「コロナ後の世界」に忍び寄る「健康・健全ディストピア」

不健康と不健全が「罪」となる社会で
御田寺 圭 プロフィール

いま、グローバルな人間社会の持続可能性という文脈によって、肉食もそのターゲットになりはじめている。ときに過激な主張が取り沙汰されるヴィーガニズムの興隆にも、「動物を傷つけたり搾取したりしたくない」という道徳的選好のみならず、「畜産に伴う森林伐採や大量のCO2排出が地球環境に悪影響を与えている」という国際的なコンセンサスが背景にある。肉や加工肉の摂取は癌との関係性も指摘されており、今後は「健康増進」と「環境保護」という、ふたつの「市民が守らなければならないルール」によって肉食文化は挟撃されていくことになる。

 

「健康・健全」は「個人の自由」に優る?

「自らの享楽のために、社会全体のことを考えない人間の自由は制限してもかまわない」という論調は、ひじょうに興味深いことに、もはや保守派だけの専売特許というわけではない。ふだんは政治思想的に対立しているリベラル派も保守派も、「健康・健全な人間社会をつくる」という点においてはおおむね意見が一致しているからだ。

「アフター・コロナの世界」では「社会の健全化・潔癖化」という、コロナ以前からじわじわと台頭しつつあった世界的潮流が加速していくことになる。「個人の健康を害し、社会の健全性を損ねる不道徳な行為」に対する締め上げは、ますます強烈になっていく。おそらくそれは、先述した喫煙・飲酒・肉食といった医学的・身体的リスクだけの文脈にとどまらない。

「健康・健全」を善とする全社会的な文脈は「個人の思想や内面を毒し、ひいては社会の不健全性を強化してしまう」という道徳的な観点から、ゲームやアニメなどのカルチャーも射程距離に入れている。2020年代に入って再び勢いを増している「ゲーム脳」「ゲーム依存」の議論などは、まさにその端緒である。

また、フェミニストが唱えるような「ポルノ規制論」も、過程においては「人権擁護」や「差別反対」のロジックを援用しながら、結果的には「社会の健全化・潔癖化」という、道徳保守的な流れと合流していくものである。人びとが「社会をより健康・健全にアップグレードする」という方向性に合意し、これをルール化していく流れの中で、「ポルノ規制論」もさらに勢いづいていくことになるだろう。

社会をより健康・健全に保たなければならない――と人びとは今回のパンデミックで合意する。それ自体はよい側面もあるだろう。しかし、「不健全なものを楽しむ自由」は、今後大きく後退していくことを余儀なくされる。やがてやってくる「アフター・コロナの世界」では、「度が過ぎた個人の自由は、社会のリスクになる」と人びとは違和感なく合意するようになっているからだ。