第10話 約束の日
1
サザードン迷宮近くの、とある武器屋に、一人の行商人がふらりと入って来た。
「いらっしゃいませ、トルモン様」
「おお、ヴィエナちゃんじゃねえか。相変わらず、めんこいねえ」
「あら、ありがとうございます」
「トルモン」
「おお、とっつぁん。おひさ」
「帰って来ておったんか」
「たった今、着いたとこなんだけどよう。聞いたぜ。ひでえじゃねえか。王宮から、とんでもねえ人数のつぶし屋どもが出たって?」
「その話か。ちょっと奥へ行くぞ。ヴィエナ、店を頼む」
「はい、店長」
「おいおい、なんだよ。こんなとこで。表じゃ話せねえのか?」
「まあ、ここのほうが遠慮なく話ができるじゃろうな。店先で騎士団を笑いものにするのは、ちとまずいからの。ふあっはっは」
「おいおい。笑っててどうすんだよ。気取り屋どもに、われらの王が、つぶしにかけられてるんだぜ」
「なんじゃ、聞いておらんのか? 討伐とやらは失敗じゃ」
「へ? 失敗ったって、昨日入ってったばかりなんだろ?」
「そうじゃ。そして、昨日のうちに失敗した」
「むちゃ早ええっ。諦めて帰ったのかよ?」
「諦めたのじゃないわい。全滅じゃ」
「ぜ、全滅う? だって、おめえ、聞いた話じゃ五十人近い人数だとか」
「七十二人じゃな。八人編成のパーティーが八つ。転送専門が二人、回復魔法専門が二人、総合支援が二人。それに、みとどけ人が一人。総指揮官とやらが一人」
「なんじゃ、そりゃ! なんてえ力ずくだよ」
「今までもときどき、百階層のボスには、いわゆる討伐隊が出ておった」
「出てたねえ。部屋から出ねえボスを、なんで討伐する必要があんのかは、誰にもわかんねえけど。そんなひまあったら盗賊や街道のモンスターを討伐しろや」
「まあ、騎士への箔付けじゃからなあ。たとえよってたかって袋だたきでも、メタルドラゴンを倒せば、竜殺しを名乗ることができるからのう」
「いや、殺してねえだろ、全員は」
「もちろんじゃ。一パーティーの最大人数は八人じゃからな。普通は、とどめを刺したパーティー以外は竜殺しとはいわん。だからやつらは、どのパーティーが倒したかは公表せん。うまい物を食いながら、いくつものパーティーで交替で戦い、何日もかけてドラゴンを弱らせ、最後は取り囲んでめった斬りにする。疲れたり、形勢が悪くなれば、いくらでもボス部屋の外に逃げてな。そのあげく、何十人でなぶり殺しにしようが、全員が竜殺しを名乗る。倒したパーティーに属していなくてもな」
「へっ! いったん部屋を出たら日を改めて再挑戦が定法ってもんだぜっ」
「騎士や貴族どもの名誉というのは、しごく頑丈にできておるからの。その程度のことでは、びくともせんわい」
「いや、けどよう。そんな人数で、そんな卑怯なまねされたら、いくら俺たちの牛頭王でもよう」
「まず、最初に部屋に入った八人が、焼け付く息で全滅した」
「はあ? いや、意味がわかんねえ。防御魔法とか、属性対応装備とか、当然してるよな?」
「してなかったんじゃな。なぜじゃと思う? そんな攻撃があるとは思っていなかったんじゃと。ミノタウロスの特殊攻撃はハウリングだけじゃと思い込んでおったんじゃよ。じゃから、装備は物理防御特化型で、状態異常抵抗のみを準備しておったそうじゃ」
「ぶはあっっっ。あ、よごしてすまねえ。いや。いやいや。そんなあほな。こどもでも知ってるぜ。われらが陛下の特殊スキルの数々は」
「こどもなら知っとるな。じゃが、王宮のお偉いさんがたは、知らなかったんじゃ。そんなこと、今さら驚くことでもないじゃろ?」
「ばっはっはっはっは。そりゃ、そうだ。けどよ、それでも七パーティー残ってんだろう。二人といわず、四人ぐらいで王様を押さえておいて、支援魔法かけまくったら、さすがの王様も、どうにもならねえじゃねえか」
「いや、それがな。押さえは出さなかったんじゃ。総指揮官とやらは、押さえ役を出しもせず、ボス部屋のすぐ外で、次のパーティーに訓示を垂れておったんじゃそうな」
「おいおい、おいおい。そんなことしてたら、殺されるぜえ?」
「殺されたよ。まず、総指揮官殿が。それから、一番近くにいたパーティーが。なぜじゃと思う? やつら、迷宮の王がボス部屋から出られるとは知らなかったんじゃ」
「……は? おいおい、とっつぁんよ。ちょっとは理屈の通った話をしようじゃねえか。ミノ閣下が、もしもボス部屋を出られねえとしたら、どうやって十階層から百階層に行ったっていうんだよ?」
「どんなうすのろでも、まっとうな人間なら、まずそこを考えるじゃろうなあ。いと尊きかたがたが何をお考えなのか、わしらみたいな下々の者には見当もつかんよ。とにかく、ここまでで、二パーティーがつぶれた。じゃが、サザードンの王がすごいのは、ここからじゃ」
「おうおう。そのここからってやつを聞かせてくれや」
「王がどうやってその場所を知ったかはわからんが、とにかく、軍団のキャンプ場所にまっしぐらに攻め込んだのじゃ。まず瞬間移動術者を殺し、回復役を殺した。次に障壁アイテムを壊して回った。回遊モンスターであるバジリスクを隔離するための障壁アイテムをな」
「うわお」
「そして、これもどうやったのかわからんが、キャンプ場所にバジリスクどもを呼び込んだ」
「やるねえ」
「総指揮官を失い、バジリスクどもに追い散らされた騎士団は、態勢を整えるまもなく逃げまどい、ある者はヒュドラの部屋に踏み込んで殺され、ある者はわれらが大将軍閣下の餌食となった」
「みっともねえ」
「最後が傑作なのじゃが、みとどけ役の伯爵様だけが無傷で残された。夕刻になり、冒険者ギルド長のイアドールが、お抱えの瞬間移動術者とスカウトと防御系魔術師に、こっそりようすをみに行くよう指示を出して、伯爵様は保護された。半狂乱になってわめき散らす伯爵様のお世話をしながら、ギルド長は何が起きたかをすっかり聞き出してしもうたわけじゃ」
「す、すげえ。すげえじゃねえか。われらが二本角大王はよ! それにしても、どこの師団だか知らねえが、その騎士団の情けねえことったらねえな」
「なんじゃ、それも聞いておらんかったのか。近衛第四騎士団じゃ。全員な」
「なんだってえ? 近衛騎士団? しかも一つの近衛騎士団から、そんな人数を出したってえのか? それじゃあ、近衛第四騎士団は壊滅じゃねえか?」
「第二王子の、というよりリガ公爵の権威を高めるためというのは、誰がみても明らかじゃったな。近衛から討伐隊を出すのなら各騎士団から選抜するべきだという意見は当然あった。それを、最精鋭で連携も高いという理由で無理押ししての結果がこれじゃ。リガ公爵は、大いに面目を失った。近衛第四騎士団のメンバーというのは、つまるところ、リガ公爵派の貴族の次男や三男じゃからな。派閥のなかに不満や恨みも残る。どうせ誰かに責任を押しつけて立場を守るじゃろうが、この出来事の真相は国中が知ることになる」
「うんうん。俺も、知らせる手伝いをするぜ」
「くっくっく。せいぜい広めてくれ。まあ、もうイアドールのやつが、さんざん種まきしてるじゃろうがな」
「なあ、とっつぁん」
「うむ、何じゃな?」
「冗談で、サザードン迷宮の王なんて呼んでるけどよう、あのバケモンさあ」
「うむ」
「確かにバケモンにはちげえねえけど、偉えバケモンだよなあ」
「その通りじゃ」
「十階層に生まれて、どうやったか知らねえが、ボス部屋を出られるようになって。手強え敵をどんどん倒して強くなって、今までミノタウロスが身につけたことのねえ、すげえわざを習い覚えていってよう」
「確かにそうじゃ」
「だんだん下に降りながら、各階層のボスに戦いを挑んで。最後にゃメタルドラゴンを殺して百階層のボスに収まっちまった。そんだけ強えのに、自分からは決して人間を襲わねえ。突っかかってくる冒険者は殺すけどよ、逃げ出したら、手出しはしねえ」
「自分より弱い者は相手にせん。たいしたものじゃ。あのミノタウロス閣下はの。殺したいのじゃない。戦いたいのじゃ。武人として戦いたいのじゃ」
「それよ! その武人てやつよ。それに大商人でもあらあな」
「大商人じゃとな?」
「おうよ。俺の商売の師匠が、よく言ってたのよ。しっかり苦労できるやつは、やがて大きな商いができるようになるってな。牛角の大将はよう。自分から苦労をしょいこんで、見事におっきくなりやがったのよ」
「なるほどのう。あの怪物は商売する者のお手本か」
「そうよ! どえれえお宝をため込んでるにちげえねえ。お大尽様ってわけよ。よう、とっつぁん」
「何じゃ?」
「飲みにいこうぜ」
「ちょっと早すぎるが、まあええか」
「おうよ。われらが魔獣王の勝利に乾杯だあっ」
「いや、それは、ちとまずいじゃろ」
「じゃあよ。わが王の栄光に乾杯だっ。どの王とは言わねえけどよ」
「はっはっは。のう、トルモン」
「なんでえ」
「いつか英雄が現れて、サザードンのミノタウロスを倒すじゃろうな」
「一人でかい? そりゃ、いくら何でも無理ってもんだ」
「無理なんてことはないんだと、ほかならぬミノタウロス殿が教えてくださったじゃないか。いつか、たった一人で正面から、正々堂々あの迷宮の王を倒す人間が出る。案外、王はその日を楽しみにしてるんじゃないかのう」
「店長、すいません。お客様が攻撃力付加の恩寵がついた片手剣をお求めなんですが、ちょっと出ていただけませんか」
「わかった。トルモン、すまんが、しばらく待ってくれ」
あいよ、と答えた行商人トルモンは、椅子を三つ並べてごろんと横になった。
サザードン迷宮の周辺は繁栄の時を迎えていた。
上級冒険者が集まり、それに引かれて中級冒険者が集まる。
腕利きの職人が、商人が集まり、最高級の物資が集まる。
それは、初級冒険者たちにも恩恵をもたらす。
それら幅広いレベルの膨大な数の冒険者たちを受け入れる容量を、サザードン迷宮は持っていた。
迷宮からもたらされるアイテムは、その質も量も他の迷宮を圧倒していった。
冒険者から物を買う店や、それを買い取って加工する店。
冒険者に物を売る店。
食事や宿泊や、その他のサービスを提供する店。
ここの冒険者ギルドは、仕事の斡旋も各種のサポートも、実にしっかりしている。
冒険始めにここを選ぶ新米冒険者も多い。
よそから来て、ここに住み着く冒険者も多い。
彼らの最終目標は、迷宮の王の撃破だ。
それは、現代において英雄になることを意味する。
しかしそれは、遠い未来のことになるだろう。
だから当分は旅の空で、ほかのどこにもいない強大で誇り高いユニークモンスターのことを話題にして、お国自慢をすることができる。
そういえば最近ミケーヌの街では、ぼろぼろの服を着て腹を減らしてうろつく子どもをみなくなった。
「これも、われらが王の御徳の賜ってえものにちげえねえな」
うつらうつらとまどろみながら、トルモンは独りごちた。
2
「パン=ジャ。少し落ち着け」
「落ち着いていないようにみえるのか」
「ああ。高ぶりすぎじゃ」
「ふふ」
パン=ジャ・ラバンもローガンも、鎧に身を固めている。
当主ユリウスも鎧姿だ。
もうすぐリガ家が攻めてくる。
乾坤一擲の戦いが始まるのだ。
奇妙なミノタウロスが現れパーシヴァルがこの世を去った年から、十七年が過ぎた。
二十四歳となった騎士パンゼルは、今まさに王宮において、ミノタウロス討伐の王命を受けているはずだ。
そしてパンゼルが迷宮にもぐって留守をしているあいだに、リガ家の兵がメルクリウス家を襲撃する。と同時に王宮を兵で包み第二王子への譲位を迫る。
これを防ぎきれば、リガ家は滅亡するほかない。それこそがパン=ジャ・ラバンの悲願である。
「王宮から家臣が帰りました」
「通せ」
パン=ジャはすでに家宰の座を後進に譲り貴紳として尊ばれている立場であり、老齢と病のため床に就いていたが、この非常事態にあたり、褥から起き上がって現場に復帰し、家兵の総指揮を執っている。
「帰着いたしました」
「王命はくだったか」
「はい。騎士パンゼルはみとどけ人とともに、迷宮に向かいました」
「みとどけ人は誰か」
「エバート・ローウェル様です」
ほっとした空気が場に流れた。
ローウェル家は直閲貴族家であり、エバートは高潔な人物だ。枢密顧問官の要職にあり、王の信頼する相談相手である。リガ家に加担することなどあり得ない。
万一にもリガ公爵の息のかかった者がみとどけ人とならないよう最大限の働きかけを行ってきたが、この点だけが心配だったのだ。
「ということは、瞬間移動をする魔法使いも、エバート殿ゆかりの者か」
「は。ローウェル家の家臣であります。迷宮ではギルド専属の転送係が待っております」
瞬間移動の使い手は、一度行った場所にしか転移できない。だから最下層まで一度連れていってもらう必要がある。
「討伐条件は」
「は。騎士パンゼルは、回復アイテムと食料の携行が禁じられました」
「食料?」
回復アイテムが禁じられるのは予想のうちだった。千年ぶり二十五人目の王国守護騎士を誕生させようというのであるから、その武威は圧倒的なものでなくてはならない。リガ家がそういう理屈をごり押ししてくることはわかっていた。それにしても回復アイテムの禁止は厳しい条件だが、パンゼルならやり抜くだろう。
だが食料の携帯禁止という条件が理解できない。決闘の最中に食事などできるはずもないのに。
「広場に集結したガレスト軍に動きがあります!」
考えている場合ではない。敵が来る。
リガ公爵は二つ考えちがいをしている。
一つは、ミノタウロス討伐に向かったパンゼルが帰ってこないと考えていること。
二つは、病床に着いていたパン=ジャ・ラバンが起き上がれないと考えていることである。
(その考えちがいがお前を滅ぼす)
(リガ公アルカンよ)
(まずはきさまの長男ガレストが死ぬ)
(踏みにじられた者たちの恨みの深さを)
(今日こそ思い知るがよい)
3
人間が近づいてくる。
間違いなく、この部屋に向かっている。
ずいぶん久しぶりだ。
だが、待った甲斐があった。
これは、とても強い人間だ。
そうミノタウロスは思い、愛剣を手に立ち上がった。
メタルドラゴンを五十回目に倒したときドロップした剣である。
黒く、肉厚で、きわめて長大な剣で、先端部に向けてやや幅広となっている。
片刃であるが、切っ先のほうでは両刃となっている。
手に入れた武器のなかで五指に入る恩寵を備えているが、何よりその長さと重さと両手に余る握りが気に入っている。
一見無骨でありながら、刀身の隅々までが使い手の意志をくみとってくれる。
無心にふるうとき、この剣はミノタウロスと一体となってくれた。
刃には鋭さが欠けているが、しかるべき技をもってふるえば恐るべき切れ味をみせる。
この剣を手に何度も何度もメタルドラゴンを倒し、剣技の工夫を重ねた。
部屋に入って来た人間は、たった二人であった。
「異形の戦士よ、お久しぶりです。といっても、ご記憶にはないかもしれませんね。十七年前、この迷宮の一階層で、私はあなたとお会いしました。あなたは私に腕輪をくださいました。その腕輪のおかげで、私はお仕えすべきおかたにめぐり会うことができました。母の病気を治すことができ、幸せな最期を迎えてもらうことができました。お礼を言います」
ミノタウロスには、人語を解することはできない。
だが、この儀式のようなものが終わったら、こいつは最高の闘気を放ってくる。
そう知っていたミノタウロスは、騎士の言葉が終わるのを静かに待った。
「このたび、王命によりあなたを討伐いたします。あのときお借りしたものを、今日、私の武をもってお返ししたいと思います。お受け取りください。後ろの人はみとどけ人です。戦いには参加しません」
黒い目と黒い髪を持つ騎士は、白銀に輝く剣を抜いて一歩を踏み出し、後ろの男は、入り口近くにとどまった。
ミノタウロスは、自分の相手は目の前の男だけであると理解した。
互いに剣を手にして相対したとき、ミノタウロスは、目の前の若者がいよいよ格別の強者であると知った。
間違いなく、これまでに戦った最高の剣士である。
ともに近寄ってお互いの間合いに入る瞬間、ミノタウロスはようすみの攻撃を仕掛けるつもりだった。
その先を押さえて、騎士が、すっと攻撃を放ってくる。
うまいな。
こちらの呼吸を盗んだまの取り方に感心した。
騎士は長く美しい白剣を両手で持ち、右下から左上に切り上げる斬撃を繰り出してきた。ミノタウロスの側からいえば左下から胴を払う太刀筋である。
ミノタウロスは、両手で構えた剣を右下からかちあげて、騎士の攻撃をはじこうとした。
だが、おのれの黒剣と騎士の白剣がふれ合う寸前、背筋を悪寒が走り抜けた。
尋常の気迫では、この剣は受けられない。
そう直感したミノタウロスは、剣と両腕に気根を込めた。
何げなく騎士が放ったかにみえた風さえまとわぬその一太刀は、考えられないほどの重さをもってミノタウロスの剛剣を噛んだ。
その重さは一瞬で消え、騎士はミノタウロスの防御の反動を利用して剣を跳ね上げ、あざやかな曲線を描いてミノタウロスの首を刈りにきた。
まるではじめから予定されていたかのような、自然でむだのない剣の動きである。
なんたる手練れか!
このとき、ミノタウロスは、おのれの腰から熱い奔流が吹き出し、背骨を通り抜けて頭のなかではじけ回るような感覚を覚えた。
こいつだ。
こいつだ。
こいつと戦うために、俺は生きてきたのだ。
こいつを殺すために、俺は強くなったのだ。
左首筋に飛び込みかけた騎士の剣を、黒剣で強引に下からたたき上げた。
騎士がミノタウロスの首を狙える位置に踏み込んだということは、ミノタウロスが騎士の全身を間合いにとらえているということでもある。
ミノタウロスは、剣を返して左下に突き込み、すりあげるように騎士の右脇に攻撃を入れようとした。
騎士は深く踏み込みすぎており、ここは傷を浅くする方向に跳びすさるしかないはずだった。
ところが、騎士はまったく逃げようとせず、空中で剣をくるりと回してミノタウロスの右首筋を刈りにきた。
ミノタウロスは、左手を剣の握りから放して右手の肘を曲げ、剣のつかで騎士の刀身をはじいた。
軌道の変わった剣を、首をひねってかわす。
騎士の斬撃は、右角を半ばから斬り飛ばすにとどまった。
ミノタウロスは驚いた。
こいつ、今、自分の身を守ることなど何も考えず、平気でこちらの首を取りにきた。
なんというやつだ。
騎士の剣が一瞬泳いだため、ミノタウロスに攻める余地が生まれた。
ミノタウロスはすっと左手を添え戻し、剣に時計回りの円を描かせた。
美しい真円である。
ミノタウロスは、あの剣士との死闘以来、剣が描く美しい円を何度も何度も思い出した。
あのような円を、俺も剣に描かせてみたい。
そう思い、修練を積んだ。
水平の円。
垂直の円。
剣先で描く円。
刀身全体で描く円。
巻き込む円。
はじき飛ばす円。
そして、つかみ取っていった。
円の美しさ、強さ、揺るぎなさを。
今放つのは、修業によってつむぎ上げた最強の攻撃である。
騎士の頭上をよぎった円は、まもなく騎士の腹に吸い込まれる。
たとえこの騎士が万全の構えで応じたとしても、受け止めもそらしもできないほどの威力だ。この円弧のなかは、ミノタウロスの絶対制空権なのである。
騎士の腕は伸びきり剣の勢いも失なわれている。防御など不可能だ。
あのときあの人間の剣士の描く円を俺がどうしようもなかったように、お前もこの円のなかに踏み入った以上、滅びるしかない。
逃げきることは不可能だ。腹か腰か足を刈り取らずにはおかない。
戦いの終わりをなかば確信してわざをふるうミノタウロスがみたものは、剣を引き戻しつつ半歩後ろに下がろうとする騎士の動きであった。
騎士は、確然たる軌道をもって迫る死そのものである黒剣を、はじきも受け止めもせず、同じ円を描いた。
半径も軌道も瓜二つのまったく同じ円を。
黒剣と白剣の二ひらの刀身は、出会いを約束された運命の恋人のようにぴたりと寄り添ったまま、虚空に円弧を描いた。
ミノタウロスは、おのれの剣の軌道を維持しようとしたが、余分な速度を与えられた切っ先は、描くべき軌道を飛び出してはじき出された。
騎士の剣先は、本来黒剣が取るべき軌道をなぞると、そのまま騎士のもとに引き戻された。
両者は、同時に身を引き気息を調える。
わずか二呼吸のあいだのこの攻防は、その一合一合が、しびれるほどの快感を与えた。
一撃一撃その興奮は高まり、心臓が止まるかと思うほどの恍惚感が体を満たした。
同時にミノタウロスは、今のやりとりのなかで相手の弱点を知った。
それは剣である。
騎士の白剣は、それなりの業物ではある。だが、この黒剣に秘められた力を解放すれば、あの白剣は折れ、あるいは砕けるだろう。
単なる技術では、この人間は倒せない。一撃に自分のすべてを込め、最大の破壊力をもって打ちかかることを、ミノタウロスは心に決めた。
そして、攻撃力倍加、筋力強化、ダメージ軽減防止、クリティカル発生率倍加のスキルを発動させた。
ミノタウロスがスキルを発動させているあいだに、騎士のほうでも何かスキルを発動させていた。
いい勘をしている。
やつも、ありったけの攻撃力を剣に込めているのだろう。
だが剣と剣を打ち合わせたとき、白剣は折れ、お前は死ぬ。
ミノタウロスは、大きく息を吸い込みつつ、頭上に高々と黒剣を構え、最後の一絞りまで気を込め尽くすと、巨大な円弧を描いて大上段から渾身の一撃を打ち込んだ。
騎士も、雄大な円の動きで真っ向からこれに応じる。
黒と白と二つの剣が、はじめて正面から激突した。
瞬間。
すさまじい音を立てて火花を放ち、二本の剣は砕け散った。
白剣は薄く青みがかった銀のかけらとなり、黒剣は赤紫のかけらとなって、ほの暗い洞窟の空間を埋め尽くすように飛散し、煌めきながら降りそそいだ。
うつくしい。
と異形の怪物は思った。
それは、地の底に生まれ地の底に死ぬこのけだものが、生涯にただ一度みた満天の星である。
〈武器破壊〉
もちろん、このスキルは知っている。
ミノタウロス自身も使うことができる。
しかし、この黒剣を打ち砕くほどに練り込むとは。
それ以外の応じ方をしていたら、騎士は致命的なダメージを受けていたはずなのである。
さて、ここは両者いったん引いて新しい剣を出す場面であるが、騎士は予想もつかない行動に出た。
なんと、素手のまま両手を大きく広げてつかみかかってきたのである。
この俺に力比べをいどむつもりか?
ほんの少しとまどいながら、ミノタウロスもこれに合わせた。
右手は左手と、左手は右手と組み合わされ、指は相手の指を固く締め付ける。
騎士も人としては大柄であるが、ミノタウロスは頭一つ分以上高い。
上から押しつぶすようにのしかかった。
だが、つぶれない。
騎士の腕力はミノタウロスの膂力と拮抗し、少しも押されるところがない。
驚くべきことである。
騎士は、小手をつけた指でこちらの指を巧妙に締め付け、さらにこちらの筋肉が充分な力を出せない方向に、力の向きを誘導している。
つまりこれは、みた目通りの単なる力比べではない。
わざによる攻めなのである。
そうとわかっても、人間ふぜいに力比べを挑まれているという事実に、暴力の化身である魔獣は怒らずにはいられない。
ふざけるな。
小手先のわざで俺の力を受けられるつもりか。
ミノタウロスは小さく息を吸い、一気に力を込めてのしかかった
しかし、これこそ騎士の待ち望んだ瞬間であった。
そのタイミングに合わせて騎士は体をひねり、腰に乗せてミノタウロスの巨体を投げ飛ばしたのである。
ミノタウロスには、まるで自分の力で自分が飛び出していくように感じられた。
騎士は、地面にたたきつけられたミノタウロスの右手首を右手でつかみ、ぐるっと背中側に回すと、右膝で背中を押さえつつ、左腕をミノタウロスの首に巻き付けた。
そのまま、ぐいぐいと首をひねりあげる。
まずい。
このままでは殺される。
ミノタウロスは、地面に押さえつけられたまま、ばたばたと足を動かそうとしたが、うまく動かない。
後ろ手にからみ取られた右手が、どうにも全身の動きを妨げる。
左手で騎士の左手をつかみ、首から引き離そうとするが、できない。
騎士は、人間とは思えない金剛力を発揮していた。
その腕は青銅のように硬く、ミノタウロスの強い指が食い込むことを許さなかった。
しまった。
これも何かのわざだったか。
俺が剣に込めるスキルだけをいくつも準備していたあの時間に、あの一息を吸い込むだけの時間に、こいつは次々につなげて使うスキルを準備していたのか。
ミノタウロスはなんとか耐えるようとするが、騎士の筋肉は異様な強靱さをもって抵抗を押しつぶす。
やがて、ばきっとにぶい音が響いた。
やられた。
首の骨を折られた。
ミノタウロスの全身から力が失われた。
まだかろうじて生きているし、少し時間を得られれば再生スキルにより負傷を修復することができるだろう。
だが、この騎士がその時間を与えることはない。
すぐに首が斬り落とされるだろう。
すべての戦いはおわった。
悔いはない。
この人間は、身体の力と、剣の技と、素手の戦技のすべてにおいて、武人としての極みをみせてくれた。
こんな戦いを味わえる日が来るとは。
言葉を知らぬミノタウロスには、自らに加護を与えた神の名も、その約束の文言の意味もわからない。
だがあのとき二度目の命をくれたあの存在は、自分の願いをまさに今かなえてくれたのだと、その全身で理解していた。
ミノタウロスは、低く長い唸り声を洩らした。
それは、魔獣が命の終わりに大地神ボーラに捧げた感謝の祈りである。
4
首の骨の折れる音が聞こえたとき、パンゼルは賭けに勝ったことを知った。
討伐の王命が下るかもしれないと知ったときから、準備を進めてきた。
冒険者ギルド長に協力を要請し、このミノタウロスの来歴や技能、体の構造や特性を徹底的に調査し研究した。
その結果、選び取った戦法が格闘技だった。
ミノタウロスの骨格、筋肉、関節などは、驚くほど人間に近い。
普通のモンスターには通用しない関節技などが、有効である可能性が高い。
しかも、そうした攻撃を、このミノタウロスはほとんど経験したことがないと思われる。
ミノタウロスは、剣技に熟達している。
剣技では必ずしもおくれは取るまいが、肉体の強靱さは信じがたいほどで、いったいどれだけのダメージを与えれば倒せるのか見当もつかない。
一人でメタルドラゴンと一昼夜以上戦い続ける体力も持っている。
剣と剣の戦いでは倒せる道がみえず、持久戦となれば明らかに分が悪い。
だから相手の武器を破壊し、肉弾戦に持ち込み、関節技に相手が対応できないうちに、首の骨を折る。
ミノタウロスに素手で挑むという、一見愚劣極まりない方法にこそ、パンゼルは活路をみた。たまたま、ジャン=マジャル寺院の高位の武闘僧がバルデモスト王国の王都を用務で訪れていたので、ひそかに招いて格闘技の教えを受け、ごく短い時間なら飛躍的に筋力を増大させるわざなども教わったのである。
ローガンの指導のもと、武器破壊のスキルにも磨きをかけた。
そして今、確かに首の骨を折った。
まだ、完全に死んではいないが、瀕死といってよい。
ここで首を落とせば、このミノタウロスは死ぬ。
騎士が、〈ルーム〉から予備の剣を出そうとした、そのときである。
脇腹に鋭い痛みが走った。
みとどけ役の貴族が、騎士の鎧のすきまから短刀を突き刺している。
刺し傷だけではあり得ない痛みと悪寒が、毒塗りの短刀であったことを教えた。
「エバート様。なぜ?」
そのとき、ミノタウロスの全身が痙攣した。
再生スキルによりダメージの修復が始まったためである。
びくりと動いた手がエバートの足に当たった。
短刀を抜き取って騎士から身を離そうとしていたエバートは、不意を突かれて体勢を崩し、顔面から岩場に倒れ伏す。
ずるずると起き上がるその胸には毒塗りの短刀が突き立っていた。
「パンゼル殿。すまぬ」
自分ももう助からないと覚悟を決めたからか、信頼を寄せる相手を裏切ったことへの贖罪なのか、膝を突いたまま逃げようともしない。
「すべては罠であったのだ。はじめから、すべて。かのミノタウロスに勝てば王国守護騎士に任ずるという約束、そのものが」
「勝てるみこみがないと思われていることは承知しておりました」
「それでも貴公は、この討伐を受けた。受ける以外になかった。王国守護騎士に任じられれば、苦境のあるじを支える発言力が得られるからの。王直々の命であるからには断りようもないが、なんじがその気にならねば、なんじのあるじが承服せなんだ」
「私が死ねば、それでよし。万一勝てば、毒の短剣で勝利を敗北に変ずるため、みとどけ人と立たれたか。エバート様。まさか、あなたさまがリガ公の走狗となられようとは」
「パンゼル殿。なんじは正しすぎる。なんじの主君も正しすぎる。なるほどリガ家の専横はこのままでよいとはいえぬ。第一王子が登極あそばされるのが正しい道ではある。だが第一王子が至尊の冠を戴かれれば、リガ公爵派の大粛正は避けられぬ。それでは国が割れる。今のわが国は豊かすぎる。大きすぎる。ふくれ上がりすぎた体躯を無理に痩せさせては体がもたぬ」
「諸侯が心を一つにすれば、そうはなりません」
「かりに粛正をなし終えても、北伐はうまくゆかぬ。北方騎士団の精強を、なんじが知らぬわけはあるまい。民は塗炭の苦しみを味わうことになろう。そのような時代を招き寄せてはならぬ」
苦しげに顔をゆがめて、エバートは言葉を続けた。
「今ごろ、なんじのあるじの屋敷にリガ公の兵が向かっておろう」
「存じております。しかし戦にはなりません。なったとしても負けません。わがあるじのもとには、すでに族兵が集いおります。われらは数においてリガ公爵様の家兵に互し、鋭気において勝ります。それは、あなたさまこそよくご存じのはず」
「存じておるよ、メルクリウスの智勇は。今のメルクリウスには勇が欠けておる」
「わがあるじは、過ぐる南蛮諸族の侵攻において、大いに武勲を上げられました。また、ツェン家の反乱に際してはいち早く廟堂に駆けつけ、歴代聖上の墓所を守り抜かれました。さらに、街道に盤踞する賊兵らを、御みずから寡兵を率いて撃破しておられます。これをごらんになっても勇なしと仰せですか」
「メルクリウスに勇はある。それは、なんじよ。かたわらになんじがあれば、かの若き当主は比類なき勇を示す。しかして、なんじを失えば、メルクリウスは勇を失う。しばらくは先の家宰殿が病床から起き上がって指揮を執ろう。しかし長くは続かぬ。家宰殿の気根が尽きるとき、戦は終わる。ご当主の命は救えぬ。が、家は残される。なんじとなんじのあるじが死ねば第一王子もご自裁なさるほかない。陛下はご退位なさり、第二王子が登極あそばす。パンゼル殿。わがしかばねに唾するがよい。すまぬ」
そう言い残して、エバートは死に、その体は消え失せた。
パンゼルは、遺品の前にひざまずき、黙祷を捧げた。
エバートは、はじめから死を決意してここに来た。つまり、迎えは来ない。
外に出たければ、おのれの足で百の階層を駆け抜けるよりない。
凶悪な魔獣たちが徘徊する道も知らぬ迷宮のなかを。
パンゼルには、予備の武器はあっても回復アイテムの類はない。水はあるが食べ物はない。
今回の討伐の条件が、そうなっていたからである。
毒の作用は、パンゼルの抵抗力の高さに押さえられてはいるが、やがて命を奪うだろう。たとえ毒を受けていなかったとしても、食べ物なしでは体力が続かない。
途中で冒険者に出会うことができれば、ポーションや食料を借り受けることもできる。
しかし、今は豊穣祭の最中である。迷宮内で人に会える希望はないといってよい。とうてい出口にたどり着けるものではない。
まして戦いにまにあうことは望むべくもない。
それでも、パンゼルにとり、これからどうすべきかは明らかであった。
「異形の戦士よ。あなたに、おわびしなければなりません。私には、やらねばならないことができました。いつか決着をつけに帰って来ます」
ミノタウロスは、目の前の人間に自分が負けたことを知っていた。
邪魔がなければこの人間は自分の首を斬り落としていたはずなのである。
勝者には報酬が与えられねばならぬ。
ミノタウロスは起き上がり、〈ザック〉から、この人間に与え得る最高の報酬を取り出した。
一本は片手剣。
一本は短剣。
それを人間の前に置いた。
パンゼルは、しばしの逡巡のあと二振りの剣を受け取った。
もしもパンゼルが鑑定技能を持っていたら、この二振りの性能に驚愕したであろう。
片手剣は百体目のメタルドラゴンを倒したときにドロップしたものであり、〈ボーラの剣〉という銘を持つ。
込められた性能はすさまじい。
攻撃力三倍
クリティカル発生二割増加
移動速度八割増加
攻撃速度八割増加
体力吸収一割
精神力連続回復二割
全基礎能力六割増加
破損自動修復
そしてこの恩寵は迷宮の外でも有効なのだ。まさに神器と呼ぶべき宝剣である。
また、短剣は、〈カルダンの短剣〉という銘を持ち、これも迷宮の外でも有効な、最上級の恩寵品である。
状態異常全解除
解毒
聖属性付加
知力二倍
階層内地図自動取得
騎士パンゼルは、片手剣を右手に、短剣を左手に持つと、ミノタウロスに一礼して部屋を出ていった。
5
それから、二十八年が過ぎた。
ミノタウロスのもとを訪れる人間は、一時増えたが、やがて減った。
今、新たな挑戦者がミノタウロスの前に立っている。
黒い目と黒い髪をした青年騎士である。
右手には、二十八年前自分に勝った男に与えた剣を持っている。
左手には、強力な恩寵を備えた盾が構えられている。
こちら側からはみえないが、ミノタウロスの探知スキルは、盾の裏にやはり覚えのある短剣が差し込まれ、左手に昔みた腕輪が装着されていることを教えた。
指輪にも首の護符にも格別の恩寵を感じる。
何よりこの騎士は、すばらしいわざと心気の持ち主である。
ミノタウロスの全身は、激しい戦いの予感に打ち震えた。
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