正和元年(1312) |
備前の国児島五流尊瀧院にて生誕。 |
嘉暦二年(1327) |
七歳の時から、上寺山麓和田郷にて、範長に養われ、元服し、「天地開闢」の旗指物を造る文中に<范蠡>故事を引用。 |
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前年の嘉暦二年(1326)長男高秀生誕。 |
元弘二年(1332) |
和田一族と後醍醐天皇遷幸を船坂山に待伏せたが、奪向出来ず、一人跡を慕い、院庄に至り、 |
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桜樹に十字詩を留め、自ら、范蠡を以て、任ずる意を奏す。此の年、次男高久生誕。 |
元弘三年(1333) |
和田範長一族船上山に伺候す。高徳、足利高氏の六波羅攻めの招きに応じず、 |
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千種軍に従って六波羅攻めに名和小次郎と共に善戦せしも失敗し、 |
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主将千種忠顕の無能に憤り、萩野彦六朝忠と共に、高山城に拠り後、和田一族と共に、上寺山麓和田屋敷に帰る。 |
延元元年(1336) |
[太平記巻十六]足利尊氏謀叛し、九州より大軍を率いて、東上の時、新田義助船坂山に苦戦と聞き、 |
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二百の手兵で、熊山に旗を挙げ、赤松勢三千を包囲したが、石戸彦三郎に間道から、夜討され、 |
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胸部骨折の重傷を負い、新田勢が京に上らんとする途、坂越の妙見寺に預けられ、養生する。 |
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此の時、連れて居た私の祖・次男高久は、歌手増位山の祖・元屋荘次左衛門に預けられるが、 |
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外祖父で養父の範長等一族五騎は、姫路北宿で力尽きる。 |
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残った我が一族は、高徳と和田四郎範家だけに成ってしまった。 |
仝十~十二月 |
療養全快し、叡山に行幸中の後醍醐天皇に伺候し、単身義貞の許に惟幕の人と成る。 |
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天皇密かに、恒良親王に「真の神器」と称した<燼余八咫鏡>を譲り、即位させ、 |
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北陸朝廷を義貞に立てさせようとせられた時、我が祖に、此の秘宝を護持する様勅命されるが、本物は保存し、 |
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偽物を造り携行する事に成る。真贋は不明だが、我が家に所蔵して有ったと聞く。 |
延元二年(1337) |
十二月 越前金崎城落城前、義貞・義助と共に、脱出し、<燼余八咫鏡>を護る。 |
延元三年(1338) |
七月 義貞の杣山城に有りて、叡山の僧徒に牒状を送り、味方を誓わしめしも、義貞の不慮の戦死に依り、北陸征伐に失敗する。 |
延元四年(1339) |
八月 <いとこおじ>の後醍醐天皇吉野にて、崩御。後村上天皇神器無くして、即位。 |
興国元年(1340) |
脇屋義助と共に、北陸を遁れ、敗残の兵を率いて、美濃・伊勢路を経て、吉野に帰参し、 |
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後村上天皇に「真の神器」<燼余八咫鏡>を献上し、天皇は真に即位された。 |
興国三年(1342) |
備前児島に帰郷中で有ったが、脇屋義助勅命に依り、四国征伐の軍に従い、日比港から出港し、今治に上陸したが、 |
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義助急死に依り、失敗し、備前児島に帰郷し、其の後、義助の遺髪を萬明山聖徳院聖宝寺に届ける。此の年、三男高貞生誕。 |
興国六年(1345) |
[太平記巻二十四]脇屋義治を迎え、旗挙を謀り、丹波国萩野彦六朝忠と通じ、尊氏直義を討たんとしたが、秘謀漏れて、 |
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萩野は降り、手勢を集めたが、直義に逆襲され、義治等と共に、信濃国天竜川の奥、大河原に居の宗良親王の許に逃れる。 |
正平元年(1346) |
宗良親王の許に有り、三河国梅ヶ坪に屋敷を賜って、南朝の荘園だった篠原・伊保地方から、矢作川に沿って、 |
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広瀬地方に至る地に城塞を構築し、兵を養い、此処を第二の故郷と定め、 |
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妻貞子と高秀を呼寄せ、高貞・良寛・一女を儲け、三河三宅の祖と至って居る。 |
正平七年(1352) |
[太平記巻三十一]後村上天皇天王寺行宮に、高徳を召され、 |
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「東国に使して新田・小山(何れも我が家と親戚)・宇都宮一族等と計らい、 |
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北国方面に於いて、兵を集めよ」との勅命を受け、高徳一万の兵を集め、西上せしも、時既に遅く、 |
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男山の官軍敗れ、帝は賀名生に落ちさせ給うたので、後を追い奉答し、賀名生に止る。 |
正平八年(1353) |
[太平記理尽抄]後村上天皇の勅命を受け御側にて、太平記巻十五を文筆し、又多武峯に於いて、 |
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寿永・教円法師等と共に、十二文筆し、単独で、廿二を文筆。 |
正平二十三年(1368) |
高徳は、後村上天皇と<はとこおじ>の間柄なので、常に側近として、内大臣の様な存在で、守護す。 |
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時には、三河に帰り、広済寺を創建したり、城塞を造ったりと三河三宅の基礎固めをして居たが、 |
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後村上天皇が摂津住吉の行宮で崩御せられ、寛成親王を高徳が擁立し、二十五歳で即位。 |
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此の若い長慶天皇を<いとこおおおじ>として、護り、北朝が奪回せんとして、常に追い回して居た三種の神器を死守する為、 |
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御側を離れる訳には行かなく成ったのと住吉の行宮は危うく成ったので、密かに紀伊国高野山の麓の天野村に行宮を移す。 |
文中二年(1373) |
此の天野行宮を熙成親王擁立失敗の楠木正儀が襲撃するが、漸く難を逃れ、 |
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山路高野山奥の院玉川の尼堂に居る伯母公長慶門院の許に走る。 |
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北朝方の強要で、楠木正儀一族は後亀山天皇の為に、三種の神器を奪わんと長慶天皇を襲い害いせんとするので、 |
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止む無く、<燼余八咫鏡>を譲る。 |
天授二年(1376) |
然し、渡した<燼余八咫鏡>は贋物で、遂に、近畿地方では、安全の場が亡く成ったので、天皇と三種の神器を奉じ、 |
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旅僧姿で、三河から中山道に出て、新田領上野国に居られた宗良親王の許に赴いて、穩栖した。 |
天授四年(1378) |
長慶法皇高野山麓玉川行宮の難を逃れ、九死に一生を得て、甲斐国富士谷を経て、宗良親王の許に遁避せられて来られる。 |
天授五年(1379) |
高徳は法皇に供奉し、東北巡行に出られ、佐竹・南部を説かんとしたが、足利勢が強く、 |
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帰途妙見寺に杖を留め、<有待>の書を残し、法皇は弘前市波園に自ら御陵を造られ崩御を装い、 |
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密かに高徳と共に、山伏姿で義貞の鎌倉攻めに出陣願った出羽三山を越え、上野国に帰る。 |
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(尾瀬ヶ原を通り、会津若松に出たとの書籍が多いが、現在の121号線を歩いたと思われる。 |
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何故なら、鬼怒川温泉の前後に、高徳・高徳寺・藤原と云う地枚が残って居る) |
天授六年(1379) |
三月 上野国古海に高野山古義真言宗医王山延命院高徳寺を開山。 |
弘和二年(1382) |
永年の労苦に依り、発病し、十一月二十四日上野国邑楽郡古海村にて、享年七十二(数え)没。(新12/29) |
弘和三年(1383) |
長慶法皇(御年四十一歳)高徳を厚く葬らた後、吉野に「長慶法皇は行衛不明と成った」と偽り、 |
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後亀山天皇の南北朝講和を牽制して居られた宗良親王に立ち寄られ、 |
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九州の懐良親王の許に預けて有った<燼余八咫鏡>を迎えて、 |
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後亀山天皇から北朝の後小松天皇に<燼余八咫鏡>が渡り、南朝は滅亡する。 |