半世紀議論が遅い>『日本語が亡びるとき』
もうすっかり話題も一段落した感じですが、『日本語が亡びるとき』読みました。流し読みだけど。
- 作者: 水村美苗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/11/05
- メディア: 単行本
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突っ込み始めるときりがない感じだったので特に気になったところだけ、数回に分けて突っ込んでいこうと思うのだけど。
とりあえず一番気になって仕方ないのは、p.256の以下の部分。
その日本の学者たちが、今、英語でそのまま書く(原文傍点あり)ようになりつつある。自然科学はいうまでもなく、人文科学でも、意味のある研究をしている研究者ほど、少しずつそうなりつつある。そして、英語で書くことによって、西洋の学問の紹介者という役割から、世界の学問の場に参加する研究者へと初めて変身を遂げつつある―世界の<読まれるべき言葉>の連鎖に入ろうとしつつある。
半世紀遅い。下手するともっと遅い。
まあ「自然科学はいうまでもなく」でそこは回避したつもりなのかも知らんが・・・例えばノーベル賞受賞で沸いている小林・益川理論が掲載された"Progress of Theoretical Physics"*1が刊行開始されたのは1946年。
最近自分がログ分析を手伝っている京都大学学術情報リポジトリの中で特に人気のあるコンテンツのひとつ、"The Review of Physical Chemistry of Japan(物理化学の進歩)"*2も戦前から海外版を出しているし、戦後は欧文誌化している(現在は刊行停止中)。
調べ始めるときりがないのでしないが、とにかく自然科学分野においては半世紀以上も前から英語でそのまま書きはじめていて、その甲斐あってというわけでもないだろうが日本の自然科学研究は一時、アメリカに次いで世界第2位の論文生産を誇るまでに至っていた*3。
調査年度や用いる資料によってイギリス・ドイツに勝ったり負けたりするのだが、世界で流通する科学研究のうち非英語圏発で最も数が多かったのが日本人の書いたものとなる時期があった、ということには変わらない。
自然科学はとっくのとうに「<読まれるべき言葉>の連鎖」とやらの中に入っているのである*4。
むしろ今はそこから中国の台頭や日本の停滞の結果、世界の科学研究の中で存在感を落としていくフェーズにすでに入っているわけで(同じく上記の資料によれば2007年の日本の論文生産数は中・英・独に抜かれ5位。論文生産成長率は5%で先進国中では唯一マイナス成長を示したロシアに次ぎ、下から2目)・・・
まあ中国もいろいろ問題を抱えているからこのままの勢いで伸び続けるかはわからないけど、とりあえず自然科学については「<読まれるべき言葉>の連鎖」の中で日本がどんだけ存在感を守りぬけるかが焦点になる位置にあって、しかもそのとき対峙すべきは西洋というよりはすでに米中って感じ(EUはすでにひとまとまりで見るべきかも知れないが)。
一方で人文学は水村さんの言うとおり、さっぱり世界的な研究の連鎖の中に入ろうとせずにいて、国際的に流通する人文科学文献の中で日本人の書いたものはわずか0.2%なんて話もあるくらい*5なのでそっちに限定すれば「世界の学問の場に参加する研究者へと初めて変身を遂げつつある」ってのはそうなのかも知れないけど・・・ただそこで気になるのは以下の記述。
今、目につくのは、インド人、中国人、韓国人、日本人などのアジア人が、数学、自然科学、生物学、工学、医学などの分野で世界的に活躍する姿である。(中略)だが、東アジア人にいたっては、まるで数学脳しかもちあわせていない人種のような印象をみなに与えている。非西洋語を<母語>にする人間にとって英語で書くのがいかに困難であるか、困難であるがゆえにいかにかれらの才能が数式で間に合う分野へと集中しているか、そういうあたりまえのことが世界の人、というよりも、こと西洋人には見えにくいのである。
ないないない。
なに、それじゃまるで英語で人文学やりづらいからSTM分野に人集まるような言い方じゃん。
ないないないないないない。
別に同じくらいやりゃあ出来るだろう人が集まっているくせに人文学の人たちが英語であんまり発信しなかったってだけで、STM分野やってる日本人やアジア人が英語が母語だったら人文学やるかってそんなわけない。
勝手にSTM分野を英語が母語じゃない才能を有する者の逃げ場みたいに言うのはやめてくれ。
STM分野じゃない俺でも引くわ。
ま、後半は蛇足として、前半にしても水村さんの問題意識が半世紀遅れているのか、人文学分野自体が半世紀遅れていたのか知らないけど、基本的に「今頃になって何言ってんだ・・・?」感が漂って仕方がない感じ。
自然科学分野を横目にしてちょっとは考えることなかったのか・・・って見てなかったんだろうなあ、全然(苦笑)
むしろこれから人文学も英語で発表していく時代になるってんなら、英語教育より先に考えておかないといけないのはいかにコンテンツを流出させないかだと思うけどね。
自然科学分野はそこは完全に失敗して、今や日本人の書く英語論文の7割以上は海外の出版社から発行され、高額の購読費を払って日本は買い戻さないといけない状態にあるわけで。
英語で/世界でより影響力を持つような出版方法を考えれば当然、人文学分野が英語で書きだしたらコンテンツは海外出版社/国際出版社に持っていかれる可能性が出て来て、そこからさらに学問だけでなく英語で書いたり読んだりが波及していくと、日本語と言う壁に守られてきた日本の出版市場の一部、学術書や専門書の部分を海外出版社に持っていかれる危険性はじゅうじゅうありうる・・・とかなんとか。
日本語が亡びる前に日本の学術出版完全消滅のお知らせが鳴り響いたりしないか・・・って方が心配っちゃあ心配で、それを考えると人文学の人にはいっそガラパゴス的にこもっていてもらった方がいいんだろうかとか思わないでもない・・・
話が発散してきたのでここらで。
「英語ばっか見てると足元すくわれるぞ」・・・って話は、余裕があったらこの次くらいに。
*2:The Review of Physical Chemistry of Japan 目録
*3:エルゼビア・ジャパン株式会社末尾、Yukun Harsono氏のプレゼンテーション参照。エルゼビア社の資料なのでおそらく数字はScopus準拠? いずれにせよ国内出版のみの和雑誌は除くと考えられる
*4:ただしその多くは最初に紹介したような日本が出版する英文雑誌ではなく海外の雑誌に投稿され・・・という話は、『筑波批評2008秋』に投稿した"「コンテンツ植民地」日本"参照。コンテンツ植民地! - 筑波批評社
*5:安達淳ほか. SPARC/JAPANにみる学術情報の発信と大学図書館. 情報の科学と技術. 2003, vol. 53, no. 9, p. 429-434.
むしろこれから起こるのはネイティブイングリッシュの破壊であるとか
下の『日本語が亡びるとき』の感想エントリについて先輩と話しているときに考えた話。
以前にTwitterでも取り上げた話題なのだけど、日本語が亡ぶかどうか考えるよりは『普遍語』に「なってしまった」英語の未来について考える方が面白いのでは、とかなんとか。
さて。
下のエントリでも書いたが、現在科学研究の世界では中国がものすごい伸びを見せていて、すでに英独日を抜き去ってアメリカに次ぐ第二の研究大国にのし上がっている。
これは論文生産数の話なので、要は世界で出回っている主要な科学研究論文(ほとんどは英語)の多くの部分は英語を母語としない中国人によって書かれているということである。
さらに中国に限らずインド、韓国、台湾などアジア諸国の論文生産数もこの10年で倍増あるいはそれ以上のペースで伸びており、ランク上位には入ってこないがそれ以外の中東諸国(イランとか。トルコは中東でカウントすると微妙だが)やブラジルなど南米の論文生産も着実に増えている。
また、EU諸国においてもスペイン、ベルギー、イタリアなどはこの10年で論文生産を1.5倍くらい伸ばしていて、英語圏であるイギリスが35%、アメリカに至っては10%の成長率しかないのに比べると着実に伸びている。
さらによく考えるとこれはあくまで「国別」のランキングで論文を書いた人間の出身地域を特定しているわけではないので、「アメリカで生産された」とされる論文の中にはアメリカ以外の、非英語圏出身の研究者による論文も多く含まれている可能性がある。
学術研究の世界で普遍語となっていると言われるだけあり、アメリカの論文生産数が群を抜いているため今はまだ(国別でみれば)英語圏発の英語論文の方が多いのだろうとも考えられるが(手元にグラフしかないのでちゃんと集計はしていないけど。もしかするともう抜いている?)、いずれ「英語を母語としない人間が書いた英語論文」の数がネイティブの書いた論文数を大きく上回る時代がやってくることは確実である。
実際、今の段階でも自分が日常的に読む英語論文の中でもかなりの部分、非英語圏出身者(中国、イラン、オランダ、そしてもちろん日本)の手によるものが増えている。
で。
たまに思うんだが。
ネイティブの英語論文より非ネイティブの英語論文の方が読みやすい場合がないか?
もちろん英語の表現としてはネイティブの方がこなれているんだろうし、ネイティブの論文でも読みやすいものも多いんだけど。
なんだかんだ言って母語としてその言語使っている人って(つまり自分にとっての日本語のようなものなので)難しい言い回しとか格好よくするための表現の工夫とかするわけで、でもそれって非ネイティブな自分みたいな読み手にとってはかえって理解しづらくなっていることがある気がする(全然表現はこなれてないけどこの文章が日本語母語としない人に絶対読みにくいだろうように)。
それに対して非ネイティブはそこまで難しい表現とか言い回し出来ないし、したくないってこともあってか、非ネイティブに優しい(中学〜高校の初期くらいの文法わかれば読めるような)論文になりがちな気がする(あくまで気がするだけだけど)。
あたりまえだけど自分の場合は日本人の書いた英語が一番読みやすい、みたいな。
すでにかなりの数非ネイティブの論文生産者がいて、読者はさらに多いであろう現状、本来であれば英語が母語じゃない者にとって読みやすい、非ネイティブの英語みたいなユーザフレンドリーな表現こそ好まれてしかるべきである。
だって科学研究の在り方を考えればより多くの人に理解できる方が好ましいんだし、だからこそ英語で書いてるんだから。
しかしながら、現状は非ネイティブが英語論文を書いた場合に入るのは「ネイティブチェック」だけであって、英語の文法や表現の正しさは見てくれるけどネイティブなんて一番小難しい英語表現を理解できる人たちなんだから、そんなチェックがいくら入っても非ネイティブに読みやすい表現になるとは限らない。
むしろ今後必要なのはネイティブチェックではなく、「非ネイティブチェック」であり、チャイニーズチェックやインディアンチェックやブラジリアンチェックやジャパニーズチェックになるんじゃないだろうか。
そこで日本で言えば中学か、せいぜい高校レベルでわかる程度の文の構造が簡易で、難しい表現がなく、語彙数が(必要最低限度に)少ない範囲の英語表現を模索して、それに則って書くようにすればずいぶんと非ネイティブに優しい英語論文になる気がする。
別に難しい表現にこだわらなくても論理通ってれば意味を伝える表現は出来るだろうし、それが出来るのが科学研究分野なんだし。
いいじゃん、別に"Because"や"But"が何回続いたって。
"That's why..."とか"However..."を使わなくたって。意味通れば。
関係代名詞が必要なら全部文を分けてしまえばいいし、とにかく中学生でも単語の意味知ってれば理解できそうなレベルまで表現力落としちゃってもまあなんとかなるんじゃないだろうか。
もちろんそんなことを言ったらネイティブサイドの猛攻にあうのは目に見えているが、すでに非英語圏生産の英語論文が一大勢力を成している今なら、共闘していけば学術研究における英語を作り変えていくこともそう夢じゃないだろう。
まず自分たちがなるべく簡易な英語表現を使う。
そして査読が回ってきたらなるべく簡易な表現に変えるよう突っ込みまくる。
編集委員とかになったらしめたもので、例えば接続しについての"USE"(〜を使いなさい)と"UF"(〜の代わりに使いなさい)のシソーラスを作るとかしてガンガン格好いい英語の言い回しを見て分かりやすいように作り変えていってしまえばいい(そうして出来た英語表現は、非ネイティブにとって読みやすいばかりか英語圏で暮らしているけどそこまで英語が得意でない/難しい表現が苦手な人(移民、若年者など)にとっても使いやすいものになるだろう)。
ユーザフレンドリーな/ユニバーサル・デザインな英語を、計画言語として作るんじゃなくて内部から徐々に浸透させていくという戦略こそ、「英語の世紀」に生きる非英語ネイティブとしての取るべき道なんじゃないかね、とかなんとか。
もちろん英語を母語とする人々にとっては大変鼻もちならない状況であろうが、そこはそれ、諦めろ「普遍語」w
上述のような戦略を実際に取るのはまあ、ありえないだろうけど(あったら面白いけど)、実際問題これからチャイニーズ・イングリッシュが学術研究を席巻するのは不可避で、そうなればどんなに中国人が英語がうまくても(イギリス英語とアメリカ英語があるように)中国人好みの英語表現が英語の中に混ざったり、果てはそっちが一部地域で一般化したりするから。
英語が研究において普遍語となった今、行うべきはネイティブイングリッシュの破壊と非ネイティブにわかりやすい普遍語としての再生である、とかなんとかー。
・・・べ、別に自分の下手くそな英語についての言い訳なんかじゃないんだからね!*1