360韓鶴子自叙伝の検証4.3/「真の母」を捨てた「平和の母」
韓鶴子自叙伝の検証
目 次
(1)文先生の証なし
(2)準備された主の花嫁
(3)主語の書き替え
(4)独生女を世界で宣布
(5)大転倒した信仰
(6)完成した真の父母
***
(1)文先生の証なし
[1]文先生の証をしていない
■韓氏オモニ自叙伝「人類の涙をぬぐう平和の母」日本語版が出版されました。私は3月26日、愛美書店で買い求めました。一読した感想は、やはり韓氏オモニは文先生の証をしていないということです。
文先生の自叙伝「平和を愛する世界人として」では、文先生は「私」を主語として語っておられます。韓氏オモニはその部分をことごとく「私たち夫婦」に書き替えています。韓氏オモニは文先生と一体の「真の父母」なのだから、文先生にとっての「私」は、韓氏オモニにとっての「私たち夫婦」でおかしくないという声が聞こえてきそうです。
00:00:45(1)文先生の証なし/00:03:26(2)準備された主の花嫁/00:20:46(3)主語の書き替え
01:09:05(4)独生女を世界で宣布/01:24:25(5)大転倒した信仰/01:50:00(6)完成した真の父母
01:09:05(4)独生女を世界で宣布/01:24:25(5)大転倒した信仰/01:50:00(6)完成した真の父母
■韓氏オモニ自叙伝を通読してみれば、文先生の印象は限りなく薄れています。何も知らない人が読むなら、すべての摂理を韓氏オモニが主導してやって来たかのような印象を与えられます。この本によって韓氏オモニは文先生の業績を横取りした泥棒、もしくは文先生の業績を自分の業績に見せかけている詐欺師と言うべきです。
[2]この本の性格を表す写真
■この本の巻末にグラビア写真集が付いています。この中に、北朝鮮訪問時の歓迎晩餐会の席上、韓氏オモニと金日成主席が乾杯している写真があります。この時、ちょうど文先生の顔が金日成主席の腕の陰になり、隠されています。
この写真に、韓氏オモニを文先生の上に置き、文先生の業績を隠そうとする、この自叙伝の性格が見事に現れています。普通ならこのような写真は絶対に選びません。韓氏オモニの文先生を消し去ろうとする底意が、このような写真を掲載させたのだと思います。
[3]私が全部やりました
□韓氏オモニ:私は真の母、独り娘として、そして宇宙の母として、すべての摂理を完成し、新しい時代を開きました。(「平和の母」P.324)
■この表現で分かるように、もはや韓氏オモニにとって真の父は必要ありません。運動会で借り物競走というのがあります。例えば村の運動会で青年が走る場合、お題が「小さな女の子」ならば、そのような女の子を探してゴールまで走ります。女の子が小さければ背負うこともあるでしょう。
それで1番でゴールした時に、その女の子が青年に向かって「私のお陰で勝った」「私だから勝った」「私が全部やった」と言ってるようなものです。ところが、韓氏オモニには文先生の業績を自分の業績として付け替えた、盗んだという自覚はありません。「私が全部やった」という考えは、自分がメシヤであるという錯覚から、自然に出てくる発想なのです。
□王様:これを誰が知り得たでしょう。奥義であったというのです。50年の間、文先生に侍り続けながら心の奥底に大きな秘密があったのです。その秘密とは何か。「文先生のために皆が集まると思いますか。私がいるためにこの教会は滅びないのだ、私がいるから、この教会は成功しているのだ」バビロンの秘密です。「私が清い血統であるために文先生を救った、文先生の淫行を防いだ」「実は私が独生女、メシヤ、神なので文先生は成功することができる」という、このような秘密です。(2015.9.16)
■2014年7月1日、韓氏オモニが「血統転換、私は母胎からです」と語っている姿には気負いがなく、淡々として、引き込まれる不思議な力がありました。本人は頭からそのように信じているのです。
[4]証拠が揃っている
□韓氏オモニ:ここに座った真のお母様は、6000年ぶりに誕生した独り娘だ。説明することができます。証拠が揃っています。私が生まれたとき、サタンが「お前が生まれる故に、私は死ぬことになる。だからお前を殺さなければないのだ」と私を殺そうとしました。天は韓民族を通して、この摂理歴史を6千年前から繰り広げられたことになります。なぜ大韓民国、「韓」という文字が登場するようになったのでしょうか?(2014.7.1)
■韓氏オモニは独生女でした。独生子である文先生の妻ですから、当然のことです。それは2000年のキリスト教が求めてきた独生女であり、6000年の人類歴史が求めてきた独生女であると言うこともできます。ですから、韓氏オモニが「証拠が揃っています」と言うように、その位置に就くべく導かれてきた数々の証拠が揃っていない訳がありません。
□王様:当時、私たちの誰もが全く気付かなかったのです。このバビロンの秘密に。誰もお母様が自分をそこまで自己崇拝していることを知りませんでした。それは文字通りサタンの秘密兵器だったのです。金孝南にそそのかされてしまったのか、もとから自分で思いこんでいたのか、それは分かりません。ともかく、しばらく説得に全力を傾けた期間がありました。ある時は懇願し、またある時は制止しようとしました。しかし、もはや誰が何と言おうと一切耳を傾けられなくなりました。(2015.10.25)
[5]自己崇拝
■このように、韓氏オモニは「自己崇拝」をした結果として、自分の位置を文先生の上に置きました。それが重大な原理違反になりました。自分がメシヤだというのは完全な勘違いであり、どうしてそのような勘違いをしてしまったのか信じがたいことですが、それは実際に起きてしまいました。勘違いは数々の証拠の裏付けにより、絶対的な確信にまで成長しました。
□王様:会話の中で、私はこう言いました。「お母様は勝利された真の母であり、真のお父様の花嫁です」それに対して、お母様はこう言われました。「違います。私は神であり、メシヤです」「私は何でもできます」。お母様は「絶対権力」という言葉を用いました。「私は絶対権力を持っている」。想像して見て下さい。同じ部屋にいる自分の母親の口から「私は絶対権力を持っている」というセリフを聞いたのです。これを叫ばれました。その声は部屋中に響き渡りました。(2015.10.25)
[6]勘違い
■この世で成功した金持ちはたくさんいますが、そのような人の中で、自分は世界1の金持ちであると言える人はめったにいません。しかし、世界で2番目の金持ちなら、それを言うのは難しくないでしょう。これと同じで、なぜ韓氏オモニが自分がメシヤであると思い込んでしまったのか、普通人の私たちにはなかなか理解することができませんが、真の母として人類第2の立場に50年以上もいて、証拠もあり、称賛も受けてきたのなら、自分こそ人類第1のメシヤであると勘違いするのも、それほどハードルが高くないのかも知れません。
この自叙伝は初めから終わりまで、そのような勘違いの観点から書かれたものです。韓氏オモニは気負いなく、自分の考えを率直に述べています。注意して読まないと、読者もいつの間にか勘違いの世界に引き込まれてしまうでしょう。
(2)準備された主の花嫁
[7]3.1独立運動
■この本の記述は1919年の3.1独立運動の場面から始まります。
□韓氏オモニ:その日は、既に節気では春が訪れた三月の初日でした。まだ霜が残る早朝、平安北道安州の空は、薄い霧でどこまでも覆われていました。…正午を少し過ぎた頃、女性は穏やかな表情で、家を出ました。背中に娘を背負い、胸には太極旗を抱えていました。…その女性は、市場の真ん中にある野菜売り場で足を止めました。…次の瞬間、喊声が上がりました。「大韓民国万歳!」その叫び声が途切れないうちに、女性は懐から太極旗を取り出して激しく振り、力の限り叫びました。「大韓民国万歳!」
…すぐに、鋭い笛の音が鳴り響きました。日本の巡査たちが手に小銃と警棒を携え、市場になだれ込んできたのです。無慈悲に振り回される警棒に打たれた人々が、あちこちで血を流し、倒れました。日本の巡査は男でも女でも、お構いなしでした。女性は娘の命を守るため、涙を飲んで引き下がるしかありませんでした。…女性はまだ時ではないこともよく分かっていました。
「近い将来、宇宙の母、平和の母、独り娘が生まれ、独り子と出会って愛と平和の真の母となり、韓半島やアジア、世界に真の平和をもたらすだろう。そのために、しばしの屈辱は耐えなければならない」その女性が信じたとおり、「大韓独立万歳」の声が響き渡った一九一九年から二十四年後、天の摂理によって、民族を超えた人類の松明(たいまつ)として、この地に独り娘が生まれました。当時、太極旗を熱心に振ったこの女性こそ、私の祖母、趙元模(チョウォンモ)です。(「平和の母」P.20〜23)
[8]1920年文先生誕生の記載なし
■祖母趙元模が「近い将来、宇宙の母、平和の母、独り娘が生まれ、独り子と出会って愛と平和の真の母となり、韓半島やアジア、世界に真の平和をもたらすだろう」と信じていたということはあり得ません。祖母趙元模が信じて待ち望んでいたのはイエス様の再臨です。
それに、「大韓独立万歳」の翌年1920年に文先生がお生まれなったと書くべきなのに、それを飛ばして、「24年後に人類の松明として独り娘が生まれました」と述べているのですから、韓氏オモニは自叙伝の出だしから、思いっきり、文先生を無視しています。
[9]8.15解放
□韓氏オモニ:祖母の独立万歳の声が轟いてから二十四年が過ぎた年に、私は生まれました。そして、私が数えで三歳になっていた一九四五年の八月十五日、解放を迎えたのです。その時、祖母は孫である私を背負い、町に出ました。太極旗を握りしめ、解放された喜びのあまり、喉がつぶれるほど万歳を叫びました。このように渦を巻く歴史の中心において、天は「宇宙の母」、「平和の母」をこの地上に送りました。
天は己未(つちのとひつじ)の年(一九一九年)に独立万歳運動に飛び込んだ祖母の趙元模から始まり、絶対信仰を持つ母の洪順愛(ホンスネ)、そして私に至るまでの、三代にわたる一人娘の家門を選ばれたのです。再臨の主を迎えるためにあらゆる困難を越えて準備してきただけでなく、国を愛する心を伝統として持つ家系でした。(「平和の母」P.23)
[10]再臨主の扱いが杜撰
■国を愛する家系なら、8月15日に洪順愛大母様はどこにいたのでしょうかと突っ込みたくなります。「三代にわたる一人娘の家門が再臨の主を迎えるためにあらゆる困難を越えて準備してきた家系である」というのなら、この本では、再臨主である文先生の扱いがあまりにも杜撰(ずさん)なのは一体どういうことなのでしょう。1920年に文先生が誕生されたという記述は、この本のどこにもありません。序文の最後に以下を書いています。
□韓氏オモニ:本書の執筆を終えつつある今、ひときわ、慕わしくなる方がいます。夫婦の絆を結び、共に生涯を神様のみ旨をかなえるために生きて、八年前に天の国に召された私の愛する夫、文鮮明総裁です。(「平和の母」P.7)
■本の出だしから文先生を無視しておいて、最後になってようやく思い出しているかのように書いています。それも、「共に生涯を神様のみ旨をかなえるために生きて」という表現から分かるように、文先生を再臨主として仰ぐ姿勢がどこにもありません。祖母趙元模も洪順愛大母様も再臨主を迎えるために壮絶な精誠を捧げて生きました。霊界から韓氏オモニを見て、さぞかし嘆き悲しんでいることでしょう。
[11]韓鶴子が生まれた
■韓氏オモニは13歳の時に初めて文先生に会い、その4年後、17歳の時に文先生と聖婚します。聖婚式が近づくにつれ、夢や啓示によって、自分が主の花嫁になることを悟ります。
□韓氏オモニ:母が統一教会に入教したのは、一九五五年十二月十五日のことです。翌五六年、…その年の初めに鳳儀(ポンイ)小学校を卒業した私は、数えでは十四歳になっていました。…私は、初めてお目にかかる文総裁に、丁寧に御挨拶をしました。…私は恭しくお答えしました。「韓鶴子と申します」すると文総裁が、誰に言うでもなく、驚いたようにつぶやかれたのです。「韓鶴子が韓国の地に生まれた。韓鶴子が韓国の地に生まれた。韓鶴子が韓国の地に生まれた」(「平和の母」P.96〜97)
■文先生が韓氏オモニの名前を三度繰り返して言われたという話はよく知られています。このあと、聖婚が近づくにつれ、母や元老女性信徒が見た夢を聞かされ、韓氏オモニは自分が主の花嫁候補であることを理解していきました。
[12]主の花嫁候補
□韓氏オモニ:文先生は何より、自身を犠牲にして献身的に歩む、ために生きる心を持った女性を探していらっしゃいました。学歴や家柄、財産、美貌は求めていらっしゃいませんでした。絶対的な信仰を持って、この世界に愛を施せる女性、この世界を救うことのできる女性でなければなりません。そのような女性を見つけるため、文総裁は聖婚なさらずにいました。宇宙の母となる天の新婦がすぐ近くにいるのですが、時を待たなければならなかったのです。私は天のみ意(こころ)に気づいていましたが、それを話すことはしませんでした。探し出すのは文総裁の責任だったのです。(「平和の母」P.106)
■呉執事という人が夢を見て、韓氏オモニが主の花嫁だということを確信し、そのことを文先生に報告しました。
□韓氏オモニ:「洪順愛さんの娘、韓鶴子が天の新婦です」文総裁からは何の返事もありませんでした。おそらくそれは、既に文総裁の周りに、弟子たちから推薦された新婦候補がたくさんいたからでしょう。しかし私は、心配しませんでした。なぜなら、天の独り子は独り娘と聖婚しなければならないのであり、独り娘を探し出すことは、独り子の使命であるとともに、その本分だからです。いくら家柄が良いとしても、天が準備した独り娘でなければ、独り子と聖婚することはできません。当時、世間的にはまだ幼く見えたかも知れませんが、天に対する私の気持ちは既に固まっていました。私は時を待っていました。(「平和の母」P.110)
■そして、天からの直接のお告げもありました。
□韓氏オモニ:その頃は、夜に夢のお告げがあるのはもちろん、澄み切った空からも、波が押し寄せるように休みなく、啓示が下りてきていました。「時が近づいた」それは子供の頃からよく耳にした、天の声でした。…「その日が近づいた。準備をしなさい」それは天の厳然たる訓令でした。…エデンの園でアダムとエバは神様と直接会話をしていました。つまり、神様のみ言を自分の耳で聞いたということです。私も子供の頃から、神様といつでも会話を交わすことができました。(「平和の母」P.110〜112)
[13]文総裁を独り子として迎える
■このような経過を経て、いよいよ聖婚式を迎えます。
□韓氏オモニ:宇宙の母、平和の母になるための「子羊の婚宴」に出ることができるのは、神様が準備された独り娘だけです。世界を救い、平和な世を作るためには、私が決心しなければなりません。そうしてこそ、文総裁も真の父母の立場に進むことができるのです。私は文総裁を独り子として迎え、神様のみ旨を成し遂げてさしあげると決心しました。それは神様が私に下さった、天の新婦、宇宙の母としての使命でした。(「平和の母」P.114)
■「私は文総裁を独り子として迎え、神様のみ旨を成し遂げてさしあげると決心しました」とあります。本当に文先生を再臨主と考えているなら、あり得ない言い方です。
[14]文総裁との聖婚を決めた
□韓氏オモニ:安心して頼れるものがどこにもない中、私は「神様が私の父である」ということを信じ、神様の夢と願いを成してさしあげるという信念を持って成長しました。「いかなることがあっても、私の代で恨(ハン)に満ちた天の復帰摂理を終わらせる」という決意に満ちていましたし、そのような心で、文総裁との聖婚も決めたのです。(「平和の母」P.132)
■「そのような心で、文総裁との聖婚も決めたのです」と、ここでも自分が動機となって聖婚を決めたという、自分を主体に置いた言い方をしています。
[15]再臨主を求めた祖母と母親
■韓氏オモニは、祖母の趙元模および母親の洪順愛大母様が、聖主教と腹中教を遍歴しながら再臨主を求めてきた家系に生まれました。再臨主とはイエス様の再臨であり、それも韓国に肉体を持って生まれる再臨主です。そして洪順愛大母様が文先生に出会うことになります。
洪順愛大母様は腹中教時代に夢でもいいから再臨主に会いたいと願ったところ、文先生の夢を2回見ました。1回目は、机の前で鉢巻きをして勉強しておられる姿で、自分の方に振り向きながら「私はあなた一人を探そうとしてこのように勉強しているのだ」と言われました。
2回目は、初めの夢から1ヶ月ほど経ったとき、同じ人物が出てきて、北に行ってもっと勉強しなければならないと言われたので、荷物をリュックサックに詰めて差し上げたところ、それを担いで北に向かって一人寂しく行かれるという夢でした。洪順愛大母様は1955年12月、青坡洞(チョンパドン)教会を訪ねた時、初めて文先生に会いました。その時、文先生が夢に出てきた人物と同じだったので、すぐに再臨主だということが分かりました。
□洪順愛:そのままソウルに上がってきて、先生にお会いしあいさつをしました。あいさつをささげると、北韓にいるときに二度夢のお告げでお会いした正にそのかただったのです。あまりにもおそれ多い思いがして、身の置きどころがありませんでした。(「愛の世界」P.161)
[16]文先生を仰いだ韓氏オモニ
■困難な精誠を捧げ続けてようやく巡り会い、既に夢で見ていた文先生でしたから、洪順愛大母様が文先生に出会った感動は、どれ程大きかったでしょうか。その感動は韓氏オモニにそのまま伝わり、母親の信仰のままに、韓氏オモニも文先生を再臨主として仰ぎ、無条件に受け入れました。
その韓氏オモニが「私は文総裁を独り子として迎え、神様のみ旨を成し遂げてさしあげると決心しました」とか「そのような心で、文総裁との聖婚も決めたのです」とかの、自分を主体に置いた考え方は、その当時、絶対にあり得ませんでした。韓氏オモニは1977年5月3日、ベルベディアで以下のように語りました。
[17]無私の立場で準備
□韓氏オモニ:聖婚日の一か月前に、先生が夢に現れ、神からの特別な啓示を受けました。「その日が近づいたので、準備しなさい」…そして祈祷せざるをえませんでした。「今まで私はみ意のままに生きてまいりました。今、神のみ意が何であったとしても、神の摂理の目的がどんなものであったとしても、私はあなたの僕としてどんなことでも命じられるままに従います」啓示に対して私の心を応答してみせました。
それは私が十八歳のときの春二月ごろでした。私は完全に無私の立場に立って準備していましたから、その事情など分析したくはありませんでした。神のみ意のままに、全面的に身をささげることをひたすら願っていました。(1977.5.3「愛の世界」P.20〜21)
■韓氏オモニはこのように自分自身を無私の立場でみ意のままに捧げようとしていたのですから、自分が文先生に対して主体の立場でものを考えることなどあり得ませんでした。また、文先生を以下のように見ていました。
[18]偉大な先生
□韓氏オモニ:一九六〇年に聖婚式が挙行され、私は今、天宙的な使命を帯びておられる偉大な先生と結婚した女性であるわけですが、お父様のその天宙的使命をそばで見るならば、普通の人間にはそのような使命を果たすということを考えることすら不可能なことです。(1977.5.3「愛の世界」P.23)
■このように、文先生を天宙的な偉大な先生と見たのであり、自分を普通の人間として考えていました。ですから、文先生に対して自分を主体の立場において考えることなどあり得ませんでした。自分がメシヤであると勘違いした現在の観点から当時を振り返り、文先生との聖婚を、あたかも自分が主体の立場で受け入れ、決定したかのように脚色しているのです。
[19]嫉妬と憎しみ
■文先生の周りでは、自分こそが主の花嫁であるとして、多くの女性たちが争いました。
□文先生:七十歳になる歳を取った人たちから少女に至るまで、すべての女性たちが、「命を懸けて先生と結婚したい」と思ったことは、歴史上の記録です。多くの女性たちが精誠を込めて、命を懸けて相対になろうとしたことは記録に残さなければいけません。サタン世界のどんな女性よりも、彼女たちが記録にならなければならないというのです。…お金があって、勉強をして、大学を出て、立派な家門をもった女性たちは、非常に自信をもって、そのように考える人々も多かったのです。その時、先生が四十歳だっただけに、二十五歳以上、二十八歳、三十歳を中心として、その前後の女性たちの夢は実に高かったのです。(真の御父母様の生涯路程④」P.31〜33)
■その中で選ばれたのは、北から避難してきた、家柄も不明な、貧しい母子家庭の韓氏オモニでした。だから、韓氏オモニが受けた嫉妬、憎しみの攻撃はたいへん大きなものでした。
□韓氏オモニ:覚悟はしていましたが、新婚当初から、荒々しい波が容赦なく私に襲いかかってきました。夫婦の安らかな生活など、最初から期待することもできず、「平穏」という言葉を口にすることもできないほどでした。(「平和の母」P.121)
[20]外泊は文先生の決定
■そして、韓氏オモニは以下のように述べています。
□韓氏オモニ:聖婚後しばらくして、私は小説に出てくる宮中秘話のようなことが起こらないよう、外で暮らすことにしました。(「平和の母」P.125)
■文先生の住まいは青坡洞教会の2階でした。この教会で聖婚式を挙げ、韓氏オモニは1階の奥の部屋に住みました。ところが、そのまま教会に住めば問題が起きるので、外で暮らすことになりました。その決定をしたのは文先生なのですが、「外で暮らすことにしました」と、まるで韓氏オモニは自分が決めたことのように書いています。
外で暮らすことを17歳の花嫁が自分で決めるはずがありません。文先生以外の誰が、そのような普通では考えられないことを決めることができるのでしょうか。その決定には重大な意味がありました。
□文先生:そうして三年間、お母様を金寅哲(キムインチョル)の家に間借り暮らしをさせたのです。他人の家で寄食するのです。さらに、教会に一日、二回も来られないのです。一日のうち夕方に一回だけ来るのであって、二度来てはならないのです。それも、来る時は正門から入っても、出て行く時は裏門から出て行かなくてはなりません。
世の中のどこにそんな道理がありますか。外泊暮らしです。…少なくとも百二十人以上の女性たちが競争したのです。ですから、それをそのままにしておけば、この世よりも恐ろしいのです。毒薬を飲ませて殺すようなことが起きるのです。ですからその憎しみの矢を防ぐために、三年の間外泊させたのです。(真の御父母様の生涯路程④」P.56)
[21]愛ゆえの冷遇
■文先生は洪順愛大母様に対しても正門からの出入りを禁じました。親子に対して冷遇したのです。これもすべて韓氏オモニを守るための文先生の作戦でした。しかし、それを本人に教えることはできませんでした。韓氏オモニが冷遇され、苦しむ姿を見て、嫉妬していた女性たちの考えが変わっていきました。
□文先生:ですから、おばあさんたちを初めとして統一教会の女性たちが、一番最初のころは憎いと思っていたのですが、自分たちがよくよく見ながら考えると、「先生もやり過ぎだ。お母様を迎えたならば一緒に住むべきでしょう。何ですか、外にほうっておいて、一緒に住まないなんて」と同情したのです。そのようにして悪口を言ったのを全部蕩減復帰するのです。(真の御父母様の生涯路程④」P.58)
■韓氏オモニは外で暮らしたことを自分の考えでおこなったことのように書かずに、韓氏オモニを守るために、文先生が深い知恵と真の愛からそのようにされたことであることを、正直に書くべきでしょう。
(3)主語の書き替え
[22]宣教師の派遣
■初期の統一教会は極めて貧しい状況にありました。犬の餌を食べたという話は有名です。
□文先生:皆さん、見なさい。3年の間、我々は苦労しました。食べるものも食べられず、着るものも着られませんでした。ではあっても、へたばりはしません。先生が本部にいて、ある食口は犬の餌を取って食べたという話を聞きました。腹がへって、めしを食っている犬に向かって「や!こいつ、おまえはおまえの主人のためにめしを食っているかもしれないが、おれはこの人類のために、天地のために生きているのだから、このめしはおれが食うぞ!おれが食うぞ」と言って、そのごはんを食ったという話を聞きました。(1964.3.15)
■このような状況にも係わらず、文先生は早い時期から海外に宣教師を派遣しました。これに関し、韓氏オモニは以下のように述べています。
□韓氏オモニ:世界に出ていくべきだと主張する信徒もいれば、国内で先ずしっかりとした教会を建てようと言い張る信徒もいました。どちらもおろそかにはできないことでしたが、私たち夫婦は「韓国」よりも、「世界」を選びました。ですから、教会の外観はいつまでもみすぼらしいままでした。一九八〇年代に入っても、立派と言える教会が一つもなかったのです。(「平和の母」P.141)
[23]宣教は聖婚前の決定
■宣教師の派遣を「私たち夫婦」が決めたかのように書いています。本当でしょうか。文先生は自叙伝に以下のように書いておられます。
□文先生:ソウルの西大門(ソデムン)刑務所から釈放された一九五五年は朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた直後であり、食べていくのがとても大変な時でした。しかし、当座は食べていくのが大変だとしても、将来の計画を立てる必要がありました。今はまだ大勢がともに集って礼拝を捧げる大きな教会もありませんでしたが、遠い将来のことを準備しなければならないと思ったのです。
世界情勢を見たとき、日本を憎い敵とばかり考えて、無条件に排斥してはならないと思いました。そこで、何度か宣教師の派遣を試みましたが、いずれも成功には至りませんでした。最後に使命を果たしてくれたのが崔奉春(チェボンチュン/日本名は西川勝)です。一九五八年、甲寺(カプサ/忠清南道の鶏龍山にある)の裏山に崔奉春を呼んで、私は言いました。「おまえは、今すぐ玄界灘を渡って行かなければならない。勝利するまで戻ってくることはできない」(「平和を愛する世界人として」P.156)
■日本に崔奉春宣教師を派遣したのが1958年7月15日、アメリカに金永雲宣教師を派遣したのが1959年1月2日です。聖婚前の早い段階から海外宣教の方針は文先生によって決められていました。一体どのようにして韓氏オモニは宣教師の派遣に口を差し挟むことができたのでしょうか。あり得ない話です。
[24]リトルエンジェルスの創設
■韓氏オモニはリトルエンジェルスについて以下のように述べています。
□韓氏オモニ:韓民族はもともと、独特で美しい文化を持っていましたが、日本の統治と韓国動乱を経験して、それを失ってしまったのです。貧しい韓国人が、世界の人々の目に、未開の民族として映るのは無理からぬことでした。甚だしくは、韓国人には固有の文字がなく、中国や日本の文字を使っていると誤解されることもありました。そのような間違った認識に、私は胸を痛めていたのです。…韓民族は「未開の民族」、「文化を持たない民族」だという、誤った認識を正さなければならないと決意したのです。
リトルエンジェルスはその一つの結実でした。貧困と政治の混乱から国中が揺れていた一九六二年五月五日の「子供の日」、韓国舞踊と合唱を披露する「大韓児童舞踊団」(現リトルエンジェルス芸術団)をつくろうとしたのですが、当時は教会内部からも激しい反対を受けました。
反対する理由の第一は、経済的な問題、第二は、もしお金ができたとしても、まずは教会を建てるべきというもの、さらに第三は、どうせ合唱団をつくるのなら、大人の合唱団のほうが良いのではないか、というものでした。それ以外にも反対する理由はたくさんあったでしょうが、私たち夫婦の意志をくじくことはできませんでした。(「平和の母」P.189〜190)
■このように、韓氏オモニはリトルエンジェルスの創設に関し、自分も係わっていたかのように述べています。また、リトルエンジェルスの初公演は一九六五年にアメリカで行われましたが、当時ベトナム戦争の真っ最中で、大きな冒険であったと述べ、以下のように書いています。
□韓氏オモニ:しかし、私は少しも心配しませんでした。子供たちの歌声は純粋そのものであり、その純粋さが人々の心を一つに和合させ、平和をもたらすということを、体験を通じて知っていたからです。(「平和の母」P.191)
■これらは、本当のことなのでしょうか。文先生は自叙伝に以下のように書いておられます。
[25]文先生の計画
□文先生:一九六三年のことです。そうやって集めたお金で、十七人の子供たちを選んで「仙和(ソンワ)児童舞踊団」(後に「リトルエンジェルス」と呼ばれる)を創設しました。当時、韓国の文化的土壌は悲惨なものでした。私たちが見て楽しむものはもちろんのこと、人に見せられるものもありません。人々は、韓国の踊りとはどんなものか、五千年続いた韓国の文化とはどういうものかを全部忘れて、ただただその日一日を生きることにあくせくしていました。
私の計画は、十七人の子供たちに韓国の踊りを教え、世界に送り出すことでした。韓国といえば、戦争と貧困ばかりを思い浮かべる外国人に、大韓民国の美しい踊りを見せて、韓民族が優れた文化を持つ民族だと知らせようと考えたのです。私たちがいくら五千年の歴史を持つ文化民族だと主張したところで、彼らの前に見せるものがなければ、信じてくれるはずがありません。(「平和を愛する世界人として」P.162)
■当時まだ駐米大使館に勤務していた朴普熙(パクボーヒ)先生はこの計画を文先生から聞かされ、世界公演の拠点をアメリカに作るようにとの要請を受けました。朴先生はその計画に全面的に賛同したものの、一つだけ疑問があって、それを文先生に尋ねました。
[26]なぜ「児童舞踊団」なのですか?
□朴普熙:しかし、私は一つだけ釈然としなかった。私はそれを手紙で申し上げてみた。「なぜ『児童舞踊団』なのですか?そんな鼻をずるずる垂らした幼い子供たちを、どうやって世界の舞台に連れて回るというのですか?」と。先生は感銘深い答弁を下さった。「子供は平和の象徴である。五色人種のすべてが誰彼問わず子供を愛する。子供たちは人種と宗教と思想を超越する。子供を通して世界は一つにならなければならない。
イエスも『あなた方が幼子のようにならなければ、天国にはいることができないであろう』(マタイ福音書十八章三節)と言われたではないか。イザヤ書(十一章六節)でも『小さいわらべに導かれ』るであろうと言っている。子供たちの純潔と正直!お金も名誉も異性も知らず、ただ喜んで踊る彼らこそは、天国の象徴である。韓国の平和愛好の精神を、われわれの子供たち以上にうまく表現するものはいない」と言われたのである。
私は過去三十年、この子供たちと世界各国を回りながら、その時の先生の慧眼がどれほど正鵠(せいこく)を射たものであるかを重ね重ね確認した。それは的確な予言であった。リトルエンジェルスは世界の津々浦々、行く先々で歓迎を受けないところがなかった。まさに幼い天使たちは平和の使徒であった。われわれが発見したリトルエンジェルスの力は恐るべきものであった。
それは「美と愛のパワー」である。リトルエンジェルスをもって貫けない障壁はなく、その心を溶かせない人はいない。ホワイトハウスの高い垣根も何度も越えた。ニクソン大統領は英国のヒース首相の国賓晩餐会にリトルエンジェルスを招請したのである。(「証言上巻」P291〜292)
[27]文先生の独創
■朴先生すら「そんな鼻をずるずる垂らした幼い子供たちを、どうやって世界の舞台に連れて回るというのですか?」という疑問を持ったほどに、当時において児童舞踊団を作るという発想は信じられないものでした。それはまさしく文先生にしかできない独創でした。
それをして韓氏オモニは、「私たち夫婦」がいかなる反対にも意志をくじかれることなく作り出したものであるとか、アメリカ初公演の成功についても、私は何の心配もしなかった、体験を通じて知っていたとか、嘘としか思えないことを書いています。韓氏オモニは朴先生のように文先生の発想の素晴らしさを称えてしかるべきです。
[28]アメリカでの活動
■文先生は1971年になると、世界レベルの活動を展開するために韓国を出て、アメリカに闘いの舞台を移されました。
□韓氏オモニ:ヤンキースタジアム大会の五年前、私たちがアメリカに到着した一九七一年当時、世界はまるで羅針盤を失った難破船のような状態でした。共産主義の脅威がますます大きくなる反面、キリスト教は徐々に力を失っていました。…またウォーターゲート事件と呼ばれる一連の政治スキャンダルが起こり、アメリカ人の心はばらばらになって、進むべき方向を見いだせなくなっていました。
政治家たちはニクソン大統領の辞任を要求し、全世界がそれに付和雷同して大騒ぎしていましたが、私はそのような騒ぎが、結局は善良な人々を悲惨な目に遭わせることをよく分かっていたので、旨がとても痛みました。…私たち夫婦はアメリカの人々に向かって「許せ、愛せ、団結せよ」と叫びました。(「平和の母」P.162)
■ここはやはり、「私たち夫婦」ではなく、「文鮮明総裁はアメリカの人々に向かって『許せ、愛せ、団結せよ』と叫びました」と書くべきではないでしょうか。
□韓氏オモニ:アメリカに到着してまだ間もない一九七二年二月、私たちはニューヨークで「神様と人間のための理想世界」というテーマで集会を開きました。…私たち夫婦は、フィラデルフィアやボルティモア、ロサンゼルス、サンフランシスコなどで立て続けに講演を行いました。…私たちは大会のテーマを「キリスト教の新しい未来」に定めました。
…私たちはアメリカに来てから三年にも満たない間に、マディソン・スクエア・ガーデンの大会を通して、万民を解放しようとなさる神様のみ旨を成し遂げるための狼煙(のろし)を上げたのです。私たちは少しも休む暇なく、アメリカと全世界を驚かせる大会をさらに続けて行いました。(「平和の母」P.163〜164)
■これらもすべて「私たち」「私たち夫婦」になっており、このように変えることで、文先生の印象が消えてしまっていることが問題です。
[29]ワシントン・タイムズの創刊
■1982年、ワシントンタイムズが創刊されました。
□韓氏オモニ:一九八一年の初め、ある人が私たち夫婦に話してくれました。「そういえば、『ワシントン・スター』が看板を下ろすそうですよ」その知らせを聞いて、誰もが驚かずにはいられませんでした。…私たちが「ワシントン・スター」に代わる新しい新聞を作るというと、激しい反対に遭いました。周りの人々は、アメリカの首都で新聞を創刊するのがどれ程困難なことなのかを、一つ一つ聞かせてくれました。
しかし、それまで私たちがしてきたことの中で、簡単なことなど一つもありませんでした。一九八二年五月十七日、人々の心配をよそに、歴史に語り継がれる新聞となる「ワシントンタイムズ」の創刊号が発行されました。私たちを嫌う人々が、「ワシントンタイムズ」は統一教会の宣伝道具になるだろう、とわめき立てましたが、決してそのような意図で作ったものではありませんでした。私たち夫婦は「ワシントンタイムズ」の社訓を「自由、信頼、家庭、奉仕」に定めました。(「平和の母」P.201)
■「私たち夫婦」が激しい反対の中でワシントンタイムズを創刊したという書き方になっています。文先生は以下のように語られました。
□文先生:私は長い間待った。そして神様に祈祷した。ワシントンをどうすればいいのかと。アメリカを救うにはどうすればいいのかと。答えは常に同じだった。ワシントンに「保守勝共日刊紙」を創刊せよ、というものだった。新聞を作って運営することは、宗教の第一の本分ではない。
しかしこの非常時において、われわれはこの使命を避けることができない。これはまさしく神様の御旨であるからだ。ワシントン・ポストに対抗し、レーガン大統領を保護する新聞を作ることを、私はきょうこの「神の日」に宣布する。今や全世界の統一教会の信徒たちは、この使命に命をかけて決起せよ!(「証言下巻」P.41)
■この文先生の決断に、韓氏オモニがどのように係わっていたというのでしょうか。あり得ない話です。そして、文先生がダンベリーに収監され、その後すぐに朴先生の拉致事件が起きました。
[30]朴先生拉致事件
□韓氏オモニ:こうして文総裁は一九八四年七月二十日、コネチカット州にあるダンベリー刑務所に収監されることになりました。(「平和の母」P.169)
■そして9月、朴普熙先生が拉致される事件が発生しました。
□韓氏オモニ:しかし、不幸が一挙に訪れるかのように、良くない出来事がまた起こりました。アメリカで私たち夫婦をサポートし、活動していた中心指導者が、行方不明になったのです。…文総裁が収監されている状況ですから、私が問題を解決しなければなりませんでした。私はまず、心を落ち着けて祈祷しました。拉致されたメンバーの耳に声が届くように、切実に祈りました。その上で、懇切にしていたオリン・ハッチ上院議員に電話をかけたのです。(「平和の母」P.172〜173)
[31]凶悪な犯人
■朴先生は韓国から来る有名な政治家が会いたがっているという話で韓国人におびき出され、相手の車に乗ったところで拘束され、誘拐されました。目隠しされ、部屋に監禁されて、ドラム缶の中に砂利と一緒に入れ、深い池に沈めると脅されました。死を覚悟して神様真の父母様万歳を叫ぶと、拳銃を突きつけられ、殴る蹴るの暴行を受けました。政治的目的で誘拐され、殺されるのかと思っていたところ、百万ドルを要求してきたので、動機はお金でした。
犯人は朴先生の声を録音し、イーストガーデンに電話してそれを聞かせました。この事件は直ちにFBIが動き出し、電話を逆探知することもしましたが、朴先生は自分が銀行に出向き、送金の手続きをする以外に方法はないと言い切って犯人と交渉しました。初めは凶暴だった犯人たちは、朴先生を信じ、朴先生を一人で銀行に行かせました。犯人との約束通り、朴先生は銀行に行き手続きをしましたが、その足で自宅に戻りました。犯人は主犯が国際手配され、6名の元軍人が11月28日に逮捕されました。
[32]交渉を断った韓氏オモニ
■朴先生は監禁中に疲れて眠りに落ちたとき、韓氏オモニの夢を見ました。あらゆる知恵を使って10時間以内にそこを脱出しなさいと言われました。
□韓氏オモニ:生きて帰ってきた彼は、私に一部始終を聞かせてくれました。「暗闇の中で聞こえてきた真のお母様の声は、まさに神様の声であり、啓示でした。私が力強く立ち上がり、彼らに対抗するための力と知恵を下さったのです」拉致の知らせを聞いた時、もし私が手をこまねいて、犯人たちと交渉するためにただ待機していたならば、時を逃して、さらに大きな不幸が訪れていたでしょう。
また、誘拐犯たちは統一教会を屈服させたといって有頂天になり、世間に向かって騒ぎ立てていたことでしょう。それは結局、サタンの手口にはまることであり、彼らに勝利をもたらすことでした。ですから、私は苦しい闘いを続けながらも、彼らとの交渉は断固として断ったのです。(「平和の母」P.174)
■韓氏オモニは「私は苦しい闘いを続けながらも、彼らとの交渉は断固として断ったのです」と書いています。犯人はイーストガーデンに電話して身代金を要求しました。それを断ったことを言ってるのだと思います。そして、そのことが事件を解決したかのような表現です。果たしてそうでしょうか。
[33]自力で脱出
朴先生は犯人と金額を交渉して5千ドルなら払えると言いました。朴先生がお金を払うと言って約束したことが解放に結びつきました。決して韓氏オモニがお金の交渉を断ったことが、解決に結びついたのではありません。また文先生が収監されているからといって、韓氏オモニが一人で指示し、決断したということもありません。朴先生が誘拐されたことはすぐダンベリーの文先生に電話で知らせが行きましたから、その電話口で文先生は取るべき措置を指示されたはずです。
直ちにFBIが動きました。文先生はダンベリーに行かれる前に朴先生の他に、郭錠煥氏、韓相吉氏、韓相國氏を不在時の責任者として任命していましたので、韓氏オモニが孤独な立場で、「私が問題を解決しなければなりませんでした」ということはありません。朴先生が無事に帰ってくると、その知らせは文先生に報告されました。
[34]文先生の深刻な祈祷
□朴普熙:この知らせはすぐにダンベリーに電話連絡された。文鮮明先生は、その時までに食べ物を一切取らずに祈祷しておられたという。「普熙が無事に戻りました」と文先生に報告すると、「そうか!怪我もせずに?良かった!」と言われた。そして電話を切られると、横にいた神山威氏に「私は休む」と言われ、床(とこ)に伏してすぐにいびきをかき始められたという。
神山氏の話によれば、「自分は一生のうちで、文先生があれほど大きないびきをかかれるのを初めて見た」ということである。どれほど疲れ果てておられたかしれない。四十時間も継続して祈祷して下さったのだから。私は誰のお陰で生還できたのか!ダンベリーの文先生が私を生かしたのである。その祈祷が天軍天使たちを動員して、私を守ってくれたのである。そしてお母様の愛が私を生かしてくださったのである」(「証言下巻」P.190)
■朴先生はフレーザー委員会との闘いで、完全に勝利を収められました。これで文先生は守られたかのように見えましたが、サタンはアメリカの政治権力を操って、文先生をダンベリーに追い込みました。そして間髪を入れずに、朴先生を拉致し、その命を脅かしたのです。
朴先生はレーガン大統領を誕生させたワシントンタイムズの社長であり、また文先生のNo.2の位置にあり、文先生を守る最大かつ最後の砦となっていました。この時、もし朴先生が死ぬようなことがあったなら、次のターゲットは文先生でした。その文先生は全く無防備な状態で刑務所におられたのです。この事情を知れば、文先生の40時間の深刻な祈祷の意味が分かります。
[35]急に変わった犯人
■犯人との交渉で、朴先生がワシントンの銀行に送金手続をしに行くということになったので、朴先生は化粧室に入り、服装を整え、髪を梳(と)かしました。
□朴普熙:化粧室から出て来ると、玄関に案内された。そこには、拉致犯の一味が全員揃って列をなしているではないか。彼らは自分たちの上司を見送りでもするように、皆ぺこぺことお辞儀する。私は一人一人に握手をしてやった。最後に、私は一味の大ボスと力強く握手した。彼は言葉もなく〝よろしくお願いします〟という表情である。玄関を出ると、私を拉致したあのリンカーン車のエンジンがかかっていた。
誰が一緒に乗るのかと気をつけて見ると、誰も私の横に座らない。運転席には、きのう運転していた実行犯のボスが座っていた。私は再び大ボスと握手をし、出陣将軍のようにその家を離れた。ニューヨークのラ・ガーディア空港までは一時間ちょっとかかった。空港で運転手はしきりに「申し訳ありません」を連発し、九〇度の角度でお辞儀する。そこで私は自由の身になった。(「証言下巻」P.188)
■このように、朴先生を脅迫して、お金を取ろうとしていた犯人たちの態度が途中で激変してしまいました。韓氏オモニが「心を落ち着けて祈祷しました」ということもあったでしょう。朴先生は韓氏オモニの夢を見ました。しかし、この事件を解決したのは、文先生の祈祷の力にあることは疑いの余地がありません。そうでなければ、凶暴な犯人たちの態度が激変した理由の説明がつきません。
韓氏オモニは「もし私が手をこまねいて、犯人たちと交渉するためにただ待機していたならば、時を逃して、さらに大きな不幸が訪れていたでしょう」と書いていますが、実際は韓氏オモニが待機しているうちに、事件は解決しました。その解決は文先生がされたことを、韓氏オモニは朴先生のようにはっきりと証言するべきです。
[36]私は教会と摂理を率いました
■韓氏オモニはダンベリーの文先生から毎朝電話を受け、また面会に通っていました。
□韓氏オモニ:夫は早朝五時に祈祷を終えると、刑務所の公衆電話で電話をかけてきました。そうして、私と挨拶を交わすのが、一日の日課の始まりでした。面会時間が近づくと、夫は私たちが到着する時間に合わせて、あらかじめ車から見える丘まで出てきて、待っていてくれました。…短い面会が終わると、夫は面会室から出て、私たちを見送ってくれます。
私は、オープンカーに乗って行き来していたのですが、刑務所に向かうときには慕わしさが先に立ち、明るい笑顔で坂道を登っていくものの、帰るときは涙がこぼれそうで、真っ直ぐに夫を見つめることができず、ただ手を振ることしかできませんでした。夫も、私たちの姿が見えなくなるまで、手を振りながら立っていました。
その悲しみと悔しさを乗り越えて、私は文総裁が監獄に入れられていた十三カ月間、教会と摂理を率いました。全世界の信徒が安心し、揺らぐことなく信仰生活を続けられるように投入したのです。(「平和の母」P.175)
[37]ダンベリーに本部を移す
■韓氏オモニは「文総裁が監獄に入れられていた十三カ月間、教会と摂理を率いました」とのことですが、世界本部をダンベリーに移して十三か月間、教会と摂理を率いたのは文先生です。
□文先生:今から私は、この国のために、継続して祈祷するダンベリー刑務所に教会の世界本部を移そうと思います。私が神様に感謝申し上げることは人類歴史上最も難しい時期に、宗教の自由守護のための指導者として私をアメリカの霊的覚醒運動の点火の道具に使われているということです。(「真の御父母様の生涯路程⑦」P.359)
[38]教会と摂理を率いたのは文先生
■文先生はダンベリー収監中に「第3回神様会議」及び「第3回世界宗教青年セミナー」(ソウル1984.8.10〜16)、「第13回科学の統一に関する国際会議」(ワシントン1984.9.3)、「第1回原理研究会世界大学生総会」ソウル1984.11.3)、「第7回世界言論人会議」(東京1984.11.19)、「第2回世界平和教授アカデミー国際会議」ジュネーブ1985.8.13〜17)の各国際会議を開催し、そこにメッセージを寄せられました。
1985年の年末年始の5日間は特別休暇として刑務所から戻って各種行事を主管し、新年の年頭標語「祖国創建」を揮毫されました。2月1日の午前3時には、ダンベリーとイーストガーデンを連結し、「開天門の日」を制定する儀式を執り行われました。全米の30万人の牧師に親書を添え、原理講義ビデオと書籍を送付(1985.2.28)されました。ワシントンタイムズを通してニカラグア問題を支援するキャンペーンを展開されました。(1985.6.5)
アメリカの在郷軍人を組織化する国際郷土防衛連合軍創設を提唱されました。(1985.6.7)ワシントンタイムズを元にした月刊誌「インサイト」および「ワールド・アンド・アイ」を創刊し、「アメリカ指導者会議」および「アメリカ自由連合」を創設されました。収監中に読まれたみ言集「忠孝の源」10巻から重要なみ言を選んで「み旨と世界」を作られました。
[39]文先生を迎えた牧師達
■このように、ダンベリーにいながら次々に指示を繰り出し、摂理を進めていかれたのが文先生です。そしてこの間、刑務所の外では文先生の不当逮捕を訴え、「宗教の自由」を守るための運動が行われていました。文先生が解放された日の夜、それらの運動を行った人々が中心になって晩餐会が開かれました。
□文先生:私は模範囚として認定され、六か月間減刑されて、十三ヶ月後に出監しました。ユダヤ教のラビやキリスト教の牧師ら宗教指導者が千七百人も集まって、私を待っていました。(「平和を愛する世界人として」P.197)
■韓氏オモニはこれでも、自分が十三カ月間、教会と摂理を率いたと言えるのでしょうか。
[40]統一科学者会議開催の決断
□韓氏オモニ:私たちは、そのように散らばっていた科学技術を統一し、科学者たちが世界平和に寄与できる方法を長い間試行錯誤しました。そうして誕生したのが「科学の統一に関する国際会議(ICUS/アイカス)」です。
■ここでも「私たちは」と書いています。そして、文先生のダンベリー収監早々に、この会議の日程が迫りました。
□韓氏オモニ:私たち夫婦が一九七二年に創設したこの会議は、世界中の科学者が集まり、科学と技術の未来について議論する大きな行事でした。創設者が収監された状態で果たして会議が開けるのか、心配する声も少なくありませんでした。「開けはしまい」といってあざ笑う人も大勢いました。しかし、私はそのような状況に、一言で決着をつけました。「会議は必ず開かなければなりません」(P.176)
■一言で決着をつけたのは、文先生に決まってます。韓氏オモニのはずがありません。
[41]「共産主義の終焉」宣言
■また、「世界平和教授アカデミー」の世界大会の日程も文先生の収監中のことでした。
□韓氏オモニ:一九八五年の夏には「世界平和教授アカデミー(PWPA)」が世界大会を準備していました。ところが、やはり創立者が収監されている状態ですから、大会を行えるかどうか心配している、という知らせが入ったのです。私はきっぱりと、「予定通り開催しなければならない」と言いました。大会の場所は、スイスのジュネーブに決まりました。(「平和の母」P.177)
■ここでも、韓氏オモニが世界平和教授アカデミーの開催を決めたかのように書いていますが、そのようなことはあり得ません。このジュネーブ大会で「共産主義の終焉」が宣言されたことは有名な話です。
[42]ためらうカプラン教授
□韓氏オモニ:大会の議長を務めるシカゴ大学のモートン・カプラン教授が、私たち夫婦に会うためダンベリー刑務所まで来ました。文総裁が、大会のテーマを「共産主義の終焉、ソ連帝国の崩壊」にしなさいと告げると、カプラン教授はそれに真っ向から反対しました。当時、共産主義は依然として強大な勢力を誇っていたのです。
「社会学者は、まだ起きていないことについては論じません」しかし文総裁は、強い口調で彼に言いました。「共産主義は滅び、ソ連帝国は崩壊する!この事実を、世界の学者、教授たちが集まった場で宣布しなさい」カプラン教授は少し躊躇した後、尋ねました。「その言葉の前に『Maybe(おそらく)』とつけるのはいかがでしょうか?」「いけません。私の言ったとおりに話してください」
面会を終えて帰る道すがら、カプラン教授はとても苦悩していました、当時、彼は学者として世界的な名声を誇っていたので、根拠のないように聞こえることを語ることなどできない立場だったのです。そのようなことを言うのは、彼にとってまさに恐怖でした。彼は、「おそらく」という言葉を入れようと三回も繰り返しました。
私はカプラン教授に向かって、何の心配もせず、文総裁の言うとおりにするよう諭しましたが、教会の幹部たちも慎重になって、私に勧めて来ました。「『滅亡』や『崩壊』という言葉ではなく、もっと柔らかい表現にしたほうがよいのではないでしょうか?」しかし、文総裁や私は、それを決して受け入れませんでした。数年以内に、ソ連帝国が崩壊することを知っていたからです。(「平和の母」P.177〜178)
□韓氏オモニ:大会当時、私たち夫婦は「当たらない予言者」として、からかいの対象となったことでしょう。事実、有名な社会学者や教授たちが私たちの宣布を強く批判しました。しかし実際にソ連が崩壊すると、彼らは私たちがした予測に対して、驚きと感嘆の念を隠すことができませんでした。このように、たとえ文総裁が獄中に身を置いていても、私たち夫婦は世界の将来のため、一日も休むことなく歩んだのです。(「平和の母」P.179)
■まるでカプラン教授に「共産主義の崩壊」の宣言を決意させたのは韓氏オモニであるかのようです。文先生は自叙伝に以下のように書いています。
[43]誰も考えつかないこと
□文鮮明:「レバレンド・ムーン(文師)、共産主義が没落するというあなたの話は信じます。しかし、まだ時ではないようです。ですから、ソ連帝国の『滅亡』よりは、『滅亡する可能性がある』と遠回しに言ってはいけませんか」博士の話に私は烈火のごとく怒りました。人がいくら気後れしても、確信があるときは、勇気を出して、死力を尽くして闘わなければならないと思ったのです。
「カプラン博士、それはどういうことですか。ソ連帝国の滅亡を宣言するのは、そのくらいはっきりとした意味があるからです。あなたが共産主義の終焉を宣言する日、共産主義はまさにその時から力を失うようになるのに、なぜ躊躇するのですか」結局、カプラン教授はジュネーブで開かれた世界平和教授アカデミーの国際会議で「ソ連共産帝国の崩壊」を宣言しました。誰も考えつかないことでした。(「平和を愛する世界人として」P.253〜254)
■このような確固たる文先生の決断に、韓氏オモニがどのように関与したというのでしょうか。「文総裁や私は、それを決して受け入れませんでした」とか「私たちの宣布」とか「私たちがした予測」とか、よく言えたものです。
[44]国際ハイウェイ構想
■1981年、文先生は日韓トンネルを含む、国際ハイウェイ構想を発表されました。
□文先生:以上のような結論として、最後に私は、一つの提案をしたいと思います。それは中国から韓国を通り日本に至る「アジア大ハイウェイ」を建設し、ゆくゆくは、全世界に通じる「自由圏大ハイウェイ」を建設することです。これは中国大陸から韓半島を縦断し、トンネルあるいは鉄橋で日本列島と連結して日本を縦断する一大国際ハイウェイで、ここでは自由が保障されるのです。(第10回統一科学者会議1981.11.9)
■2005年にはベーリング海峡にまたがる「ワールド・ピース・キング・ブリッジトンネル」構想を発表されました。
□文先生:私は今日、この尊い壇上を借りて、全人類の前に実に重大なことを一つ宣布しようと思います。歴史的にサタンによって東と西を、南と北を分け、地理的には北朝鮮・米大陸とロシア大陸を分けたベーリング海峡に橋梁を建設し、海底トンネルを掘るのです。そうして、アフリカの希望峰から、チリのサンティアゴまで、英国のロンドンから米国のニューヨークまで、自動車で全世界を巡廻疾走できるようになる世界超高速道路を連結する「ワールド・ピース・キング・ブリッジトンネル」を作り、世界を一日生活圏にしようというものです。(全米4大都市講演2005.6.25)
[45]文先生の独創2
■これらの国際ハイウェイ構想について韓氏オモニは以下のように書いています。
□韓氏オモニ:世界地図を見ると、ほとんどの大陸を一つにつなげられることが分かります。その日が来れば地球は一つの村となり、全人類が隣人として仲睦まじく生きるようになるのです。私たち夫婦はずっと前から、すべての大陸を一つに結ぶ平和の道を構想してきました。問題はアメリカのアラスカとロシアを隔てるベーリング海峡と、韓国と日本のあいだに広がる玄界灘です。この二カ所に道を造ることができれば、人類は一つにつながっていきます。(「平和の母」P.214)
■まるで韓氏オモニも文先生と一緒に国際ハイウェイ構想を練ったかのようですが、それはないでしょう。文先生の独創です。
[46]ソ連訪問
■韓氏オモニはソ連訪問に関し、以下のように書いています。
□韓氏オモニ:私たち夫婦は、世界をじわじわと締めつけ、苦しめている冷戦を、もう終わらせなければならないと決心しました。たとえ命を懸けることになったとしても、凍りついた大地、モスクワに入り、ゴルバチョフ大統領に会うことにしたのです。その決断は、既に当時から遡って十四年前に下されていました。一九七六年、大成功で終わったワシントン・モニュメント大会の翌日である九月十九日に、私たち夫婦は重大な発表をしたのです。それは共産世界を解放するため、モスクワで大会を開くという宣言でした。(「平和の母」P.218)
■ワシントン大会の翌日、「私たち夫婦は重大な発表をしたのです」というのですが、あり得ない話です。
□韓氏オモニ:文総裁はためらうことなく、ゴルバチョフに向かって忠告をしました。「ソ連の成功は神様を中心とするか否かにかかっています。無神論は自滅と災いを招くだけです」ソ連が生き残る道は、共産主義革命の父と呼ばれるレーニンの像を撤去し、宗教の自由を認めることだけである。さらに、共産主義を終わらせ、神主義を受け入れなさい、と堂々と語ったのです。ゴルバチョフの顔には困惑の表情がありありと浮かびましたが、最後には私たち夫婦の言葉を受け入れました。それまで、クレムリン宮殿でそのような話をした人は一人もいませんでした。(「平和の母」P.222)
■「最後には私たち夫婦の言葉を受け入れました」というのですが、この時、韓氏オモニもこのような内容をゴルバチョフ大統領に語ったということはあり得ないことです。文先生が語ったことを、「私たち夫婦」が語ったことにし、「私たち夫婦の言葉を受け入れました」と、韓氏オモニは事実でないことを書いています。
[47]北朝鮮訪問
■韓氏オモニは北朝鮮訪問に関し、以下のように書いています。
□韓氏オモニ:ゴルバチョフ大統領との会談を終えて帰ってきた私たち夫婦は、一九九一年が終わる前に、北朝鮮の金日成主席に会うことを決心しました。その決心は、普通の人から見れば現実的には不可能な、夢物語でした。(「平和の母」P.226)…当時北朝鮮を訪ねることは、まさに命懸けの冒険でした。文総裁は、共産主義者が最も嫌う宗教の偉大な指導者であるとともに、世界一の勝共指導者でした。そのような中、私たちはただ神様だけを頼りにして北朝鮮の地に入り、国の最高統治者に、天のみ旨を受け入れるべきであることを忠告したのです。(「平和の母」P.232)
■金日成主席に会うことを決心したのは文先生であり、韓氏オモニはその決定に係わっているはずがありません。また、金日成に忠告したのは文先生であり、韓氏オモニがその忠告に関与しているということはありません。
[48]世界平和女性連合の創設
■1992年に韓氏オモニを総裁とする世界平和女性連合が創設されました。
□韓氏オモニ:一九九二年五月から、仁川(インチョン)を皮切りに全国二十一カ所を巡回し、六月からは四十の都市で次々に大会を行いました。その大会で私は、「理想世界の主役となる女性」というテーマで講演をしました。…韓国大会が終わると、私は次の講演先として日本を選びました。…私は休むことなく練習し、講演文をすべて日本語で語れるようにしました。会場となった日本の東京ドームには、五万人以上が集まりました。
…私は太平洋を越えてアメリカの地に入り、八大都市を巡回しながら、「女性時代」が私たちの目の前に迫って来ていることを英語で訴えました。ワシントンに集まった人々は、私に深い感謝の意を表してくれました。私に対する認識が、韓国から来た「文鮮明牧師の夫人」から「女性代表としての韓鶴子」に変わり、ひいては「世界を救う女性指導者」として、私を仰ぐようになったのです。(「平和の母」P.181〜183)
[49]文先生あっての韓氏オモニ
■韓氏オモニはどこまでも文先生の夫人であり、文先生を離れて「世界を救う女性指導者」として仰がれることはあり得ません。文先生の夫人だからこそ尊いのです。また、韓氏オモニが世界中で講演したといっても、講演文は文先生が作られたものであり、文先生の思想以外の何ものでもありません。
□文先生:聖霊は、母の責任を果たすのです。それで女性は、解放される時まで、歴史時代において人類を救済するための肥やしとなり、祭物となってきたのです。そのようにしてきたのが女性の生涯でした。ですから、それを解放してあげようというのです。誰がですか。夫となるお方、新郎となるお方が来て、手を差し伸べて救済する時が来たので、先生が父の立場で道をすべて築いておいたのです。そしてお母様の手を取って女性運動を始めて行くのです。(「真の御父母様の生涯路程⑩」P.388〜389)
■このように、文先生が韓氏オモニの手を取って女性運動を始めてあげてるからこそ、韓氏オモニの女性指導者としての立場があります。
[50]文先生が女性時代を宣布
□文先生:先生が女性時代を宣布しました。また、それは先生が宣布をしてあげなければならないのです。お母様が宣布することはできません。なぜでしょうか。アダムが主管性を復帰しなければならないのです。そしてエバがサタンの支配を受けたことをすべて蕩減してあげなければなりません。
そのようにして愛で裏切った妻を再び妻として迎え入れる位置に立つのです。文総裁がお母様を先頭に立たせることによってエバが復帰され、そのあとを天使長が従っていくのです。男性たちは従順に「ごもっともです。そのとおりです」と言っているのです。とてつもない運勢がお母様に訪れてきます。(「真の御父母様の生涯路程⑩」P.416〜417)
[51]錯覚もしくは思い込み
■このように、文先生が宣布されるゆえに韓氏オモニが女性指導者として先頭に立つことができます。韓氏オモニが文先生の夫人だからこそ、人々に受け入れられるのであり、文先生がいなければ、何の実績もない韓氏オモニを「世界を救う女性指導者」として仰ぐ者は誰もいません。
「私に対する認識が、韓国から来た『文鮮明牧師の夫人』から『女性代表としての韓鶴子』に変わり、ひいては『世界を救う女性指導者』として、私を仰ぐようになったのです」というのは、完全な錯覚もしくは思い込みです。
[52]文先生を称えるべき韓氏オモニ
■以上のように、文先生が「私」という主語で成し遂げてこられた業績について、韓氏オモニが「私たち夫婦」という主語に書き替えている主要な部分を見てきました。本来なら韓氏オモニは「文先生が成し遂げられた」ということを明記し、文先生を称えるべきです。韓氏オモニは自分がメシヤだからこそ文先生の成功があったと完全に勘違いしているので、以上のような主語の書き換えを行いました。
(4)独生女を世界で宣布
[53]忍耐してきた韓氏オモニ
■韓氏オモニは文先生の聖和後、文先生の生前には絶対に口に出せなかったことを発言し始めました。
□韓氏オモニ:私は50余年の間、何も言いませんでした。すべて知りながらも黙っていました。(2017.10.25)
□韓氏オモニ:ですから50年の間、耐えてきたのです。知らなくてそうしたのではありません。(2017.10.25)
□韓氏オモニ:私でなければならないと決心したのです。ですから私は話すことのできる時を待っていたのです。(2017.11.4)
□韓氏オモニ:私は50年間待って「私が独り娘である」と宣布しました。(2017.12.15)
□韓氏オモニ:私が歩んできた50年の歳月は忍耐し、待ち焦がれる時間でした。(2019.4.20)
□韓氏オモニ:文先生の聖和後に私が待ちに待ってから「私が独り娘である」と牧師たちの前で最初に話しました。(2019.7.25)
[54]私は無原罪の生まれです
■韓氏オモニが何を言えなかったのかと言えば、「私が独り娘である」ということです。これは「私はメシヤである」という意味であり、だからこそ、無原罪で誕生したという考えになります。2014年7月1日、満を持してそのことを発表しました。
□韓氏オモニ:血統転換、私は母胎からです。皆様がこれを信じなければなりません。(2014.7.1)
■この自叙伝には、自分が無原罪の誕生であるという考えは書いていません。では、文先生の生前にこの本を書くことができたのかと問うならば、絶対に書くことができなかったということは明らかです。すなわち、韓氏オモニは文先生の聖和後、文先生が生きておられたなら絶対に口に出せなかったことを発言し、絶対に書けなかった本を書いているのです。
そして、食口は無原罪誕生の発言を聞いてもさしたる疑問を持ちませんでした。またこの本をこれから読んでも、さしたる疑問は出てこないでしょう。幹部責任者は、「私は50余年の間、何も言いませんでした。すべて知りながらも黙っていました」と公言する韓氏オモニが、文先生と完全に一体化していると食口に教えているのですから、人間としても、信仰者としても狂っているとしか言いようがありません。
[55]既に完結した勝利宣言
■韓氏オモニは文先生の生前には語ることができなかった「私が独り娘である」という考えを、世界を回りながら宣布していきました。真の父母としての勝利宣言は、文先生が各種メッセージを通して何千何万回となく行われました。
□平和メッセージ9「神様の理想家庭と平和理想世界王国Ⅲ」:このメッセージは、二〇〇六年十月二十二日から十二月二十日まで世界百二十カ国の一万四千カ都市で開催された「世界平和のための宗教指導者百二十人巡回講演会」の時に発表された文鮮明総裁のメッセージの全文である。(「平和神経」P.165)
■韓氏オモニが一人で世界を回りながら、これ以上の宣布をする必要はありません。
[56]すぐに帰ったオリン・ハッチ議員
■しかし韓氏オモニは、それまでの宣布が文先生をメシヤとする立場で行われたものであるために認めることができず、不満がありました。ですから、自分をメシヤであるとする立場から再度、世界に向かって宣布すると決心しました。その宣布の一番初めが、2016年11月30日、アメリカ上院議員会館内にあるケネディ・コーカス・ルームでの講演でした。
□韓氏オモニ:二〇一六年の末にアメリカで世界平和国会議員連合の創設大会を開くための準備に際して、上院議員会館の担当者が私たちに、由緒あるケネディ・コーカス・ルームで大会を開けるよう、配慮してくれました。…私たちが平和への新しい道を示したことに対して、多くの人々が感謝の気持ちを述べてくれました。
創設大会には、長きにわたり私たち夫婦と親交を結んできたアメリカ議会上院の重鎮、オリン・ハッチ議員も駆けつけてくれました。彼は、私のスピーチ後に演壇に上がると、私たちが数十年間、変わることなく平和運動を展開してきていることに対して、深い感謝の意を表してくれました。(「平和の母」P.350〜351)
■「彼は、私のスピーチ後に演壇に上がると」と書いています。これだけ読めば、オリン・ハッチ議員が韓氏オモニの講演を聴いてくれたかのように思いますが、この記述は嘘です。オリン・ハッチ議員はメダルの授与を受けるために来場し、壇上でメダルを首に掛けてもらったあと、韓氏オモニの講演前に一言挨拶しました。挨拶が終わるとそのまま帰ってしまい、韓氏オモニの講演は聴きませんでした。
[57]祭り上げられた韓氏オモニ
■この講演会後、韓国に戻って行われた祝勝会が、ひどいものでした。韓氏オモニがまるでローマ元老院でメシヤ宣布をしたかのような口ぶりで、金起勲会長が韓氏オモニを担ぎ上げました。ケネディ・コーカス・ルームは上院議員会館内にある一室に過ぎませんが、それがあたかも上院本会議場であるかのように語っています。
□金起勲:このローマ元老院を英語でローマセネットと呼びます。私達が同じ内容で、真のお母様は2000年前にイエスがローマ元老院ですべきだったそのみ言を、この上院ケネディ・コーカス・ルームで、私がメシヤであり救世主だと語られたので、真のお母様を中心として世界平和、そして世界人類が救援されるその道が新たな1ページを開いたと私はお話したいのです。(2016.12.11)
■韓氏オモニも完全にローマ元老院で宣布したかのような気分になってしまいました。その後、日本、アメリカ、韓国、タイ、南アフリカ、ジンバブエ、オーストリア、セネガル、ネパール、アルバニア、ブラジル、サントメプリンシペ、インドネシア、台湾、ニジェール、パラオ、ドミニカ共和国などにおいて、次々と大きな大会と祝福式を開催しながら、自分が独生女であるという宣布を行いました。
[58]アフリカに傾倒した韓氏オモニ
■特にアフリカに力を入れた印象が強いのですが、それには理由があります。
□韓氏オモニ:神様に侍るために神国家、神世界創建のための路程は、決して生やさしいものではありませんでした。「二〇二〇年までに必ず七カ国を復帰する」という決意の中、「私だけが残りました」という立場で、天に向かって何千回も祈りました。そうして、ついに天から答えが届いたのです。
二〇一七年七月十七日のことでした。家庭連合世界本部の尹鍈鎬(ユンヨンホ)事務総長が、文総裁から啓示を受け、黄金でできた三つの鍵を受け取ったのです。…私はその報告を受け、これまで縁のあった義人三人をアメリカの行事に招請しました。それはセネガルのマンスール・ディウフ師、南アフリカのサミュル・ハデベ預言者、ジンバブエのヨハネス・ウンダンガ牧師の三人です。(「平和の母」P.354)
[59]義人三人と尹鍈鎬
■このような経緯で、義人三人が韓氏オモニに取り入って、韓氏オモニをアフリカに呼び入れました。その背後には尹鍈鎬の思惑がありました。尹鍈鎬はアフリカの国々と経済協力の協定を結び、その中に祝福式を開催する旨の項目を加えました。
□尹鍈鎬:さて今回"ニジェールサミット"が"大陸単位"なら"祝福式"もやはり"大陸単位"になります。"アフリカ・ユニオン"、"西アフリカ諸国経済共同体"、"G5サヘル国家連合"の共同主催で祝福式が開催されたため、"大陸単位"の祝福式です。さらに昨日の開会式で、協約式を通じて大陸単位プロジェクとしてランチングされた"神アフリカプロジェク"のうち、"真の家庭祝福運動と祝福式"は最後の10番目の最も重要な項目に明記されています。
したがって"神アフリカプロジェク"を受け入れるということは、"真の家庭祝福運動および祝福式"を受け入れることを意味し、"祝福式"を受け入れることは、祝福の主人であられる"真の父母様"を奉り、侍ることを意味します。(2019.11.3)
■尹鍈鎬事務総長はアフリカ各国との間に経済協力の協約書を交わしましたが、この背後でお金が動いており、その利権を尹鍈鎬が独占しています。尹鍈鎬が受けたという黄金の三つの鍵の啓示は、韓氏オモニを騙すための嘘です。マンスール・ディウフ師、サミュル・ハデベ預言者、ヨハネス・ウンダンガ牧師の三人も大いに私腹を肥やしました。祝福式は彼らが韓氏オモニからお金を引き出すために行っているに過ぎません。
[60]義人と信じる韓氏オモニ
■韓氏オモニは、その傘下に何百万人も抱えているという触れ込みを鵜呑みにし、そのようなリーダーなら自分を騙すことなどあり得ないと信じているようです。
□韓氏オモニ:二〇一八年一月、私はアフリカに向かいました。「アフリカワールドサミット二〇一八」の開催国にセネガルを選んだのは、そこに天が準備した義人がいたからです。イスラーム圏であるその国で、八百万人、あるいは一千万人以上の信徒を抱える首長たちが、独り娘の顕現を熱烈に歓迎したのです。セネガルの義人、マンスール・ディウフ師は、イスラームで最も影響力のある指導者の一人です。そんな彼が、私の話に強く感化されたのです。(「平和の母」P.355)
[61]お金で人を釣っている
■マンスール・ディウフ師はマッキー・サル大統領を連れてきました。
□韓氏オモニ:彼はサミットを自分が直接準備しようと、マッキー・サル大統領を訪ね、宗教指導者としての自らの名誉を懸けて、「真のお母様をここにお迎えしなければ、アフリカの歴史を委ねられる場所はほかにない」と訴えたのです。…私はマッキー・サル大統領に会い、四十分近く、天の摂理について説明しました。
イスラーム国家のトップの前で、アダムとエバのことから、祝福の重要性、独り娘の摂理に至るまで説明したところ、その場にいた大臣たちまでが、非常に驚いた様子を見せていました。「明日、サミットに参加します」話を終えると、マッキー・サル大統領は快く承諾しました。彼は、私が単に名誉や権力、何か世俗的な利益を追い求めているのではなく、切実に、そして真摯に、人類のために取り組んでいることに感銘を受け、心を動かされたのです。(「平和の母」P.355)
■2018年1月18日、セネガルサミットの開会式が挙行され、ここに参席したマッキー・サル大統領は賞金10万ドルのグッドガバナンス賞を授与されました。韓氏オモニは切実に真摯に取り組んでいると言いながら、実態はお金で相手を釣っているのです。
[62]私は真のお母様の息子です
□韓氏オモニ:「私は真の母と共に、神アフリカを建設したいです」マッキー・サル大統領は答辞として、感謝の言葉を述べてくれました。開会式後、マッキー・サル大統領は信仰的に、「私は真のお母様の息子になります」とも告白しました。(「平和の母」P.355〜356)
■韓氏オモニは「私は真のお母様の息子になります」と言われることがお好きなようです。ハデベ預言者にも言われました。
□韓氏オモニ:ハデベ預言者はその話に感動し、私を母として受け入れ侍ること、すなわち私の息子となることを願い出ました。そして、たとえ自分が信奉する宗教と理論体系は違ったとしても、私のことを天が準備した独り娘、真の母として、証したのです。(「平和の母」P.357)
■ヨハネス・ウンダンガ牧師にも言われました。
□韓氏オモニ:また、ジンバブエには六百万人の信徒を抱える、ヨハネス・ウンダンガ牧師という義人がいます。彼のおかげでエマーソン・ムナンガクワ大統領の大きな関心のもと、二万人以上の祝福行事を成功裏に行うことができました。…「お母様は、今まで人類が待ち焦がれ、探し求めてきた真の母です」彼は証しをし、自己紹介するときも、「私は真のお母様の息子です」と語るようになりました。(「平和の母」P.360)
■きっと義人三人は尹鍈鎬から「私は真のお母様の息子です」と言うように、レクチャーを受けたのだと思います。平信徒が「私は真のお母様の息子です」と言っても相手にされませんが、相手が大物(に見える)なら、韓氏オモニは舞い上がるようです。
マッキー・サル大統領は2020年2月5日の鮮鶴平和賞の授賞式を欠席しました。授賞式には外務大臣が代理で出席しました。2019年10月5日、名古屋で行われたジャパンサミットで受賞者の発表がなされているのですから、出席の予定は確実に組めたはずです。本人の参加がなければ賞金をもらえない決まりにしておいたなら、「私は真のお母様の息子です」と言いながら、しっかり参加していたことでしょう。
[63]クリスチャン詐欺師ノエル・ジョーンズ
■もう一人の大物詐欺師を紹介しなければなりません。ノエル・ジョーンズ牧師です。
□韓氏オモニ:同年の四月にはアメリカのロサンゼルスで祝福式が行われ、六月にはラスベガスで希望前進大会が行われました。オバマ大統領のメンター(助言者)を務めたシティ・オブ・レフュージ教会のノエル・ジョーンズ牧師が、私を「平和の母」として証してくれました。「神様は特別に、韓鶴子、真のお母様を送って下さり、人類が一つになれるようにして下さいました」彼は自分の教会の五千家庭以上の信徒を、祝福結婚に導きました。その後、シティ・オブ・レフュージ教会は、家庭連合の旗と看板を掲げるようになったのです。(「平和の母」P.396)
■ノエル・ジョーンズ牧師はアメリカで行われた、①マディソン1万名大会(2017.7.15)、②ナッソー・コロシアム2万人大会(2018.11.12)、③シティ・オブ・レフュージ教会3000組祝福式(2019.4.6)、④ラスベガス1万名大会(2019.6.23)、⑤プルデンシャル3万名大会(2019.12.29)の行事すべてに係わり、それを主導した人物です。
2020年2月5日、ソウルで開催された世界キリスト教聖職者協議会(WCLC)総会では、ノエル・ジョーンズ牧師の参加がその権威を高める目玉になるはずでした。実際にその日、彼が主催者側に立って歓迎の辞を述べました。ところが、中継動画をよく見ると、彼の歓迎の辞の次に特別ゲストが約25分のスピーチをしたところで30分の休憩時間となり、この時、彼の教会の副牧師と共にさっさと会場を後にしました。
この総会の最後では、参加者の代表が全員壇上に出て祈祷を行ったのですが、この場にノエル・ジョーンズ牧師の姿はありませんでした。歓迎の辞を述べた本人なのに、どうなってるんでしょう。これ以上家庭連合に係わりたくないという様子が、会場を出て行く副牧師の姿に現れていました。ノエル・ジョーンズ牧師は偽物のクリスチャン詐欺師だということです。退場するために休憩時間を設けさせたのだと思います。
[64]文先生を必要としない独生女
■以上、見てきたように、韓氏オモニは文先生がメシヤなのではなく、自分がメシヤなのだと、完全に思い込んでいる観点からこの本が書かれていることが分かります。そして、その思い込みに対して、多くの人々が世界中で、その通りでございますと担ぎ上げているのですから、その思い込みは益々、強固なものになっています。そして行き着いた韓氏オモニの考えが以下です。
□韓氏オモニ:私は地上にいる七十七億の人類をみな、神様の真なる子女として生み変えなければなりません。それは私が独り娘、真の母、宇宙の母だからです。聖書には、「人の子に対して言い逆らうものは、許されるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、来たるべき世でも、ゆるされることはない」(マタイによる福音書十二章三二節)とあります。生命を得るためには独り娘である母を通過しなければなりません。聖書は、母を否定する者には未来はもちろん、安らかな死後の世界もないことを訴えています。(「平和の母」P.321)
■この韓氏オモニの言葉には、文先生の必要性が少しも感じられません。まるで母一人で堕落人間を重生させることができるかのようです。そして、自分に逆らい、自分を否定する者には許しがないと、高圧的な姿勢になっています。
[65]「真の父母」は独生女のこと
□韓氏オモニ:私は真の母、独り娘として、そして宇宙の母として、すべての摂理を完成し、新しい時代を開きました。これからすべての人々がその事実を胸に刻み、真の父母の願いと一つにならなければなりません。そうしてこそ、真の父母の印を受け、平和の母、独り娘が導く生命の道を共に歩むことができるのです。(「平和の母」P.324)
■ここに「真の父母」という言葉が出て来ますが、これは決して文先生と韓氏オモニの二人を意味する「真の父母」ではありません。韓氏オモニ一人を意味しています。さらに次のように述べています。
[66]独りよがりの解釈
□韓氏オモニ:太平洋文明圏は、摂理の最後の時を迎え、人類の独り娘、真の母を中心として形成されました。特に、私たちは歴史の中で隠されてきた神様の女性格である「天の母」の立場を取り戻してさしあげなければなりません。神様は今や「天のお父様」としてだけではなく、「天のお母様」までも含めた、完全な「天の父母様」として理解されなければならないのです。(「平和の母」P.370)
■「太平洋文明圏は人類の独り娘、真の母を中心として形成された」ということはありません。韓氏オモニの独りよがりの解釈です。太平洋文明圏は摂理の終末期において、西回りの物質文明と東回りの精神文明が出会って形成されたものです。また、「天の母」という新しい概念を持ち出して来ました。序文には以下のようにあります。
[67]主管性転倒して出てきた「天の母」
□韓氏オモニ:しかし、人間始祖の堕落によってこのような天の父母様の創造理想実現は延長され、「天の父母」の立場ではなく、神様の男性格である「天の父」の立場を中心とした、男性中心の歴史が展開されたのです。西洋文明の根幹を形作ったヘレニズムとヘブライズムも、みな総じて男性を中心とした歴史を綴ってきました。従って、神様の女性格である「天の母」の立場は隠され、神様は「天の父母」になることができなかったのです。(P.4)
■この考えは新規な発想のようですが、古くからある二元論の典型であることは王様が指摘しています。統一原理は、神様は男性格主体として存在されているので、必然的に女性格対象としての被造世界を創造せざるを得なかったと、明確に述べています。「天の母」という新たな概念の導入は、文先生を男性格主体として尊敬できず、屈服することもできず、自分こそがメシヤであるとして、主管性転倒した韓氏オモニが行き着いた勘違いの終着点です。
(5)大転倒した信仰
[68]あまりにも重大な事件
■初めに述べたように、祖母趙元模と洪順愛大母様が精誠の限りを捧げて、ようやく出会うことのできた再臨主文鮮明先生でした。そして韓氏オモニは純粋にその信仰を受け継ぎ、奇跡的な僥倖を得て主の花嫁になりました。ところが、韓氏オモニは文先生と52年間寝起きを共にしながら、いつしか文先生への信仰を失い、その信仰は自分自身に向けられました。韓氏オモニの内面で信仰の大転倒が生じました。
この出来事は人類歴史において、あまりにも重大な事件なので、今後あらゆる方面からの分析や研究がなされるでしょう。韓氏オモニはなぜこのような信仰の大転倒を引き起こすようになったのでしょうか。
[69]大母様の再臨復活
■韓氏オモニにとって大きな転機になったのは、1989年11月3日の洪順愛大母様の死(享年75)であったと思います。洪順愛大母様は文先生への絶対的な信仰を持っていましたから、母親の生前において韓氏オモニの文先生への信仰が揺らぐことは考えられません。女だけで命からがらに北から避難してきて混乱期を生き延びた母子家庭の韓氏オモニにとって、母親はどこまでも心と信仰の拠り所であり、二人は強い絆で結ばれていました。ですから、その死は韓氏オモニに大きな喪失感をもたらしました。
□韓氏オモニ:一九八九年十一月三日は、私にとって忘れることのできない一日です。…私は記念式が終わった後、急いでソウルに戻りました。意識が次第に薄れていく母を囲んで、信徒たちが聖歌を歌っていました。私が抱きかかえると、母は少しの間、目を開いて私をじっと見つめ、また目を閉じました。それが私と母の、この世での別れでした。(「平和の母」P.265)
■ところが、洪順愛大母様は霊能者金孝南を霊界から訓練し、その肉体を通して再臨復活するようになりました。この出来事は韓氏オモニに感動と大きな希望をもたらしました。洪順愛大母様は祝福家庭に問題が多いことを深刻に嘆き、それを解決するために寿命を3年縮めて霊界に行ったということを私たちは聞きました。そして、金孝南を通して1995年から清平役事を始めました。
母親と再会した韓氏オモニはどれほど心強く感じたことでしょうか。韓氏オモニは母親の役事により、清平に世界中の食口が集まり、見る見るうちに大きな建物ができていく様子を誇らしく思いました。とりわけ天正宮が完成し、その中の住人になったとき、見た目のゴージャスを好む韓氏オモニは得意絶頂の境地に至りました。
[70]金孝南の嫉妬
■先に述べたように、韓氏オモニが主の花嫁に選ばれ、文先生と聖婚した時に、多くの女性たちから嫉妬と憎しみを受け、身の危険さえありました。その危機は文先生の知恵により回避することができました。しかし、それは文先生がなされたことであり、韓氏オモニ自身はその後の歩みにおいて、女性たちの恨みを解消するために、何らかの埋め合わせをしたのでしょうか。その点において、韓氏オモニには多くの不足があったと思います。
金孝南がいかなる時も100%、洪順愛大母様を体現していれば問題はありませんでした。ところが、韓氏オモニの不足を、金孝南が讒訴することになりました。金孝南は韓氏オモニの近くに侍りながら、あらゆる面において恵まれ、贅沢をしながら幸せに暮らす韓氏オモニを憎みました。聖婚時、韓氏オモニに嫉妬した多くの女性たちの、埋められないままに残った恨みを、金孝南が代表的に背負ったということができるでしょう。その背後にサタンがいたことは言うまでもありません。
金孝南は韓氏オモニを文先生に反逆させ、真の母の座から引きずり降ろすことを考えました。韓氏オモニには母親と金孝南の区別は全くつきませんでしたから、金孝南は母親を装って完全に信じさせ、韓氏オモニをいくらでも騙すことができました。母親しか知らない秘密を韓氏オモニに聞かせながら、「文先生はメシヤではありません、あなたこそがメシヤなのです」と語り、証拠を揃えて、それを信じさせていきました。韓氏オモニには文先生への積年の不満と不信がありましたから、夫婦の間にくさびを打ち込むことは難しくありませんでした。
[71]サタンの嘘の誘惑
□王様:当時、私たちの誰もが全く気付かなかったのです。このバビロンの秘密に。誰もお母様が自分をそこまで自己崇拝していることを知りませんでした。それは文字通りサタンの秘密兵器だったのです。金孝南にそそのかされてしまったのか、もとから自分で思いこんでいたのか、それは分かりません。ともかく、しばらく説得に全力を傾けた期間がありました。ある時は懇願し、またある時は制止しようとしました。
しかし、もはや誰が何と言おうと一切耳を傾けられなくなりました。そして、お父様を否定するあらゆる変更を矢継ぎ早に繰り出すようになったのです。あらゆる試みをしてきましたが、もはやそれを止めることはできませんでした。これは本当に深刻だ。これは大変なことになった。こう思うようになったのです。単に「怒れる女性」ではなく、その底流にメシヤ、お父様を消し去ろうとするある力を感じました。(2015.10.25)
■王様は「金孝南にそそのかされてしまったのか、もとから自分で思いこんでいたのか、それは分かりません」と語られました。エバは嫉妬したサタンから、「あなた方は決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」という嘘で騙されました。これと同様に、韓氏オモニは嫉妬した金孝南の嘘に騙されたのです。
[72]許浩彬の継承者韓氏オモニ
■祖母趙元模と洪順愛大母様は聖主教そして腹中教を遍歴しました。腹中教は来たるべきイエス様のために年齢ごとの服を捧げ、毎日三度の食事を供え、何千回もの敬礼を行いました。教祖は許浩彬(ホホビン)という女性で、聖主教の教祖金聖道の後継者でした。来たるべき主が腹から生まれると啓示を受け、イエス様からのお告げが自分の腹から出てきたので、腹中教と呼ばれました。
□文先生:お母様の母親(洪ハルモニ)は、お母様が四歳の時にその集団に連れていったのですが、そのとき許女史がお母様を祝福しました。それは、お母様に使命が継承されるという意味でした。(「真の御父母様の生涯路程④」P.26)
[73]許浩彬の失敗
■南におけるイスラエル修道院の金百文牧師が文先生を受け入れることができずに失敗した時、文先生は北に向かわれました。そして、平壌において腹中教の存在を知り、そこに使いを送りました。
□文先生:そうこうするうちに先生はその集団に人を送り、許夫人に、「先生の集団が何であるか、祈祷して調べてみなさい」と言いました。しかしその時、許夫人は一つの大きな兆候を期待したのであって、一人の若い男などには期待もしませんでした。(「真の御父母様の生涯路程②」P.95)
■文先生はスラエル修道院の金牧師に直接仕えましたが、金牧師は悟ることができませんでした。ですから、次に準備された腹中教に対しては、蕩減原則のために直接訪問することができず、使いを送りました。その時、許夫人が何かを感じて祈祷していれば、文先生こそ自分たちが待ち望んでいる再臨主であると悟ることができたはずですが、許夫人は文先生に関心を持ちませんでした。
次に神様は、許夫人と文先生を獄中で出会わせるようにされました。許夫人と幹部たちが共産党に捕らえられて監獄にいる時に、文先生もその監獄に入りました。文先生は男性監房にいた幹部を通して許夫人に、共産党が嫌っている啓示を自分で否定することにより、まずは監獄から出なさいということを告げました。許夫人はそれを受け入れませんでした。
[74]拷問を受けた文先生
■そこで最後の策として、紙切れに「私のために祈りなさい」と書き、配膳係にそれを託しましたが、看守に見つかってしまい、文先生はひどい拷問を受けました。許夫人はあらかじめ、結婚を約束していた李夢龍と獄中で再会を果たした春香伝の物語を啓示で聞かされていました。しかし、許夫人は使命を失敗し、その後、韓国動乱が起きた時に虐殺されてしまいました。文先生は興南刑務所に送られ、生きて十字架の道を行かれることになります。
文先生から何度も働きかけを受けながら、許夫人は失敗しました。なぜなのでしょうか。文先生は「その時、許夫人は一つの大きな兆候を期待したのであって、一人の若い男などには期待もしませんでした」と語られました。許夫人は自分の腹からイエス様が誕生することを期待していました。自分が主の母親になると思い込んでいたのです。だから、自分以外の誰かに従うという考えはなく、自分に関心があり、一人の若い男には期待しなかったのです。
[75]文先生の十字架
■文先生にとっての興南刑務所は、イエス様における十字架を意味していました。イエス様の十字架は準備されたすべてのユダヤ教の基台が失われたために生じたことでした。ですから、文先生が興南刑務所に収監されたということは、文先生のために準備されたすべてのキリスト教の基台が失われたことを意味しています。
□文先生:この韓国の地を中心として、ある天的な摂理があるとすれば、この地で内的使命を果たす運動が始まらなければならないのです。その中で、外的使命は男性たちが責任を負わなければなりませんが、内的使命は女性たちが責任を負わなければなりません。堕落した型を見れば、エバがアダムを主管したがゆえに、復帰路程では婦人がアダムに代わって内的使命に責任を負ってきます。アダムがエバの主管を受けたがゆえに、男性たちは復帰路程で外的使命を担当して、堕落した当時の基準を尋ねていくのです。(「真の御父母様の生涯路程②」P.32)
■このようにして韓国の地に準備されたのが、男性は白南柱、李龍道、金百文であり、女性は金聖道、許浩彬、朴老婆の霊的集団でした。最終的にこれらの人物たちがすべて失敗した時に、興南刑務所という十字架が決定しました。しかし、イエス様とは違って、文先生は生きて興南刑務所から出てこられました。そして南に逃れ、再び摂理を切り開き、統一教会を立て、子羊の婚宴において主の花嫁として迎えたのが、許夫人の継承者である韓氏オモニでした。
[76]繰り返された過ち
■文先生が初めて韓氏オモニを見られた時、「韓鶴子が韓国の地に生まれた」と三度、言われました。その時、文先生が何を思われたのか、何も語っておられません。もし、イエス様が十字架から生きて戻られ、摂理を再開されたと想定してみて下さい。優秀な第一弟子候補として、失敗する前の若返った洗礼ヨハネが、イエス様の目の前に現れたとするならば、その時、イエス様は何を思われたでしょうか。それに似ていると思います。
失われた韓国のキリスト教を一人で象徴するなら、その人物は許夫人であるに違いありません。そして、許夫人の継承者が韓氏オモニですから、韓氏オモニは失敗したキリスト教を一身に背負っていたと見ることができます。だから、韓氏オモニは決して高い位置から出発したのではなく、初めから大きな蕩減を背負っていたのであり、韓氏オモニの前に続く長い道のりには、既に失敗したキリスト教の深い轍が刻まれていました。
許夫人の失敗の原因は、自分を中心として考えたことでした。もし、韓氏オモニが自分を中心に考えるようになるならば、同様の失敗を繰り返し、文先生は再び十字架につくことになるのです。その通りのことが起きました。韓氏オモニは自分がメシヤであると思い込み、自分以外の誰かに従うという考えはなく、文先生への関心を失ってしまいました。
[77]偽メシヤを担ぐ成約のユダ
■文先生の聖和後の2014年7月1日、韓氏オモニは自分が無原罪の生まれであると語りました。それは家庭連合内部で、無原罪としての韓氏オモニを担ぐ体制が完成したことを意味していました。原理にあからさまに違反した独生女無原罪の教えは、内部からの反対があってしかるべきでしたが、韓氏オモニとその側近たちは、権力とお金の力によってそれを封じ込め、独裁的な体制を完成させました。偽メシヤ韓氏オモニを担ぐ責任者は、例外なしに、お金で文先生を売った成約のユダと見なして間違いありません。
①徳野英治
□徳野英治:私も三年前、最初に独り娘という話を真のお母様から伺ったとき、率直に言って戸惑いました。しかし何度も直接お話を聞くうちに、知的にも心情的にもよく理解できるようになりました。…はっきりと知らなければなりません。独り娘には原罪がないのです。今まで、真のお父様によって堕落した女性の中から贖われて、真のお母様の原罪が清算されたと多くの人は理解していたようですが、そうではないのです。これが正に、お母様が吐露された"歴史の真実"です。(2019.8.27)
■日本家庭連合会長が、無原罪独生女の誕生が歴史の真実であると公言して、偽メシヤ韓氏オモニを担ぎ、食口を騙しているのです。
②周藤健
□周藤健:真のお母様が語っておられる「独り娘」(独生女)のみ言は、真のお父様のみ言である。真のお母様が、お父様のみ言に反して、かってに語っておられるのではないのである。真のお父様のみ言からしても、真のお母様は生まれたときから〝無原罪〟であられ、かつ〝神の血統〟を持って生まれてこられたのである。(「成約摂理解説」P.221)
■まさか嘘をつくとは思えない周藤健元副会長が、お父様のみ言を根拠にして、韓氏オモニが無原罪で神の血統から生まれたと明言し、本まで書いて食口を騙す日がくるとは、一体誰が想像できたでしょうか。
③小山田秀生
■小山田秀生苑長も嘘つきになりました。以下は私との会話のやり取りです。
□澤田:じゃ、お母様は生まれながらに無原罪ですか?
□小山田:そうよ。
□澤田:それは、そういうふうに考え方が変わったんですか?
□小山田:変わったんじゃない、もともと、そうなってるよ。あなた、何も勉強してないんだ、なんにも知らんね。(2018.6.1)
■「変わったんじゃない、もともと、そうなってるよ」とは、あり得ない話です。徳野会長は「私も三年前、最初に独り娘という話を真のお母様から伺ったとき、率直に言って戸惑いました」と語りました。韓氏オモニが無原罪だという講義を聴いて入教した食口は誰もいません。日本人の中で、文先生に最も近くで仕えた小山田苑長が、偽メシヤ韓氏オモニを担ぐ成約のユダになってしまいました。
[78]独裁者になった韓氏オモニ
■2020年2月18日、ソウルのロッテホテルにて、2月上旬に行われたサミット及び聖誕100周年記念行事の祝勝会が開かれました。その場で韓氏オモニは以下のように語りました。
□韓氏オモニ:六千年を経て、独り娘・真の母として誕生した、摂理の最後のとき、完成を見るこの瞬間、この位置(真の母)に対して、皆さんは心を空(から)にしなければなりません。無条件に謙虚になるべきです。その道だけが、皆さんが最後に私と共に永遠の世界に入ることのできる道なのです。そのような点で、皆さんは肝に銘じなければなりません。最後に私を審判の神様にしないでください。私が審判するようになれば、皆さんはおしまいです。未来がありません。私はそれが怖くて、恐ろしいのです。(2020.2.18)
■映像で見ると韓氏オモニは非常に不機嫌で、怒ってこれを語っています。サミット及び聖誕100周年記念行事の祝勝会なのですが、一連の行事に不満があったのかも知れません。7カ国復帰したと宣伝し、韓氏オモニが天一国安着宣布をしましたが、実体が伴っていないことが分かって、不機嫌だったのかも知れません。「私が審判するようになれば、皆さんはおしまいです」と、怒りの口調で語っているのですから、聞く者にとっては脅かしになっています。もはや韓氏オモニは誰も制止できない独裁者になりました。
(6)完成した真の父母
[79]康賢實真のお母様
■2017年9月23日、アメリカペンシルベニアのサンクチュアリ教会にて、康賢實様が真のお母様として立たれ、真のお父様と結婚される天地人真の父母様天宙完成祝福聖婚式が挙行されました。韓氏オモニが文先生を裏切り、真の母の位置を失ったので、その位置の空白を埋めるために行われました。
文先生が早くから予告されていた2013年天暦1月13日のDデイは、本来なら真の父母様の完成期の聖婚式のはずでしたが、韓氏オモニはそれをしなかったので、その完成期の祝福式を意味していました。これにより、韓氏オモニは真の母ではなくなりました。この祝福式に参加していた劉正玉先生は翌日、以下のように語りました。
[80]ただの母になった韓氏オモニ
□劉正玉:韓オモニが天の道に従わず、反れてしまった時、神様は何を決意しなければならなかったかを考えてみて下さい。神様は彼女が戻ることを深く期待しましたが、天の道を確立するためには、彼女を替えるしか、他に選択肢はなかったのです。…彼女は王妃として、六段階まで来ました。そして、神様万王の王解放圏の戴冠式に参加されました。韓オモニはその時まではアボニムに従っていたのです。第七段階は何でしょうか。それは真の父母様の妻の立場です。
韓オモニは、真の父母様の妻の位置に立てなかったのです。アボニムは、私にこれを教えて語られました。韓オモニは真面目にアボニムに従いましたが、最後にアボニムを裏切ったのでした。私は、アボニムがこう言われるのを何度も聞きました。皆さんの中で多くの人達は、このようなみ言をアボニムから直接聞くことは無かったかも知れませんが、私はアボニムのみ言を何度も聞きました。…振り返って見ましょう。昨日の出来事以上に偉大なことはありません。皆さん分かりますか。
この出来事の到達したところは、私達の想像と人智を遥かに超えています。正しく神様が如何に秩序を定められたかを見ました。私達は天法を見ました。全てが整い、天の秩序と法が制定されました。維持しなければならない秩序があります。理解するのは難しくても、皆さんはこれを信じなければなりません。この出来事で「韓鶴子オモニ」は真の母の位置を失いました。「真の」という言葉は彼女から剥がされました。彼女は女性としての母親の立場ではありますが、もはや真の母の立場ではありません。(2017.9.24)
■このように、韓氏オモニはもはや「真の母」ではなく、ただの「母」になりました。
[81]「真の母」を捨てた「平和の母」
■韓氏オモニの自叙伝には大きく「平和の母」と書かれています。なぜ「真の母」ではないのでしょうか。「真の母」こそ、はるかに尊く価値のある永遠の呼称です。「真の母」がその対の呼称である「真の父」を連想させるので、韓氏オモニはその表記を嫌ったと考えることができるでしょう。
しかし、より本質的な理由は、韓氏オモニが「真の母」の位置を捨てたからです。劉先生の言葉のように、「真の」という言葉は韓氏オモニから剥がされ、韓氏オモニは、もはや「真の母」ではなくなってしまったからです。
[82]輝く人類の未来
■韓氏オモニの代わりに、南で復帰された食口第1号である康賢實様が、見事に真のお母様になられました。悠久なる人類の復帰摂理歴史が、奇跡的な経緯を経て、天地人真の父母様の完成という形になって、私たちの眼前で完結しました。
韓氏オモニの天宙的な失敗によって、武漢ウイルスのような予測できない艱難辛苦が、しばらくの間、続くかも知れません。しかし、天地人真の父母様の完全な勝利が果たされたからには、もはや苦しかった過去の歴史に戻ることはありません。この先、人類の未来は限りなく輝いているということができるでしょう。
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