久保正雄 | 300兆円を払うから、海外移住してくれと中曽根康弘達に依頼され、 |
| 昭和51年1月31日九段のグランドパレスに当宿中の重夫を訪た政治ブローカー。 |
| 更に、昭和55年6月11日重夫と大平総理との会談に案内。 |
| 銀座で、東日貿易を経営し、印度尼西亜のスカルノ大統領に、第三夫人として、 |
| 当時、力道山等が通った赤坂の「コパカパーナ」に勤めていた根本七保子を紹介する。 |
| 其れが、デビ夫人である。其の縁で、印度尼西亜からの海老の輸入で儲け、岸総理が、印度尼西亜に支払う戦後賠償にも、 |
| 深く関与し、利権を得た。長嶋茂雄の後見人であった事も、有名である。 |
鳩山一郎 | 短命総理だったが、重夫の了解を得て、M資金を遣い財政危機を乗り越える。 |
石橋湛山 | 仝上。 |
岸信介 |
重夫と意見の異なる日銀総裁だった一万田尚登を大蔵大臣に登用し、日銀内に有るM資金を還付金方法で、重夫に内緒で、引き出すのに成功。 |
池田勇人 | 石橋内閣の蔵相時代から、M資金の存在を知って居た池田は、所得倍増論で、使い出した。 |
佐藤栄作 | 沖縄の本土復帰の際、此のM資金を拠出して、ノーベル平和賞を受賞。 |
田中角栄 | 池田内閣の蔵相時代M資金を調査し、自分の時代を準備し、中国との国交回復の時、此のM資金から、拾兆円を持参した。 |
| 我が家の分家を名乗る入内島金一が、角栄経営の田中土建専務を務め、室町産業社長として、信濃川河川敷問題を犯す。 |
大平正芳 | 角栄の操り内閣だった大平正芳は、昭和55年5月30日参院選の応援演説中新宿で、第一声を上げた時、 |
| 心筋梗塞で倒れ、虎ノ門病院へ担ぎ込まれる。 |
| 仝6月11日久保正雄と共に、大平に呼ばれた重夫は、歴代の総理達が、重夫に断り無く、M資金を使った事を詫び、 |
| 3兆7千億円支払いの約束をし、M資金の存在と重夫の功績を公表する事を約束したが、翌朝2時半鬼籍に入ってしまった。 |
| 重夫との此の会話の場に居た何人かが、大平の点滴に何かを混ぜたのかも知れない? |
| 大平は、重夫が、戦後の日本を再建させた最大の功労者で有るとして、日本政府と歴代総理と自民党が、 |
| 重夫に対して、犯した過ち等を謝罪して、37兆円の支払いを約束、だが、現金が政府に無いので、其の一割を払う。 |
鈴木善幸 | 大平の死去後、宏池会は、総理の器では無い鈴木善幸を後継にしたが、 |
| 角栄の傀儡政権で、日ソ漁業協定で、ソ連に此のM資金を持ち出す。 |
中曽根康弘 | 御存じ金の匂いに向く風見鶏。私の遠祖児島高徳公六百年祭に御尽力願った庭田尚三海軍中将が、 |
| 中曽根康弘を祭の会長にすると云ったのだが、中曽根は地元でも、一部の人しか支援しない為、 |
| 通産政務次官だった中島源太郎に陳情し、福田赳夫総理に御願いした。 |
| 比国のマルコス大統領・韓国の全斗煥大統領に、此のM資金を持ち出し、 |
| 見返りに、莫大なマージンが、懐に入る訳で、利子は低いが、内密な瑞西銀行に預けて居る。 |
| 総理に成る前迄は、改憲論者だったが、此のM資金と米国との密約を知り、改憲を断念した。 |
竹下登 | 中曽根に、莫大な資金を渡し、禅譲を受けた竹下昇は、M資金の存在は承知で、リクルート事件等は、痛くも痒くも無く、 |
| 金庫番といわれた青木伊平秘書が平成元年4月26日に殺されたと云う情報が流れ、皇民党事件が元で、辞職する。 |
橋本竜太郎 | 虎ノ門病院で、大平総理と重夫が、M資金に付いての遣り取り一部始終を知って居る者の最後の一人で有りながら、 |
| 露西亜にM資金を持って行って居る。 |
小渕恵三 | 総理就任の際、M資金が使われた事をCIAも把握して居る。 |
金丸信 | 山梨の自宅に、M資金の一部を持って行った。 |
安倍晋太郎 | 福田赳夫は昭電疑獄事件で、生臭い金に嫌気が刺した為、此の福田派プリンスが、抓み始めたが、総理に成れず、死去。 |
小泉純一郎 | 後継の小泉進次郎を総理にする為、日銀から8兆円準備して有ると云う。 |
榊原英資 | ミスター円と云われた榊原英資は、重夫のM資金が、戦後の日本経済の基盤だった事、 |
| 自民党が不正に使って居る事、都市銀行・農林中金・興業銀行等が、此のM資金を扱って居る事を公表し、 |
| 平成9年の全国銀行協会の年頭挨拶で、「百﨑重夫は死んだから、安心して使って下さい」と話し、 |
| 富士銀行にM資金60兆円が、入った確認を取ったが、回答が無かった事実が有る。 |