第3回 解説者はバクチウチ


後楽園ホール 昭和45年(1970)


この手配写真は、日本テレビがやっていたキックボクシングの番組で、なんと33歳だった僕は知らん顔をして解説者をしているのですから、我ながらつくづく図々しいのに呆れます。

 忘れもしません。5年続いたこの番組で僕のギャラは、毎週15000円でした。  
その頃TBSが“真空飛び膝蹴り”の沢村忠で視聴率を取ったので、日本テレビもすぐ真似をしたのです。  
お亡くなりになった11PMの大プロデューサー後藤達彦さんと、慶応高校の同級生だった赤尾健一さんが僕に、 最初はリングアナウンサーをやらないかと言っていらしたのですが、小金井一家総長の堀尾親分が、首を縦に振りません。
「そんな芸人のやることを、出世前の若いモンにさせられるもんか」
 と、いうことでしたから、その頃までは僕も将来を嘱望されていたのでしょう。  
それなら解説者ならどうだ、となって
「解説者なら先生だから、まあいいだろう」  と、堀尾親分も許してくれて、若い衆の僕はヌケヌケと週一レギュラーの解説者になりました。  
左の端に映っているのは、当時、入社3年目だった徳光和夫さんです。  

トボけるのは文章を書くのより達者なので、シレッとしてそのまま4年もやったのですが、旨いことがそんなに続く僕の人生ではありません。  
昭和49年に僕の若い衆が拳銃で、相手の腹に一発38口径を当てちゃって、新聞に、
「キックボクシング解説者、実はヤクザ……」 と、出て大騒ぎになりました。

今から33年も前のことですが、若くてアホだった僕が関係者に大変な御迷惑をお掛けしたことを、この機会にお詫びします。
「ごめんなさい」