1938年千葉県生まれ。父親が新聞記者だったこともあり、昔からマスコミ業界を志望していたという赤尾氏。1962年慶応義塾大学文学部仏文科を卒業すると、日本テレビ放送網株式会社に入社し、芸能局音楽部に配属された。テレビの世界でミュージカルを、と思っていたのが、音楽バラエティ番組を担当するジャズ班ではなく演歌を扱う歌謡曲班へ。だが他と比べ人手が足りない班だったおかげで、すぐにディレクターになることができたという。そして公開収録番組「踊って歌って大合戦」のフロアディレクターを務めた時、「一つの娯楽番組が社会現象になるほどの大ヒットをする」という体験をする。「今までのメディアは一方通行でこれからは双方向だとか色々言うけれど、決して一方通行じゃないんだよね、俺たち現場を知ってる者からすれば。ブラウン管からばーんと出したモノは、言葉では表せない何か凄いエネルギーになって戻ってくる感じがするんだよね。それが感じられた時、あっこの番組ヒットするぞ、という予感がして、その予感はほとんど的中するんだよね」
「金曜10時!うわさのチャンネル!!」では、スタジオに犬を放し飼いにすることによって、当時タブーだったスタジオの裏側をカメラに映すなど、新しい試みで周囲の予想を大きく上回る大ヒットを飛ばす。1974年に日本テレビから独立し、当時の日本にはほとんど無かった番組制作会社・日企を設立する。その後も「お笑いスター誕生」「びっくり日本新記録」など、大ヒットバラエティ番組を制作する。番組をヒットさせる赤尾氏独自の考え方は「大衆・視聴者の人達と自分が常に同じ体質であること」。「今こういう番組ができたら俺は絶対見たいな、とかね、ふっと思ったとするでしょ。大衆と私が体質が同じだったら、自分が見たいなと思うものを作れば同じ体質の視聴者は全員見るはずだという自信があった」
ディレクターとしてのこだわりはスターを生み出すこと。「誰かがもう作っちゃったスター、それを使ってやることは好んでないんですよ。まだ日のあたってない人の中から陽のあたる人を探して、そして陽をあてて。その人がばーっと伸びていくその成長力を番組の中に取り入れることによって、番組にツヤを出していく」和田アキ子、所ジョージ、タモリ、泉ピン子、とんねるず、ウッチャンナンチャン……数えあげればきりがない程の新人に陽をあて、大勢のスターが赤尾氏のもとから羽ばたいていった。ますますナマ性が失われ、編集によって面白さを作り出す最近のバラエティ番組を心配しつつ、「作る主役は社員のみんなだからね、私はそれをただ見守ってるだけ」と語った。
インタビュワー
主担当:中村茉由 副担当:阿部慎平