貧しかった幼少期…小学生で格差を知る
放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(4)
私にとって最も古い記憶はいつだったか。3、4歳の時、1957(昭和32)年ごろだったでしょうか。家の様子をよく覚えています。長さが30メートルある廊下、12段の階段。玄関から外まで10メートルほどありました。想像してみてください。それはそれは大きな家。無邪気に走り回っていました。
白壁に囲まれ、天井にはまぶしいほどのシャンデリア。廊下は大理石。カーテンが揺れる部屋からピアノの調べが流れ、膝の上にはペルシャ猫。佐世保で一、二を争う白亜の大豪邸の御曹司。「朝ですよ、起きてはいかがですか」と執事が呼び掛けます。「起きてください。やすよしおぼっちゃま、おぼっちゃま…」
おっと、まどろんでいたようです。白状します。全部妄想でした。
家は確かに大きかった。廊下は30メートル。玄関から外まで10メートルはホント。ただ住人はわが家を含め20世帯、約60人。そうです、集合住宅でした。玄関横にトイレがあり、くみ取り式の男女兼用の和式便器。朝顔と呼ばれた男性用便器も花を咲かせていました。
2階にある6畳一間が、わが父母と私の城。出入り口は引き戸1枚、台所は共同。廊下は歩くたびにミシミシと響く板。風呂は歩いて5分の銭湯。白亜の大豪邸どころか、いつ壊れてもおかしくない粗末な木造住宅でした。
建物の名は「大黒町市営第三住宅」。外地から引き揚げた家族を受け入れる施設でした。長崎県佐世保市の浦頭地区には45年10月から50年4月にかけて、中国大陸などから引き揚げた約140万人が上陸しました。
両親は戦中、日本の占領下にあった朝鮮で暮らし、父は鉄道の駅長として働いていました。海老原家は博多港に上陸し、佐世保に移って第三住宅に入りました。母方の叔母も別部屋に住んでいました。
隣には同じような造りの第二住宅、母子寮もありました。わが家だけなく、友達のダイスケの家も、たっちゃん家(ち)も、ヒコちゃん家も、6畳一間で一つ屋根の下。みんな貧しかった記憶があります。第三住宅挙げてのビンボーでした。
小学生になり、一戸建てに住む友人の家に招かれ別世界を知りました。丈夫なドア、子どもだけの部屋、水洗トイレ。それに引き換え自分の家は。世の中、平等じゃない。不条理を感じました。
そして、両親が祖父母のような年齢ということに違和感を覚えたのもこの時期です。 (聞き手は西日本新聞・山上武雄)
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海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。
※記事・写真は2019年06月20日時点のものです