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48.河野齢蔵 | |
高山植物研究の第一人者 松本市蟻ケ崎の市営墓地の一角に河野家の墓碑がある。外部は石畳で、内部は石室、上部の墓標に「河野家之墓」とある。裏面には、「余ハ島内村河野通重四 男ニシテ隣家河野久吾養子トナリ」とはじまる、当時74歳の河野齢蔵が昭和13(1938)年11月に書いた文章が刻まれている。「教育ニ従事スルコト四 十余年」「山岳研究」「幻灯ニヨリテ高山植物ノ生態及ヒ高山ノ景観ニツキテ御講演」などと紹介している。 齢蔵は、慶応元(1865)年2月8日、安曇郡犬飼新田村(現松本市島内)の庄屋河野通重の四男として生まれた。歌人であり、画を好み、植木・築庭など にも興味を持った父の感化が大きかった。 齢蔵の長兄は平瀬学校長の河野彦司、次兄は山本一蔵(飼山)の父幾蔵。三兄は北海道開拓の父といわれた常吉(「お南」に養子)である。河野一族は、「お 東」を中心とし「お南」「お西」と分家を創出し存続してきた。 明治16(1883)年12月、19歳で同族の河野久吾(「お西」)の養子となり、長女ゑいと結婚。大正6(1917)年10月23日、53歳の時に正 式に分家、60歳になったのを機に、13年4月に松本市新田町の自宅に帰った。 齢蔵は、明治16年に中等科教員免許状を受け、18年に長野県尋常師範学校入学、22年3月に卒業、同級生に矢沢米三郎がいた。 上水内郡上水内学校訓導として赴任。23年7月には北安曇高等小学校訓導、25年4月に松本尋常高等小学校訓導となった。 29年6月、32歳で文部省(現文部科学省)の尋常師範学校植物科教員の検定試験に合格、動物科・生理科・図画科の教員検定試験にも合格した。30年7 月に長野県尋常師範学校助教諭、そして同月内に大町尋常高等小学校訓導兼校長となった。 33年に長野高等女学校教諭、続いて長野師範学校教授嘱託、35年に下伊那高等女学校教諭、翌年同校校長に抜擢(ばってき)された。 齢蔵は、38年3月、矢沢米三郎校長の松本女子師範学校の主席教諭となり、9月に同校付属小学校主事になった。 大正2年4月、49歳で上伊那農業学校長に、5年4月には長野高等女学校長兼教諭、11年3月には諏訪高等女学校長になった。13年4月には松本第二中 学校(現松本県ケ丘高校)教授嘱託となる。昭和6年4月に教育界を引退、その後は生物などの研究に没頭した。 齢蔵は、教職の傍ら植物研究に打ち込み、近県はもとより北海道、千島、樺太まで旅行し、特に高山植物の生態分類分布を究め、矢沢米三郎らとともに信濃博 物学会(明治35年結成)と信濃山岳会(同44年結成)の創立に参画した。 植物の栽培、写真撮影などにも興味を持ち、授業や講演などに利用した。『高山植物』『日本アルプス』、宮中に献上された『日本高山植物図説』など、多く の著書があり、高山植物研究の我(わ)が国第一人者と称された。 大正10年発足の長野県史蹟(しせき)名勝天然記念物調査会の調査委員となり、没年まで調査に従事した。齢蔵の報告によって50余種が指定を受けた。 また、東久邇宮殿下、朝香宮殿下を日本アルプスに案内するなど、宮家の人が登山に来ると、県知事から案内の依頼が齢蔵にあった。昭和9年8月、朝鮮王朝 の李王殿下が田町の齢蔵宅で、高山植物と盆栽を台覧、11年8月には、李王殿下夫妻の案内をして白馬岳に登山した。 高山植物のロックガーデン(傾斜地を利用したり、岩や石を組み上げたりして造る花壇)は、我(わ)が国では齢蔵が初めて試みた。李王殿下の那須の御別邸 に建設されたロックガーデンは、齢蔵の創案で、玄関前の大自然石を利用して300余種の高山植物を標高順に移植した。 松本中学、松本第二中学などのロックガーデンも齢蔵の建設である。 信濃山岳会は、松本記念館内に山岳館とロックガーデンを造ることを決定、その一切を齢蔵に委嘱した。昭和13年5月に着手し、年内に第1期工事を竣工 (しゅんこう)した。この間、74歳の齢蔵は早朝から夕方まで作業員を督し、心血を注いだ。第2期工事は、齢蔵の逝去で頓挫したが、14年6月に完成をみ た。 齢蔵が48歳の時、今の田町の松本地方裁判所宿舎がある場所に家を新築した。建物と庭園や栽培している高山植物などの対応に工夫を凝らしたものだった。 1年後の明治45年4月22日、北深志の大火で類焼し、蔵書や高山植物培養品、標本などの大部分を焼失した。「今回の火災により修養の好機会を得たる事 と喜び居候」と、齢蔵は甥(おい)の山本一蔵からの見舞状に返信した。 長野市歌ケ丘に浅井洌「信濃の国」の歌碑と並んで、齢蔵の「わが子呼ぶ、鶫(つぐみ)の鳴く音はのどかにて、朝霧深し白馬の峯(みね)」の歌碑が建てら れ、昭和11年10月24日に除幕式が行われた。 齢蔵は、昭和14年4月3日午前11時、松本市新田町の自宅で亡くなった。75歳だった。4月6日午後1時から自宅で告別式が営まれた。寒い日で、降り 出した小雨は霙(みぞれ)になった。 信濃教育会は同年9月に『信濃教育』で追悼号を編み、関係各方面からの多くの記事を掲載した。 (松本市文書館館長=松本市) |
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