全13483文字

Wikipediaによると、「第一次世界大戦後のフランスで、既成の道徳・規範に囚われない文学・芸術運動が勃興したことをさした」とのことですが。

押井:元は第一次大戦後に出てきた言葉なんだよ。既成の価値観を否定した、ある種の欲望自然主義。

無軌道な若者たちによる犯罪、みたいな感じですか。

押井:そうそう。代表的なのが特攻くずれですよ。既成の権威や価値を全否定して、自分の欲望を貫いて個人の快感原則を追求する。たとえ犯罪だろうが関係ない。べつにそれはアウトローの世界だけじゃなくて、文芸の世界でもアプレゲールといわれてた。石原慎太郎とかいわゆる戦後の作家たちのことだよね。既存の価値を全否定する。

 だから戦後の焼け跡というのは丸ごとアプレゲールみたいな世界だったんだよ。欲望自然主義が横行して、義理人情だの文化だのは全部力ずくでねじ伏せられた。「寝言を言ってるんじゃねえ。こんな世界を作ったのは誰のせいだ。お国のためとかそんなこと言ってるからこういうことになったんだ。お国もヘチマもあるか」というさ。

戦後しばらくたってから、もう一度戦後をやり直そうとしたわけですね。

押井:「仁義なき戦い」の若者たちは自分の欲望を貫くために、盃をもらってヤクザになったんでしょ。菅原文太から田中邦衛に至るまで。そのためにはなんでもやるぜと。人も殺すし、なんだったら刑務所にも行く。でもムショから出てきたら親分自体が戦後の経済主義者というか近代派になってたわけだよね。子分を犠牲にして己のみが富を追求する。だけどアプレゲールといえども「最後のモラル」があるわけだ。

それはなんですか。

押井:仲間を裏切らないとか、嘘をつかない。既存の権威を全否定してるんだから、嘘をつく必要がないわけ。だから誰にも媚びへつらわない。だけどそういうアプレゲールの最後のモラルすら踏みにじられたわけだ。そこで怒りが炸裂する。

欲望自然主義の台頭

押井:前編で話したとおり、実録路線以前のかつての現代ヤクザ映画だったら、最後は菅原文太が企業や役人や警察と結託してる近代派のヤクザに殴り込みかけて、蜂の巣にされて死ぬんですよ。抵抗するものはみんなこうなるんだというさ。だから戦後いい目を見なかった人間たちや学生たちの共感を呼んだんですよ。僕もそうだったけど、全共闘系の学生とか高校生はみんなあの手の映画が大好きだった。共感したんだよ。孤立した武闘派というやつだよね。俺たちは黙って蜂の巣にはされねえぞというさ。

自分たちを主人公に重ねたんですね。

押井:東映にそのつもりはなかったかもしれないけど、あの時代、その手の任侠映画は、実は全共闘系に結構支持されてた。全共闘の学生ってオールナイトでヤクザ映画を見に来てたんだよ。「とめてくれるなおっかさん(背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く)」ってやつもあったじゃん。

橋本治が作った、学園紛争中の東大駒場祭のポスター(1968年)ですね。

押井:だけど「仁義なき戦い」はそれすら否定したわけだ。だからインパクトがあった。「そんなもん関係ねえ、イデオロギーも関係ねえ」という、欲望自然主義なんですよ。ただし最後のモラルはあって、その最後のモラルを踏みにじられたときは死力を尽くして戦う。

そこだけは守るんだ。

押井:そうじゃなかったら、欲望自然主義者たちが次々に自滅していくだけの映画になっちゃうじゃん。映画、特にエンターテインメントというのはどこかで主人公たちに共感されるからこそ支持されるんだから。松方弘樹(が演じる坂井鉄也)がのし上がっていって、昼間は若い者に囲まれて、殺(と)った殺(と)られたの世界はもう十分だとなって、赤ん坊が生まれておもちゃ屋に立ち寄ったところで殺されるわけだよね。小市民の幸せみたいなものに隙を見せた瞬間、蜂の巣にされちゃう。

1作目の最後ですね。

押井:象徴的なシーンだよね。あの世界はあの世界で、自由を謳歌してるわけじゃないんだよ。いろんなものを切り捨てないとやっていけないんだと。殺すのも殺されるのも同じ種類の人間。どっちにも正義があるわけじゃない。昔みたいに悪いヤクザがいて、いいヤクザがいて、いいヤクザの親分はアラカン(嵐寛寿郎)で、悪いヤクザの親分は小池朝雄とかそういうわかりやすい勧善懲悪の世界じゃない。

では何に共感したんでしょうか。

押井:戦後の焼け跡で信じるべきものをすべて失った人間たちが、自分たちで新たな価値観を作ったんだよ。そういう者たちが集まって暴力団という組織を作ったわけだ。しょうもないおっさんだとわかってるけど親分に祭り上げて。だけどその親分に裏切られ、田中邦衛みたいに仲間の中からも裏切る奴も出てきて、もう殺し合うしかないと。

現代ヤクザのリアリティ

押井:彼らは言ってみれば暴力人間だけど社会の中では弱者なんだよ。どんどん追い詰められていって、市民社会を敵にせざるを得なくなったわけ。広島やくざ戦争ってそういうことじゃん。街中でドンパチやってあらゆるものを敵に回して。

そこに同じ弱者である、若者や低賃金労働者たちが共感すると。

押井:それを題材に取り上げるんだから、面白いに決まってるじゃん。企画がすばらしくて、深作欣二というやる気まんまんで勇気凛々の監督がいて、スタッフも若くて体力あり余ってて、まわりの役者も揃ってて、東映のくすぶってた大部屋の役者も全部ふくめて、北大路欣也だって入れちゃうぞというさ。イケイケだよ。カメラが斜めになろうが何しようが撮れという。

そういうエネルギーを画面にすべて叩きつけたような映画でした。