第1巻 ミノタウロスの咆哮(前)
迷宮の王1
ミノタウロスの咆哮
目次
第1話 ユニークモンスター
第2話 天剣パーシヴァル
第3話 冒険者ギルド長の困惑
第4話 死闘
第5話 冒険者ギルド長の回想
第6話 強襲
第7話 メルクリウス家の家宰
第8話 下層への挑戦
第9話 討伐依頼
第10話 約束の日
第1話 ユニークモンスター
1
サザードン迷宮の十階層。
人間たちがボス部屋と呼ぶ空間に、一体のミノタウロスが湧いた。
牛に似た頭と人に似た体を持ち、両手に斧を携えたモンスターである。
ぶるぶると頭を振って、まぶしそうに両の目を開ける。
外の世界と比べれば薄暗い空間だが、この世に出現したばかりのミノタウロスにとって、光の刺激はいささか強すぎたのだ。
匂いがする。
全身から発する欲求を満たしてくれるものの気配がする。
ミノタウロスは洞窟の奥に目の焦点を合わせた。
そこには小さな湖があった。
むろん、モンスターにすぎないミノタウロスは、湖という言葉など知らない。だがそれが自分の今まさに求めているものであることは、誰に教わらずとも知っていた。
ミノタウロスは、湖に駆け寄った。
膝を突いて湖面をのぞき込むと、自分の顔が映っている。
水面から立ちのぼる、しめりけのある涼やかな空気は、いやがうえにもミノタウロスの渇きをかきたてた。
暴力的な勢いで顔を湖につけて、がぶがぶと水を飲む。
乾ききった体に水がしみ込んでゆく。
細胞の一つ一つがうるおされ、力を取り戻してゆく。
ばしゃりと水をはね上げながら頭を持ち上げた。
大きく息を吸い、吐く。
呼気が、ほの暗い洞窟に噴き上がる。
再び顔を湖につけて、またも水を飲む。
そんな動作を三度繰り返した。
今や喉の渇きは癒えた。
だが、ミノタウロスは満たされていなかった。
それどころか、喉の渇きが癒えることによって、もう一つの強烈な欲求が体の奥底から湧きあがってきた。
その欲求を人は飢えと呼ぶ。
ミノタウロスの全身は、飢えにそまっていた。
立ち上がって振り返った。
その姿は巨人といってよい。
迷宮のモンスターは、生まれ落ちた瞬間から成獣なのである。
振り返った目線の先に、洞窟の出入り口がある。
あの向こうには、飢えを満たす何かがあるのか。
ミノタウロスは、出入り口まで歩いていった。
そこをくぐって外に出ようとした瞬間、強烈な不快感を覚えた。
足が止まる。
それ以上わずかでも足を前に進めることが、どうしてもできない。
ここは通れない。
体がそれを教えてくれた。
しかし、では、この飢えをどうすればいいのか。
ミノタウロスは、ボス部屋のなかをのしのしと歩き回った。
歩いても歩いても、飢えは治まらない。むしろひどくなる。
唸り声を上げながら激しく頭を振った。
よだれが飛び散った。
水際に戻って座り込んだ。
この場所なら、少しは癒やしを与えてくれるかと思ったのだ。
だが腹の奥底から湧いてくる狂おしいまでの飢えは、静まることなくミノタウロスをさいなむ。
憎かった。
おのれを生み出した世界も、飢えを感じるおのれ自身も憎かった。
2
モンスターというのは種族の名前ではない。人からみて脅威になる人ではない生き物の総称である。
動物とモンスターのあいだに明瞭な区別はないといえばない。
兎をモンスターだという人はいないが、角兎はモンスターとみなされる。だが、どちらも食べられるし、生態に大きな差はない。ただ角兎は人に対し異様に攻撃的であり、戦闘力のない一般人には命に関わる相手だから、モンスターと呼ばれるのである。
そのほか、不可解な生き物、不気味な生き物、恐ろしい生き物がモンスターと呼ばれる。
オーガ、オーク、ゴブリン、コボルトなどは、モンスターと呼ばれても動物とは呼ばれないが、生き物であることにちがいはない。人と交わらずにすむ地域では、彼らは彼らなりの安定した生活圏を築いている場合が多い。
これらに対して生き物とはいえないモンスターがいる。妖魔系とか悪魔系とか呼ばれるモンスターたちだ。
彼らは成長することも、こどもを作ることもない。いずこからともなく湧いてきて、ただ人を傷つけ殺し、災いをもたらすことのみを行動原理する存在だ。
妖魔系モンスター、あるいは悪魔系モンスターは、それぞれ、どの魔神の眷属だとか、どんな由来で産み落とされたかという伝説を持っている。たいていの場合、きわめて醜悪な容姿をしており、魔法攻撃や呪いを仕掛けてくる。毒を持っている場合も多い。
迷宮のモンスターはどうか。
迷宮にも、オーガ、オーク、ゴブリン、コボルトは出現する。だが迷宮では、こうしたモンスターも母の胎内からは生まれない。
岩からしみ出るのである。
倒されれば時をおいて再出現するが、それはすでに別の個体であり、記憶や経験が引き継がれることはない。
迷宮のモンスターは成体として発生し、成長も進化もしない。
迷宮のモンスターには性別がなく、つがいを作ることも子をなすこともない。
迷宮のモンスターは、厳密な意味では生き物とはいえない。だから魔獣、あるいは幻獣とも呼ばれる。
決まった迷宮の決まった階層には、常に同じモンスターが湧いてくる。決まった階層のボス部屋に湧くモンスターも、常に同じだ。
サザードン迷宮の十階層のボス部屋にミノタウロスが湧いたということは、先にこの部屋にいたはずのミノタウロスが死んだということである。人間に殺されたのだ。
人間は迷宮にもぐってモンスターを殺す。殺せば金や武器やポーションが得られる。迷宮のモンスターから得られる武器は、優れた性能を持っている。希少で高価な素材でできていることもある。要するに迷宮は宝の山なのだ。
だから人間は迷宮にもぐる。もぐってモンスターを殺す。
逆にモンスターに殺されることもある。
それでも人間は迷宮にもぐり続ける。迷宮では人はみるみる強くなる。強くなればより深い階層のモンスターと戦うことができる。深層のモンスターは、さらなる強さとさらなる富を与えてくれる。
強くなるため。
富を得るため。
今日も人は迷宮にもぐる。
3
エリナは女冒険者である。
一年前、ここミケーヌの街の神殿で、大地神ボーラに請願して〈冒険者〉の恩寵職を得、冒険者メダルを手にした。
ほかに、〈騎士〉や〈盗賊〉の恩寵職を得ても、迷宮探索はできる。だが、冒険者なら、〈マップ〉のスキルが得られるし、他の職より迷宮での成長が早い。〈ザック〉と呼ばれるみえない収納庫が得られるのも魅力だ。
そしてエリナのように剣で戦う戦士なら、やはり大地神ボーラに請願するのが常道だろう。なにしろ、ボーラ女神から恩寵職を受ければ、わずかではあるが物理攻撃力上昇、物理防御力上昇、回復効果向上の加護がつくのだ。
「よう、エリナじゃねえか」
「やあ、ロギス」
「今日は一人でもぐるのかい?」
「ああ。パーティーは抜けたんだ」
「へえ? それにしてもその革鎧、ずいぶんぴかぴかに磨き上げてるじゃねえか」
「まあね」
「幸運を祈ってやるぜ」
「あんたもね」
四日前、エリナは所属していたパーティーを抜けた。
気持ちのいい仲間たちだったが、彼らには欲がない。早く深い階層にもぐりたいという意欲がない。
エリナはもっと稼げる冒険者になりたいのだ。もっと稼いで畑を買い戻す。そうすれば、気力を失った父親も元気を取り戻し、母親にも笑顔が戻るはずだ。
今日は特別な日になる。
冒険者クラスをCに上げるのだ。
冒険者クラスをCに上げるには、いくつかの方法がある。
まずレベルを二十一以上に上げるという方法だ。レベルを二十一以上に上げて、冒険者ギルドで〈誓言〉スキルの持ち主に祈ってもらえば、確実に冒険者クラスはCに上がる。
そのほか地道に功績を積んでゆけば、レベルが低めでも冒険者クラスは上げられる。しかし、Cクラスに昇格するにはそれなりに大きな功績を重ねる必要があるといわれているし、どんな依頼をどの程度こなせばクラスが上がるかは、冒険者ギルドでもつかめていない。つまり、功績を重ねて昇格するのは、不確かで時間のかかる方法なのだ。
だが、ここミケーヌの街には特別な方法がある。
それは、サザードン迷宮十階層のボスであるミノタウロスをソロで撃破することである。
ふつう、階層ボスは二階層分手ごわいといわれる。つまり、五階層のボスは七階層の回遊モンスターなみの強さなのだ。
ところが、十階層のボスであるミノタウロスは、十八階層や十九階層の回遊モンスターより手ごわい。であるのに倒してもあまりレベルが上がらない。たまに値打ち物の恩寵付きバスタードソードをドロップするが、その確率はひどく低い。しかも、十一階層以降のボスを倒すと、たまにスキルを得ることができるのだが、ミノタウロスにはスキルドロップがない。要するに苦労に報酬が引き合わないモンスターなのだ。
そのミノタウロスをソロで倒すことでCクラスに上がれるという法則を、誰がいつ発見したかは知らない。だが、この条件を満たした者が〈誓言〉を受けたとき、例外なくCクラスに昇格できているというのだから、エリナにとってはありがたい法則だ。
同じ護衛の仕事をしても、Cクラスなら報酬がちがう。Cクラスでなければ受けられない仕事もある。食っていくだけならDクラスやEクラスで充分だが、稼ぐならCクラスにならなければならない。
エリナは右手で左胸にふれた。
革鎧は半日かけて油で磨き込んである。そして左胸の胸当てには、護符が縫い込んである。女神ボーラの護符が。大地の恩寵をつかさどるこの女神が、護符を通じてエリナを守ってくれるはずだ。
それからベルトにふれた。
ホルダーには、二個の黄ポーション、五個の赤ポーション、一個の青ポーションが差し込んである。エリナにとって黄ポーションは安い買い物ではなかったが、ミノタウロスとの戦いでは、これは欠かせない。
難敵ではあるが、能力と戦法はわかっている。ベテランの冒険者に酒をおごって、ミノタウロス戦の手順はしっかりと教えてもらった。落ち着いて戦えば倒せる相手だ。
もしかしたら、このモンスターのソロ討伐がCクラスへの昇格条件になっているのは、先輩冒険者から情報を引き出すことの重要性を知っているかどうかが試されているのかもしれない。ギルドの受付でも金を払えばある程度の情報は得られるが、やはり密度がちがう。エリナのレベルでは、しっかりとした予備知識なしではとうてい勝てない相手なのだから。
4
エリナはサザードン迷宮に踏み込んだ。
不思議なことだが、迷宮のなかに入ると奇妙な安心を感じる。たぶん、冒険者という恩寵職を持っているからだ。
騎士や冒険者や盗賊が迷宮に入ると、さまざまな恩恵を享受できる。
その最たる物が、ポーションだ。
赤ポーションは、体力回復、迷宮で受けた傷の治癒、迷宮で欠損した部位の再生という、恐ろしいほどの恩寵を発揮する。
青ポーションは、魔法の行使やスキルの発動に必要な精神力を回復する。
黄ポーションは、麻痺や石化などの状態異常を解除する。
緑ポーションは、解毒をする。
こうしたポーションの強力な恩寵は、迷宮の外ではほとんど発揮されない。ポーション自体迷宮でしか得ることのできないものだが、使うのもまた迷宮でしか有効に使えないのだ。
ポーションだけではない。迷宮で得られる強力な武具や防具のなかには、攻撃力や防御力を高めたり、身体能力を高めたりするさまざまな効果が付与されているものがある。そうした効果は神の恵みという意味で恩寵と呼ばれる。通常、恩寵は迷宮のなかでなければ有効とならない。ごくまれに迷宮の外でも有効な恩寵がついた武器や防具があると聞くが、そうした物はすさまじい値段で取引されることになる。
岩の回廊を早足で進むエリナの足取りは軽い。迷宮のなかでは冒険者の身体能力はわずかに上がる。そのわずかな差が、きわめて大きな効果を発揮するのだ。
(いける)
(いける)
(あたしは)
(ミノタウロスを倒せる!)
冒険者という恩寵職が登場したのは、比較的最近のことだと聞いたことがある。騎士や商人や木こりといった恩寵職に比べると、その歴史は浅いのだ。
さらにいえば、レベルというものが発見されたのも、大陸の歴史が始まって相当の年数が経過してからだという。
エリナには、冒険者という恩寵職がない世界など思いつけないし、ましてレベルがない世界など、あったと信じることがむずかしい。そして、その二つがなくなることなどあり得ないのだから、過去のことなどどうでもよい。
恩寵の助けを借りて、エリナは実力を身につけた。こつこつためた金で、上等な剣を買った。そしてその扱いにも慣れてきた。
馬鹿力だけのモンスターなどに負けるはずはない。
そうエリナは確信していた。
5
一階層から五階層までは、ただ走り抜ければよかった。
迷宮のモンスターは、圧倒的に強い相手はさける性質がある。
五階層までのモンスターは、エリナには近寄ってこないのだ。
六階層から八階層までには数度戦闘があったが、エリナは問題なくモンスターたちを屠った。すり傷はいくつかできたが、怪我はしていない。銅貨を何枚かと、赤ポーションを一個得た。
赤ポーションは〈ザック〉に入れようかと思ったが、いざというときすぐ使えるよう、ベルトのホルダーに入れた。
九階層に続く階段で、食事を取り、休憩をした。
そしていよいよ九階層だ。
この階層の回遊モンスターはオークである。人間と動物を混ぜ合わせたような醜怪なモンスターで、力が強く、打たれ強い。
もちろん一対一なら、今のエリナがおくれを取る相手ではない。だがこのモンスターは、二匹あるいは三匹で回遊していることがある。二匹ならともかく、三匹を同時に相手取るのはまずい。
幸いに、オークは走る速度が遅い。だからエリナは俊足を生かして、一気にこの階層を駆け抜けるつもりだ。道はよく知っているのである。
幸い、うまくオークをやり過ごしながら進むことができた。十階層への階段まで、もう少しである。
と、回遊してきたオークと、ばったり出くわした。
(ちっ)
エリナはダッシュした。
そして棍棒を振り上げたオークの腕を浅く斬って横を走り抜けた。
オークがあとを追ってくる気配がするが、追いつかれる前に階段に飛び込める。階段に飛び込めば、それ以上は追ってこれない。
モンスターは、階段を認識できない。だから、九階層のモンスターは、十階層に降りることもないし、八階層に上がることもない。
(うわっ)
(なんてこと!)
飛び込もうとした階段のすぐ手前で、三人組のパーティーが一匹のオークと戦っている。
一瞬、その横をすり抜けて階段に向かおうかと考えた。
だが、それをすると、エリナを追ってきたオークを、この三人にすりつけることになる。そんなことをギルドに報告されたら、エリナは終わりだ。
(くそっ!)
エリナは迷宮の硬い岩の床を蹴って反転し、両手で剣をふりかざし、後ろから迫ってきたオークに向かって走り込むと、棍棒を持った腕に振り下ろした。
オークの右手が斬れて飛んだ。
だがオークはそのままエリナに突進してきた。
ひらりと左に身をかわしたが、完全にオークの巨体をさけきることはできず、オークの右足とエリナの右足が接触した。
バランスを崩したエリナは、左肩から岩壁に激突した。オークも転倒したようだ。痛がっているひまはない。なにしろオークは痛覚がにぶい。少々の痛手はものともせずに襲いかかってくる。
振り向いて、少しふらふらする頭を敵のほうに向けると、まさにオークが跳びかかってくるところだった。
だがエリナの心にあせりはなかった。オークとの戦いは場数を踏んでいる。そのいやらしい顔をみても、恐怖などわかない。
すっと持ち上げた剣の先がオークの喉元に突き刺さった。
それでもオークは突進してくる。
その突進の力で剣は喉を深く貫き、やがて突進は止まり、目から光が消えた。
ちゃりん。
と音がして五枚の銅貨が落ちた。すでにオークの姿はない。
「はあ、はあ、はあ」
岩壁に背中を預け、息を整えながら、回廊の奥をみた。三人の冒険者がオークにとどめを刺すところだった。
エリナは五枚の銅貨を拾い、ベルトから赤ポーションを抜いて飲み込んだ。
くらくらと揺れていた視界が治まり、肩の痛みも消えた。
三人の冒険者がエリナのほうを見ている。一人は知った顔だ。
「やあ、ジャンセン」
「エリナ。一人か?」
「ああ。通らしてもらうよ」
「まさか、やるのか?」
エリナは、通り過ぎかけて立ち止まり、かすかに振り返ってジャンセンの目をじっとみつめ、小さくうなずくと、十階層への階段を降りていった。
6
十階層の回遊モンスターは、灰色狼である。
灰色狼は、ドロップは悪くない。
銀貨を落とすし、赤ポーションを落とすし、青ポーションを落とすこともある。まれには黄ポーションも落とす。
だが、この階層は人気がない。
灰色狼は、一匹なら階層適正範囲のモンスターだが、速い足取りで常に回廊をうろつき回っているし、遠くから敵の匂いや音を感知するため、最初は一匹を相手していても、手間取っていれば、どんどん集まってくるのである。そして灰色狼は集団戦が得意であり、複数でかかられると脅威度が跳ね上がる。
だから、この階層は素通りする冒険者が多い。
素通りするためのアイテムが二種類、ギルドの人気商品となっている。
一つは疑似餌だ。人造の肉に香りをつけたものなのだが、灰色狼はこれを非常に好む。この疑似餌を投げて、そのあいだに別の回廊を通過するのだ。
本物の肉を使えばよさそうなものだが、それだと一口で食べてしまって足止めにならない。毒を入れた肉はするどくかぎわけて、投げた人間を襲う。疑似餌に引きつけられているときも、近寄れば攻撃されるから、これはあくまで足止めのためのものだ。
もう一つは匂い袋だ。灰色狼のきらいな匂いを放つ。近寄ってこさせないためのアイテムだ。疑似餌ほどの確実性はないが、灰色狼が群れにくくなるので、素通りしたい人間には有用だ。
今回エリナが用意してきたのは、この匂い袋である。
だが、エリナは異常なほど運がよかった。
なんと、一度も灰色狼に遭遇せずにボス部屋に着いたのである。
(着いた)
(いよいよだ)
(落ち着け、あたし)
(落ち着くんだ)
ボス部屋のなかから出入り口の外を見ることはできるが、出入り口の外から、なかのようすをみることはできない。物音を聞き取ることもできない。ボス部屋というのは隔離された空間なのである。
女戦士エリナは息を整え、覚悟を決め、決然と戦いの場に進み出た。
7
そこは驚くほど広い空間だった。
エリナは十階層のボス部屋に入るのははじめてであり、話には聞いていたものの、その広さと高さをまのあたりにして、一瞬息を飲んだ。
九階層から降りた距離を考えれば、このボス部屋の天井がこんなに高いということはあり得ない。出入り口をくぐった瞬間、エリナは異空間に入ったのだ。
(ミノタウロスが……いない?)
いや、いた。
奥まった場所に湖があり、その湖のほとりに座り込んでいる。
エリナのほうに背を向けているその姿は、まるで岩の塊のようだった。
その岩の塊が立ち上がり、振り向いた。
(でかい!)
(まさか、特殊個体《ユニーク》?)
同じ階層の同じボス部屋に湧くモンスターの種類は常に一定であり、その強さもまったく同じだ。
けれども個体としてみれば微妙な差がある。
少しばかり身長が高かったり低かったり、色が濃かったり薄かったりという程度のちがいはあるのだ。
おそらく厳密に測定すれば、ある個体は移動スピードがわずかに速かったり、ある個体はわずかに攻撃が強力だったりするだろう。
しかしそうした差は、通常無視できるほどのものでしかない。
ただ、ごくまれに、ひどく強い個体が湧くことがある。そういう場合、冒険者は痛い目をみて、ギルドで評判になる。そのような個体は特殊個体と呼ばれるが、特殊個体はレアドロップを落とす。だから特殊個体が湧いたと聞けば、冒険者が押し寄せるのだ。
今なら引き返せる。
出入り口から回廊に出てしまえば、ミノタウロスは追ってこれない。ボスモンスターはボス部屋から出ることはできないのだ。
(何を弱気な!)
(恐れるな、あたし!)
腹に力を入れて口を引き結び、エリナはミノタウロスをねめつけた。
ミノタウロスがエリナめがけて駆け寄ってくる。
「うおおおおおおおおお!」
獣のような雄たけびを上げて、エリナも敵に向かって駆け出した。
たちまちエリナの全身は戦闘の高揚で満たされ、すべての恐怖は消え去った。
(倒す!)
(こいつを倒して)
(あたしには手に入れなくちゃならないものがある!)
ミノタウロスは、両手にそれぞれ短い斧を持っている。そのうち右腕に持った斧を振り上げた。
(よし!)
(情報通り!)
ミノタウロスの利き腕は右側であり、ほとんどの場合初撃は右手で放つ。
エリナは前進速度をゆるめた。
今やエリナの注意力のすべてはミノタウロスの右手に向けられている。
ミノタウロスは、最初は斧でしか攻撃しない。だから斧を持った右腕の動きにさえ注意を払っていれば、攻撃はかわせる。
さらに走る速度をゆるめ、エリナは剣を抜いた。柄を両手で持ち、なめらかな動作で右肩の上に剣をかつぎあげると、勢いよく振り上げた。その振り上げた勢いのまま振り下ろす。
ミノタウロスも、まさに斧を振り下ろしつつあった。その斧を持つ右手の関節のあたりをエリナの剣が打ちすえる。エリナはそのまま左側に逃げた。
武器を持つ手を痛打されたというのに、ミノタウロスの斧の勢いは衰えない。ぶうんと唸りを上げながら、今までエリナの頭があった空間を薙いだ。
寒気のするような威力だ。
(当たらなけりゃ)
(なんてことないさ!)
攻撃を空振りして伸びきったミノタウロスの右腕の肘に、エリナは剣を落とした。
いまいましそうな唸り声を上げながら、ミノタウロスが左手の斧を振り上げる。
(今度は左ね)
(さあ、来い!)
今度は右にかわす。そしてミノタウロスの左腕に一撃を入れる。
ミノタウロスが、右肘を曲げて後ろに送り、ぐいと斧を突き出した。
左にかわして、伸びきったミノタウロスの右腕を剣でたたく。
(落ち着け!)
(落ち着け、あたし!)
(牛頭《うしあたま》は、力は強いけど、攻撃は単純)
(よくみてれば絶対かわせる)
ミノタウロスが、いらただしげに吠え声を上げ、息を吸って上体を後ろにそらすと、頭を大きく後ろから前に振り、二本の角を突き出して突進してきた。
危なげない足取りでこれをかわすと、突進をやめて、のたのたと方向転換するモンスターを、エリナは冷ややかな目で見た。
(斧を振り回すか、斧を突き出すか、角で突きかかってくるだけよ)
(とにかく攻撃をかわしながら)
(両手の斧が使えなくなるまで腕に斬りつけていくのよ)
ミノタウロスは右腕を振り上げては攻撃し、左腕を振り上げては攻撃した。
それを右に左にかわすエリナの動作には、少しずつゆとりが生まれてきている。
足元がごつごつしているため、動きを妨げられて、体のすぐそばを斧が通過することもあった。ミノタウロスの足が蹴り飛ばした小石のかけらが鎧でおおわれていない箇所に当たることもあった。
だが、まともな攻撃は一度も受けていない。
そんな攻防がしばらく続いた。
女戦士は汗だくになり、息も荒いが、これという傷は受けていない。
ミノタウロスの両腕はずたずたに斬り刻まれ、血だらけになっている。
落ち着いてみれば、このモンスターの動きはにぶい。
振り回す斧は速いが、予備動作は単純で、軌道は予測しやすい。
一つの動きから別の動きに移るのももたもたしており、足運びもたどたどしい。
冷静な目でみつめれば、ミノタウロスの身の丈はエリナよりほんの少し高いだけだ。最初にみたときは、緊張と恐れから、実際以上に大きく感じてしまったのだろう。
特殊個体だなど、とんでもない。ありふれた、いつも通りのミノタウロスだ。
深く踏み込んできたミノタウロスの攻撃をかわしたとき、絶好の攻撃位置をとれた。
(今よ!)
エリナは、両手で握った剣をまっすぐ振り下ろした。腰の入った斬撃だ。剣の重さも充分に乗り、加速も申し分ない。
太い骨を断つ不気味な音がして、ミノタウロスの左手が斬り落とされ、斧を持ったまま宙を舞った。
(勝った!)
その心がすきを生んだ。
怪物は、手首から先を失った左手を振り回して女戦士を殴り飛ばした。
胸を激しく打たれたエリナは岩壁にしたたかに打ちつけられる。
ミノタウロスが右手の斧を振り上げる。
女戦士はふるふると頭を振って意識を取り戻し、岩壁を蹴って飛び出す。
斧が岩を砕く音を背中で聞きながら、エリナは十歩ほど駆け足で進み、くるりと振り返って怪物と向き合い、はずむ息を整えた。
怪物が、上方を向き、顔をしかめて、大きく胸に息を吸い込んでいる。
(来る!)
腰のベルトに手を伸ばし、ホルダーからポーションを取り出そうとした。
状態異常を解除する黄ポーションを。
だが、取り出せない。
女戦士は顔を下げてホルダーを見た。
つぶれている。
岩に打ちつけられたとき、すべてのポーションはつぶれていた。
ブオォォォォォォォォォォォォォォォーーーーー!!
ミノタウロスが、すさまじい叫び声を上げた。
洞窟全体がびりびりと震えている。
全身を揺さぶられ、女戦士の動作が止まった。
敵に向かう勇気は消え、絶望感が女戦士を襲う。
ハウリング。
残存体力の三分の一を削り、わずかな時間ではあるが行動阻害と機能異常をもたらす、ミノタウロスの特殊攻撃である。
ミノタウロスの右斧が振り下ろされる。
かろうじて身をかわしたものの、左胸から右脇にかけて大きく切り裂かれる。
勝てないと悟った女戦士は、逃げ出した。
〈ミノタウロスの出足は速くないからなあ〉
〈全速力で逃げれば追いつかれずに逃げきれるぜ〉
先輩冒険者の言葉が脳裏によみがえる。
右手の剣が重い。
こんなにも重い剣だったろうか。
捨てようかという考えが頭をよぎるが、すぐにその考えは捨てた。
ここでこの剣を失ったら冒険者をやめるほかない。
ほかの何を失っても、この剣は失うわけにいかない。
迫ってくる。
後ろから怪物が迫ってくる。
すぐそこまで迫っている。
女戦士は死にものぐるいで走った。
あと数歩で出口というところで、右足と左足がからんでよろけた。
ぶおんと唸りを上げて、背中を風がなでた。
左足首に激しい熱を感じたが、そんなことにはかまいもせず、転げながら女戦士は出口に突入した。そしてごろごろと転がりながら、ボス部屋を脱出することができたのである。
はあっ、はあっと、荒い息をつき、左足をみると、足首から先がなかった。ミノタウロスの斧で切断されてしまったのだ。
エリナは〈ザック〉から細いロープを取り出して、傷口を縛った。
ここは迷宮のなかである。誰かが通りかかって赤ポーションを借りることができれば、命はもちろん、失った足も取り戻すことができる。
今はとにかく死なないことだ。
そのときエリナは、自分が涙を流していることに気づいた。不思議と痛みは強くない。今はただ、命を拾うことができた安堵に包まれていた。
8
それが部屋に入ってきたとき、怪物は、世界には自分以外の動くものがいるのだと知った。
立ち上がって振り向いたとき、その動くものに激しい憎しみを感じた。
いや。その感情を憎しみと呼ぶのは正しくない。
この瞬間ミノタウロスが女冒険者に感じたものは、人間の言葉でいえば、〈敵意〉という表現が一番しっくりくるだろう。
飢えがひどくなった。
ただしその飢えは、今までの飢えとは少しちがう。
渇望だ。
戦いと勝利への渇望だ。
敵を蹂躙しつくせと本能がミノタウロスに命じた。
ミノタウロスは、本能の命じるままに敵に走り寄った。
その生き物は、自分より少し小さい。
だが、明確な敵意を放ってきている。
その敵意を浴びながら、ミノタウロスは、破壊の衝動を解き放てることに、わずかな快感を感じていた。
力を込めて右手の斧を振り上げる。
そのときになってミノタウロスは、自分が斧を持っていることに気づいた。
右手だけではない。左手にも斧を持っている。
いつから持っていたのかはわからない。たぶん、ずっと持っていたのだろう。
それは手になじむ武器であり、攻撃の威力を高めてくれる、好ましい道具だ。
その頼もしい武器を、走り寄ってきた敵の上に振り下ろした。
ぐしゃり、と貧弱な敵はつぶれてしまうはずだった。
だが攻撃は当たらなかった。
今度は左手の武器を敵にたたきつけた。
その攻撃も当たらなかった。
何度も何度も攻撃をこころみた。
だが、ことごとく攻撃ははずれた。
それだけではなく、貧弱な敵は貧弱な攻撃を放ってきた。
一撃一撃は痛くない。
だがそれが積み重なると、痛みを感じ始めた。
痛みは強くなっていった。
いらだちもつのっていった。
何度か角で突きかかった。
それもかわされた。
やがて、斧を持つ両の腕はずたずたに斬り裂かれていった。
今度こそ相手をたたきつぶすべく、格別の力を込めた一撃を放ったが、それもかわされた。
かわされただけではない。攻撃した左手は手首から斬り落とされた。
だが、その瞬間、敵の動きが止まった。
ミノタウロスは、先の斬り落とされた手首を敵にたたきつけた。
その攻撃は、はじめて敵の体をまともにとらえた。
敵は岩壁にぶつかった。
追撃するべく、残された右腕の斧を振り下ろしたが、敵はきわどいところで身をかわし、攻撃はむなしく岩肌にはじけるばかりだった。
敵が走って距離を取る。
ミノタウロスの本能が命じた。
今がそのときだと。
怪物は大きく息を吸い込み、ぶるぶると首筋をふるわせ、そのスキルを発動した。
人間がハウリングと呼ぶスキルである。
ミノタウロスの放ったわざは敵をとらえた。
敵は弱り、恐怖におびえている。
とどめをさすべく右の斧をふるったが、なんと敵は戦いに背を向けて逃げ出していくではないか。
怒りが噴き上がった。
ただちに敵を追った。
もうすぐだ。
もうすぐ敵に追いつける。
もうすぐ敵を殺すことができる。
敵がよろけた。
ミノタウロスは、右腕を振り上げて、そして振り下ろした。
その攻撃は命中し、敵の一部を斬り落とした。
次の一撃で終わりというそのとき、敵は出入り口から外に出た。
ミノタウロスは、そこで立ち止まらざるを得なかった。
9
自分が通ることのできない出入り口の向こう側で、貧弱な敵は地に倒れ伏している。
やがて自分自身の手当を始めた。
殺したい。
こいつを殺したい。
だが、ミノタウロスには、その出入り口を通ることはできない。
魚が空で泳げないように、鳥が大気の外に飛び出せないように、ボスモンスターはボス部屋の外には出られないのだ。
それでも怪物はこの敵を殺したかった。飢えはますます高まってゆく。巨大な体躯のすべてを憤怒にそめて、ミノタウロスは敵との決着を欲した。
そのためには前に進まなくてはならない。
この出入り口を通って回廊に出なくてはならない。
あらゆる感覚がその一歩をこばむのにあらがい、ミノタウロスは出入り口に右足を踏み入れた。
じゅうっ、と音がして、右足が焼けただれた。
痛みと驚きで斧を取り落としたが、ミノタウロスは、なおも先に進もうとすることをやめなかった。
突き出した右手が焼け、じゅうじゅうと泡立つ。
踏み込んでいくにしたがい、肩が、顔が、胸が、足が、焼けていく。
みにくく顔をゆがめ、口からよだれを垂れ流しながら、しかし進むことをやめない。
目も焼けただれてしまい、ほとんどみえない。
もしもみることができたら、女戦士が恐怖を顔にはりつけて、地獄の悪鬼がおどろおどろしい姿で、越えられるはずのない境界を越えて近づくのを、ただ首を左右に振りながら凝視している光景が目に入っただろう。
「嘘よ。嘘よ」
人間の言葉などミノタウロスにはわからないが、それがおびえの表現であるということはわかった。そして標的の位置も。
かたかたという音を、ミノタウロスは聞きつけただろうか。それは女戦士が歯を鳴らしている音である。
焼けただれてぐしゃぐしゃにゆがんだ顔を、苦しげによじりながら、怪物はなおも右手を突き出す。獲物に向かって。
炭化して黒ずみ、吹き出す体液でぬらぬらする筋張った右手が、くわっと開かれ、女戦士の胸当てをつかんだ。
ミノタウロスは、そのまま、ごぼう抜きに女戦士の全身を持ち上げると、倒れ込みつつ体を回転させ、女戦士を頭から岩壁にたたきつけた。
ぐしゃっと女戦士の頭はつぶれ、脳漿と血のりと頭蓋骨のかけらが飛び散る。
女戦士は、すうっと消えた。
あとには剣といくばくかのアイテムが残されているばかりである。
飛び散った血や肉も、すぐに消え去った。
迷宮では、人といえど亡きがらをとどめることはできないのである。
ミノタウロスは、消え残った胸当てを右手につかんだまま、倒れ伏している。
体中が黒ずみ、縮み、いやらしい匂いのする煙を噴き出している。
まもなく、このモンスターは短い一生を終えるだろう。
だがそれでも、ミノタウロスは心のなかで強く念じていた。
もっとだ!
もっと、もっと、戦いを!
もっと、もっと、強い敵を!
そして力を!
俺に力をよこせ!
敵を殺す、さらなる力を!
人の言葉に直せばそうもなるであろう。それは妄執であり、呪詛であり、祈願でもあった。言葉にはならなかったが、明確な意味を持つ心の底からの叫びであった。
このとき、怪物の頭のなかに声が響いた。
「なんじの請願を聞き届ける」
言葉というものを知らないミノタウロスには、むろんその声の意味はわからない。だが力ある存在が自分に何かを告げたのだと理解はしていた。
女戦士の胸当てには大地神ボーラの護符が縫いつけられていた。今響いた声は、女戦士が神殿で大地神に〈冒険者〉としての加護を請願したとき聞いた声そのままであった。
淡い土色の光がミノタウロスを包む。
しゅうしゅうと柔らかな音がして、みるみる表皮や体毛が再生される。失った左手さえも、もとの通りに復元される。
いや、もとの通りではない。その体はわずかに大きくなり、強靱さを増していた。
冒険者ならみなれたレベルアップの場面である。
女戦士を殺して得られた経験値は、ボーラ神の加護を介し、このミノタウロスに設定された成長係数により換算され、レベルアップをもたらしたのである。レベルアップが起きたとき、体の損傷はすべて修復されるのだ。
ミノタウロスは、湖のほとりに戻り、がぶがぶ水を飲むと、眠りについた。
迷宮のモンスターは、岩からしみ出してくる、といわれる。
それは生き物に似ているが生き物ではなく、生き物の奇怪な似姿に過ぎない。
その端的な証拠は、成長しないということである。
レベルアップによってとはいえ成長するモンスターはきわめて特異な存在といえる。
この日、サザードン迷宮に一匹のユニークモンスターが生まれた。
第2話 天剣パーシヴァル
1
十階層にユニークモンスターが誕生したその日、ミケーヌの街の冒険者ギルドに一人の剣士がふらりと立ち寄った。
「ギルド長」
「ああん? 何じゃ?」
「パーシヴァル様がおみえです」
「なにっ。すぐにお通しせんかっ」
「はい」
ギルド長ローガンは客を迎えるために立ち上がり、事務長のイアドールが剣士を部屋のなかに招き入れた。
「失礼する」
「これはパーシヴァル様。これから迷宮ですかな」
「うむ。九十階層台なかばまで降りてみようと思う」
常識のある人間なら、いったい何人のパーティーで探索するのかと質問するところだが、ローガンは聞かずとも答えを知っていた。
一人だ。
この剣士はソロで九十階層台にもぐるのである。
「そうですかい。転送サービスは使われますか?」
「いや。走るということは何より大切な訓練と心得ておるゆえ」
「相変わらずですな。ああ、お茶が入りました」
「かたじけない。馳走になる」
どうしてこんな短い時間で準備できたのかわからないが、事務長のイアドールは、お茶を持った女子事務員を連れて部屋に入ってきた。そしてお茶がテーブルの上に並べられると、女子事務員を連れて部屋を出た。立て付けのよくないドアを無音で閉めて。
ローガンは、パーシヴァルが茶を口に運ぶのをみまもった。
飾り気のない所作である。だが、美しい。
身にまとう装備も、派手ではないが、目の利く人間ならあっと驚く逸品ぞろいだ。
パーシヴァル・メルクリウス。
直閲貴族メルクリウス家の当主である。
直閲貴族というのは、いついかなるときも王に会い意見具申ができる身分である。
バルデモスト王国の始祖王に付き従って邪竜カルダンを打ち倒した二十四人の英雄は、建国とともに王国守護騎士に叙せられた。その身分は一代限りで継承できない代わりに、二十四家は直閲貴族家となった。十七家が現存するが、そのなかでもメルクリウス家の武名はひときわ高い。
(その直閲貴族家の当主が冒険者なんぞをやって)
(迷宮にもぐってるんだからな)
(物好きにもほどがあるというもんだ)
だが、その物好きな貴族の青年を、ローガンはきらいではなかった。
2
パーシヴァルは、わずか十二歳にして冒険者の世界に足を踏み入れ、十四歳でAクラスとなり、十五歳のときゾアハルド山賊団の討伐に参加し、圧倒的な武勲を挙げてSクラス冒険者となった。
十六歳のとき、父の死により家と身分を継いだが、めったに朝議にも出ず、一年のほとんどを各地の迷宮にもぐって過ごす孤高の剣士である。
メルクリウス家は直轄領を持たない。ただし、メルクリウス家を宗家と仰ぐ貴族家は少なくなく、また、国から多額の年金を受け取る立場である。家格も高い。だから顕職について国に奉仕すべきであるのに、パーシヴァルは名ばかりの役職を得て、気ままに暮らしている。
本来そのようなことは許されないのだが、なぜか王は、
「あの者は好きにさせておいてやれ」
と放任の構えである。
これには、パーシヴァルが十八歳のとき、他国の使節に紛れ込んだ刺客の凶刃が王を襲ったとき、見事に取り押さえた功績が関係しているというのが、もっぱらの噂だ。
〈天剣〉という異名は、パーシヴァルの剣の師が、
「この少年の剣才、並ぶ者なし。天与の才なり。まさに天剣」
とたたえたことによるらしい。
人づきあいをきらうし、上流階級の出身であるので、反感を持つ冒険者も多いが、悪い人物ではない。
仕事のえり好みは激しいが、いったん交わした約束を破ったことはない。
人の邪魔をしたり、悪口を言うことはない。
ただただ強い敵と出遭って戦い、倒してさらに強くなることにしか興味がなく、死に直面する危険のなかでしか、おのれの生の充実をかみしめることができない、そんな不器用な人間なのだろうと思っている。
十九歳のとき天覧武闘会で優勝したが、その後は出場していない。そのわけを聞いたことがある。
「パーシヴァル様は、一度優勝したのち天覧武闘会に出場されていないようだが、理由をお聞きしてもよろしいか」
「ふむ。あのとき準決勝で魔法使いと戦った」
「そうでしたな」
「魔法使いは、目くらましと補助魔法を駆使して私を近寄せず、なんとサモン・コメットを使ってきた」
「はっはっは。すごいやつもいたもんです」
サモン・コメットは最大級の破壊力を誇る火系の範囲殲滅魔法だ。威力は絶大であり、そのぶん準備詠唱に時間もかかるし、大量の魔力を消費する。武闘大会の個人戦でこれを使うというのは、まったく常識をはずれている。
「〈アレストラの腕輪〉を使っても発動を妨げることはできなかった。大地は揺れ、瓦礫は飛来し、砂塵は吹き上げられ、私はわずかな時間ではあるが、攻撃も防御もできがたい状態となった」
「いや。あんな魔法で攻撃されたのに、ほとんど無傷でかわしてのけたことが驚きですぜ」
「相手には、私を直撃する気などなかった」
「ほう?」
「あとであらためてよく調べ、よく考えて得心した。サモン・コメットは発動点が遠い。発動点がもっと近い魔法か、私の体を直撃する攻撃であれば、アレストラの腕輪で消せた」
アレストラの腕輪は、メルクリウス家の秘宝だ。始祖王が女神ファラから授かり、メルクリウス家の初代に下賜した。あらゆる魔法攻撃を吸収し無効化するという。
「私の体でなく周囲の地面が狙いとわかっていれば、ほかにやりようがあった。だが、攪乱と弾幕と高速な詠唱と破天荒な戦術により、何を狙っているか私に悟らせなかった。見事であった。私はおくれを取った。とはいえ、まだ反撃は可能であった」
そうだ。あの意外な展開に、闘技場を埋め尽くした観衆がかたずをのんだ。次に何が起きるか予想不可能な局面だった。
ところが試合は突然終わった。審判がパーシヴァルの勝利を宣告したのだ。相手の反則負けである。武闘会では相手を殺してはならない。また死んでしまうような攻撃をすることは、大会規則で禁じられている。
「まったく不可解な判定であった。どのような攻撃が死ぬほど危険かは、相手と攻撃のしかたによる。こちらは刃引きさえせぬ剣をつかっているのだし、現にろくに怪我などしておらなんだ」
自分の勝利に不満を並べるパーシヴァルを、ローガンは不思議なものをみる目でみた。
「高速戦闘を得意とする私から、サモン・コメットなどという大型魔法を撃てる時間を確保したことは、相手の技量の高さを示す以外の何物でもない。こちらの能力や反応、そして所持アイテムを読み切ったうえで、サモン・コメットという決戦魔法の余波を使って有利な場面を作り上げたセンスのよさには、最高の賛辞が与えられてしかるべきではないか」
やっとわくわくするような戦いに出合った。このあと相手はどのような攻撃を仕掛けてくるのか。それは自分を打ち倒せるほどのものかもしれない。そう思えてしまうほどにすばらしい敵手だった。
「それなのに、相手の勝利と判定するならともかく、私の勝ちだというのだ。これを不可解と言わずして何を不可解と言えばよい」
それほど不満があるなら審判に異議を申し立てればよかったではないですか、とは言わなかった。それはパーシヴァルの流儀ではない。
「理不尽さに耐え、翌日の決勝にのぞんだが、何の意味も喜びもない戦いとなった。あれほど弱い剣士がなぜ決勝に残れたのか、準決勝の判定以上に不可解であった」
「ご本人を目の前にして失礼ですが、ひどい決勝でしたなあ」
「ははは。私もそう思う。とはいえ、準決勝での魔法使いとの対戦は有益な経験であった」
「ほう? 何か収穫でも?」
「うむ。あれ以来、どのような人間と、あるいはモンスターと対決していても、心のどこかで思うのだ。次の瞬間には彗星が落ちてくるかもしれないと」
それが珍しくも天剣の言い放ったジョークだと気が付いたのは、扉が閉まったあとだった。
この会話からしばらくのち、ローガンは手を回していくつかの情報を得た。
まず、準決勝の審判はある貴族家お抱えの武術師範なのだが、なぜかその貴族家はパーシヴァルに恩を売ったと思い込んでいたようである。
次に、決勝の相手が王の当時の愛妾の兄であったことは周知の事実だが、気を利かせた宮廷雀の一人が、控室のパーシヴァルを訪ね、相手に勝ちを譲るよう勧めたというのである。
もちろん、パーシヴァル自身はそのようなことを語らない。語らないが、心のなかでは怒っている。二度と天覧武闘会には出場しないという身の処し方によって、その怒りを表現したのだ。それがパーシヴァルの流儀なのである。
(なるほどなあ。あほらしい話だが、ありそうな話だ)
そのありそうな話を不快に思い、自分の勝利は不当だと憤るパーシヴァルに、ローガンは好ましいものを感じたのである。
3
「ここの茶はうまい」
「そりゃ、どうも」
パーシヴァルの言葉に、ローガンは回想から引き戻された。
メルクリウス家で使う茶葉に比べたら、ギルドの茶葉など茶葉ともいえないような代物だ。それで高位貴族の舌に合うような茶を淹れられるとしたら、やはりあの事務長はただものではない。
そのようにローガンは考えたのだが、ずっとあとになって気づいた。
パーシヴァルがうまいと言ったのは、ここのギルドでローガンと一緒に飲む茶がうまいという意味だったのだ。
しばらく無言で茶の香りと味を楽しんだあと、パーシヴァルは最後の一口を飲み干し、すっと立ち上がった。
ローガンも立ち上がった。
「どうぞ、ご無事で」
「うむ」
Sクラス冒険者であっても、ソロなら適正階数はせいぜい五十階層だ。ところがこの寡黙な貴族は、九十階層より深くもぐるのだという。むろんそれはメルクリウス家が襲蔵する強力な秘宝の数々があってのことでもあるが、この名剣士の強さは異常といわねばならない。
このときローガンは、再びパーシヴァルに会えることを疑っていなかった。
4
ミノタウロスは、両手に斧を持ってボス部屋を出た。
あれほど強硬に通過を拒んだ出入り口が、あっけなく通れた。
出入り口をくぐり抜けると、左右に岩の回廊が続いていた。
左側に向かって歩く。
ほどなく道は左右に分かれた。
右の道を選ぶ。
いくつかの分岐を過ぎたあと、前方に気配があった。
薄暗い通路の向こうに、一対の眼が光っている。
相手が駆けて来た。
灰色狼である。
攻撃しようとしているのは明らかだ。
ミノタウロスは身をかがめ、右手の斧を狼の頭にたたきつけた。
だが、当たると思った打撃は空を切った。
狼は半歩手前で身をひるがえし、右足をかすめて通り過ぎたのである。
反転して攻撃してくるであろう狼を迎え撃つため素早く振り向いたとき、右足に痛みが走った。
右膝からくるぶしにかけての肉が、えぐられている。
ちっぽけな狼に傷をつけられ、ミノタウロスの視界は怒りで真っ赤にそまった。
飛びかかって来た狼を迎撃すべく、斧を横なぎに振るう。
しかし、今度も敵をとらえることはできなかった。
狼はミノタウロスに跳びかかるのではなく、壁面に飛びついたのだ。そして突き出た岩を踏み台にしてミノタウロスの喉笛に噛みつこうとしたのである。
普通の相手であれば勝負を決したであろうこの一撃は、しかし狼の失策となった。
ミノタウロスは、恐るべき反射神経で顎を伏せて喉を守った。
狼がミノタウロスの頑丈な顎をかみ砕きかねた一瞬、ミノタウロスは斧を手放すと、両の手で狼の頭をつかみ、そのまま岩壁に突進した。
「ギャイン!」
岩壁にたたきつけられた狼は悲鳴を上げた。
すかさず、狼を抱え上げ、頭突きで狼を岩壁にたたきつける。
鋼鉄をねじり合わせたような二本の角が、狼の腹部をあっさりと貫いた。
狼の体液が顔と体に降りそそぐのもかまわず、繰り返し、繰り返し、狼を岩壁にたたきつけ続けた。
どすっ。どすっ。
びちゃっ。びちゃっ。
狼の腹は大きく裂け、内臓があふれだしてきた。
なおもミノタウロスは、頭突きを続けた。
もがく狼の爪に腕や胸をえぐられても、ひるむようすもない
やがて狼は、あがきをやめ、痙攣を始めた。
その痙攣も、ほどなく止まり、狼はまったく動かなくなった。
それでもミノタウロスは頭突きを続ける。
と、急に狼の姿が消え、ミノタウロスは、したたかに岩に頭を打ち付けた。
狼は、いったいどこに行ったのか。
ふと下をみると、赤い小さなポーションと、銀貨が何枚か落ちていた。
俺が欲しいのは、こんな物ではない。
ミノタウロスは、とまどい、怒った。
勝利の報酬は、あの狼の肉でなくてはならない。
肉だ。肉だ。
あの肉を食らわねばならなかったのに。
あれは俺の物だったのに。
飢えはいっそうひどくなるばかりだった。
ミノタウロスは、斧を拾い上げ、迷宮の奥へ進んだ。
5
いた。
先ほどと同じ灰色狼である。
その俊敏性と狡猾さは、すでに学習した。
ミノタウロスは、左手の斧を喉の前に構え、右手の斧を敵のほうに向け、油断なく狼の動きをみつめた。
すばらしい速度で走り寄った狼は、接触する直前に左に身をかわした。
そこに、すっと右手の斧を突き出す。
斧の切っ先が、狼の右頬に食い込む。
刹那、左手の斧を狼の首に振り下ろした。
狼の首が跳ね飛び、胴体は床の岩盤に打ち付けられた。
肉だ。
ミノタウロスの眼が歓喜の色をたたえた。
しかし、今度も、絶命した狼の姿は消え去り、あとには青い小さなポーションと、数枚の銀貨が残された。
ミノタウロスの顔が、怒りにゆがむ。
何だ、これは!
またも俺から戦利品を取り上げるのか!
ふざけるな!
肉をよこせ!
ミノタウロスは、青いポーションを踏みつぶすと、さらに奥へと進んだ。
すぐに三匹目の狼に出遭った。
今度は、こちらから駆け寄った。
左手でフェイントの攻撃を仕掛け、狼を右側に誘導して、その鼻面に右手の斧をたたき込んだ。
狼は、真っ二つに切り裂かれた。
肉だ。肉だ。
肉をよこせ。
変な物に変わるんじゃないぞ。
お前の肉を、俺によこせ。
相手をみかけた瞬間から、心のなかで叫び続けた。
今度の狼は、姿を消すことなく、血だまりのなかに沈んでいる。
斧で肉を切り取り、口に運んだ。
かみしめて飲み込んだとき、何とも言えない充足感がミノタウロスをひたした。
肉だ。
肉だ。
狼の肉をむさぼった。
半分ほどの肉を腹に納めたとき、またも狼の姿は消え、数枚の銀貨が残された。
腹はくちた。
それなのに飢えが治まっていないことに、ミノタウロスは気づいた。
斧を両手に持って立ち上がると、次の敵を探して歩き始めた。
繰り返し繰り返し、ミノタウロスは狼と戦った。
たいてい狼は一匹であったが、時には群れで行動していた。
五匹の群れに出遭ったときには、連携攻撃にとまどい、たくさんの傷を受けた。
狼が死ぬと、赤いポーションか青いポーションと銀貨が残る。
死骸は血痕もろとも消え失せてしまう。
しかし、死骸が残るよう念じながら殺すと、しばらくのあいだは死骸が残る。
幾度かは肉を食らった。
食べることに飽きると、ただ戦うために戦った。
戦い続けることで、ミノタウロスの強さは磨かれていった。
6
次の敵を求めて歩いていると、前方から戦闘の気配がした。
近づいてみると、人間が狼と戦っていた。
人間は一人である。
革の鎧を身に着け、剣で戦っている。
回廊には、二匹の狼が血まみれになって転がっている。剣士が倒したのであろう。
二匹の狼は、動くこともできないほどダメージを受けている。
三匹の群れと遭遇し、二匹を倒し、最後の一匹と戦っているのだ。
だが、剣士も相当に傷ついている。
顔には幾筋もの裂傷が走り、服は血にそまっている。左手は動かせないほど傷を受けているのか、だらんと垂れている。
いっぽう、狼のほうも相当な痛手を受けているが、動きは素早い。低い位置から威嚇すると、すきをみては剣士に飛びかかり、肉を削り取る。
剣士がミノタウロスに気づく。
目が驚愕にみひらかれた。
現在の敵でさえようやくしのいでいるのに、新たな強敵が近づいてきたのである。この場にいるはずのない恐るべき敵が。絶望を感じて当然ではある。
しかし、ミノタウロスには、この戦いに参戦するつもりはなかった。
弱っている獲物を倒してもしかたがない。
それよりも、人間が灰色狼と戦っている、そのわざに興味があった。
剣士は、刃先を狼のほうに向けてはずさない。
狼が爪や牙で攻撃をすると、手首をひねり、剣の角度を変えて攻撃を受け、そらす。最低限の動きで、攻めをしのいでいる。
体力を温存するためでもあろうが、あれならば大きく態勢が崩れることもない。
体の端をかすめるような攻撃は無視している。
そのため、傷は少しずつ増えているが、体の中心に来る攻撃は防ぎきっている。
ミノタウロスに、分析的に男の動きを理解できるほどの知力があったわけではないが、学ぶものがあると感じ、戦いのゆくえをみまもった。
決着は突然であった。
剣士の体がぐらりと揺れたのをみのがさず、狼が飛びかかった。
ミノタウロスは、それが人間の仕掛けた罠であると気がついていた。
剣士は、剣で小石をはじいて狼の顔に当てた。
狼がわずかにひるんだ瞬間、動かないはずの左手を狼の喉に突き込む。
手の骨がかみ砕かれる音が聞こえる。
その瞬間、右手の剣は狼の腹部に差し込まれ、びりびりと音を立てて股までを一気に斬り裂く。
狼の飛びかかった勢いに押され、剣士は仰向けに倒れ込んだ。
その体の上にのしかかった狼は、すでに事切れていたのであろう。
剣士の腹に、赤いポーションと数枚の銀貨が残された。
剣士は、剣を手放して、赤いポーションを右手でつかむと、仰向けのままミノタウロスのほうをみながら飲み干した。
全身の傷がみるみる癒やされていく。
ぐしゃぐしゃになった左手さえ修復されていく。
剣士は、剣を杖に起き上がり、瀕死の二匹にとどめをさした。
一匹は銀貨と赤ポーションに、一匹は銀貨と青ポーションになった。
剣士は、二つのポーションをすぐにあおった。
傷はさらに治り、気力さえ取り戻したようにみえる。
そうした行動を取るあいだ、注意をミノタウロスからそらすことはなかった。
ミノタウロスのほうでは、戦いが終わるとともに、剣士に対する興味を失っていた。
剣士が完全には復調していないのは明らかであり、殺すに値する強さを感じなかったのである。
続いて剣士は、落ちていた銀貨を拾い集めた。
抜き身の剣を右手に持ち、巨大な敵をにらみながら、回廊の奥に後ずさってゆく。
と、剣士の姿が横穴に消えた。
ほどなく気配が消えてしまう。
不審に思って近づくと、横穴とみえたものは、上方に続く階段であった。
階段の先には、新しい戦いが待っているのだろうか。
だがまず必要なの休息だ。
ミノタウロスはきびすを返し、生まれた部屋に戻ると、眠りについた。
第3話 冒険者ギルド長の困惑
1
ミノタウロスが目を覚まし、湖の水を飲んでいると、ボス部屋に人間が現れた。
「いたぜ」
身軽そうな装備をしている。小柄な背中から短弓がのぞいている。男はスカウトであった。
ミノタウロスは振り向いて立ち上がった。両手に斧を持って。
「いて当然よね。階層ボスがボス部屋を出て歩き回ってるなんて、冗談じゃないわ」
答えたのは、後ろから現れた若い女である。
右手には短い杖が握られている。
魔法発動の依り代だ。
「ええ。それはそうですね。でも、九階への階段付近でミノタウロスをみかけたと報告しているのは、マルコですからね。いいかげんなことを言う人じゃない。それに、十階のあちこちで放置された銀貨やポーションがみつかってるのはまちがいないですよ。現にぼくたちも拾ってきたじゃないですか」
三人目は、がっしりした大柄な青年で、幅広の長剣を持っている。
胸、肩、額、腕などは金属板に覆われており、防御力の高そうな剣士である。
「で、どうする? このまま帰るか? 倒しておくかあ?」
スカウトの軽口に、魔法使いの女が答える。
「このミノタウロス、気にくわないわ」
眉間にはしわが寄っている。口調ははき出すようである。
「なんでこいつ、あたしらをみても吠えないの? 突っかかってこないの? なんでこいつ、偉そうに立ったまま値踏みするようにこっちをみてるの? こいつ、やっぱり変よ」
「そういや、そうだな。ミノタウロスとは一回しか戦ったことないけど、あんときとはずいぶんちがう感じがするぜ」
「倒しましょう。恩寵付きのバスタードソードが出たら、下さいね。そのほかの物なら、お二人でどうぞ」
「いや、そりゃ出ねえだろう。相当なレアドロップだぜ。恩寵バスタードソード狙いで、五十体以上ミノタウロス狩り続けたけど、結局ドロップしなかったってやつの話を聞いたことあるぜ」
「それ、ぼくです。あと、まだ四十九体なんです。次こそ出そうな気がします」
「お前だったのか。それにしても、そんだけの数、一人で倒したのか? すげえな。ていうかボスを独り占めすんな。今日も一人でやれ」
「だめよ! あたしも、普段ならミノタウロスは一人で狩るわ。でも、こいつはだめ。悪い予感がするの。全員でかかるのよ。パジャ、指揮お願い」
「へいへい。じゃ、戦闘隊形」
すっと、三人はフォーメーションを組み替えた。
先ほどまでは、探索用のフォーメーションであったが、これは戦闘用のフォーメーションである。剣士が前に立ち、距離を置いて魔法使いが、その斜め後ろにスカウトが立つ。
臨時パーティーではあるが、お互いの特性やスキルは確認済みである。
「シャル、足止め準備。レイ、そのままの速度で前進。接敵したら防御主体で敵を引きつけてくれ。シャル、足止め発動後、詠唱の速い攻撃呪文を連発。俺がアイカロスを射ったら、威力の大きい魔法を準備」
そのまま三人は、奇怪な生き物のほうに進んでゆく。
(やっぱりでかいなあ)
そうレイストランドは思った。
三人のなかではずば抜けて大きいレイストランドの背丈が、このミノタウロスの肩までしかないのである。
(今まで遭ったなかで一番大きいミノタウロスだな)
(威圧感、すごいや)
だが、これを足止めするのが前衛たるレイストランドの役目である。
それに、すぐ魔法が来るだろう。
「アースバインド」
シャルリアが発動呪文を唱える。
レイストランドを攻撃の間合いにとらえようとした怪物の歩みが、突然止められた。
地面から黒い木の根のような物が出て、足にからみついている。
怪物が足元に気を取られたすきをのがさず、レイストランドは左足を大きく踏み込み、剣を右後ろに引いてから、たっぷり加速を付けて両手剣をミノタウロスの脇腹にたたき込む。
強靱な筋肉の鎧に覆われたミノタウロスであるが、ここは刃が通りやすいのである。
驚いたことに刃は筋肉にはじき返されたが、確かに傷はつけた。
これでミノタウロスは自分を標的にしたはずだと思いながら、レイストランドは小刻みな攻撃を仕掛けようとした。
そこに左手の斧が横から切り込んで来た。
重量のある攻撃なので、カッティングではそらしきれないと判断し、両手剣を下からかち上げて手斧の軌道をそらす。
上から右手の斧が唸りをあげて降ってきた。
左手の斧をそらすために両手剣に力を込めた瞬間に攻撃されたので、迎撃できない。
身をそらしながらのバックステップで、かろうじてかわした。
「うわっ。あ、危なかった」
今まで戦ったミノタウロスとはちがう、とレイストランドは思った。
パジャは、自分の目を疑った。
(今、このミノタウロス、フェイントを使わなかったか?)
(いや、何をばかな)
(気のせいだ)
だが、優れたスカウトであるパジャは、一目みたときからこれが尋常なミノタウロスでないと気づいていた。軽口をたたきながらも、胸中には悪寒がふくれあがってきていたのである。いきなりアイカロスなどという高価な毒矢の使用を作戦に組み込んだのも、スカウトとしての嗅覚がなせるわざであった。
「アイス・ナイフ」
シャルリアの放つ氷のくさびがミノタウロスを襲う。
「アイス・ナイフ」
「アイス・ナイフ」
「アイス・ナイフ」
「アイス・ナイフ」
立て続けに魔法が撃ち出される。
この魔法は、比較的短時間の準備詠唱のあと魔力と技術に応じて複数の発動ができる点に強みがある。それにしても、これほど短い間隔で五本の連続発動ができるのは、この女魔法使いの技量の高さを示している。
一本目のアイス・ナイフは顔を狙った。
続く四本は胸を狙った。
ミノタウロスは、左手の斧を顔前に掲げて一本目を防いだ。
こしゃくなまねを、とシャルリアは思った。
(だけど、これでこちらの勝ちよ)
どんなモンスターも、顔を攻撃されるのはいやがる。
そして顔に注意を集中した次の瞬間に胸を襲う四本もの氷のくさびはかわせない。
胸を襲った攻撃魔法の痛みに驚いているあいだに、パジャの短弓から毒矢が飛ぶ。矢に気づいてかわそうとするかもしれないが、足は地に縫い付けられているので大きくは動けない。
アイカロスの矢は、強力な麻痺毒を持つうえに、狙いがはずれにくい祝福がかけられている。すぐにこの矢が怪物に突き刺さり、勝負は一方的なものになるだろう。
音もなくパジャが矢を放った。
ミノタウロスは、四本のアイス・ナイフに目もくれず、毒矢だけを左斧ではじいた。
四本のアイス・ナイフのうち三本は、ミノタウロスの腹と胸に刺さり、一本は左腕に刺さった。
しかしミノタウロスはひるまない。右手の斧で剣士を攻撃し続けた。剣士に攻撃の余裕を与えないように。
パジャは、あぜんとした。
(ひょっとして、意識して毒矢だけを防いだのか?)
(いや、んなばかな)
偶然にせよ、毒矢が不発に終わったのは痛手である。
アイカロスの矢は、神殿での儀式で作られる。高価なのである。一度撃てば魔力は消費され、二度と使えない。
今回の依頼は、ギルドに貸しを作るつもりで安い報酬に目をつぶって受けた。
消耗品の経費は、三人で均等に分担する約束だ。
(こんちくしょうめ)
(こうなったら、高めのアイテムをドロップしやがれ!)
シャルリアもレイストランドも同じことを考えていた。
2
ミノタウロスは、いらいらしていた。
足止めの魔法がかけ直され、剣士は右側に、スカウトは左側に回り、攻撃角度を広げたうえで、絶え間なく剣戟と攪乱射撃を繰り返してくる。
魔法使いが撃ってくる氷のナイフは一撃の威力はそれほどではないが、確実に傷を増やしていく。ミノタウロスが流した血は足下の岩場に血だまりを作っている。
うっとおしい。
うっとおしい。
うっとおしい。
一人一人は、さして強力な敵とは思えない。だが三人で連携されると、どうにも戦いにくい。こんな相手に翻弄されているおのれが、あまりにはがゆく、許せなかった。
3
三人の冒険者は、あせりを覚えはじめていた。
こんなはずではなかった。
確かにミノタウロスは、このあたりの階層では強力なボスモンスターであり、Dクラス冒険者がソロで討伐すれば無条件にCクラスにクラスアップできる。
しかし、しょせんは馬鹿力とタフさだけが持ち味の近接攻撃特化型モンスターであり、Cクラスでも上位にある三人がパーティーを組めば、らくに倒せる相手のはずなのである。
それなのに、攻めきれない。
毒矢ははじかれ、スカウトの矢玉はことごとく退けられた。
アイス・ナイフで着実に傷を増やしているが、ミノタウロスは、巧妙に体の中心線は守り続け、急所への被弾はない。血は流しながらも動きは少しもにぶくならない。まるで無限の体力を持っているかのようである。
アースバインドが効いているから何とか互角に戦えているが、どこまでねばれば倒せるのか見当もつかない。
レイストランドは、いつもであれば、相手を怒らせてからすきをついて手足を切り落としてゆき、最後に首を落としてミノタウロスを倒す。だが、このミノタウロスは、手足を切り落とせるすきをまったくみせない。
シャルリアは、いつもであれば、足止めしたうえで小刻みな攻撃を続け、相手が武器を取り落としてからフレイムボールでとどめをさす。しかし、このミノタウロスは、斧を取り落とす気配をみせない。フレイムボールの詠唱でじっとしているところに斧を投げつけられる危険は冒せない。
パジャは、ソロではミノタウロスと戦わない。相性がよくないからだ。それでも、シャルリアとレイストランドが一緒なら、万一にも負ける心配はないはずだった。
冒険者たちは、体力回復の赤ポーションと、精神力回復の青ポーションを断続的に摂取することで、かろうじて戦闘力を保っていた。
だが、物資には限りがある。
特に、シャルリアはアースバインドを放つたびに青ポーションを飲み、残数が少ないので、もうあまり長くは戦えない。
パジャの使う短弓は、二十階層のボスモンスターからドロップしたレアアイテムで、通常攻撃であれば矢の補給が必要ないが、そのぶん精神力を消費する。こちらも青ポーションの残量は多くない。
そして、いくらポーションを飲んでも、集中力は回復しない。心の疲労はたまっていくのである。やがて均衡は崩れるだろう。
どれほど攻防を繰り返したか。
ミノタウロスのいらだちは頂点に達した。
突然、防御の構えを解くと、顔をしかめて息を吸い込み始めた。
「いかん。黄ポ準備っ。ハウリングが来るぞ!」
三人はベルトのホルダーや小物入れから黄ポーションを取り出し、口に含んだ。
ブオォォォォォォォォォォォォォォォーーーーー!!
ハウリングが三人をとらえる。
冒険者たちは、すかさず口腔内のポーションを飲み込む。
効果はすぐに現れた。黄ポーションには、状態異常を解除する効果があるのである。
「やむを得ん。もう一本アイカロスを使うぞっ」
パジャの叫びに、シャルリアもレイストランドも、安堵感が腹の底から湧いてくるのを感じた。
二本目の毒矢を使うことで赤字はふくらむが、このつらい膠着状態を終わらせてくれるなら、もうそれでよかった。
だが、そのとき。
ブオォォォォォォォォォォォォォォォーーーーー!!
「えっ?」
「うわっ」
「ばかなっ」
二度目のハウリングが三人を襲った。
三人は、この攻撃を予期していなかった。
ミノタウロスのハウリングは、一度使用すると次に使用できるまで長いブランクタイムがある。事実上、一度の戦闘では一度しか使えない。
だから、これはあり得ない攻撃なのである。
まさか、このミノタウロスがレベルアップしたために、スキルもランクアップしていたとは、想像もできなかった。
三人は、何とか黄ポーションを取り出そうとするが、体の自由は利かない。
シャルリアは、杖の根本を口に押し込んで、かみしめた。
父から譲られたこの杖は、エルフがトネリコの木で作った物であるといわれている。魔除けの効果があり、また精神力を高める効果がある。もうエルフなど地上にいないのだから、これは本当に希少なアイテムなのである。
杖は状態異常にも効いた。体が動くようになったシャルリアは、一か八かフレイムボールの準備詠唱を開始した。
(いくらこいつでも、フレイムボールが直撃すれば、ただではすまないはず)
だが、シャルリアが何かを謀んでぶつぶつと呪文を唱えていることを、ミノタウロスはみのがさなかった。
ミノタウロスは、右手の斧をくるりと回すと身をかがめ、鋼鉄の斧頭で足下の岩を打った。岩は飛礫となってシャルリアに襲いかかり、顔に、胸に、腹に、足に、いくつもの穴をうがった。
詠唱は中断された。
冒険者たちは、さらに信じられない光景を目にする。
ミノタウロスは、ひときわ高く怒りの唸り声を上げると、アースバインドを引きちぎったのである。
魔法が砕け散る音が響き、束縛の効果は完全に消滅した。
シャルリアは、痛みでもうろうとしながら恐怖の目で怪物をみた。
ミノタウロスが、いったん発動したアースバインドを自力で脱することなど、あり得ない。
だが、現にミノタウロスは自由を取り戻し、自分たちは動くこともままならない。
まずレイストランドの首が飛んだ。
次にパジャが唐竹割にされた。
最後にシャルリアがくしゃりとつぶされた。
こうして戦闘は終わった。
三人の死体は消え、あとには所持していたアイテムが残った。
4
ミノタウロスは、ある機能に気がついた。
きっかけは、三人の冒険者との戦いのあと、剣士の使っていた両手剣に興味を持ったことである。斧を置いて、剣を拾い上げようとした。そのとき、どういう意識の働きか、右手の斧を、ひょいと左肩の上に納めたのである。
手斧は、何もない空間に消えた。
斧が消えたことに驚き、そんなことをした自分に驚いた。いろいろ試してみて、左肩の上に、いわばみえない収納庫があって、物品をしまっておけるのだとわかった。
剣でも、杖でも、ポーションでも、銀貨でも、そのほか、試した物は何でも収納できた。
収納できる数や量には限りがあるようだが、今のミノタウロスにとっては充分な収納力だった。
取り出すときには、その物品を思い出しながら左肩の上をまさぐる。すると、その物品がつかめる。そのまま引き出せばよいのである。
それは〈ザック〉と呼ばれる機能だった。神殿で冒険者の恩寵職を授かると得られる能力の一つで、迷宮の外でも使える。騎士は〈ルーム〉と呼ばれる収納機能を、商人は〈カーゴ〉と呼ばれる収納機能を授かるが、〈ザック〉は取り回しのよさに特徴がある。そのぶん容量は少ないのだが、レベルの上昇にともなって増大する。そして冒険者はレベルの上がりやすい恩寵職だ。
そのみえざる収納庫を、戦利品置き場として使うことにした。
よい戦いから生まれた戦利品はおのれとともにあればよいと考えたのである。
この戦いで、ミノタウロスは再びレベルアップをした。
だが、戦いの記憶は苦い。自分はまだ戦い方を知らないと思い知らされたのである。
階段を上ってみよう。新たな敵に出遭うために。
そう思った。
階段に足を踏み入れようとすると、何ともいえない奇妙な感覚が身をつつんだ。その奇妙さを我慢して階段を上った。
九階層に上がると、剣戟の音が耳に入った。
階段の近くに横穴がある。音はその横穴から聞こえる。
穴をくぐると、なかは広い部屋になっていた。
豚のような顔をしたモンスターと、五人の人間が戦っていた。
モンスターの数も五匹で、長剣、槍、短剣、鉄棒、太い棍棒を持っている。人間がオークと呼んでいるモンスターだ。
対する人間は、剣を持った男が三人、杖を持ってローブをまとった女が一人、祈祷書を両手で広げて持っている女が一人である。
人間たちは、後ろに現れたミノタウロスに、気づいていない。
前衛の剣士三人は、よい動きをみせて、五匹のオークをふせいでいる。
杖を持った女は、ぶつぶつと呪文を唱え、「ライトニング」と叫んで杖でオークを指した。
すると杖から光弾が飛び出してオークを直撃し、オークの腕が吹き飛んだ。
すかさず、右側の剣士がそのオークの胸に剣を突き入れる。
オークが血を吐いて倒れ込む。
魔法使いは、またもぶつぶつ呪文を唱えている。
「ライトニング!」
今度は、中央の剣士ともみあっていたオークの腹をえぐった。
左側で二匹のオークを相手にしていた剣士が一匹の持つ短剣をたたき落としたが、もう一匹のオークが振り下ろした太い棍棒をよけそこねて、したたかに右肩を打たれた。
「回復よろしくっ」
負傷した剣士が叫ぶ。
神官の女が、「キュア!」と呪文を唱える。
祈祷書が、ぼわっと緑色に光る。
淡い緑の光が、一瞬、傷ついた剣士を包み込み、消える。
「ありがとっ」
中央の剣士は、横腹をえぐられたオークの下腹部に剣を突き入れると、ブーツでそのオークを蹴り飛ばした。蹴り飛ばされた先には、棍棒を振りかざして左側の剣士に襲いかかろうとしているオークがいた。
モンスター同士がぶつかって態勢が崩れるあいだに、中央の剣士が飛び込んで、棍棒を持ったオークの首を薙ぐ。傷の癒えた左側の剣士が、中央の剣士と位置を入れ替え、突っ込んで来たオークの槍を、剣でたたいた。
オークの槍が落ちる。
剣士の脇をかすめて、ライトニングがオークに突き刺さり、致命傷を与えた。
「おいおい、危ねえって、今のライトニング。かすったぞっ」
「大丈夫だって。ちゃんと狙ってるから、あんたを」
「俺を狙って、どうすんのっ」
「そこを、あんたがさっとかわせばオークを直撃できるってわけよ」
戦闘に決着がつき余裕が生まれたのか、冗談の応酬をしながら剣士が魔法使いを振り返った。
そして後ろの怪物に気づく。
かくん、と剣士のあごが落ち、目は驚愕にみひらかれる。
「み、み、み、み」
「水が欲しいんなら、三べん回ってわんって言いなさい。私はもう水持ってないけど」
「み、み、み、み」
「今日は一段と、カレンのロルフいじりが好調だね」
「うん。いい感じに絶好調だね」
残ったオークにとどめをさした二人の剣士が、笑顔で振り返る。
ともに、ミノタウロスに気づき、真っ青になる。
それをみて、魔法使いの女と後ろの女も振り返る。
魔法使いのカレンが、失神して倒れかかる。
剣士のロルフが素早く駆け寄って、抱き留める。
その隣では、神官のジョナが、へなへなと崩れ落ちる。
残りの二人の剣士は、剣を構える気力も失せたのか、ほうけたように怪物をみている。
この若い五人パーティーは、数日前に、Eクラスに昇格したばかりである。
Eクラスは、適正な職種で一対一なら六階層のモンスターに勝てるという程度の強さである。
連携のよさで、九階層で同数のモンスター相手に危なげなく戦ってはいるが、彼らのほとんどはミノタウロスの一撃で死ぬ。
しかも今は、みた目ほどは余裕のない戦いを終えたばかりなのであり、後ろに立つミノタウロスの姿は死神にみえたはずである。
ミノタウロスのほうでは、よい動きと連携をする者たちであるから戦ってみるのも面白いかと思っていた。
だが、人間たちにみなぎっていた闘気は、すうっとしぼんでしまった。
戦闘になりそうもないので、興味を失い、振り向いて部屋を出た。
九階層は、オークの出現する階層であった。
オークは、単体では十階層の灰色狼より弱いと思われたが、その代わり、必ず群れで行動していた。
いろいろな武器を持っていた。
刃物の扱いは不器用であったが、膂力〈りよりよく〉があるため、棍棒などの鈍器には、意外なほどの破壊力が込められていることがあった。
十匹ほどの集団であれば、そこそこ戦いを楽しむことができたが、それもすぐに飽きた。
オークには、およそ連携というものがない。動きは単調で、攻撃は力任せである。その力さえ、今のミノタウロスに傷をつけるには及ばない。
フロアボスの部屋にも行き当たった。
この階のボスは巨大なオークであるが、ミノタウロスに比べれば小柄である。剣筋は粗雑で、何のひねりもない。
あっさり首をはねた。
長剣と銀貨がドロップしたが、拾おうともせずボス部屋を出て、階段を探した。
5
ミケーヌの街の冒険者ギルド長ローガンは、困惑していた。
事の起こりは、サザードン迷宮九階層と十階層をつなぐ階段付近でミノタウロスをみた、というDクラス冒険者の報告であった。
いうまでもなく、ミノタウロスは十階層のボスモンスターである。
ボスモンスターというものはボス部屋の中にいるものであり、その部屋を出ることはない。
これは初心者講習で冒険者の卵に最初にレクチャーする基礎知識の一環であり、サザードン迷宮にかぎらず、あらゆる迷宮に共通する常識である。
だから、最初に報告を聞いた受付の職員は、みまちがいか記憶の混乱であろうという所見を添えて、緊急度の低い案件として処理した。
それから三日ほどのうちに、十階層のあちこちで銀貨やポーションが放置されていたという噂話が広がった。
もともと十階層は人気の低いエリアである。迷宮にもぐらず、護衛や討伐や採取その他の依頼で生活する冒険者にとっては、ミノタウロスを倒すだけでCクラスが取れ、依頼請負の幅が広がるというのは魅力的であるが、その場合、狼は必ず回避する。
それなのに、十階層で狼を倒して回っている物好きがいる。
ドロップ品を放置したままで。
ローガンは、ギルド職員たちに、十階層に関する情報を集めるよう命じた。
するとまず、エリナという女戦士の冒険者メダルと残留アイテムが、十階層のボス部屋の前で回収された、という記録が出てきた。
ボスモンスターに戦いを挑んで敗北しボス部屋の付近で力尽きて死ぬ、というのは時々は起こることであり、これ自体は異常な出来事ではない。
しかし、マルコという剣士がミノタウロスをボス部屋の外でみかけたという報告は、事実であるとすれば異常な出来事である。
「ミノタウロスが灰色狼を倒してるのか?」
どうやったらボス部屋の外に出せるのかは思いつかないが、強力な支配呪文などを使えば、ミノタウロスに狼を攻撃させることは可能かもしれない。そんなミノタウロスが徘徊しているとすれば看過できない。
(とにかく調査してみるか)
ローガンは探索依頼書を書いた。
依頼者は、ギルド長ローガン。
請負資格はCクラス以上。
依頼内容は、十階層を調査しミノタウロスの所在とようすを確認するとともに、不審を感じたら討伐すること。
冒険者たちがたむろする一階に降りる。
依頼掲示板の前に多くの冒険者がいる。
そのなかにパジャの姿があった。
優秀なスカウトであり、この任務には、まさにうってつけである。
「パジャ」
「お、ギルド長様じゃねえか」
「ちょうどいい。この依頼を受けてくれんか」
「どれどれ。ほう? なんでまた牛頭なんぞを調べるんだ?」
ローガンは、事情を説明した。
「なるほど。事情はわかったけど、この報酬、ちと安すぎじゃねえか?」
「ミノタウロスがボス部屋にいて、異常が何もなければ、それを報告するだけでいいんだ。今のところ明らかな問題が確認されとるわけではないから、これ以上の報酬は設定できん。わしに貸しを作ってみんか」
「ほう。あんたに貸しかい。悪くねえな。わかったぜ。請けさせてもらう」
「その話、あたしたちも、かませてもらえないかしら」
横から割り込んできたのは、魔法使いのシャルリアだ。
その後ろに剣士のレイストランドがいる。
ともに、まもなくBクラスに上がるであろうCクラス冒険者である。
「うげっ? シャルじゃねえか。冗談よせよ。この報酬、二人で分けた日にゃ、赤字になっちまう」
「三人よ。レイも行くわ。依頼報酬は、あんたが一人で取ればいい。ドロップ品は山分けで。あたしたちは、ギルド長への貸しができればそれでいい。その代わり、報告はあんた一人でしてね。牛頭を倒したら、あたしたち二人は下に行くから」
「あ、そういうことかよ。お前ら、はなから下で狩りするつもりだったな? 行きがけの駄賃てわけかい」
「ええ。レイと三十二階層で狩りをするの。転送サービスを使うか、悩んでたのよ。高いからね。十階層に寄って以来を済ませて、あとは走って降りることにするわ。ギルド長、それでいいわね?」
いいも何もない。
シャルリアとレイストランドなら、それぞれ一人でもミノタウロスを撃破できる。
この二人がいれば、パジャは毒矢を節約できるだろう。
そういえば、レイストランドはミノタウロスのレアドロップを狙っていると聞いた覚えがある。もしかして、最初からミノタウロス討伐は予定のうちだったのかもしれない。
シャルリアとレイストランドだけでは調査の精度に不安が残る。この三人で行ってもらえれば言うことはない。
「むろんだ。よろしく頼む」
「だって。パジャ、よろしくね。あ、あと、消耗品は割り勘ってことで」
三人は、迷宮に入って行った。
6
半日が過ぎてもバジャは帰らず、ローガンがいやな予感を募らせていたころ、ギル・リンクスが訪ねてきた。
大魔法使いギル・リンクス。
辺境の孤島に生まれ、数々の冒険で名を上げ、ついにはバルデモスト王国の魔法院に招かれ魔法院元老にまで上りつめた男。
悪魔を封印したとか、古竜を使役するとか、天界の反逆者を殲滅したとか、尾ひれのついた武勇伝が、まことしやかに語られている。
大陸北部に広くその名を知られ、バルデモストのこどものおとぎ話では、大魔法使いといえばギルを指す。
そんな伝説級の人物でありながら、少しも驕るところがない。
思うままに贅沢のできる立場であるのに、財や権力にはみむきもせず、世界の平和と人々の幸福のために尽くし続けている。
物静かで思慮深い性格をしており、基本的には研究中心の生活をしているが、事あればどんな困難にも平然と立ち向かう胆力と行動力の持ち主である。
ローガンにとっては、若き日に冒険をともにした盟友であり、冒険者としての心得を一から教えてくれた良き先輩でもある。
なぜかギルはバルデモストの王に厚く信頼されている。
それもあって、ギルドの顧問に就いてもらっている。
「ギル、久しぶりだな」
「うむ。王宮からの依頼で、マズルーの魔道研究所の手伝いに行っておったのじゃ。帰国報告に参内したが、王が夕食をしながら話を聞きたいということなのでな。いったんこちらにあいさつに来たのじゃ。おぬしも元気そうで何より、と言いたいが、何か心配事かの?」
「顔に出とったか。いや、実はな」
事の次第を説明した。
「シャルリアというのは、アイゼルの縁者であったかの?」
「娘だ。ああ、そうか。アイゼルはあんたの弟子だったか」
「そうじゃ。ふむ。では、一度、十階層に降りてみるわい」
そう言うと、ギルは消えた。
瞬間移動の魔法である。
適性の問題で、習得できる魔法使いは少ない。
たいていの場合、この魔法を使う魔法使いは、ほかの魔法がほぼ習得できない。このギルドでは、瞬間移動の魔法で冒険者たちを送り迎えする専門の魔法使いを二人雇っているが、いずれも戦闘力は皆無である。
ところが、ギルは、強大な攻撃魔法と、パーティー戦で役立つ付与魔法に加え、多層範囲探知や瞬間移動や、各種の高等補助魔法も使いこなす。範囲瞬間全回復魔法さえ習得しているらしい。
(まさに大魔法使いだな)
(それにしても、相変わらず身軽だわい)
ギルが消えたとき、ローガンの胸のつかえも消えていた。
だが、その安心は、ほんの短い時間しか続かなかった。
お茶一杯を飲む時間もなくギルが帰還し、三人の冒険者メダルをローガンに差し出したのである。
パジャと、シャルリアと、レイストランドの冒険者メダルを。
7
「十階層のボス部屋に、三人のメダルとアイテムが残されておった。ミノタウロスはおらなんだ」
どう考えても、三人は死んだとみるべきである。
しかし、ではミノタウロスはどこに行ったのか。三人と相打ちになったのだろうか。それならば時間がたてば再び現れるはずだ。
「アイゼルは、今この街におるのか?」
ザックから三人の遺品を出しながら、ギルは聞いた。
「さあ、どうかな。今、調べさせる」
事務員に調べさせたところ、依頼を受けてパダネル湿原に行っているということがわかった。帰還は何週間か先になるらしい。
「わしはそろそろ王宮に行かねばならん。この件には慎重に対応するのがよかろうの」
「わかった。ありがとう」
「うむ。ではの」
8
ギルが去ったあと、ローガンは物思いに沈んだ。
(とにかく情報だ。情報がいる)
(調査依頼を出そう)
そんなことを考えていると、事務長が入ってきた。
「ギルド長、九階層でのミノタウロス目撃情報があります」
「なにっ」
「若手の冒険者五人組です。今、一階に来ています」
「会ってみよう」
一階に降りてみると、目撃者というのは顔みしりの若者たちだった。
全員今年冒険者となったばかりだが、バランスもよくチームワークも高いチームである。覇気と向上心を持ち合わせており、ローガンは密かに将来を楽しみにしている。
五人は、せっかく重要な情報を提供したのに、まともに取り合ってもらえないのでふてくされていた。だが、ギルド長みずからが興味を示して話を聞いたので、すっかり機嫌を直した。
わかったことは、五人を簡単に殲滅できたはずなのに、ミノタウロスが攻撃を仕掛けなかったということである。
(それにしても、九階層だと?)
何かのまちがいではといいたいところであるが、この五人がそろって勘違いしているとは考えにくい。記憶も話しぶりもしっかりしている。
とすれば、このミノタウロスは明らかに異常である。階層を越えて移動するモンスターなど、あり得ない。
そもそも、迷宮のモンスターは、上の階層も下の階層も認識できない。移動できるという発想もないし、実際にもできない。
人間にとっての天界や冥界のようなものなのだろうか。
階段自体みることはできず、目の前で冒険者が階段に移動すると、消えたように思うという。無理に移動させようとしても、階段に踏み込んだモンスターは死んでしまう。
実は、迷宮の階段というものは基本的には人間にもみえないのである。
一階層には誰でも入れるが、二階層はみえない。騎士や冒険者などの恩寵職を得たときはじめて、階段をみることも足を踏み入れることもできるようになる。
(もしも、モンスターが階層を越えて移動できるようになったとすれば)
(それじゃ、まるでモンスターの冒険者じゃないか)
第4話 死闘
1
パーシヴァルは深層での戦いを終え、地上目指して帰還の途次にあった。
帰還といっても、強力なモンスターの徘徊する回廊をいくつも抜けてくるのだから気は抜けない。それがまたパーシヴァルにとっては修業になるのだ。
四十九階層までたどりついたパーシヴァルは、食事を取り、休憩をした。
(今回の探索は有意義であった)
(九十六階層まで到達できたし)
(巨大な敵と戦う際のエンデの盾の使い方にも)
(より習熟することができた)
メルクリウス家には、五つの秘宝が伝わっている。
魔法を任意に消去する〈アレストラの腕輪〉
状態異常や毒から身を守る〈カルダンの短剣〉
攻撃魔法を撃てる〈ライカの指輪〉
物理攻撃を相手に反射する〈エンデの盾〉
魔力吸収と隠形の力を与えてくれる〈ボルトンの護符〉
パーシヴァルは、階層によって秘宝を使い分け、秘宝を使った戦い方を工夫している。
実際のところ、五つの秘宝の力を完全に解放すれば、すぐにでも百階層にたどりつくことは可能だろう。
だが、それでは百階層のボスであり迷宮のぬしであるメタルドラゴンには勝てない。
それどころか、百階層の回遊モンスターであるバジリスクとヒュドラにも勝つことはむずかしい。
だからパーシヴァルは、じわじわとおのれの地力を高めつつ、秘宝の使い方を研究しているのだ。
いずれ百階層に行く。
そしてメタルドラゴンを討伐する。
誰にも邪魔されずに、一人で心ゆくまで戦って。
それはなんと心躍る目標であることか。
もしもパーティーを組んでいたら、とうにその目標は果たせていただろう。
ともに迷宮を探索する仲間をみつけようとしたことがないわけではない。
だが、だめだった。
なるほど強力な魔法使いはいた。熟練の癒やし手もいた。感心するほど器用に戦う者もいた。
けれども彼らとの戦いは美しくなかった。
勝ちさえすればどんな戦い方をしてもいい、とはパーシヴァルは思わない。
磨き抜かれ研ぎ澄まされた戦いこそが、パーシヴァルの求めるものだ。
その目的意識を共有する仲間をみつけることはできなかった。だから今もパーシヴァルは一人だ。そのことに不満はない。
休憩を終えたパーシヴァルは、身に着けていたアレストラの腕輪とカルダンの短剣を、〈ザック〉に収納した。そして、履いていたブーツを脱いで、〈愚者のブーツ〉に履き替えた。
愚者のブーツはカースド・アイテムの一種で、装着すると身体能力が著しく落ちる。それをパーシヴァルは訓練用に使っていた。
ここから上の階層では、モンスターはパーシヴァルを襲わない。迷宮のモンスターというのは、自分より圧倒的に格上の相手は襲わず、逃げるのである。
下層での連戦で体は疲れ切っているが、幸いこれといった外傷はない。だから赤ポーションを飲まずに迷宮を出ることができる。
赤ポーションを飲めば怪我は治り疲労も取れる。だが、自然治癒や自然回復にまかせたほうが、成長度は高い。
愚者のブーツを履いてここからの四十九階層を駆け上ることで、体に徹底的な負荷をかけるつもりだ。
愛剣をしまって、無造作に取り出した剣を腰につけた。とうてい業物とはいえないなまくらな剣だが、それでかまわない。ここからは戦闘は発生しないのだから。腰に剣を吊らずに走っても戦闘の鍛錬とはいえないから吊るだけのことである。
迷宮を出て妻と子に会う。その瞬間こそ、パーシヴァルが生きていることの喜びを真に実感できる瞬間である。
重い体に鞭打って、パーシヴァルは走り始めた。
2
階段から八階層に踏み入ったミノタウロスは、何かが自分めがけて飛んでくるのを察知した。とっさに右手の斧でその何かを防ごうとしたが、まにあわなかった。
飛んできたものはナイフだった。ナイフはミノタウロスの腹にわずかに刺さったが、たくましい筋肉を深く貫くことはできず、地に落ちてからんと音を立てた。
「ギ、ギイ」
憎々しげにこちらをにらみつけているのは、ミノタウロスの半分ほどしか身の丈のない、毛むくじゃらのモンスターである。人間はこのモンスターをゴブリンと呼ぶ。
ナイフを投げたゴブリンの両脇から、二匹のゴブリンがミノタウロスに駆け寄ってきた。一匹は棍棒を、一匹は剣を持っている。
その接近速度は、灰色狼から比べればずっと遅い。たどたどしい足運びといってもいい。
ミノタウロスは、右側のゴブリンの剣の攻撃を右手の手斧で受け、左側のゴブリンの棍棒の攻撃を左手の手斧で受けようとした。
ところが左側のゴブリンは、ひょいと身をひねって右手の斧を棍棒でたたいた。それに気を取られた瞬間、右側のゴブリンが突き出した剣の先がミノタウロスの下腹部を襲った。
だが、ミノタウロスは素早く体を引いた。だからゴブリンが突き出した剣の先は、ごく浅く突き刺さっただけだった。
ミノタウロスは不快げな唸り声を上げた。実際、不快だった。
それは、自分の体に傷をつけた、この奇妙な生き物への怒りでもあったが、こんな緩慢な攻撃をかわしそこねた自分への怒りでもある。
怒りはこの怪物の本質的な力を呼び覚まし、増幅する。
すさまじい勢いで右の斧が振り上げられ、振り下ろされた。ゴブリンは、脳天から胸までを断ち割られ、後ろに吹き飛んだ。
目にもとまらぬ速度で左の斧が水平に振られた。ゴブリンの首が飛んだ。
ナイフを投げたゴブリンが逃げ出そうと背中を向けたが、ミノタウロスはその巨体からは信じられないような速度で駆け寄り、小さなモンスターの背中を蹴り飛ばした。前方にはじけ飛んだゴブリンは、岩壁にぶち当たり、脳漿と体液を飛び散らせた。
ミノタウロスの怒りは収まらない。怒りにまかせて歩き回り、みつけたゴブリンを血祭りにあげていった。
ゴブリンは、常に二匹か三匹で行動していた。稚拙ではあるが連係攻撃もしてくる。その攻撃はミノタウロスにとってまったく脅威ではないが、オークの単調な攻撃に比べると妙に変則的で、敵の攻撃を読むことの大事さをミノタウロスに教えた。
ドロップは銅貨か貧相な武器だが、何度目かの戦いのあと、赤ポーションが落ちた。ミノタウロスは、それまでと同じようにドロップ品に目もくれず歩き去ろうとして、ふと歩みをとめた。
脳裏を、ある場面がよぎった。
この赤いものを飲み込んでいた人間がいた。
あの人間は傷つき弱っていたが、この赤いものを飲むと、戦いの力を取り戻していた。
ミノタウロスは身をかがめて赤ポーションを拾うと、左肩の上のみえない収納庫にしまった。
ボス部屋をみつけてなかに入ったが、何もいなかった。実は少し前、この階層のボスは冒険者たちに倒されてしまっていたのだ。
二度ほど人間をみかけたが、こちらをみるなり逃げ去ったので、追わなかった。
戦おうとしない者を追ってもしかたがない。
歩いているうちに上層に続く階段をみつけた。
別の階層に行けば別の敵がいる。
そのことにミノタウロスは気づいていた。
飢えは治まらない。どうすれば治まるのかわからなかった。
3
「今度は八階層だと?」
ローガンのもとに目撃情報が寄せられた。いまやミノタウロスに関する情報にギルド長が関心を寄せているということは、ギルド職員全員が知っている。だからこの情報も、すぐに伝えられた。
「そうか。そいつらはミノタウロスをみて、すぐ地上に逃げ帰ってきたのか」
ミノタウロスは単独だったという。操っている者が近くにいたようすはない。
そしてミノタウロスのほうからは攻撃してこなかったという。
「ふむ? どういうことだ」
ローガンは、パジャとシャルリアとレイストランドが残したアイテムも調べた。
ポーションの残数が少ないことから、長時間にわたって激しい戦闘が行われたのではないかと推測できたが、それ以上のことはわからない。
「あの三人が、ミノタウロス相手にてこずるというようなことがあるのか? まして全滅などということが」
そのミノタウロスが、たまたま強力な個体であったとしても、あの三人であれば足止めしておいて逃げるぐらいのことはできる。最悪の場合、一人か二人の犠牲が出ても、誰かは生還できる。
百歩譲って、何かのトラブルがあって全滅したとしても、パジャが何の情報も残さず死ぬというのは、いったいどういうことなのか。
あの三人が戦ったのは、本当にミノタウロスだったのか。
ローガンは事態をうまく飲み込むことができずにいた。
4
七階層に移動したミノタウロスは、くんくんと匂いを嗅いでいた。
どうも奇妙な感じがする。その奇妙な感じはどこからくるのか。
これだ。
回廊の壁際にある岩。この岩から奇妙な感じがする。
ミノタウロスは、じっと岩をみつめた。
やはり奇妙だ。この岩から奇妙な気配がただよってくる。
ミノタウロスは右手に持った手斧を大きく振り上げて、奇妙な岩に振り下ろした。
岩は砕け散って、ぐしゃりとつぶれた。
ロック・スライムである。
岩に擬態しているときは硬く、この階層が適正レベルである冒険者には歯がたたない。擬態を解いてゼリー状になったときに、はじめて攻撃が通る。だがミノタウロスの持つ圧倒的な破壊力の前には、さすがのロック・スライムの防御力も、まったく役に立たなかった。
赤ポーションが残った。
ミノタウロスはそれを拾い上げ、ひょいと左肩の上の何もない空間に放り込んだ。
そうして回廊を歩きながら、四、五体のロック・スライムをたたきつぶしたあと、前方の曲がり角の向こう側に、気配を感じた。
人間だ。一人ではなく、三人ほどいる。
ミノタウロスは身構えた。
5
ネスコーはレベル二十五のアーチャーだ。剣士のロンド、付与魔術師のハルバラとパーティーを組んでいる。今日は二十八階層を探索するつもりで、下層に向かって移動しているところである。
(何かいる!)
立ち止まり、後ろの二人にも身ぶりで停止を指示した。
ネスコーは〈気配察知〉のスキル持ちなので、迷宮探索では先頭を進む。接敵したら後ろにさがる。
気配察知で感じた気配は、この階層で出合うようなモンスターのものではない。そろりそろりと足を進め、曲がり角の向こう側をのぞきみた。
ミノタウロスがいた。
あり得ざるものをみて、一瞬ネスコーは茫然自失した。次の瞬間、恐怖にとらわれた。
(あのミノタウロス、こっちに気がついてる!)
ミノタウロスの姿をした奇妙な怪物が現れたという噂は聞いていた。だが本気にはしていなかった。それだけに、遭遇してみて恐慌におちいった。
ぎらりと怪物の目が光った気がした。
ネスコーは、背に負った矢筒から〈ヴンカーの矢〉を取り出すと弓につがえ、曲がり角から飛び出した。
怪物が走り寄ってくる。
恐怖を必死で押さえつけ、ネスコーは腹部を狙って矢を放った。
ヴンカーの矢は怪物に命中し、爆発した。
「逃げろ! 引き返すんだ!」
ネスコーはもと来た方向に走り去った。ロンドとハルバラもそのあとを追った。
6
三人の人間に強者の気配は感じなかった。
だが人間が構えた武器にはよくないものを感じた。
だから武器を構えた人間を殺すために走り寄った。
人間が放ったものをかわすことはできた。ミノタウロスの反射速度は、ボス部屋で三人の冒険者と戦ったときより、はるかに向上している。
だがかわさずに、右の手斧で受けた。
飛んできたものが斧にぶつかると、爆発した。
ヴンカーの矢は、爆発半径は小さいが、威力は高い。
ミノタウロスの右手の指ははじけ飛び、斧も飛ばされた。
一瞬立ち止まり、落とした斧を拾おうとして、指を吹き飛ばされた右手では拾えないことに気づいた。それから人間を追おうとしたが、すでに次の曲がり角の向こう側に走り去っていた。
ミノタウロスは、ぐしゃぐしゃにつぶれた自分の右手をみた。これではよい戦いができない。
ふと思いついて、左手の斧を地に置き、左手を左肩の上に差し入れた。
指がつまみだしたものは赤ポーションである。
ミノタウロスは赤ポーションを口に放り込み、ごくりと飲み込んだ。
たちまちに右手の指が修復されてゆく。
もう一つ赤ポーションを飲むと、再生速度は加速した。
この場面を人間の冒険者がみたら驚愕したことだろう。
ポーションというものは人間にしか効かないのである。
動物や魔獣にポーションを飲ませても、何の効果もない。それは誰でも知っていることだ。
ところが今、赤ポーションはミノタウロスを癒やした。
ボーラ神の祝福によって冒険者となったミノタウロスは、ポーションの恩恵を受けることが可能なのだ。
それにしても、人間は奇妙な道具を使う。
そのことをミノタウロスは思い知った。
その人間は弱者であっても、使う道具が強者を倒すほどの威力を発揮することがある。
油断してはならない。
7
七階層のモンスターは、レッド・バットである。
ほとんど音も立てずひらひらと飛ぶこの小さなモンスターに、ミノタウロスはなかなか攻撃を当てることができなかった。
だがしばらく奮闘しているうちに、大振りの攻撃ではなく、肘から先の小さな動きで手斧を振ると、うまく当てることができるようになっていった。
攻撃さえ当たれば、このモンスターは簡単に死ぬ。
直撃でなくても、かすっただけでも死ぬ。
逆に相手の攻撃は、爪も牙も鳴き声も、まったくミノタウロスにダメージを与えることができない。
レッド・パットは、多くの場合、二枚か三枚の銅貨を落とす。
まれに赤ポーションを落とす。
拾った赤ポーションをミノタウロスは口に運んだ。
疲れがすっかり取れ、小さな傷も消えた。
そろそろ次の階層に移ろうかと考えていたとき、その敵と出会った。
8
十階層、九階層、八階層、七階層を、パーシヴァルは軽快に走り抜けた。愚者のブーツを履いてこの速度で走れるのは驚異的である。
(おや?)
六階層に上ったとき、妙なものが〈マップ〉に映ったのに気づいた。
〈マップ〉は冒険者が授かる技能の一つで、迷宮のなかで足を運んだ部分が脳裏に地図として浮かぶ。スキルレベルがあがると、その階層にいるモンスターや人間がマップ上に表示される。
〈ザック〉のなかにしまっているカルダンの短剣は、さらに優れた機能を持っている。身に着けているだけで、未踏破の階層でも精密な地図が得られ、モンスターや人間の配置がわかるのだ。
レッド・バットしかいないはずのこの階層に、少し強力なモンスターがいる。五階層への階段の近くだ。
少し興味を引かれたが、早く迷宮を出たいという気持ちが勝ったので、無視して通り過ぎることにした。そのモンスターの進路と一瞬だけ交差するだろうが、相手がこちらに気づいたときには、もう階段に飛び込んでいるだろう。
だが、五階層への階段にさしかかろうとしたそのとき、背中に殺気を感じ、抜剣しつつ反転して身構えた。
(ミノタウロス?)
なぜ十階層のボスモンスターがこんな所にいるのか。
非常識なことが起きている。だがもともと迷宮というのは非常識な場所だ。
深くは考えず、右手に構えた剣を敵に向けて攻撃を開始した。
このとき、〈ザック〉のなかにしまった愛剣を取り出そうとは思わなかった。取り出す必要を感じなかったのだ。
一撃で勝負は決まる、と思っていた。
だが、怪物の心臓を断ち斬るはずの攻撃は、胸を深く斬り裂くにとどまった。
(ほう?)
この怪物は、ぎりぎりのところで致命的な攻撃をかわしてのけたのだ。
パーシヴァルの端整な顔にはかすかな笑みも浮かばなかったが、目の光は輝きを増した。
(少しだけ楽しい戦いができそうだ)
パーシヴァルの脳裏からは、自分が疲れ果てているということなど消え去っていた。
9
風のように走り階段を上がろうとしたその人間をみたとき。思わず怒りが湧いた。
自分を無視するな、という怒りである。
その怒りは殺気となり、相手に突き刺さった。
すると相手は、いきなり身をひるがえして斬りりかかってきた。
その攻撃はあまりに速く、かわすこともできない。かろうじてわずかに身を引いたが、胸を深く斬られ、血が噴き出す。痛みとともに、怒りと喜びがミノタウロスの脳を満たした。
今まで出会ったどの相手よりも強い。段ちがいの強さだ。
剣はやっと長剣といえる長さで、驚くほど細身だった。怜悧な輝きを放っている。
一瞬、ミノタウロスは、恐れに似た感情を抱いた。
それはこの怪物が生まれてはじめて味わう感情だった。
その感情は、ただちに怒りにとって変わった。
すさまじい闘気を噴き上げながら、ミノタウロスは剣士に襲いかかった。
ずっと苦しんできた飢えを、この瞬間には忘れ去っていた。
10
意外にも、すぐには勝負はつかなかった。パーシヴァルは過去に一度ミノタウロスと戦ったことがある。その記憶が邪魔をした。
腕を斬り落とすはずの斬撃は強靱な筋肉にはじかれ、浅く腕を傷つけるにとどまった。
予想以上に素早く振られる手斧に、何度も攻撃を妨げられた。
〈ザック〉のなかの恩寵品を一つでも取り出して身につけられれば、ただちに勝負は終わるだろう。だがこの怪物は存外俊敏で目端が利く。そんなことをする余裕を与えてはくれないだろう。
となると、この長剣に可能な範囲で攻撃を組み立てるしかない。
それはそれで楽しい挑戦だ。
だが、斬りつけても斬りつけても怪物は闘志を失わない。むしろ層一層激しい戦いの炎を燃え上がらせてくる。
(あせってはならぬ)
(わざだ)
(今こそ磨き抜いたわざで戦うのだ)
剣尖は迷いなく虚空に円弧を描く。縦に横に、小さく大きく。
段々と怪物は反撃の余地を失って、壁際に追い詰められてゆく。
もう少しだ、と思ったとき、がくんと膝が砕けた。
(いかん!)
さしもの超人的な肉体も、限界を超え悲鳴を上げている。
パーシヴァルは小刻みな斬撃を素早く連続的に繰り出した。
怪物が半歩下がる。
呼吸を合わせてパーシヴァルも後ろに跳びすさった。
そして左手を腰の小物入れに伸ばす。
赤ポーションを取り出すためだ。
11
細剣をふるう、その剣士の姿は美しかった。
あざやかな剣さばきに翻弄され、ミノタウロスは体中のいたる所を切り刻まれたが、急所だけは守りきって持久戦に持ち込んだ。
すると相手は変化に富んだ連続攻撃を繰り出してきた。
反撃はむずかしくなり、徐々に後ろに追い詰められてゆく。
これ以上追い込まれてはならない。
そう思ったとき、剣士は一瞬態勢を崩し、それから急に手数を増やして踏み込んできた。
ミノタウロスは、半歩下がって態勢を整える。
剣士は、素早く後ろに跳んで距離をとり、左手を腰の小物入れに伸ばす。
ミノタウロスは、両手の斧で地面の岩つぶをはじき飛ばしながら、細剣使いに接近した。
細剣使いは、剣で三個の飛礫を斬り飛ばし、左手で二個の飛礫をさばいた。
そのほかの飛礫は体にかすらせもしない。
だがそのとき、左手でつかもうとしていた何かが小物入れから飛び出して地に落ちた。
赤ポーションである。
こいつは疲れている、とミノタウロスは思った。
それは判断とか分析ではない。嗅ぎ取ったのである。
ミノタウロスは、休みを与えないという戦術を選んだ。
剣士が飛礫をさばくあいだに、ミノタウロスは斧の間合いぎりぎりの位置まで接近した。
その間合いを保ち抜くつもりである。
斧と腕を合わせた長さは、剣士の剣と腕を合わせた長さより、少しまさっている。
この間合いを保って両手の斧を振り回し続ければ、剣士は防御に追われ、攻撃はしにくい。
剣士は、何度も距離をかせごうとしたが、そのたびに、ミノタウロスは無理をしてでも阻止した。
一度など、深く踏み込んできた剣をわざと脇腹で受けてタイミングを狂わせることもした。
思惑が狂って苦しいはずなのに、剣士の無表情な顔にわずかな笑みが浮かんだようにみえた。
そのあと剣士は戦術を変えた。
距離を取ることも赤ポーションを使うことも諦めたのか、ミノタウロスが要求する間合いに敢えて応じ、喉と心臓を狙ってきたのだ。
すさまじい勢いの剣戟が続く。
ミノタウロスは、顔を切り刻まれても、のけぞることはしない。
のけぞってしまえば、腕が伸びきり、斧の扱いにゆるみがでるからである。
胸は血だらけだが、決して後ろには下がらない。
この距離を保つかぎり、どれほど表面の皮や肉を削り取られようと、厚い胸板の奥にある心臓には届かない。
ミノタウロスは、もはや全身血まみれだ。
ミノタウロスの胸から噴き出る血を浴び、剣士も真っ赤にそまっている。
目にも血が飛び込んでいるが、剣士は一瞬たりと目を閉じることはしない。
これほど長い時間、ミノタウロスの間合いで戦いながら、ただの一度も斧を身に受けていない。
こいつは、たいしたやつだ。
ミノタウロスが剣士に感じた思いは、人の言葉でいえば尊敬に近かったろうか。
とはいえ人間の体力には限りがある。
ひときわ激しい連続攻撃で、斧を持つミノタウロスの両腕をずたずたにしたあと、一瞬、息苦しげに剣士の動作がゆるんだ。
次の瞬間、右手の斧が剣士の肩口に食い込んだ。
剣士が大きくよろける。
目は力を失っていないが、目の周りが黒ずんできている。
ミノタウロスが息を詰めて連続攻撃をすると、珍しくまともに細剣を斧に打ち合わせて、攻撃をはじいてきた。
かわしたり、そらせたりするだけの余裕がないのであろう。
そのまま押し込まれて、剣士は転倒した。
左斧が、剣士の左足をすねの上の部分で断ち切った。
ミノタウロスは、さらに一歩踏み込んで胴体に右斧を打ち込もうとした。
すると、神速の剣が、ミノタウロスの左足を大きく薙ぎ、そのまま円を描きつつ、なおも速度を上げて、足をかばって態勢を崩しかけたミノタウロスの首を刈った。
危うく首をひねって致命傷をまぬがれたが、首から血潮が噴き出る。
その血潮は、そのまま剣士の下半身に降りそそぐ。
もはや、ミノタウロスの血と、剣士の血は混ざり合って区別もつかない。
首をひねったため大きく態勢を崩したミノタウロスは、剣士の体の上に倒れかかる。
細剣がくるりと反転して、血を噴く首筋に迫るのがわかる。
ミノタウロスは、剣士の体に身を寄せつつ、左肘で右手を押さえ込んだ。
細剣は、側頭部を浅く斬り裂くにとどまった。
ふとみると、剣士の左手に、ポーションがにぎられている。
先ほど落としたポーションである。
いつのまに。
油断もすきもないやつだ。
ミノタウロスは、右手で剣士の左手を払った。
ポーションは、剣士の手を飛び出し、岩壁に当たってつぶれて散った。
ミノタウロスは、素早く右手で斧を握り直し、背中に回す。
キュイン!
と、剣が斧にはじかれて鳴った。
剣士が剣を引き戻す。
ミノタウロスは左手の肘で剣士の胸を強く押し、その反動で起き上がる。
喉首のすぐ前を剣尖が通り過ぎる。
剣士は身を起こそうともしない。
もうそれだけの体力がないのであろう。
両目を閉じて細剣を体の上に横たえている。
ミノタウロスは、頭の側に回り込もうとする。
音も立てず、光の軌跡だけをみせて細剣がふるわれた。
まるでスローモーションのようだった。
細剣が、きれいな円を描いた。
ミノタウロスの右足首が、なかばまで切り裂かれた。
細剣はとみれば、いつのまにか剣士の胸の上に戻っている。
赤黒くそまった岩場と、モンスターと、人間と。
そのなかで、細剣だけが、血にまみれつつ血のりをはじいて、銀色の美しい光を放っている。
剣士は眠っているようにみえるが、不用意に間合いに踏み込めば、ただちに斬り裂かれてしまうだろう。
満月のように美しいあの円弧は、この剣士の絶対制空権なのである。
ミノタウロスは迷った。
このまま待てば、やがてこいつは死ぬ。
赤ポーションの使用さえ許さねばよい。
待つべきだろうか。
だが、次の瞬間、自分の愚かしさに笑いがこみ上げる。
ばかか、俺は。
俺が求めるものは、勝利ではない。
俺が求めるものは、戦いだ。
俺が求めるものは、より強い俺だ。
今ここに、死に瀕してさえも俺を圧倒する、すばらしい敵がいる。
死ぬな。
少しでも長く俺を苦しめてくれ。
ミノタウロスは、剣の間合いに注意しながら、剣士の頭の側に回り込んだ。
体中から血が流れ出し、ずきずきする。
ミノタウロス自身の体力も、そうはもたない。
だが、頭や心臓を狙うのはむだだ。
剣だ。
やつの剣が生きているかぎり、やつを倒すことはできない。
やつの剣は、やつの命そのものだ。
ミノタウロスは、慎重に剣筋を予想しながら、相手の間合いに踏み込んだ。
キュイン!!!
剣士の攻撃は正確に敵の足を薙いだ。
だがその軌道にミノタウロスの斧が差し出された。
細剣が斧に食い込む。
素早く細剣が引かれようとするその刹那、ミノタウロスは渾身の力で斧をねじり上げる。
パッキイィィィィィィィィン!
細剣は、折れた。
剣士は薄目をあけて、顔の前に掲げた剣の残骸をみつめた。
ミノタウロスは、斧を剣士の心臓に打ち込んだ。
剣士の体が一瞬跳ね上がり、口から血があふれ出た。
剣士がミノタウロスをみた。
その眼差しには、怒りも、恐怖も、憎しみもなかった。
ミノタウロスは、剣士の目をみつめ返しながら、首を刎ねた。
ミノタウロスの体は変化を始めた。
レベルアップである。
すべての傷は消え去った。
そして怪物は恐るべき力を手に入れた。
そのときミノタウロスは、やつにつけられた傷がすぐに消えてしまうのは惜しいな、と思った。
剣とはこれほどまでに変幻自在なものなのか。
見事な敵であり、満足のいく勝利だった。
剣士が消えたあと、大量のアイテムがそこに残された。
剣士も、みえない収納庫を持っていたのだろう。
ミノタウロスは、深い充足感を味わいながら、アイテムのなかから腕輪と短剣を拾って左肩の上のみえない収納庫にしまった。
実はこの腕輪と短剣には、人間の魔法使いが最上位の所有印を刻んでいた。だから人間の常識からすれば、正当な所有者以外が〈ザック〉に入れることなどできるわけがない。これは、あり得ない光景なのである。
赤ポーションがどっさりと落ちていたので、ざくりと拾い、これもみえない収納庫にしまった。
傷は癒やされたものの、全身が、そして心が、ひどく疲れていた。
頭ももやがかかったようである。
ミノタウロスは、十階層の大部屋に戻った。
水を飲んで、眠った。泥になったように。
目が覚めると、湖の水を飲んだ。
心身の充実が実感される。
以前とは比べものにならないほど戦闘力は上がっている。
さらに劇的な上昇を遂げたのは知力である。
もともとモンスターの知力は低い。ミノタウロスは、そのなかでも特に知力が低い。
それが、レベルアップにより知力が上昇し、情報認識、理解、分析、記憶、総合処理などの能力が跳ね上がった。思考は冴え、生まれ落ちてからこれまでの出来事をつぶさに思い起こすことができる。
剣士との戦いを振り返り、勝てるはずのない戦いに勝ったのだと、あらためて理解した。そして、場面場面で相手が取り得た行動、こちらが取り得た行動を、頭のなかで幾度も繰り返して検証した。
すさまじい敵だった。
驚くべきわざだった。
ミノタウロスの脳裏には、剣士が虚空に描いた美しい円弧が焼き付いていた。
やがてミノタウロスは部屋を出た。
二匹の狼がいた。
飛びかかって来るところに斧を合わせて、ほとんど力も使わず一瞬のうちに二匹を倒した。こんな相手に多少とも苦戦したなど、信じられないほどである。
ミノタウロスは、再び階段を上り始めた。
このまま上に向かっても、もう強いモンスターはいないだろうが、行ける所まで行ってみようと思った。
あの剣士は上を目指して走っていた。
あの剣士の目指していた場所はどんな所なのか。
それをみてみたいと、この怪物は思ったのだ。
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