わが心の神戸

わが心の神戸

「過去ログ」倉庫のカテゴリー、「わが心の神戸」、「神戸散歩」を掲載しております。

1.「わが心の神戸」
2.「わが心の神戸・Ⅱ(過去ログ・神戸散歩」
3.「わが心の神戸・Ⅲ(過去ログ・神戸散歩」
4.「わが心の神戸・Ⅳ(過去ログ・神戸散歩」
5.「わが心の神戸・Ⅴ(過去ログ・神戸散歩」
6.「わが心の神戸・Ⅵ(過去ログ・神戸散歩」
7.「わが心の神戸・Ⅶ(過去ログ・神戸散歩」
8.「わが心の神戸・Ⅷ(過去ログ・神戸散歩」

昭和の匂いがまたひとつ

 ワイフが映画を観ている間、神戸の新開地を歩いた。
 途中、焼失したばかりの家屋が数軒あった。
 長年馴染んだレコード店もその一つ。
 レコード店の隣が火元らしい。
 店の前でキャンペーンを張っていた演歌歌手の姿が瞼をかすめる。
 (新開地の中華料理店にて、食事をとりながら)

投稿者 愉悠舎 日時 2016年8月19日 (金) わが心の神戸, メール投稿 | 個別ページ

 

 


2016年1月10日 (日)
面影の鈴蘭台駅前


 2016年1月某日、散歩の途中鈴蘭台駅に立ち寄る。

 神戸電鉄駅ビルの東側一帯の再開発が始まり、新しい駅ビルの予定地が更地と化している。

 再開発の話は50年前にさかのぼる。
 話が進みだしたのは1980年、その後大震災を経て、最近ようやく本格的に工事が始まった。

 行政と地域住民の長い間の確執を経ての再開発だ。

 更地の囲い塀に「鈴蘭台駅前元気UPプロジェクト」の名で、ありし日の駅舎とその界隈の写真が掲げられていた。
 35年ものあいだ、この駅のホームとその界隈を行き交った一人として、写真から零れる一滴をも拾ってみたい。(以下の★・・・は写真に書かれている説明文)

★1928年(昭和3年)小部(おうぶ)駅開業時(昭和7年8月公募により名称変更 )


 1926年(大正15年)、 神戸有馬電気鉄道として設立された鉄道会社はその2年後小部駅を開業する。

 当時の駅周辺は「小部の里」と呼ばれ、周りを山に囲まれた海抜300メートルほどの盆地にあり、のどかな暮らしが営まれていた。

 私の住んでいた家は、駅の東側、有馬街道(国道428号線)沿いに在る。
 神戸市街から車を走らせると鈴蘭台あたりで坂を登りきるが、山坂を登りきる手前を少し横に入ったところに棲家があり、家の近くの有馬街道に「二軒茶屋」と言う名のバス停がある。
 幕末、兵庫開港に際し、港近くを通っていた西国街道を往来する外国人と諸藩大名のトラブルを避けるため、迂回路として六甲山に「徳川道」を設けた。
 幕末の混乱の中、「徳川道」は歴史の表舞台に登場することなく消えていったが、後年ハイキングコースとして整備され、私も幾度となく「徳川道」を行き交った。
 有馬温泉への有馬街道と「徳川道」が交差するところに設けられた茶屋が、「二軒茶屋」なのだろう。

★1963年(昭和38年)鈴蘭台駅改札口

 有馬温泉への有馬線が開業すると小部駅は鈴蘭台駅に変わる。(昭和7年)
 この辺一帯にスズランのが群生していた。と、聞いた。
 戦前の鈴蘭台は「関西の軽井沢」と言われ避暑地として栄えた。
 ここに長年住んで感じるのは市街地に比べ夏は涼しく冬は寒かった。水道管は北海道仕様で、冬が来ると車のタイヤをスタッドレスに履き替えた。反面、夏はクーラーなしで過ごせた。

 写真は鈴蘭台がベッドタウンとして売り出された頃の改札口を撮ったもので、この頃から鈴蘭台は神戸における新興住宅地のはしりとして急速に開けていった。

★1970年(昭和45年)鈴蘭台駅前

 


 1970年(昭和45年)、大阪で万博が開かれた。

 結婚前の私とワイフは初めてこの駅頭に立った。
 新居を求めて駅前の不動産屋で賃貸住宅を探した。
 その頃、賃貸住宅はバス・トイレ付きの「文化アパート」が主流で、今も駅の周辺に、まだ「文化アパート」が残っている。
 社宅に入るのが嫌でここまで家探しにやって来たが気に入った物件が見当たらない。他を探そうと店を辞そうとすると店員が「どこにお勤めですか?」と尋ねるので私は「〇〇です」と応えた。すると奥から伏せていた物件を取り出し「いかがですか?」と、一戸建ての家を紹介してくれた。
 その物件は一階に家主が住み、その2階が借家になっていた。そこに3年ほど住んで、同じ鈴蘭台に建売の小さな家を買って移った。
 3年ほど住んだ家は駅舎の向こう側、そこから写真の手前側に移った。家を買うとき住宅金融公庫からカネを借りたが二つ返事で貸してくれた。

 「家」を借りるとき、買うときに見せられた、「虚」で値踏みする世人の狡さが恐くなった。

 駅舎手前のゆるい坂を登りきった高台に30年暮した。

 下の写真上から★昭和10年鈴蘭台駅下りホーム、★1964年(昭和39年)鈴蘭台駅前(線路沿い北方面)、★1965年(昭和40年)頃駅前、★1985年(昭和60年)代鈴蘭台駅前周辺


投稿者 愉悠舎 日時 2016年1月10日 (日) わが心の神戸 | 個別ページ

鈴蘭台俯瞰

 菊水山(標高459m)の頂上から鈴蘭台方面の住宅街を臨めば、立錐の余地もないほど民家が詰まっている。神戸のベッドタウンとして開発された鈴蘭台は半世紀を経た今、成熟期を過ぎて衰退期に入っているのではなかろうか?
 車で街中や団地の中を走っていると、主が留守をしているのか庭に夏草が生い茂っている家や、荒れるに任せている家を散見する。淡路島のような田舎に見られる廃屋と違って、人の息遣いがするだけに切ない気持ちに襲われる。

 菊水山の海側(写真の手前)・神戸の市街から電車に揺られ急な勾配を15分ほど登ると、神戸電鉄・鈴蘭台駅に着く。ここから線路が二つに分かれる。右の路線が有馬温泉や三田市に通じ、左に折れれば三木市、小野市へと運んでくれる。
 鈴蘭台駅は開設当時小部(おぶ)駅と呼ばれていたが、1932年(昭和7年)の今日(8月1日)、現駅名に変わった。
 鈴蘭台は市街地と比べて温度が3度ほど低く、夏の日、勤めを終えて、鈴蘭台駅のホームに降り立つと、ヒンヤリとした風が心身の疲れを癒してくれた。

投稿者 愉悠舎 日時 2012年8月 1日 (水) わが心の神戸 | 個別ページ

海岸通り


 15年ほど前、神戸が大地震に見舞われる前の1990年代の初頭、中国の上海港を訪れた。上海駅からタクシーで長江支流の黄浦江に面する港に行った。港で働く人々やそこを行き交う人たちの、活力に満ちた懸命さに圧倒された。

 その時、60年代の後半に見た神戸港の風景を思い出した。まだミナトの荷役作業を人の手に頼っていた時代である。当時私は四国への帰省や神戸に帰ってくる際、ポートタワーのある中突堤から関西汽船の定期便をよく利用した。帰りの船が中突堤に着くのが早朝の6時ごろ、私はそこでしばらく時間を潰し、職場へ出向く。今は港内遊覧船のターミナルになっている国産波止場と呼ばれていた荷揚げ場のあたりから、中突堤そしてメリケン波止場へと続く沿道に、食べ物や作業服を売る屋台が軒を連ねていた。その多くが朝食を提供する屋台で、私もごった返す労働者に紛れて朝食を摂る。男たちの人いきれが味噌汁のにおいに紛れ込み、労働に向かう前の張りつめた空気が神戸港を覆う。
 その群団も荷役作業の自動化やコンテナー船の普及によってミナトを追われ、屋台も朝のミナトから消えた。

 上海港の一角、バンド(外灘・Wai Tan)に石造りの建物が並んでいる。戦前イギリスやフランスなどの租界だったところで、上海を代表する風景になっている。私が訪れたころ対岸の浦東でテレビ塔が建設中だった。

 神戸、労働者が屋台に首を突っ込んで朝食を掻き込んでいた少し東、国道2号線沿いに旧居留地がある。居留地が在ったあたりを海岸通りと呼ぶ。
 今も残る重厚な石造りの建物の隊列は、どこか上海バンドを彷彿させる。
 聞くところによると、居留地のこの通りは上海バンドを参考にして造られたとも言う。

 この通りを歩くと、90年代はじめの上海港の雑踏と、60年代から70年代にかけて、神戸港にたむろしていた労働者の「凄み」が背筋を走る。

投稿者 愉悠舎 日時 2008年5月25日 (日) わが心の神戸 | 個別ページ



JR神戸駅山側西高架沿い(通称「地獄谷」)


 駆け出しの勤め人のころ、毎晩のように職場の先輩Mさんに連れてこられたのがこの界隈である。JR神戸駅の高架下に沿って西側へ続く400メートルほどの通りの一角で夜遊びの洗礼を受けた。
 Mさんは酔うと誰かれとなく喧嘩をふっかけていった。その挙句いつも警官のお世話になるのである。
 まだ三十前なのにアル中状態になり、職場で鉛筆を握る手はいつも震えていた。いわゆる「優秀な技術者」として職場で信頼を集めていたが、気持ちの落としどころが定まらぬまゝに酒におぼれていったのであろうか。彼から夜の「薫陶」を受けた期間はそう長くはなかった。某企業と結んだ技術提携の橋渡しに指名され早々に私のもとから去っていった。
 後年風の便りにMさんが職を辞したたことを知った。40代の若さであった。
 この通りに往時の猥雑さはなくなったが、軒を連ねる店のたたずまいは今も変わらない。
(2005.01.10記)

投稿者 愉悠舎 日時 2008年2月14日 (木) わが心の神戸 | 個別ページ


山本通4丁目(神港学園西上がる)


 神戸に来てはじめての住まいがこの場所である。半年ほど居ただけだが忘れえぬ一点である。この通りの東側は北野の異人館街へと続き、ここ山本通りも異人館が数多く点在しており、私が棲んでいた会社の寮も異人館のひとつであった。 
 戦前はホテルとして多くのエトランゼを迎えたが、戦後アメリカ駐留軍に接収され、その後会社の寮になった。
寮の前にちょっとした広場があり外国の子供たちがよく遊びにきた。関西弁を上手にあやつる金髪の子らに、異国の匂いとともにコウベの奥行きの広さを体感した。
 この寮に入ってくるのは新人ばかり。1年間の入寮期間が過ぎると他へ転寮を強いられる。同期ばかりが集う集団に遠慮はなかった。夜な夜な演じられる傍若無人なふるまいは近隣のひんしゅくをかった。
 「わが世の春」を謳歌するまもなく、半年もすると全員が転寮の憂き目にあった。我々を最後の住人として寮は解体され、会社はそこに接待用の施設を造った。
 坂道を15分はど下れば巨大なミナトが広がる。夜のしじまを突き破る霧笛を聴きながら、あの頃何を視ていたのだろうか・・・。 (2005.05.13記)

投稿者 愉悠舎 日時 2008年2月13日 (水) わが心の神戸 | 個別ページ


2008年2月12日 (火)
異境魔界の地(南京町界隈)


 小春日和の昼どき、食事のために訪れた中華街は観光客で賑わっていた。赤い支柱にぶら下がっているランタンがほのかに郷愁をそそる。表通りから浜側へ下がった裏通りは人影もまばらで、山側の通りの喧騒もここまでは届かない。
 この通りの一角に古びた飲み屋が表通りの「繁栄」にあらがうように悠然と居をかまえている。ペンキを塗った板壁、これもペンキで書かれた横文字の店名、朽ちかけたドアに滲み出た年月の流れ、かつてこのような店が軒をならべていた時代があった。
 私がこの場所に足を踏み入れた1970年代前後のこの界隈は、外人(外国人)バーが建ちならぶ異境魔界の地であった。中華街が姿を消し、外人バーが台頭した、朝鮮戦争からベトナム戦争へと駆け抜ける時代の最後の一章をこの街と少しばかりつきあった。この地に中華料理店や、中国の食材を売る店の記憶が私にはない。酔っ払ったベトナム帰りの兵士や、ミナトに立ち寄った船員たちの異国語が飛び交う通りをはさんで外人相手の呑み屋が時代の波にもまれていた。ドアのむこうのカウンターと無造作に並んだとまり木は潮風の匂いが漂う異人さんたちのしばし安息の場であったのか、私は何ゆえにここに居たのか、そして何ゆえにここを立ち去ったのか、・・・。
 かつて、ここに外人バーがあった。いや、あったような記憶がある。(2005.11.24記)

投稿者 愉悠舎 日時 2008年2月12日 (火) わが心の神戸 | 個別ページ

 

 

 


2008年2月11日 (月)
木場のある河(兵庫運河)


 一日の労働を終えて会社の門を出ると帰宅を急ぐ人とは反対方向に歩を進めるときがよくあった。
 灰谷健次郎氏の小説「太陽の子」の舞台となった「露地にかこまれた家々」の間をぬって、中之島の中央卸市場に向かう大きな通りに出る、しばらく行くと両側に家並みをいだいた運河にぶつかる。
兵庫運河界隈は新川運河、兵庫運河、苅藻(かるも)島運河などが絡み合い、神戸港の原点である兵庫の津を開いた清盛ゆかりの史跡が点在する、歴史的資源の豊かな下町である。

 神戸にはその地形から川らしい河がない、東京や大阪などの河口の風景を神戸に求めるとすればこの場所をおいて他にない。この風景に逢いたくて会社の帰りに足を運んだ。運河の広がった部分に集積された貯木の背後に夕日が落ちるのを、橋の上からぼんやりと見ていた。

 運河にも時代の波は押し寄せた。原木から製材へと輸入のスタイルが変るにつれて、材木の群れは姿を消していった。当時の面影はなくなったが、それらしき形をまだとどめているのは、「水に掉さす」職人さんのいる証しでもある。
 よどんだみなもに夕日が映えた。(2006.01.16記)

投稿者 愉悠舎 日時 2008年2月11日 (月) わが心の神戸 | 個別ページ



東洋の十字路


 メリケン波止場、今はメリケンパークに呑み込まれてしまったこの場所に佇むと、潮風の匂いとともに、波止場を行き交った多くの人々の息づかいが聴こえてくるような気がしてならない。
 ブラジルへ移民船が神戸のミナトを始めて出てから一世紀近く経つ、鍋や釜を背負い、鍬を肩にかついだ人々が、山手にある移民収容所から坂を下ってミナトをめざした。失意を希望に変えての旅立ちであった。神戸のミナトから南米に旅立っていった人の数は二十数万人、彼らは故国最後の汽笛を神戸で聴いた。
 ナチの迫害をかろうじて逃れた人々が神戸を通過した。出航のドラを聴き、残してきたユダヤ人同胞の安否を気にしながらも、はじめて覚える自由の身に涙したであろう。
 南米へ、あるいはユダヤの人々が船出したのは小さいメリケン波止場でなく、少し東の大きな波止場から旅立ったが、ガス灯に映える美しいメリケン波止場を生涯忘れ得ぬ光景として、深く胸に刻んだに違いない。
 その昔、神戸は世界の人々が行き交った「東洋の十字路」であった。

 私の知るメリケン波止場はまだ「メリケン波止場」であった。
1960年半ばから70年代にかけてのメリケン波止場はタグボートやランチそして、はしけがところ狭しと波止場の周りを埋め尽くしていた。船の上で生活をする水上生活者が四六時中立ち働いていた。
海に向かって右に中突堤そして、左に第一突堤を携え、その間に小さくメリケン波止場がうずもれていたが、小さい波止場の放つ妖気に凄みがあった。私の記憶に出てくるメリケン波止場はなぜかモノトーンだ。
 メリケン波止場も今はメリケンパークに変わり。メリケン波止場は「震災メモリアルパーク」としてその姿を今にとどめている。(2006.07.28記)

投稿者 愉悠舎 日時 2008年2月10日 (日) わが心の神戸 | 個別ページ



新開地物語(2)


 トンネルの山側に神戸電鉄の湊川駅があるところから、この界隈を湊川と呼ぶのか、それとも明治の時代、河川の付け替え工事をする前新開地本通りを湊川が流れていたためであろうか。
トンネルから浜側へ新開地の街なみが続く。
 新開地本通りを出た山側に湊川公園が広がる。公園の下はトンネルで四六時中車の絶えることがない。トンネルと公園のたたずまいは40年前のそれと変わりない。そして、公園の片隅で将棋に興じる人々の笑顔も往時の人たちに似て素朴だ。
 公園の北詰から山側へ歩いて10分ほどのところに会社の寮があった。今もあるその寮で数年間過ごした。
 会社からの帰路は公園下のトンネルを横切って寮へ帰るのが常であった。新開地で呑んでの帰り、湊川公園を浜側から山側へつき切るコースをよくとった。新開地の飲み屋を出て湊川公園のベンチで一休みしていると、そのまゝウトウトすることが多かった。ある夜、酔い覚ましにベンチに横たわり夜風にあたっていたらそのまゝ眠り込んでしまった。気がつけば東の空がしらみはじめていた。懐のサイフから金が抜き取られていたが、朝めしを食べれるほどの金が残されていた。

 公園の下に封切より少し遅れて上映する再映館(二番館)がある。その隣に「吉林」の名を冠した中華料理店がある。ここの豚マンは私の舌にあう。久しぶりに豚マンが食べたくて映画を観たあと店を訪れた。 ここは好きな言葉ではないが「中国残留孤児」の方が日本へ帰国後店を開いていた。その人でない若い人が店を切り盛りしていた。その人は店を閉じたとのことであった。それ以上詳しく聞く気にならなかった。 (2007.03.12記)

投稿者 愉悠舎 日時 2008年2月 9日 (土) わが心の神戸 | 個別ページ



新開地物語(1)


 この街に「神戸タワー」と呼ばれる展望タワーがあった頃、私の新開地物語が始まる。

 神戸タワーの開業は1924年(大正13年)である。当時、新開地タワーと呼ばれていた。高さ90mは大阪の通天閣よりも高く日本一の高さを誇っていた。太平洋戦争の時、二度も大空襲に見舞われた神戸で、このタワーは生き残った。
 1968年(昭和43年)、タワーは傷ついた老体をさらしながら取り壊された。
 この通りの左側一帯を福原の風俗街と呼ぶ。昼間から妖しいネオンがまたゝき夜な夜な酔客を絡めとる光景は今も変わらない。
 福原からこの通りを挟んで右側に、神戸タワーが聳えていた。
 タワーのあたりに湊川温泉劇場という大きな大衆浴場があり。映画館も併設され一日中人がごった返していた。私の知る神戸タワーは閉鎖されており、昇ることは出来なかった。

 写真に写っている通りの切れ目あたりに、寄せ芸人が集う常設の小屋が掛かっていた。名を「神戸松竹座」といった。この演芸場も1976年(昭和51年)に幕を閉じた。最後の舞台を飾ったのは、この小屋で育った「かしまし娘」だった。

 私の義母は寄席や大衆演劇を観るのが好きだった。
 振り向けば大阪の街並みが望める、尼崎の阪神電車沿線に暮らしていた。いかにも下町の女という気さくな佇まいを、少し猫背の躰に宿していた。私たちが結婚して神戸に居を構えると、時々遊びに来てくれた。新開地で電車を乗り換えて、いそいそと私たちのアパートに通ってくれる義母を見ていると、こちらも気持が浮き立った。そんな折、一度だけ義母を松竹座に伴ったことがある。義母は満面に笑みをたたえて松竹座の階段を上がった。
 その頃、もう神戸タワーはなかった。

 叶うことなら、義母と神戸タワーを見上げる神戸松竹座の向こう桟敷に座り、二人して笑い転げたいとも思う。
 気苦労の絶えなかった義母の晩年を思うと胸が痛くなる。(2006.09.23)

投稿者 愉悠舎 日時 2008年2月 8日 (金) わが心の神戸 | 個別ページ