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成澤昌茂監督・脚本「花札渡世」(67年)は梅宮本人も「代表作」と語る名篇 ©東映 1967
ある夏の日の梅宮さんと坪内さん
梅宮辰夫、坪内祐三 追悼
伊藤彰彦
どうしようもなく厄介で人間臭い先輩――坪内祐三
梅宮辰夫のことを書こうとすると、坪内祐三のことが思い浮かぶ。二人が立て続けに亡くなったからではない。坪内が監督では内藤誠、俳優では梅宮辰夫を敬愛していたこともあるけれど(『新潮45』18年2月号で坪内は梅宮にインタビューした)、わたしがはじめて二人に会ったのが同じ夏の日だったからだ。
2010年7月21日(水)――わたしが企画、脚本を担当した色川武大原作の「明日泣く」(内藤誠監督、斎藤工、汐見ゆかり主演)の撮影初日、内藤の呼びかけに応じ、午前中は坪内が色川武大の父親役として、夜には梅宮が「地下カジノの地回り」の役で特別出演してくれたのだ。
早朝、荻窪駅西口の「マクドナルド」前で待っていると、俳優のきたろうとキムタクを足して二で割ったような男がスタコラ歩いてきた。スタッフの車に乗りこむや、その人、坪内祐三は、「あなたは高校時代に福田(和也=文芸評論家)さんとつるんでやくざ映画を観てたんだって?」と口火を切り、東映映画談議が始まった。「東映の伝統として、田中小実昌さんとか野坂昭如さんとか作家が映画に出るってことはよくあるんだよね」と坪内は蘊蓄(うんちく)を傾け、「今回のボクはいわば客演扱いだから、『人生劇場 飛車角と吉良常』(68年、内田吐夢監督)の島田正吾みたいなもんだな」という。「自信過剰だな、この人」と呆れる間もなく、タクシーはロケ地である井口家に到着する。メイク室になった旧家の台所で坪内は浴衣に着替え、肺病病みの設定なので頬にシャドーを入れた。学ラン姿で朝帰りした斎藤工に坪内が、「毎日、朝までどこほっつき歩いてるんだ? 好きなことをやっていれば自然に月日が過ぎていくと思ってるのか?」と説教する場面なのだが、テストが始まり、坪内の滑舌の悪さに驚く。ワンセンテンスで二回も嚙むのだ。さっきの自信満々な様子とこの演技のギャップは何なんだ。坪内がしきりに目を瞬(しばた)かせ、テストが繰り返される。陽はすでに高く、何度も庭をよぎって坪内のところへやって来る斎藤工の額に汗が滲み、メイク直しとなる。わたしは監督に気取られぬようそっと坪内に近付き、「坪内さん、瞬き、我慢してみてください」と囁いた。「何?」と坪内が肩を聳やかす。「浅草名画座のスクリーンに映る役者は瞬きしないでしょう?」とわたしは坪内に微笑んだ。撮影所育ちの俳優は、重要な台詞の間に瞬きすると観客の注意が目に行くので、カットの間、瞬きを堪えるのだ。「本番行ってみよう!」と内藤誠の声が響く。セリフではなく瞼に意識が行ったこともあり、本番は3テイク目でOKとなり、坪内の出番はつつがなく終わった。
翌月、シネマヴェーラ渋谷の『石井輝男 怒涛の30本勝負!!』特集で会ったとき、坪内は「あれから随分映画を観たけど、あなたが言ったことは正しいね」と言い、食事をご馳走してくれた。彼はやがて、「酒中日記」(15年、内藤誠監督)で瞬きを抑え、自分自身を演じ「明日泣く」の雪辱を果たした。
それ以降、わたしは坪内の新刊や連載を欠かさず読むようになったが、坪内の文章でもっとも襟を正したのが『蓼科日記 抄』(小学館スクウェア 野田高梧の蓼科山荘に置かれていた日記帳の抄録)を巡る次の一文だった。
《午後、『ユリイカ』の十一月臨時増刊号「総特集小津安二郎」を読んでいてきわめて不快になる。青山真治と蓮實重彥の対談で、蓮實重彥は先日刊行された『蓼科日記 抄』(小学館スクウェア)に登場する「デンマークの白熊」(デンマークの映画会社NORDISK FILMSのロゴマーク――伊藤註)に註がなかったことを話題にし、「これは註を担当された田中眞澄さんの限界なんですが、映画史家なら一発でこれを言わなければならない」と述べ、田中眞澄批判を始める。これはまったくタメにする批判でしかも事実誤認を含んでいる》
と坪内は『本の雑誌』(13年11月号所載の10月14日の日記)で書き、『蓼科日記抄』の「註記」が人名中心であり、「第一次校訂」を担当した田中が2011年末に急逝し、たため、以降の作業を関係者が引き継ぎ、田中が日記の註記の担当者ではないと、蓮實の事実誤認を指摘し、《蓮實重彥に言われるまでもなく田中氏は当然「デンマークの白熊」を知っていたはずだ》と田中眞澄を擁護した。
あらためて『蓼科日記 抄』『ユリイカ』(青土社)『本の雑誌』(本の雑誌社)を読み返すと、「映画を注視することによってしか映画を論じることは出来ない」と主張する蓮實重彥が、小津に関する様々な一次資料を発掘し、小津を映画のみならず同時代史や文化史の中に位置付けようとした田中眞澄に苛立ちを覚え、このような発言に及んだと思われる。だが、当時、映画批評の老大家に反論する映画関係者は誰もおらず、坪内のみが故人である田中の名誉を守った。わたしは『本の雑誌』を読み、文筆家としての坪内の毅然たる態度に頭が下がり、坪内がやがて田中のように、「映画と世相」の閾(しきい)を書くことを待ち望んだ。
そんなこともあり、わたしは二年かけて書き上げた「北陸代理戦争」(77年 深作欣二監督)のノンフィクションの出版の相談を坪内にした。彼は国書刊行会の樽本周馬を紹介してくれ、『映画の奈落 北陸代理戦争事件』(14年、国書刊行会)が本になった。わたしが文筆家としてデビューできたのは坪内のお蔭なのだ。
しかし、次作の『無冠の男 松方弘樹伝』(17年、講談社)のとき、坪内との間で悶着が起きた。16年末、病床で脳リンパ腫と闘う共著者、松方弘樹に見せようと本書の完成を急いでいたとき、『週刊SPA!』(扶桑社)に連載されていた福田との対談、「文壇アウトローズの世相放談 これでいいのだ!」(16年12月13日号)で坪内はこう言ったのだ。《伊藤さんは今、松方弘樹の本を作ってるらしくて、すごくディープみたいなんだよ。松方もそろそろ亡くなるんじゃないかと思うけど――もしかしたら亡くなったあとに本を出すつもりで待っているのかもね》。何という無神経な発言か。わたしは講談社の担当者を通じて扶桑社に抗議をし、この一文を松方の関係者が読まないことを願った。そうしたなか坪内は、『無冠の男』の完成を見ることなく松方が逝去したとき、《日本映画史的にも非常に貴重な本だ》と『週刊ポスト』(17年3月24日/31日号)で同書を褒めた――。
このように人と人とを結び付け、人を持ち上げたかと思うと落とし、近年は酒場で理由もなく憤った坪内祐三は、とても綺麗事の追悼文など書けない、どうしようもなく厄介で人間臭い先輩だった。