インタビュー:佐藤理
By Nick Dwyer
キャリアの非常に細かな部分までRedditにスレッドが立てられる日本のゲームクリエイターは多くないが、そのようなカルトファンを獲得しているのが佐藤理(おさむ)だ。佐藤はエクレクティックなアーティストで、様々なメディアで自己表現をしている。写真と音楽を経由してデザイナーへの道へ進んだ佐藤だが、1990年代にはその活動範囲をさらに広げ、CD-ROMをリリースした他、それまで存在しなかったビデオゲームエクスペリエンスを生み出しており、1994年にCD-ROM『東脳』(海外版は『Eastern Mind: The Lost Souls of Tong-Nou』)をリリースしたあと、前代未聞の画期的なビデオゲーム『LSD』(海外版は『LSD: Dream Emulator』)をリリースした。
『LSD』は1998年にPlayStation用タイトルとして日本国内のみでリリースされたが、それから10年ほど経過すると、このタイトルは海外でカルト的な人気を獲得するようになった。ビデオゲーム史の中で最もエクスペリメンタルなタイトルのひとつに数えられるこの作品を生み出した佐藤は、この作品のレフトフィールドなエレクトロニック・ミュージック / IDMサウンドも担当した。『LSD』には500を超えるサウンドパターンが収録されており、その全体は32ビット機時代の中で最も刺激的なサウンドトラックのひとつとなっている。佐藤のファンは常に本人とミステリアスな作品群の情報を集めようと躍起になっているが、このたび、Red Bull Radioの番組『Diggin’ in the Carts』のシーズン2の一環として、佐藤がNick Dwyerとのインタビューに応じ、自身の芸術活動のインスピレーションの源や作品に秘められた意図などについて語ってくれた。
© B-LIVE 1983 @ dee bee's Kyoto
あなたは1960年に京都に生まれましたが、1960年代の日本は高度経済成長期でした。東京オリンピックが開催され、新幹線が開通し、高速道路も整備されるなど、様々な開発と成長が見られた当時の日本、特に東京は未来のような存在でした。そのような1960年代から1970年代初頭の京都はどうだったのでしょうか? 東京を意識していた部分はありましたか?
当時はそういうことに関して何も意識していなかったですね。1970年に大阪万国博覧会(大阪万博)が開催されたこともあって、京都が他の都市と比べて特別大きく異なっているとは感じていませんでした。ですが、寺や神社、仏像などが身の回りに数多く存在していましたし、父親と祖父が社寺仏閣専門のフォトグラファーでした。また、父の周りに絵描きや彫刻家などが数多くいて、自宅に良く出入りしていたので、たとえば、自宅の食事で使われる食器なども芸術家の作品でした。当時はこういう環境を当たり前に思っていたのですが、今思うと、他とは少し違ったのかなと思います。
京都はあなたにどのような影響を与えたと思いますか?
自分に一番大きな影響を与えたのは、実家に暗室があり、小さな頃から写真を撮っていた生活だと思います。撮影だけではなく暗室の使い方も父親に教えてもらい、現像もしていました。ですが、そこまで写真に真剣に取り組んでいたわけではなく、写真が現像できたら楽しいなと思っていた程度でした。
実際に芸術関係の道へ進もうと思った時に、初めて正式に絵を習い始めました。父親の同級生が先生で、着物の染色などをしている方でした。その時に、京都の色や形、着物などに初めて興味を持ちまして、それらに目が向くようになりました。また、学生時代はNHKでアルバイトをしていまして、カメラマンの助手的な仕事をしていたんですが、京都ですので神社やお寺に取材に行くことが多く、普段は入れないところまで入れる時がありましたし、季節の移り変わりも体験できました。その影響で、それまであまり興味を持っていなかった京都中の神社や寺を見て回るようになりましたし、取材先ではお坊さんなどの話も聞きますので、京都の伝統文化にも興味を持つようになりました。井上八千代さんのような京都を代表する方にインタビューする機会などもあり、京都というのは特別な場所なんだということを徐々に理解していきました。
岡本太郎の『太陽の塔』で知られる大阪万博には行きましたか? 行ったのであれば、そこからどんな影響を受けましたか?
大阪万博には10回ほど行きました。大阪万博は「日本国民全員が行くべきもの」として扱われていたので、京都や大阪以外の僕の親戚も京都にやってきて、僕の実家を足場にして会場に向かっていたんですね。それで、どこからか親戚が来るたびに僕も一緒に行っていたので、回数が多いんです(笑)。また、フォトグラファーの父親が新聞社と契約をしていたので、パスを持っていました。それで、父にもくっついて行っていました。大阪万博には、子供ながら未来を感じていました。今見ても未来的な感覚を得ますね。大阪万博は未来と宇宙が大きなテーマでした。今では、なんで月の石を見るためにあんなに並んだのかと思いますが(笑)。当時はアメリカ館の「月の石」が大きな話題になっていたんです。
“エレクトロニック・ミュージックを聴けば聴くほど、ピコピコという電子音にのめり込んでいきました”
シンセサイザーとエレクトロニック・ミュージックはあなたに大きな影響を与えたと思うのですが、1970年代の関西の音楽シーンについて教えてもらえますか? 東京のシーンとはどう違っていたのでしょうか?
1970年代は僕にとっての10代なわけですが、情報は別に東京と差はなかったですね。他の人たちと同じように、僕も最初はThe Beatlesが好きになりました。そのあとでロックを聴くようになり、高校大学時代はThe Beatles、The Rolling Stones、Led Zeppelinなどを聴いていました。ブラックミュージックも聴いていましたね。当時の僕はレコードを良く買っていたのですが、レコードショップが情報収集の場所だったんです。当時は、今のTower Recordsのような大きなショップはなく、日本盤がリリースされているようなメジャーアーティストとは違うアーティストの輸入盤を扱う個人経営のショップに通っていました。
京都にあったそういうレコードショップのひとつで、Kraftwerk『The Man Machine』の構造主義のアートワークを見かけたんです。あの赤と黒のアートワークに大きな衝撃を受けました。「凄く格好良いな」と思い、音楽を聴かずに買いまして、Kraftwerkの存在を知りました。YMOなどが日本でも流行り始めていたこともあり、聴く音楽がガラリと変わりましたね。テクノとかニューウェーブを聴くようになったんです。当時の僕は20歳くらいでしたが、芸術を志していたので、彼らのようなことを自分でもやってみたいと思うようになりました。
エレクトロニック・ミュージックを好んでいた当時の日本の若者にとって、シンセサイザーの多くが日本製だったというのは大きな意味を持っていたと思うのですが、KorgやRolandなどが使われているのを見て、このようなテクノロジーが日本から生まれたという事実に誇りを感じていましたか?
誇りは特に感じていませんでしたね。ですが、長年に渡り、日本の音楽、ヴォーカルが入った日本のロックなどに関しては、海外では通用しないと言われていたんですが、その考えを初めて覆したように感じさせてくれたのがYMOだったと思います。もちろん、彼らはそういう戦略を用意していたわけですが、当時の僕はまだ子供だったので、そういう部分までは分かりませんでした。ある程度の予算を投入して海外でツアーをすることで、逆輸入的な売り方をしたんだと思いますが、当時の僕には彼らがとても輝いて見えていました。また、使われていたシンセサイザーの大半が日本製でしたので、そういう日本の特徴だったテクノロジーの側面を上手く組み合わせれば、海外でも成功できるんだと思いましたね。それで、のちに僕が自分でそういうことができる立場になり、Sonyの出資で『東脳』をCD-ROMとしてリリースした時も、自分を世界に理解してもらうためには、京都出身の東洋人ですので、東洋的なイデオロギーやアイディア、仏教的な哲学をテーマにして、ビデオゲームや画像、音楽を作る必要があると思いました。それで、日本的なものに限らず、エスニックな要素を数多く入れ込むと、やはり米国人が喜んでくれて、米国でのリリースも決まったんです。
あなたは1983年にファーストアルバム『Objectless』を京都のカセットテープレーベルSkating Pearsからリリースしましたが、YMOなどを聴くようになったあなたが「自分でも音楽を作れる」と思って音楽制作を始めたのはいつでしたか?
大学時代は主にシルクスクリーンを学んでいましたし、グラフィックやデザインに夢中でした。音楽も聴いていましたが、あくまでリスナーでした。もちろん、YMOやKraftwerkを聴いて、彼らのような活動ができたら良いなとは思っていましたが、当時のシンセサイザーは超高価でしたし、彼らのような音楽が作れる自信もありませんでした。ですが、エレクトロニック・ミュージックを聴けば聴くほど、ピコピコという電子音にのめり込んでいきました。それで、KraftwerkやYMOを何回も繰り返し聴いていたので、別のアーティストも聴きたいと思うようになっていったんですね。その流れで、輸入盤を扱うレコードショップで「電子音楽」とジャンル分けされている音楽を買い漁るようになり、ミュージック・コンクレートのような現代音楽としての電子音楽に出会いました。このような音楽を初めて聴いた時は、「音楽と言えば音楽だけど、いわゆる音楽とは違うな」と思いました。「こんな音楽でレコードをリリースしている人がいるのか」と衝撃を受けましたね。Steve Reichの「Come Out」も、誰かがラジオで言っていた「Come Out」という言葉をずらしながら何回も繰り返しているだけです(笑)。ですので、「こんな音楽をリリースしても良いんだ」と思うようになったんです。また、現代音楽は図形や絵を楽譜にしている人もいました。こういうシーンを知ることで、「こういう音楽が世の中にあるなら、僕が作っても良いじゃないか」と思い立ち、音楽制作を始めたんです。
Skating Pearsについて教えてください。このレーベルはエクスペリメンタルな音楽をリリースしていましたが、1980年代前半の京都はそのような音楽に勢いがあったのでしょうか?
当時の京都には、東京とは違う音楽シーンがありました。美術大学も多かったですし、ノイズなど、色々な表現方法を模索している人たちが数多くいました。Skating Pearsは、そういう実験的な音楽をリリースしているレーベルで、僕の先輩であり友人でもある佐藤薫さんが設立しました。佐藤さんはエレクトロニック・ファンクバンドEP-4のメンバーで、このバンドは京都のアンダーグラウンドシーンで有名でした。EP-4は東京のシーンと繋がっている数少ないバンドのひとつだったんです。今は誰でも簡単に東京と繋がれるので大したことに思えないかもしれませんが、昔は少し距離感があったので、東京と繋がっている彼らはメジャーな雰囲気を携えていて格好良かったんですよ。その彼らが自分たちの周りにいるいわゆるポップミュージックとは違う面白い音楽を作っている人たちを集めて、カセットテープでリリースしていたんです。それで僕もリリースしました。
ノイズの話が出ましたが、以前から不思議に思っているのは、ノイズ史に残るバンド、非常階段やBoredomsなどは全て関西出身だということです。関西からこのような素晴らしいバンドが生まれている理由はどこにあると思いますか?
実は、ノイズはそこまで好きではないので良く分かりません。『Objectless』もアンビエント - 当時はアンビエントという言葉はなかったので、環境音楽と呼んでいたんですが - 的な作品です。もちろん、今のようにコンピューターが揃っていれば、当時大きな影響を受けていたKraftwerkのような洗練された音楽を作っていたと思いますが、音楽を作ろうと思った当時の僕に買えたのは、中古のRolandのシンセサイザー1台でした。VCOが1基しかないシンセサイザーです。あとはシーケンサーを1台。機材はその2つだけでした。また、レコーディングはカセットテープにしていました。テープミュージックの存在を知ったあと、テープを編集したいと思ったんですが、オープンリールを持っていなかったので、カセットテープのケースを開いて、テープを編集していましたね(笑)。のちに、オープンリールを中古で2台手に入れて、その2台を使って、Brian EnoやRobert Frippのような音楽を作りました。2台のテープマシンを離して置いて、テープをループさせてフィードバックを生み出していけば、サウンドは徐々に劣化していきますが、面白いループサウンドが得られました。
昔の僕はそういうある種のミニマル・ミュージックを作っていました。John Cageのラジオを使った曲や、Steve Reichなどと一緒ですね。ですので、大学などでライブをする時は、ラジオやテープマシンを使っていました。あとは、塩化ビニールのパイプを使って、スピーカーとマイクをその両端に置くと、ハウリングが起きるんですね。それをテープマシン経由で再生する演奏もしていました。そういう実験を繰り返していましたね。ただのノイズは僕には簡単に思えたので、そこからどれだけ美しいサウンドが出せるかという点を意識していました。『Objectless』はそういう実験的な音楽をまとめた作品です。『Objectless』に関しては、僕はもうほとんど忘れていたのですが、2017年に入ってから、レーベルを運営しているというドイツ人から、『Objectless』のテープを持っているので再発したいと連絡がありました。僕の手元にオリジナルの音源が残っていなかったので、とりあえずデータ化して送ってもらったんですが、若い頃の作品なのでそのまま出すのは少し恥ずかしいということで、自分でリミックスを加えることにしました。それが、2017年12月にリリースされます。レーベルはドイツのVinyl-On-Demandですね。
シュールレアリスム、ダダイズム、バウハウス、未来派などの20世紀のアヴァンギャルドな芸術に影響を受け始めたきっかけは?
レコードショップに飾られていたKraftwerk『The Man Machine』のジャケットを見た時がきっかけだったと思います。このジャケットに興味を持って調べていく中で、これがロシアの構成主義だということを知りました。そして、そこに関連する形で、バウハウスやデ・ステイルなどにも出会うわけですが、これらのデザインが自分の感覚にしっくりきたんですね。それで僕もデザインをやろうと、自分の仕事にしようと思ったんです。「こういう物が作れれば良いな」と。それからは、本や雑誌を読んだり、展覧会に出掛けたりと、知識を蓄えていきました。曲線的なものよりも、直線的なもの、テクノ感と言いますか、そういう感覚が備わっているものの方が好きでしたね。やがて、デザインを仕事にするようになり、Macが登場した30歳前後からは、コンピューターを使うようになったのですが、使い始める前の作品を見ても、やはりそのテクノ感が見受けられます。コンピューターを使い始めてからは、作業的に楽になったこともあり、その感覚がさらに強くなりましたね。また、コンピューターがあれば音楽も作れるということで、音楽制作からはしばらく離れていたんですが、また取り組むようになりました。
あなたは一時的に米国に移りました。それはいつのことですか? またどこにいたのでしょう? 米国ではどのような音楽的な影響を受けたのでしょうか?
最初の大学受験に失敗したあと、浪人時代に米国へ行きました。米国ヘ行った理由は… いつかは行きたいなと思っていたというのももちろんありましたが、一度自分を見つめ直してみたいというのと、将来的に必要になるので英語を勉強しておこうというのが大きな理由でした。そのまま米国の大学に進学できたら良いなという思いもありましたね。結局、遊んでしまったので、米国の大学へ進学することはできなかったんですが(笑)。米国生活が自分をどう変えたかという点に関しては、具体的な何かに影響を受けたというよりも、初めての海外生活、初めてのひとり暮らしというのが、一番大きな影響を与えたと思います。グレイハウンドバスに1週間乗って、大陸横断をしたのも大きかったですね。カリフォルニアからニューヨークまでを往復したんですが、当時はインターネットもなかったので、チケットの手配などを自分でしたり、車内で人と話したりしました。また、米国人は日本人よりもストレートですし、自分から動かないと何も起きない。そういうコミュニケーションを取ったことが良い経験になりました。米国では自立性を学びましたね。
また、ニューヨークに行ったのもこの時が初めてでした。当時は1970年代でしたので、ニューヨークは猥雑でしたし、心細かったですね。懐も寂しかったので汚い宿に泊まりました。あそこまで汚い街は初めてでした。ですが、それが逆に刺激的でしたね。毎日ライブに出掛けていましたね。食事のことを考えるのはいつも最後でした。僕が宿泊したホテルは、今はとても綺麗なホテルになっています。ワシントン・スクエア公園にあるWashington Square Hotelがそうです。当時はEarle Hotelという名前でした。下層はホテルではなくて、共同バスルームの連れ込み宿的な感じでした。日本にいる間に、ニューヨークに行ったことのある人がこのホテルの存在を教えてくれていたので、泊まることにしたわけですが、宿泊費は11ドルくらいでしたね。
“日本と欧米諸国では神様に対する考え方が異なると思います”
1980年代に大学を卒業したあなたは、上京して広告代理店で働き始めますが、バブル時代の広告代理店社員としての東京生活はどうでしたか?
僕はバブル直前の1989年、29歳の時に自分で会社を立ち上げました。数人を雇ってデザイン事務所を開いたんですが、そのあとでバブルが来たんです。案件の予算は潤沢でしたし、件数も多かったので、儲かりました(笑)。その分、打ち合わせも多かったですが。僕はクリエイターになりたいという理由で、この道を進んできたわけですが、会社の経営者になると、管理や営業、付き合いなどの割合が増えてきました。ですので、儲かってはいましたが、「一体何をやっているんだろう?」と自問する日々でした。また、色々な作品を作ってはいましたが、それらはあくまで広告ですし、自分の作品ではないと思っていました。
そこで、経済的に余裕があったということもあり、自分の作品を作ろうと思い立ちました。それが『Alphabetical Orgasm』です。自分でAからZまでのアルファベットを全てデザインして、それを画集のような形にまとめつつ個展を開催しました。このプロジェクトを形にしたことで色々なメディアに取り上げられるようになり、賞もいくつか頂きまして、その結果、また忙しくなっていったのですが、自分の作品を作ったことで自分のカラーを得ることができました。その自分のカラーに一番大きな影響を与えているのが、先ほど話した絵の先生から学んだ京都の着物の少しくすんだような色彩感覚や色の組み合わせ方、テクノ感、構成主義のレイアウトですね。それらを全て組み合わせてデザインしたのが『Alphabetical Orgasm』でした。その独特の組み合わせが新しかったのではないかと思います。このデザインは僕のウェブサイトで確認できます。
1991年に初の個展『Alphabetical Orgasm』を開催したあと、ミステリアスなキャラクターを集めた『Anonymous Animals』を発表しましたね。日本のキャラクターの作り方について知りたいのですが、基本的に欧米のキャラクターは動物など、現実世界に存在するものをベースに生み出されますが、日本のキャラクターは、現実世界には存在しないものをベースにしたものが多く、日本人クリエイターにはそういう想像力が備わっているように感じます。たとえば、『ポケットモンスター』シリーズのキャラクターや宮崎駿の『千と千尋の神隠し』などに登場するキャラクターなどです。日本のキャラクターの作り方は、いわゆる神道の「八百万の神」、つまり、どこにでも何にでも神が存在するという考え方と繋がっていると思いますか? 日本人は子供の頃から、そういうキャラクターに囲まれて生活していると思っているのではないでしょうか?
日本と欧米諸国では神様に対する考え方が異なると思います。たとえば、キリスト教は神様がひとりしかいない一神教ですが、日本などの東洋では、トイレに神様がいるなど、何にでも神様がいるわけです。あちらこちらに神様がいますし、自分がそこに神様がいると思えば、それで成立してしまうところもある。ですので、そういう神様をイメージした瞬間にキャラクターが生まれることはあると思いますし、逆を言えば、自分が生み出した意味不明なキャラクターに意味を与えて成立させやすい環境なんですね。キリスト教の人たちの間にこういう考えやアプローチは存在しないのではないでしょうか。
“『東脳』は東洋感を前面に押し出して作りました。東洋人の頭の中、東洋人の考え方を探っていくという設定のゲームです”
1989年に自分の会社を立ち上げたあなたは、1990年代に入ると、コンピューターは新しいアートを生み出せる素晴らしいツールだとうことに気が付くわけですが、制作のメインをコンピューターに切り替えた当時について振り返ってもらえますか?
当時はMac II(Macintosh II)が400万円くらいしたんです。プリンターやソフトウェア、本体など、ひと通り揃えるとそのくらいの値段になりました。当時はかなりの量の仕事をこなしていて、それなりに貯金もあったのですが、それでもやはり、400万円も貯金はありませんでした。使えるのは200万円くらいでした。たしか、会社を立ち上げる直前の頃だったと思います。実は、その貯金で車を買おうと思っていたんですが(笑)。その頃の僕は、コンピューターが音楽に大きな影響を与えたことについては知っていました。テクノが生まれましたし、レコーディングの方法も変わりましたし、音楽が大きく変わりました。1980年代のテクノの誕生は、音楽シーンにエポックメイキングと呼べるレベルの大きな変化をもたらしたと思います。Mac IIに話を戻すと、これは初めてカラー表示が可能なMacでした。256色表示でしたが、それでもデザインには使用できました。そして、Adobe Illustratorが登場したのもこの頃で、ベクター曲線などが使えるようになったので、デザインの世界も大きく変わるだろうという予感がありました。ですので、400万円という高額でしたが、200万円の貯金を頭金にして、ローンで買うことにしたんです。
買ってみると、やはり面白いと思いました。当時はまだコンピューターを使ったデザインに関する情報が少なかったこともあり、若さに頼ってただひたすら毎日触っていたら、なんとなく色々とできるようになりましたね。そのような試行錯誤が『Alphabetical Orgasm』に繋がっていきました。また、丁度バブルがやって来たので、ローンもすぐに払い終えましたし、コンピューターの台数を増やしたり、買おうと思っていた車よりも良い車を買えたりしました(笑)。
『東脳』について教えてください。どのようなアイディアを持っていたのでしょうか? この作品で何を生み出そうとしていたのでしょうか?
まず、何かを作るのであれば、日本だけではなく米国でもリリースしたいと思っていました。ですので「東洋」をテーマにすることにしました。僕にとっては一番自然なテーマですので。たとえば、僕がキリスト教をテーマにした作品を作ったとしても、キリスト教信者は「何だこれは?」と思ったと思います。ですので、仏教的な思想を取り入れました。たとえば、一般的にゲームオーバーは「キャラクターが死ぬ」ことを意味しますが、『東脳』では、キャラクターが死ぬと輪廻転生して別のキャラクターとして復活し、これを繰り返すことでゲームが進んでいきます。つまり、死ななければストーリーが進まないわけです。このような東洋的な輪廻転生がベースになっています。東洋感を前面に押し出して作ったんです。『東脳』はビデオゲームというよりは、インタラクティブCD-ROMでした。ビデオゲームはオタクが作っているというイメージがあったのですが、CD-ROMは米国などで表現手段のひとつとして扱われるようになっていたんですね。『Myst』などがそうです。ですので、CD-ROMのクリエイターになれば、レコーディングアーティストと同じような立場になれるのではないかと考えていました。それで、米国でもリリースしたいと思ったんです。また、作品内に自分が登場しなければ、誰が作ったのか分かってもらえないだろうと思ったので、緑色のキャラクターを自分として用意しました。『東脳』は、東洋人の頭の中、東洋人の考え方を探っていくという設定のゲームでした。
当時の日本のビデオゲーム業界に対する印象は? 他にはない新しいゲームエクスペリエンスを生み出せると思っていましたか?
僕はビデオゲームを一切プレイしないんです。もちろん、『スペースインベーダー』が流行っていた時に、喫茶店などでこのゲームをプレイしている人たちの姿を見たことはありましたが、100円を払ってビデオゲームをプレイすることが理解できませんでした。対価が得られないのにこの人たちは何をやっているんだと思っていました。ですので、硬貨を次々とゲームに放り込んでいる子供たちの横に立って見ているだけでした。ビデオゲームは自分の中で格好良いものとして扱われていなかったんです。オタクっぽいイメージもありましたし。ですので、全くプレイしませんでした。
ですので、『東脳』を作った時は、ビデオゲームというよりは、CD-ROMの芸術作品を作ろうと考えたんです。そして、米国でもリリースしてみたかったので、あのような東洋風にまとめたのです。丁度その頃、Sony PlayStationやSEGA Saturnのような新しいテクノロジーが登場してきたので興味を持ち、家庭用ゲーム機用タイトルの開発にも乗り出すわけですが、その結果として生まれた『LSD』も、ほぼビデオゲームではありません。ゲーム性はゼロです。この時も、ビデオゲームというアイディアを否定して、自分の作品を作ろうと思っていました。PlayStationという新しい媒体を使って、大げさに言えば、現代美術、現代音楽を生み出したいと思っていたんです。また、当時はまだこのようなアイディアに投資してくれる企業がいたというのも『LSD』が実現した理由のひとつだったと思います。『東脳』が米国でもリリースされていたことや、いくつかの賞を取っていたことが投資に結びついたんです。こういうプロフィールに騙されて投資してくれる人がいたんですよ(笑)。
『LSD』に関しては、「ビデオゲームではなく、自分の作品、芸術作品だ」という発言を繰り返していますが、パブリッシャーを担当したアスミック・エースにそのアイディアを理解してもらうのは難しかったですか? シューティングでもレーシングでもない、夢の世界の話だというテーマも中々理解されなかったのではないでしょうか?
難しいというほどではなかったですね。当時はPlayStationなどが世に出たばかりで色々なゲームがリリースされていたので、アスミック・エースも『LSD』のような新しいアイディアに対して特に問題を感じていなかったと思います。『LSD』を開発しようと思った理由について話しましょう。まず、当時のPlayStationやSaturnにはレーシングゲームなどのいわゆる一般的なゲームが揃っていたので、開発にあたり僕もレーシングゲームをプレイしてみたわけです。ですが、いかんせん下手なのでやたら車をぶつけてしまいました。そして、ぶつけてしまえばゲームオーバーになります。ですので、プレイしていても面白くなかったんですよ。なので、ゲームが下手な人でも楽しめるゲームを作ろうと思ったんです。それで、これは『東脳』の輪廻転生のシステムと同じ考えなんですが − 『LSD』にも壁にぶつかると別の世界に行けるシステム「リンク」を用意したんです。そういう形で色々と変化する世界を探検するゲームを開発したいと思っていました。
次に、全体のつじつまをどう合わせれば良いのかという話になりまして、現実世界では壁にぶつかって別の世界へ行くようなことは起きないが、夢の世界なら可能じゃないかという結論に至りました。夢なら、さっきまで渋谷にいたのに突然ニューヨークにいることも可能です。夢の中では瞬間移動が "あり" なんです。それで、夢の世界という設定にしました。あとは、その設定にもう少しリアリティを加えるために、実在する夢日記を素材として使うことにしました。こうして生まれたのが『LSD』です。また、『LSD』には、ひとりでも面白いと思ってもらえれば良いという考えの元で、フックやギミックを大量に用意しました。何も起きないけれどとても変わっている世界、ゲーム中に突然表示される夢日記の文章やUFOが飛ぶ映像、突然のゲームオーバーなど、突っ込みどころを大量に用意したんです。
当時は、まだ本格的なインターネット社会を迎えていませんでした。ですので、『LSD』のそのようなフックやギミックが口コミで話題になれば面白いのではないかと思っていました。『LSD』のサウンドトラックに関しても、オリジナルは僕が全て作ったんですが、UKや日本など世界各国のアーティスト7人に頼んでリミックスも用意しました。これも、そのようなアーティストたちの音楽が好きな人たちが興味を持ってくれればと思って用意したフックのひとつです。また、オープニングもプレイごとに変わるようにしましたし、サウンドトラックのアートワークに関しても、インナースリーブには異なるデザイナーによる7種類の別バージョンを入れておきました。このようなフックやギミックを大量に用意することで、話題性を高めようとしたんですが、当時は思ったほど大きな話題にはならなかったですね(笑)。そこまで面白いゲームでもなかったので、 “クソゲー” と思った人もいたはずです。ですが、やがて日本でしか売られていないビデオゲームが海外で知られるようになっていくと、それに合わせて『LSD』も話題になっていったんです。Sony側にもかなりの数の問い合わせがあったらしく、その結果、通常は売れたゲームだけが「PlayStation ゲームアーカイブス」に入るのですが、問い合わせが多かったという理由でゲームアーカイブスとして再リリースされることが決まったんです。これがきっかけで改めて『LSD』の存在が広く知られるようになりました。今は、『LSD』のPC版を勝手に作っている人もいます。言うまでもなく、無許可なんですが、僕は静観しています(笑)。
また、『LSD』のゲーム画面を取り出して、パーカーなどにプリントして売っている人もいますし、サウンドトラックを勝手にリリースしているカセットテープレーベルもいます。こういう人たちがかなり多くいるんです(笑)。しかも、僕のFacebookページを見つけて、「こんなの作ったんだ!」と堂々と友達リクエストを送ってきます(笑)。凄いですよね(笑)。彼らは権利関係とか全く考えていないわけですが、最近の僕はこのレベルまで広がった方が面白いのかなと感じていますし、どんどん広げて欲しいとさえ思っています。alt-JというUKのバンドから『LSD』をベースにミュージックビデオやアートワークを作りたいと言われたのが唯一のオフィシャルでして、彼ら以外は全員無許可というのはクレイジーですよね(笑)。話が少し逸れますが、実は来年が『LSD』の20周年なんです。ですので、オリジナルのサウンドトラックのデータが全て残っているので、それをリミックスしてリリースする予定です。リミキサーの追加も考えています。日本でリリースして、あとは海外でもリリースできればと思っています。
『LSD』は、リリースされた1998年からかなりの時間が経過したあと、インターネット経由で世界から注目を集めるようになりましたが、このタイミングで注目を集めたことに驚きましたか?
2017年4月にBEAMSで新作のグラフィックアートを展示しまして、そのタイミングで新作のCDもリリースしたんですが、その時の来場者の多くが、僕の予想よりも若い、10代や20代前半の人たちだったんです。インターネットで『LSD』の動画を見て知ったという人が多かったんですよ。あれにはとても驚きましたね。また、そのCDに関しても、別に売れるとは思っていませんでしたし、とりあえずリリースしようという感じだったんですが、いきなりAmazonのエレクトロニック・ミュージックのチャートで4位くらいに入ったんです。欲しいもののチャートでは1位になりました。瞬間的に品切れになったんですよ。リリース日に売り切れたんです。そんなに売れると思っていなかったので驚きましたね。
『LSD』のサウンドトラックは素晴らしいと思います。500以上のサウンドパターンが収録されていて、その中のいくつかはとても先進的です。当時影響を受けた音楽は? WarpのようなUKのレーベルから影響を受けたのでしょうか? また、音楽的な影響を得るために通っていた場所はありましたか?
『LSD』のサウンドトラックに関しては、Warpなどの音楽に影響を受けたと思います。サウンドトラックのCDに関してもそうですね。最初は、『東脳』や『中天』からの流れもあったので、エスニックなサウンドを意識して制作を進めていました。1990年代頃から、和風なものをメロディなどに意識的に入れるようにしていたのですが、『LSD』のサウンドトラックの頃には、東洋をそこまで強く意識しないで制作しても問題ない時代になったという感覚がありました。Ken Ishiiさんのような新しいアーティストが世界を舞台に活躍するようになっていたので。YMOは特殊なケースだったと思います。坂本龍一さんは音楽が作れて当たり前と言いますか(笑)、彼は本物のミュージシャンで、オーケストレーションもできますし、何でもできます。彼にとってYMOは手法のひとつに過ぎなかったんだと思います。たまたま、あのタイミングであの手法を選んだだけだったんだと思いますね。ですが、Ken Ishiiさんのような新世代のアーティストたちは、僕とあまり変わりません。ですので、正式な音楽教育を受けておらず、譜面も読めない僕のような人たちが世界に出て行ったことに気持ち良さを感じていました。また、そういう時代が来たんだなとも感じていました。このような意識や感覚が『LSD』の音楽にも反映されていると思います。
『LSD』は、コンセプト、ゲームプレイ、音楽など、あらゆる部分が実験的です。『LSD』がビデオゲームの新しい時代を生み出すことになるという意識はありましたか?
そういう意識の元で開発しました。先ほど話したフックやギミックを入れたのもそれが理由です。面白がってくれる人がいれば良いなと思っていたんです。ですが、リリース当時は自分の思惑通りにはなりませんでした。約20年かかったということですね。あと、『LSD』というタイトルに関して周りから何の文句も言われずに、このタイトルのままリリースできたというのも話題性という意味では重要でした。僕は『LSD』というタイトルにした方が注目を集めるだろうと思っていたんです。「何だこれは?」と思ってもらえるだろうと。LSDという単語は、あのサンフランシスコのヒッピーカルチャーで流行ったLSDに繋がりますし、The Beatlesが使っていたことでも知られています。また、このようなサイケデリックなムーブメントとコンピューターは、米国のウエストコーストでは親和性が高いという部分も意識していました。『東脳』もそこを意識して開発しましたし、『LSD』もそうでした。ですので、『LSD』も米国でリリースしたかったんですが、そうなりませんでした(笑)。
最後の質問です。『LSD』についてはインターネット上で様々な情報や意見が掲載されていますが、まだ世間が見つけていない裏技や小ネタはあるのでしょうか?
ないと思います。プレイヤーの方が良く知っているのではないでしょうか。僕はもうほとんど忘れてしまっています。僕はプレイしませんしね。
Translation & Edit:Tokuto Denda
17 Nov. 2017