じつは、こうした「責任の放棄」は、トップだけの問題ではない。財務省の改ざんに加担したものの多くも、彼ら責任を放棄することを選んだ。唯一、自死という最も悲しい選択肢を選んだものだけが、真実を語ることが出来たのだ。
我々にも2つの選択肢が与えられている。公文書の改ざんを見過ごし沈黙する人々と同じになるか、責任を取るべき人に取らせ、責任が存在する社会に戻るか、だ。
これは、思想や信条の問題ではない。もし、支持政党や、思想や、現政権へのスタンスだけで、一人の人間の死から目をそらすことが出来るのならば、それは、人間性の放棄だ。
我々は特攻を非難する。我々はナチを非難し、それに協力したものを憎む。我々は、ハラスメントにより死を選んでしまったことを悲しむ。
映画『シンドラーのリスト』に、こういう台詞がある。
「一人の人間を救うものは、世界の全体を救う」
全体主義の本質とは、個の喪失であり、人間を個々の存在から、全体の一部としてしまうことにある。
我々はまさに今、全体主義の入り口に立っている。その先に待っているのは、全てを「志願」させられる社会である。