押井:だから認識としては「仁義なき戦い」とそんなに違ってない。だからこそ共感した。経済繁栄というのは最終的に、「誰もが望む結末」は迎えなかったし、そんなことは当初から予定されてたんだと。
要するに野良犬ですよ。行き場を失った野良犬たちは野犬狩りに遭って、狩り出されて、ある者は逃れて、都落ちして……都落ちというのも実はただのロマンにすぎないのかもしれない。地方に行ったってべつに住む場所があるわけじゃないんだから。「御先祖様万々歳!」(OVA・1989)でもやったけど、(立喰師列伝の)「哭きの犬丸」のその後みたいな。それすら願望にすぎないんだというさ。まあ、有り体に言ってほぼ絶滅したんだよね。
その野良犬というのが「仁義なき戦い」の菅原文太ですね。
押井:街から野良犬の姿も消えて、少数派を踏み潰して成立してるのが現在の日本だと。「そのことを忘れたわけじゃないけん」ということなんじゃないかな。じゃないとあれだけヒットしたことの説明がつかない。
大学映研に現れた新世代
押井:とにかくあのころの東映は「仁義なき戦い」に限らず絶好調だった。何やっても面白い。当時は映研で金子(修介)としょっちゅう東映の映画を見に行ってたんだよ。
映画監督の金子修介さんとは、学芸大学の映画サークルで先輩後輩(押井さんが70年入学、金子さんが74年入学)だったんですよね。
押井:あいつが映研に入ってきたときに「どんな映画が好きなわけ?」って聞いたら「仁義なき戦い」っていうわけ。もちろん俺たちも見てるけど、普通そういうときに答えるのはゴダールだアントニオーニだ、そういう映画なんだよ。ついにそういう世代が来たかと驚いたの。いきなりギターで「仁義なき戦い」のテーマを弾き始めたり。
うははは(笑)。
押井:ボンボンボンボン……ってあれ弾きやすいんだよ。コードが単純だから(笑)。こういう世代が来たかと思ったけど、あいつとつるんで映画をよく見に行った。本当によく見に行った。
見に行くのはやっぱり東映ですか?
押井:東映が多かったね。「宇宙からのメッセージ」(78)とか「県警対組織暴力」とか。あと「暴動島根刑務所」(75)とか監獄シリーズもあった。とにかく東映はいろんな企画をやったんだよ。もちろんしょうもないのもいっぱいあったんだけど、とにかく絶好調だった。当時の東宝映画なんて全然覚えてない。日活はロマンポルノ全盛期、大学に入った年ぐらいから始まったんだよ(71年から)。とにかくそういう時代だったね……。今いっぺんにいろんなこと思い出しちゃった(笑)。
金子とゴダールを語ったことは1回もないけど、東映の話はしょっちゅうしてた。あいつがまたいろんなエピソードをよく知ってるんだ。俺たちもゴダールだベルイマンだと言ってる一方で、邦画もちゃんと見てるわけ。当時僕は、東宝は怪獣映画しか見てなかったけど一応見てたし、東映はほぼもれなく見てたし、日活ロマンポルノも替わるたびに行ってたから。
そのころは東映が一番イケてたんですか?
押井:イケてたね。「宇宙からのメッセージ」だって「スター・ウォーズ」(77)のもろパクリであっと言う間に作った映画だけど、前評判はすごかったわけ。「深作欣二がSFだぜ? 『スター・ウォーズ』だぜ?」って。健さんは出ないけど成田三樹夫も千葉真一も志穂美悦子も、東映の大物がみんな出るらしい。みんな深作欣二がどんなSF撮るのか興味津々だったわけ。僕は「スター・ウォーズ」の試写かなんかで、深作欣二がでかいボディーガード2人連れて乗り込んでくるの見たからね。
敵情視察ですか。
押井:そこまでして深作欣二がどんな映画を撮るんだろうって、金子と封切り初日の初回を見に行ったらさ……見終わってふたりして喫茶店に行ってしばらく声もない(笑)。
ああ……(笑)。
押井:こんな兜つけて、顔を金色に塗って。トンデモ映画ですよ。「でも成田三樹夫はよかったよな」とか「志穂美悦子をせめてもう少し露出の激しい衣装にすればよかったのに」とか話した記憶がある。あとなぜかヴィック・モローがゲストで、撮影に来てほとんど酔っ払ってたらしいけど。で、ソープにハマっちゃって毎日ソープ通いしてたらしいとか、そういうくだらない情報はいっぱい出てくるわけ。
それは全部、金子さん情報ですか?
押井:金子情報。またあいつが面白おかしく話すんですよ。物まねもうまかったし。成田三樹夫とか松方弘樹とか菅原文太とか、あの辺の物まねが本当にうまかった。
個人史の記憶装置
押井:そういう意味じゃ金子こそ東映が生んだ監督だよ。そのくせ日活に入った(78年入社)んだけどさ(笑)。
映画会社に入っただけすごいですよ。
押井:あいつは日活に入って、僕は全然違うルートで監督になった。ラジオのディレクターをやって、アニメスタジオでアニメの監督になって。図らずも同じ時期に監督になったんだよね。僕が「うる星やつら オンリー・ユー」(83)をやったころ、あいつは日活ロマンポルノでデビュー(「宇能鴻一郎の濡れて打つ」(84))して。あいつと久しぶりに会って「ぴあ」(1972年創刊の映画やコンサートの情報を集めた雑誌。2011年休刊)を眺めてて、お互い監督で出てて「監督になれてよかったな」って。今でも覚えてるけど「当たり前じゃないですか。それ目指してやってきたんだもん」とか金子が言って。ウブでしたね。
いい話です!
コメント3件
rootadm
>志穂美悦子をせめてもう少し露出の激しい衣装にすればよかったのに
確かに思った。ww
あい~だ
映像作家としては「訳わかんない」作品ばっかりの押井監督ですが解説させると判りやすいですね。(聞き手の野田真外さんが凄いのか。)
(監督の作品で一番判らなかったのは「天使のたまご」最初VHSで見たときは画面が真っ暗で何が動いているか判らず、後
にLDでやっと判った(画面だけは、だが)ストーリーはぜんぜん把握できませんでした)...続きを読む春
私は10代の反抗期に「私をスキーに連れてって」で衝撃を受けた世代なので、
【自主製作映画を5本製作したピータージャクソン】みたいな馬場康夫さんの映画経験を日経ビジネスに連載できれば嬉しいと思っています。
彼は日立製作所社員時代の1985年に
出した本でこう書いています。...続きを読む「人は理想や夢を追わずに生きていくことはできない。だが、現実の厳しい生活の中で、わたしたちは夢や理想を次々と失っていく。(中略)
豊かな感受性と想像力を持ち続ける限り、大人は純粋に夢を見、人生に歓びと輝きを見出すことが出来る」
これは35年を経た2020年のコロナ禍の今、まさに私たちが意識しなければならない考えだと思います。
コメント機能はリゾーム登録いただいた日経ビジネス電子版会員の方のみお使いいただけます詳細
日経ビジネス電子版の会員登録