※追記:Facebookに似た記事を投稿した。


パスカルキニャール・コレクション「さまよえる影たち〈最後の王国1〉」、読了。

最後の王国というシリーズの第1巻。

 

肺から血が出ても死ななかったキニャールは、余命の力を振り絞ってこのシリーズを書くことを決意し、現在もまだ存命中であり、著作も執筆中である。

この「さまよえる影たち」は、ゴンクール賞を受賞した問題作でもある。

正直、この本に出会えて良かったと思っている。

また、キニャールレヴィナスの哲学に傾倒していたらしく、それが本文の主体となる思想として表れている。

 

レヴィナスとは、平和を求めたユダヤ人の哲学者であり、ハイデガーフッサールの弟子でもあり、ハイデガーの「存在と時間」を絶賛しながらも批判に徹し、また、ハイデガーナチスとの関係を強く批判した。

レヴィナスの「全体性と無限」という著作は、社会の全体主義に抗う目的で書かれている。

これが、キニャールの「最後の王国」の意味に合致する。

最後の王国とは、仏陀の「犀の角のようにただ独り歩め」に近い意味で、社会とは断絶された心の中にある王国を意味する。

 

p.83

「人間が知っているもっとも害のある誘惑は悪ではない。金銭でもない。仰天するような快楽でも、それがもたらすさまざまな恍惚でもない。権力やそれが引き起こす堕落でもない。理想化やそれが引き起こす想像上の感情でもない。それは死だ。」

 

p.158

「芸術はいかなる時間秩序にも従わない。それは時間と同じく方向性をもたない。

進歩もなく、資本もなく、永続性もなく、場所もなく、中心もなく、首都もなく、前線ももたない。

溢れ出す時間によって作られた前浜。

自由地帯というよりはむしろ、剥き出しの場所そのもの。

絶えず解き放たれた地帯。満潮の海から自由になろうとするように、拡張する台地からもたえず自由になろうとする前浜。」

 

p.81

「25(ヨンヌ川)

一九九九年八月、わたしはエピニュイユのワインを六箱と、本でいっぱいになった灰色のジュートの郵便袋を二つ、ヨンヌ川の岸に降ろした。わたしはそれらを芝生の上に引っ張り出した。

夏は盛りを迎えようとしていた。誰にも会わないようにと願わずにはいられなかった。

誰ひとりとも。子供とも。雀蜂にすら。

芝生の上に引っ張り出した布張りの長椅子の上か、あるいは、少し離れたところにあるクローバーの白くこんもりした花々の上で本を読むときに出くわす、大きくて凶暴なスカラベにすら。

就寝のときに、屋根裏部屋の乾いた床のほこりの上を歩き回るネズミにすら。

夢を見ているときに。突然刺してくる雌の蚊にすら。

雌の蚊よりもひどい、夢の中に現れる記憶にすら。

ことば自身にすら。

空を横切る飛行機はひとつもない。

空気が伝えるトランジスターラジオのわずかな音すらない。

ラクターのエンジン音の記憶もない。

芝刈り機もない。

交尾する雄鶏もいない。

犬もいない。

ダンスホールもない。

何をおいても自殺したいという欲望を抱かせるほどの、身の回りの人間が装ううわべの明るさなど微塵もない。幸福な感情が湧きあがった。わたしは読み続けた。幸せがわたしを貪った。ひと夏中、わたしは読んだ。ひと夏、幸せがわたしを貪り尽くした。」

 

※PCにてこれを書いている最中、「トランジスター」の所まで書いてふと横を見たら文字数が1111だったのには驚いた。エンジェルナンバー1111は、「あなたの望みはすぐそこにあります。願望を叶える時です。」だそうだ。

 

※そして、上の行の「だそうだ。」まで書いた地点で終わろうと思ったら、文字数が1400ジャストだった。これもエンジェルナンバーを調べたら「良い流れにあるようです。」とのこと。つまり、さっきのエンジェルナンバーの意味を踏襲して、良い流れに辿り着いたということでいいのかな。

 

あ、そうだ、思い出した。

吉野圭さんが私への返事の中で、「近代哲学は(1+1=2などの)自明の理を否定することから始まっている。近代哲学は嘘つきだ。生理的に無理」と言っていた。

それは確かにそうかもしれない。

ただ、レヴィナスは今までの哲学の歴史を全否定し、愛を求めた人間であるという。

それでも、レヴィナスWikiの説明を見ていると、決して現実に即しているとは思えず、社会からはみ出たキチガイ臭が若干漂っている気がする。

基本、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」と言いたくなる。

ただ、

「例えば誰かが「あいつはバカだ」と言うと、「『あいつはバカだ』と言った奴はバカだ」という奴もいる。それが無限に続く。このように他者とは無限の存在である。」

「他者は決して全体性(全体主義や、世界や、ナチスなどの政治性)に回収されることのない無限の存在。」

など、言われてみればそうかもなと思うことも述べている。

不思議な魅力がある。

でもそれ、他者ではなくて、他者の言葉ではないか。

なんで言語=現存在みたいになってんのかが、哲学を齧ったことのない私には不明だが、便宜上そうすることで世界の構造とやらを説明しやすくなるのだろうか。

(Wikiにも「他人的な性質を持つものは、どれもまとめて「他者」と名付けられる」と書いてある。)

もう、原始仏教徒になればよかったじゃん。

でも誰かが言わないと哲学界が進歩しなかったんだろうな。

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