酔っぱらいや知らない人が家に…テレビがきて生活激変

西日本新聞

放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(11)

 海老原家に“心友(しんゆう)”がやって来たのは1960年、私が長崎県佐世保市の福石小2年の頃です。3人で6畳一間の窮屈な部屋に暮らしているのに、新入りが加わるなんて迷惑この上ないのでは、と突っ込まれそうですが、ノン。彼に限っては大々歓迎でした。

 学校から帰ると、父がほほ笑み、母も隣に住んでいる叔母もなんだかうれしそう。様子をうかがいながら私は部屋の一角に鎮座する物を発見しました。

 14インチの白黒。テレビ、テレビ、テレビ。もし私が子犬ならば、ちぎれるくらいしっぽを振っていたでしょう。中古でしたが、当時は高級品。両親が佐世保競輪場の食堂の商いでこつこつとためて買ったのです。20世帯ほどが住んでいた大黒町市営第三住宅の中では第1号でした。

 この日を境にわが家の生活は激変しました。「海老原さんとこにテレビがきたばい」。うわさは野火のようにあっという間に広がり、第三住宅の住人たちが「見せてくれ」と人の迷惑を顧みず、連日のように押し寄せてきました。

 当時の父は町内会長をしていた手前、断り切れず、来る人は増えるばかり。知らない人が入ってきたり、酔っぱらいが管を巻いて乱入したり、押し入れに勝手に入って観賞したり、引き戸は開けっ放しで廊下まですし詰めになったりと、もう収拾がつきません。

 プロレス中継で力道山の空手チョップに歓喜し、押さえ込むとみんなで「ワン、ツー、スリー」と畳をたたいてカウント。みんなが帰ると、わが家は嵐が通過した後のようでした。コントの世界でした。

 業を煮やした父が、テレビ観覧拒否を告げると「バカ」「ケチ」「出て行け」「見せろ」などと壁に落書きされ、私もしばらくは仲間外れにされました。

 テレビを見るのを許していたときは「海老原さん家(ち)はさすがやね」「楽しませてもらえます」と腰を低くしていたのに。

 なんだか人間の裏側を見たようで、やるせない気持ちになりました。

 テレビ離れが進む今では考えられないでしょう。老若男女を夢中にさせ、とりこにしたのです。後に私がテレビの世界に入るとは夢にも思いませんでしたが。

 愛してやまなかったテレビが連日、故郷を中継していた時期がありました。若者たちと警官隊の衝突。もうもうと黒煙が上がる佐世保の街。1968年1月のことでした。

(聞き手は西日本新聞・山上武雄)

………………

 海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。

※記事・写真は2019年06月28日時点のものです

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