第12話 ガーラの娘
1
「お前な、旅に出ろ」
いきなり武芸の師であるローガンに言われ、アルスはとまどった。
「剣を磨くためですか」
「それもある。剣と、体と、心を鍛えるためだ」
「このまま迷宮に潜ったのでは、強くなれませんか」
「逆だ。強くなりすぎる。今でも強すぎるぐらいだ。十四の年から迷宮に潜らせたが、まさか二年でレベル六十五になるとはなあ。その年でSクラスだ。ドルーガのやつもたまげとった」
ドルーガはローガンの甥であり、現在のミケーヌ冒険者ギルド長だ。
ローガンがギルド長を退任してメルクリウス家の食客となったとき、後任のギルド長となったのは、事務長だったイアドールだった。やがてイアドールが五十四歳でギルド長を退任したとき、ドルーガが後任のギルド長となったのである。
ちなみに、イアドールはギルド長を辞めたあと、アルスの母が治めるバヌースト領の財務官僚となった。六十二歳となった今も健在で、ゴラン家の財務を総覧している。
年齢のことをいえば、壮健そのもののローガンは今年百五歳である。ごく一部の人しか知らないことだが、ローガンはドワーフ・ハーフであり、人とは寿命がちがう。そしてその甥であるドルーガは、生粋のドワーフである。はるか昔に絶滅したと思われているドワーフであることは、むろん周囲には秘密だ。
「天剣パーシヴァル様は十五歳でSクラスになられた、と聞きます」
サザードン迷宮で死んだメルクリウス家の先代当主パーシヴァルは、まさに天剣と呼ばれるにふさわしい天与の剣才を持つ人物だった。
「あいつは、十二歳で冒険者になった。足かけ四年かかった計算だ。だけどな。そんな話じゃないんだ。天剣の話が出たから、ついでに言うけどな。あいつも、はじめのうちは迷宮にばかりこもってたわけじゃない。外での冒険もずいぶんこなしてた。実際、Sクラスになったのは、ゾアハルド山賊団の討伐で圧倒的な手柄を立てた直後だ」
「はい。首領を含む幹部八人を、一人で倒されたとか」
「あんときはな、国からの依頼だったんで、さる貴族のぼんぼんが指揮を執ってなあ。腕はそれなりにあったらしいが、実戦経験のない騎士だったんだな。山賊ってのは、平地におびき出して罠にかけて討ち取るもんなのに、力押しで山の中のアジトを攻めた。まあ、そういうやり方もないとは言わんがなあ。一箇所に集めて一気に殲滅するのは悪くないし。それにしても、偵察を放ったり、本体の位置を気取られねえよう隠密行動したり、分隊を作って包囲していくとかなあ。いろいろ作戦てなあ、あるもんなんだ」
「よくわかります。そのようにしなかったのですか」
「しなかったんだ。日中に堂々と、全員一緒に、わいわいがやがやと進軍したそうな」
「静かにするよう、命じなかったのですか」
「命じたかもしれんが、演習気分の見習い騎士や荷物持ちのやつらじゃ、なかなか言う通りにはせんだろうな。大人数で、細い山道を行けば、隊列も長くなるし、統制なんぞ聞きやせん。第一、静かにするってなあ、ここぞというときにする命令だ。何時間も続けさせるような命令じゃない。まあ、それでも、アジトには着いた。確かに山賊たちがいる。それで、補助魔法をかけてから一斉に襲いかかろうとしたのはいいんだが」
「待ち受けられましたか」
「そうだ。罠を張られてた。あちらは、ちゃんと見張りを置いてたんだろう。役人を買収して情報を買ってたのかもしれん。とにかく、包囲網を敷いたはずの討伐隊は、包囲網の外から攻撃を受けた。矢玉と魔法攻撃の嵐だ。この時点で、かなりの被害が出た。だが、いいこともあった。指令系統が混乱して、指示ができなくなった」
「それは、いいことなのですか」
「いいことだとも。冒険者たちが、自分たちの判断で動けるようになったからな。冒険者たちのうちパーティー単位で参加してた者は、すばやく本来のパーティーを組み、そうでない者も少人数のグループに固まって、それぞれの判断で攻撃をのがれ、回り込んで、包囲している山賊たちを攻撃し始めた」
「パーシヴァル様もですか」
「いや。天剣は指揮官の近くにいた。指揮官てのが、天剣のおやじさんと知り合いだったんだな。行軍の途中で、天剣の素性に気がついて、おお、メルクリウス家の御曹司か、ってなことで、近くに呼んだわけだ。まあ、会話は繁らんかったと思うがな」
「なぜでしょう」
「いや、お前。なぜったって。そうか。お前は、天剣を知らんもんなあ。あいつは、とにかく、会話の成り立ちにくいやつだった。たいていの相手は、うむ、いや、そうか、の三語しか聞いたことないんじゃないかな。つまらんこと話しかけると、返事せんしな。そもそも、いつもすたすた歩いとるから、話しかけようと思ったら、もうあっちに行っとるんだ」
「無口であられたとは聞いています。でも、伯父御とはよく話されたとか」
「うん。わしが話しかけると、不思議と相手してくれたな。まあとにかく、指揮官の近くにいた。指揮官としては、最初に一斉に魔法攻撃を加えて、それからアジトに突っ込むつもりだったんだな。ところが、攻撃の直前、アジト全体を覆う防御魔法が発動した。あちらは準備万端だったわけだ。かなり強力な防御魔法だったらしく、魔法攻撃は、まったく効かなかった。指揮官は、あんな大がかりで強い魔法はわずかな時間しかもたないから、続けて魔法攻撃をするように、と命令した」
「ほう。悪い命令ではないように思います」
「うん。作戦としては正しい。しかも、降りそそぐ矢玉のなかで、盾持ちの騎士に魔法使いを守らせながら、そう命令したというんだから、まあ、まるっきりの馬鹿ではなかったわけだな。だが、味方はみるみる損耗していく。そのとき天剣が飛び出した」
「指揮官の命令なしで動かれたのですか」
「というより、指揮官の意を酌んだんだな。とにかくアジトにいるやつらをつぶす、ってことだ。結界にたどり着くと、アレストラの腕輪を発動させ、すっとなかに入った。敵は驚いただろうなあ。だが、すぐに建物から矢や魔法で狙われた。それを片っ端からかわした」
「魔法攻撃をかわした?」
「そうなんだ。わしが自分でみたわけじゃないが、その場にいたやつに聞いた。天剣に言わせると、狙って撃ってきた攻撃はかわせる、だと」
「!……狙って撃ってきた攻撃はかわせる」
「いや、そんな感動した顔すんな。ここは、あきれるところだ。やつは、アレストラの腕輪を持っているくせに、めったに使わなかった。このときも、魔法攻撃を吸収するためには使わなかった。天剣は、建物に飛び込むと、八人の敵を斬り伏せた。建物のなかにいたのは八人だけだったんだな。最精鋭の幹部たちだ。そのなかに頭目のゾアハルドもいた。ゾアハルドってのはSクラス冒険者だったんだがなあ。天剣が建物に飛び込んでからゾアハルドの首を剣に突き刺して出てくるまで、ほんとにあっというまだったそうだ。頭目が討ち取られたと知って、山賊たちの大方は、抵抗をやめた」
「ううむ。見事な武勲です」
「そのときの天剣は、今のお前よりレベルは低かった。だが、お前に同じことができるか?」
「いえ。私に、パーシヴァル様ほどの技量はありません」
「技量はあるよ。お前は、小さいときから、当代一流の武芸者たちに教えを受けてきた。わしも、お上品ではないが実践的な戦い方をたたき込んできた。技前でいうなら、お前は天剣に劣らない。しかしな」
「何でしょう」
「お前は、迷宮以外での実戦を、まだ知らない」
「はい」
「外での実戦は、迷宮とはまるでちがう。外じゃポーションは使えないんだ。外の戦いで腕を失い、足を失えば、それはもう二度と取り戻せない。右腕をなくしたやつが迷宮に入って赤ポーションを使っても、右腕は戻ってこない。右腕のない状態が、本来の状態とみなされるからだ。レベルアップによる体の造り替えも、外で失った手足を戻してはくれん。迷宮の外にも薬や治癒呪文はあるが、自然治癒を速め強化する以上のもんじゃない。まあ、たまにとんでもない神官や僧侶もいるが、なくした手や足を戻すのは無理だ」
「よくわかっています」
「精神力もそうだ。迷宮じゃあ、青ポーションをがぶ飲みすれば、いくらでも魔法や特殊スキルが使える。しかし、外じゃあ、そうはいかない。だから、精神力の減り方をうまく管理しなくちゃならんし、連戦はできん。肉体と精神の力が尽きたら、戦えない。戦いの最中に力尽きたら、死ぬんだ」
「はい。その点については、よくよく心に銘じてもいるし、訓練もしてきています」
「そうだな。だが、お前は、強くなりすぎた。このままじゃあ、恐れを学ぶことができん」
「迷宮でも、敵は恐ろしいです。まして、いつも一人で潜るのだから、恐れは感じます」
「だが、手強い敵でも、ポーションをがぶ飲みすれば倒せる。どんどん倒せば、みるみるレベルが上がる。レベルが上がると、恐ろしかった敵が簡単に倒せるようになる。迷宮というのはな、麻薬だ。いくらでも強い自分に進化していけるんだからなあ。強くなるほど、見返りもでかい。踏み込んでいけばいくほど、そこからのがれられなくなる。迷宮で感じる恐怖なんてのは、快感の調味料みたいなもんだ。怖い、痛い、苦しい。でも、大丈夫。頑張ってレベルを上げれば、何もかも解決する。そう考えちまう。それが体にしみついたら、もう、迷宮以外では戦えない」
「私の戦いは、まさに迷宮にあります」
アルスの父パンゼルが生前の功績によって侯爵位を追贈され、ゴラン家がバヌースト領に封じられたとき、喜んだのはアルスの母エッセルレイアの実家リガ家だ。エッセルレイアの兄リガ公爵ドレイドルは、バヌースト領に有力な家臣を送り込み、アルスをリガ家で養育し、アルスが成人するまでのバヌースト侯爵をリガ家から出そうとした。支援という名の乗っ取りである。
エッセルレイアは王に直訴した。夫パンゼルは迷宮のミノタウロスに約束しました。必ず帰ってきて決着をつけると。その約束は子たるアルスが果たすべきです。ゆえに、アルスは部門の家であるメルクリウス家に養育をしていただきたいと思います。アルスが成長し見事ミノタウロスを討ち果たしたとき、アルスをバヌースト侯爵にお任じください。それまで侯爵位は私エッセルレイアがお預かりすることをお許しください。それが直願の内容である。
これほど広く重要な土地の領主を女性が務めるというのは異例なことだが、王はその願いを許した。だからアルスは何としてもミノタウロスを倒すだけの力を身につけねばならない。
「そうだ。だが、今のお前では、あいつとは戦えん」
「私に、何が足りないのでしょうか」
「人として生きる悲しみのようなもんかな。天剣は、それを知ってた。お前のおやじも、それをよく知ってた。知らずにはいられなかった」
「命のはかなさを知る、ということでしょうか?」
「そうだ。そう言ってもいい。だが、今のお前にそれがわかってるとは思えん。やつを倒したあとは、お前は外で戦わなくちゃならんしな。視野を広く持つ必要もある。旅に出ろ。まだ時間はある」
「伯父御がそう言われるなら、そうします。どこに行けばよいでしょうか」
「どこでへも行け。といってもバルデモストじゃ、いつお前の正体が知れんともかぎらん。知れてしまえば、いろいろ面倒なことも起きるだろう。フェンクスじゃ、なおまずい。となると、まあ、南だな。いろいろ回ってみろ」
「わかりました。南に行きます」
「南でいろんな戦いを経験してみろ。まあ、南でも、素性がばれたら自由には動けなくなるかもしれんがな。お前にザーラという名で冒険者メダルを作らせたのも、こんなときのため、ってこともある。ドルーガがギルド長で、お前の戸籍を扱うのがイアドールの部下でなけりゃできん裏技だったがな」
アルスの恩寵職は〈騎士〉だ。恩寵職が騎士であっても神殿で冒険者メダルを発行してもらうことはできるが、そのメダルを鑑定すれば本当の名がわかってしまう。アルス・ゴランの名が漏れれば、行動は著しい制約を受けるし、妙な噂が広まらないともかぎらない。
だからザーラと改名した。ただし、王宮への報告はしなかった。本来なら一定以上の身分の貴族が改名した場合、届出をしなくてはならない。そして届出の内容は〈諸家系統譜〉に記載される。だが、家名のないただのザーラと改名したというような不名誉な記録を残すわけにはいかないので、届出を一時保留させてあるのだ。もちろん、いずれはアルス・ゴランの名に戻る。冒険者メダルの発行は冒険者ギルド付属の神殿で行ったし、サザードン迷宮に潜るについての情報提供や消耗品の販売、取得品の買い取りなどは、ギルド長ドルーガの権限で目立たないように運んでもらっている。
「戦って、少しでもレベルを上げればよいのですね」
「いや、上がらんと思うぞ。外では、そうそうレベルは上がらん。まして、そのレベルから上となると、尋常な経験値じゃ足りん。一年ぐらいいろんな所で戦って、レベルが一つ上がれば、速いほうだな。まあ、レベルのことなんか気にしなくていい。レベルが足りなけりゃ、ここに帰ってから上げりゃあいいんだ」
「はい」
「いろんな戦いをしろ。いろんな人や物に出合え。いろんな経験をしろ。そうしたら、この世界を知ることができる。旅をすりゃあ、自分自身を知ることができるんだ。いや、これは、消えちまった親友の受け売りだがな。ああ、それから、人前じゃあ〈ルーム〉を開くな」
「はい。わかっています」
冒険者はふつう〈冒険者〉という恩寵職に就く。そうすれば、〈ザック〉という収納機能を授かる。ザックは非常に取り回しのよい収納機能だ。一方、騎士という恩寵職に就けば、ルームという収納機能を授かる。ルームは共有や相続が可能なのだ。
ザックは、そこに手を突っ込んでアイテムを取り出すので、人からはみえない。ところがルームは、操作画面を表示させて目的のアイテムを選択して取り出すので、人前で使えばルーム持ちだとわかってしまう。しかも位置によっては操作画面がみえる。操作画面をみれば、アルスの所有するルームのおよその規模もわかる。
「剣も、必要なときに出すんじゃなくて、いつも腰につけとくんだ。ルームに頼らず、よく使う物は荷物袋に入れて、持ち歩け。お前の修業にもなるし、ザックの容量の少ない駆け出し冒険者だと思われるから、二重に好都合だ」
2
「目、覚めたか」
白く濁る意識のなかで、妙にはっきりと声が響く。
おなごの声だ、とザーラは思った。
ぱちぱちと、たき火がはじけている。
どこかの小屋のなかである。
たき火がみえる。ということは、目を開けているということである。
しかしザーラには、自分がいつ目を開いたのか、記憶がない。それをいうなら、いつ意識を失ったのかも記憶がない。
何か、とても懐かしい夢をみていたような気がする。
ザーラは、再び夢のなかに落ちた。
3
「お前、運、いい。雪のなか倒れれば、死ぬ」
ザーラは行き倒れになり、すぐにも凍死するところを、この少女にみつけられ、助けられたのである。
山の天気が変わりやすいことは、十二分に心得ていたつもりだった。まして、死の山と呼ばれるこのガーラ大山脈を侮るわけもない。
が、春の若芽がすくすくと伸びているこの季節に、まだ麓に近いこんな場所が急に吹雪で覆われるとは、さすがに予想を超えていた。
ザーラは臥所から体を起こし、少女がよそってくれたスープを食べていた。
塩の効いた干し肉。
じっくりと煮崩した木の根。
芋。
食べた物が体にしみ込んでいくのが、よくわかった。
「おいしかったです。ありがとう」
椀を置き、少女のほうを向いて、感謝を示す。
少女は、にこりともせずうなずき、ザーラが使った椀と自分が使った椀を、桶に汲んだ雪で洗った。
「名、あるのか」
「ザーラ」
無表情だった少女が、驚いたような目で少年をみつめ、それから大きな笑い声を上げた。
「あははははははっ。その名前、吹雪引き寄せた、よくわかる」
ザーラはきょとんとしている。少女は、少し困った顔をした。
「ザーラ、ボーラ、ガーラの伝え、知らないか」
「知りません」
少女は、一つの神話を教えてくれた。
4
ザーラという名の男神がいた。
ボーラとガーラは、その妹神である。
三柱の神は、それはそれは仲がよかった。
長いあいだ、地の平和を守り、人々に恩恵を与え、暮らしていた。
あるとき、ボーラがザーラに求婚し、二人は結ばれた。
二人のあいだには、娘が生まれた。
だが、ボーラは気づいた。
ガーラもザーラに求婚したかったのだと。
ボーラは娘を連れてどこかに去った。
ガーラは、自分だけが幸せになることはできないと思い、身を隠した。
二人の妹とわが子を失ったザーラは悲しんだ。
ザーラは天を吹く風となって、二人の妹とわが子を探す旅に出た。
神々が去り、恩恵は失われ、人々は苦難の時代を迎えた。
人々は神々を探した。
ボーラは地を裂いてその底に住んでいた。
ガーラは山に隠れていた。
ザーラのゆくえはわからなかった。
平地の民はボーラを祭り、山の民はガーラを祭った。ザーラを祭る民はいなかった。
ボーラは大地に、ガーラは山に、豊穣をもたらす。
けれども、ボーラもガーラも、ザーラと離れてしまったことを、今でも嘆き悲しんでいる。
ゆえに、神に近づけば、人は死ぬ。
5
はじめて聞く伝説だった。
ボーラ神のことはむろん知っているが、ザーラ、ガーラという二柱の神のことは聞いたことがない。
(ガーラ山脈の名の由来は、そういうことだったのか)
現在の自分の名がザーラであるという偶然を、何やらくすぐったく感じた。ザーラという名は、冒険者としての自分に自分でつけた名なのである。神話や伝説とは関係なく、本名のアルスをもじったものにすぎない。
「あなたの名は?」
「まだ名、ない。ゲリエの娘、呼ばれている」
ゲリエというのは、父の名であるという。
その返答により、少女がゾルゾガの民であることが、はっきりした。
(噂なぞ、当てにならないものだな)
平地の民が知る山の民、すなわちゾルゾガの民は、人というより半獣である。全身を剛毛に覆われ、人の言葉は片言しか話せない。山に住み、平地に降りることはない。
けもののように考え、けもののように生活する。山のことに詳しく、貴重なモンスターの革や、薬草、鉱物などを、平地の物品と交換してくれる。親が子に名をつけるのではなく、名が必要になったら自分で自分に名をつける。
だが、どうみても、目の前の少女はけもののようではない。
なるほど、けものの革で作った服を着ているし、化粧もしていない。髪は無造作に短く切り詰められている。顔も手足も、汗とほこりで汚れている。
それでも、このおなごはうつくしい、と少年は思った。
立ち振る舞いは躍動的で、しなやかである。言葉は確かに片言であるが、単語の選び方や話のしぶりには、確かな知性と、清明で快活な精神が感じられる。
何といっても、声と目だ。
力むわけでもないその声は、凛と響いて、耳にまっすぐ飛び込んでくる。
目と目をみつめあわせれば、驕りも怯みもないまなざしに、胸が射抜かれる思いがする。
傍らをみれば、少年の剣と荷物袋が置いてある。
あの吹雪のなか、少年の体を運ぶだけでも大変だったはずである。
(剣と荷物袋が、このおなごの心根を知っている)
「ここに一人で住んでいるのですか?」
少女は、父が三か月前に死に、集落にいられなくなったので、父の持ち小屋であったここに一人で住むようになったのだ、と答えた。
少女の母は、平地の人間であったということで、平地の言葉は、母に教わったのだという。
母親という人のことを聞こうと口を開きかけて、少年は、外の気配に気づいた。
6
少年が、何者かの気配を感じ、剣に手をかけたのをみて、少女は壁際に走り寄った。
つっかい棒をぐっと押して、光採りの窓を大きく開き、外の様子をみる。
吹き荒れた雪は、すでにやみ、春らしい柔らかな日差しが峰を照らしている。
じっと森のほうに目をこらす。
すぐに、窓を閉め、厳しい顔で弓と矢筒を手に取る。
そのとき、すでに少年はブーツを履き、出口を出るところだった。
「だめ!」
少女が鋭く叫ぶが、少年はそのまま飛び出していく。
ちょうど、一匹のモンスターが森から出てきたところだ。
エッテナである。
スノー・オーガとも呼ばれる、標高の高い雪山にのみ生息するモンスターで、人の匂いを嗅ぎつければ凶暴化し、襲ってくる。
長く白い体毛で顔も体も覆われており、特殊なスキルは持たないが、とにかく力が強く、また、物理、魔法いずれにも打たれ強い。人型のモンスターで、普段は二足歩行をする。身長は人間の倍以上あり、腕が非常に長く太い。モンスターレベルは五十前後とされているが、雪山でエッテナと戦うときは、Aクラス冒険者がパーティーを組むのが普通である。
距離は、およそ百歩。
吹雪はやんでいるが、積もった雪はまともな歩行を許さない。にもかかわらず少年は、素早く雪の上を走り抜けていく。戸口にたどりついて、少年の行方を目で追った少女は、驚きに目をみはった。
雪は、さほどの深さではないが、新雪は足にからみつくものである。その新雪の上をあのような速度で走ることは、山の民にもできない。
少年は、エッテナの間合いに入っても、すぐには攻撃を仕掛けなかった。
エッテナが右の腕を、ぶうん、と振り回す。
まともに当たれば、Aクラス冒険者の前衛であっても、大けがをし、あるいは死にかねない威力であるが、少年は身をかがめて攻撃をかわす。
怪物は、次に左手の攻撃を放ってきた。上から下にたたきつけるような攻撃である。
少年は、襲いかかってくる手と爪とエッテナの体全体の動きをみきわめながら、攻撃が当たる寸前ですっと左に身をかわした。
空振りした攻撃が大きく雪をはじき飛ばす。
怪物は、空振りした手を地につけたまま、その左手で地を引き寄せて体躯をぐっと前に運び、右手を斜め上から振り下ろしてきた。
遠くからみれば愛嬌のあるその顔は、至近からみれば、憎悪と怒りをたたえて醜く歪み、胆力のある冒険者といえど恐怖心を抱かずにはいられないほどの恐ろしさだ。
しかし少年は少しも動じない。
(平地の者はスノー・オーガと呼ぶが、角も生えていないし、顔の作りもずいぶんちがう。別種のモンスターなのではないのかな)
のんきにもそんなことを考えていた。
怪物の重心が左腕に乗り切ったとき、腰を落としつつ右手で剣を抜いた。
体重を乗せていた腕が斬り落とされ、エッテナの体勢が崩れる。
少年は、右前方に跳び上がりざま、怪物の首を一刀のもとに斬り落とした。
赤い血を首と左腕から噴き出しながら、怪物が白い雪の上に倒れる。
その向こう側に少年が着地する。
返り血も浴びず。
少女は、弓と矢筒を持ったまま小屋の出入り口に立ち尽くして、あぜんとしてこの光景をみていた。
(私の体と心は、こわばってはいなかったろうか。いつも通りに動けていたろうか)
ザーラは、倒れ伏した怪物を油断なくみつめながら、自分自身の戦いを振り返っていた。
7
少女は、エッテナの皮をはぎ、肉を切り分ける作業に取りかかった。ザーラはそれを手伝いながら言った。
「山を越えて大峡谷を抜けたいのですが、道を教えていただけませんか」
「言葉、言う。無理。上、雪いっぱい。吹雪来る。荒れる。何日も、何日も」
少女は自分を指さした。
「一緒行く。お前、狩り、手伝う」
少女は、大峡谷まで案内するから、狩りを手伝ってほしい、と言っているのだ。
ザーラは、一人で山越えをするつもりだったが、それは修業というより自殺であると、今さらながら気づかされた。
「ありがとう。よろしくお願いします」
獣の皮をはぐという作業ははじめてだったが、それでも、重い四肢を持ち上げたり、体の向きを変えたり、脂肪を雪で洗い落としたり、それなりに役に立ったようである。
迷宮のなかとちがい、外では倒したモンスターが消えたりしないとは知っていたが、モンスターの体のなかがこれほど暖かいとは知らなかった。熱いとさえ感じる。
「この皮は売れるのですか。それとも自分で使うのですか」
「売れる。エッテナ、珍しい。傷ない、よい。すごく高い、売れる。使える。大きい、柔らかい、暖かい。すごくよい物。お前倒したから、お前の物」
「あなたに差し上げたいが、失礼になるでしょうか?」
少女は、一瞬、手の動きを止め、少し低い声で言った。
「男、女、大きい毛皮、贈る。一緒、寝る、意味。それ、言うな」
まったく予想しなかった種類の答えだったので、意味を理解するのにしばらくかかった。
(ああ、そうか! 求婚になるのか)
「では、この毛皮を預かってください。そして、売ってください。売ったお金は、助けてもらったお礼に、受け取ってほしい」
少女はしばらく答えを返さなかったが、ややあって、ザーラのほうをみもせずに、小さくうなずいた。
それから、黙々と作業を続けた。
少女は、無口で、無表情で、指図がましいことは言わない。
動作をみながら、ザーラは自分で考え、少女の作業を助け、学んだ。
やり方を覚えたあとは、ナイフでの作業は、おもに少年が行った。皮をなめすことがこれほど大変なものだとは、思っていなかった。作業が終わるころには、肩や筋や腰や、至る所の筋肉が悲鳴を上げていた。少年の筋力レベルなら過大な負担ではないはずだが、やはり余分な力が入っていたのだろう。
草の汁を塗り込む作業は、少女がするのを見学した。
その夜は、薬草を体に貼り付けて眠ることになった。
8
少女は、〈ティリカの弓〉を持っていた。
弓と矢と矢筒が一体となった恩寵品で、サザードン迷宮の第二十階層などでドロップする。矢筒には矢が十一本入っており、消費するたびに少し時間を置いて矢の数が十一本に戻る。
使ってしまった矢は、そのまま消えてしまう。矢はほかの弓では使えないが、弓はほかの矢も撃てる。弓自身からは発射音がしない点も便利だ。
迷宮のモンスターからドロップする恩寵品は迷宮の外では役に立たない場合も多いが、ティリカの弓はちがう。
迷宮以外ではほぼ手に入らないアイテムだし、まずまずのレアドロップなので、買えば高い。あまり平地の金を持たない山の民にとっては、大変な貴重品にちがいない。
少女の持つティリカの弓は、父親の形見なのだが、父親が死んだとき村の男たちが売ってほしいと頼んだ。父の技を伝えるのが自分の仕事であると、少女は首を縦に振らなかったのだという。
(ルームに、いくつか弓矢が入っていたな)
ザーラは、ルームをオープンし検索をかけて弓矢を調べた。父パンゼルから相続したルームは巨大で、収められた品々は膨大だ。恩寵つきの弓も何種類もある。そのなかにティリカの弓があった。
「あ、私も持っていた」
取り出して少女にみせた。
同じ物を持っている喜びを共有したかったのだが、少女はなぜか表情をこわばらせ、ぷいと横を向き、しばらく口を利いてくれなかった。
そして、しばらくたってから、断固とした口調で言い放ったのである。
「弓矢、使う、教える!」
9
「やっ、やっ、やっ」
少女が走りながら、甲高い声で、獲物を追い立てる。
三匹の赤鹿が、少年が隠れている岩陰に近づいて来る。
ザーラは左手にティリカの弓を構え、右手で矢をつがえている。その右手には、さらに三本の矢が把持されている。
音もさせずに矢が放たれ、先頭を走る赤鹿の首筋に突き立つ。すかさず、二の矢、三の矢が放たれ、いずれも赤鹿の首を貫く。予備の一本は使わずに済んだ。
(よし。この速射法にも、だいぶ慣れてきたな)
心のなかで、自分の技に及第点をつけた。
最初に、このやり方を聞いたときには、首をかしげた。弓術の師からは、矢は必ず一本一本矢筒から補給するよう教えられたからである。
だが、山の民の弓術はちがっていた。少女によれば、せっかく当たる姿勢になっているのにそれを崩すなどもったいない、ということらしい。
ザーラの撃った矢は、いずれも急所を射抜いている。
少女は、赤鹿に近づくと、喉を山刀で掻き切った。流れ出る血が毛皮を汚さないよう注意しながら。
三頭すべてに血抜きの処理をすると、少女は、一頭の腹をさばいて、おいしそうに内蔵を食べ始めた。
これだけは、まだ、まねができない。
血抜きの次に、皮をはぎ、肉を切り分ける。いくぶんかは、あとで燻製にするだろう。また、いくぶんかは、しばらく生のまま取り置いて、焼いたり煮たりして食べることになる。
少女の持つ収納機能は、〈カーゴ〉だった。
これは、商人系の収納機能であり、かなり大きな物も入れられ、種類別の格納に便利であるうえ、何といっても生鮮食品が長持ちするという特性がある。
だが、少女の恩寵職が商人というわけではない。少女は、狩人であった。狩人がどうしてカーゴを持てるのか少し不思議な気がしたが、彼女の部族ではこれはごく普通のことらしい。
この赤鹿の皮は、いったんカーゴに入れて、あとでなめすことになる。
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ザーラは、少女に導かれ、女神の名を冠する山脈を登りながら、弓矢の技術以外にもさまざまなことを教わった。
狩りの仕方。
薬草や山菜の種類。
毛皮をなめす方法。
高山での体の慣らし方。
天気のみきわめ方。
雪のなかでの過ごし方。
ザーラのほうは、ルームから持ち合わせの食材を提供したり、平地風の料理を作ったりして、少女を楽しませた。
香りのよい粉をまぶした砂糖菓子を食べさせたときの反応は、傑作だった。
文字通り、表情が溶けたのである。
以来、菓子を食べるか、と少年が聞くと、少女は目をきらきらさせるようになった。そのようすはかわいい小動物のようだ。
(動物のようだという噂も、ある意味正鵠を得ていたかもしれないな)
少女の村のこと、家族のこと、山の民の暮らしぶりなどを、折にふれてぼつぼつ聞いた。
少女のほうでは、少年の立場や目的について、一切聞かなかった。
こんな山中を抜けるなど、まともな人間のすることではない。
バルデモスト王国から、南側の国々に行きたければ、ベラの道を通ってマズルーに行けばよい。マズルーから北エルガ街道に入れば、風光明媚なドナ湖のほとりを通って、大陸南西部に行ける。ベラの道は、ガーラ大山脈の西端に築かれた街道であり、大陸南北の唯一の架け橋といってよい。真冬以外はいつでも通れる。
大陸南東にあるロアル教国に巡礼するなら、マズルーに南接するイェナ大公国を抜けて、南エルガ街道に入ればよい。
バルデモストとマズルーに、それぞれ関所があり、入国には多少の税金が取られるが、両国が警備兵を巡回させているため安全度は低くない。
また、大陸の東端に用事があってベラの道では遠回りすぎるというのであれば、ガーラ大山脈を東に迂回して、辺境を通り抜ければよい。道らしい道のない所も多く、モンスターや盗賊に遭う危険も高いが、ガーラ越えをするよりは早く安全である。
山の民にさえ、ガーラに住む部族は多くない。大半の部族は、高地の南側の、より気候の温暖な、ゾルゾガの民のふところと呼ばれる山岳地帯を、移動しながら暮らしているのである。
ガーラを越えたい者がいるとすれば、それは、関所を通れない者、追っ手を振り切りたい咎人らである。ザーラもそのたぐいだと少女考えたとしても無理はなかった。
11
十日ほどで、一年中雪の消えない地帯に入り、それから二十日ほど雪の厳しい地帯を歩いた。
皮膚をさらさぬため、ガウガロという木の皮をほぐして作ったマスクで、顔を覆っている。隙間から視界も利くし、風も通る便利な品だが、ちくちくするのには、なかなか慣れなかった。
多くの獣を狩った。
少女は、毛皮は二人で均等に分ける、と言い張った。半分でも、すでに新しい小屋を建てて生活用具を一新して、なお余りある収穫だという。
二人は、暖を取るため、背中を合わせて寝ている。
明日は最大の難所を越えるという日、眠りにつきながら、ザーラは数日前のことを振り返っていた。
その日、二人は、四形鳥のつがいをみつけた。
四形鳥は、みる角度により四つのちがった生き物にみえることからそう名付けられた鳥だが、肉は寿命を延ばすといわれ、高く買い取ってもらえる。
無事に二羽とも獲ることができたが、その鳴き声と血の匂いが氷狼を招き寄せた。
氷狼は、モンスターレベルでいえば、灰色狼と同じ程度、つまりレベル十前後である。ダンジョンとちがって、外のモンスターには成長も学習もあるので、一概にはその強さを比べられないが、それでも、ザーラにとっては何十匹いても問題にならない敵である。
実際、近づいて来る気配も察知していたし、飛びかかってきた四匹のうち三匹はあっさりと斬り捨てた。四匹目の喉首に刃を走らせようとしたとき、探知スキルが、近づく狼たちをとらえた。たまたま近くに別の群れがいて、血の匂いを嗅ぎつけて集まって来たのだ。
(取り囲まれるとまずいな)
そう思った瞬間、右腕がこわばり、斬撃は浅く狼を傷つけるにとどまった。
すかさず左手で狼の顔の横から打撃を加え、そのあぎとから身をかわしたが、まるで何かの呪いでもかけられたように悪寒に襲われ、思考も動作も硬直した。
それは、わずかな時間のことであり、少女の活躍もあって、狼の群れは撃退できたのだが、夜寝るときになって、あれは何であったのか、と思い返した。
(いや。あれが何かはわかっている)
恐怖だ。
十四歳ではじめてサザードン迷宮に入った日、ザーラは第十四階層に到達した。それまで受けていた訓練は、それを余裕をもって可能にしてくれた。
帰り道に、第十階層で灰色狼の群れに襲われているパーティーをみた。助けに駆けつけたザーラは、傷ついた冒険者をかばおうとして、乱戦のなかで左手の指を三本噛みちぎられた。
すぐにポーションで治療し、敵を殲滅した。よい勉強をしたと納得し、そのことはそのまま忘れたつもりだった。
ところが今日、似た状況になって、思い出した。
一匹一匹はどうということもない。今のザーラなら、氷狼にまともに噛みつかれてもたいしたダメージは受けない。
だが、すばやい獣が大量に同時に襲ってきた場合、攻撃をすべてかわしきることは難しい。そして、迷宮の外では傷は蓄積し、取り返しのつかない深手にもなる。
ザーラには目的がある。果たさねばならない使命がある。果たすまでは死ぬことができない。手や足を失うわけにいかない。
だから氷狼が恐ろしくなったのである。
そんな自分をどうしたらいいのか、ザーラにはわからなかった。
12
「今から神域、入る」
そう言われて二日がたった。
神域では、決して血を流してはならない。できるだけモンスターに出くわさないようにし、もしも出くわしてしまったら、おとりを置いて逃げるのだという。おとりというのは、血抜きをした肉である。少女は、これを大量に用意していた。
今日一日で難所を越え、そのあとは比較的なだらかで穏やかなルートを下りて、一週間ほどで大峡谷に出られるのだというが、ここが今までと比べてそれほど難所だとは、ザーラには思えない。
だが、少女は、みるからに緊張した様子で、慎重に辺りをうかがいながら進んでいる。
(そろそろ休憩して食事を取りたいな)
ザーラがそう思っていたとき、離れた場所から物音が聞こえた。
山では音源の位置はわかりにくい。それでも、こちらかと思う方向に寄って斜面の下をみおろすと、谷底に続く切り立った崖のきわで、七人の人間が氷狼に襲われていた。
よく晴れて、見通しはよい。
平地の人間かと思われる服装の人間が四人。
うち二人は小さい。こどもだろう。
山の民と思われる服装の人間が三人。山の民は、ガウガロのマスクをしている。
平地の人間の一人は、顔にぐるぐると布を巻きつけている。
襲っている狼は十二匹だ。そのほか四匹が、すでに雪の上に屍をさらしている。
ちらとみただけで、助けの必要はないことがわかった。
顔に布を巻き付けた平地の人間が圧倒的な強さなのだ。体も大きく、幅広の大剣を軽々と振り回し、近づく狼を両断している。
三人の山の民も、的確に狼を倒している。
二人のこどもをかばっている人間は魔法使いであり、時々火弾を放って狼を仕留めている。
真っ白な処女雪の上に、狼たちが次々と赤い血の花を咲かせている。
「いけない。早く、ここ、離れる」
少女が、緊迫した表情でザーラの袖を引く。ちょうど最後の狼も倒された。少女の促しに従おうとしたそのとき、妙な物が現れた。
にゅるっ、と雪のなかから立ち上がったのは、真っ白で、奇怪な姿をしたモンスターである。大きな白布をすっぽりかぶったこどものような姿、といえば近いであろうか。手も足も目も口も鼻もみあたらず、体全体がふるふると震えている。
その奇怪なモンスターは、次々と雪のなかに現れた。
全部で十体いる。
人間たちを取り囲むように、身をよじりながらひょこひょこと移動していく。
三人の山の民が、何やら大声で指示を出し、都合七人の人間は、のっぺらぼうたちのいないほうに駆けていく。
モンスターのうち何体かが、雪のなかに潜るように姿を消す。
一瞬置いて、同じ数のモンスターが、人間たちの逃げ道をふさぐ位置に、にゅるっと出現する。
山の民が、それぞれの武器で、のっぺらぼうに攻撃を始めた。
が、突こうが切ろうが、雪のようなものが舞うだけで、ダメージを与えているようにはみえない。
幅広大剣の戦士は、追いすがってくるのっぺらぼうに斬りつけている。
こちらは豪快に、のっぺらぼうの頭の部分を斬り飛ばしたり、胴体を唐竹割にしたりしている。
しかし、斬られたのっぺらぼうたちは、しばらく動きを止めるものの、ふるふると揺れながら、すぐに復元してしまう。
ほどなく、のっぺらぼう十体は、七人の人間を完全に取り囲んでしまう。
後ろ側は切り立った崖であり、底はみえないほど深い。
のっぺらぼうたちの胴体に、ぽかりと赤い穴が開いた。
(口、か?)
のつぺらぼうたちは、真っ赤な口を大きく開けると、人間たちに噛みついた。
みるみる人間たちは傷だらけになっていく。
二人の平地の人間は、何とかこどもたちを守ろうとするが、のっぺらぼうたちは、ぐいーんと体を伸ばして噛みつくため、完全な防御はむずかしい。
山の民の一人が、のっぺらぼうの赤い口に山刀を突き込んだ。
のっぺらぼうは、ばりばりと青い火花を放ち、そして、ぱすん、と雪の粉を散らして消えた。
残り九体ののっぺらぼうは、一斉に動きを止めた。
そして、伸ばしていた体を縮めると、ぶるぶると激しく揺れ始めた。
のっぺらぼうたちの体の周りで、ぱりぱり、ぱりぱりと、青く小さな放電が縦に走る。
そして、九体ののっぺらぼうから、一斉に青い稲妻が放たれ、一体を倒した山の民に襲いかかった。
ばきんっ、という、大木がへし折れるような音がして、山の民は黒こげになって倒れた。
ザーラはルームを開き、検索をかけ、剣を取り出した。使い慣れた剣である。
雪の道を歩くための木の杖を収納し、一つの腕輪を取り出して装備する。
「だめ! 殺す、だめ! あれ、ガーラの養い子。殺す、ガーラ、怒る。だめ! 行く、だめ!」
「そなたは、ここで待てっ」
少女を振り切ると、ザーラは斜面を駆け下りた。
そのあいだに、さらに二人の山の民が死んだ。これで山の民は全滅である。
のっぺらぼうは八匹になっていた。
幅広大剣の戦士は男で、魔法使いは女だった。こどもは、男の子と女の子だ。家族なのだろうか。
こどもたちは、あちこちをのっぺらぼうにかじられ、血まみれになっている。
こどもたちをかばう女の傷は、さらに深い。
のっぺらぼうの一匹が、大きく口を開けて、男の子の頭にかじりつこうとする。
大剣の戦士が、その口に剣を突き入れて、のっぺらぼうを倒す。
残り七匹ののっぺらぼうは動きを止め、身を震わせて一斉に戦士に雷撃を放つ。
ばきんと音がし、火花が飛び散り、肉の焼ける匂いがするが、戦士は致命傷を受けたようではない。対魔法装備をしているのだろう。
だが、顔の包帯ははじけとび、頭巾も飛ばされた。その頭は無毛で、奇怪な入れ墨が刻まれている。目の下にも何かが刻まれている。
(ゴルエンザ帝国の剣奴《けんど》か)
ザーラはようやく現場にたどりつき、剣を抜くと、まずは、女とこどもたちを取り巻くのっぺらぼうたちを、素早く何度か斬り裂いた。
だが、のっぺらぼうたちはザーラには注意を向けない。
戦士に噛みつこうとしたのっぺらぼうがいたので、素早くその口に剣を突き入れて倒す。
残り六匹となったのっぺらぼうは、ザーラに雷撃を放った。ザーラは、左手の腕輪をかざして、これを消した。〈アレストラの腕輪〉は、魔法を消去する秘宝なのだ。
のっぺらぼうたちは、もう一度雷撃を放ってきたが、腕輪に消された。すでにのっぺらほうたちの注意は、完全にザーラに向いている。
「ここは私が食い止める。あなたたちは、急いでここから離れなさい!」
このガーラの養い子とやらが、これ以上出現しないという保証はない。自分だけなら戦えるが、四人を守りながらではむずしい。ザーラはそう判断したのである。
戦士は少しためらったあと、言った。
「すまん」
そして、女とこどもたちを促して、北の方角に走り去っていった。
丘の向こうに姿を消すとき、女がこちらにおじぎをしているのがみえた。
この間ザーラは、立て続けにのっぺらぼうたちに斬りつけたが、倒すことはしなかった。数を減らしすぎたとき、何が起きるかわからなかったからである。
のっぺらぼうたちの動きは、みなれぬものではあったが、さほど素早くはない。それに、斬り裂けばいったんは動きを止めることができるのだから、戦いには不安を覚えなかった。不安があるとすれば、この化け物どもを倒したあとにある。
のっぺらぼうたちは断続的に雷撃を放ってきたが、アレストラの腕輪がある以上、ダメージを受けることはない。ありがたいことに、のっぺらぼうたちは一斉に雷撃を放ってくれるので、対処はむずかしくない。
充分に時間を稼いだと判断して、残るのっぺらぼうたちを一匹ずつ倒した。すべての養い子たちが雪の粉となって消えて、さて何が起きるかとしばらく待ったが、何も起きない。
気がつけば、すぐそばに少女が立っていた。
真っ青な顔をしている。
ザーラは、剣のよごれを落とすと鞘に収め、笑顔をみせた。
「ガーラ神は、お怒りではないようだね」
そのときである。
13
ごごごごごごご、という地鳴りが聞こえてきた。
地面が揺れだした。
揺れは収まることなく続き、激しさを増してゆく。
ザーラと少女は抱き合って、揺れが収まるのを待った。
がらがらがら。
ばりばりばり。
雷鳴のようであり、破砕音のようでもある、けたたましい音が響き続ける。
(来る)
(何か、とてつもなく大きなものが、谷底から来る)
ザーラはその気配を感じていた。
それは、気配というにはあまりに圧倒的であり、巨大であった。
天変地異というべきエネルギーを持つ存在が、今、立ち現れようとしている。
晴天なので、遠く近く、あちこちの山の峰がみえる。近くの峰は揺れのため雪崩を起こし、斜面が崩れ始めている。
ザーラは口元を固く引き締め、起ころうとしている事態を厳しいまなざしでみまもっている。
切り立った崖の、その向こうに、巨大な女の顔が現れた。
ザーラと少女の立つ位置から崖までは、約二十歩。そのすぐ向こうに、目を閉じた美しい女の顔がある。
いや、すぐ向こうではない。
実際には、何百歩、あるいはそれ以上の距離がある。あまりに巨大であるため、すぐ近くにみえるのである。
また、女の顔というのも正しくはない。それは雪であり、氷であり、山そのものなのだから、女のような造形を岩肌に刻んだ白い氷の山、というのが正しい。
この底もみえぬ断崖の下から伸び上がってきたのだとすれば、その高さは、おそらく、バルデモストにそびえる、どの山より高い。
女の顔をした山は、さらに伸び上がっていく。
腰を越える長髪は、雪を頂く純白のつらら。
白磁の顔は、氷河を削りだした巨大な彫刻。
広大なすそ野を広げて立ち上がる姿は、白き夜会服をまとう貴婦人のごとくである。
その目と口が、ごわっ、と開いた。
開かれたそれは、ただの穴であり、闇そのものである。
静かな形相がゆがみ、恨みと苦しみと哀しみにそまる。
女の姿をした氷の巨大な怪物は、その口のごとき穴から絞り出すように叫びを放った。
い〜ふぉ〜うぉ〜い〜〜〜〜〜
聞くだけではらわたがねじ切れそうだ。
山々は、それに共鳴し、次々にこだまを返す。
さらに、それにかぶせるように、怪物が叫びを重ねる。
い〜ふぉ〜うぉ〜い〜〜〜〜〜
黒雲が立ちこめ、吹雪が舞い始める。
怪物はその黒雲を身にまとい、喪服をまとう狂母のごとき姿となって、身をくねらせる。
い〜ふぉ〜うぉ〜い〜〜〜〜〜
女怪の身もだえと叫びに応えるかのように烈風が湧き起こった。
烈風は、すさまじい勢いで雪を巻き上げ、ザーラと少女に襲いかかる。ザーラは身をかがめ、少女の背に回した手に力を込め、この烈風に耐えた。
烈風が通り過ぎたとき、少女は絶望を声ににじませて、それでも気丈に顔を上げ、ザーラに教えた。
「あれ、ガーラの娘。みた者、助からない。みな、死ぬ」
大地が揺れ始める。その揺れはまたたくまに増幅し、激しさを増す。山の上のすべてを振り落とそうとするかのような揺れだ。
ザーラは、右手で少女を支えたまま、左手でマスクをはぎ取り、毛皮の帽子と耳覆いを後ろにはねのけて、狂乱の態をみせるガーラの娘に向かって大音声で呼ばわった。
「神よ! 神よ! ガーラ神よ! ガーラの娘よ! わが言葉を聞きたまえ!」
激しい揺れのなかで、その両足はしっかりと雪の大地を踏みしめている。
吹き付ける雪にまっすぐ顔を向け、まなざしは力を失っていない。
「私はパンゼルの息子、アルス! またの名をザーラ。ザーラより女神ガーラとその娘御なる神霊に申し上げる!」
少女は、背中をザーラの右手に支えられたまま、朗々と神霊に物申すザーラの横顔をみつめた。
「神域を血でけがしたるは、わが罪。まことに相済まぬ。どうか許されよ。されどこれは、神々の愛し子たる人間を守らんがため、やむなく剣をふるいしものなり。決して、あなたがたと眷属を軽んじ、あるいは禍つ神と侮りて討ち祓わんとするものにあらず。怒りを収めさせたまえ」
少年から青年に変わろうとする年代特有の、のびやかで張りのある声が、吹雪を突き抜けて響くのを聞きながら、少女は、きっ、とまなじりを結び、背筋を伸ばし、巨大な神霊のほうをにらみつけながら、ザーラに寄り添って立った。
ザーラの言葉と思いを共にすると言わんばかりに。
いつしか巨神も二人をじっとみつめている。
「されば、私はいつかひとたび、あなたの剣となってあなたの敵を倒そう。疾く鎮まりたまえ、大いなる山の神よ! わが言挙げまつるを嘉し諾いたまえっ!」
高らかに起請の文言を告り終えると、ザーラは、右手の手袋を外し、中指の先を噛み切って、右手を虚空に差し伸べた。
指から流れる血は、一筋の赤い糸となり、風に巻き上げられて、荒ぶる神に吸い込まれていった。
だが、揺れは収まらない。わずかに収まりかけていた吹雪も再び激しさを取り戻した。
ザーラと少女は、立っていられなくなり、二人抱き合って、その場にくずおれた。
逃げるにも、視界も利かず、動くこともかなわない。
荒れ狂う吹雪にさらされ、地の揺れに右に左に転がされながら、二人はただじっと堪えた。
いったい、どれほどの時間が過ぎたろうか。
永遠に続くかと思われた天変地異は徐々に収まり、やがて山々は静けさを取り戻した。
空は晴れて、星がみえる。
とすれば、今は夜なのである。
ザーラと少女は、近くの岩の割れ目にテントを張り、ルームから手当たり次第に毛皮を出して敷き、身に巻き付けて寝た。
二人とも、これほどの恐ろしさと疲れは、はじめて味わった。
どちらからともなく抱きしめ合い、相手を求めた。
ザーラは、女の肌を初めて知った。
少女も同じであった。
ザーラは、腕の中の肌体から発せられる女の匂いに高ぶり、熱に浮かされたように、少女を愛しんだ。
いくど目かの交わりのあと、深い眠りに吸い込まれる前にザーラの心をよぎったのは、
(あの家族は、無事だったろうか)
ということだった。
14
翌朝起きると、妙に体調がよかった。
指の傷もすっかり治っている。
冒険者メダルを取り出してさわった。
他人の冒険者メダルの中身を知るには商人系のスキルである〈鑑定〉が必要だが、自分の冒険者メダルの中身はさわればわかる。
レベルが六十八になっていた。三つも上がっている。ガーラの養い子とやらには、それほど経験値があったのだろうか。
それにしても、いつレベルアップは起きたのか。ダンジョンでは、戦闘が終わった時点でレベルアップが起きるが、外では、神殿に行き〈誓言〉スキルを持つ神官か僧侶に祈ってもらわなければレベルアップは起きないはずである。
よくわからなかったので、とりあえず考えるのをやめた。
15
一週間後、二人は大峡谷に着いた。
少女は、ここから少し西にある交易所に行くという。
ザーラもそちらに行こうかとも考えたが、やはり最初の予定通り大峡谷を東に進むことにした。
大峡谷を抜ければ、いくつか村があり、迷宮もある。野生の強力なモンスターも多い地域である。そこから南に下ってアルダナに行けば、有名な道場があり、教えを乞いたい武芸者がいる。
別れを告げようとしたとき、少女が言った。
「あたし、名前、決めた」
「名を決めたのか。何という名だろうか」
「シャリエザーラ」
「シャリエザーラ、か。よい名だ」
「そう、思うか」
「うん。思う」
少女は、にっこり笑った。
ザーラは、このおなごの笑顔をみるのははじめてだったかな、と思った。
少女に別れを告げ、時々振り返って手を振りながら、東に歩いていく。
少女は、ずいぶん長くその背中をみおくった。
シャリエザーラ。
それは、山の民の古い言葉で、ザーラを待つ者という意味である。
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