嵐のような1週間…アメリカ軍人へ抱いた敵意と憧れ
放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(12)
米国の原子力空母エンタープライズが長崎県の佐世保港に灰色の巨大な姿を現したのは、1968年1月19日のことでした。寄港を阻止するために全国から駆け付けた学生らが警官隊と衝突、多数の負傷者や逮捕者が出ました。いわゆるエンプラ闘争です。佐世保市立福石中の3年だった私もこの熱を感じました。
寄港前から不穏な空気が街に漂っていました。投石に使われないように線路の砂利が撤去され、舗装されました。米海軍佐世保基地につながる佐世保橋には鉄条網。ついに火ぶたは切られました。寄港阻止を掲げた若者たちが警官隊のバリケードに突進。ヘルメット姿で角材を手にした若者たちは放水を受け、催涙ガスを浴びせられました。放課後、やじ馬で訪れると黒煙が上がり、物が焼けた臭いがしました。
今でこそ街を歩く米軍人は紳士的ですが、当時は女性をはべらせ、車を派手に乗り回し、あちこちで酒を浴びるように飲み、傷害事件を起こし、日本人を見下していました。私たちの住まいに比べ、米軍ハウスは一等地。デモ隊に気持ちを重ねた人は少なくなかったでしょう。日本なのに日本じゃない。占領されているようでした。
私もじくじたるものがあります。商店街で米軍払い下げのジーンズを買い、ハリウッド映画にはまりました。小学生の頃にあった米軍基地の子どもたちとの親善野球大会。基地の職員が私たちチームを車で基地まで送迎してくれました。しかもオープンカー。基地の美しい芝生のグラウンドにほれぼれし、試合後はハンバーガーとコーラのもてなしを受けました。裕福な国。かっこいい国。デモ隊を支持しながらも、米国の文化をまぶしく感じてもいました。まさに矛盾です。
同級生の立場もそれぞれで、米軍から仕事をもらう会社の子息はエンプラ寄港賛成派、医者の息子は反対派。教室で激しく言い合いをしていました。子どもたちまで主義、思想をぶつけ合っていたのです。
デモ隊、警官隊双方550人以上が負傷し、70人が逮捕されたエンプラ闘争。68年1月23日、エンタープライズは佐世保を出港し、街は静けさを取り戻しました。戦後史に残る嵐のような1週間。平和とは、反戦とは、反核とは、正義とは、自由とは、民主主義とは、憲法9条とは…。
あの時、佐世保にいた人は何かを感じていたはずです。私も、です。
(聞き手は西日本新聞・山上武雄)
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海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。
※記事・写真は2019年06月29日時点のものです