総理が初めて総理大臣になった第165回国会。彼は4回、所信表明で「責任」という言葉を使った。
「私は、国民との対話を何よりも重視します。メールマガジンやタウンミーティングの充実に加え、国民に対する説明責任を十分に果たすため、新たに政府インターネットテレビを通じて自らの考えを直接語り掛けるライブトーク官邸を始めます」
今こそ、国民に対する説明責任を十分に果たしてほしい。国会で散々述べてきた「責任」とは、一体何だったのか。総理大臣が何より重視していると言う「対話」を行ってほしいのである。
指導者が「責任」を取らないのは今に始まったことではない。冒頭で紹介した太平洋戦争の例で見た通りだ。それが、何十年も変わらないこの国のかたちなのだ。
北海道大学の西浦博教授は、謝金ももらっておらず、ホテルも自分で探していると、インタビューで述べている。最前線で働く医師も、国から特別の手当を受けているわけではないらしい。なぜなら、それらはすべて「志願」して行われたことだからだ。
これらはすべてつながっている。リーダーシップの不在と、責任の喪失に。
自らの発言がきっかけとなって、一人の人間を死に追いやったことを認められない総理大臣は、自らの責任で休業補償など、責任ある行動をすることは出来ないだろう。はなから責任を取る気などないのだ。一度、重要な問題についての責任を放棄したものは、ほかの問題でもそれを繰り返す可能性が高い。