挿話1
ミノタウロスは上機嫌だった。
迷宮のなかに生を受けてからこのかた、かつてないほど上機嫌だった。
その上機嫌の理由が生涯で最初の敗北にあるというのだから、考えてみれば奇妙な話だ。
もちろん、敗北そのものを喜んでいるわけではない。それは思い返すだけではらわたが煮え、目が赤くそまるほど、腹立たしく許しがたい出来事だった。
だが、またあの男と戦えるのだ。それが喜びでなくて何だろう。楽しみでなくて何だろう。
次こそ勝利するのだ。あの強い男に。それこそが勝利だ。その勝利のために俺は生まれてきたのだ。
ミノタウロスはそう考えていた。
だから男以外の敵が来るのも楽しみになった。
以前ほど頻繁にではないが、時々敵はやってきた。人間の冒険者たちが、迷宮の王を倒さんと挑んでくるのだ。
実はこれには、ミノタウロス自身は知りようもない事情があった。
サザードン迷宮に生まれたこのミノタウロスが、第十階層のボス部屋を出て下層への進撃を始めたのが、バルデモスト王国暦千七十九年のことだ。二年後の王国暦千八十一年には最下層に到達し、メタルドラゴンを駆逐して迷宮の主となった。
前後二度、バルデモスト王の出資により巨額の賞金がかけられたため、王国暦千九十一年ごろまでの十年間は、数えきれないほど多数の冒険者パーティーがミノタウロスに挑み、そしてミノタウロスの経験値となった。近衛第四騎士団が総勢でミノタウロスに挑み、敗北したのも、王国暦千九十一年のことである。
以後、挑戦者の数は激減した。ただし、挑戦者がいなくなったわけではなく、よりすぐりの強者しか挑戦しなくなった。
そして、徐々に徐々に、ミノタウロスの噂は諸国に伝わっていった。
荒々しい武人らが割拠する北のフェンクス諸侯国に。
その東のダダ国に。
魔法大国マズルーに。
大陸南西部に巨大な版図を持つゴルエンザ帝国に。
富貴の国イェナ大公国に。
厳しき風土のシェラダン辺境伯領に。
自由の気風を持つカレリヤ自由都市群に。
武闘寺院や多数の剣術道場があるペザ国に。
東部辺境に。
西部辺境に。
ジャミの森の蛮族に。
バルデモスト王国のサザードン迷宮最下層には、不敗のモンスターがいると。どれほど高位の冒険者パーティーも歯が立たず、近衛騎士団が総がかりでも一蹴された化け物がいると。そんな噂が伝わっていった。
馬鹿なことをいうなと笑う者もいた。
自分には関係ないことだと聞き流す者もいた。
だが、時をへて何度も何度も噂が重ねられるうちに、人々の心には、次第に巨大なミノタウロスの存在が刻まれていった。
ミノタウロスを追い詰めた騎士が、ミノタウロスから超絶的な恩寵を持つ剣を獲得し、圧倒的な強さをみせて侯爵にまで成り上がったという事実も、この噂に真実味を添えた。
もしかすると、大陸の歴史始まって以来現れたことのない強大なモンスターなのかもしれない。
いつしかミノタウロスは、サザードン迷宮最下層の主というだけでなく、あらゆる迷宮の王者なのかもしれないとさえ思われるようになった。
そしてもう一つの噂があった。このミノタウロスは〈ザック〉を持っていて、そこにはありとあらゆる種類の最高の剣が収められており、ミノタウロスを倒せば、膨大な数の恩寵武器が得られるというのだ。
各地で迷宮を制覇した最強のパーティーが、その先に目指すものが生まれた。
サザードン迷宮最下層の主であるミノタウロスの撃破。
それは英雄になることであり、最強の武器を手に入れ、莫大な富を手に入れることである。
かくして各地から強者たちがやってくるようになった。
決して大勢ではない。さほど頻繁なことでもない。しかし大陸でも指折りの冒険者たちが、一組、また一組と、サザードン迷宮に足を向けた。
ミノタウロスは喜々として彼らと戦った。
あの男に勝つためには、人間の戦い方を知らねばならぬ。
そう考えたミノタウロスは、冒険者たちの剣の一振りをみさだめるにも、この攻撃が十倍の速さで、十倍の威力で、十倍の鋭さで行われたらどうなるか、と思いながら戦った。
胸弾む日々が続いた。
この作品の評価
257pt