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【ドラニュース】中日OB木俣達彦さんがプロ野球最大の危機に提言「待つしかない。必ず試合ができる日は来る」2020年4月20日 10時46分
プロ野球は、現状では開幕がいつになるのかが全く見えない。新型コロナウイルスへの不安を抱えながら選手たちは、いつかわからぬ開幕に向け、汗を流す日々。そんな選手たちに、球団史を代表する捕手だった中日OBの木俣達彦さん(75)はこうエールを送った。 「打って、投げて、試合をして、お客さんに見てもらってこそ、初めてプロ野球選手。でも、今のコロナは命の危険さえある。最悪、今年1年は試合がないかもしれないが、待つしかない」。現役の後輩たちを気遣いながら、「試合ができない。これは本当につらい。でも、必ず試合ができる日は来る。これは間違いない」。そして、こう続けた。「プロ野球選手にとって、最もつらいことがある。試合があっても出られないことだよ」 くしくも、最初の東京五輪が開催された1964年に入団した。82年に引退するまでの19年間、現役を続けたが、82年5月23日を最後に、その後は針のむしろに座らされているような心境だったという。 仙台で大洋(現DeNA)と戦っていた中日は、木俣さんの本塁打などで9回表まで9―6とリード。後はその裏を抑えるだけだった。 マウンドにいたのは鈴木孝政さん。簡単に2死を取り、あと1人というところまでこぎつけたが「野球は2アウトから」の格言通り、局面ががらりと変わる。中塚、山下、屋鋪と3連打を浴び満塁。続く長崎には右翼席へ運ばれたのだ。 満塁弾で逆転サヨナラ負け。翌日、名古屋に戻ると近藤貞雄監督にこう告げられた。「これからは中尾(孝義)を見てやってくれ」。中尾とは、当時入団2年目の若手捕手。木俣さんにとって、捕手としては事実上の戦力外通告だった。 その日から木俣さんの野球生活は一変。野球はやるものから見るものに変わってしまった。たまの出番は代打のみ。決して守備につかせてはもらえなかった。「『まだまだ中尾には負けない』という自負があったからね。なんで俺を使ってくれないのか、と思ったよ」と振り返る。 苦労に苦労を重ねて手にした定位置だけに、その思いは強かった。団地住まいのころは、家でテニスボールを夫人に投げてもらい、打ち込んだ。一戸建てを建てると、今度は打撃マシンを買い、打ち込んだ。ひざ、肩、腹筋を鍛えるため「当時は30万円くらいだったけど、今なら100万円くらいじゃないか」という高価な器具をそろえたウエートトレーニングルームも自宅につくった。 その結果、74年にはリーグ2位の打率3割2分2厘を記録し、チームの20年ぶりのリーグVにも貢献した。そんな地位が一度の失敗で吹っ飛んだ。気持ちが割り切れぬ日々が続いた。 しかし、近藤監督の目も確かだった。中尾が攻守に活躍し、木俣さんの代役以上の存在に。これを見て、季節が秋になるころ、木俣さんも心を決めた。「今年で引退しよう」。あの日、仙台で打った通算285号がプロ最後の本塁打となった。 当時、同じような立場に置かれていた元エースの星野仙一さんに気持ちを伝えると「俺も辞めるよ」と返された。チームは130試合目でV。気持ちは「有終の美を飾れてよかった」と思えるまでに変わっていた。 あれから約40年。プロ野球は空前絶後ともいえる危機に立たされているが、このコロナ騒動だけは、誰にもどうにもできない。 その一方で、時間はたっぷりある。「練習も満足にできないのもつらいと思うけど、家でもできることはいくらでもある。テニスボールを使った練習は、選球眼を養うのに本当に役立った。ウエートでパワーもついた。この時間を利用して、課題がある選手はしっかり克服して、レギュラーになればいい。時間は有効に使わなきゃ」と木俣さん。75歳になるが、いまだに気持ちだけは前向きで変わらない。 PR情報
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