は、被爆後4年目に書かれた長崎の子供達の作文集です。
昭和24年に永井隆博士によって刊行されたものです。
この作文集の中に萩野美智子さんという当時10歳であった子供さんの、次のような作文があります
それは、ざっと次のような内容です。
その日、萩野美智子さんのご両親は、朝から外出していました。
美智子さんたち兄弟は、家の2階でママごとをしながら無心に遊んでいましたが、11時の時計が鳴って、しばらくした後、美智子さんが何気なく窓の外を見あげたその時、ピカリといなづまが光ったのです。
「あっ」と叫んだ、次の瞬間、美智子さんたち兄弟は、家の下敷きになっていました。
どうにか脱出した姉さんは、大急ぎで助けを求めに、家を飛び出しました。しばらくして数人の水兵さんを連れてきて、次々と兄弟が助けだされました。ところが2歳になる妹だけは、4本続きの大きな梁にはさまれて、泣き狂っているのですが、どうしても助けだせないのです。
4,5人の水平さんたちが力を合わせて、懸命に持ち上げようとしても、その大きな梁はビクともしません。
とうとう水兵さんたちも、あきらめ、他の救出のために、その場を後にしてしまったのです。
近くにいたおじさんが見かねて、梁を動かそうとしましたが、やはりビクともしません。
おじさんは、いかにも申し訳なさそうにしながら、向こうへ行ってしまったのです。
ここからは、原文で紹介いたします。
後に残ったのは私たち兄弟、子供ばかりであった。
お母さんは畑で何をまごまごしているのだろう。早く早く帰ってきて。お父さんはなぜ来ないのだろう。妹の足はちぎれてしまうのに…。
私はすっかり困ってしまい、ただ背伸びしてあたりを見回しているだけだった。
その時、向こうから矢のように走ってくる人が目についた。
頭の髪の毛が乱れている一女の人だ。はだしらしい。紫色の体。大きな声をだして、私たちに呼びかけた。
ああーそれがお母さんでした。
「おか一ちゃ一ん...」
私たちも大声で叫んだ。私たちは、もうこれで大丈夫だと思った。
あちこちで火の手が上がりはじめた。火がすぐ近くで燃え上がった。.
お母さんの顔が真っ青に変わった。お父さんはまだ帰ってこない。
お母さんは、小さな妹を見下ろしている。妹の小さい目も下から見上げている。
お母さんはズウッと目を動かして、梁の重なりかたを見回した。やがてお母さんは、梁の下のすき間に身を入れ、梁の一か所を右肩に当て、下唇をうんとかみしめると、「ウウウ...」と、全身に力を込めた。
バリッ、バリッと音がして梁が浮き上がった。妹の足がはずれた。
お姉さんが妹をすぐ引き出した。お母さんも飛び上がってきた。そして妹を胸に固く抱きしめた。
その時初めて、私はお母さんの姿を落ち着いてみることができた。
お母さんは、私たちにお昼に食べさせるナスを畑でもいでいる時、爆弾にやられたのであった。
上着もモンペも焼け切れ、ちぎれ飛び、ほとんど丸裸になっていた。髪の毛はパーマネント・ウェーブをかけすぎたように、赤く短くちじれて、切れていた。
体中の皮は大やけどでジュルジュルになっていた。...さっき梁をかついで押しあげた右肩のところだけ、皮がペロリとはげて、肉が現れ、赤い血がしきりに、にじみ出ていた。
お母さんはぐったりとなって倒れた。
そこへお父さんがよろめきながら走ってきた。お父さんも大やけどを受けていた。
お母さんは、苦しみ始め、もだえもだえて、その夜死にました。
以上のような作文であります。
まことに悲惨極まる地獄絵図です。
この作文に登場してくる萩野美智子さんのお母さん・…私はお母さんとは本来こういう方だと思、うのです。
すべてのものが救いを断念し、見放しても、断念することができず、見放すことのできない存在、それがお母さんという方だと思います。
遠い遠い昔から、生むこと、育てることに命をかけてきた存在。摂取不捨の願いに生き続ける存在。それがお母さんという方だと思うのです。
戦後、私たちの生活は、確かに豊かになりました。町には物が溢れ、人々はこの上もなく快適で便利な生活を送っているように見えます。
ところが、その反面、我が子の虐待やせっかん死というような、まことに痛ましい事件があいついで起こっています。
もし、この作文に見られるようなお母さんの存在があれば、決して起こりえない事件だと思います。
私たち日本人は、いつの頃からか、この作文に登場するお母さんのような生き方を忘れてしまったように思われます。
私は、今の日本人の心の貧しさはこのようなお母さんを失ってしまったことにあるのではないかと思います。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 合掌
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