第2巻 勇者誕生(前)
『迷宮の王』第二巻「勇者誕生」
第10話 王国守護騎士パンゼル
挿話1
第11話 ガーラの娘
挿話2
第12話 岩の男
挿話3
第13話 イシュクリエラの白姫
挿話4
第14話 エルストラン迷宮の亡霊
挿話5
第15話 業火
第10話 王国守護騎士パンゼル
1
走る。
走る。
すさまじい強さを持つ魔獣たちが跋扈するサザードン迷宮の深層を、騎士パンゼルは走り抜ける。
長大な階段を、疲れも知らぬげに一気に駆け上る。
迷宮を知る者なら誰もが不可能だと言うにちがいない速度だ。
パンゼルになぜそれが可能なのかといえば、最下層でミノタウロスが与えた二振りの宝剣のおかげだ。
〈ボーラの剣〉は使用者の移動速度を八割上昇させる。また、気力、体力、知力などすべての能力を六割上昇させる。だからこれほど速い移動が可能なのだ。もともとパンゼルはきわめて能力の高い騎士であり、ボーラの剣の恩恵を受けている今、人間には不可能な神速の移動ができる。
魔獣が襲いかかろうとしても追いつく前に過ぎ去っている。たまさか道をふさぐ魔獣がいれば、たちまち斬り捨てるだけだ。ボーラの剣には、攻撃力が三倍になる恩寵と攻撃速度が八割上昇する恩寵もついている。
ボーラの剣は基礎攻撃力も高く、扱うパンゼルの筋力と技量も王国最高峰のものなのだから、これほどの恩寵が付加されるとなれば、迷宮深層のモンスターの高い防御や回避も通用しない。
そのうえこの神剣にはクリティカル発生二割増加の恩寵もある。クリティカルとは攻撃が敵の急所に当たり、本来の攻撃力の何倍もの効果を挙げることだ。
斬り捨てた魔獣の体力はパンゼルに吸収され、魔獣の攻撃で傷ついた部位はたちまち癒される。ボーラの剣の持つ体力吸収一割の恩寵のためだ。これは、敵に負わせたダメージの一割を吸収して使い手の体力を回復する恩寵だ。この場合の体力回復とは疲れを取ることだけでなく、傷ついた部位の修復も含む。
精神力連続回復二割の恩寵はパンゼルの思考や闘争心を高い水準に保ち続け、たとえ刃こぼれしても、破損自動修復の恩寵が剣の切れ味を最上の状態に戻す。
迷宮内には毒や呪いを持つ魔獣も多い。これには〈カルダンの短剣〉が威力を発揮する。状態異常全解除、解毒、聖属性付加という恩寵をこの短剣は備えているのだ。
構造も順路も知らないこの迷宮を、パンゼルが迷いなく疾走できる秘密も、カルダンの短剣にある。この短剣は、階層内地図自動取得、知力二倍の恩寵を持っているのだ。つまり、この短剣を腰に差しているだけで、足を踏み入れた階層の構造やモンスターの位置が頭のなかに浮かび、ただちに最短最善の順路を組み立てることができる。
(異形の戦士よ)
(これほどの貴重な宝物を二つも譲ってくれたこと、感謝の言葉もない)
(いつか必ず私はあなたのもとに帰る)
(そして最後の決着をつける)
(それをこそあなたは待ち望んでいるはずだ)
(だが、今は)
(今このときは)
主君と恩人を窮地から救うため。
王国をよこしまな者たちの専横から守るため。
パンゼルは一刻も早く地上に戻らなくてはならなかった。
2
メルクリウス家の家宰パン=ジャ・ラバンがパンゼル少年とめぐり会ったのは、王国暦千七十九年のことだった。
パンゼルをメルクリウス家の家臣に迎えたパン=ジャは、パンゼルに目をかけ鍛えあげた。
パンゼルは、恐るべき成長をみせた。
メルクリウス家の幼き当主ユリウスも、目覚ましい成長をみせた。
王はユリウスの成長を遠くからみつめていた。秘密婚から生まれた子ではあるが、ユリウスは、王が愛する異母妹の子なのである。
やがて騎士となったパンゼルは、次々と功績を挙げてゆく。パンゼルの挙げた功績は、すなわちそのまま主君ユリウスの功績だ。王その人がユリウスに手柄を立てさせたいと願っているのである。メルクリウス家の武名は高くなる一方だった。相変わらず領地は持たない貴族であったが、王都の屋敷は拡張され、家兵は大いに増えた。
王国暦千九十六年のある日、朝議の席でリガ公爵アルカンが発言した。
「近衛第四騎士団が総がかりで敗北した迷宮の怪物に単独で勝利する者がいれば、建国時代の諸英雄に匹敵する」
リガ家は王国随一の権力と富を持つ家である。アルカンは、この年六十歳。宰相兼務の筆頭大臣である白卿となってすでに三十一年。政治の怪物といってよい人物だ。
リガ公爵のこの発言は、王を大いに驚かせた。
なぜならこれは、パンゼルがサザードン迷宮のミノタウロスを退治すれば王国守護騎士に任じるべきだと言っているのであり、そのようなことをリガ公が言い出すなどあり得ないことだったからだ。
皇太子の指名は、もはや引き延ばせない問題だった。
王は第一王妃の子である第一王子を皇太子にしたいと思っていたが、第二王妃の父であるリガ公爵が、自分の孫である第二王子を皇太子にしたいと考えていることは明らかであり、朝議の趨勢はリガ公爵派にあった。
ところが、直閲貴族家の当主として廟堂に席を持つユリウスが、「家のあとは長男が継ぐのが古来よりの伝統です。国においても、またしかりではありませんか」と述べたことで、空気が変わった。
若手の貴族のあいだでは、ユリウスは大きな支持を得つつあった。また、ユリウスが実は王妹の子であると知る長老たちは、ユリウスの言葉を軽くは聞かなかった。しかも、述べた言葉はまさしく正論である。
これにより、第一王子を皇太子にという機運が生じてきたのである。
王はパンゼルを高位の騎士に引き上げることを強く願った。廟堂に上がれるほどの高位の騎士に。
建国時代の諸英雄とは、始祖王と共にこの国を打ち立て、王国守護騎士に叙せられた二十四人の英雄を指す。二十四人は直閲貴族家の始祖となった。以来千余年、王国守護騎士に任じられた者はない。
パンゼルが王国守護騎士に任じられれば、直閲貴族家と同格になり、廟堂に上ることができる。そうなれば第一王子を皇太子にすることも不可能ではない。
パンゼルが廟堂に上ることを最も望まないのがリガ公爵なのである。そのリガ公爵が、パンゼルが王国守護騎士になる道を示したのだから、これはあり得ないことであり、大いにあやしむべきことだ。
それでも王は、この機会を逃すわけにはいかなかった。だからリガ公爵の意見を強く支持した。
こうしてパンゼルとミノタウロスの対決が決定された。
その対決は豊穣祭の当日に行われることになった。民のことごとくが祝いに興じるこの日なら、迷宮に潜る者たちを邪魔することもなく、邪魔されることもないというのがその理由である。
豊穣祭の日、パンゼルは王宮に呼び出され、ミノタウロスの討伐の勅命を受け、迷宮に向かった。
それを待っていたかのように、パウロ男爵の軍勢がメルクリウス家を攻めた。このときパウロ男爵ボーラム・ナダルの将帥旗と並んでリガ公爵の長男ガレストの将帥旗が立っていた。
ナダル家は、もともとフェンクス諸侯国の有力領主の一人で、王国暦千四十年に、当時のリガ公爵モルゾーラの手引きによりバルデモスト王に帰順し、男爵に叙せられた。その軍はきわめて精強である。
メルクリウス家は守勢に撤してこれを迎え撃った。
時を同じくして、リガ公爵家の軍勢の一部が、王宮を囲む構えをみせる。
パウロ男爵軍の猛攻にメルクリウス家が耐えているさなかに、パンゼルが帰ってきた。
3
「ただいま帰りました」
「おお! 帰ったか」
「遅くなり、申し訳ございません。実は」
パンゼルは、主君ユリウスと、前の家宰であり、現在メルクリウス家軍の総指揮をしているパン=ジャ・ラバンに事の次第を報告した。
そしてユリウスにアレストラの腕輪の借用を願い出た。
「許す。ここにある」
アレストラの腕輪を装備したパンゼルは、ユリウスの前にひざまずいた。
「敵将撃破のお下知を」
「うむ、征け」
「はっ」
パンゼルは、部下も連れずただ一人で正門を開いて外に出て、魔法結界を通り抜け、敵軍のなかに分け入った。
ふれる者、近づく者は、すべてただの一振りで斬り倒し、前進する。高い防御力を持つ鎧が、すぱすぱと切断された。
パンゼルも敵の攻撃を確かに身に受けているのだが、ダメージが蓄積しているようにはみえない。ボーラの剣の恩寵である。迷宮で得られる恩寵品の多くは、迷宮のなかでだけその恩寵を発揮する。だが、ボーラの剣は、迷宮の外でも恩寵を発揮する特殊な恩寵品だったのだ。
パンゼルは、敵軍の将帥旗が立つパントラム広場にまっすぐに向かった。二本の将帥旗のうちリガのそれを目指す。敵の人波に隠れて姿が消えた。
そして、すぐに帰って来た。
帰り道のパンゼルを、敵はもう襲わなかった。人にあらざる者をみる畏怖の目で、ただ呆然とみおくるだけだった。
再びユリウスの前にひざまずいたパンゼルは、敵将ガレストの首を差し出す。
ユリウスの命を受け、パンゼルは軍勢を率いて王宮に向かい、近衛第一騎士団長の指揮下に入って王宮と第一王子を守った。
パウロ男爵は王都を脱出し、リガ公爵は自分たちは王宮を守るために兵を出したのだと宣言し、騒乱は終結した。
人々はこの出来事を、パントラムの乱と呼んだ。
4
廟議が開かれた。
アルカンは、乱の首謀者はパウロ男爵だが、長男ガレストがパウロ男爵にだまされて心ならずも乱に加担したのは許されざる罪であるとして、王にわび、ガレストの子らと側近全員の首をその場に差し出した。
リガ家の罪を問う声が次々に上がったが、アルカンは巧みに釈明をした。結局、真相はパウロ男爵を召喚して詰問するまで明らかにならないということになり、詮議は終了してしまった。
これには、王と群臣の関心が、パンゼルとボーラの剣に向かってしまったという事情もある。パンゼルが怪物から得た長剣の持つ恩寵が明らかになると、皆はそれに夢中となった。
王命により、パンゼルは近衛騎士団の騎士百人と戦い、またボーラの剣を渡して近衛第一騎士団長と戦い、勝利した。ボーラの剣は、パンゼル以外の人間が使用したときには恩寵を発揮しなかった。
パンゼルは王国守護騎士に叙せられ、ゴラン家を立てた。アルカンは白卿の座を降り、アルカンの次男ドレイドルが青卿の座に就いた。白、赤、青、黒の四卿のうち第三位の地位である。
パウロ男爵ボーラム・ナダルに、王宮から詰問の使者がつかわされた。男爵は使者に、剣をもってお答えすると告げた。
この年、バルデモスト王国の諸侯で編成された軍がパウロ男爵領を攻めた。
フェンクス諸侯国には王はなく、諸侯の合議で事が進められる。フェンクス諸侯が抱える騎士団は北方騎士団と呼ばれる。重装備と頑健さで知られ、他国の騎士が同数で勝ったことがない。なかでもナダル家の抱える北方騎士団の強さは有名だった。
パウロの地は、バルデモストから与えられたものではなく、もともとナダル家が領有してきた土地だ。峻険な山地に囲まれた肥沃な平野で、パルデモスト王国側からは非常に攻めにくい。
当代男爵のボーラムは、近年バルデモストで目覚ましい武功を挙げている人物で、パンゼルが現れるまでは、王国随一の武将の名をほしいままにしていた豪傑である。
天然の要害といっていいパウロの地に攻め入って、ボーラムが率いるナダル家の北方騎士団と戦おうというのだから、勝てるみこみなどない戦であって、バルデモスト王の誇りを示すにとどまるだろうと、誰もが思った。攻め入ったバルデモストの諸侯も、形ばかりの進撃の構えをみせるばかりだった。
ところがパンゼル率いる近衛騎士百人とメルクリウス家の騎兵二百人が、電撃的に周辺の砦を抜いてパウロ男爵の本拠地に攻め入った。そしてパンゼルは百人の騎士でボーラム率いる二百五十人の北方騎士団を打ち破ったのである。
同数では勝てないといわれていた北方騎士団に、半数以下の騎士で勝利したのである。この勝利でパンゼルの名は大陸北部全体に鳴り響いた。
ボーラムはフェンクス諸侯国の有力者バヌースト公を頼って亡命した。
バルデモストはバヌースト公にボーラムの引き渡しを要求し、バヌースト公はバルデモストにパウロ男爵領の返還を要求し、交渉が始まる。
翌年、つまり王国暦千九十七年、パンゼルはエッセルレイアと結婚し、ユリウスは入閣して黒卿の座に就く。ドレイドルは赤卿に進んでいる。
翌千九十八年にはユリウスが結婚している。パウロ男爵領の平定が終わり、この地はケザという名に改められる。そしてユリウスがケザに封じられ、ケザ侯爵に叙せられる。
王国暦千百年、パンゼルの長男アルスと、ユリウスの長女セルリアが誕生する。この年、パン=ジャ・ラバンが死去し、ドレイドルが白卿となっている。また、バヌースト公との和平交渉が決裂し、バルデモスト王国と、フェンクス諸侯国のうち十四諸侯とが開戦する。
戦争は三年と少し続いた。
バルデモスト王国軍は太子を総大将として攻め込み、パンゼルの神がかり的ともいえる活躍でフェンクス諸侯国の版図に占領地を拡大してゆく。
パウロ男爵とは数度戦ったのだが、この豪傑はパンゼルを褒めてこう言った。
「パンゼルというやつは、天空を切り裂く雷神のような男だ」
それからというもの、フェンクス諸侯国の騎士たちは、畏敬を込めて〈天雷パンゼル〉と呼ぶようになった。
パンゼルは、フェンクス諸侯国でも最強といわれたバヌースト公の北方騎士団を何度も破り、パウロ男爵の首を取り、バヌースト公を自害させ、バヌースト本城を奪取して、バヌースト領の完全制圧まであと一歩というところまで迫った。
そして王国暦千百三年、パンゼルは従軍中に急死する。当初その死因は不明だったが、のちになり、神剣の恩寵をあまりに引き出しすぎたための死であったと判明する。
ユリウスの活躍で無事に講和条約が締結され、バヌーストの地はバルデモストのものとなった。
ゴラン家は占領地域に領地を与えられ、パンゼルはバヌースト侯爵を追贈される。
かくして、英雄パンゼルはその生涯を終えた。三十一歳であった。
その子であるアルスは、ユリウスのもとで養育され、武を磨いた。
王国暦千百十四年、アルスは十四歳になり、ザーラと改名して冒険者となってサザードン迷宮に潜り、驚異的な速さでレベルを上げ、なんと一年半で第六十階層にソロで到達した。そしてレベル六十五に達し、Sクラス冒険者冒険者となったのである。
新たな英雄が誕生しようとしていた。
挿話1
ミノタウロスは上機嫌だった。
迷宮のなかに生を受けてからこのかた、かつてないほど上機嫌だった。
その上機嫌の理由が生涯で最初の敗北にあるというのだから、考えてみれば奇妙な話だ。
もちろん、敗北そのものを喜んでいるわけではない。それは思い返すだけではらわたが煮え、目が赤くそまるほど、腹立たしく許しがたい出来事だった。
だが、またあの男と戦えるのだ。それが喜びでなくて何だろう。楽しみでなくて何だろう。
次こそ勝利するのだ。あの強い男に。それこそが勝利だ。その勝利のために俺は生まれてきたのだ。
ミノタウロスはそう考えていた。
だから男以外の敵が来るのも楽しみになった。
以前ほど頻繁にではないが、時々敵はやってきた。人間の冒険者たちが、迷宮の王を倒さんと挑んでくるのだ。
実はこれには、ミノタウロス自身は知りようもない事情があった。
サザードン迷宮に生まれたこのミノタウロスが、第十階層のボス部屋を出て下層への進撃を始めたのが、バルデモスト王国暦千七十九年のことだ。二年後の王国暦千八十一年には最下層に到達し、メタルドラゴンを駆逐して迷宮の主となった。
前後二度、バルデモスト王の出資により巨額の賞金がかけられたため、王国暦千九十一年ごろまでの十年間は、数えきれないほど多数の冒険者パーティーがミノタウロスに挑み、そしてミノタウロスの経験値となった。近衛第四騎士団が総勢でミノタウロスに挑み、敗北したのも、王国暦千九十一年のことである。
以後、挑戦者の数は激減した。ただし、挑戦者がいなくなったわけではなく、よりすぐりの強者しか挑戦しなくなった。
そして、徐々に徐々に、ミノタウロスの噂は諸国に伝わっていった。
荒々しい武人らが割拠する北のフェンクス諸侯国に。
その東のダダ国に。
魔法大国マズルーに。
大陸南西部に巨大な版図を持つゴルエンザ帝国に。
富貴の国イェナ大公国に。
厳しき風土のシェラダン辺境伯領に。
自由の気風を持つカレリヤ自由都市群に。
武闘寺院や多数の剣術道場があるペザ国に。
東部辺境に。
西部辺境に。
ジャミの森の蛮族に。
バルデモスト王国のサザードン迷宮最下層には、不敗のモンスターがいると。どれほど高位の冒険者パーティーも歯が立たず、近衛騎士団が総がかりでも一蹴された化け物がいると。そんな噂が伝わっていった。
馬鹿なことをいうなと笑う者もいた。
自分には関係ないことだと聞き流す者もいた。
だが、時をへて何度も何度も噂が重ねられるうちに、人々の心には、次第に巨大なミノタウロスの存在が刻まれていった。
ミノタウロスを追い詰めた騎士が、ミノタウロスから超絶的な恩寵を持つ剣を獲得し、圧倒的な強さをみせて侯爵にまで成り上がったという事実も、この噂に真実味を添えた。
もしかすると、大陸の歴史始まって以来現れたことのない強大なモンスターなのかもしれない。
いつしかミノタウロスは、サザードン迷宮最下層の主というだけでなく、あらゆる迷宮の王者なのかもしれないとさえ思われるようになった。
そしてもう一つの噂があった。このミノタウロスは〈ザック〉を持っていて、そこにはありとあらゆる種類の最高の剣が収められており、ミノタウロスを倒せば、膨大な数の恩寵武器が得られるというのだ。
各地で迷宮を制覇した最強のパーティーが、その先に目指すものが生まれた。
サザードン迷宮最下層の主であるミノタウロスの撃破。
それは英雄になることであり、最強の武器を手に入れ、莫大な富を手に入れることである。
かくして各地から強者たちがやってくるようになった。
決して大勢ではない。さほど頻繁なことでもない。しかし大陸でも指折りの冒険者たちが、一組、また一組と、サザードン迷宮に足を向けた。
ミノタウロスは喜々として彼らと戦った。
あの男に勝つためには、人間の戦い方を知らねばならぬ。
そう考えたミノタウロスは、冒険者たちの剣の一振りをみさだめるにも、この攻撃が十倍の速さで、十倍の威力で、十倍の鋭さで行われたらどうなるか、と思いながら戦った。
胸弾む日々が続いた。
第11話 ガーラの娘
1
「お前な、旅に出ろ」
いきなり武芸の師であるローガンに言われ、アルスはとまどった。
「剣を磨くためですか」
「それもある。剣と、体と、心を鍛えるためだ」
「このまま迷宮に潜ったのでは、強くなれませんか」
「逆だ。強くなりすぎる。今でも強すぎるぐらいだ。十四の年から迷宮に潜らせたが、まさか二年でレベル六十五になるとはなあ。その年でSクラスだ。ドルーガのやつもたまげとった」
ドルーガはローガンの甥であり、現在のミケーヌ冒険者ギルド長だ。
ローガンがギルド長を退任してメルクリウス家の食客となったとき、後任のギルド長となったのは、事務長だったイアドールだった。やがてイアドールが五十四歳でギルド長を退任したとき、ドルーガが後任のギルド長となったのである。
ちなみに、イアドールはギルド長を辞めたあと、アルスの母が治めるバヌースト領の財務官僚となった。六十二歳となった今も健在で、ゴラン家の財務を総覧している。
年齢のことをいえば、壮健そのもののローガンは今年百五歳である。ごく一部の人しか知らないことだが、ローガンはドワーフ・ハーフであり、人とは寿命がちがう。そしてその甥であるドルーガは、生粋のドワーフである。はるか昔に絶滅したと思われているドワーフであることは、むろん周囲には秘密だ。
「天剣パーシヴァル様は十五歳でSクラスになられた、と聞きます」
サザードン迷宮で死んだメルクリウス家の先代当主パーシヴァルは、まさに天剣と呼ばれるにふさわしい天与の剣才を持つ人物だった。
「あいつは、十二歳で冒険者になった。足かけ四年かかった計算だ。だけどな。そんな話じゃないんだ。天剣の話が出たから、ついでに言うけどな。あいつも、はじめのうちは迷宮にばかりこもってたわけじゃない。外での冒険もずいぶんこなしてた。実際、Sクラスになったのは、ゾアハルド山賊団の討伐で圧倒的な手柄を立てた直後だ」
「はい。首領を含む幹部八人を、一人で倒されたとか」
「あんときはな、国からの依頼だったんで、さる貴族のぼんぼんが指揮を執ってなあ。腕はそれなりにあったらしいが、実戦経験のない騎士だったんだな。山賊ってのは、平地におびき出して罠にかけて討ち取るもんなのに、力押しで山の中のアジトを攻めた。まあ、そういうやり方もないとは言わんがなあ。一箇所に集めて一気に殲滅するのは悪くないし。それにしても、偵察を放ったり、本体の位置を気取られねえよう隠密行動したり、分隊を作って包囲していくとかなあ。いろいろ作戦てなあ、あるもんなんだ」
「よくわかります。そのようにしなかったのですか」
「しなかったんだ。日中に堂々と、全員一緒に、わいわいがやがやと進軍したそうな」
「静かにするよう、命じなかったのですか」
「命じたかもしれんが、演習気分の見習い騎士や荷物持ちのやつらじゃ、なかなか言う通りにはせんだろうな。大人数で、細い山道を行けば、隊列も長くなるし、統制なんぞ聞きやせん。第一、静かにするってなあ、ここぞというときにする命令だ。何時間も続けさせるような命令じゃない。まあ、それでも、アジトには着いた。確かに山賊たちがいる。それで、補助魔法をかけてから一斉に襲いかかろうとしたのはいいんだが」
「待ち受けられましたか」
「そうだ。罠を張られてた。あちらは、ちゃんと見張りを置いてたんだろう。役人を買収して情報を買ってたのかもしれん。とにかく、包囲網を敷いたはずの討伐隊は、包囲網の外から攻撃を受けた。矢玉と魔法攻撃の嵐だ。この時点で、かなりの被害が出た。だが、いいこともあった。指令系統が混乱して、指示ができなくなった」
「それは、いいことなのですか」
「いいことだとも。冒険者たちが、自分たちの判断で動けるようになったからな。冒険者たちのうちパーティー単位で参加してた者は、すばやく本来のパーティーを組み、そうでない者も少人数のグループに固まって、それぞれの判断で攻撃をのがれ、回り込んで、包囲している山賊たちを攻撃し始めた」
「パーシヴァル様もですか」
「いや。天剣は指揮官の近くにいた。指揮官てのが、天剣のおやじさんと知り合いだったんだな。行軍の途中で、天剣の素性に気がついて、おお、メルクリウス家の御曹司か、ってなことで、近くに呼んだわけだ。まあ、会話は繁らんかったと思うがな」
「なぜでしょう」
「いや、お前。なぜったって。そうか。お前は、天剣を知らんもんなあ。あいつは、とにかく、会話の成り立ちにくいやつだった。たいていの相手は、うむ、いや、そうか、の三語しか聞いたことないんじゃないかな。つまらんこと話しかけると、返事せんしな。そもそも、いつもすたすた歩いとるから、話しかけようと思ったら、もうあっちに行っとるんだ」
「無口であられたとは聞いています。でも、伯父御とはよく話されたとか」
「うん。わしが話しかけると、不思議と相手してくれたな。まあとにかく、指揮官の近くにいた。指揮官としては、最初に一斉に魔法攻撃を加えて、それからアジトに突っ込むつもりだったんだな。ところが、攻撃の直前、アジト全体を覆う防御魔法が発動した。あちらは準備万端だったわけだ。かなり強力な防御魔法だったらしく、魔法攻撃は、まったく効かなかった。指揮官は、あんな大がかりで強い魔法はわずかな時間しかもたないから、続けて魔法攻撃をするように、と命令した」
「ほう。悪い命令ではないように思います」
「うん。作戦としては正しい。しかも、降りそそぐ矢玉のなかで、盾持ちの騎士に魔法使いを守らせながら、そう命令したというんだから、まあ、まるっきりの馬鹿ではなかったわけだな。だが、味方はみるみる損耗していく。そのとき天剣が飛び出した」
「指揮官の命令なしで動かれたのですか」
「というより、指揮官の意を酌んだんだな。とにかくアジトにいるやつらをつぶす、ってことだ。結界にたどり着くと、アレストラの腕輪を発動させ、すっとなかに入った。敵は驚いただろうなあ。だが、すぐに建物から矢や魔法で狙われた。それを片っ端からかわした」
「魔法攻撃をかわした?」
「そうなんだ。わしが自分でみたわけじゃないが、その場にいたやつに聞いた。天剣に言わせると、狙って撃ってきた攻撃はかわせる、だと」
「!……狙って撃ってきた攻撃はかわせる」
「いや、そんな感動した顔すんな。ここは、あきれるところだ。やつは、アレストラの腕輪を持っているくせに、めったに使わなかった。このときも、魔法攻撃を吸収するためには使わなかった。天剣は、建物に飛び込むと、八人の敵を斬り伏せた。建物のなかにいたのは八人だけだったんだな。最精鋭の幹部たちだ。そのなかに頭目のゾアハルドもいた。ゾアハルドってのはSクラス冒険者だったんだがなあ。天剣が建物に飛び込んでからゾアハルドの首を剣に突き刺して出てくるまで、ほんとにあっというまだったそうだ。頭目が討ち取られたと知って、山賊たちの大方は、抵抗をやめた」
「ううむ。見事な武勲です」
「そのときの天剣は、今のお前よりレベルは低かった。だが、お前に同じことができるか?」
「いえ。私に、パーシヴァル様ほどの技量はありません」
「技量はあるよ。お前は、小さいときから、当代一流の武芸者たちに教えを受けてきた。わしも、お上品ではないが実践的な戦い方をたたき込んできた。技前でいうなら、お前は天剣に劣らない。しかしな」
「何でしょう」
「お前は、迷宮以外での実戦を、まだ知らない」
「はい」
「外での実戦は、迷宮とはまるでちがう。外じゃポーションは使えないんだ。外の戦いで腕を失い、足を失えば、それはもう二度と取り戻せない。右腕をなくしたやつが迷宮に入って赤ポーションを使っても、右腕は戻ってこない。右腕のない状態が、本来の状態とみなされるからだ。レベルアップによる体の造り替えも、外で失った手足を戻してはくれん。迷宮の外にも薬や治癒呪文はあるが、自然治癒を速め強化する以上のもんじゃない。まあ、たまにとんでもない神官や僧侶もいるが、なくした手や足を戻すのは無理だ」
「よくわかっています」
「精神力もそうだ。迷宮じゃあ、青ポーションをがぶ飲みすれば、いくらでも魔法や特殊スキルが使える。しかし、外じゃあ、そうはいかない。だから、精神力の減り方をうまく管理しなくちゃならんし、連戦はできん。肉体と精神の力が尽きたら、戦えない。戦いの最中に力尽きたら、死ぬんだ」
「はい。その点については、よくよく心に銘じてもいるし、訓練もしてきています」
「そうだな。だが、お前は、強くなりすぎた。このままじゃあ、恐れを学ぶことができん」
「迷宮でも、敵は恐ろしいです。まして、いつも一人で潜るのだから、恐れは感じます」
「だが、手強い敵でも、ポーションをがぶ飲みすれば倒せる。どんどん倒せば、みるみるレベルが上がる。レベルが上がると、恐ろしかった敵が簡単に倒せるようになる。迷宮というのはな、麻薬だ。いくらでも強い自分に進化していけるんだからなあ。強くなるほど、見返りもでかい。踏み込んでいけばいくほど、そこからのがれられなくなる。迷宮で感じる恐怖なんてのは、快感の調味料みたいなもんだ。怖い、痛い、苦しい。でも、大丈夫。頑張ってレベルを上げれば、何もかも解決する。そう考えちまう。それが体にしみついたら、もう、迷宮以外では戦えない」
「私の戦いは、まさに迷宮にあります」
アルスの父パンゼルが生前の功績によって侯爵位を追贈され、ゴラン家がバヌースト領に封じられたとき、喜んだのはアルスの母エッセルレイアの実家リガ家だ。エッセルレイアの兄リガ公爵ドレイドルは、バヌースト領に有力な家臣を送り込み、アルスをリガ家で養育し、アルスが成人するまでのバヌースト侯爵をリガ家から出そうとした。支援という名の乗っ取りである。
エッセルレイアは王に直訴した。夫パンゼルは迷宮のミノタウロスに約束しました。必ず帰ってきて決着をつけると。その約束は子たるアルスが果たすべきです。ゆえに、アルスは部門の家であるメルクリウス家に養育をしていただきたいと思います。アルスが成長し見事ミノタウロスを討ち果たしたとき、アルスをバヌースト侯爵にお任じください。それまで侯爵位は私エッセルレイアがお預かりすることをお許しください。それが直願の内容である。
これほど広く重要な土地の領主を女性が務めるというのは異例なことだが、王はその願いを許した。だからアルスは何としてもミノタウロスを倒すだけの力を身につけねばならない。
「そうだ。だが、今のお前では、あいつとは戦えん」
「私に、何が足りないのでしょうか」
「人として生きる悲しみのようなもんかな。天剣は、それを知ってた。お前のおやじも、それをよく知ってた。知らずにはいられなかった」
「命のはかなさを知る、ということでしょうか?」
「そうだ。そう言ってもいい。だが、今のお前にそれがわかってるとは思えん。やつを倒したあとは、お前は外で戦わなくちゃならんしな。視野を広く持つ必要もある。旅に出ろ。まだ時間はある」
「伯父御がそう言われるなら、そうします。どこに行けばよいでしょうか」
「どこでへも行け。といってもバルデモストじゃ、いつお前の正体が知れんともかぎらん。知れてしまえば、いろいろ面倒なことも起きるだろう。フェンクスじゃ、なおまずい。となると、まあ、南だな。いろいろ回ってみろ」
「わかりました。南に行きます」
「南でいろんな戦いを経験してみろ。まあ、南でも、素性がばれたら自由には動けなくなるかもしれんがな。お前にザーラという名で冒険者メダルを作らせたのも、こんなときのため、ってこともある。ドルーガがギルド長で、お前の戸籍を扱うのがイアドールの部下でなけりゃできん裏技だったがな」
アルスの恩寵職は〈騎士〉だ。恩寵職が騎士であっても神殿で冒険者メダルを発行してもらうことはできるが、そのメダルを鑑定すれば本当の名がわかってしまう。アルス・ゴランの名が漏れれば、行動は著しい制約を受けるし、妙な噂が広まらないともかぎらない。
だからザーラと改名した。ただし、王宮への報告はしなかった。本来なら一定以上の身分の貴族が改名した場合、届出をしなくてはならない。そして届出の内容は〈諸家系統譜〉に記載される。だが、家名のないただのザーラと改名したというような不名誉な記録を残すわけにはいかないので、届出を一時保留させてあるのだ。もちろん、いずれはアルス・ゴランの名に戻る。冒険者メダルの発行は冒険者ギルド付属の神殿で行ったし、サザードン迷宮に潜るについての情報提供や消耗品の販売、取得品の買い取りなどは、ギルド長ドルーガの権限で目立たないように運んでもらっている。
「戦って、少しでもレベルを上げればよいのですね」
「いや、上がらんと思うぞ。外では、そうそうレベルは上がらん。まして、そのレベルから上となると、尋常な経験値じゃ足りん。一年ぐらいいろんな所で戦って、レベルが一つ上がれば、速いほうだな。まあ、レベルのことなんか気にしなくていい。レベルが足りなけりゃ、ここに帰ってから上げりゃあいいんだ」
「はい」
「いろんな戦いをしろ。いろんな人や物に出合え。いろんな経験をしろ。そうしたら、この世界を知ることができる。旅をすりゃあ、自分自身を知ることができるんだ。いや、これは、消えちまった親友の受け売りだがな。ああ、それから、人前じゃあ〈ルーム〉を開くな」
「はい。わかっています」
冒険者はふつう〈冒険者〉という恩寵職に就く。そうすれば、〈ザック〉という収納機能を授かる。ザックは非常に取り回しのよい収納機能だ。一方、騎士という恩寵職に就けば、ルームという収納機能を授かる。ルームは共有や相続が可能なのだ。
ザックは、そこに手を突っ込んでアイテムを取り出すので、人からはみえない。ところがルームは、操作画面を表示させて目的のアイテムを選択して取り出すので、人前で使えばルーム持ちだとわかってしまう。しかも位置によっては操作画面がみえる。操作画面をみれば、アルスの所有するルームのおよその規模もわかる。
「剣も、必要なときに出すんじゃなくて、いつも腰につけとくんだ。ルームに頼らず、よく使う物は荷物袋に入れて、持ち歩け。お前の修業にもなるし、ザックの容量の少ない駆け出し冒険者だと思われるから、二重に好都合だ」
2
「目、覚めたか」
白く濁る意識のなかで、妙にはっきりと声が響く。
おなごの声だ、とザーラは思った。
ぱちぱちと、たき火がはじけている。
どこかの小屋のなかである。
たき火がみえる。ということは、目を開けているということである。
しかしザーラには、自分がいつ目を開いたのか、記憶がない。それをいうなら、いつ意識を失ったのかも記憶がない。
何か、とても懐かしい夢をみていたような気がする。
ザーラは、再び夢のなかに落ちた。
3
「お前、運、いい。雪のなか倒れれば、死ぬ」
ザーラは行き倒れになり、すぐにも凍死するところを、この少女にみつけられ、助けられたのである。
山の天気が変わりやすいことは、十二分に心得ていたつもりだった。まして、死の山と呼ばれるこのガーラ大山脈を侮るわけもない。
が、春の若芽がすくすくと伸びているこの季節に、まだ麓に近いこんな場所が急に吹雪で覆われるとは、さすがに予想を超えていた。
ザーラは臥所から体を起こし、少女がよそってくれたスープを食べていた。
塩の効いた干し肉。
じっくりと煮崩した木の根。
芋。
食べた物が体にしみ込んでいくのが、よくわかった。
「おいしかったです。ありがとう」
椀を置き、少女のほうを向いて、感謝を示す。
少女は、にこりともせずうなずき、ザーラが使った椀と自分が使った椀を、桶に汲んだ雪で洗った。
「名、あるのか」
「ザーラ」
無表情だった少女が、驚いたような目で少年をみつめ、それから大きな笑い声を上げた。
「あははははははっ。その名前、吹雪引き寄せた、よくわかる」
ザーラはきょとんとしている。少女は、少し困った顔をした。
「ザーラ、ボーラ、ガーラの伝え、知らないか」
「知りません」
少女は、一つの神話を教えてくれた。
4
ザーラという名の男神がいた。
ボーラとガーラは、その妹神である。
三柱の神は、それはそれは仲がよかった。
長いあいだ、地の平和を守り、人々に恩恵を与え、暮らしていた。
あるとき、ボーラがザーラに求婚し、二人は結ばれた。
二人のあいだには、娘が生まれた。
だが、ボーラは気づいた。
ガーラもザーラに求婚したかったのだと。
ボーラは娘を連れてどこかに去った。
ガーラは、自分だけが幸せになることはできないと思い、身を隠した。
二人の妹とわが子を失ったザーラは悲しんだ。
ザーラは天を吹く風となって、二人の妹とわが子を探す旅に出た。
神々が去り、恩恵は失われ、人々は苦難の時代を迎えた。
人々は神々を探した。
ボーラは地を裂いてその底に住んでいた。
ガーラは山に隠れていた。
ザーラのゆくえはわからなかった。
平地の民はボーラを祭り、山の民はガーラを祭った。ザーラを祭る民はいなかった。
ボーラは大地に、ガーラは山に、豊穣をもたらす。
けれども、ボーラもガーラも、ザーラと離れてしまったことを、今でも嘆き悲しんでいる。
ゆえに、神に近づけば、人は死ぬ。
5
はじめて聞く伝説だった。
ボーラ神のことはむろん知っているが、ザーラ、ガーラという二柱の神のことは聞いたことがない。
(ガーラ山脈の名の由来は、そういうことだったのか)
現在の自分の名がザーラであるという偶然を、何やらくすぐったく感じた。ザーラという名は、冒険者としての自分に自分でつけた名なのである。神話や伝説とは関係なく、本名のアルスをもじったものにすぎない。
「あなたの名は?」
「まだ名、ない。ゲリエの娘、呼ばれている」
ゲリエというのは、父の名であるという。
その返答により、少女がゾルゾガの民であることが、はっきりした。
(噂なぞ、当てにならないものだな)
平地の民が知る山の民、すなわちゾルゾガの民は、人というより半獣である。全身を剛毛に覆われ、人の言葉は片言しか話せない。山に住み、平地に降りることはない。
けもののように考え、けもののように生活する。山のことに詳しく、貴重なモンスターの革や、薬草、鉱物などを、平地の物品と交換してくれる。親が子に名をつけるのではなく、名が必要になったら自分で自分に名をつける。
だが、どうみても、目の前の少女はけもののようではない。
なるほど、けものの革で作った服を着ているし、化粧もしていない。髪は無造作に短く切り詰められている。顔も手足も、汗とほこりで汚れている。
それでも、このおなごはうつくしい、と少年は思った。
立ち振る舞いは躍動的で、しなやかである。言葉は確かに片言であるが、単語の選び方や話のしぶりには、確かな知性と、清明で快活な精神が感じられる。
何といっても、声と目だ。
力むわけでもないその声は、凛と響いて、耳にまっすぐ飛び込んでくる。
目と目をみつめあわせれば、驕りも怯みもないまなざしに、胸が射抜かれる思いがする。
傍らをみれば、少年の剣と荷物袋が置いてある。
あの吹雪のなか、少年の体を運ぶだけでも大変だったはずである。
(剣と荷物袋が、このおなごの心根を知っている)
「ここに一人で住んでいるのですか?」
少女は、父が三か月前に死に、集落にいられなくなったので、父の持ち小屋であったここに一人で住むようになったのだ、と答えた。
少女の母は、平地の人間であったということで、平地の言葉は、母に教わったのだという。
母親という人のことを聞こうと口を開きかけて、少年は、外の気配に気づいた。
6
少年が、何者かの気配を感じ、剣に手をかけたのをみて、少女は壁際に走り寄った。
つっかい棒をぐっと押して、光採りの窓を大きく開き、外の様子をみる。
吹き荒れた雪は、すでにやみ、春らしい柔らかな日差しが峰を照らしている。
じっと森のほうに目をこらす。
すぐに、窓を閉め、厳しい顔で弓と矢筒を手に取る。
そのとき、すでに少年はブーツを履き、出口を出るところだった。
「だめ!」
少女が鋭く叫ぶが、少年はそのまま飛び出していく。
ちょうど、一匹のモンスターが森から出てきたところだ。
エッテナである。
スノー・オーガとも呼ばれる、標高の高い雪山にのみ生息するモンスターで、人の匂いを嗅ぎつければ凶暴化し、襲ってくる。
長く白い体毛で顔も体も覆われており、特殊なスキルは持たないが、とにかく力が強く、また、物理、魔法いずれにも打たれ強い。人型のモンスターで、普段は二足歩行をする。身長は人間の倍以上あり、腕が非常に長く太い。モンスターレベルは五十前後とされているが、雪山でエッテナと戦うときは、Aクラス冒険者がパーティーを組むのが普通である。
距離は、およそ百歩。
吹雪はやんでいるが、積もった雪はまともな歩行を許さない。にもかかわらず少年は、素早く雪の上を走り抜けていく。戸口にたどりついて、少年の行方を目で追った少女は、驚きに目をみはった。
雪は、さほどの深さではないが、新雪は足にからみつくものである。その新雪の上をあのような速度で走ることは、山の民にもできない。
少年は、エッテナの間合いに入っても、すぐには攻撃を仕掛けなかった。
エッテナが右の腕を、ぶうん、と振り回す。
まともに当たれば、Aクラス冒険者の前衛であっても、大けがをし、あるいは死にかねない威力であるが、少年は身をかがめて攻撃をかわす。
怪物は、次に左手の攻撃を放ってきた。上から下にたたきつけるような攻撃である。
少年は、襲いかかってくる手と爪とエッテナの体全体の動きをみきわめながら、攻撃が当たる寸前ですっと左に身をかわした。
空振りした攻撃が大きく雪をはじき飛ばす。
怪物は、空振りした手を地につけたまま、その左手で地を引き寄せて体躯をぐっと前に運び、右手を斜め上から振り下ろしてきた。
遠くからみれば愛嬌のあるその顔は、至近からみれば、憎悪と怒りをたたえて醜く歪み、胆力のある冒険者といえど恐怖心を抱かずにはいられないほどの恐ろしさだ。
しかし少年は少しも動じない。
(平地の者はスノー・オーガと呼ぶが、角も生えていないし、顔の作りもずいぶんちがう。別種のモンスターなのではないのかな)
のんきにもそんなことを考えていた。
怪物の重心が左腕に乗り切ったとき、腰を落としつつ右手で剣を抜いた。
体重を乗せていた腕が斬り落とされ、エッテナの体勢が崩れる。
少年は、右前方に跳び上がりざま、怪物の首を一刀のもとに斬り落とした。
赤い血を首と左腕から噴き出しながら、怪物が白い雪の上に倒れる。
その向こう側に少年が着地する。
返り血も浴びず。
少女は、弓と矢筒を持ったまま小屋の出入り口に立ち尽くして、あぜんとしてこの光景をみていた。
(私の体と心は、こわばってはいなかったろうか。いつも通りに動けていたろうか)
ザーラは、倒れ伏した怪物を油断なくみつめながら、自分自身の戦いを振り返っていた。
7
少女は、エッテナの皮をはぎ、肉を切り分ける作業に取りかかった。ザーラはそれを手伝いながら言った。
「山を越えて大峡谷を抜けたいのですが、道を教えていただけませんか」
「言葉、言う。無理。上、雪いっぱい。吹雪来る。荒れる。何日も、何日も」
少女は自分を指さした。
「一緒行く。お前、狩り、手伝う」
少女は、大峡谷まで案内するから、狩りを手伝ってほしい、と言っているのだ。
ザーラは、一人で山越えをするつもりだったが、それは修業というより自殺であると、今さらながら気づかされた。
「ありがとう。よろしくお願いします」
獣の皮をはぐという作業ははじめてだったが、それでも、重い四肢を持ち上げたり、体の向きを変えたり、脂肪を雪で洗い落としたり、それなりに役に立ったようである。
迷宮のなかとちがい、外では倒したモンスターが消えたりしないとは知っていたが、モンスターの体のなかがこれほど暖かいとは知らなかった。熱いとさえ感じる。
「この皮は売れるのですか。それとも自分で使うのですか」
「売れる。エッテナ、珍しい。傷ない、よい。すごく高い、売れる。使える。大きい、柔らかい、暖かい。すごくよい物。お前倒したから、お前の物」
「あなたに差し上げたいが、失礼になるでしょうか?」
少女は、一瞬、手の動きを止め、少し低い声で言った。
「男、女、大きい毛皮、贈る。一緒、寝る、意味。それ、言うな」
まったく予想しなかった種類の答えだったので、意味を理解するのにしばらくかかった。
(ああ、そうか! 求婚になるのか)
「では、この毛皮を預かってください。そして、売ってください。売ったお金は、助けてもらったお礼に、受け取ってほしい」
少女はしばらく答えを返さなかったが、ややあって、ザーラのほうをみもせずに、小さくうなずいた。
それから、黙々と作業を続けた。
少女は、無口で、無表情で、指図がましいことは言わない。
動作をみながら、ザーラは自分で考え、少女の作業を助け、学んだ。
やり方を覚えたあとは、ナイフでの作業は、おもに少年が行った。皮をなめすことがこれほど大変なものだとは、思っていなかった。作業が終わるころには、肩や筋や腰や、至る所の筋肉が悲鳴を上げていた。少年の筋力レベルなら過大な負担ではないはずだが、やはり余分な力が入っていたのだろう。
草の汁を塗り込む作業は、少女がするのを見学した。
その夜は、薬草を体に貼り付けて眠ることになった。
8
少女は、〈ティリカの弓〉を持っていた。
弓と矢と矢筒が一体となった恩寵品で、サザードン迷宮の第二十階層などでドロップする。矢筒には矢が十一本入っており、消費するたびに少し時間を置いて矢の数が十一本に戻る。
使ってしまった矢は、そのまま消えてしまう。矢はほかの弓では使えないが、弓はほかの矢も撃てる。弓自身からは発射音がしない点も便利だ。
迷宮のモンスターからドロップする恩寵品は迷宮の外では役に立たない場合も多いが、ティリカの弓はちがう。
迷宮以外ではほぼ手に入らないアイテムだし、まずまずのレアドロップなので、買えば高い。あまり平地の金を持たない山の民にとっては、大変な貴重品にちがいない。
少女の持つティリカの弓は、父親の形見なのだが、父親が死んだとき村の男たちが売ってほしいと頼んだ。父の技を伝えるのが自分の仕事であると、少女は首を縦に振らなかったのだという。
(ルームに、いくつか弓矢が入っていたな)
ザーラは、ルームをオープンし検索をかけて弓矢を調べた。父パンゼルから相続したルームは巨大で、収められた品々は膨大だ。恩寵つきの弓も何種類もある。そのなかにティリカの弓があった。
「あ、私も持っていた」
取り出して少女にみせた。
同じ物を持っている喜びを共有したかったのだが、少女はなぜか表情をこわばらせ、ぷいと横を向き、しばらく口を利いてくれなかった。
そして、しばらくたってから、断固とした口調で言い放ったのである。
「弓矢、使う、教える!」
9
「やっ、やっ、やっ」
少女が走りながら、甲高い声で、獲物を追い立てる。
三匹の赤鹿が、少年が隠れている岩陰に近づいて来る。
ザーラは左手にティリカの弓を構え、右手で矢をつがえている。その右手には、さらに三本の矢が把持されている。
音もさせずに矢が放たれ、先頭を走る赤鹿の首筋に突き立つ。すかさず、二の矢、三の矢が放たれ、いずれも赤鹿の首を貫く。予備の一本は使わずに済んだ。
(よし。この速射法にも、だいぶ慣れてきたな)
心のなかで、自分の技に及第点をつけた。
最初に、このやり方を聞いたときには、首をかしげた。弓術の師からは、矢は必ず一本一本矢筒から補給するよう教えられたからである。
だが、山の民の弓術はちがっていた。少女によれば、せっかく当たる姿勢になっているのにそれを崩すなどもったいない、ということらしい。
ザーラの撃った矢は、いずれも急所を射抜いている。
少女は、赤鹿に近づくと、喉を山刀で掻き切った。流れ出る血が毛皮を汚さないよう注意しながら。
三頭すべてに血抜きの処理をすると、少女は、一頭の腹をさばいて、おいしそうに内蔵を食べ始めた。
これだけは、まだ、まねができない。
血抜きの次に、皮をはぎ、肉を切り分ける。いくぶんかは、あとで燻製にするだろう。また、いくぶんかは、しばらく生のまま取り置いて、焼いたり煮たりして食べることになる。
少女の持つ収納機能は、〈カーゴ〉だった。
これは、商人系の収納機能であり、かなり大きな物も入れられ、種類別の格納に便利であるうえ、何といっても生鮮食品が長持ちするという特性がある。
だが、少女の恩寵職が商人というわけではない。少女は、狩人であった。狩人がどうしてカーゴを持てるのか少し不思議な気がしたが、彼女の部族ではこれはごく普通のことらしい。
この赤鹿の皮は、いったんカーゴに入れて、あとでなめすことになる。
10
ザーラは、少女に導かれ、女神の名を冠する山脈を登りながら、弓矢の技術以外にもさまざまなことを教わった。
狩りの仕方。
薬草や山菜の種類。
毛皮をなめす方法。
高山での体の慣らし方。
天気のみきわめ方。
雪のなかでの過ごし方。
ザーラのほうは、ルームから持ち合わせの食材を提供したり、平地風の料理を作ったりして、少女を楽しませた。
香りのよい粉をまぶした砂糖菓子を食べさせたときの反応は、傑作だった。
文字通り、表情が溶けたのである。
以来、菓子を食べるか、と少年が聞くと、少女は目をきらきらさせるようになった。そのようすはかわいい小動物のようだ。
(動物のようだという噂も、ある意味正鵠を得ていたかもしれないな)
少女の村のこと、家族のこと、山の民の暮らしぶりなどを、折にふれてぼつぼつ聞いた。
少女のほうでは、少年の立場や目的について、一切聞かなかった。
こんな山中を抜けるなど、まともな人間のすることではない。
バルデモスト王国から、南側の国々に行きたければ、ベラの道を通ってマズルーに行けばよい。マズルーから北エルガ街道に入れば、風光明媚なドナ湖のほとりを通って、大陸南西部に行ける。ベラの道は、ガーラ大山脈の西端に築かれた街道であり、大陸南北の唯一の架け橋といってよい。真冬以外はいつでも通れる。
大陸南東にあるロアル教国に巡礼するなら、マズルーに南接するイェナ大公国を抜けて、南エルガ街道に入ればよい。
バルデモストとマズルーに、それぞれ関所があり、入国には多少の税金が取られるが、両国が警備兵を巡回させているため安全度は低くない。
また、大陸の東端に用事があってベラの道では遠回りすぎるというのであれば、ガーラ大山脈を東に迂回して、辺境を通り抜ければよい。道らしい道のない所も多く、モンスターや盗賊に遭う危険も高いが、ガーラ越えをするよりは早く安全である。
山の民にさえ、ガーラに住む部族は多くない。大半の部族は、高地の南側の、より気候の温暖な、ゾルゾガの民のふところと呼ばれる山岳地帯を、移動しながら暮らしているのである。
ガーラを越えたい者がいるとすれば、それは、関所を通れない者、追っ手を振り切りたい咎人らである。ザーラもそのたぐいだと少女考えたとしても無理はなかった。
11
十日ほどで、一年中雪の消えない地帯に入り、それから二十日ほど雪の厳しい地帯を歩いた。
皮膚をさらさぬため、ガウガロという木の皮をほぐして作ったマスクで、顔を覆っている。隙間から視界も利くし、風も通る便利な品だが、ちくちくするのには、なかなか慣れなかった。
多くの獣を狩った。
少女は、毛皮は二人で均等に分ける、と言い張った。半分でも、すでに新しい小屋を建てて生活用具を一新して、なお余りある収穫だという。
二人は、暖を取るため、背中を合わせて寝ている。
明日は最大の難所を越えるという日、眠りにつきながら、ザーラは数日前のことを振り返っていた。
その日、二人は、四形鳥のつがいをみつけた。
四形鳥は、みる角度により四つのちがった生き物にみえることからそう名付けられた鳥だが、肉は寿命を延ばすといわれ、高く買い取ってもらえる。
無事に二羽とも獲ることができたが、その鳴き声と血の匂いが氷狼を招き寄せた。
氷狼は、モンスターレベルでいえば、灰色狼と同じ程度、つまりレベル十前後である。ダンジョンとちがって、外のモンスターには成長も学習もあるので、一概にはその強さを比べられないが、それでも、ザーラにとっては何十匹いても問題にならない敵である。
実際、近づいて来る気配も察知していたし、飛びかかってきた四匹のうち三匹はあっさりと斬り捨てた。四匹目の喉首に刃を走らせようとしたとき、探知スキルが、近づく狼たちをとらえた。たまたま近くに別の群れがいて、血の匂いを嗅ぎつけて集まって来たのだ。
(取り囲まれるとまずいな)
そう思った瞬間、右腕がこわばり、斬撃は浅く狼を傷つけるにとどまった。
すかさず左手で狼の顔の横から打撃を加え、そのあぎとから身をかわしたが、まるで何かの呪いでもかけられたように悪寒に襲われ、思考も動作も硬直した。
それは、わずかな時間のことであり、少女の活躍もあって、狼の群れは撃退できたのだが、夜寝るときになって、あれは何であったのか、と思い返した。
(いや。あれが何かはわかっている)
恐怖だ。
十四歳ではじめてサザードン迷宮に入った日、ザーラは第十四階層に到達した。それまで受けていた訓練は、それを余裕をもって可能にしてくれた。
帰り道に、第十階層で灰色狼の群れに襲われているパーティーをみた。助けに駆けつけたザーラは、傷ついた冒険者をかばおうとして、乱戦のなかで左手の指を三本噛みちぎられた。
すぐにポーションで治療し、敵を殲滅した。よい勉強をしたと納得し、そのことはそのまま忘れたつもりだった。
ところが今日、似た状況になって、思い出した。
一匹一匹はどうということもない。今のザーラなら、氷狼にまともに噛みつかれてもたいしたダメージは受けない。
だが、すばやい獣が大量に同時に襲ってきた場合、攻撃をすべてかわしきることは難しい。そして、迷宮の外では傷は蓄積し、取り返しのつかない深手にもなる。
ザーラには目的がある。果たさねばならない使命がある。果たすまでは死ぬことができない。手や足を失うわけにいかない。
だから氷狼が恐ろしくなったのである。
そんな自分をどうしたらいいのか、ザーラにはわからなかった。
12
「今から神域、入る」
そう言われて二日がたった。
神域では、決して血を流してはならない。できるだけモンスターに出くわさないようにし、もしも出くわしてしまったら、おとりを置いて逃げるのだという。おとりというのは、血抜きをした肉である。少女は、これを大量に用意していた。
今日一日で難所を越え、そのあとは比較的なだらかで穏やかなルートを下りて、一週間ほどで大峡谷に出られるのだというが、ここが今までと比べてそれほど難所だとは、ザーラには思えない。
だが、少女は、みるからに緊張した様子で、慎重に辺りをうかがいながら進んでいる。
(そろそろ休憩して食事を取りたいな)
ザーラがそう思っていたとき、離れた場所から物音が聞こえた。
山では音源の位置はわかりにくい。それでも、こちらかと思う方向に寄って斜面の下をみおろすと、谷底に続く切り立った崖のきわで、七人の人間が氷狼に襲われていた。
よく晴れて、見通しはよい。
平地の人間かと思われる服装の人間が四人。
うち二人は小さい。こどもだろう。
山の民と思われる服装の人間が三人。山の民は、ガウガロのマスクをしている。
平地の人間の一人は、顔にぐるぐると布を巻きつけている。
襲っている狼は十二匹だ。そのほか四匹が、すでに雪の上に屍をさらしている。
ちらとみただけで、助けの必要はないことがわかった。
顔に布を巻き付けた平地の人間が圧倒的な強さなのだ。体も大きく、幅広の大剣を軽々と振り回し、近づく狼を両断している。
三人の山の民も、的確に狼を倒している。
二人のこどもをかばっている人間は魔法使いであり、時々火弾を放って狼を仕留めている。
真っ白な処女雪の上に、狼たちが次々と赤い血の花を咲かせている。
「いけない。早く、ここ、離れる」
少女が、緊迫した表情でザーラの袖を引く。ちょうど最後の狼も倒された。少女の促しに従おうとしたそのとき、妙な物が現れた。
にゅるっ、と雪のなかから立ち上がったのは、真っ白で、奇怪な姿をしたモンスターである。大きな白布をすっぽりかぶったこどものような姿、といえば近いであろうか。手も足も目も口も鼻もみあたらず、体全体がふるふると震えている。
その奇怪なモンスターは、次々と雪のなかに現れた。
全部で十体いる。
人間たちを取り囲むように、身をよじりながらひょこひょこと移動していく。
三人の山の民が、何やら大声で指示を出し、都合七人の人間は、のっぺらぼうたちのいないほうに駆けていく。
モンスターのうち何体かが、雪のなかに潜るように姿を消す。
一瞬置いて、同じ数のモンスターが、人間たちの逃げ道をふさぐ位置に、にゅるっと出現する。
山の民が、それぞれの武器で、のっぺらぼうに攻撃を始めた。
が、突こうが切ろうが、雪のようなものが舞うだけで、ダメージを与えているようにはみえない。
幅広大剣の戦士は、追いすがってくるのっぺらぼうに斬りつけている。
こちらは豪快に、のっぺらぼうの頭の部分を斬り飛ばしたり、胴体を唐竹割にしたりしている。
しかし、斬られたのっぺらぼうたちは、しばらく動きを止めるものの、ふるふると揺れながら、すぐに復元してしまう。
ほどなく、のっぺらぼう十体は、七人の人間を完全に取り囲んでしまう。
後ろ側は切り立った崖であり、底はみえないほど深い。
のっぺらぼうたちの胴体に、ぽかりと赤い穴が開いた。
(口、か?)
のつぺらぼうたちは、真っ赤な口を大きく開けると、人間たちに噛みついた。
みるみる人間たちは傷だらけになっていく。
二人の平地の人間は、何とかこどもたちを守ろうとするが、のっぺらぼうたちは、ぐいーんと体を伸ばして噛みつくため、完全な防御はむずかしい。
山の民の一人が、のっぺらぼうの赤い口に山刀を突き込んだ。
のっぺらぼうは、ばりばりと青い火花を放ち、そして、ぱすん、と雪の粉を散らして消えた。
残り九体ののっぺらぼうは、一斉に動きを止めた。
そして、伸ばしていた体を縮めると、ぶるぶると激しく揺れ始めた。
のっぺらぼうたちの体の周りで、ぱりぱり、ぱりぱりと、青く小さな放電が縦に走る。
そして、九体ののっぺらぼうから、一斉に青い稲妻が放たれ、一体を倒した山の民に襲いかかった。
ばきんっ、という、大木がへし折れるような音がして、山の民は黒こげになって倒れた。
ザーラはルームを開き、検索をかけ、剣を取り出した。使い慣れた剣である。
雪の道を歩くための木の杖を収納し、一つの腕輪を取り出して装備する。
「だめ! 殺す、だめ! あれ、ガーラの養い子。殺す、ガーラ、怒る。だめ! 行く、だめ!」
「そなたは、ここで待てっ」
少女を振り切ると、ザーラは斜面を駆け下りた。
そのあいだに、さらに二人の山の民が死んだ。これで山の民は全滅である。
のっぺらぼうは八匹になっていた。
幅広大剣の戦士は男で、魔法使いは女だった。こどもは、男の子と女の子だ。家族なのだろうか。
こどもたちは、あちこちをのっぺらぼうにかじられ、血まみれになっている。
こどもたちをかばう女の傷は、さらに深い。
のっぺらぼうの一匹が、大きく口を開けて、男の子の頭にかじりつこうとする。
大剣の戦士が、その口に剣を突き入れて、のっぺらぼうを倒す。
残り七匹ののっぺらぼうは動きを止め、身を震わせて一斉に戦士に雷撃を放つ。
ばきんと音がし、火花が飛び散り、肉の焼ける匂いがするが、戦士は致命傷を受けたようではない。対魔法装備をしているのだろう。
だが、顔の包帯ははじけとび、頭巾も飛ばされた。その頭は無毛で、奇怪な入れ墨が刻まれている。目の下にも何かが刻まれている。
(ゴルエンザ帝国の剣奴《けんど》か)
ザーラはようやく現場にたどりつき、剣を抜くと、まずは、女とこどもたちを取り巻くのっぺらぼうたちを、素早く何度か斬り裂いた。
だが、のっぺらぼうたちはザーラには注意を向けない。
戦士に噛みつこうとしたのっぺらぼうがいたので、素早くその口に剣を突き入れて倒す。
残り六匹となったのっぺらぼうは、ザーラに雷撃を放った。ザーラは、左手の腕輪をかざして、これを消した。〈アレストラの腕輪〉は、魔法を消去する秘宝なのだ。
のっぺらぼうたちは、もう一度雷撃を放ってきたが、腕輪に消された。すでにのっぺらほうたちの注意は、完全にザーラに向いている。
「ここは私が食い止める。あなたたちは、急いでここから離れなさい!」
このガーラの養い子とやらが、これ以上出現しないという保証はない。自分だけなら戦えるが、四人を守りながらではむずしい。ザーラはそう判断したのである。
戦士は少しためらったあと、言った。
「すまん」
そして、女とこどもたちを促して、北の方角に走り去っていった。
丘の向こうに姿を消すとき、女がこちらにおじぎをしているのがみえた。
この間ザーラは、立て続けにのっぺらぼうたちに斬りつけたが、倒すことはしなかった。数を減らしすぎたとき、何が起きるかわからなかったからである。
のっぺらぼうたちの動きは、みなれぬものではあったが、さほど素早くはない。それに、斬り裂けばいったんは動きを止めることができるのだから、戦いには不安を覚えなかった。不安があるとすれば、この化け物どもを倒したあとにある。
のっぺらぼうたちは断続的に雷撃を放ってきたが、アレストラの腕輪がある以上、ダメージを受けることはない。ありがたいことに、のっぺらぼうたちは一斉に雷撃を放ってくれるので、対処はむずかしくない。
充分に時間を稼いだと判断して、残るのっぺらぼうたちを一匹ずつ倒した。すべての養い子たちが雪の粉となって消えて、さて何が起きるかとしばらく待ったが、何も起きない。
気がつけば、すぐそばに少女が立っていた。
真っ青な顔をしている。
ザーラは、剣のよごれを落とすと鞘に収め、笑顔をみせた。
「ガーラ神は、お怒りではないようだね」
そのときである。
13
ごごごごごごご、という地鳴りが聞こえてきた。
地面が揺れだした。
揺れは収まることなく続き、激しさを増してゆく。
ザーラと少女は抱き合って、揺れが収まるのを待った。
がらがらがら。
ばりばりばり。
雷鳴のようであり、破砕音のようでもある、けたたましい音が響き続ける。
(来る)
(何か、とてつもなく大きなものが、谷底から来る)
ザーラはその気配を感じていた。
それは、気配というにはあまりに圧倒的であり、巨大であった。
天変地異というべきエネルギーを持つ存在が、今、立ち現れようとしている。
晴天なので、遠く近く、あちこちの山の峰がみえる。近くの峰は揺れのため雪崩を起こし、斜面が崩れ始めている。
ザーラは口元を固く引き締め、起ころうとしている事態を厳しいまなざしでみまもっている。
切り立った崖の、その向こうに、巨大な女の顔が現れた。
ザーラと少女の立つ位置から崖までは、約二十歩。そのすぐ向こうに、目を閉じた美しい女の顔がある。
いや、すぐ向こうではない。
実際には、何百歩、あるいはそれ以上の距離がある。あまりに巨大であるため、すぐ近くにみえるのである。
また、女の顔というのも正しくはない。それは雪であり、氷であり、山そのものなのだから、女のような造形を岩肌に刻んだ白い氷の山、というのが正しい。
この底もみえぬ断崖の下から伸び上がってきたのだとすれば、その高さは、おそらく、バルデモストにそびえる、どの山より高い。
女の顔をした山は、さらに伸び上がっていく。
腰を越える長髪は、雪を頂く純白のつらら。
白磁の顔は、氷河を削りだした巨大な彫刻。
広大なすそ野を広げて立ち上がる姿は、白き夜会服をまとう貴婦人のごとくである。
その目と口が、ごわっ、と開いた。
開かれたそれは、ただの穴であり、闇そのものである。
静かな形相がゆがみ、恨みと苦しみと哀しみにそまる。
女の姿をした氷の巨大な怪物は、その口のごとき穴から絞り出すように叫びを放った。
い〜ふぉ〜うぉ〜い〜〜〜〜〜
聞くだけではらわたがねじ切れそうだ。
山々は、それに共鳴し、次々にこだまを返す。
さらに、それにかぶせるように、怪物が叫びを重ねる。
い〜ふぉ〜うぉ〜い〜〜〜〜〜
黒雲が立ちこめ、吹雪が舞い始める。
怪物はその黒雲を身にまとい、喪服をまとう狂母のごとき姿となって、身をくねらせる。
い〜ふぉ〜うぉ〜い〜〜〜〜〜
女怪の身もだえと叫びに応えるかのように烈風が湧き起こった。
烈風は、すさまじい勢いで雪を巻き上げ、ザーラと少女に襲いかかる。ザーラは身をかがめ、少女の背に回した手に力を込め、この烈風に耐えた。
烈風が通り過ぎたとき、少女は絶望を声ににじませて、それでも気丈に顔を上げ、ザーラに教えた。
「あれ、ガーラの娘。みた者、助からない。みな、死ぬ」
大地が揺れ始める。その揺れはまたたくまに増幅し、激しさを増す。山の上のすべてを振り落とそうとするかのような揺れだ。
ザーラは、右手で少女を支えたまま、左手でマスクをはぎ取り、毛皮の帽子と耳覆いを後ろにはねのけて、狂乱の態をみせるガーラの娘に向かって大音声で呼ばわった。
「神よ! 神よ! ガーラ神よ! ガーラの娘よ! わが言葉を聞きたまえ!」
激しい揺れのなかで、その両足はしっかりと雪の大地を踏みしめている。
吹き付ける雪にまっすぐ顔を向け、まなざしは力を失っていない。
「私はパンゼルの息子、アルス! またの名をザーラ。ザーラより女神ガーラとその娘御なる神霊に申し上げる!」
少女は、背中をザーラの右手に支えられたまま、朗々と神霊に物申すザーラの横顔をみつめた。
「神域を血でけがしたるは、わが罪。まことに相済まぬ。どうか許されよ。されどこれは、神々の愛し子たる人間を守らんがため、やむなく剣をふるいしものなり。決して、あなたがたと眷属を軽んじ、あるいは禍つ神と侮りて討ち祓わんとするものにあらず。怒りを収めさせたまえ」
少年から青年に変わろうとする年代特有の、のびやかで張りのある声が、吹雪を突き抜けて響くのを聞きながら、少女は、きっ、とまなじりを結び、背筋を伸ばし、巨大な神霊のほうをにらみつけながら、ザーラに寄り添って立った。
ザーラの言葉と思いを共にすると言わんばかりに。
いつしか巨神も二人をじっとみつめている。
「されば、私はいつかひとたび、あなたの剣となってあなたの敵を倒そう。疾く鎮まりたまえ、大いなる山の神よ! わが言挙げまつるを嘉し諾いたまえっ!」
高らかに起請の文言を告り終えると、ザーラは、右手の手袋を外し、中指の先を噛み切って、右手を虚空に差し伸べた。
指から流れる血は、一筋の赤い糸となり、風に巻き上げられて、荒ぶる神に吸い込まれていった。
だが、揺れは収まらない。わずかに収まりかけていた吹雪も再び激しさを取り戻した。
ザーラと少女は、立っていられなくなり、二人抱き合って、その場にくずおれた。
逃げるにも、視界も利かず、動くこともかなわない。
荒れ狂う吹雪にさらされ、地の揺れに右に左に転がされながら、二人はただじっと堪えた。
いったい、どれほどの時間が過ぎたろうか。
永遠に続くかと思われた天変地異は徐々に収まり、やがて山々は静けさを取り戻した。
空は晴れて、星がみえる。
とすれば、今は夜なのである。
ザーラと少女は、近くの岩の割れ目にテントを張り、ルームから手当たり次第に毛皮を出して敷き、身に巻き付けて寝た。
二人とも、これほどの恐ろしさと疲れは、はじめて味わった。
どちらからともなく抱きしめ合い、相手を求めた。
ザーラは、女の肌を初めて知った。
少女も同じであった。
ザーラは、腕の中の肌体から発せられる女の匂いに高ぶり、熱に浮かされたように、少女を愛しんだ。
いくど目かの交わりのあと、深い眠りに吸い込まれる前にザーラの心をよぎったのは、
(あの家族は、無事だったろうか)
ということだった。
14
翌朝起きると、妙に体調がよかった。
指の傷もすっかり治っている。
冒険者メダルを取り出してさわった。
他人の冒険者メダルの中身を知るには商人系のスキルである〈鑑定〉が必要だが、自分の冒険者メダルの中身はさわればわかる。
レベルが六十八になっていた。三つも上がっている。ガーラの養い子とやらには、それほど経験値があったのだろうか。
それにしても、いつレベルアップは起きたのか。ダンジョンでは、戦闘が終わった時点でレベルアップが起きるが、外では、神殿に行き〈誓言〉スキルを持つ神官か僧侶に祈ってもらわなければレベルアップは起きないはずである。
よくわからなかったので、とりあえず考えるのをやめた。
15
一週間後、二人は大峡谷に着いた。
少女は、ここから少し西にある交易所に行くという。
ザーラもそちらに行こうかとも考えたが、やはり最初の予定通り大峡谷を東に進むことにした。
大峡谷を抜ければ、いくつか村があり、迷宮もある。野生の強力なモンスターも多い地域である。そこから南に下ってアルダナに行けば、有名な道場があり、教えを乞いたい武芸者がいる。
別れを告げようとしたとき、少女が言った。
「あたし、名前、決めた」
「名を決めたのか。何という名だろうか」
「シャリエザーラ」
「シャリエザーラ、か。よい名だ」
「そう、思うか」
「うん。思う」
少女は、にっこり笑った。
ザーラは、このおなごの笑顔をみるのははじめてだったかな、と思った。
少女に別れを告げ、時々振り返って手を振りながら、東に歩いていく。
少女は、ずいぶん長くその背中をみおくった。
シャリエザーラ。
それは、山の民の古い言葉で、ザーラを待つ者という意味である。
挿話2
ミノタウロスは、じりじりと焼けつくようないら立たしさを感じていた。
原因は、はっきりしている。
あの人間は、どうしたのか。
俺の首をへし折り俺に打ち勝った、あの人間は、どうしたのか。
あの人間があれ以来戻ってこないというのは、いったいどうしたことなのか。
あれは、すぐにも戻ってくるはずなのだ。
やつにふさわしい敵は俺しかいない。
俺にふさわしい敵はやつしかいない。
だから、やつはここに来るしかない。
なのに、なぜ戻ってこない。
この待ち遠しさが、いら立ちの一つ目の原因である。
だが、いら立ちの原因は、それだけではない。
あの人間の戦いぶりを思い出してみる。
いや、思い出すまでもない。
あの戦い以来、いつもいつも、ほかの人間たちと戦っている最中でさえ、あの人間の戦いぶりは、この怪物の脳裏に繰り返し繰り返し映し出される。
反芻されるその戦いのなかで、あの人間は、いつもミノタウロスを打ち負かす。
剣の技において。
筋肉の力において。
素手の武技において。
先を読んで戦術を組み立て、相手をそこに誘導していく技術において。
戦いへの幅広い知識と視野において。
あの人間は、ミノタウロスを打ち負かし続ける。
このまま、もう一度やつと戦っても、俺は勝てない。
その思いがよぎるたびに、頭を乱暴に振り、周囲の岩や壁を殴り飛ばして、否定する。
だが、自らの敗北の予感は、ミノタウロスの戦いへの嗅覚が鋭ければ鋭いほど、のがれられぬ運命として目の前に立ちはだかる。
あの人間と戦ってから、長い時が流れた。
むろんミノタウロスには時刻や日にちを数えるという発想がないのだから、あれから何年たったのか、あるいは何十年たったのかなどわからない。
だが、あの人間と戦ってから長い時が流れたことはわかる。
はじめのうちは時が過ぎるのが楽しみだった。
時々やってくる人間のつわものどもを打ち倒しながら、あの人間との戦いに向け、おのれを磨き、人間の戦いのわざを学んだ。戦いの学びを積み重ねるのは喜びだった。
だが、あまりに長い時が流れた。
ということはである。
やつもそれだけ強くなっているということだ。
まぶしい光の向こうの人間の世界で、あの人間はあまたの戦いを繰り返し、ミノタウロスが想像もつかないほどの高みに登っているだろう。
もはやミノタウロスは、襲いかかる人間たちとの戦いでは、これ以上自分が成長しないことを知っている。
だめだ。
だめだ。
ここでは、だめだ。
やつと戦うために。よい戦いをするために。やつをちゃんと殺すために。
ここではないどこかで、俺は新たな戦いを積み上げねばならぬ。
だが、そんな場所がどこにあるのか、この怪物には見当もつかなかった。
第12話 岩の男
1
ザーラは、岩の小径を早足で上っていた。手にはバトルハンマーが握られている。柄は細く、頭部も小振りである。
ひゅっ。
岩の影から、またも岩蛇が飛びかかってくる。
ぴゅんっ。
風切り音をさせてバトルハンマーがうなり、正確に蛇の頭を捉える。
ぐしゃっ。
音を立てて蛇の頭がつぶれる。
空中で蛇の頭をたたきつぶす威力も、重心が極端に先寄りであるためコントロールのむずかしい長柄ハンマーを使いこなす技量も、みる人がみれば感嘆するほどのレベルである。
しかし、当人は自分の技量に満足していない。
(伯父御がみたら、お前それがハンマーの音かよと嘆くだろうな)
餞別だと渡された重厚なバトルハンマーはルームに入れてある。あんな重い物を振り回していたら、あっというまに体力が尽きてしまう。今使っているのは、もともとルームに入っていた小振りなバトルハンマーだ。
左右から岩蛇が飛びかかってくる。
位置を調整し、一振りで二匹の頭をつぶした。飛び散る毒液を浴びないよう計算して。
最初は、いつも通り片手剣を使っていたのである。しかし、雑魚ではあるが岩蛇は硬い。そして、ひっきりなしに襲ってくる。だからみるみる剣が損耗していく。三本目の片手剣をルームにしまったあとは、このバトルハンマーで戦うようにした。
(パーシヴァル様であれば、うまく斬れば剣は傷まぬ、とおっしゃるのだろうか)
そんな境地もあるのではないかと思う。いずれそんな境地に立ちたいと強く思う。
(いや、むしろパーシヴァル様なら、剣も抜かず、すべての蛇をかわして、さっさと走り抜けてしまわれるかもしれないな)
そんなことを思っているうちに、前方に砂漠オークの集団が出現する。
ザーラは、ハンマーを左手に持ち替え、右手で剣を抜くと、速度を一気に上げて、オークの群れに突入した。
(少なくとも、モンスターが多数出現する道であるというのは本当であったな)
そんなことを考えながら。
2
大峡谷は、地の裂け目である。
巨大神ボーホーが、おのれの力を示すために、高地とガーラ大山脈に手をかけ二つを割り裂いたためにできた、という伝説がある。
また、別の伝説では、水の神チャクラポッカが、強欲な人間たちもろとも削り取ったのだともいう。
大峡谷の両側は、かたやガーラ大山脈、かたや高地に続く山岳地帯であり、人の行き来には困難が大きい。一方大峡谷のなかは、時折強風や大雨にみまわれるが、概して気候も温暖であり、行き来もしやすい。川も流れている。
そのため、大峡谷のなかにはいくつも人の集落があるし、東西を行き来する隊商などの通り道ともなっている。
大峡谷のなかには草地や森林もあるが、今ザーラが走っているのは切り立った崖と岩ばかりの道である。
シャリエザーラと別れたあと、ザーラは一人東に向かった。
三日野宿し、四日目に村があった。宿屋に入って食事をしていたところ、村人が三人、ザーラのところにやってきた。
一人が村長だと自己紹介した。
「あなたは冒険者ですかのう」
「はい」
「依頼を受けていただけませんかのう」
「依頼? ギルドを通さずにということですか」
「この近くには冒険者ギルドなんぞ、ありはしませんわい。ギルドを通さない依頼は受けていただけんじゃろうか」
「いえ。そんなことはありません。まずは話をお聞きかせいただきたい。話をお聞きしてから、受けるかどうかお答えします」
「実は、ふた月ほど前から、この村の外れの谷に、岩でできた巨人が住み着いたんじゃ」
「岩の巨人?」
それはザーラの知識にはない存在である。やはりモンスターのたぐいなのだろうか。
「そうじゃ。身の丈が人の三倍、いや五倍ほどもあってのう。その怪物は、時折不気味な大声を出すんじゃ。そりゃあもう恐ろしい声で、村の端まで届くんじゃ。もう村人は怖がってしもうて、仕事も手につかんありさまでしてのう」
その声には、何か人の心をむしばむような呪いでもかかっているのだろうか。
「それだけなら、ほっておいてもよかったんじゃが、このふた月のあいだに、村人が三人、行方不明になったんじゃ。まさかと思うて、谷に近づいてみおろしてみると、怪物がいつもおるところに、いなくなってしもうた村人の服や持ち物が落ちておったんです」
「ほう。それはほっておけませんね」
「そうなんですじゃ。しかもそれだけじゃないんじゃ。落ちている服は、村人の物だけではなかったんじゃ。どうも何人もの旅人が犠牲になっておるようでしての」
「その怪物は谷から出てくるのですか?」
「谷から出てくるのをみたもんはおらんのです。けど、あの気持ちの悪い声が、いけにえを呼び寄せる呪いの声なんじゃないかと言うもんもおりましてのう」
「呪いの声ですか」
「なんとか怪物を退治しなけりゃ犠牲は増えるばかりじゃいうことで、村人がお金を出し合うたんです。それでこの前通りかかった冒険者に退治を依頼したんじゃけど、実際に怪物をみると、その金額では無理だと言われてしもうたんです」
その金額というのを聞かされたが、確かにその金額では命をかける気にはならないだろう。
「それで、わしら、ナーリリアさんに相談したんですじゃ」
「ナーリリアさん?」
「薬師の夫婦で、四年ほど前に村に移り住んできたんです。その奥さんがナーリリアさんといいまして、そりゃあもういろんなことを知っとる人なんで」
「ああ、なるほど」
「ナーリリアさんは、手持ちの毒をいくつか試してみるちゅうて言うてくれたんですけどなあ。あいにく効き目がのうて」
(毒?)
(岩の巨人に効く毒?)
(岩石系のモンスターには毒は効きにくい)
(そして巨人系のモンスターにも毒は効きにくい)
(岩の巨人に効くような毒となると非常に強力なものだろうに)
(そんな強力な毒をこんな田舎の薬師がたまたま持っていたりするものだろうか)
「それで、何か方法はないじゃろうかとナーリリアさんに相談してみると、一つないこともない、という話になったんですじゃ」
「ほう。それはどいういう方法ですか」
「こっから先は、ナーリリアさんに説明してもろうたほうがええのう」
村長は後ろにいた男の一人に言った。
「ジャガ。ナーリリアさんに来てもらろうてくれ」
うなずいたジャガが出ていった。
しばらくして帰ってきたとき、後ろに女性がついてきた。
この女性が薬師のナーリリアなのだろう。
豊かな黒髪は幾筋もに分かれて波打ち、今水浴を終えたばかりであるかのように、ぬれた光彩を放っている。
翡翠の瞳と、黒く太く鮮やかな眉毛。つんと突きだした形のよい鼻。みずみずしい真っ赤な唇。少し筋張ってくっきりとした輪郭の顎。
田舎風の赤茶けたブラウスと、色あせた紺のスカートをはいていてさえ、その存在感は圧倒的である。しかるべき衣装をまとえば、貴族夫人であるといっても通るだろう。
「あら。冒険者さんて、ずいぶんかわいらしい人なのね」
「薬師のナーリリアさんですじゃ。ナーリリアさん。ザーラさんに、怪物を倒す方法について説明してもらえんじゃろうか」
「いいわよ。ザーラさんていうのね。岩男を倒すには、ある毒薬を作らなくちゃならないの。その毒薬を作るにはある特殊な材料が必要なんだけどね。その材料というのは、ケツァルパの毒袋なのよ」
(ケツァルパだって?)
「この村から北に少し上った所に洞窟があって、そこにケツァルパがいるというの」
村長が言葉を足した。
「ああ、それは間違いない。昔から、あそこにはケツァルパというのがいる。村では知らない者はない」
「鉱物系のモンスターには毒が効きにくいけれど、ケツァルパの毒なら、まず間違いなく効くわ。精製はちょっとむずしいんだけど、ちゃんと処理すればストーンゴーレムでも殺せる毒が作れるのよ」
その場所までは、歩いて往復しても一日かからないという。
ほぼ一本道であり、地図は渡すが、まず迷う心配はないとのことである。
ただ、途中やたらモンスターが多いため、冒険者でなければ採りに行けないのだという。
「でも、お若い冒険者様には、ちょっと荷が勝ちすぎるお願いかもね。無理はしないでね、ザーラさん」
「何を言うんだ、ナーリリアさん! あの岩男は、あんたの旦那の仇じゃないかっ」
ジャガが口を挟んだ。
「あら、うちの亭主は死んでないと思うわ。遺品だって発見されてないし。珍しい薬草でもみつけて、どっかでふらふらしてるのよ」
にこやかにそう言い放つナーリリアを、三人は何とも気の毒そうな目でみている。
「ふむ。つまり、その洞窟にたどり着くまでが大変だというのですね。たどり着ければ、あとはケツァルパの毒袋を採ってくればいい、ということですね」
三人の男たちは、そうだとばかりにうなずく。
ナーリリアは、少しあわてたようなようすをみせた。
「そ、そうだけど、ザーラさん。ケツァルパをご存じ?」
「ええ、冒険者ですからね」
そのとき、どこか遠い所から声が響いてきた。
のあ〜〜〜うぃ〜〜〜ら〜〜〜〜
「あ、こ、これが、その怪物の呪いの声です」
「そうですか」
村長はひどく怖がっているが、ザーラには、その声は恐ろしいというより物悲しく聞こえた。何の呪いも感じはしなかった。
「わかりました。この依頼、お受けします」
「おお! 受けてくださるか」
「ええっ? 無理しちゃだめよ、ザーラさん」
「はい。無理はしません」
3
洞窟に着いた。
確かにわかりやすい道だった。
ザーラは、ルームを開いて一本の短剣を取り出した。ベルトの腰の横の部分には鞘ごと短剣を格納できるようになっており、そこに短剣を収めた。この短剣を持っていなければ、今回の依頼を受けることはなかったかもしれない。
ケツァルパは、モンスターレベル六十の魔獣で、巨大なムカデのような姿をしている。
攻撃力自体はそれほど高くないが、暗い洞窟に複数で生息し、鋏と尻尾に即死級の猛毒を備えている。また、体から毒の霧を放出しているので、ケツァルパの住む洞窟は、それ自体が死の罠であるといってよい。S級指定のモンスターであり、討伐するとなればS級の冒険者でパーティーを組む。
ケツァルパの毒袋は心臓の後ろにあり、殺さなくては採れない。
ザーラは、片手剣を右手に、カイトシールドを左手に構えた。
(片手剣はもう少し強力な物に替えるべきだろうか)
(いや)
(恩寵付きの武器に頼らずに強敵と戦えるようになること)
(それこそが大きな目的ではないか)
(この短剣だけでも、私には過分だ)
心を決め、洞窟に入ってゆく。
暗視のスキルを発動させ、二百歩ほど進んだときに、敵は現れた。
天井から、ひらりと落ちてきたのである。
ケツァルパは、くるりと身をひねって、頭部の巨大な鋏で攻撃してくる。
ザーラは身をかわし、敵が着地するのを待って、がちんとかみ合わされた鋏の片方を根元から断ち切る。一瞬痛みにひるんだケツァルパの、もう一方の鋏も落とす。
左から別のケツァルパが飛び込んでくる。体をひねって鋏をかわすと、尻尾で攻撃してきた。頭の上から降ってくるような角度だ。
尻尾の切っ先をカイトシールドで受けながら、片方の鋏の根元に近い部分に斬撃を入れるが、角度が悪かったのか、ダメージを与えられたようすはない。
一匹目のケツァルパが、ぶわっと浮かび上がって、押しつぶすような形で攻撃してくる。
その柔らかい腹を縦に大きく斬り裂いてから、ぱっと後ろに飛び退く。
体液をまき散らしながら落ちてくるケツァルパの左から、二匹目のケツァルパが、鋏で攻撃してくるが、ザーラがするりとかわしたため、一匹目のケツァルパと衝突して体勢を崩す。そこを狙って、二匹目のケツァルパの鋏を一本落とす。
このとき、探知スキルにより、三匹目が近づいていることを知る。
(そろそろ頃合いか)
そうザーラは判断し、くるっと向きを変え、入り口のほうに走る。
傷を受けた二匹は追ってくるが、三匹目は追ってこない。三匹目は、まだザーラを敵として認定するほどの距離までは近づいていなかったのだ。
ぼんやりと入り口から光が入る辺りまで走ると、反転して、追いすがってくる二匹に向かっていく。
ケツァルパが高速で移動するときは、体躯はほとんど一直線に伸びる。
この状態のケツァルパは、技術と速度さえあれば、非常に狙いやすい獲物といえる。
(毒袋は一匹分でいいだろうな)
そう決めて、先行していたほうのケツァルパの上空に、ふわりと跳び上がって宙返りする。
そして、ちょうど頭が真下を向いた状態のまま、縦一文字にケツァルパを斬り裂いていった。
ケツァルパは、自身の突進力によって斬り裂かれる。
当心臓も毒袋も真っ二つになった。
遅れてやってきたもう一匹のケツァルパが横を通り過ぎていき、最後にぐっと背中を曲げ、尻尾で攻撃をしてきた。
空中で身をひねってかわしたが、かすかに左足の膝の下を削られた。
着地して体勢を整える。
だいぶ向こうまで走っていったケツァルパが、向きを変えて、またもや突進してくる。
倒したばかりのケツァルパが、大きく背を斬り裂かれた状態で、毒液をまき散らして激しくうごめいているのが邪魔なので、後ろに飛んで距離を取る。
今、向かってくるのは、両方とも鋏を落としたほうのケツァルパである。
もだえている仲間の死骸をはね飛ばしながら突進してくる。
ザーラは、すっと身をかわし、胴体の中程の、甲殻のつなぎ目で、怪物を前後に斬り分けた。
そのあとは、単なる作業だった。
ばたばたと跳ね回る尻尾部分を、何か所か輪切りにし、ほとんど動きがなくなるまで待って毒袋を切り取り、あらかじめ預かっていた容器をルームから出して収納する。
左足を調べたが、服は破れていない。軽い打ち身ですんだようだ。
(無傷といかなかったのは、痛恨だったな)
師匠であるローガンの怒り顔を思い浮かべながら、ザーラは反省した。
4
戸をたたく。
「は〜い。どなた〜?」
なかから声がして、扉が開く。
ザーラの姿をみたナーリリアは、美しい翡翠の目を大きくみひらいた。
「う、う、う、うそっ。か、帰ってきたの?」
「はい。無事に、ケツァルパの毒袋を採ってきました。確かめてください」
「うそっ! あ、いえ。と、とにかく、なかに入って」
ザーラを招き入れ、ナーリリアは毒袋を確認した。
「間違いないわ。ケツァルパの毒袋だわ。ほんとに取ってきたんだ」
「はい」
「そ、そう。あ。あなた、お昼ご飯は食べた?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、すぐ用意するから、ちょっと待ってね」
食事は、たっぷりの肉を使った豪華なもので、とても即席で準備したとは思えなかった。
貴族であれ、平民であれ、よその家で食事をするときには、自分のナイフを使うことが多い。ザーラも自分の短剣で肉を切って食べた。
「本当においしいです。毒を入れてこの味が出せるとは、あなたは貴族家の料理人も務まるかたですね」
その言葉を聞いたナーリリアは、仮面を脱ぎ捨てた。
陽気さや親しげなようすは消え去り、その美貌は冷たく尊大な光を放つ。
「いつ、気がついたの?」
「あなたにお会いしたときです。私は、十四歳の年から二年間、ほとんど毎日、迷宮に潜っていました。モンスターの気配には敏感なのです」
「なぜ、死なないの?」
「迷宮で使える毒消しのポーションなどは、外ではまったく効果がありません。また、毒抵抗の恩寵を持つアイテムも、外では役に立たないのが普通です。しかし、例外のアイテムもあるのです」
「そうなの。ケツァルパの毒袋を採ってこれたということは、あなたのレベルは高いのね?」
「六十八です」
「ろくじゅーはちーーっ? なんでそんな英雄級の冒険者が、こんなとこにいるのよっ」
なぜか急に、村女に戻ったような表情と言い回しである。
案外、こちらが本性なのかもしれない。
「そっかー。六十八かあ」
しばし目を閉じて、何かを想うナーリリア。
かっとみひらいた目の虹彩は、縦に裂けていた。
「なら、死ね!」
ナーリリアの全身が、服を破り裂いて、激しく変化する。
瞬くまに人の背丈の倍ほどに伸び上がった、その上半身は美しい女性のままだが、下半身は鱗に覆われた太い蛇そのものである。
(ラミアか!)
美女の顔を持ち、邪法で人を惑わし破滅させる地獄の毒蛇。
魔の眷属であり、神々の恩恵を受ける人間を憎む女怪。
そうと知った瞬間、ザーラは短剣を投擲していた。
ナーリリアの変身が完了したときには、短剣はその心臓を貫いていた。
「いたたたたっ。何、これ? これ、何?」
今度は、ザーラが驚く番だった。
(なぜ?)
(なぜ、魔性そのものであるラミアが、聖属性であるカルダンの短剣を受けて無事なのだ?)
「あ、でも、なんか、懐かしい感じ。なんか、これ、安らぐわあ」
心臓に刺さった短剣を、そっと両手で包んでつぶやくラミア。
ザーラは、事態がまったく理解できない。
そのとき、戸をたたく音がした。
5
「ナーリリアさん、いるんだろう? 開けてくれ。俺だ。ジャガだよ」
人が近づいているのは、察知していた。そのうえで、この女の正体をみせるのもよいと判断していたのだが、今は、まずい。何が起きているのかはっきりするまでは、この女怪の正体が知られないほうがよい。
「ナーリリアさん。私がここにいることは秘密にしてください」
ザーラは素早く短剣を回収して、音もなく奥の寝室に隠れた。
「えっ? えっ? えっ? ど、ど、ど。えっ?」
独り取り残されたラミアは、正体を現してしまっている自分の体と、床に落ちた服の残骸、テーブルの上の料理、扉などを、順番にみまわしている。
「ナーリリアさん、どうかしたのか? 何やら大きな声が、さっき聞こえたが、妙なことでもあったのか?」
「あ、ジャガさん、こ、こんにちは。あの、あのね。今、食事してたんだけど、服を脱いでるの。入ってこないで」
「食事してたのに、なんで服を脱いでるんだ?」
「つ、つまりね。食事してたの。そしたら、髪、そう、髪に料理の汁がついちゃって。で、髪を洗い始めたの。そ、そしたらね。服と体にもよごれがついてたの。それで、全身を拭いてるの。い、今、裸だから、入ってこないで。ちょ、ちょっとだけ待って!」
「そうだったのか。そりゃ、大変だったね。わかった。いくらでも待つよ」
ナーリリアは人の姿に戻り、髪に水を掛け、破れた服を片付け、扉を開けようとして裸なのに気づき、寝室に入って服を着てからジャガを迎え入れた。
寝室にいたザーラと目が合ったとき、思いっきり顔をしかめて、ふしゅーっとザーラを威嚇するのを忘れずに。
「作りすぎちゃったの。ジャガさん、よかったら、一緒に食べて」
「な、なんだって。もちろん、いいとも。やあ、うれしいなあ、ナーリリアさん」
手料理を勧められて、ジャガはすっかり舞い上がっている。
ごまかすにはもう一押しだと思ったのか、ナーリリアは酒を勧めた。
形だけ断ったジャガだが、すぐに酒に手を伸ばし、わずかな時間ですっかり出来上がってしまった。
そして、ナーリリアを口説きはじめた。
「ナーリリア。なあ、俺の気持ちはわかってるんだろう。もう、あんたの亭主は死んじまったんだ。俺と一緒にならないか」
「いえ、うちの亭主は、きっと帰って来るわ。あたしには、わかってるの」
「そこまで操立てるような相手じゃないだろう。あいつ、ほかに好きな女ができて、あんたを捨てていったのかもしれないぜ」
「いえ、うちの亭主は、今でも毎日、私のことを想ってるわ。あたしには、わかってるの」
「あんたのような女に、こんな小汚い生活しかさせられない甲斐性なしじゃないか。俺なら、うんと奇麗な服を着せてやれるぜ」
「あら、ジャガさんは羽振りがよくなったの?」
「ほら、これみろよ。これも、これも。みんな、あんたにやるぜ」
「あ、奇麗ね。あれ? これ、行方不明になったミーナさんが着けてた指輪じゃ……」
「あ? え? ああ、まあ、よく似てるかもな」
「こっちは、ザンドさんの娘さんに、あたしがあげたブレスレット。あんたがっ、あんたがみんなを殺したのね!」
「あ、く、くそ。静かにしやがれ。お前も殺すぞっ」
「そこまでです」
なぜか寝室のほうから突然現れたザーラに、ジャガは顔面蒼白となる。
「お、おめえ。洞窟に行ったんじゃ。くそっ。はめやがったな」
逃げようとするジャガを、ザーラは取り押さえた。
「く、くそう。最初から俺を疑ってやがったな。それで、冒険者を隠して、俺を色仕掛けで引きずり込んで、おためごかしで指輪とブレスレットをだまし取りやがった。そ、そうか。村長も抱き込んでたんだな。き、きたねえ。おめえは、なんて恐ろしい女だ。魔物だ。悪魔だ。これからは、ラミアって名乗りやがれっ」
「そ、それは、どうも、あ、ありがとう?」
6
村長の家に引っ張っていた。ジャガは、おのれの所業を白状した。
ジャガの家を調べたところ、山ほどの証拠も出てきた。
とすると、岩男は村の金をさらえてまで倒す相手ではなくなるので、依頼は取り消しになった。すでに毒袋は採ってきている、とは言わなかった。
「あんた、依頼料もらえなくなっちゃったね。せめてケツァルパの毒袋を持っていって。正直、依頼料なんかよりずっといい値で売れるわ」
「私の一番欲しい報酬は情報です。あなたのことを教えていただけませんか」
「そうね。当然よね。もう一度うちに来てくれるかな」
二人はナーリリアの家に戻り、ナーリリアは香りのよい茶を出してくれた。
「何から話したらいいかな。あ、その前に、あの短剣、貸して」
ザーラが渡した短剣を、ナーリリアは両手で胸に抱きしめた。
「やっぱり、そうだ。これ、カルダン様の匂いがする」
幸せそうな顔で、ナーリリアが言う。
「それは、カルダンの短剣という恩寵品で、解毒や異常状態の全解除などの効果があります。あなたは、邪竜カルダンを知っているのですか?」
「邪竜なんかじゃない! カルダン様は、ほんとに、ほんとに優しい女神様だったんだ」
驚いたことに、ナーリリアは、千歳を超える年齢であり、人として生きていたころは、女神カルダンに仕える侍女の一人であったという。
しかし、カルダンの美貌と人気に嫉妬した女神オルゴリアが、周りの国をけしかけて、カルダンを悪者に仕立て上げたうえ、カルダンが恩恵を与えていた国々を滅ぼしたのだという。
侍女のなかで最後までカルダンに付き従おうとしたナーリリアは、直接オルゴリアの手によりラミアにされてしまった。
カルダンはこれを解呪できず、泣いてナーリリアに謝り、少しでも幸せをみつけて生きるよう言い残して、夫君と使い魔の精霊と共に世界の果てに消えたのだという。
ザーラは驚きをもってこの話を聞いた。
女神オルゴリアといえば知恵と契約の神であり、バルデモストなど大陸北部では六大神の一柱として篤く信仰されている。バルデモストの常識からすれば、ナーリリアの言い分は荒唐無稽というほかない。
しかし、ザーラは、ナーリリアの言い分にも聞くべき点があるのではないか、と思った。
それは、旅立ちの前に、バルデモストで広く信じられている伝説の裏側を、わずかながら聞かされたからである。
7
この旅に出る前に、ザーラはユリウスにあいさつに行った。
両家は今や同格の直閲貴族家であり、ともに領地持ちの侯爵家であるけれども、ゴラン家があるのはメルクリウス家あってこそのことだ。パンゼルを臣下として引き立ててくれたユリウスのおかげで、今のすべてはあるのである。
それだけではない。ザーラを受け入れ、ここまで育て上げてくれたのは、メルクリウスである。わが忠誠は、永遠に王家とメルクリウスのもとにある、とザーラはいつも思っている。
ユリウスは、途方もないプレゼントを用意していた。
メルクリウス家が誇る五つの恩寵品である。
魔法を任意に消去する〈アレストラの腕輪〉
状態異常や毒から身を守る〈カルダンの短剣〉
攻撃魔法を撃てる〈ライカの指輪〉
物理攻撃を相手に反射する〈エンデの盾〉
魔力吸収と隠形の力を与えてくれる〈ボルトンの護符〉
五つの秘宝は、メルクリウス家の前当主パーシヴァルが、迷宮探索に携えていたが、このうちアレストラの腕輪とカルダンの短剣は、ミノタウロスが所持していた。パーシヴァルを殺して手に入れたのだと思われる。
そして、アレストラの腕輪は、少年の日の父パンゼルがミノタウロスから譲り受けてユリウスに返却し、メルクリウス家に仕えるきっかけとなった。パントラムの乱以後死ぬまで、父パンゼルはこの腕輪を借り受けて装着していた。
また、カルダンの短剣は、騎士となった父パンゼルがミノタウロスに勝利して譲り受け、その恩寵によってサザードン迷宮の最下層から地上まで無事でたどり着くことができたという、格別の思い出がある品だ。地上に戻ったパンゼルは、この短剣をユリウスに返却した。
そして五つの恩寵品すべてを、ザーラは使うことができる。十四歳になり、サザードン迷宮に挑むこととなったとき、ユリウスはザーラに五つの恩寵品を使わせてみたのである。そうしたところ、ザーラは五つすべての恩寵を発動させることができた。
ユリウスは、アレストラの腕輪とカルダンの短剣をザーラに貸し与えた。ザーラが驚異的な短時間でSクラス冒険者になれるほどレベルを上げられたのは、この二つの恩寵品と、そして父パンゼルが残した〈ボーラの剣〉のおかげだ。
「その修業の旅に、この五つの品を持ってゆくがよい」
刻印術を専門とするお抱え魔法使いが呼ばれ、〈ライカの指輪〉と〈エンデの盾〉と〈ボルトンの護符〉にザーラの使用印が刻まれた。〈アレストラの腕輪〉と〈カルダンの短剣〉にはすでに刻んである。これによりザーラは五つの秘宝を自分のルームに収納することができる。
そのあと、ユリウスは人払いをして、声を潜めてザーラに語った。
「これは当家の秘伝だが、聞いておくがよい」
広く一般には、アレストラの腕輪は、女神ファラから始祖王に下賜され、始祖王からメルクリウス家初代に下賜されたと伝えられているが、メルクリウス家の伝承では、アレストラの腕輪をはじめとする五点すべて、初代が倒した竜神カルダンから、初代の武勇とけがれなき忠誠をたたえて贈られたものとなっているという。また、この五点すべて、メルクリウス家の当主か、当主が心から認めた者しか効果を発動できない。
バルデモスト王国は、女神ファラの加護のもと、人民を苦しめた邪竜カルダンを倒した始祖王と英雄たちが打ち立てた国である。この秘伝は、国の成り立ちそのものに疑義を投げかける怪しげな伝説といえる。別の言い方をするなら、この秘伝が外に漏れれば、メルクリウス家は消滅させられかねない。
それほどの秘事を明かしてくれたユリウスの信頼に、ザーラは胸が震える思いがした。
「のう、アルス殿。いや、ザーラ殿と呼ぶべきか。私は亡き父に憧れた。わが国が世界に誇る英雄であったパンゼル殿にも憧れた。自分の力で、かの怪物にとどめを刺したいと思った。だが、私の戦いの場は迷宮ではなかった。今、私は、自分の最大の戦いに向けて牙を研いでおるのじゃ」
現在四十二歳であるユリウスは、四卿の第三位である青卿の地位にあり、まもなく赤卿に昇るだろうといわれている。そのとき、バルデモスト王国の政治をほしいままにするリガ家との戦いが始まる。
「ザーラ殿。かの怪物を打ち倒す日まで、五つの恩寵品は貴殿に貸し与える。旅に持ってゆき、使い方を習得せよ。しかして、強大な恩寵の力に頼らぬおのれを築き上げるがよい」
8
「あなたの夫君は、どのようなかたなのですか?」
「亭主? 西の辺境で知り合ったの。そのころはまだぼうやでね」
ナーリリアが十年ほど身を寄せた家族が、盗賊に殺されてしまった。
一人残った少年を連れて旅するうち、年を取らないナーリリアとの関係が、母と息子では不自然になったので、ここ何年かは夫婦ということにしている。
かつてカルダンから教えられた薬師としての知識を生かして人々を助けながら、ひっそりと暮らしていたのだという。
「夫君は、まだ生きているのですか」
「生きてるってば。毎日、声を聞いてるでしょ」
「あの岩男が、夫殿ですか」
「そうなの。呪いを……受けちゃって」
「なぜ夫君を呪ったのですか」
「呪うわけないでしょ! ただ、あの人が、どうしても、どうしても」
「どうしても?」
「どうしても、どうしても、ほんとの夫婦になりたいって言うから。あたし、ラミアだから、床を共にすると呪いがうつっちゃうって言ったのに…………ううっ」
「……涙は止まりましたか?」
「泣いてないわ。あたしを愛してしまった男は、蛇の鱗で全身が覆われて、毒と呪いで苦しむの」
「蛇の鱗? そのような姿とは聞いていませんが」
「少しでも早く呪いが解けるように、解呪と解毒と体力回復の効果がある土で、全身を覆ってあげたの。それに、普通の人間の大きさじゃ、毒に耐えられないでしょ。だから、おおっきくして。土が落ちないように、硬質化の呪文をかけて。あの谷なら、川も流れてるし、木の実も、食べられる野草もあるし。静かにしてなさいって言っておいたのに」
なんと、岩男の正体とは、治療中のただの人間だったのである。
あと二、三週間で、もとに戻るのだということであった。
9
ザーラは、旅館にもう一泊して、翌朝早く旅立った。
不思議なことに、レベルが七十一に上がっていた。
律義にもナーリリアはみおくりに来て、自作だという各種の薬を大量にくれた。
なかには妙に怪しげな効能の薬もあったが。
礼を述べて、いよいよ立ち去ろうとしたとき、また、あの声が聞こえた。
のあ〜〜〜うぃ〜〜〜ら〜〜〜〜
ザーラは、振り返って聞いた。
「あれは、夫君の声なのですね?」
「そ、そうよ」
「何を叫んでいるのでしょう」
「何度も聞いたんだから、わかるでしょ!」
「すいませんが、わかりません」
ナーリリアは、横を向いて、小さな声で言った。
「あたしの名を呼んでるの。ナーリリア、って言ってるのよ」
挿話3
ミノタウロスは、幅広の長剣を右手に持ち、久しぶりに第百階層のボス部屋から出た。
すぐに、バジリスクが襲ってきた。
バジリスクは、巨大な蛇である。
身をよじらせながら、高速で回廊を周回している。
菱形の頭部は恐るべき重量を持ち、かつ強靱であり、巨人の振るハンマーを思わせる。
頭頂には、とさか、あるいは背びれのようなものが突き出ており、長い胴体の半ばすぎまで続いている。
アンバランスなほどに大きな口には、鋭い歯がびっしり生え、岩をも噛み砕く。
最も恐るべきは、舌である。
獲物に伸びるその舌は、稲光のように枝分かれしながら、はるか遠方の標的をもとらえる。
ひとたび、その舌にふれたなら、石にされてしまう。迷宮内で石化すれば、死ぬしかない。
さらに、バジリスクの通ったあとには、しばらく、ぬるぬるとした体液が残る。
これは猛毒であり、生き物のすべての機能を急激に低下させ、持続的に生命力を奪う。
サザードン迷宮百階層は、同心円をつないで配置された回廊と、いくつもの石室から成る。
中央に上層からの階段があり、ボス部屋は一番外側の回廊に接している。
外側の回廊ほど、バジリスクは高速で周回しており、バジリスクそのものの数も多い。
かといって、バジリスクを避けて石室に入れば、多くの場合、さらに凶悪なモンスターが待ち受けているのだから、昔、最初にたどり着いた人間たちは、ここは地獄そのものであると報告した。
さて、ミノタウロスは、襲いかかってきたバジリスクの舌を斬り飛ばすと、分析スキルと異常抵抗を高めるスキルを発動させ、バジリスクの頭部を蹴り上げた。
バジリスクの体が地面から浮かび上がりながら、ミノタウロスの横を飛んでいく。
すかさず、分析スキルで心臓の位置をみさだめる。
バジリスクの心臓は、なぜか頭部の近くではなく、胴体の中央辺りにある。
腹から剣を突き入れ、心臓を斬り裂く。
バジリスクの背は異様に硬いが、腹は軟らかい。
着地したバジリスクは、すでに死んでいた。
巨体が消えたあとに、胸当てが残る。
バジリスクの鱗で出来ており、それ自体高い防御力を持つとともに、異常抵抗付与の効果がある。
バジリスクの落とす防具は、フルセットで装備すれば魔法および物理防御が向上し、異常系の攻撃は倍にして反射するという優良なアイテムである。
ミノタウロスにとっては、今さら拾う気にもなれない品であり、放置して歩き去る。
もう一体のバジリスクに遭遇して倒したあと、ミノタウロスは石室に足を踏み入れた。
そこにはヒュドラがいた。
地上で人の住む土地に出現すれば、災害級の対応を必要とする魔獣である。
巨象のごとき胴体に、九つの首と一本の尻尾が生えている。
全身は超硬質の鱗で覆われ、ぐねぐねとうごめく九つの首からは猛毒のブレスを吐く。
ヒュドラが厄介なのは、再生能力のためである。
手や足、首など、体のどこを斬り落としても、すぐに生えてくる。
つけられた傷は、瞬く間に修復される。
ヒュドラを倒すためには、まずは再生を阻止する必要がある。
それには、再生を司る首を落とさねばならない。
九本の首のうち二本が、体を再生する力を持っている。
個体ごとに位置がランダムであるこの二本の首を、ほぼ同時に斬り落とすことによって、ヒュドラの再生能力は激減する。
地上で、ヒュドラへの理想的な対策とされているのは、次のような方法である。
まず、魔法によって足止めをし、再生を司る首二本をやはり魔法で探知し、これを同時に落とす。
次に、残りの首を全部落とす。
あとは、バリスタや攻城槌など、強力な物理攻撃を、生命力が枯渇するまで加え続けるのである。
なにしろ、攻撃魔法に対しては既知のモンスターのなかでも最大級の抵抗を持っているうえ、あきれるほど膨大な生命力を持つため、こうした方法以外、とどめを差しにくいのである。
つまるところ、人間がヒュドラに対抗できるかどうかは、足止めがうまくいくかどうかにかかっている。
足止めは、魔法以外の方法ではむずかしい。
綱や鎖は、ぎざぎざで硬質の鱗で切れてしまうし、何百人で引っ張ろうが、人間の力ではヒュドラの体重と力には対抗できない。
落とし穴を掘るという方法も過去には試みられたが、いずれも無残な失敗に終わった。
なぜなら、ヒュドラには驚異的な跳躍力が備わっているからである。
あんな鈍重そうな足で、なぜあれほど高く跳び上がれるのか誰にもわからない。
一種の飛行能力ではないか、という見方をする者もある。
あの巨体で跳躍したあとの着地は、すさまじい破壊力を持つ。
小規模な砦なら、一撃で粉砕される。
今、ミノタウロスの前に立つヒュドラは、このちっぽけな侵入者に何を感じたのか、いきなり跳躍した。
着地点は、ミノタウロスの立つ位置である。
これが人間であれば、はじめてこの階層に来たときには、このヒュドラに勝つにもひどく苦労をしたなあ、などと感慨を覚えたかもしれない。
しかし、ミノタウロスの脳みそを満たしているのは、久しぶりに対戦する、このしぶとくてやたら首の多いやつを、いかに手早く被害を抑えて倒すか、ということだけだった。
ミノタウロスは、人間たちが考えたこともない方法でヒュドラを倒そうとしている。
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