「国会議員としては、様々な疑いについては国民の皆様に対して説明を果たしていく責任を負っていると、このように考えております」
「政治の場において私が判断した以上、政治の場、政府としてしっかりと対応していきたい、責任を持って対応していきたいと、こう考えているところでございます」
(参議院予算委員会/令和2年3月3日)
「私がここで総理大臣として答弁するということについては、全ての発言が責任を伴うわけであります。そういう観点から答弁をさせていただいているということでございます」
「それは、私どもの事務所が、皆様から要望があったから、それを全日空側にこれはお尋ねをしてお答えをいただいて、ここで私が責任を持って述べているわけでございます。それを信用できないといって、更にまた全日空側に書面で出せということまでやるというのは、いささか要求が強過ぎると私は思うわけでございまして……」(衆議院予算委員会/令和2年2月17日)
かように、総理は国会で「責任」という言葉を多用している。しかし、ここで問いたいのは、一度でも総理は何かの責任をとっただろうか、ということである。
総理は、臨時休業・休校に関わる様々な国民の負担に、責任を持っただろうか。様々な疑いについて責任を持って説明しているだろうか。責任という言葉は空転を続けてきた。
そしてついに安倍総理は、責任を負う姿勢を見せることすら放棄する。安倍総理が緊急事態宣言を行った4月7日、外国人記者の「失敗した場合どのような責任を取るのか?」という質問に「例えば最悪の事態になった時、私が責任を取ればいいというものではありません」と答えた。
「責任を取ればいいというものではない」なら、総理が散々述べてきた「責任を持って対応」の責任とは、一体なんなのだろうか。