第2巻 勇者誕生(後)
第13話 イシュクリエラの白姫
1
がたごと。
がたごと。
昏い森のなかを馬車が走る。
御者台で手綱を握るのは、ひげ面の男である。
三十歳前後であろうか。マントの下には革の鎧を着け、傍らに大剣を置いている。口には短くなった葉巻をくわえている。
「臭いわ。何度も言うようだけど」
話しかけたのは、横に座っている女である。
こちらも三十歳前後か、あるいはもう少し若いかもしれない。つばのある帽子をかぶり、やはりマントをまとっている。
「もうすぐ終わるって。けどな、この葉巻のおかげで、ほかの匂いがごまかされてるんだぜ。つまり、葉巻を吸い終わったら、俺の素敵な体臭をじっくり味わってもらえるわけだ」
「ぼうやに味わってもらいなさいな。あたしは、ぼちぼち、なかで休ませてもらうから。プチ・フレア」
発動呪文とともに、こぶしほどの大きさの光の球が三つ、女の胸元から飛び出す。
マントの下で杖を構えていたのだ。
光の球は、木から飛び降りて馬車に飛びつこうとしていた五匹のモンスターのうち、三匹に命中する。
モンスターたちは短く悲鳴を上げて落ち、そのまま動かない。的確に急所を突いたのだろう。
残り二匹のモンスターも悲鳴を上げて墜落する。それぞれ、顔のまん中に、ナイフが突き立っている。
「戻れ」
男が命じると、手に二本のナイフが戻ってきた。
男は、手を伸ばして木の葉をもぎ取りナイフをぬぐうと、もとの通り革鎧の隠しに収める。
「それにしても、妖魔系のモンスターばっかりね。珍しいわ」
「だな。この五日間で、生まれてからみた全部よりたくさんの妖魔をみたぜ」
モンスターというのは種族の名前ではない。人間からみて脅威になる、人ではない生き物の総称である。
モンスターのなかには、生き物であるものと、生き物でないものがある。生き物でないのは、妖魔系とか悪魔系とか呼ばれるモンスターだ。みかけは生き物のようにみえるものもいるが、親から生まれて成長するのではなく、どこからともなく成体として湧き出てくる。
たいていの場合、極めて醜悪な容姿をしており、上位のものは悪質な魔法攻撃や呪いを飛ばしてくる。毒を持っている場合も多い。
だが、こうした妖魔系モンスターには、特定の迷宮にでも行かないかぎり、めったに出遭うものではない。それなのにこの三日間、一行は妖魔系モンスターにひっきりなしに襲撃されている。
ほどなく、キャンプに格好の場所に出た。
「よし。ちょっと早いが、今夜はここに泊まるぜ」
「そうね。それがいいわね」
馬車を止めると、まず少年が降りてきた。
ザーラである。
ザーラは、鉈で邪魔な低木や枝を払っていく。
次に降りたのは、古ぼけた僧衣をまとった五十歳ほどの男だ。
辺りをみまわすと、何やら呪文を唱え両手を大きく頭上に広げた。キャンプのときによく使われる簡易結界である。モンスターが近寄りにくくなり、体力回復などにも多少の効果がある。
御者をしていたひげ面の男は、馬車から馬を外して草を食べさせる。
魔法使いの女は、かまどの準備をする。
ザーラは、安定した位置に草を敷き詰めて上に毛皮を広げた。
「置き場所の準備ができました」
馬車から、箱が出てきた。
五、六歳のこどもならなかに入れるのではないかと思われる大きさだ。頑丈そうで、奇麗な装飾がほどこしてある。それが、宙に浮かんだまま、馬車から出てきたのである。
箱に続いて、白い巫女服をまとった女が馬車から出てきた。女は、両手を開いて、まるで、その箱を持っているかのように、差し伸べている。しかし箱と女のあいだにはいくばくかの距離があり、直接持っているわけではない。
〈みえざる手〉と呼ばれる特殊スキルだ。
ザーラが用意した設置場所に、静かに箱を安置すると、女は、ほっとためいきをもらした。
イシュクリエラの白姫。
高名な占い師であり、今回の冒険の依頼者である。
2
大峡谷を抜けたところに大きな街があった。
そこには冒険者ギルドさえあった。
ザーラは、ギルドでクエストを受けてみようかと思ったが、ためらいもあった。
ギルドでクエストを受けようとすれば、冒険者メダルを提示しなければならない。Sクラス冒険者である自分は、どうしても目立ってしまうだろう、と懸念したのである。
酒場で食事をしていると、ひげ面の男が、きょろきょろ辺りをみまわしながら近づいてきて、言った。
「お、あんただな。あんたに話があるんだが、食事が済んだら、上の部屋に来てくれねえか」
教えられた部屋に行くと、なかに招き入れられた。
ひげの男のほかに、白い巫女服を着た女と、魔法使いらしい女と、僧衣の男がいた。ひげ面の男が説明役を務めた。
「こっちの人が、あんたに用事がある人だ。イシュクリエラの白姫様。名前ぐらい、聞いたことあんだろ。依頼内容は、この人と、あれを」
と、傍らのテーブルに鎮座している箱を示して、
「海の神殿まで、無事送り届けること。メンバーは、俺と、あんたと、この二人。馬車があるんで、移動はらくだ。あ、海の神殿ってのは、知ってるかい? こっからまっすぐ東に行った、半島の先端にあるんだ。大陸の一番東端ってこったな」
かかる日数の見込みを聞き、報酬を確認してから、ザーラは、依頼を受諾した。
戦士の男の名は、ボランテ。
主武器は大剣だが、相手によって武器は使い分け、スローイング・ダガーなどの投擲武器も使うという。
魔法使いの女は、ヒマトラ。
攻撃魔法が専門で、炎系を得意とし、拘束魔法も多少はできるらしい。
どっしりした体格の僧侶は、ゴンドナ。
支援魔法専門で、攻撃力はないが魔力量には自信がある、と言うそのかたわらには、ごつごつした太いメイスが立てかけてある。
みているだけで、ザーラにはわかった。
三人とも一流の冒険者である。
よくも、こんな田舎でこれだけのメンバーを集められたものだと感心する。
「なぜ私に声をかけてくれたのですか?」
「あん? ああ。白姫様の占いだ。ほかも全員そうさ。なんでも、今回の旅は多数の強力なモンスターに襲われる定めなので、最高の護衛が必要なんだとさ」
占いというのはそこまで具体的で正確なものなのだろうかと不思議に思ったが、すでに依頼は受諾している。
「私の名は、ザーラ。武器は」
腰に差した剣のつかを右手で軽くたたく。
「剣です」
3
いささか世事にうといザーラでさえ、イシュクリエラの白姫の名は聞いたことがある。
王侯や大商人に招かれて占いをする、放浪の巫女。
天候、物事の吉凶、戦争の勝敗、たくらみ事、出産、人の行く末、ありとあらゆる事柄について、その占いは的確でなかったことがないという。
大金を積まれても占いを断ることもあるし、自ら進んで未来の英雄のもとを訪れ、寿言と助言を与えることもある。
命の終わりが近づくと、白姫は、才能のある娘を後継者に指名し、共に身を隠す。
数年後には、すべての技を習い終え、神々の加護を引き継いだ新たな巫女が、イシュクリエラの白姫の名と生き方を引き継いで現れる。
こうして、千年以上の昔から、白姫は、啓示をもたらしつつ、世界中を旅しているのである。
名を騙ろうとする者は絶えない。
しかし、白姫ならば、占いの力もさることながら、必ず箱を持っているはずである。ごく短い移動の際にさえ、その箱は身近から離されることはない。常にみえざる手によって、白姫の傍らに浮いて運ばれるのである。
これは、尋常では、まねできない。
みえざる手という特殊スキル自体が珍しいものであるうえ、わずかな使用さえ魔力を根こそぎ奪ってしまうものだからである。
自前の馬車で移動するあいだ、ずっとみえざる手を発動させ続けて箱を護持するというのは有名な話であり、仕掛けなしでこれがまねできるぐらいの術者なら、にせ者にならずとも大金が稼げる。
今、ザーラの前で瞑想している白姫は、間違いなく本物であろう。
名の通り、髪も肌も白い。生々しい白さではなく、透き通るような、水晶や氷を思わせる白さである。人間離れした白さといってよい。
「みとれてんのかい、ぼうや」
「ええ。不思議なかただなあと思って、みとれていました」
「あはは。うまいこと言うわね。まあ、不思議さでいうなら、ぼうやもけっこうそれなりだけどね。もう野営の準備は慣れたみたいね」
「はい。でも何か気づいたら教えてください」
「うわあ。なんて素直なの」
ザーラが森のなかでの野営に慣れていないのは、最初の日に明らかになった。
だが、それをもって、ザーラを駆け出し冒険者と侮る者はいない。
野営地に着く直前に五体のガーゴイルが襲ってきたのを、御者席の横に座っていたザーラが、すっと飛び出したかと思うと瞬く間に斬り伏せたからである。
御者をしていたヒマトラの声にボランテとゴンドナが馬車を飛び出したときには、ザーラは息も切らせず澄ました顔で剣を収めていた。
辺境では、ガーゴイルを一人で倒せるのが一流の騎士である証しといわれる。しかし実際に一人でガーゴイルを倒した騎士は、あまりいない。
ガーゴイルは、素早く、魔法耐性が強く、悪知恵も働く妖魔系モンスターである。人型だが、毛髪はなく、口には牙が生え、背中には蝙蝠のような翼がある。身体は青銅のような硬さと重さを持っており、殴られたり、爪にかけられたりすれば、相当の深手となる。そのうえ翼で自由に飛び回る。
倒しにくいモンスターなのである。
ザーラの倒したガーゴイルは、いずれも首を落とされており、尋常でない技前を示している。斬り口の鮮やかさに、ボランテが思わずうなったほどである。
それほどの手練れなのに、野営に慣れていない。
見張りの順番を決めようとしても、きょとんとしていた。
田舎にたむろして、しかも、ギルドを通さない依頼を請けるような冒険者は、すねに傷を持っているとみて間違いない。この少年もそうであるはずなのに、この物慣れなさはどうしたことか。
貴族家か上級騎士の子弟で剣技の英才教育を受けたが、家が没落して冒険者になった。それで、冒険者メダルをさらしたがらない。
そうも想像してみるが、ザーラの装備は貴族が着けるような上品な品ではない。しかも、使い込まれておりザーラによくなじんでいる。昨日今日の冒険者ではない。
気配の消し方の見事さや、くつろいでも決して油断しないたたずまいも、召使いにかしずかれるような生活とはつながらない。
そのアンバランスさが、ヒマトラには不思議なのである。
実のところ、ザーラは野営に慣れていないわけではない。
野営は、迷宮のなかで、いやというほど経験した。ただ、丁寧に野営の設営をしたことがないだけである。
迷宮での野営は、寝るときも毛布など使わず、剣を枕にマントにくるまるだけである。下草も刈らないし、たき火さえ、めったにしない。何かが近づけば自分で気づいて対処するしかない。そのため睡眠は浅く短い。
つまり、ソロでの過酷な野営に慣れているため、大がかりな設営の知識もないし、交代で見張りに立つ発想がないのだ。迷宮ではポーション一つで体力が回復できるという事情もある。
「はっはっはっ。それにしても、ほんとにおいしい燻製じゃなあ。ザーラ殿が参加してくれて、よかったわい。ワインが進む、進む」
「ゴンちゃん。あんたねえ。今日こそは見張りしなさいよ」
ゴンドナは、一行のなかで年長者であるはずだが、ヒマトラの口調には敬語の残滓もない。
「ゴンさん。あんた、つまみが何だろうが、とりあえず飲んでるじゃねえか」
ボランテも気楽な呼び方をしている。
「本当においしいお肉ですね。これは何のお肉なのですか」
と尋ねる白姫の皿には、ピンク色の肉が何枚か乗っている。
先ほど、ザーラが、よくこんな大きな肉を燻製にしたな、と思わせる肉の塊を取り出して、それを大胆に切り分け、まんなかのピンクの部分を薄くカットして、白姫の皿にサービスしたのだ。
ガーラ越えのときに作った燻製は、パーティーの一同をとても喜ばせている。
「エッテナの肉です」
「そうですか」
にこにこと微笑む白姫。
ぽかんとするボランテ。
ぶっ、とワインを吹き出すヒマトラ。
次のワインの瓶を取り出すゴンドナ。
(パーティーを組んで冒険するというのは、楽しいものだな)
そんなことをザーラは思った。
4
次の日は、雨だった。
相談の結果、とりあえずは移動せずに、ようすをみることになった。
白姫は、箱と一緒に馬車のなかで過ごす。
ザーラは、白姫の護衛ということで一緒に馬車に入った。
四人乗りの馬車だが、通常より内部は広い。たぶん、箱を置いたり出し入れがしやすいように、そう作ったのだろう。
今、箱は白姫の横に置かれ、ザーラは白姫の向かいに座っている。
若い、といえば若い。
そうでない、といえばそうでないようでもある。
ザーラは、白姫の顔をみながら、そんなことを思った。
雨は、激しいというほどではないが、途切れることなく馬車の屋根をたたいている。
馬車のなかの静かな空間は、この世でないどこかにいるかのような錯覚を起こさせる。
「ザーラ様は、不思議なかたですね」
「不思議な、というなら、あなたほど不思議なかたはおられないでしょう」
「あなたからは、ボーラ神様の祝福を感じます」
「あなたが、そうおっしゃるのなら、そうなのでしょう」
「いつも、お一人なのですか」
「ずっと一人で迷宮に潜っていました。しかし、師や先達に囲まれ教えを受けていましたから、一人ではありませんでした。一人で冒険の旅に出たのは三か月ほど前のことです」
「そうですか。私には旅の供をしてくれた者がおりました。しかし年老いて病にかかり、あの街で死んでしまったのです。でも、本当は、ずっと一人だったのかもしれません。寂しいかどうかも忘れてしまうほど長く」
「あなたは、いつ、前の白姫様とお別れされたのですか」
「ふふ。世間では、そのようにいわれていますね。いえ。いわれるように、私がしたのです。次々に別人が白姫の名と役目を継ぐと。本当は、そうではありません。ずっと私は一人でした」
「では、千年以上も、あなたは白姫様であられたのですか」
「そうです。あまり驚いておられませんね。あなたは、やはり不思議なかたです」
「ずっと秘されていた、そのような大事を、私にお教えになってよかったのですか」
「もうすぐ、私の役目も終わります。時が満ちようとしているのです」
そう言って、白姫は、箱のほうをみた。
「あなたの魔力の源泉であるといわれる箱ですね。その箱の力が失われるのですか」
「いえ、いえ。そうではありません。やっと、この箱の中身は本来の役目を果たすのです。そのときまでこの箱をみまもるのが、私があるじより与えられた役割なのです。本当に、長かった」
「お供のかたというのも、今まで何人もおられたのですか」
「ええ。人間の寿命は限られていますからね。もう何人目の従者であったか、よく覚えていません。でも、とてもよく仕えてくれました。いつもなら、ある程度年がいけば暇を出し、新しい従者を雇うのですが」
「今度は、そうはされなかったのですね」
「はい。もう終わりですから」
海の神殿にはいったい何があるのかと、白姫に尋ねようとしたが、結局その質問が発せられることはなかった。
ずいぶん前から、徐々にこの野営地を取り囲んでいた多数の敵が、急に包囲網を狭めてきたからである。
自分も戦闘に参加しなくてはと思い、馬車の扉を開きかけたが、ボランテがとめた。
「いや。手を出さないようにしてくれって、ゴンさんが言ってる。ザーラは馬車のなかにいてくれ」
ザーラは、開きかけた扉を閉じた。
この敵は、かなり厄介である。
山ほどの数が集まってきていることもさることながら、この歩き方、この気配。
敵は、おそらく。
「ターン・アンデッド!!」
ゴンドナの発動呪文が、雨の森に響き渡り、ばちばちばちばちばちばちばちっ、と光がはじける。
効果は、激烈であった。
ターン・アンデッドは聖職者固有の魔法であり、不死系のモンスターを追い払う効果がある。しかし下手をすると相手を興奮させて攻撃が激しくなることもある。不死系モンスター以外にはまったくダメージを与えられないが、注意を引くことはできる。
ある冒険者の僧侶は、雑魚を引き寄せて一気に殲滅するためのスキルだ、と言っていた。
スキルのランクが上がってくると、近くの敵なら大きなダメージを与えることもできるという。
だが、今発せられた呪文の威力はそのようなものではなかった。
馬車の小さな窓からも、はっきりとみえた。
近くのグールは、ばちっと雷光を発して一瞬にして蒸発した。
遠くのレヴェナントは、衝撃を受けたように大きく後ろに吹き飛んで起き上がってこない。
やがて、どろどろに溶けて、雨のなかに流れて消えてゆく。
百体を超えていたであろう、おぞましい不死の怪物たちは、ただ一言の呪文によって一掃されてしまったのである。
「ゴンちゃん! あんたのスキルはワイン飲みだけじゃなかったのね!」
「ゴンさん! 攻撃魔法は使えないって言ってなかったか?」
「はっはっはっ。あれは、攻撃魔法じゃないわい」
「じゃ、何なんだよ」
「聖職者のたしなみじゃ。大声を出すと腹が減るのう。ザーラ殿、燻製肉は、まだあるじゃろうか?」
5
雨は次第に小降りになり、翌朝には晴れた。
一行は移動を再開した。
いくらも行かないうちに、二十体ほどの下級妖魔を率いて豹のような妖魔が襲ってきた。
ボスはボランテが相手をした。
豹の化け物は、二足歩行して、幅の広い曲刀を武器にしていた。
ボランテの大剣としばらく競り合っていたが、ボランテが投げつけた小袋を斬ったあと、急に相手の動きが悪くなり、ボランテは遠慮なく斬り捨てた。
下級妖魔は、ヒマトラがフレイムボム三発で焼き払った。
「あの小袋は、何だったんだい?」
「野生のトウガラシを乾燥させて、粉にした物だな」
「そんな卑怯な戦い方でいいのかい?」
「お前こそ、森で火球を使うな」
「雨のあとだから、大丈夫よ」
「はっはっはっ。仲よさそうで何よりじゃ」
「あ、こらっ。ゴン。なに、昼間っから飲んでるのさ」
午後には、三十匹ほどの妖魔に襲われた。
顔つきは凶悪だが、小さなこどもほどの身長しかない。
「大して魔力も感じないわね。あたし一人でいいわ。さくっと追っ払ってくる」
ヒマトラが助手席を飛び出した後ろ姿をみながら、ゴンドナがつぶやく。
「あれは、ザファンじゃのう。火には、めっぽう強い。それと、アイテムで攻撃してくるタイプじゃから、保有魔力量はあんまり関係ないがのう」
しばらくすると、ヒマトラが、きゃあきゃあ悲鳴を上げたので、ザーラが馬車のなかから飛び出して、次々と敵の首を刈り取っていった。
敵を倒し終えて馬車に戻ったヒマトラは、ゴンドナが敵の特性を知っていたと聞き、大いに怒った。
「なんで教えてくれないのさ! 髪がちょっと燃えちゃったじゃないか! あ、また飲んでるわねっ。昼間っから飲むなって言ってるだろっ。この、酔いどれ坊主! それにしても、あのちっぽけ妖魔どもめえっ。森であんなに火魔法を使いまくるなんて!」
「お前が言うな」
この日の襲撃は、それだけだった。
翌日の襲撃は、さらに厄介な敵だった。
「もしかして、デュラハンかい?」
「そうらしいなあ。俺、はじめてみたよ」
「うむ。あれは、デュラハンじゃな」
夜明け早々に出発した一行の通り道をふさぐように、一頭の大柄な馬が立っている。
その馬にまたがっているのは、甲冑を身に着けた騎士である。
首はない。
いや、胴体の上にはない。どこにあるかというと、左手で持っている。
右手には、抜き身の大きなロングソード。
普通、片手で使うものではないが、このモンスターにとっては、そうではないのであろう。
「一回、闘ってみたかったんだ。行かせてもらうぜ」
そう言い残して、ボランテが前に出る。
ロングソードと大剣の対決が始まった。
両者とも技巧が高く、剣に重さもある。
みごたえのある決闘といえる。
「次は、私の出番のようですね」
そう口にして、ザーラが、馬車の後ろ側に向かう。
そこにも、馬にまたがったデュラハンが一体、出現していた。
こちらでも、剣と剣との対決が始まった。
二つの対決の決着は、ほぼ同時についた。
いずれも人間側の勝利である。
しかし、それで終わりではなかった。
「あっ」
「ふむ。やはりのう」
ボランテがデュラハンを倒すと同時に、その後ろに二体のデュラハンが現れた。ザーラのほうも同様である。
つまり、今、一行は四体のデュラハンに襲われているわけである。
もはや、ボランテの表情に余裕はない。しゃにむに攻め込んで、二体を倒した。ほぼ同時に、ザーラも二体を倒した。
しかし、今度は、さらに倍の敵が現れた。
つまり、ボランテの前に四体の、ザーラの前にも四体のデュラハンが現れたのである。
援護に出ようとするヒマトラに、ゴンドナが声をかけた。
「すまんがの、ヒマトラ殿。少しのあいだでいいから、前方の四体を足止めしてくれんか。そのあいだ、ボランテをここに戻らせてくれ」
「何だって? ちっ。何か考えがあんだろうね?」
そう言いつつ、ヒマトラはゴンドナの指示に従った。
ゴンドナは、馬車に戻ったボランテにナイフをありったけ出すように言うと、そのナイフに、用意してあった瓶の液体を塗り付けた。
「聖水じゃ。悪魔騎士には、なかなかの効き目があるはずじゃ」
「わかった、ゴンさん」
まさに、その通りだった。
あれほど手こずった敵は、聖水を塗ったナイフが刺さったとたん、消滅して、もう復活しなくなった。
ゴンドナは、ザーラの支援にも向かおうとしたが、こちらはいち早く相手を殲滅していた。
「ふうむ。見事じゃ。聖属性の武器をお持ちじゃったか」
うなずくザーラの肩をたたいて、ゴンドナはザーラを馬車にいざなった。
そしてボランテとザーラを馬車に入れ、自分が手綱を取り、ヒマトラを助手席に座らせた。
「あたしだって、今、戦ってたんだけどねっ! あ、こら、飲むなって言ってるだろうが。よこしなっ」
ヒマトラは、ゴンドナからワインの瓶を取り上げると、瓶に口をつけてワインをぐびぐびと豪快に飲んだ。
それからも、毎日のように妖魔の襲撃を受けたが、パーティーは、それぞれの持ち味を生かしながら、そのすべてを退けた。
「やっと、森の外に出られるねえ」
「おう。あれを倒したらだけどな」
森の出口近くに、真っ黒い大きな固まりが四つ、うずくまっている。
馬車が近づくと、固まりは立ち上がり、それぞれ三つの光る目で、一行をねめつけた。
「あれは、何?」
「バグベアじゃの」
「おお。あれがそうなのか。ヒマトラ、おい。お前、何を」
ヒマトラの準備詠唱が完了し、発動呪文が発せられた。
「サモン・コメット!」
「うわー。こんなとこで使うなーー!」
空から彗星が降ってきて、四体のバグベアを消滅させた。
密集していたのが相手の不運だった。
森の出口だったところには、巨大なクレーターができた。
そこにあった木や草や土は、一行の上に降りそそいだ。
幸い、火事にはならずにすみ、ひともんちゃくのあと、馬車は森を出た。
6
「ヒマトラ殿。よかったら、これをどうぞ」
「え? あ? これは、何だい?」
「魔力回復が速くなる薬草だそうです。煎じてもよいし、このままでも口にできると聞いています。しばらくかみしめて、草の汁を唾液と一緒に飲んでください」
「なんだか怪しげだねえ。でも、ありがと。ちょっとでも回復が速くなるなら、大歓迎さ」
「とても苦いそうです」
ヒマトラは、手のひらに乗せられた薬草を、がばっと口に含んだ。
そして、とてもいやそうな顔をしたが、吐き出しはしなかった。
森を出た直後、イナゴの妖魔と、ハエの妖魔に襲われた。
それぞれ、率いていたボスは、アドバンとナスという名らしい。
敵の数がひどく多い。
ゴンドナは、結界を張って依頼主と箱を守った。
ヒマトラは、火系の魔法を撃ちまくった。
ボランテは、炸裂弾を使ってヒマトラに近づく妖魔を倒した。
そして、ザーラが敵のボスを倒して決着をつけた。
7
海に出た。
砂浜だ。
目の前には青々とした海が広がっている。
潮風は鮮烈そのもので、一息吸うたびに生命力が増加するようだ。
ザーラは、生まれてはじめてみる海に感動していた。
視界の中央右寄りにみえるのがユトの島であると聞いて、胸が高鳴った。
ではあれが大魔法使いギル・リンクスのふるさとなのだ。
ギル・リンクスの逸話と生きざまを小さいころから聞かされ続けたザーラには、その生まれ故郷はまるで聖地の一つであるかのように感じられたのである。
一行は、海の神殿に向けて旅を続けた。
三日ほどは妖魔に襲われなかった。
一度、ゴブリンの群れに襲われている旅人の家族を助けた。
毎日、潮風の吹く場所で野営した。
ワインはおいしく、貝や魚も新鮮だった。
意外にもヒマトラが料理上手であるという事実が発覚した。
その後、何度か妖魔に襲われたが、さほど強力な敵ではなかった。このパーティーだからいえることであったが。
旅は続き、あと四、五日で海の神殿に着くというころになり、急に妖魔の襲撃が激しさを増した。食事の途中で襲われることもしばしばで、皆の心と体に疲労がたまっていった。
「みんな、聞いてくれ」
夕食が終わるころ、ボランテが、呼びかけた。
「あと二日ほどで、神殿に着く距離だ。しかし、早めに出発して、馬の尻っぺたをしっかりたたけば、一日で着かない距離でもねえ。ひとつ、ここは、明日一気にゴールといこうじゃねえか」
三人の冒険者が賛成し、白姫も賛成した。
このメンバーならそれができると、皆が思った。
8
夜明けよりだいぶ早く出発した。森のなかとちがい、海のそばでは夜中でも真っ暗にはならない。
妖魔たちの攻撃は熾烈だった。
それを、馬車の速度を緩めることなく、たたき伏せ、押しのけながら、ただただ前進していった。
「げ。前方、道のどまんなかに中型妖魔一体」
「出ます! 馬車は速度をゆるめず、そのままに願います」
ザーラが馬車のなかから飛び出し、馬車を追い抜いて走る。
素早く妖魔の足を斬り落とし、倒れるところを道の外に蹴り出す。
馬車は、倒れる妖魔をかすめるように走り抜ける。
後ろからザーラが追いついて馬車に入る。
ゴンドナが、絶妙なタイミングでドアを開いてザーラを迎えた。
「お疲れさまじゃの」
御者席では、ボランテが口笛を吹いて、ザーラをたたえた。
9
携行食糧で腹ごしらえをしながら、しゃにむに前進した。
昼をだいぶ過ぎたころ、ボランテが叫んだ。
「みえた!」
ザーラは、扉を押し開けて前方をみた。
海ぎわの道の先が切り立った岬になっている。
その上に荘厳な建物がみえる。
(あれが、海の神殿か)
ザーラは扉を閉めて言った。
「白姫様。神殿がみえました。もうすぐです」
だが、力押しをしてきただけに皆の疲労も深い。幸い、傷はゴンドナが恐るべき回復スキルで完治させてくれたが、体と心の疲れはピークに達している。特に、遠距離攻撃を続けたヒマトラは消耗がひどい。
ゴンドナが話しかけてきた。
「ザーラ殿。パーティーを組んでおきたい」
一瞬、ザーラはとまどいを感じた。
迷宮探索では、正式のパーティーを組むのは常識である。経験値の公平分配からも、戦闘のしやすさからも、それは当然だ。お互いの正確な位置を知ることや体力の管理が生命に関わる場面も多い。
だが、迷宮の外では、正式のパーティーを組むことはあまりない。組んでも意味がない場合が多いし、本名や残存体力などが丸みえになるので、嫌がられるのだ。
なぜ突然今になって、ゴンドナがそんなことを言い出したのかはわからない。
しかし何か意味があるのだろうと思い、ゴンドナに言われるまま、ザーラは自分をリーダーとしてパーティーを編成した。
そして、身を乗り出して助手席に上がり、ボランテとヒマトラにいきさつを説明して、冒険者メダルをふれ合わせてパーティーに入ってもらった。
ザーラは、馬車のなかに戻ってから、ふと思った。
(この僧侶は、迷宮探索専門であったのかも知れないな)
迷宮探索での僧侶はパーティーメンバーの体力管理を司る。だが、迷宮のなかでのような目覚ましい体力回復は外では不可能だし、外の常識では体力の管理は自己責任である。
そんなことを考えているとき、がくんっ、と馬車が傾いた。
「くそっ。体当たりされちまった。右前輪が脱輪っ。すまんっ。馬を切り離すぞっ」
馬車は勢いのまま前に進む。がががががっと音を立てながら、右に左に揺れ、そして大きく左にかしいだかと思うと、ごろんごろんと何回転かして、上下逆さまにひっくり返って止まった。
ザーラは、恐るべき反射速度をみせ、転がり始める馬車から、白姫を抱えたまま扉を蹴破って脱出した。
ボランテもうまく馬車から飛び降りたようだが、ヒマトラは放り出されて砂浜にたたきつけられた。
腕のなかの白姫はショックで気絶したようだ。ずっと緊張状態のまま、みえざる手を使い続けたあげくの横転だから無理もない。
ヒマトラがうめいている。
白姫を、そっと砂浜に横たえたとき、ゴンドナの声が響いた。
「ザーラ殿、近くの敵をしばらく食い止めてくだされ!」
その額には血が流れている。
言われるまでもなく、近寄ってくる敵の気配に注意を向けていたザーラである。
寄ってくる妖魔たちを次々斬り伏せていった。
ゴンドナは、とふとみれば、砂浜に両膝を突き、頭を下げて何事かを祈っている。手に握り込んでいるのは法具、いや聖印だろうか。
ヒマトラと、その手当をしようとしていたボランテと、ザーラの体が、柔らかい光に包まれる。
(そうか、なるほど。レベルアップか)
今さらながら、ザーラは気がついた。
ゴンドナは、〈誓言〉持ちの聖職者であったようだ。その場合、同じパーティーであるか、冒険者メダルを預かれば、本人たちに代わって神にレベルアップの請願をすることができる。ここしばらくの激しい戦闘で、レベルアップに必要な経験値がたまっていたのであろう。これで、傷も癒え、体力も精神力も回復した。
「ゴンちゃん、褒めてあげるわっ」
「ゴンさん、助かったっ」
すぐに二人が戦線復帰する。
だが、ザーラは気がついた。
ゴンドナの額の傷は、そのままである。
ゴンドナはレベルアップをしていない。
(あれだけの戦闘をこなしても、レベルアップをしないということは、この僧侶は)
「箱は? 箱は!?」
白姫の声がする。目を覚ましたのだ。
箱は、横転の衝撃で馬車から転がり出ている。
砂浜であったことが幸いしてか完全に壊れてはいないが、壊れかけて白っぽい中身が少しみえている。
急いで箱に走り寄った白姫は、ようすを確かめた。
「始まってしまった。でもこの位置なら大丈夫のはず」
箱と岬の上の神殿を交互にみながら、自分に言い聞かせるかのように、そう口にした。
そして、皆に呼びかけた。
「皆さん、この箱の中身はまもなく準備を終えます。今は動かすことができません。準備が調うまで、どうかこの箱を守ってください」
「わかりました」
「任しとけ」
「あいよ」
「ほっほっほっ。心得た」
波打ち際を埋め尽くすように半魚人が湧いている。その後ろからも、さらに後ろからも、波のなかから続々と姿を現している。
サハギンである。
最後の戦いが、始まる。
10
「サンクチュアリ!」
ゴンドナの呪文が響き、箱と、その前で祈りを捧げる白姫が、半透明の防護壁に包まれる。
(深みのある、いい声だな)
「ブレッシング!」
ヒマトラの目が、怒りに燃え上がった。
この、腐れ坊主がっ、といわんばかりの眼差しである。
無理もない、とザーラは思った。
ゴンドナが、プレッシングを自分自身にかけたからである。
ブレッシングは、確かに優れた支援魔法である。物理防御力を格段に上げる魔法なのである。だが、持続時間はごく短い。迷宮でのボス戦ならともかく、長時間続く乱戦では、あまり意味がない。
それでも、特攻する前衛や物理防御の弱い魔法職にかけるならまだわかるが、前線には出ない僧侶が自分にかけるなど、なんという臆病、身勝手か、と思われてもいたしかたないのである。そんなむだなことに魔力を使うより回復用に取っておけ、と思われて当然である。
だが、めぐらせかけた思いは直ちに破られた。
「ブレッシング! ブレッシング! ブレッシング!」
プレッシングの四連発である。
ボランテが、ザーラが、ヒマトラが、この支援魔法のしるしである青い燐光に包まれる。
三人とも、あぜんとした。
準備詠唱の時間が、まったくない。
(この人は、口で発動呪文を唱えながら心のなかで次の準備詠唱を行っているのだ)
ザーラは感動のあまり寒気を覚えた。
そういうことができる魔法使いもいるとは聞いたことがあったが、まのあたりにしたのははじめてである。だが、驚きは、そこで止まらなかった。
「リペリング・エビル! リペリング・エビル! リペリング・エビル! リペリング・エビル!」
またもゴンドナ自身を皮切りに四人全員に魔法がかけられた。
先ほどの青い燐光の外側で、かすかなオレンジの光がともった。
「これは?」
この魔法を知らないザーラが尋ねた。
「魔を退ける技じゃ。闇属性や魔属性の敵に対する物理攻撃に強い付加がつく。また、闇属性の攻撃に対する防御力が上昇する。異常抵抗も上昇する。さあ、行こうかの」
「え?」
三人が立ち尽くすのを尻目に、ゴンドナはサハギンの群れに向かって、どすどすと走っり寄り、大きなメイスを、ぶうん、と振り回した。
三体のサハギンが吹き飛ばされ、空中ではじけて消えた。
怒ってゴンドナを取り囲むサハギンたち。
当たるを幸いと、ゴンドナがメイスをふるう。
そのたびに、何体ものサハギンが宙を舞い、砕け散って消える。
サハギンというのは、Aクラスの剣士でも一撃では倒せない相手のはずである。
(今、目の前で起きている、これは、何か?)
などと考えている場合ではない。自分たちもモンスターに囲まれつつあるのである。馬たちまでは守れないので、尻を叩いて逃がしてから、三人も戦闘に突入した。
ザーラは、またも驚いていた。
軽く刀を振っただけで、すぱすぱとサハギンが斬れるのである。
そして、急所を狙わなくてもサハギンには多大なダメージを与えているようで、たいていの場合は、そのまま消滅してしまう。
技も力も要らない。ただ振るだけでよい。
また、防御力の増大は絶大で、まともに攻撃を受けても、ほんのわずかなダメージしか通らない。乱戦には、何よりありがたい支援である。
(これほど多数の敵に囲まれながら、これほど心軽く戦えるとは)
それにしても、支援が切れない。
ブレッシングと、もう一つのオレンジの支援を受けてから、もうずいぶんたつ。
とうの昔に効果を失っているはずなのである。
いくらなんでも長すぎる、と思っていると、再びゴンドナがブレッシングの呪文を四連発で唱えるのが聞こえた。
さらに、もう一つの支援魔法も続けざまに四回唱えた。
ザーラは理解した。
ゴンドナが、最初に自分に支援をかけたのは、このためだったのである。自分への支援が切れれば、メンバーへの支援も続いて切れる。そのときかけ直せばよい。つまり、全員に対し切れ目なく支援をかけ続けるために、あのようにしたのである。おそらくゴンドナは、自分の支援魔法はほんの少し先に切れるようにかけたのだ。
(待てよ)
(支援魔法というものは、相手がすぐそばにいなければかけられないのではなかったか?)
ブレッシングは、文字通り息のかかる距離でなければかからないと聞いている。また、対象とのあいだにわずかな障害物があっても発動しないはずだ。
(この乱戦のなか、何十歩という距離を隔てて、どうして支援をかけることができるのだろう)
よくわからないが、たぶんパーティーを組んだことと関係がある。
(これが支援というものか)
相変わらず白姫は箱に向かって祈っている。
箱のなかでは淡い光が明滅している。
それが次第に強く速くなってきた。
敵の数は減ったようにも思えないが、近づくものはちゃんと倒せている。
いつしか役割分担ができていた。
ザーラは前線で遊撃しつつ、敵を寄せ集める。
ボランテは、鎖付き星球と、回転しながら敵を倒して手元に戻る複刃の投擲武器を使い、スローイングナイフと炸裂弾を織り交ぜながら、広範囲に敵を制圧する。
ヒマトラは、敵の進軍を妨げるような遠距離射撃を行いつつ、時折、ザーラが集めた敵を大型魔法で片付ける。
ゴンドナは、支援を維持しつつヒマトラを守り、抜けてきた敵を粉砕する。
防御力もずいぶん上がっているが、それでも傷は受ける。
傷が重なり動きが悪くなってくると、
「ヒール!」
という呪文が響いて、傷が治る。
とんでもなく遠い位置でも呪文を成功させている。
(なるほど。これなら、わざわざパーティーを組んで情報をさらす価値は充分にある)
依然サハギンは湧き続けているが、戦線は安定している。
(いける)
とザーラが思ったそのとき、すべての希望を打ち崩すものが現れた。
波打ち際のはるかかなたで、海を割って巨大な姿が立ち上がったのだ。
ダゴンだ。
海の妖魔たちの神といわれるモンスターである。
明るかった空は、いつしか鉛色の雲に覆われ、海の色も灰色にくすんでいる。
その海と空のあいだをかき分けるように、ゆっくりと、悪魔の魚神は、陸地に向かって進み始めた。
絶望にそまる三人の耳に、ゴンドナの力強い声が響いた。
「皆、ここに集まれ!」
11
防御半径を縮めて戦いを続けながら、ゴンドナのそばに寄り、話に耳を傾けた。
「あれは悪魔神じゃ。あれによく効きそうな魔法を知っておる。倒せんかもしれんが、しばらく動けなくするぐらいはできるじゃろう。しかし、その準備詠唱にはとんでもなく長い時間がかかる。そのあいだブレッシングもヒールもできん。わしは、まったく無防備になる。サンクチュアリも途中で解けるじゃろう。守ってもらえるかの?」
起死回生の鍵となるような強力な魔法を、この僧侶は修得している。そのための時間を稼ぐために守ってくれ、と僧侶は訴えている。
それに応えたい。
だが、強力な防御魔法と回復魔法があったから、ここまで戦えたのである。そして、ここまでの戦いで疲労は限界に近い。支援魔法なしで戦えというのは、手足を失い命を失う戦いをしろというにひとしい。
(いや、待て。私にはその手段があるではないか)
「心得たっ。ボランテ殿! ヒマトラ殿! お願いがあります。アイテムを一つ出す時間を稼いでください」
ザーラが何をしようとしているのか、むろん二人にはわからない。だが返事はすぐに来た。
「わかったわ!」
「任せとけ!」
ボランテが手数を増やして、サハギンたちを押し返す。ヒマトラも、小規模な範囲魔法を連発して近くの敵を葬り去る。
長時間は続かない無理押しであるが、これでザーラに時間ができる。
ザーラはルームを出した。開いた手のひらの向こうに青い光の扉が現れ、左右に分かれる。
素早く検索をかけ、一本の剣を取り出す。
ボランテは、目の端でこれをとらえていた。
ザーラがルーム持ちであることは、気がついていた。だが、ルームの操作画面がみえる位置にいるのはこれがはじめてだ。
(あのルームの大きさ、あの操作画面の広さ、複雑さ)
(ありゃあ、王侯や大貴族家の当主が持つレベルのルームじゃねえか)
(あんなものを持っているということは、こいつは)
ザーラは、ルームを閉じて走り出し、近づいてきていたサハギンを瞬くまに一掃した。
その走る速度、剣を振る速さは、それまでのザーラとはまるで別人である。
「私が敵を退けますっ。ボランテ殿は、ヒマトラ殿とゴンドナ殿の援護を。ヒマトラ殿は、遠距離攻撃のみお願いします!」
二人は、ただ黙って従うしかなかった。
それほど、今のザーラの動きと破壊力は異常だったのである。
ザーラが取り出した剣は、ボーラの剣といい、その恩寵はすさまじい。
攻撃力三倍
クリティカル発生二割増加
移動速度八割増加
攻撃速度八割増加
体力吸収一割
精神力連続回復二割
全基礎能力六割増加
破損自動修復
このすべての恩寵が、迷宮の外でも有効なのである。
父より受け継いだこの神剣は、迷宮でこそ使ったことがあるが、迷宮の外で使うのはこれがはじめてだ。
人に過ぎた力であるから、反動も尋常ではない。
事実、この剣を使いすぎたため、ザーラの父は死んだ。
一の容量しかない革袋に百の中身を詰め込んでは使い果たし、またも百の中身を詰め込んでいけば、革袋が無事ですむわけがない。だからザーラは、この剣を外で使うことを自分に禁じていた。
その封印を、今こそザーラは解いた。
これだけ速度付加があれば、敵などとまっているにひとしい。
これだけ攻撃力付加があれば、ふれるだけですべては吹き飛ぶ。
それでも、体のあちこちが傷つくが、それをただちに治癒する効果まで持っているのである。
ザーラの活躍で、敵はみるみる殲滅されてゆく。はぐれて近づく、ごく少ない敵は、疲労の極にあるボランテとヒマトラでも余裕をもって対処できた。
そうしているあいだに、ゆっくり、ゆっくりと、しかし確実に、ダゴンは陸地に近づいてくる。
ゴンドナの準備詠唱は、まだ続いている。
ダゴンの巨体は、近づくほどに巨大さをあらわにし、いよいよ威圧感を高めていく。
ほんとうに、あれに対抗する手段などあるのか、と思わせる破壊の力をまとい、瘴気を振りまきながら、その足が、ほとんど波打ち際に届こうとしたとき、待ち望んだ発動呪文が響き渡る。
「コンヴィクション・ハンマー!!!」
遙か高き空より鉛色の雲を掻き裂いて、数条の光の帯が海に落ちる。
天空に光の渦が生まれ、瞬く間に雲を巻き込んで広がると、その中央に巨大な光のハンマーが現れた。
虹のかけらを振りまきながらハンマーは速度を次第に増し、ダゴンの頭上を目指して落ちてくる。
その全長は、ダゴンそのものより、なお大きい。
たちまち、光のハンマーはダゴンをとらえ、極彩色の破片をまき散らし、神々の国のオルガンのごとき荘厳なハーモニーを響かせて、この悪魔神を打ち据えた。
神話そのものの光景を、冒険者たちは戦いも忘れてみまもっている。
やがて、ダゴンは、ぶすぶすと煙を放ちながら、ぐらっと揺らめき、後ろ向きに倒れて、巨大な水しぶきを上げた。
砂浜を埋め尽くしていたサハギンたちも、光のハンマーの余波を受け、吹き倒されたまま、動こうともしない。
ダゴンを倒したためか、サハギンの湧出も止まったようである。
(勝ったのだ)
ボランテとヒマトラが、もつれるようにくずおれる。
肉体が、精神が、限界だったのである。
ザーラも、今にも倒れそうだ。
だが、倒れない。倒れることができない。神剣で力を引き出した揺り戻しのため、苦痛が強すぎ、気絶することもできないのである。迷宮のなかならボーションを使えば苦痛は癒せる。だが外ではそうはいかない。
(ち、父上はこれほどの苦痛に耐えてボーラの剣を駆使していたのか!)
極大魔法を放ち終えたゴンドナも、うつぶせに倒れたままである。
あのようなすさまじい魔法を、この男は、どれほどの犠牲を払って行ったのであろうか。
突然訪れた静寂。
波の音しか聞こえない。
天界より呼び寄せられた魔法により、黒雲も打ち払われたのか、空は澄み切っている。
日は傾いて、空はかすかに夕暮れの色にそまりつつある。
そのなかで白姫の声が響いた。
「生まれる!」
12
ぴきぴき、と音が響き、箱を壊してなかから現れたものは、一匹の小さな白い竜であった。
竜。
それは、古代の伝説にしか現れない神霊である。
迷宮のなかの神性のかけらもないドラゴンという名のモンスターならともかく、地上で竜をみることなど現代ではあり得ない、と誰もが思っている。
その竜が、今、目の前にいる。
天と地の青と、夕暮れに近い太陽の赤をその体に映しながら、神秘そのものである生き物が、あどけないまなざしを、まっすぐにザーラに向けている。
その体長は、人間の十二、三歳のこどもほどだ。
ぷかり、と浮かび、楽しそうに鳴いている。
「きゅいーー。きゅきゅいーー」
頭部と腹部は真珠のような輝きを放つ鱗で覆われている。
背中は、やや硬質な質感の青みがかった鱗で覆われている。
白く透き通る羽はまだ小さく、時々思いだしたようにぱたぱたと羽ばたいている。
ろくに羽ばたいてもいないのに飛んでいるということは、生まれながらにそのような特殊スキルを発動できているということだ。
どさっ、という音がする。
白姫が倒れている。
ザーラが、よたよたと走り寄る。体は痛く、重い。鉛を背負って泥沼の底を歩くようだ。
ほかの冒険者は、気を失っている。
「ありがとうございました。わたくしは、無事に使命を終えることができました。どうぞ、これを」
そう言いながら、白姫は、仰向けに倒れたまま四つの宝玉を差し出した。
約束された報酬である。
前渡しとして受け取った宝石もきわめて高価なものだったが、この宝玉にどれほどの値がつくか、想像もつかない。この報酬が、ひと癖もふた癖もある冒険者たちに命を懸けさせたのである。
「ザーラ様。お願いがございます」
「何でしょう、白姫様」
「この竜の御子の、名付け親になっていただきたいのです」
「この世に、まだ竜というものがあることを、初めて知りました」
「多くの竜は、ずっと昔に姿を消しました。おそらくこの御子が、地上で最後の竜でしょう」
「あなたは、お仕えしていたかたから、この竜の卵を託されたのですね」
「そうです。わがあるじカルダン様とそのご夫君の、最初で最後のお子であるこの御子を、カルダン様は私に託されたのです。私は、カルダン様にお仕えした水の精霊で、名をパクサリマナと申します」
「竜神カルダン様の。ではあなたはナーリリアをご存じですね」
「ナーリリア! かわいいナーリリア。なんと懐かしい名を聞くことでしょう。いったい、あなたは、どうしてその名をご存じなのですか」
ザーラは、事のあらましを伝えた。
「ああ、では、ナーリリアは愛しい人と出会い、幸せに暮らしているのですね。しかも、人に役立ち喜ばれて。なんてうれしい知らせでしょうか。こんなうれしい知らせをカルダン様にお届けできるなんて。ザーラ様、ありがとうございます」
白姫は、涙を流さなかった。
すでにその体全体が涙であった。
「女神カルダン様の夫君も、やはり神竜なのですか」
「いえ。ご夫君は人でした。人でしたが希代の魔術師で、史上有数のダンジョン・メーカーであられたのです」
ふと気がつけば、海の神殿が淡い光を発している。その光は、生まれたばかりの竜の子に降りそそいでいるようにみえる。
「神殿が、光っている?」
ザーラのつぶやきに、白姫が答えた。
「あの神殿は、今は海の神殿と申しますが、もとは竜の神殿といったのです。かつてカルダン様が庇護を与えた国々は、今のゴルエンザ帝国の帝都付近にありました。その繁栄をうらやんだ国々に攻められ、カルダン様が安住の地を探してたどり着かれたのが、ここだったのです。やがてカルダン様を奉ずる人々が集まるようになり、神殿が築かれました」
ナーリリアは、女神カルダンの美貌と人気に嫉妬した女神オルゴリアが、カルダンを邪神に仕立て上げ、周りの国をそそのかして、カルダンが守護を与えた国々を攻め滅ぼしたのだと言っていた。そのあとカルダンはここに来たようだ。
「人々の篤い信仰を受けたため、神殿には今も強い守護力が働いております。また、あの神殿には、カルダン様の父神であらせられる天空神様、母神であられる地母神様の加護が込められております。けれども、やがて、この地も安全ではなくなりました。自分とともにあってはわが子も滅びるゆえ、そなたに託すとおっしゃって、私を残してカルダン様はご夫君とともに北に去り、そこで命を終えられました」
カルダンを討つことによってバルデモスト王国は誕生した。そのバルデモストの貴族であるザーラは、パクサリマナの話を聞いて、胸の痛みを覚えずにはいられなかった。
「カルダン様は、神々のなかでも、人々を苦しめる妖魔たちを最も多く討伐なさったかたです。妖魔たちの恨みは深く、カルダン様の匂いのする竜卵は、彼らにとって仇敵そのものであったのです。ですから、私は、千年にわたり気配を漏らさぬ魔法をかけ続けました。しかし時満ちて誕生が近づくと、あふれ出す神気は隠しようもなくなり、妖魔たちが襲いかかってきたのです。それを退けるためカルダン様は、当代の英雄たるべきかたがたをお差し向けくださいました。あなたも、ほかのかたがたも、ご自身でお気づきではないとしても、カルダン様と縁をお持ちのはずです」
白姫の体は、だんだん透き通り、声は小さくなっていく。生命力を失いつつあるのだろう。
竜の子は、つぶらな瞳で白姫をみまもり、時々ザーラに物問いたげな眼差しを送ってくる。
「この地なら、竜の御子は、安全に成長なさることができます。いえ、今でも、ご誕生なさった御子の神気は、妖魔たちには滅びの光。また、ご誕生により、神殿に込められた天空神様と地母神様のご加護もよみがえりました。もう、大丈夫です。もう。今、すべての約束は果たされました」
消え入るように最後の言葉を言い終えると、白姫の体は水となって砂に吸い込まれて消えた。
その水の一部が手に触れたとき、ザーラの苦痛は癒され、同時に耐え難い疲労感に襲われて、ザーラは気を失った。
沈みかかる陽光に体を紅く染めた竜の子と、海から吹く風と波の音だけが残された。
挿話4
ヒュドラが空中にいるあいだに、ミノタウロスは、攻撃力増加、攻撃速度増加のスキルを発動させる。
そして、立ち位置を調整すると、ヒュドラの巨体が着地する寸前、左前足を内から外に向かって斬り飛ばしつつ、跳躍した。
どすうううんんんんんんんんんんんんんっっっ
地揺れが生じる。
ヒュドラは、横向きに倒れていた。
巨体が着地する瞬間に左足を失ったので、バランスを崩したのである。
ミノタウロスは着地し、まだ余震の残る岩の床を駆けて、ヒュドラに近寄ると、暗褐色の腹部を、すっと斬り裂いた。
ヒュドラは、バジリスクとちがい腹部もきわめて硬いが、実は比較的刃物が入りやすい部位が何か所かある。ミノタウロスの剣は、そのごく狭い部位を正確にとらえたのである。
そして、ミノタウロスは、右手を切れ目に差し込むと、心臓を引きずり出した。
そしてその心臓を、ぱくりと食べた。
首と三肢をばたばたさせて起き上がろうとしていたヒュドラは、たちまち死んだ。
ヒュドラの心臓は、不死性のよりどころであり、たとえ体から切り離しても、生命を失わない。取り出した心臓を斬り裂いても、傷はすぐに修復される。つまり心臓は殺せない。心臓を体から取り出して切り離しても、取り出した心臓が生きているかぎり、ヒュドラは死なない。だから心臓を攻撃することはむだでしかない、と人間たちは理解していた。
ところが実は、傷つけるのでなく、心臓を丸ごとばくばくと食べてしまえばヒュドラは死ぬのである。
だから、はるかな昔、竜族や巨人族がヒュドラと戦ったときには、心臓を食べることによって倒すことが普通に行われていた。
しかし、今の人間にこのことは知られておらず、ミノタウロスにしても誰かに教えてもらったわけではない。
ただ、ヒュドラの心臓に、何ともいえない力強いものを感じて、食べてみたいと思い、食べてみたところヒュドラが死んだ。その経験から、この方法を知ったのである。
ヒュドラが死んだあと、そこには赤黒い、こどもの握りこぶしほどの肉が残った。
ミノタウロスは、それを拾い上げ、ザックに入れた。
不死の肉。
そう呼ばれる貴重アイテムである。
地上では、これを用いて強力な回復薬を作ることができる。
死にかけた病人でも元気になり、老人は若返るという。
効果は永続的ではないが、金を持つ老人には絶大な人気がある。
また、回春と精力増強の薬の原料ともなるため、後宮に売って大金や人脈をつかむこともできる。
だが、これを得た冒険者は、よほど金に困っているのでなければ、売ることはない。
なぜなら、不死の肉は、迷宮内で服用すれば、一定時間、損耗した体の部位を瞬間的に修復する効果があり、致命的なダメージからさえ命を守ってくれるからである。
冒険者たちはそれを、不死効果と呼んでいる。
不死効果はほんの数呼吸のあいだしか続かないが、最下層で戦う冒険者たちにとっては最後の切り札となる。
ミノタウロスは、石室を出た。
気分は晴れなかった。
やはり、こんなものをいくら倒しても、どうにもならない。
こんな戦いに喜びはない。
こんな敵に比べたら、メタルドラゴンのほうがずっとましだった。
ヒュドラより一回りも二回りも大きい体躯。三つの首は、それぞれ二本の角で風や水を操り、衝撃波、高熱、超低温のブレスを吐く。
青い燐光を放つ半透明の翼を広げて、広大なボス部屋を飛び回り、三本の尾から雷を落とす。
鱗の硬さはヒュドラをしのぎ、魔法攻撃にも物理攻撃にも、桁外れの抵抗を持っていた。
そのうえ高い知力を持っており、こちらの行動の裏をかいてきた。
はじめは、どうやって倒したものか見当もつかない敵だった。
だが、あのメタルドラゴンでさえ、今戦えば物足りなく感じるであろう。
強い敵を俺に与えてくれ。
俺を苦しめる、強い敵を。
あの人間に勝てる力を俺にくれる、本当に強い敵を。
ミノタウロスの全身が、そう叫んでいた。
よい戦いへの飢えは、煮えたぎる濁流となって身の内でふくれ上がり、体中の毛穴から吹き出しそうであった。
このときのミノタウロスは、まだ知らなかった。
自分の願いが、とうにかなえられていることを。
第14話 エルストラン迷宮の亡霊
1
最初に目を覚ましたのは僧侶のゴンドナだった。
夜明け少し前である。
少し遅れてザーラとボランテとヒマトラが、ほぼ同時に起きた。
驚いたことに、体が痛くない。気分は爽快で、肉体は生気に満ちている。
冒険者メダルにさわって確認すると、なんと七十九レベルになっていた。
戦闘前のレベルアップで七十二になっていたが、それから七つも上がっているのである。たしかに山ほどの敵を倒したが、それにしても、あり得ないほどのレベルアップである。
最近、このようなことが何度か起きている。
「ゴンドナ殿。レベルアップというものは、敵を倒して得られる経験値によってのみ起こるものと思っていました。ちがうのでしょうか」
「ふむ。冒険者の実践的理解としては、とてもすっきりした、わかりやすい考え方じゃのう。間違いではない。じゃが、より本質的にいえば、レベルアップというのは、神々の感謝が生き物を成長させる出来事なのじゃ」
「神様の感謝ですか? 意味がよくわかりません」
「ここに饅頭屋がおるとする。饅頭に一個いくらと値段をつけて、それを売る。じゃがのう。かわいい孫が来たら、饅頭屋は金を取らずに饅頭をやるかもしれん」
「はい」
「そのかわいい孫が川でおぼれて、それを助けてくれた人がいたら、お金を取らずに饅頭をどっさりあげるかもしれん」
「饅頭屋が神様で、饅頭が経験値ですか」
「そうじゃ。このモンスターを倒したら経験値がどのくらい。レベルいくつだから、あと経験値どのくらいで次のレベル。これはの、一個いくらで饅頭を買うようなものじゃ。対価と見返りが常に釣り合っているようにみえるから、法則のように人は思う。しかし、そんな保証は本当はないのじゃがな。饅頭屋が客の態度に怒って饅頭を売らんこともあるかもしれん。店をやめてしまうかもしれん」
「そうであるなら、なぜ、一個いくらで饅頭を買えるようなレベルアップが、現在あるのでしょうか」
「それは、わしにもわからんがの。神が人に恩寵としてくだされたのか。人が求めて神が応えたもうたのか。いずれにしても、そうすることによって大きな意味で神の御心にかなうような何かがあったのじゃろうな」
「私はどこかで、神様のお孫さんを助けたのでしょうか」
「助けたんじゃろうな。実現したいが神の力だけではなしえず、人がこれをしてくれたらと神が願っておられる事柄がある。それをなしてくれた人間は、神にとって孫を助けてくれた恩人にひとしい。神はその人間に感謝なさる。その感謝がそのまま経験値という恩寵となるのじゃ。神の側から働きかけが起きるので、あらためて請願をせずともレベルアップが起きるわけじゃな」
「なるほど。そういわれてみると、ふに落ちる点もあります」
ボランテもヒマトラも大幅なレベルアップをしていたようで、二人の会話を興味深げに聞いていたが、
「その話は、そのへんでいいわ。あたしが倒れたあと何が起きたか、教えて。それから」
傍らの白い子竜のほうをみてザーラに聞いた。
「こ、これって、やっぱり、あれ?」
「地上で最後と思われる竜の御子です」
ボランテとヒマトラが、宙に浮く竜の周りを回ってをじろじろ観察する。
竜の子のほうでも、これをおもしろがって、ボランテとヒマトラをみつめながら、その周りをふわりと一周する。ボランテとヒマトラは、さらに回り込もうとする。そして互いに相手の周りをぐるぐる回り始めたのだが、やがてヒマトラが足をもつれさせて転んだ。
竜の子が、きゅいきゅいと喜びながら、ヒマトラの上空で勝利の踊りを踊っている。
静かで平和な浜辺に朝の日が昇ろうとしていた。
2
ザーラは、皆が倒れてからのことをできるだけ正確に語った。
そのあと、一同は白姫の墓を作った。
その前で祈祷を捧げたあと、報酬を分配した。
「ゴンドナ殿。竜の命名をパクサリマナ殿から頼まれたのですが、どうすればよいのでしょうか」
「そうじゃなあ。決まった様式などないと思うが、王の長子の命名式になぞらえてやってみるかのう。よし、皆、供物を差し出せ」
ゴンドナは、ありあわせの素材で見事な祭壇を組み上げてみせた。
「さあ始めるか」
ゴンドナが聖衣を取り出して身に着けたときには、みんな声を失った。
「か、枢機卿の正服う?」
「ご、ゴンちゃん、あんた」
ではゴンドナは僧侶ではなく神官だったのだ。
神あるいは神々に仕えて秘儀を行うのが神官であり、寺院に奉仕し教えに従って修行と救済を行うのが僧侶である。僧侶には、寺院の職級は別として位階はない。神官には、見習い神官、平神官、助祭、司祭、司教、枢機卿という位階がある。枢機卿は神官の最高位なのである。
まるで神官のようなスキル構成だなとは思っていたのだが、祈祷書や神官杖を使わないので、やはり僧侶なのかなとも思っていたのだ。
ゴンドナの采配にしたがって命名式は進められ、ザーラは竜の子にフレアという名をつけた。大陸南部の古い言葉で宝物という意味がある。ゴンドナによれば竜の子は女性だというので、それにふさわしい名を選んだつもりだ。
一同は、天に手を差し伸べて、命名の出来事を証言し、寿いだ。
それから宴会になった。
供えられた食材が料理され、供えられた酒を飲んだ。供えられていなかった酒も飲んだ。
ゴンドナが最高位の聖職者であると知って、ヒマトラは敬称をつけて呼ぶようになった。
「ゴン猊下、そっちの肉取って。あ、そのワイン、こっちにちょうだい。ちがうわよ。瓶ごとよこしなさい。ありがと。さすが枢機卿ねえ。いーワインだわー。猊下〜、このワイン、あとで十本ちょうだいね」
相変わらず敬意はこもっていないが。
ボランテは、ある国の騎士団でそれなりの地位にいたらしいが、別の国との戦争で上司の判断に異議を申し立て、すったもんだのあげく上司をぶちのめして出奔してきたらしい。
ヒマトラは、ある国で宮廷魔術師見習いだったが、手込めにしようとした上司を黒こげにして出奔してきたそうだ。
ザーラは、自分は親の遺志を継いで強敵と戦うために修業の旅をしていると言った。
ゴンドナは自分の経歴を語らなかった。だがボランテとヒマトラには、ゴンドナが儀式の際に着用した神官服の意匠に心当たりがあるようだった。
このあとどうするかという話になった。
ゴンドナは海の神殿に行くという。竜の子も連れていってくれることになった。
ボランテとヒマトラは、五人が出会った街に戻るという。ぎゃふんと言わせたい相手がいるんでね、とはボランテの弁だ。
ザーラは、ギル・リンクスのふるさとを一目みてから南に行く、と言った。
「あんたねえ。お金が入ったからといって葉巻はだめよ」
「お前にそんなこと言われる筋合いはねえよ」
ヒマトラは自分自身に筋力上昇の呪文をかけ、ゴンドナからメイスを借り、ボランテを張り倒した。
そのとき、ボランテは、確かにごつんと派手な音を立ててメイスに当たって倒れながら、ほとんどダメージは受けていないという絶妙の見切りをみせ、ザーラをうならせた。
使えないと言っていた支援魔法をヒマトラが使ったことを、あえて指摘する者はなかった。
竜の子は、エッテナの燻製が、ひどくお気に召したようだ。
しっかり燻された端の固いところを、竜の子のブレスで軽くあぶると、極上の珍味になることを、ゴンドナが発見した。
最高に楽しい夜となった。
3
翌朝、一同は別れた。
まず、馬に乗ってボランテとヒマトラが去った。二頭の馬は砂浜から少ししか離れていない林のなかにいて、ボランテが口笛を吹くと戻ってきたのである。
二人の姿が峠の向こう側に消えるころ、ゴンドナが言った。
「実は、わしも、目が覚めたらレベルが上がっておってなあ。それだけではないのじゃ。コンヴィクション・ハンマーを使うとき、寿命の半分を差し出したのじゃが、今朝みてみると、半分減るどころかもとより少し増えておったようじゃ。大きな饅頭を頂いた、ということかの」
(寿命の半分というのは、残り寿命の半分なのだろうか。それとも、全寿命の半分なのだろうか。そもそも自分の寿命をみることができるのか?)
疑問には思ったが、聞くことはしなかった。とんでもない答えが返ってきそうで怖かったのだ。
竜の子は、はじめはザーラのそばを離れなかったが、ザーラが持ち合わせている燻製肉をすべてゴンドナに渡すと、今度はゴンドナのそばを離れなくなった。
「わしは、これからしばらく神殿で祈念を込める。ザーラ殿のことも祈っておるからのう。神のみわざは賛むべきかな。若き冒険者の旅に、幸多かれ」
ザーラは、頭を垂れて祝福を受け、旅立った。
ユトの島を訪れて感慨を深め、大陸に戻って、半島を海沿いに南下した。
モンスターに襲われている隊商をみかけて助力したところ、乞われて護衛に加わることになった。
アルダナに入った辺りで別れようとしたが、隊商の長が、ロアル教国まで来てほしいと言う。この辺りは盗賊が多いというのだ。
ザーラはロアル教国に入るつもりはなかった。ロアル教国はアルダナ国のなかにある宗教国家で、形式的にはアルダナから自治を許された小領主領といった立場であるが、諸国の神殿の本山にあたる大神殿をいくつも抱え、大陸全体から聖地とみなされている。
その反面、世俗化した聖職者が横暴なふるまいをしたり、異なる神を奉ずる神殿同士のあいだで権力闘争が盛んであるなどといった噂もあり、ザーラとしてはあまり足を踏み入れたい気持ちではなかった。
入国審査が厳しいらしいというのも、ロアル教国に入りたくない理由の一つだった。
だが、別にやましいところがあるわけでもない。
とにかく関所まで送ることにした。
関所というのは、巨大な砦だった。砦の両横には、長く高い壁が築かれており、砦を過ぎれば、もうそこが街であるという。
入国審査待ちの長い列ができているのをみて、ここで別れようかと思ったが、せっかくここまで来たのだから少し町をみてみるかという気になり、列に並んだ。
審査を受けるまで、ずいぶんかかった。
冒険者メダルを審査した係官が、大きな声で言った。
「おお! Sクラスの冒険者殿ですか。ようこそ、ロアル教国に。神々と教主様との御名において、あなたを歓迎します。神々の栄光は永遠なり」
周り中の視線を集めた。護衛してきた隊商の長までが、目をみはっている。
それからが、大変だった。
報酬をもらって別れようとしたが、隊商の長は、護衛の専属契約をしつこく迫ってくる。断っても、今日の宿はどうしますかとか、よかったらお世話しますと言われ、それも断ると、案内の人間をつけると言う。
隊商の長だけではない。さまざまな人々がザーラを取り巻き、親切がましく話しかけては、何とか関係を結ぼうとしてくる。
「私は冒険者ギルドに行くので、用事があればそちらに」
そう宣言して何とか包囲網を脱出した。案内しようと申し出る人々を振り切って冒険者ギルドに到着したが、それからが、さらに大変だった。
冒険者ギルドに行くと言ったのは、まとわりつく人々を振り払うための口実だったのだが、せっかく来たのだからと、ロアル教国にどんな迷宮があるかについて情報を求めると、冒険者メダルを提示するよう言われた。
冒険者メダルを鑑定した職員がぎょっとした表情になり、しばらく席をはずしたあと、ギルド長が面接に加わった。
これまでの業績を細かに聞かれたが、バルデモスト王国のサザードン迷宮で冒険を続け、その後思うところあって旅に出たことを話した。
旅に出てからいくつかの依頼を受けたことを話したが、依頼主の秘密に関わるからという理由で詳しい説明は拒んだ。
ギルド長がザーラに強い興味を示したのも無理はない。
冒険者ギルドにとりSクラス冒険者は、最大の商品であると同時に、ギルドが高い自立性を保ちあらゆる干渉をはねのけて存立し続けるための切り札である。
であるから、常にその所在を把握し、緊急度の高い案件については義務に近い形で依頼の斡旋をすることがあるかわり、国家に対してさえSクラス冒険者の権利を守る防波堤となるのである。
新しいSクラス冒険者は、誕生した直後にその国のギルドや権力者に囲い込まれるものだ。ところが、今ロアル教国に、一人のSクラス冒険者がふらりと現れた。なんと、そのレベル、七十九。しかも十六歳という信じられない若さである。そのうえ、どこの組織に属するわけでもなく、修業の旅をしているという。
ギルド長は、この若者を縛りつけるために手段は選ばない、と決心していた。
今、こうして必要事項の確認という名目で足止めしつつ、裏では、目端の利く職員に命じて、酒、宿、女、観光案内、魅力的な仕事、地位、高性能武具の提供など、ありとあらゆる懐柔作戦を立案準備させているところなのである。
引き留めようとするギルド長を振り切って、ザーラは応接室を出た。
それからが、あらためて大変だった。
ロビーは、人で埋め尽くされていて、その誰もがザーラに用事があった。
冒険者が、商人が、役人が、彗星のように現れた若きSクラス冒険者と縁故を結ばんとして、ザーラを取り囲んで話しかけてくる。
手や体を引っ張る者もある。髪の毛をつかむ者もある。いつしかマントもはぎ取られ、髪はぐしゃぐしゃになり、体には、擦り傷やあざが増えていく。
(サハギンなら、近いところから順番に斬り捨てていけばよいのだが)
(人間には、どう対処すればよいのか)
ザーラは修業に明け暮れてきたので、対人スキルは磨かれていない。また、高位の貴族家の生まれなので、群衆に取り囲まれて無遠慮に要求や質問を突きつけられるという経験がない。そんなザーラにとって、これはまさに集団攻撃である。すさまじい言葉の嵐と人間の密集で、意識が怪しく明滅し始める。
(ああ……毒蜂に……似てる……な)
五十レベルのモンスターを危なげなく倒す冒険者が、五レベルとか六レベルの昆虫や小型爬虫類モンスター多数に囲まれて命を落とすことがある。一匹一匹の毒はたいしたことがなくても、敵の大軍に包囲されて連続的に刺され続ければ大きなダメージとなるのだ。
そんなときザーラの耳に飛び込んできた声がある。
「これから迷宮に行くんだが、一緒にどうだい」
ザーラはとっさにその声の主の手をつかんだ。
「行きましょう、迷宮に!」
「まずは、外に出るぜっ」
叫んだ相手の言葉に従い、ザーラは人波をかき分けてギルドの外に出た。
行動方針さえ決まれば、あとは技術の問題である。敵が押し寄せてくる渦のなかで、押して、引いて、層の薄い部分を作り、そこをすり抜けていくことは、戦闘技術の一種だ。
迷宮探索を呼びかけてきた青年もギルドを出てきた。
「こっちだ!」
その青年は、なかなか機敏な動きをみせた。たぶんスカウトだ。
道を走り、路地を抜け、壁を上がって屋根を越え、二人は追跡者たちを振り切った。
「さすが、やるな。俺にあっさりついてくるなんて」
汗を拭いながら、少し息を乱して、相手の男が手を差し伸べてくる。
「ポリアプルだ。よろしくな」
二人は握手を交わした。
4
ポリアプルと名乗ったスカウトは、仲間が待っている安宿にザーラを連れてきた。
合流した仲間たちと共に、ポリアプルはザーラを伴って食堂に行き、一同に飲み物が行き渡るとまずは乾杯をして、一同の紹介をした。ザーラがSクラスの剣士だと知って、仲間たちは大いに盛り上がった。
迷宮の名はエルストラン迷宮といい、多重型迷宮であるという。
多重型迷宮というのは、入り口を入ると他の冒険者たちとはちがう位相に放り込まれる迷宮である。パーティーを組んでいる仲間以外とは、出会いたくても出会えない。
例えば、Aというパーティーが、第一階層のボスを倒したとする。同時刻に、Bというパーティーが同じボス部屋に行く。そこには、ちゃんとボスがいるのである。
つまり、入っているパーティーと同じ数だけの、同じ中身を持った別々の迷宮があるようなものだ。
多重型迷宮では、一度入ってしまえば、パーティーの仲間以外の人間と遭うことはない。今のザーラにとって、まさに願ったりかなったりの迷宮である。
ポリアプルと仲間たちは、ロアル教国の、こことは別の街に生まれ、固定パーティーを組んで迷宮探索やクエストをしてきた。
しばらく前からこの街で情報収集をしていて、大変な値打ちのある古文書を運よく入手した。それには、ある特定条件下でのエルストラン迷宮の攻略方法が書かれているというのである。
「あんたは、エルストラン迷宮を知らないんだな。この国じゃ有名なんだけどな。別名を幽霊迷宮。階層は一つだけ。八つの部屋がある。モンスターは、スケルトンのみ。通常のスケルトンと、レッド・スケルトンと、ブラック・スケルトンがいる。ある条件を満たすやり方でこのスケルトンどもを倒していくと、ボス部屋に飛べる。このボスというのが幽霊なんだが、賞品をくれる。とても珍しくて高性能の武器なんだ。パーティーが何人であろうと、そのそれぞれが、自分に合った武器をもらえる。その武器をもらうのを拒否すると、幽霊と戦うことになるらしいんだが、ここは戦っちゃいかん。武器を手に入れるのが目的だからな」
エールで喉をうるおして、説明を続ける。
「クリアのヒントは、入り口の岩に表示されている。入り口の手前に、細長い岩が突き立っていてな。上の部分は、斜めにすぱっと切れてる。そこに宝玉が十二個埋められているんだが、これが、色とりどりに輝いている。この宝玉は、誰かが迷宮をクリアするたびに配色が変わるんだ。その配色は、どういうふうにスケルトンどもを倒せばいいかを示している、といわれてるが、それを読み取る方法は、誰も知らない。結局、手当たり次第にスケルトンどもを倒していって、運がよければボス部屋に飛べる、ってのが、みんながやってるやり方さ。ま、あんまり」
もう一度、ぐいっとエールをあおる。
「利口なやり方とはいえねえがな。それでも、二年か三年に一度は、ボス部屋に飛べるやつが出る。確かにそのたんびに宝玉の色は変わる。けども、その色が何を示してるのか、わかるやつはいなかった。今まではな」
ポリアプルが、思わせぶりに、ザックから古文書を出して、あるページをザーラにみせた。
「ここに、十二の宝玉の配色が描かれてるだろう。これを描いた冒険者は、この配色だったときに迷宮をクリアした。そのクリアの条件を次のページに書いてあるんだが」
ぐっと身をザーラに寄せ、ささやくように続ける。
「いいか。普通のスケルトンと、ブラック・スケルトンは関係ねえ。倒してもいいし、倒さなくてもいいし、何体倒してもかまわねえ。問題はレッド・スケルトンさ。こいつは倒すべき数が部屋ごとに決まってる。それ以上でも、それ以下でも、だめなんだ。その数ぴったりを倒して回ったとき、クリアって寸法なのさ。そして、この古文書には、各部屋で倒すべきレッド・スケルトンの数が、ちゃんと描かれている。そして」
にやっと笑って、古文書を指ではじく。
「この配色は、ただ今現在の入り口の岩の配色と、まったく同じなのさ」
クリアの仕方がわかっているのなら、さっさとクリアしてしまえばよいのに、とザーラは思ったが、倒す数が決まっているというのは、存外むずかしいらしい。何度も挑戦したが、相手が何体も一緒に出てくるため、つい倒しすぎてしまうらしい。どうしても乱戦になりがちで、全体で倒した数がわからなくなるという。それで、決定力がある仲間を探していた、というのである。
5
(枯れ木をたくさん打ち鳴らすような音だな)
十何体目かのレッド・スケルトンを倒しての感想である。
今日は、ローガンから餞別にもらったバトルハンマーを使っている。とても重たいが破壊力は抜群で、レッド・スケルトンはおろか、ブラック・スケルトンでさえ一撃で粉砕できる。そのブラック・スケルトンが、後ろから近づいてくる。
(なぜ、誰も補助してくれないのだろうか)
(これではパーティー戦ではなく個人戦ではないか)
せっかく、スカウト、剣士、戦士、支援魔法使い、攻撃魔法使い、施療神官という理想的といっていい編成なのに、それがまったく生かされていない。
スカウトは、倒したレッド・スケルトンの数を数える以外のことをしない。
戦士は、普通のスケルトンを引きつけると言っていたが、三体を相手にするだけで精一杯なので、危なくて任せられない。
攻撃魔法使いは、余分なレッド・スケルトンを倒してしまってはいけないからと、まったく戦闘に参加しない。
支援魔法使いは、一生懸命支援をしてくれようとはしているが、スケルトンがうじゃうじゃいるなかでザーラにうまく近づけず、支援を切らしたままである。
施療神官は、不要なときに回復をするかと思えば、必要なときにはほかのことに気を取られている。
(ソロだと思えばいい)
(仲間がいると思うから寂しいんだ)
6
迷宮攻略は進んだ。
すでに、八つの部屋のうち五つまでは、指定された数のレッド・スケルトンを倒してきている。
もう、ほかのメンバーから攻撃の協力を得ることは、諦めていた。今さら下手に手を出されて余分のレッド・スケルトンを倒され、振り出しに戻ったのではやりきれない。
(とっとと踏破してしまおう)
それでも、ザーラは支援魔法使いに声をかけた。
「次の部屋に入ったら、拘束魔法をお願いできるかな」
うん、頑張るね、という支援魔法使いのかわいい笑顔には、ささくれかけた神経をなだめるものがあった。
そして、部屋に入った。
この部屋には、ずいぶんブラック・スケルトンが多い。
ザーラは、拘束魔法の予約をした自分を、褒めてあげたい気持ちになった。
そして、呪文が発せられる。
「アース・バインド!」
魔法は、ちゃんとかかった。
ザーラに。
足を動かせない状態のまま、ザーラは敵を倒し続けた。
この部屋で、ザーラは、二つのことを学んだ。
一つ、アース・バインドは、同じパーティーの仲間にもかけることができる。
一つ、一度かけたアース・バインドは、時間が来るまでかけた本人にも解除できない。
できれば二度と役に立ってほしくない知識である。
7
最後の部屋である。
最後のレッド・スケルトンを、ザーラのバトル・ハンマーが粉砕する。
すると、ぶうん、と音がして、風景がかすんだ。
気がつけば、今までとまったくちがう部屋にいた。
パーティーメンバー全員が、一緒に移動してきている。部屋の中央にはテーブルがあり、武器が置かれている。その向こうには幽霊がいて、静かに笑っている。
「やった。ついに、俺たちは、やったんだ!」
「あたしたち、やったのね!」
「そうですよ。やっと努力が実ったんだです!」
せっかく、みんなが喜び合っているのに、自分だけがこんなに冷めた気持ちでいてはいけないと思うのだが、ザーラには達成感のかけらもない。わずかに、これで終わったという解放感のようなものがあるだけだ。
ふと気がつけば、パーティーが解散されている。
この部屋に飛ぶと、自動的に解散になるのだろう。ということは、ボスと戦うかどうかは一人一人が個別に選択できるのかもしれない。
仲間たちはテーブルに駆け寄り、気に入った武器に手を伸ばす。そして、武器を手に取った人間は、そこから消えた。迷宮の入り口にでも送り返されるのだろうか。そのことについては聞くのを忘れていた。
パー手イーを組んでいた仲間たちは次々に消えてゆき、ザーラだけが残った。
しかし、今のザーラは、そんなことに興味を持ってはいなかった。
今、ザーラの関心は、テーブルの向こうにいる幽霊に向けられている。
8
(男でも麗人と呼んでいいのだったか)
長くまっすぐな銀色の髪。
卵型の小さな顔。
優しげな青色の目。
銀色の貫頭衣は、絹のような光沢を持ち、たっぷりとひだを作りながら床に届いている。
腰の辺りに紫色のサッシュをゆったりと巻きつけている。
左腰の上では高い位置に細く、右腰の上では低い位置に広く、サッシュは貫頭衣を押さえ、上品な結び目を作って、右腰の横に垂れている。
顔と肌の色は、ほんの少し黄色を含んだ白色である。
目は深い青色をして、口には笑みをたたえている。
細長く繊細な手と指は、それだけみれば女性のようである。
その全身は半透明で、背後の壁が透けてみえるので、幽霊というのにふさわしい。
「今さら、私を呼び出す人がいるとは、驚いたな。でも、呼び出されたからには、仕事はしようか。それで、どこの迷宮に行けばいいのかな?」
「どこの迷宮、というのは何のことですか?」
「うん? 迷宮の調整で私を呼び出したのではないのかな?」
「私は、あなたがどなたかも知りません。私は、ここエルストラン迷宮の攻略をするために、人に頼まれてパーティーに参加したのです」
「攻略? 攻略とは何のことかな」
「しかるべき手順を踏んで、この部屋にたどり着くことです」
「ああ、なるほどね。それは攻略というようなものなのかな? それで、何のために攻略をするの?」
「褒賞の武器を得るためだそうです」
銀髪の男は、しばらくきょとんとして、それから、笑い出した。
「それは愉快だ。ああ、なるほどね。たぶん、だいぶ時間がたってるんだろうね。あれは私を呼び出す資格を持っていない人がこの部屋に来たときに、まあご足労のお駄賃として出現するようにしていたものなんだ。わざわざそれを目的にするような物じゃないんだけどね」
「私の聞いたところでは、この部屋にたどり着くと幽霊と武器が現れ、武器を選択すればそれは自分の物となり、選択しなければ幽霊と戦うことになる、ということでした」
「戦えないよ、あれとは。いつもなら出るあれは単なる映し絵にすぎない。姿は私と同じだけれどね。あなたは条件を満たしていないのでご要望をお聞きすることはできません、と伝えることしかできないんだ。君は依頼者としての条件を満たしている。それで私が呼び出されたというわけだ」
「あなたとは、戦えるのですか」
「うん? 戦いたいのかい? 戦えなくはないけれど、私を倒すことはできないよ。私は、霊体だからね。それも、本来の意識を持たない影絵のような霊体だね。まあ、私が出現できたということは、本体のほうも生きているということだけど」
「本体は、どこにおられるのですか?」
「うーん。これは、答えにくい質問だなあ。そうだなあ、君が、絶対に訪ねてこず、人にも教えないと誓ってくれるなら、こっそり教えてあげてもいい」
「では、お聞きしないことにします」
「ははは。君は愉快な人だね。私は戦闘力は低いので、実際に戦ったらがっかりすること請け合いなんだが。……うん?」
何に気がついたのか、幽霊の様子が変わった。
「それは、まさか?」
幽霊が、ザーラのほうに右手をかざした。
すると、ザーラのルームの操作画面が表示され、アイテムの検索が始まった。
(馬鹿な! 私は操作画面を表示させていないぞ!)
他人のルームの操作画面を勝手に表示させるなどということは、絶対に不可能だ。その不可能なことをこの幽霊は行った。
次々と画面の表示が変わる。
つまり持ち主でもない人物が、画面を操作しているのだ。あり得ざる事態である。ザーラが驚きのあまり硬直していると、ルームのなかに収納されている五点のアイテムが表示された。
それらは、別々のカテゴリーに分類され、別々の引き出しに格納されており、共通の検索項目を持たないのだから、検索画面で同時に表示されることはない。
にもかかわらず、まさにその五点、すなわちメルクリウス家から貸与されている五つの恩寵品が、今同時に表示されている。
「この五つの恩寵品を、どこで手に入れた? 返事によっては、君は私が自ら殺す最初の人間になる」
9
青かった幽霊の目は、今や金色に輝いている。まなざしからは先ほどまでの優しげな雰囲気が消え、氷のように冷たい。
ザーラは、大きく息を吸って、答えた。
「この五つの恩寵品は、バルデモスト王国のメルクリウス家が襲蔵しているものです。メルクリウス家の初代が、神竜カルダン様より武勇と忠誠を賞せられて賜ったと聞いております。メルクリウス家の現当主が、サザードン迷宮のミノタウロスを倒すまでとの約束で、私に貸与くださったのです」
ひと呼吸かふた呼吸のあいだ、幽霊はザーラを探るように、じっとみつめた。そのあと、急に表情を和らげた。
「君のまとう空気は、君の言葉が心からのものであると告げている。脅かしてすまなかったね。許してくれたまえ」
幽霊から殺気が消え、目も青色に戻る。
ザーラは、汗が吹き出すのを感じた。この実在ならざる相手が、いかに強い圧力を発していたかということである。
「サザードン迷宮は、もちろん知っているよ。だが、ミノタウロス? なぜ君ほどの剣士が、ミノタウロスなどを目標にするのかな? それにその五つの恩寵品は、ミノタウロス相手に必要になるようなものじゃないよ」
「三十年と少し前より、サザードン迷宮では、第十階層で生まれたミノタウロスが、各階層のモンスターたちを撃破して最下層に至り、メタルドラゴンを数えきれぬほど倒し続け、替わって最下層の主として君臨しているのです」
「は? ミノタウロスが? そんな馬鹿な。ああ、失礼。君の言葉を疑っているわけじゃないんだ。ただ、あの迷宮は、そんなイレギュラーが起こるような、不安定な作りにはなっていなかったはずなんだ。だが、よりによって第十階層か。偶然、なわけはないな。ああ、ちょっと待って。いろいろ教えてほしいこともあるし。おわびもしたいし。場所を変えよう。ここでは、お茶も出せない」
幽霊は、しばらく目を閉じて何事かを考えているようであった。
「なんてことだ。どこもかしこも荒れ果ててる。今、いったい何年なんだろう」
「王国暦では千百十四年です」
「王国暦? どこの王国かな?」
「バルデモスト王国です。女神カルダン様が、その、お亡くなりになった年が、王国暦元年とされております」
「……ほう。これは驚いた。ずいぶん時が流れているね。うーん。あそこなら大丈夫かな。ああ、大丈夫だった。失礼。移動するよ」
一瞬で、景色が変わった。瞬間移動したのだろう。しかし、瞬間移動につきものの、引っ張られるような感じや、内臓がねじれるような不快感はなかった。
そこは花が咲き乱れる庭園のあずまやで、大理石のテーブルと、材質はわからないが、白くて豪奢な飾り彫りがほどこされた椅子が二脚置いてある。
「どうぞ、座って。悪いが、お茶は準備できない。自分で飲み物を持っているなら、遠慮なく飲んでくれればいい。私は、飲んだり食べたりできないからね。まあ、立ったままでもいいけど、演出的に、座るとしよう」
幽霊は、椅子に座った。その動作も座る姿も、みとれるほど優美なものだった。
「そうだ。私は、迷宮のラスボスということになっているんだったね。では、千二百年ぶりの正式攻略者に、賞品を与えないといけない。何が欲しい?」
「何が、と言われても、今すぐに欲しいものはありません」
「いやいや。それでは、ラスボスとしての私のめんつが立たないね。うん。これなんかどうだろう」
幽霊がテーブルの上に置いたのはショートソードだった。ショートソードというにも少し短いが、短剣というほど短くもない。まるでオリハルコンで作られたかのような高貴な色合いだが、刃先が赤い色に染めてあるのが、いささか不気味だ。
「これは、小さく振れば、半径十歩ほどの、大きく振れば、半径五百歩ほどの、すべてを破壊する魔法陣を生み出す。振り方しだいで、近くにでも遠くにでも魔法陣を作れるので、とても便利だよ。ただ、持ち主自身の手で一年に十人以上の人間の命を捧げないといけない」
「そんなカースド・アイテムは要りません」
「いや、呪いはないんだ。ちゃんと使ってる限りはね。十人殺すのを忘れると、そのときはじめて、持ち主が呪われるんだ」
「要りません」
「それは残念。では、こちらはどうだろう」
次にテーブルに置かれたのは、宝石を埋め込んだ指輪だった。
赤黒い宝石は、高級にはみえるが、どうにも毒々しい。
「リザレクション・リングの一種でね。冥王の指輪の劣化版、といったところだ。これを着けていると大怪我もただちに治るし、死んでもすぐ生き返る。ただ、冥王の指輪のように老化をとめる機能はないので、不老不死というわけにはいかないけどね。それと、聖属性の攻撃に、ちょっぴり弱くなる。あと、これを装着すると、下級悪魔の一人を主人に定め、永久に仕えなくてはならない」
「要りません」
「悪魔のことなら心配はいらない。あらかじめ封印しておけばいいんだ。なんなら、アフターケアとして手伝うよ。悪魔を自分の体とか服のどこかに封印しておくと、なかなか便利だよ。持ち主が死んだ瞬間に封印が解けるから、自分を殺した相手や、遺産を持っていこうとする不心得者たちを皆殺しにしてくれる」
「要りません」
「うーん。君はなかなか好みがむずかしいようだね」
幽霊は、そのあと、みた者の心を支配できる鏡と、一日後に百倍の攻撃を反射するヘルムを出して説明したが、ザーラは、どちらも欲しくないと答えた。
「しかたないね。欲しい物ができたら、そのとき言いなさい。さて、では、少し話を聞きたいんだが、いいかな」
10
最初に聞かれたのは、今、世界にはどんな国があるかということだった。
次に、サザードン迷宮のミノタウロスについて聞かれた。
ザーラは、知っている限りのことを説明した。
「待ってくれたまえ。冒険者というのは、いったい何かな? ほう。そういう恩寵職なのか」
「ポーションというのは、ものすごいものみたいだね。もし今持っていたら、みせてもらえないかな。おお、こりゃ、よくできてる。へえ」
「迷宮では、よほど成長の効率がいいんだろうね。なるほど。神霊が減った穴埋めを、そういう形でしたわけか。うまい手だ。人も増え、国々も栄えているようだから、効果は高かったんだろうね。だが、その方法だと、よどみはたまるばかりなんじゃないのかな。ああ、失礼。これは君への質問じゃあない。ふむ。あとで調べてみないといけないなあ」
「冒険者メダルというのをみせてもらえるかな。これは驚いた。強さや能力を擬似的に数値で表すのか。このレベルというのはすごい発明だなあ。これに応じて神々の加護があるわけか。うーん。やるなあ。これだと、みんな争ってレベル上げをするだろうね」
「神殿で発行するわけだね、この冒険者メダルは。なるほど、なるほど。これが目印になるわけだ。冒険者メダルを携行せずに迷宮に潜っても、レベルは上がらないんじゃないかな? わからないって? たぶんそのはずだよ」
「このクラスというのは何? これが上がると、どんないいことがあるのかな? ほう、ほう。それは面白い。よくできてる。しかし、レベルだけでなく、ギルドとやらの依頼を達成しても加味されるというのがよくわからないなあ。もしかして、クエストとかいうものと関係なく善行を積んだときにもクラスが上がりやすくなったりしないかな? ああ、やっぱり」
「ということは、罪のない人間を殺したりすると、クラスが下がったりしないかな? うん、うん。そうだろうね。よく考えられている。そうやって、力を濫用しないよう方向付けをしているわけだ。そうでないと世界は殺伐とする一方だろうからね」
幽霊は、いろいろな質問をしたあと、表情を改めてこんな質問をした。
「ところで君は、この千年のあいだに竜が目撃されたというような話は聞いていないだろうか。もちろん、迷宮の外での話だ」
この質問に答えてよいのか、わずかな時間、ザーラは悩んだ。
その結果、告げるべきであるという強い思いが湧いてきた。
「はい。つい先日、女神カルダン様とご夫君の御子である、白い竜が生まれました。私は、不思議な縁により、その場に立ち会い、名付け親とならせていただきました」
幽霊が急に立ち上がった。
そして、両手をテーブルに突いて頭を下げた。
「まことに失礼なことを言うが、君の記憶をみせてもらえないだろうか。頼む」
ザーラは、下腹に力を入れて答えた。
「どうぞ」
「ありがとう」
幽霊は、礼を言いながら右手を伸ばしてザーラの額にふれた。
そして目を閉じて何事かをつぶやいた。
一瞬めまいがしたように思った。
気がつけば、幽霊の手はもう額から離れていた。
幽霊は、目を閉じたまま何かの思いにひたっている。
その閉じた目からは涙がこぼれている。顎をつたってしたたった涙は、テーブルも床も塗らすことなく空中で消えてしまうのだが。
どれほどの時間がたったろうか。
幽霊は、まっすぐ背を伸ばし、右手を自分の心臓の位置に当て、ザーラに対して深々とおじぎをした。長い銀髪が、さらりと垂れる。
「ザーラ殿。お礼を申し上げる。わが子を、よくぞお守りくださった。感謝の言葉もない。そのうえ、よき名をお付けくださり、このうえなく適切な場所に導いてくださった。さらにパクサリマナとナーリリアに対して貴殿がしてくださったこと、決して忘れぬ。いつか必ずこのご恩はお返しする」
突然の幽霊の言葉に、ザーラは驚いたが、それでも、それが相手の真摯な思いの発露であり、真剣に受けるべきものだとわかった。
ザーラは、立ち上がって、礼を返した。
「お役に立てて幸いでした。しかしこれは、神々の導きにより神々の助けを受けてなされたこと。この身はすでに過分の恩恵を受けております」
幽霊は、にっこり笑った。
「うん。君が心からそう思っていることはわかった。もう少し話も聞きたいけど、今はすぐに行きたい所があるので、これでお別れする。あ」
何が起きたのか、幽霊の姿が一段と薄くなっている。
「しまった。心を震わせすぎたので、霊体が壊れてしまった。うーん。残念だ。娘の姿を一目みたかったのに」
みるまに、その姿は透明度を増している。
「ああ、そんな心配そうな顔はしなくていいよ。本体は無事みたいだから、時間がたてばまた霊体も復活するからね。本体の意識がない状態でのことだから、時間はかかるだろうけど。まあ、いいさ。再び目が覚めるときの楽しみができた。君にも、ちゃんとまじめな賞品をあげないといけないし、恩返しをしなくてはね。とりあえず、テーブルの上の物は持って行ってくれていいから。では、ザーラ殿。また、いつの日か」
そう言い残して、幽霊は消えた。
一人残されたザーラは、途方にくれた。
(ここはどこで、私はどうやって帰ればよいのだろうか)
(このテーブルの上の、ふれることもできない危険物の数々は、いったいどうしたらよいのだろうか)
挿話5
かつて、ミノタウロスが、百体目のメタルドラゴンを倒したときのことである。
百階層最外周回廊の、ボス部屋と正反対の位置に、小さな入り口が出現した。
だが、ミノタウロスは、それから以後ここまで来ていない。
いや、正確には一度来た。大勢の人間たちが攻めてきたときのことだ。そのときはあちこちを走り回り、一度この近くを通り過ぎたのだが、入り口には気づかなかったのである。
そして資格を得ていない者が通りかかっても、この入り口をみることはできない。
さて、第百階層のボス部屋を出たミノタウロスは、あれからさらに三体のヒュドラを倒して、回廊を進んでいた。
どこか行く当てがあったわけではない。
少しは体を動かしてみたかった。
少しはあがいてみたかったのである。
そして、ミノタウロスは、小さな入り口の前に来た。
何だ、これは?
ここは、以前、何度か通ったはずである。
しかし、こんなものがあれば、気づかないはずがない。
とすれば、これは、自分がメタルドラゴンの部屋に閉じこもってからできたもの、ということになる。
入り口から先には、長い回廊が徐々に下りながら続いている。
この長い回廊の向こうには、何があるのか。
ひょっとすると、ないと諦めていた、さらに下の階層への階段なのか。
ミノタウロスは入り口に足を踏み入れ、みたことのない回廊に入った。
回廊は長く先へと伸びている。
歩き始めた。
歩いても、歩いても、回廊にはまだ先がある。
第九十九階層から第百階層に下りる階段も恐ろしく長かったが、これは、それよりずっと長い。
回廊は真っ暗だったが、優秀な暗視スキルと各種の探知スキルがあるミノタウロスにとっては、進むさまたげとはならない。
気配探知の範囲を広げてみる。
しかし、何もひっかからない。
近くに生き物はいない、ということである。
ミノタウロスは、歩き続けた。
どれほど歩いたろうか。
おそらくは、サザードン迷宮の第一階層から第百階層まで下りるよりも長い距離を、ミノタウロスは歩いた。
どこにも行き着かない道なのかもしれん。
そう思い始めたとき、先にぼんやりと光がみえた。
その場にたどりつくと、回廊の先に小さな広場がある。
みたところその広場には、どこに行く通路もない。
軽い失望を覚えながら、その広場に踏み込んだ瞬間、広場の中央に置かれた円形の平たい石が青く発光した。
深い闇のなかで、地から照らす青い光に映し出されるミノタウロスの姿は、まるで神話に登場する異形の神のようだった。
あそこに乗れ、ということなのか。
そうミノタウロスは判断し、無造作に近寄って、青く発光する平たい石の上に乗った。
その瞬間、ミノタウロスの姿は消えた。
第15話 業火
1
雨が降っている。
私は雨の音に耳を傾ける。
庭の木々の葉にはねる音。
池に落ちる音。
地を打つ音。
少し遠くのあずまやの屋根に響く音。
さまざまな音に、私は耳を傾ける。
こうして雨が降る日、私は心の奥底にしまっている小さな箱のふたを開ける。
その箱のなかには炎が燃えている。
消えることのない怨念の火が燃えている。
それは、解き放たれれば私自身を、私が大切に思う人々を、この国のすべてをも燃やし尽くしてなおやまぬ滅びの炎だ。
だから私は、こうして雨が降る日にはそっとその箱のふたを開けて、消せない炎を降る雨にさらす。
しゅうしゅうと燃えさかる炎が鎮まっていく音を聞きながら、かろうじて私は、箱のなかに封じた復讐にわが身を食い尽くされるのをまぬがれる。
それでも、ときに火は不意に勢いよく燃え上がって、私のすべてを紅蓮の焔に焼きそめようとする。
そうなってもかまわないと思う私がいる。
そうなることを望んでやまない私がいる。
その火は私が五歳のときにともり、八十一歳になった今日まで燃え続けている。
2
あの少年は、知っているだろうか。
恩人と呼んでくれる私にとり、自分こそが恩人だと。
私はあの少年に助けられた。
いや、もう少年ではない。
千年ぶり二十五人目の王国守護騎士にして、直閲貴族家当主。
不敗の化け物に打ち勝って神剣を勝ち取り、首謀者の首をはねて反乱軍を敗走させ、王の御前で百人の騎士を圧倒してのけ、さらには勇猛なる北方騎士団を打ち破り、ケザの地を勝ち取った希代の英雄。
だが、王国守護騎士パンゼル・ゴランは、今でも私にとってはパンゼル少年のままだ。サザードン迷宮の前ではじめて会った、あのときと変わらず。
アレストラの腕輪を持ったパンゼル少年と会ったとき、パーシヴァル様が引き合わせてくださったのだと思った。この少年をユリウス様をお支えする人材として育てよというおぼしめしなのだと思った。
それはそうだったかもしれない。
だが、パンゼル少年の母御に会い、パンゼル少年の父御がエイシャ・ゴラン殿の孫だと教えられたとき、パンゼル少年との出会いはエイシャ殿の引き合わせでもあったと知ったのだ。
3
エイシャ殿は南方で生まれた。
おそらくは、ゴルエンザ帝国の北西部、エラ大湿原に近い辺りかと思われる。
若くして帝都で剣士として名を上げた。軍略や歴史知識にも優れ、諸侯から仕官を望まれたが、特定の主家は持たず、あちらこちらを放浪しながら剣を教えて暮らした。
南方諸国をめぐり、各地で名の高い剣士たちと技を競ううち、当代無双の剣豪と呼ばれるようになり、慕う人も増え、諸王諸侯から破格の条件で誘われたが、誰かの臣下となることはなかった。
そんな人物が、ふらりと北方のバルデモスト王国に現れた。
すでに北方においてさえその声望は高く、この放浪の剣客を自家に誘わんとする動きが、にわかに盛んとなった。そんなエイシャ殿が腰を下ろしたのが、わが父マゼル・ス・ラ・ヴァルドの屋敷だった。
当時の父は、近衛の平騎士にすぎなかったが、剣の腕は衆に抜きんでたものがあった。エイシャ殿は、父の剣の師を訪ね、その紹介で父と剣を交えたのである。
試合は、長く語りぐさとなるほどの熱戦となった。
その日、二人は腹の底が抜けるほど大いに酒を酌み交わし、親友となった。
豪放磊落なエイシャ殿と、謹厳実直な父が、なぜか非常にうまがあった。共通点といえば、剣と酒を愛したことだろうか。エイシャ殿は、北方に来た理由を聞かれるたびに、南の酒は飲み飽きた、と答えたという。
父は、エイシャ殿に兄と私の教育を預けた。
兄は正式に剣の修業を始めたが、幼い私はエイシャ殿と一緒に野山を駆けめぐるのが常だった。
力一杯走り、笑い、食べた。
草や、木や、けものについて学んだ。
水や、空や、土や、山や、天地のことわりについて学んだ。
父は用務で留守が多くなり、私にはエイシャ殿こそが父のように感じられた。
エイシャ殿は、決して父の家臣ではなかった。食客とでもいうのが近いだろうか。父が何かをエイシャ殿に命ずることはなかった。エイシャ殿が、父に対し雇い主であるかのようにへりくだることはなかった。
父はエイシャ殿に生活の資を渡していたのであろうか。
それは知らない。知る必要もない。
エイシャ殿は、父の友であり、私たちの家族だった。
4
父が吏務査察官に抜擢されたことは、驚天動地の出来事といってよい。それほどの名誉ある、また責任の重い役職なのだ。
吏務査察官は王直属の調査者であり、査察の対象は行政と司法のあらゆる分野に及ぶ。宮廷内での政務について自由に調査する権限を持ち、不正を告発し、さらには処分の具申ができる。王直轄の地方機構については、自己の判断で一定範囲の懲罰を実施することもできる。さらに、王より諸侯に委託された事項について、独自に調査し賞罰を具申できる。吏務査察官が職務に乱れや不正があると報告すれば、大臣や代官の首でも飛ぶし、諸侯は大きな利権を失う可能性がある。
当然、吏務査察官は、あらゆる方法で徹底的に懐柔される。懐柔できない人間は、この役職に就くことがないよう注意深く根回しがされる。
しかし、吏務査察官は親補官である。
王が直接任命でき、少なくとも制度上は王がみずから下問なさる場合を除いて人選を上奏できない。同時に、高位の貴族でなくても就任できる、ほぼ唯一の高等官である。
それでも近衛の平騎士、すなわち準貴族が就任するというのは、あまりに慣例をはずれていたため、側近のかたがたはよい顔はされなかったと聞く。
朝議においては、白卿、赤卿、青卿、黒卿のすべての大臣が連名で、適当な人選ではないという意見を、わざわざ文書にして奏上した。
しかし、王は意見をお変えにならなかった。
当時の王は、のちにシャナ=エラン(浄王)と諡《おくりな》された通り、不透明なこと、不公平なことがお嫌いな気質であられた。
けれども王宮と政治は不透明不公平そのものであり、公正を求めて王が試みられたいかなる努力も、砂にしみこむ水でしかなかった。
そのような王が通された唯一のわがまま。それが父を吏務査察官としてお召しになることだったのである。
それをわがままと申し上げるのは、あまりに不敬であり、お気の毒であろう。
しかし、輔弼すべき立場からの諫言をことごとく退ければ専断となる、というのも識見の一つにはちがいない。
吏務査察官という、どの派閥も喉から手が出るほどに欲しい役職をさらった父は、悪人となった。このような、あり得ざる人事が起きたということは、父があり得ざるきたない手を使ったということである。王その人をたぶらかし、政道をゆがめて。
どのような不正を父が行ったかは、彼らにとり調べる必要もなかった。吏務査察官就任という結果が父の有罪を証明しているからである。
かくして地獄への道行きが始まった。
5
父は、まず家臣を集めねばならなかった。
吏務査察にあたるとなれば、相応の能力を持った家臣たちを大勢集める必要がある。
父が頼ったのは、剣の師であり、道場の知己だった。
激しい妨害にあった。
結局、必要な人数は集めることができたものの、貴族は皆無というありさまだった。父の志に共鳴する人は多かったらしいが、剣の道場に通う貴族というのは、貴族であっても次男や三男であったり、あるいは官職も得られない末端貴族であることが多い。親や、長兄や、本家筋などから強く諫止されれば、押して父のもとに駆けつけるわけにはいかなかった。無理もないことだと思う。
このことが、王宮での父の仕事を困難にした。
役所の仕事を調査しようにも、一定の身分がなければ、そもそも王宮の敷地内に入れない。公務の助手であるから連れて入ればよいともいえるが、各役所で身分規定をたてに入室をこばまれれば、あえて押し通るわけにはいかない。押し通れるとすれば、罪があると確定したときである。
それでも父は、めぼしをつけた部署に粘り強く交渉して資料を提出させ、それを部下たちに筆写、整理させて、分析をした。
それをまとめた資料をもって、次の段階に進もうとした。
ところが、あらためてその部署を訪れると、資料はすべて書き換えられ、置き換えられ、持ち去られていた。
わずかでも父に協力した官吏は、異動あるいは解雇の対象となり、処刑された者さえいた。もちろん、表面上は父の調査とは何の関係もない理由によってである。
父は、方針を変えた。
家臣たちを率いてアンポアンに行き、王国から委託している輸出入について抜き打ち調査を行ったのである。
これは電光石火の早業だったらしい。
案の定、隠すまもなく、物資の横流しや、不正な利益供与、あるいは不公正な売買の記録が山ほどみつかった。アンポアンは、当時すでに王国最大の港街となっており、数年前に侯爵領に格上げされたところだった。父の調査により、王宮から差し向けられて外国との貿易を担当していた子爵三人が罷免され、領主であるアンポアン侯爵が、叱責および徴税権の一部剥奪という処分を受けた。
これが、当時のリガ公爵家当主クレルモの逆鱗にふれた。
子爵三人は、いずれもリガ公爵の分家の子弟だった。また、アンポアン侯爵は、古くからリガ公爵家を主家と仰いでおり、特に当時の当主はクレルモによく仕え、近々入閣するのではないかといわれていた人物だった。そうなれば、リガ公爵の派閥はますます巨大化する。
ところが、父のために、そのもくろみは狂った。アンポアンの伯爵領への格下げさえ検討されたというのだから、リガ公爵としては、長年の努力が水泡に帰した気分であっただろう。
だが、その怒りにこそ、クレルモの思い上がりがある。
そもそも、侯爵領も、伯爵領も、王のものである。それを私物であるかのように思う貴族が多い。あまつさえ、アンポアンという重要な街の国務を自家の関係者のみで独占している異様さを、クレルモはどう説明するのか。
長い歴史のなかで、制度にゆがみもできているであろう。だが、それ以上に、そのゆがみを悪用してはばからない大貴族たちが、この国の清明さに影を落とし続けてきた。
6
わが国の爵位制度は、ゴルエンザなどのそれとは、だいぶちがう。
たとえば、わがメルクリウス家の場合、直閲貴族家であるから、位階でいえば序列の最も高い侯爵位に相当するが、当時は領土を持っていなかったので、侯爵とは呼ばれなかった。
侯爵と呼ばれるのは、王から侯爵領に封じられた貴族である。
伯爵は、王から伯爵領に封じられた貴族である。
侯爵領と伯爵領のちがいは、土地の広さ、豊かさ、産業の発展ぐあい、交通や軍事上の観点などから総合的に判断される。
子爵は、実態はともかく、建前の上でいえば、侯爵領もしくは伯爵領の一部を預かる貴族、ということになる。
男爵については、これらとはまったく成立が異なる。
男爵とは、もともと領地を持っていた諸侯が、バルデモスト王に臣従することを誓い、領土を安堵されて発生した身分である。
であるから、男爵領の場合、広さも実力もさまざまだ。侯爵より金持ちで領土も広いという男爵もいる。宮廷での席次も、必ずしも男爵が侯爵や伯爵以下というわけではない。
男爵は、その成り立ちからいって移封されることがない。爵位が上がることも下がることもない。それに対して侯爵や伯爵は、格上げや格下げ、さらには移封もあり得る。実際には戦争などにより大きな領土の変更がないかぎり移封は行われないが、少なくとも制度の上ではそうなのである。
ところが、ここに、王から封じられた領地に基盤を持ちつつ、格下げや移封など人ごととばかりに、豊かな土地にのうのうとあぐらをかき続けている貴族がいる。その土地は王の物であるのに、まるでわが物のように思い、扱う。
リガ公爵である。
そもそも、リガ家は公爵家などではない。公爵家というのは、王の兄弟や子が特別な功績を挙げた場合に、王領の一部を分け与えられて出来るものである。その領土はそう大きなものではありえないが、当主が死んだのちも遺族が相続し続けることを、国法が認めている。
他国には、王位継承権の高い身内を排除するために公爵家を乱造したり、母親から領土や財産を受け継いだ王子が強力な公爵家を築いて国の乱れるもとになった例もみられる。わが国では公爵が強い権力を持ちにくいので、こうした轍は踏まずにすんでいる。
リガ公爵家の初代は、もともとは現在のタダ国西部とフェンクス諸侯国東部にまたがる広大な土地を治めていたオニス家の次期当主であった。バルデモスト王国の始祖王没後に幼い二代王に代わってバルデモスト王国の政務を執ったが、国政を私することは決してなく、その公正な態度から、王国内はもちろん諸国にも厚く信頼されたという。
しかし、オニス家の当主が没したあとも二代王に乞われてバルデモストに尽くし続けたため、オニス家の領土は分裂し周囲に吸収されて消え去った。
二代王はその働きを高く評価し、リガという枢要の地を与えるとともに、王族にもひとしい高貴な立場であるとして公爵位を贈り、しかも子孫の続く限りリガの地を治め続ける権利を認めたのである。リガ家という名もそのときにできた。
初代リガ公爵は優れた人物であったと私も思う。その業績は評価されてよい。
しかし、公爵になったのは間違いである。二代王から公爵に叙するといわれたとき、厚遇に感謝しつつ断るべきであった。
だが、受けてしまった。それがリガ家をゆがめた。
王族でない者が公爵となってはならない。王から封じられて領主となる以上、侯爵位か伯爵位でなければおかしい。初代のリガ公は、国ができたあと始祖王の威徳に引かれて歩みを共にするようになったのであるから、男爵位こそがふさわしいともいえる。さらにいえば、なるほどリガ家初代の功績は大きいが、自らの領土を顧みずに王に尽くした貴族はリガ家だけではない。
にもかかわらず、リガ家が初代の功績をひけらかし、その遺徳を享受するほどに、国には禍々しい毒がたまっていった。
のちに私が物心ついてからのことである。
リガ家の当主はクレルモからモルゾーラに代替わりしていた。
あるとき、フェンクス諸侯国の一領主とわが国の伯爵のあいだで紛争が起きた。勝てば結果としてわが国の領土が広がるのである。大臣たちから、王都から応援を出すべきだという意見が出た。
これを、当時白卿だったモルゾーラが蹴った。王都が介入すればフェンクスでも周辺諸侯が参戦する事態になる、という言い分だった。
うまいことを言うものだと思う。その裏で、やつが何をしたか。
塩の補給を止めたのだ。
塩がなければ戦えない。伯爵とその親族たちは、王都の塩を買おうとし、また塩田地帯からの塩の手配をしようとした。
だが、王都でも塩は突然高騰し、塩田地帯の塩は隣国のタダに売り尽くされていた。
結局、有利に戦を進めていたにもかかわらず、一片の領土も得られないまま停戦しなくてはならなかった。
その伯爵は王都に鎧姿のまま馬で駆けつけ、塩の売買を管理する官吏のもとに行き、長剣で机を真っ二つに斬ったという。伯爵が本当に斬りたかったのはリガ公爵である。誰がこの戦を負けにひとしい決着に導いたか、知らぬ者はなかった。
リガ家はこの国の塩と鉄を押さえている。
そもそもリガは、海岸部から国の中央部に向かう喉元にある。海からの輸送、海への輸送は、すべてリガを通るのである。
かつ、アンポアンをはじめ海沿いの諸都市はすべてリガ家の支配下ないし強い影響下にある。そのなかには製塩を行う村のすべてが含まれている。
国内の鉱山のうち主立ったものは、すべてリガ家が押さえている。
長い長い年月のあいだに、リガ家はこの国の隅々にまでその長い触手を張りめぐらしている。まるで、北の海に出没するという巨大な怪物のように。
甘言と恐喝をもって人を支配し、何もかもを飲み込んでいこうとする。そして、気にくわない者、従わない者には、どんな仕打ちでもする。派閥のちがう伯爵が領土を広げそうだというだけで、塩の補給を止めるようなことさえするのだ。
リガ家は、この国にとり毒そのものだ。
7
クレルモは、能力は高く、人間としての魅力もある人物であったように思う。
だが、リガ家の宿痾に脳の奥までが冒されていた。
領土も財も権力も地位も天与のものであり、それを侵すものは滅ぼさねばならないという狂気に取り憑かれた、哀れな男。
そんなクレルモが父を放っておくはずがなかった。
王都に戻った父は、事後処理と報告を済ませ、家臣を総動員して、アンポアンでの調査内容を遺漏なくまとめ直した。万一、王宮に収めた書類が紛失するようなことがあっても、事件の事実関係とその処理の公正さは、この資料により明らかにできる。
そして、父は、すべての作業が終わったことを確認してから、家臣を集め慰労の宴を持った。王国暦千二十四年赤の三の月の三の日のことである。
そこをリガ公の兵が襲った。
クレルモの狡さは、このとき、自家の兵だけでなく、リガ家とはむしろ対立関係にあった大臣二人の家の兵を同行させたことにある。それにより、出来事は私怨から公儀に装いを変えることができたのだから。
どうしてその二家がこの惨劇に加担しなければならなかったのか、今でもわからない。だが、何かがあったのだ。父を殺すことが二家の利益になるような。あるいは、殺さないことが不利益になるような何かが。
私にはわからないそれを、クレルモは嗅ぎ当てた。むろん当時五歳だった私が各大臣家の事情など知り得ようはずもないが、あとになって調べてもそこはわからなかった。
この日、家にいた三百四十三人が皆殺しにされた。
わが家は、王都の郊外にあり、後ろの山も敷地に入っていた。一万二千人の軍隊がそこを取り囲み、魔法を撃ちかけて焼き払い、逃げ出す者を殺した。
翌朝、参内したクレルモは、王の着座を待って謀反人の討伐を報告した。
その謀反人とは吏務査察官マゼル・ス・ラ・ヴァルドである。
王陛下は天界から冥界に突き落とされた気分になられたであろう。
自らが抜擢した吏務査察官が、他国との貿易で不正を行った官吏を発見し、それを見事に裁いた。その調査と裁きは完璧というべきであり、王都の役人たちもその見事さを認めないわけにはいかなかった。そして、懲罰の対象となったのは、専横をほしいままにする白卿の秘蔵っ子であり、もうこれで当分はあのいやらしい笑顔で、「そろそろかの者を黒卿に」などと言われることもない。
陛下は、どれほどか溜飲をお下げになったことか。
このごろの陛下のごようすは、当時のことを知る宮廷人たちにいわせれば欣快の一語に尽きる。毎夕の食事の際には、何度もそこにいない父に乾杯して杯を空けてくださったそうだ。玉座ではすでに報告を聞いておられたが、近々親しく父を招いてご慰労くださる予定で、恩賞もご準備しておられた。
その父が罪を問われて殺されたと聞かされた。
それは、陛下に対しまつり、お前を殺した、と宣言したにひとしい。
陛下は、一言も発せられず、顔を紫色にそめて、そのまま下がられた。
無理もないことであり、このうえなくおいたわしいことである。
だが。
だが、このとき。
陛下は、なおご下問なさるべきだった。
今、そのほうは、謀反人を家人郎党もろとも討ち果たしたと申し、さらに、このような大罪においては一族ことごとくを誅せねばなりませんと申したが、それはすでになされたのか、と。
ところで、このとき、クレルモがどのような根拠で父を謀反人として告発したのかが、はっきりしない。
罪状のなかに、一官吏の身分にもかかわらず諸国に知られた武人を自家に取り込み、あまつさえその弟子と称する兵あまたを養いおる罪、というのがあったことはわかっている。
だが、当時、エイシャ殿は、娘御お一人のほかは、内弟子として三人の門弟をおそばに置かれていたのみで、わが家の家臣に稽古をつけることさえ遠慮しておられた。これが謀反の主な証拠となるはずはないのだ。
しかし、いくら湯水のように金をそそいでも、この時の告発の内容は浮かび上がってこなかった。
陛下がご退出なさったあと、クレルモは、蛇のごとき舌で自分の唇をなめていたことだろう。
謀反計画があったと告発し、その首謀者はすでに誅殺したと奏上した。そして、その族人どもも誅さねばならぬ、と奏上した。
それに対し、王陛下は、何のお言葉もなく朝議を終わりになさった。それは、この運びについて勅許が得られた、ということだ。
クレルモは、すべての大臣に命じて族兵を出させた。勅命をもって。
すべての大臣が共犯者になった。
ただちに私の姉の嫁ぎ先、父の兄弟の家、母の実家、母の兄弟の家が襲われ、幼子まで含め、すべての家族郎党が殺された。まさに族滅である。二日のあいだに死者は合わせて七百二十五人となった。
陛下は、次の日になって事の顛末をお知りになったようだ。そのまま憤怒のあまり体調を崩され、そして二度と床から上がられることなくご崩御なされた。
父が行った告発は捏造であったとされた。王宮に厳重に保管されていた調査記録はどこかに消え、父がまとめた資料は灰となった。
罷免された子爵三人は復職し、アンポアン侯爵は黒卿になった。
私は、このときの死者の名簿を手に入れて以来ずっと、死者の数を不思議に思っていた。名簿に名前がありながら、私自身は死んでいないからだ。
家臣のこどもの誰かの死体が私の死体と間違われたのか。それとも七百二十五人という数が事実とちがっており、ありもしない私の死体が数に入っていたのか。
だが、そうではなかった。やはり七百二十五人だったのだ。
そのことを知ったのは、あのとき何があったのかをパンゼルの母御に聞いたときだった。
あの夜、私の想像もつかないところで、私の命を守るための凄絶な戦いがあった。
8
パンゼルの祖父殿はチャルダという名で、西の辺境の出だ。
エイシャ殿を慕って、その内弟子となった。
事件の起きた年には二十二歳だった。
あの日、エイシャ殿も宴に誘われたが、自分は留守番をしていただけなのでと断った。
その代わり、チャルダ殿の兄弟子二人は宴に出た。この二人は、師であるエイシャ殿の命を受け、アンポアンに護衛として同行していたのだ。
惨劇の始まる前、エイシャ殿は屋敷と山を取り囲む軍勢に気がついたが、まさか郊外とはいえ王都で、王直属の高官の屋敷をいきなり魔法攻撃してくるとは夢にも思わず、対処が遅れた。
だが、攻撃が始まったとき、これほどのことを行うのだから、誰一人生かして逃がさぬ覚悟であると、ただちに理解した。
このとき、私はエイシャ殿のところにいた。自分ではその理由を覚えていなかったが、チャルダ殿の伝えるところでは、父の使いとして来たのだという。
いわく、「貴殿の弟子二人の見事な働きを賞めて杯を取らそうとしたが、師の命に従っただけのわれらが、師を差し置いてその杯を干すわけにはまいらぬ、と言い張る。わしを助けると思って、宴に参席されよ」との口上を述べたらしい。
当時五歳だった私に、そのように込み入った口上を覚えられたとは思えないのだが、チャルダ殿によれば完璧な口上だったとのことだ。
父は貧乏騎士であったが、祖母から王都郊外の土地を相続していた。庭の広い、というより庭ばかり広い作りで、母屋はこじんまりとしていた。
はじめエイシャ殿は母屋の隣の小屋に住んでいたらしい。
父が吏務査察官になり、家臣のために家というより小屋をたくさん建てねばならなくなり、庭にはにわか造りの家が乱立していった。ここでは落ち着けないだろうと、父はエイシャ殿に奥の山のなかほどにある庵を提供したのである。
私は、母屋よりこの離れで過ごす時間のほうが長かったようだ。
エイシャ殿は、離れに娘のエニナ殿とチャルダ殿の三人で住んだ。当時エニナ殿は十四歳だった。私は、この優しい女性を、本当の姉のように慕っていた。エニナ殿には当然母親がいたはずだが、旅の途中で亡くなったのか、何かの理由があって別れたのか、それは知らない。
チャルダ殿の兄弟子二人は母屋に寝泊まりし、交替で父の護衛にあたっていた。
エイシャ殿の判断は早かった。
私を抱きかかえると、チャルダ殿とエニナ殿に静かについてくるよう命じ、燃えさかる母屋にみむきもせず、藪のなかに飛び込んだ。
身を低くして進むうち、川に出た。
小さな釣り舟がつないである。
私とエニナ殿を抱えて舟底に寝そべると、むしろをかぶった。そしてチャルダ殿に、舟を王都の水路に進めよ、と命じた。
舟に乗ったことは私自身も覚えている。だが、眠ってしまったので、このあとのことはみていない。
山に離れがあることは当然敵に知られている。母屋の次はこちらが襲われる。どの方向に逃げても、山からの下り口はみはられているだろう。また、どう逃げたところで山の向こう側は見通しのよい平原であり、みつからずに逃げることはできない。
そこで、逆に川に身を潜めて王都のほうに逃げることにしたのだ。
この川は王都の水路とつながっている。
夜のとばりが落ちた今なら、敵の目からのがれて王都まで行けるかもしれない。王都に逃げてそのあとどうするのか、チャルダ殿には見当もつかなかったが。
身を低くし、音を立てぬよう、そろそろと棹を操って舟を進めた。
もうすぐ王都の水路に入るというとき、敵の見回りがやってきた。
チャルダ殿は草の高く繁った位置に舟をとめ、闇の中で息を殺して近づく敵をにらみつけた。
数名の兵を指揮する男が言った。
「まさか、ここまでは来ておるまいがな」
(こいつは、コンパチだ)
チャルダ殿は気がついた。
コンパチは有力貴族の三男で、剣の腕が自慢だった。南の軟弱な武人など北の勇者の敵ではないというのが口癖で、なぜかエイシャ殿を目の仇にした。
南でさえ仕官できなかったあんな年寄りなどをありがたがるやつらは阿呆だ、と公言し、化けの皮をはいでやるとばかりに、三度エイシャ殿に挑戦した。
そして、三度ともこてんぱんにたたきのめされた。
それでエイシャ殿への態度が変わるかといえば、そうではなく、相変わらず悪口を吐き続けている。チャルダ殿は、エイシャ殿の内弟子ということで、何度もコンパチからあざけられ、嫌みを言われ、いやがらせを受けてきている。
そのコンパチが、今、円錐型の魔光器を左手に持ち、右手には槍を持って、川の岸辺に近づいて来る。
(斬るか)
とチャルダ殿は考えた。
コンパチの腕はチャルダ殿と互角だが、エイシャ殿と共になら、数名の兵士ともどもわずかな時間で斬り殺すことができる。
だが、ほんの数百歩向こうには何百という兵士がいる。その向こうには、さらに大勢の兵士がいる。声を上げられないほど素早くこの数名を倒し切るのは無理だ。
生き延びるには、みつからないことしかない。みつかれば、一人でも多く敵を倒して斬り死にするほかない。
コンパチは、川を広く魔光器で照らしながら、ぐるっと視界を回した。そして、槍で草むらをかき分け、チャルダ殿が潜む辺りに視線を向けた。
二人の目が合った。
が、一瞬でコンパチは目線をそらし、何事もなかったかのように部下たちに声をかけた。
「やはり、こちらにはおらん。上流もみておく」
兵士たちは返事を返し、一団は山のほうに歩き去った。
心臓が止まるほど驚いたチャルダ殿と舟を残して。
チャルダ殿は身がしびれたようになり、しばらく動けなかった。
安心感のあまり、はらわたが腰の下にずり落ちていくように感じる。
それにしても不思議である。
燃える母屋をみたあとに暗いところをみたので、みえなかったのだろうか。
そうも思ってみるが、確かに一度目が合ったのである。
王都に入ってから、そのことを師に問うた。
エイシャ殿は、ただ、
「うむ」
と、ひと言を発したという。
9
エイシャ殿は、舟を着ける場所をチャルダ殿に指示すると舟を降り、まっすぐに目的地に向かった。
エイシャ殿は私を抱きかかえて走り、チャルダ殿は途中からエニナ殿を抱えて走った。そして、大きな屋敷に着くと、エイシャ殿は腰の剣をはずして、応対に出た家人に渡した。その剣は、こしらえは質素だが相当の名剣であり、よく使い込まれていた。
感心したことに、この家の使用人は、こんな時間に突然訪ねた名も告げぬ怪しげな来客を、当たり前のように客間に通した。すぐに水と茶を出してくれたので、眠っていた私以外の三人は喉をうるおすことができた。
そして驚くほど短い時間で家人が戻り、当主がお会いになりますと告げ、四人を別の部屋に案内した。
このときには、エニナ殿が私を抱きかかえていた。
「当家のあるじ、バルドラン・メルクリウスといいます。まずは、この剣をお返ししましょう。よくぞおいでになられました」
その言葉を聞いて、チャルダ殿はここが誰の屋敷であるのかをはじめて知った。ではこの貴人が、かの英雄の子孫なのだ。
「エイシャ・ゴランと申す武辺者にござる。このような時間に先ぶれもなくお訪ねし、申し訳ない。わが娘の腕に眠る男児をお預かり願いたく、まかり越した。この男児は、マゼル・ス・ラ・ヴァルド殿のご次男にござる」
「吏務査察官殿に、何か変事でもおありですか」
「今、かの屋敷は、恐るべき多数の兵士に焼き討ちされており申す」
「なにっ」
優男、といってよい当主の表情が急変した。
そこには、鬼神も退ける強い覇気がこもっており、この家がもののふの魂を失っていないことを物語っていた。
わずかな時間で表情を戻すと、当主は言った。
「お会いしたことはありませんが、吏務査察官殿のことは以前より存じ上げておりました。ご活躍をお祈りしていたのです」
「お預かり願えましょうか」
尋ねるエイシャ殿の目をまっすぐにみつめ返しながら、当主は聞き返した。
「お預かりしたとして、あなたはどうなさいますか」
「なすべきことをなす所存」
当主は、瞑目して天を仰ぎ、嘆息した。
「そうか。そうでしょうね。そのままというわけにはいかない。あなたの名も顔も人柄もよく知られている、とみなければならない。吏務査察官殿のご次男を、よくみせていただけますか」
エニナ殿はエイシャ殿に促されて私を抱いたまま前に進んだ。
「ああ、よく眠っている。エイシャ殿、この子の名と年を教えていただけますか」
「名はアドル。五歳でござる」
「五歳。そうか。五歳なのか」
当主はしばらく私の顔をみつめたまま黙考していたが、やがて侍女を呼び、何事かを言いつけた。
「エイシャ殿。かのかたのご次男殿をお預かりする。娘さんと共に奥の部屋で休まれるとよい」
「かたじけない。エニナ。奥に連れて行っていただけ」
こうして、眠っている私と、私を抱えたエニナ殿が侍女に案内されて奥に消えた。
「ところでエイシャ殿。短剣をお持ちだろうか」
こういうものを持っておりますと差し出した短剣を受け取り、暫時お借りしますと言って、傍らの机に置いた。そして、腰に佩いた剣の鞘に巻き付けてある細い革の留め紐を外し、左手首と左小指をきつく縛った。
エイシャ殿の表情が硬くなる。
侍女が一人の男の子を連れて帰ってきた。
ちょうど私と同じぐらいの年格好と髪の色であったという。
そのこどもをみて、チャルダ殿は不審を覚えた。
私の服を着ていたからだ。
侍女は、すぐに部屋を出て行った。
「私の子なのですが、わけあって妻の実家の家名を名乗らせております。おいで、パン=ジャ」
眠い目をこすりながら寄ってきた年の離れた実子を、愛おしそうに当主は抱きしめ、そして短剣を取ると、心臓に突き立てた。
そのまま、殺したわが子を床にそっと横たえ、腰の長剣を抜き、机に刃を立てて置き、その下に左手の小指を差し入れると、ごとん、と音をさせて断ち切った。
左手の小指を革の紐できつく縛って止血し、袖から出した布で切り離した指を包むと、横たわるわが子の胸元に入れた。
「許しておくれ、パン=ジャ」
そう小さくつぶやいてから、立ち上がってエイシャ殿に言った。
「エイシャ殿。ここはどうしても、ご次男殿の屍体がなければ収まりません。たとえ草の根をかき分けても、焼けた死体の顔の皮を一枚一枚剥いででも、それを検めねばすまさぬ相手なのです」
エイシャ殿は、心臓に短剣を突き立てたままの少年を両手で抱き上げ、哭いた。
渾身の力を込め、喉の破れるほど泣いた。
開いた両目から流れ落ちる泣涕は滂沱として自慢のあごひげを浸し、慟哭の割れ声は、聞く者の臓腑をえぐって部屋のなかを吹き荒れた。
やがて、死んだ少年の胸に落ちる涙が、赤く染まった。みればエイシャ殿の目から落ちるものは、すでに涙ではなく、真っ赤な血そのものとなっていた。
「北のもののふの誠、かくのごとし! ザーラよ、ご照覧あれ!」
エイシャ殿は、武人らしい言い回しで精いっぱいの感謝を伝えると、すくっと立ち上がり、チャルダ殿に言った。
「お前は、一晩ここに泊めていただけ。すまんがエニナのことは、よろしく頼む。渡した金は好きに使え」
そして当主のほうに向き直ると、短く謝した。
「ご厚情は、忘れ申さん」
当主も短く答えた。
「お会いできて、よかった」
二人は、互いに礼をした。
エイシャ殿は、こどもの屍体を抱えたまま、部屋を出て入った。
それが、チャルダ殿がエイシャ殿をみた最後だった。
翌日、チャルダ殿は、エニナ殿を連れて屋敷を出た。当主は、買い出しの荷車にチャルダ殿を潜ませるという細やかな心遣いをみせた。
二人は西の辺境にのがれて、のちに結婚した。
王都を出て八年後、男の子が生まれた。
チャルダ殿は、息子に剣の技を伝えた。
チャルダ殿が亡くなって、ご子息のウェルゼア殿は、王都にのぼり、剣の道場を開いた。田舎剣法と揶揄する者もあったが、強さが圧倒的であったし、乱暴者も礼儀正しくなると評判が立ち、なかなかの盛況をみせた。
ウェルゼア殿は結婚し、パンゼルが生まれた。
しかし、ウェルゼア殿が病を得て床に就くと、生活はたちまち困窮した。
道場は、だまし取られるように人手に渡った。
死ぬ前に、ウェルゼア殿は、父御のチャルダ殿から聞いていた事件の顛末を、細君に伝えた。
母御が語った物語はここまでである。
最後に、逆に母御から質問された。
「あのあと、エイシャ・ゴラン様はどうなったのでしょうか」
この点については、かねて調べてあった。
王宮に残された調書には、次のように記してある。
母屋と周辺の叛徒と家人らを誅殺したあと、離れにいるという謀反人の次男とその用心棒である剣術使いの捜索が続けられた。
なかなか発見できないために、最後には、山を焼き、遠巻きにして、飛び出してくるのを待った。それでも賊はなかなか姿を現さなかったが、夜明けが近づくころ、次男を背負った剣術使いが発見された。
それは、包囲網の一番外側であり、あと少しで取り逃がすところだったが、優秀な兵士たちの懸命な捜索が実を結んだのである。
剣術使いは、悪鬼のごとき奮闘をみせ、捕り方の犠牲は八十人以上に及んだが、遠距離魔法攻撃が効果を上げ、敵の戦闘力を奪った。剣術使いは、抵抗を諦め、次男の胸を突いて殺し、自らの喉に剣を突き入れて自殺した。
屍体検分の結果、剣術使いは剣客エイシャ・ゴランと確認された。
次男も、年格好や衣服などから、本人に間違いがないと確認された。
これを聞いて、パンゼル少年の母御は静かに泣いた。
9
私はパンゼルを注意深く養育した。文においても武においても最高の師をつけた。なぜ使用人の少年にそのような扱いをするのかと、疑問のまなざしを私に向ける者は多かったが、そのようなことは気にしなかった。
パンゼル少年は目をみはる成長ぶりをみせた。ことに剣技の上達はすさまじく、まるでエイシャ・ゴラン殿が乗り移ったかのようだった。
うれしいことに、パンゼルに導かれるように、ユリウス様も成長なさった。特に文の領域においては驚くべき飲み込みのよさと応用力の高さを示された。
やがて騎士となったパンゼルはメルクリウス家の兵を率いて次々と武勲を挙げた。
そんなパンゼルに、リガ家当主アルカンは罠を仕掛けた。
迷宮の怪物を討伐すれば王国守護騎士になれるという罠を。
パンゼルを高位に引き上げたい王は、これを諾われた。
そのころ私は家宰の座を譲り、引退して病の床に就いていたが、この知らせを聞くなり、それがアルカンの仕掛けた罠だとわかった。そしてリガ家の監視を強化した。
すると、アルカンの長子ガレストが、ひそかに戦力を王都に移動していることがわかった。
まさか謀反をたくらんでいるのだろうか。
私は考えに考え、密偵たちが集めてくる断片的な情報をさまざまに検討し抜いて、アルカンの狙いに思い至った。
メルクリウス家だ。
やつはメルクリウス家を狙っているのだ。
メルクリウス家の武のかなめであるパンゼルを迷宮に追いやっておいて、メルクリウス家を討つつもりなのだ。もちろんパンゼルが勝つことも帰ることもできないよう、ミノタウロス討伐には厳しい条件が付加される。そして軍勢をもって王宮を囲み、王陛下に対しまつり、ご退位と第二王子への王権の委譲を迫るつもりなのだ。メルクリウス家が滅ぼされたと聞けば、王陛下のお心は折れると考えているのだ。
私は、あのとき、どんな顔をしていたろうか。
病床にあって事態が推移していく報告を受けながら、私の顔は復讐の予感にゆがんだ笑みをたたえていたかもしれない。
アルカンは決定的な誤りを犯した。
一つは、私が起き上がれないと思っていることだ。
もう一つは、パンゼルが帰って来ないと思っていることだ。
その二つの前提が覆るとき、リガは滅びる。
私はそれまで、権勢を誇るリガ家を破滅させる方途を思い描けなかった。
メルクリウスが大義を失わないやり方で、リガ家と戦える場面を作れなかった。
ところが今、あちらからその一線を越えようとしてくれている。
越えてくるがいい。
その一歩を踏み込めば、灼熱の炎がお前を焼き尽くす。
私は、リガ家を滅ぼす戦ができるなら、その炎で王都が焼かれようとかまわなかった。
そして、パンゼルはサザードン迷宮第百階層に赴き、リガ公爵の軍がメルクリウスに殺到した。豊穣祭のただなかに、王都にあるメルクリウス邸を攻めたのである。みよ、この暴挙を。この一事をもってしても、やつが日ごろ言う、国のためとか、民のためなどという建前が、いかに口先だけのものであるかがわかる。
私は、喜々として起き上がり、メルクリウスの指揮を執った。
ユリウス様は泰然としておられた。
ユリウス様もまた、パンゼルの勝利と帰還を露ほども疑っておられない。
ただし誤算もあった。パウロ男爵がリガ家に加担したことだ。
両軍が三度激突し、態勢を整えていたとき、パンゼルが帰ってきた。
聞けば、見届け役のエバート様に毒の短剣で刺され、迎えのみこめない状況となったため、なんと迷宮の百の階層を独力で踏破して帰還したのだという。
私はそれを聞いて、自分の愚かさに慄然とした。
そうだ。
その可能性があった。
エバート様の高潔は疑うまでもない。
しかし、それゆえに、国のためにと信じて、リガの企みに天秤を傾けることは、なさるかもしれない。ありそうなことであるのに、それをまったく考えてもいなかった。
そして豊穣祭のさなかでは、迷宮のなかで冒険者に出会って援助を受けることができない。まさに死の罠だったのだ。
私は、メルクリウスを滅ぼすところであった。
バルドラン様は、自らのお子であるパン=ジャ・ラバン殿を手にかけてまで私を生かしてくださり、私にパン=ジャ・ラバン殿の名と立場をお与えくださり、実の子のように慈しんでくださった。私はそのご恩に報いるため、自らを鍛え抜き、メルクリウス家五代の当主にお仕えしてきた。
そのメルクリウス家を、私は滅ぼすところであった。
何が。
何が私を誤らせた。
私が自問しているあいだに、パンゼルは報告を済ませ、ユリウス様からアレストラの腕輪を借り受けて、ただ一人敵陣に突入した。
やがて帰ってきたパンゼルは、手に持った首をユリウス様に差し出して言った。
「敵将ガレストの首にございます」
ガレスト!
私には、もはやパンゼルの声も、ユリウス様のお声すらも聞こえていなかった。
ふらふらと、その首に近づき、目の高さに持ち上げて眺めた。
確かにガレストにちがいない。
現リガ公アルカンの長男。
次期リガ家当主にして、バルデモスト王国白卿の座を約束された男。
おお!
おお!
おおおおおお!
私は泣いていただろうと思う。
とうてい手が届かないと思っていたものが、今、手のなかにある。
怨敵が最も失いたくない首。
怨敵の一族の将来を担う首。
いや、この首こそ怨敵そのものだ。
このとき、私の胸の奥にあった、どろどろとした赤黒いかたまりが、すうっと溶けて流れ落ちて消えていき、心は清明さを取り戻した。私は、今すべきことは何かを考え、すみやかに結論を出した。
「ユリウス様。たしかにガレストの首に相違ございません。爾後の手配につき申し上げることをお許しください」
「許す。申せ」
「パンゼルには、ただちに騎兵百名を率い王宮に行ってもらわねばなりません。ここの守りは、わたくしが務めます」
「そのようにせよ」
「ははっ。パンゼル。疲れておるであろう。すまん。ただちに王宮に赴き、近衛第一騎士団長か近衛第三騎士団長をみつけよ。そして、メルクリウス家が賊徒に襲われたゆえ、王宮に変事があってはと駆けつけたと申して、騎士団長の指揮下に入りたしと申し出よ。よいか。万一、王宮が叛徒どもに囲まれておっても、あるいは戦闘が始まっておっても、騎士団長の指揮下に入るまでは、決して手出ししてはならん。それから、侍従長に、メルクリウス家当主からの伝言として、第一王子のご安全に留意されたし、と伝えるのじゃ。必要ならば新たに手兵をお貸ししますとな。瞬間移動魔法が封じられた区域であるから、馬を使い、率いる兵も、騎馬のみ百名とせよ。後続にもう百名を送るから、おぬしの判断で使え。ゆけっ」
だが、それ以上、戦いが拡大することはなかった。
パンゼルがガレストの首を取ったとき、世に言うパントラムの乱は終わっていたのだ。
10
ガレストが死んだあとのアルカンの動きは、悪魔も感心するほどの手際だった。
まず、王宮を攻めるはずの手勢を、守る手勢に変じてみせた。
これをみたパウロ男爵は、素早く自領に引き揚げた。
次に、やつは廟議を開き、乱の首謀者はパウロ男爵であると言い抜き、ガレストが王都防衛官の要職にありながらパウロ男爵にたぶらかされて武力蜂起をみのがしたのは許されざる罪であるとして、ガレストの子らと側近たちの首をその場に差し出した。
詮議の済まぬうちに関係者を殺すなど証拠隠滅以外の何ものでもないが、いつもは何があってもかばう家族と郎党を処刑してみせたすごみが、追求の矛を鈍らせた。
そしてアルカンは、息子が詮議の対象者であるから自分が座を仕切るのは適当でないと言い、上席赤卿が議事を引き継いだ。
ユリウス様とガレスト軍の上級騎士が戦いの顛末を証言した。
ガレスト軍は傍観していたのではなく積極的に戦闘に参加していたことが明らかになった。だが恐ろしいことに、虚偽判定の魔法まで用いてガレスト軍の上級騎士たちを尋問したが、メルクリウス家に続いて王宮を襲う計画などは聞かされていない、と全員が言い切った。
そのあとパンゼルがミノタウロス討伐の報告をした。
枢密顧問官であるローウェル家のエバート様が、パンゼルを毒の短剣で刺したとき、リガ家が、メルクリウス家当主の殺害、第一王子の自決、王の退位、第二王子の即位をもくろんでいると言い残したことが問題になった。
アルカンは、エバート様とはこの数か月公式の場でしか顔を合わせたことはなく、パンゼルを害したのはエバート様ご自身の判断であり、また、第一王子の自決うんぬんはエバート様の推測に過ぎない、と言った。
そしてその次にやつが発したひと言が流れを変えた。
「よければ鑑定士を呼んで、パンゼル殿が得た長剣がどのようなものか鑑定させてみてはいかがか」
鑑定士を呼んで鑑定させたところ、まさに神剣と呼ぶしかない恩寵品だとわかった。すっかり満座の興味は神剣に引き寄せられてしまった。
そのあとパンゼルは近衛騎士団と戦い、陛下も群臣も神剣の圧倒的な恩寵に酔いしれたのだから、やつの手並みは魔法さながらだ。
「かの者、王国守護騎士に叙さるべき!」
やつが最初にそう叫んだと知って、私のはらわたはぐつぐつ煮えくり返ったものだった。
アルカンは、身内の不始末の責を取るとして、致仕を申し出た。白卿という臣下最高位の立場を捨てるというのだ。
そして引退前の大仕事として三つのことをした。
一つは、第一王子の立太子である。これにともない第二王子は寒村を領土として与えられ、公爵位を受け臣籍に落とされた。第二王妃は廃位となった。
一つは、パンゼルの王国守護騎士叙任である。パンゼルは、新しい直閲貴族家を立てるについて、ゴランという家名を上申した。昔名の知られた剣豪と同じ家名であると言われまいかと、私は心配したが、もう誰もが忘れ去っているようだった。
もう一つは、逆賊パウロ男爵征伐軍の編成である。パウロ男爵は召喚を断り、勅使に対しても申し開きをこばんだため、討伐軍が編成されることになったのである。アルカンは、全軍の兵糧をリガが負担するという腹の太さをみせた。
ここまでされれば、これ以上リガ家の罪を問うことはむずかしい。むしろ、本当にガレストの独断であったのではないか、という見方さえ生まれた。
そうした空気の変化をたくみに読んで、アルカンは、後任大臣の推薦を行った。これは、引退する大臣が、白、赤、青、黒の四卿のうち、自身と同じか、それ以下の大臣を推薦する慣例に基づくものである。推薦の内容は、リガ家の次男ドレイドルを青卿に、というものだった。
これほど大きな不始末の責をとって引退する人間が、後任の推薦をずうずうしく行うというのは、眉をひそめずに聞ける話ではない。しかも推挙の相手は自分の息子なのだ。いくらなんでも勅許は得られまいと誰もが思ったが、王はこれをあっさり聴許なされた。なぜかといえば、パンゼルの結婚と抱き合わせて事を進めたからだ。
リガ家は、パンゼルにエッセルレイア姫を嫁がせたい、と申し出たのである。
エッセルレイア姫はアルカンの二人目の正妻の娘であり、ドレイドルとは同腹である。アルカンが、美貌と機知の豊かさで知られるこの娘を溺愛して、他家には嫁がせないと公言していたことは、よく知られている。この掌中の玉を、ガレストの首を取ったパンゼルに嫁がせるということは、リガ家がメルクリウス家に膝を屈したとさえみえる出来事である。
翌千九十七年、エッセルレイア姫はパンゼルに嫁いだ。パンゼルの武勇を深く愛しておられる王陛下は、世に知られた美姫がパンゼルの妻となることを大いに喜ばれた。アルカンは、持参金に添えて騎士五十人をパンゼルに贈った。王女の輿入れでも、ここまでのことはしない。やつはまさしく怪物だ。
ドレイドルは青卿から赤卿へと進んだ。
その年の暮れに黒卿の一人が死去すると、ドレイドルは権謀術数の一門の後継者らしい手際をみせた。後任にユリウス様を推挙したのである。ユリウス様はまだ二十三歳の若さであったが、武門の一族として多くの功績を挙げていたので、推薦自身は不自然ではない。
ただ、それをよりにもよってリガ家が行ったということは、皆を驚かせ、ドレイドルをみる周囲の目は確かに変わった。
さらに、ドレイドルは、パウロ男爵領の攻略でユリウス様とパンゼルの武勲を大げさに評価した。みえすいた世辞だが、これを度量の表れとみる向きは、少なくなかった。
そして、パウロ男爵男爵領の平定が終わると、なんとその領地にはメルクリウス家を封じるのが適当である、と朝議で発言したのである。
これを聞いたときには、私も驚いた。
やつめ、気でも狂ったのかと。
さらにやつは、リガ家とは縁続きでなく、また王国では古い名門である一族の姫をユリウス様の妻にと、仲人を買って出た。
これをには舌を巻いた。
単に婚姻によってメルクリウスを懐柔しようとするなら、自家の姫をこそ選ぶだろう。しかし、どの姫を選んでもエッセルレイア姫より身分も美貌も劣るという事情もさることながら、リガとメルクリウスが直接婚姻を行えば、他家の不安をあおるおそれがある。
ところが、ドレイドルが選んだのは、むしろリガ家を嫌っているが、メルクリウスに対しては好意をもって接してきた一族の姫なのである。
しかも、財政は豊かで、内政に暁通した良臣を多数抱えており、突然大領を統治することになった当家に、これほど心強い縁組みはない。
このバランス感覚のよさには、うならざるを得なかった。
ユリウス様が結婚なさり、ケザ侯爵に封じられた翌年、つまり今年、ドレイドルは、三十六歳の若さで白卿の座に就いた。
11
だが、こうしたリガ家の復権をみても、私の心は前のようにざわめきはしなかった。
恨みが消えることはないが、パンゼルがいるかぎり悪いようにはなるまい。
そう思うことで私は、心に燃える怨念の炎をそれ以上大きくせずにすんだ。
そうだ、あのとき。
ガレストの首を、この手でつかみ上げたとき。
私の心は救われたのだ。
私が死ねば、この炎は消える。もう、それを受け継ぐ者はない。
憎しみは、すべてをゆがめる。私の憎しみは、私のもののみかたや判断を何度も誤まらせてきた。この炎をうっかり誰かに手渡さないことが私の最後の務めだと信じる。
不要な記憶は時のかなたに消えてしまえばいい。ちょうど、あのアレストラの腕輪の伝説のように。
あれが王家とメルクリウスの君臣のちぎりの証しだなどと、笑い話にもならない。あれは、まさに欲望の証しだ。
始祖王は、はじめカルダン神に加護を願った。カルダン神が加護を与えたとなれば、当時未開地であったこの北部中央地帯に新しい国家を作ることができる。
だが、カルダン神は、人間の思惑に振り回され続け、疲れ切っておられたので、始祖王の願いを退けられた。
そこで、始祖王は、二十四英雄とのちに呼ばれる同士あるいは部下たちに、カルダン神の討伐を命じた。ただ一人これに応じたのがメルクリウスの初代だった。
だが、実際にカルダン神にお会いして、その気高さに初代は打たれた。
始祖王に別の土地を探すよう進言したが、これには王も朋友たちも反対した。もともと、追われ追われてようやくたどり着いた地であったから。
初代は、たった一人、カルダン神に向かった。死ぬつもりで。
しかし、戦いに倦み切っておられたカルダン神は、一切の抵抗をせず死ぬ道を選ばれた。死ぬ間際に初代に五つの秘宝を授けて。
持ち帰った秘宝の恩寵のすさまじさに、始祖王は狂喜した。
なかでも、あらゆる魔法に対抗できるアレストラの腕輪は、国家創建の英雄王たる自分にふさわしい品だと考えた。そして、甘言を弄して腕輪を自分の物にしようとした。始祖王が、比類なき偉大な人物であったことは疑いないが、人の物を欲しがる悪い癖があった。
だが、それはカルダン神の心にかなうことではないと初代は考え、腕輪を献上しなかった。
朋友たちも、ただ一人神竜カルダンに立ち向かってこれを倒した初代に強く感銘を受け、腕輪は初代が持つのがふさわしい、と意見を述べた。やがて初代にしか効果を発動できないことが明らかになり、献上の話は立ち消えになった。
その後、どうなったか。
メルクリウスが代替わりするたびに、王家は新当主を呼び出し、腕輪の効果を王が発動できるようになっていないか、あるいはメルクリウスがその資格を失っていないか、確かめるようになったのだ。
いつか奪うために。
邪竜カルダンからの贈り物とは公言しにくかったので、腕輪は女神ファラからの贈り物といわれるようになった。始祖王から初代に下賜されたことになり、建国の勇ましくも美しい神話として人々に語り継がれた。
腕輪以外の四品は、カルダン神自身をはじめ、昔は知られた邪悪な竜神たちの名を冠していたからか、語られなくなり、やがて当家以外には忘れ去られた。
もう、よい。
当家も、もう、この秘伝を忘れるべきだ。
ユリウス様には、五品がカルダン神からの贈り物であることと、恩寵の効果だけをお教えした。王家のほうでも古い伝承を失っていることは間違いない。
私の死とともに、腕輪にまとわりつく欲望の炎も消える。
パンゼルが持ち帰った神剣の性能を知ったときには、腕輪と同じ歴史がまた繰り返されるのではないかと危惧せずにはいられなかった。
パンゼルは、パントラムの乱終結のあと、王の前で、サザードン迷宮第百階層で起きたことを、ありのままに伝えた。ただし、パーシヴァル様が迷宮で亡くなられたことは公言できないから、カルダンの短剣のことは伏せた。
鑑定士が呼ばれ、怪物から得た長剣の性能が明らかになった。神話にしかみられないような超絶的な恩寵である。これを怪物に差し出させたということが、まさしくパンゼルの勝利を証明するとみなされた。
諸侯の一人から、王に献上すべきだ、との意見が上がった。
パンゼルは、まったく考える時間も置かず、ただちに剣を王に献じた。
王陛下は、ひとたび剣を取ってごらんになったあと、これはなんじが得たものであり、なんじが使うべきものであると仰せになり、そのまま剣をパンゼルにお下げ渡しになられた。
まことに見事ななさりようだと思う。この一事のみをもってしても、私は陛下を名君と申し上げる。
続いて、王陛下は、それを持って戦うなんじの姿がみたいと仰せになり、近衛騎士百人との試合が組まれ、パンゼルが勝利した。近衛第一騎士団長に神剣を渡しての試合も行われたが、神剣は騎士団長には恩寵を与えず、パンゼルが勝利した。
何人もが神剣を試してみたが、パンゼルにしか本来の力を発揮できないことが、はっきりした。
「まさに、これは、神がなんじに与えた神剣である」
王陛下はそう仰せになった。
王宮での試合の日、パンゼルは戦った百人の騎士全員をわがメルクリウスに招待した。パントラムの乱の後始末に追われる家宰と私に、客に酒食を、とぬけぬけと言いおったものだ。
パンゼルは百人の騎士たちと酒を酌み交わし、友となった。
パンゼルには、戦った相手と友だちになるという妙な技能が備わっている。そのようなパンゼルの姿が私の心をどれほどなぐさめてくれたか、本人にはわかるまい。
12
雨が降っている。
どうも雨音が遠いと思ったら、雨戸が閉まっていて、カーテンがかかっている。
常夜灯の油の匂いもする。
夜になっていたようだ。
今日は、ローガンのやつは来たのだろうか。
いや、毎日来ているのだから、今日も来たはずなのだが。
どうも記憶がはっきりしない。
やつとも妙な縁だ。
考えてみれば、やつともアレストラの腕輪が引き合わせてくれたのかもしれない。
腕輪がみつかったあとしばらくして、ユリウス様が、あの冒険者ギルド長という人は、おとうさまのことをたくさん知っているのですか、とお聞きになった。
それはそうにちがいないので、そうお答えすると、話を聞きたい、と言われる。
もっともなことなので、事情を説明して当家の夕食に招いた。
やつの話は、おもしろかった。
直接パーシヴァル様とやりとりした内容も、思ったよりずっと多かったし、パーシヴァル様のいろんな逸話を知っていた。もともと知らなかったことまで調べて話してくれた。
語り口は上品とはいえないが、確かな知見に基づく話で、見方のゆがんだところがないのがありがたかった。何より、やつがパーシヴァル様のことが大好きだったということがよくわかった。
夕食に招くのは一度や二度ではすまず、六日か七日に一度は呼ぶようになった。
ユリウス様は、もっと頻繁に来てほしいと仰せだったが、何しろやつは忙しかった。
そのうちやつは、パーシヴァル様の話だけでなく、いろんな話をユリウス様に聞かせてくれるようになった。
冒険者の生活や考え方。
モンスターと戦うということの中身。
経験値やアイテムのこと。
諸国の事情、風物。
遠い異国の神霊や英雄のこと。
私も知らない知識をやつは豊富に蓄えていて、楽しい会話が続いた。事柄が全部真実だとは、とても信じられなかったが。やつとギル・リンクス殿が若き日に体験したと称するほら話など、金を払っても聞きたいほどの出来だった。
バトルハンマーの腕も見事なものだ。
どうしてやつと戦うことになったのだったか。
そうだ。
やつの主武器がバトルハンマーだと聞いて、私はユリウス様にご説明したのだった。
「技は要りませんが、威力はすさまじく、大力の戦士でなくては扱えません」
私は賞めてやったのに、やつはそれを取りちがえて、こう言った。
「技は要りませんだと。へえ。そんなら技をみせてやろうか」
長剣を持って、やつと戦った。
私は剣を三本と、あばら骨を二本へし折られ、やつに降参した。
むろん、その次のときには、しかるべき武器を準備しておいて、やつの胸を斬り裂いてやったが。
しばらく相手してやっていないので、寂しがっていることだろう。
それにしても、不公平だ。
私は、こうして老いてしまい、立ち上がることもままならない。
ところが、やつは、いつまでたっても、まるで二十代か三十代の若者のように元気だ。年齢を問いただしてびっくりし、そんな年なのに、どうして人並みにおとなしくすることができないのかと聞いた。すると、やつは答えたものだ。
「わしのおやじはドワーフじゃから、わしは完全には人ではないのう」
最初は冗談だと思っていたが、どうやら本当らしい。
ドワーフなどという生き物がまだどこかにいたなどと周りに知れたら大騒ぎになるだろう。しかし、いわれてみれば、確かに人間離れした体格と体力をしている。
ギルド長をやめることになったときは、この屋敷に来い、と勧めた。
やつも、ここの空気が肌に合っていたのだろう。
「おお、そうさせてもらうか」
そう返事し、以来メルクリウス家の食客となった。
もう、あれから十七年もたつのか。
13
パンゼルが来てくれたのは、今日だったか、昨日だったか。それとももう少し前だったか。
うれしい知らせだった。こどもが生まれたのだという。男の子だ。奥方との仲もとても良好のようだ。エッセルレイア姫は、いささか才気のありすぎるかただとも耳にしていたので、少し心配していたが、杞憂だったようだ。
ユリウス様と奥様も、この上なく睦まじい。もうすぐ、お子様がお生まれになる。パンゼルの子と同じ年ということになる。喜ばしいことだ。メルクリウスとゴランの友誼は何百年と続くだろう。
思えば、そのきずなは、あの忌まわしい夜、バルドラン様とエイシャ殿とのあいだで結ばれたのかもしれない。
名付け親になれと言われたときには驚きもしたが、パンゼルらしいなとも思った。
以前から、これならと思っていた名があったので、その場で命名した。
ベッドに横たわったままの、ひどく略式の命名式となったが、パンゼルも奥方も、満足していたようだった。
アルス、という命名を聞いて、パンゼルはただひと言、ありがとうございますと言って下がった。名前の由来など何一つ聞くこともなく。まことにパンゼルらしい振る舞いだ。
奥方は、英雄の名前をありがとうございます、と礼を述べて退出なさった。
その通りだ。アルスといえば、女神ファラに近侍してあらゆる敵から女神を守り抜いたといわれる英雄だ。
人にして神、神にして人。
人間の剣の技は、このアルスが生み出したともいわれる。
だが、アルスには、もう一つの顔がある。
争い合う神々のなかに立って、それぞれの言い分を聞き、いさかいを収めていった、神々の調停者と呼ばれる顔である。
幼き日、私はエイシャ殿から、古い神話を教わった。
昔、人々は、神を奪いあった。
地の恵みを望む者は地神ボーラを、山の恵みを望む者は山神ガーラを、海の恵みを望む者は海神エルベトを、わがものにしようと争った。
わがものにならず他の者に恵みを与える神を、人は憎んだ。やがて神々は人の思惑によって仲たがいし、相争うようになった。
神々の長兄は、今は南でもその名を伝える者は少ないが、ザーラという名だった。
ザーラは、神々の争いを哀しんだ。人と人との争いを哀しんだ。そこでザーラは、目にはみえぬ風となって天空に舞い上がり、遙かな高みから神と人の幸せをみまもることにした。
やがて、地上にアルスという英雄が現れ、神々の争いを鎮めた。人と人との争いも鎮めた。アルスとはザーラの化身にほかならない。ザーラは、人の姿を借りて地に平和をもたらしたのだ。
私は、エイシャ殿より教わったこの神話になぞらえて、パンゼルの子の行く末を言祝ごうと思ったのだ。
ああ、エイシャ殿、エイシャ殿。
私は。
私は。
あなたに頂いた命にふさわしい一生を送れたのだろうか。
エイシャ殿!
14
王国暦千百年白の三の月の一日。
メルクリウス家の前の家宰パン=ジャ・ラバンが死去した。
葬儀は、新ケザ領誕生以来最初の貴臣の葬儀となった。
ケザ公爵ユリウス・メルクリウスが喪主となり、王国守護騎士パンゼル・ゴランが執行責任者となった。
つつましやかであるが、会葬する人の胸を打たずにはおかない荘厳な儀式であったという。
特筆すべきは、勅使が遣わされたことである。
パン=ジャ・ラバン自身は子爵家の傍流にすぎないので、本来葬儀に王家が公式の使いを送ることはない。
パン=ジャ・ラバンは若き二人の英雄にとり父のような人であったから、格別の配慮がなされたのだろうと人々は言い合った。
奇妙なことに、勅使は開いた誄詞を読み上げなかった。
読み上げず無言で弔意を示し、そのまま柩に納めたのである。
そこに何が書かれていたか、誰も知らない。
(『迷宮の王』第二巻「勇者誕生」完)
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