敗戦でエリート街道から一転 迫り来る死と戦った両親
放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(8)
私が生まれた1953年に既に56歳だった父。「とうちゃんは、どこに住んどったと?」。中学生だった私の問いに過去を語ってくれました。
戦前、朝鮮半島に渡ったそうです。「昭和五年、三十一歳、馬山駅助役」「昭和六年、三十二歳、三省駅駅長」「昭和十八年、四十四歳、鏡城駅駅長」「昭和二十年、四十六歳、清津埠頭(ふとう)局勤労課書記」。職業履歴には年齢や役職が書かれていました。
父は日本が統治していた朝鮮半島の朝鮮総督府鉄道局に勤めていました。東京・世田谷出身で9人きょうだいの次男。祖父は海軍の軍人。裕福でしたが、一旗揚げようと早稲田大を中退して大陸に行きました。青森出身の母と現地で結婚。エリート出世し、暮らし向きも良かったようです。
写真の両親は、大正時代から昭和初期に流行したファッション、モボ(モダンボーイ)、モガ(モダンガール)のスタイル。いつもの着物姿とは全く違う一面を知りました。
日本の敗戦で生活は一転しました。今度は追われる身。敗戦時にいた清津は今の北朝鮮北部。中国(旧満州)との国境に近い所です。そこから日本を目指しました。父は振り返る口調こそ静かでしたが、現地の彼らのことを蔑称を使い、ののしっていました。
警護用の日本刀を手に、私の母である妻と義妹を連れて南下。疲労で倒れた母を担いで、半島の土煙舞う道をひたすら歩いたそうです。ソ連や中国の兵士たちに女性が強姦(ごうかん)され、子どもが殺されたことも教えてくれました。迫り来る死との戦いでした。
敗戦をいち早く知った軍人の一部や官僚たちは車や鉄道を使って、市民より先に逃げました。本来は市民を守らなければいけない立場。「絶対、許さんばい。人は苦しいときこそ、本当の姿が出る」。国や権力に不信感を持っていました。
母と義妹とともに直面した苦難、悲惨、殺りく、恐怖、絶望の全てが内包される話でした。その言葉だけでは収まらない経験もしたでしょう。3人は博多港に引き揚げました。
大陸での夢が無残にも破れ、失望したでしょう。中年になり、日本でやり直すのはつらかったでしょう。生きる喜びなんてない。そんな時に生まれたのが私でした。もしかしたら私の存在は父にとって希望の光、再生への励みになったかもしれません。複雑な出生の秘密もありましたが。
(聞き手は西日本新聞・山上武雄)
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海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。
※記事・写真は2019年06月25日時点のものです