脚本・編集・総監督:庵野秀明、監督・特技監督:樋口真嗣、出演:長谷川博己、石原さとみ、竹野内豊、市川実日子、高橋一生、松尾諭、余貴美子、大杉漣、野村萬斎ほか多数の『シン・ゴジラ』。
突如現われた「巨大不明生物」が東京に上陸、甚大な被害をもたらす。内閣官房副長官の矢口をリーダーとする「巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)」は、姿を消した科学者・牧悟郎の残した資料を基に巨大不明生物“呉爾羅(ゴジラ)”の活動を停止させる方法を探す。自衛隊の攻撃にもびくともしない歩く原子炉のような存在であるゴジラを葬るために、アメリカと多国籍軍は日本めがけて熱核兵器(水爆)を撃ち込むことを決定する。
IMAXと通常のスクリーンの計2回鑑賞。
初めて「12年ぶりに日本製のゴジラ復活」という情報を知ったのがいつ頃だったのかもう覚えていませんが、その時の正直な気持ちは「ハリウッド版ゴジラが当たったからってあまりに安易」という溜息交じりのものでした。
庵野秀明と樋口真嗣という、アニメファンや特撮ファンにとっては胸熱なコンビが撮るとわかっててもテンションはさほど上がらず。
昨年末に流れた予告篇第一弾ではゴジラがまったく映らなくて、逃げまどう人々を手持ちのヴィデオキャメラで写して「早く逃げて!」という叫び声(逃げてるがな)が入ってる映像が流れるだけという、なんだこの『クローバーフィールド』もどきの自主映画みたいな安っぽい映像は…と絶望的な気持ちになったのでした。
庵野監督の実写映画は、僕はこれまでに初監督作の『ラブ&ポップ』と岩井俊二監督が俳優として藤谷文子と共演していた『式日』、主演の佐藤江梨子がパンサークローの片桐はいりと闘ったり市川実日子も出てた『キューティハニー』、松尾スズキ主演の「流星課長」などほとんど観てますが、実をいうとアニメーション作品の方はなんとなくタイトルを知ってるぐらいでほぼ観ていません。
「特撮博物館」を訪れた時には、怪獣とか特撮ヒーローなどにまったく興味なさげなカップルが観にきてたりするのを目にして、あぁ「エヴァンゲリオン」繋がりなのかな、などと思ったりした。
その皆さん大好き「エヴァンゲリオン」はTV版を第2話の途中(ビール飲んで「ぷは~」とか言ってるあたり)で離脱、『新劇場版:序』を公開時に映画館で観て、あらためて「これは俺は追わなくていいシリーズだな」と確信。それっきり。
一大ブームになっていまだにエヴァエヴァ言ってる人たちがわんさかいるアニメですが、僕にはまったく合わない作品でした。なのでこのアニメの話を人から振られると大変迷惑する。
そんなわけで、庵野秀明というクリエイターにまったく思い入れがない。
宮崎駿との繋がりとか巨神兵とか、そのへんのことを中途半端に知ってる程度です。
で、ガチなのか“やらせ”なのか知りませんが、新しいゴジラの姿がFacebookで流出した時には、(残念な造形だな)と。ヤケクソになってんのかと思った。だから当初はほとんど期待していなかったのです。まぁ、一応観にいきますけどね、ゴジラだから、といった程度で。
それが予告篇の第二弾では町なかを歩くゴジラの映像が流れて、そのクオリティに「…おっ」となって急に興味をそそられたのでした。
最新の予告篇で自衛隊との戦いのシーンを観た時には、もう「これは観たい。楽しみ」となっていた。
そして公開。観た人たちは大絶賛の嵐、Twitterのタイムラインがシン・ゴジラに対する賛辞で埋め尽くされるに至って、僕は樋口監督が特撮を担当した『ガメラ 大怪獣空中決戦』を観た時のような感動をまた味わえることを大いに期待したのでした。
大画面で観たいから意気込んでIMAXの前から6列目F席のど真ん中を購入。劇場パンフレット(¥850)も買って「ネタバレ注意」という帯に胸躍らせながら。
その日は大雨でしかも雷が物凄い轟音とともに落ちまくっていました。
リアルに怖い。でも映画館の中だとそれがまるで効果音のようで、気分を高めてくれる。最高の演出じゃないか。
120%楽しむ気満々で臨んだのです。
…二時間後。迫力のある場面はあった。予告篇に映ってたとことかは確かに見応えはありました。
帰る途中、大雨のために電車が止まって立ち往生している多くの人たちの姿に、まるで映画の続きを観ているような錯覚に陥った。
だが、その感覚を手放しで喜べなかった(喜ぶなっつー話だが)のは、ハッキリ言って先ほど観たばかりの映画がイマイチだったからだ。
平成ガメラの一作目どころか、結構な酷評をしたハリウッド版ゴジラ(ギャレゴジ)よりも楽しめなかった。
この映画を観ながら途中で何度か嫌になってきて、「これ、いつまで続くんだろ」と思ってしまった。ゴジラ映画で「早く終わんねぇかな」と感じるなんて、自分でも信じられなかった。
相変わらずTwitterではシンゴジシンゴジとはしゃぎまくってる人たちがしつこいくらいにこの映画を褒めまくり推しまくり、絶賛ツイートをRTしまくり、一般人も業界人もこの新生ゴジラに喝采を送っていた。
観たこと自体は別に後悔などしていないし、世間で「ゴジラ祭り」が盛り上がるのは結構なことだと思う。
そしてまたあとであらためて触れますが、ギャレゴジもこの“シンゴジ”も、作品が作られて公開された意義は大いにあったと思います。どちらの作品に対してもその存在自体を否定してるわけじゃないので、誤解なきよう。
だけど、じゃあ手放しで「スゴい!」「傑作!」「めちゃくちゃ面白い!」と褒めちぎるような作品だったかといったら、僕はそうは思わなかったんですよね。
絶賛がこれだけあるのなら、批判だってそれなりにあって然るべきだろうと思っていたんです、この映画なら。が、インターネットで探しても『シン・ゴジラ』についての否定的な意見がほとんど見当たらない。
絶賛一辺倒。ウソだろ、と。
ハリウッド版ゴジラに勝った!と過剰に浮かれてる者までいる。まるで戦争にでも勝ったみたいに。
世間の盛り上がりに完全にノり損ねてしまった僕は、疎外感とともにやがて言いようのない苛立ちを感じ始めたのだった。
そして、これだけ誰も彼もがまるで「戦勝ムード」のように万歳連呼してるんなら、こちらとしては反対の立場をとらせてもらおう、と強く思った。
圧倒的多数の絶賛レヴューに埋もれてしまいがちだけど、批判的な感想の中には非常に共感できるものがいくつもある。
たとえば、こちらは僕などとは比べ物にならないほどの大酷評。
愛と幻想のファシズムごっこ Yahoo!映画レビュー
カット割りが素早ければテンポが出るかといえば、そういうことではない、というのは実に同感。逆に単調になってしまうのだ。
画面が安っぽく感じられたのは、なるほど、照明のせいもあったのかな、なんてこのレヴューを読みながら思った(意図的に安っぽく見せてるんだ、という弁解もあるでしょうが、なんでIMAXでわざわざ安っぽい画を延々見せられなければならないのか)。
一言でいうと、人間が出てくる場面の画が貧しすぎる。
やはり評判のよかった『64-ロクヨン-』も僕は酷評しましたが(あれも顔の知れた俳優たちが次から次へと出てきては消える映画だった)、人間がいっぱい出てくる場面に関してはまだあの映画の方が数倍マシだった。映像そのものは「それっぽく」撮ってましたから。
この『シン・ゴジラ』の“顔祭り”はあきらかにやりすぎで、ヤニで汚れた歯のおっさんたちや無表情なまま台詞を通常の三倍のスピードでまくしたてるすっぴん女の顔のドアップがこれでもかというほど連打される。
IMAXの前方で観たことをほんとに後悔した。顔しか見えない^_^;
『64-ロクヨン-』は悪しき邦画の典型のように登場人物たちがずっと怒鳴り続けてたけど、『シン・ゴジラ』では何人もの登場人物たちが終始早口で棒読み気味に台詞を喋り倒す。
演出上の見た目は違うけど、どちらも人間たちの演出に緩急がないから退屈なのだ。
予告篇でずっと流れてたあの変な合唱は予告篇のみのものだと思っていたんですが、思いっきり映画本篇にも使われてましたね。
アニメとかでよく耳にしますけど、ああいうのを「カッコイイ」と感じるセンスって僕はちょっと恥ずかしくて。バカにしてるようで申し訳ないんですが、ああいういかにもなコーラスってよっぽど映像に力がないと音負けしちゃってその場面自体が安っぽく感じられてしまう。
僕は今の日本映画でああいう曲に拮抗できる画を撮れる監督って、ほとんどいないと思うんですよね。
ゴジラが出てる映像はいいんですが、いかんせん人間が出てきた瞬間に曲に負ける。
そんなわけで、『シン・ゴジラ』の絶賛レヴューを読みたくてこのブログにいらっしゃったかたには大変申し訳ありませんが、ご期待には沿えませんのであらかじめご了承ください。
大好きな映画に他人があーだこーだとケチつけてるのを目にするのは腹立たしいでしょうし、僕だって人を不愉快にはさせたくないので(すでにTwitterの呟きで充分すぎるほど不快にさせてますが)、『シン・ゴジラ』を大いに楽しまれたかた、「今年のベストワン!」「映画史に残る傑作!ヘ(゚∀゚*)ノ」というかた、庵野監督、樋口監督、そして石原さとみさんのファンのかたがた、「エヴァンゲリオン」の信者さんはお読みにならない方がよろしいかと。
一応、こうやって一言お断わりさせていただいたので、以降は自己責任でお願いいたします。
それから「この映画の良さが理解できないお前は相当頭が悪い」とかいう類いの頭の悪いコメントは結構ですから、あしからず。
以降はストーリーに関するネタバレがありますので、ご注意を。
手持ちキャメラのPOVっぽい冒頭から「巨大不明生物」の上陸までは大災害の前触れのような緊張感や、でも映画だからこその無責任な「ワクワク感」に満ちていて、これはイケるんじゃないか、と思わせられたんですが、観ているうちに徐々に違和感が募ってきた。
それは首相や政府関係者、「巨災対」の人間たちの描写。
…なんか淡白すぎないか?と。しかも、ちょっとふざけてる?
大杉漣が演じる総理大臣はけっして無能な人物ではないのだが(わりとテキパキと采配してるし)、「…あっ、そうか」「…聞いてないぞ」などと間の抜けた受け答えをするし、集められた技術者集団の緊張感のないやりとりなども微妙にこちらの神経を逆なでする。
怪獣映画に笑いの要素を入れたらダメだなんて言う気はないし、それが効果的ならいいんじゃないの、と思いますが、別に笑えるわけでもないし、でもどこか映画全体に漂っている不真面目な空気、あるいは不真面目さを装った「飄々とした」感じが、多くの人たちに「シミュレーション映画」と評されている本作品に僕がのめり込めなかった原因の一つでもある。
「以下 中略」とかね。面白いですか、あれ。
ところで、この映画ではアメリカのことを誰もが一貫して「米国」と呼称するのだけれど、政府関係者や技術者はそう呼ぶことになってるんだろうか。
おっさんたちがアメリカのことをいちいち「かの国」と呼ぶのに地味にイラッとしました。
最大の問題点は、ほとんどすべての状況について登場人物たちがそのまま言葉で全部説明してしまうこと。多くの出来事を「絵」で見せずに台詞の中に詰め込んでしまったためにその量は膨大となり、そのため俳優たちの何人もが劇中でまるで「寿限無」の早口言葉みたいに感情のこもってない説明台詞を延々喋り続けることに。
結果、場面は単調になる。
矢口の友人で保守第一党政調副会長の泉(松尾諭)から「食えないお人だからな」と言われる首相の臨時代理の平泉成や石原さとみ演じる米国大統領特使などは、どっかのマンガかアニメから持ってきたようなキャラだ。
それは(一応)主人公の矢口も他の登場人物たちも同じ。
彼らの台詞廻し、アップを多用するキャメラワーク、うるさい字幕、すべてが不快だった。
そして、なんで自分が「エヴァンゲリオン」を好きになれなかったのかようやくわかった。
自衛隊員や幹部たちが「フタマルなんちゃらかんちゃら」などと報告するような場面の連打が自分には退屈でしょうがないのだ。
やっぱり僕には、ああいうのがカッコイイという感覚がわからない。あんなのこそ全部「省略」すればいいのに。
この映画は、多くの人々が結束して各自の仕事をやり抜き、ついにゴジラの活動を止めるまでを描く。
監督はその“手順”をこそ描きたかったのだろうし、この映画に熱狂している人たちもそういう登場人物たちの姿に燃えたんだろう。
よく観てたらわかるけど、この映画には流れを止めたり主人公たちの作戦を妨害するような者はいない。
そういう異分子はあらかじめ映画から排除してある。
作戦は結構さくさくと進んでいく。すべてが「希望的観測」で作られたような映画だ。
米軍の熱核兵器による攻撃が迫ってはいたが、ゴジラを冷凍する「ヤシオリ作戦」(この妙にネーミングにこだわるところもまた非常にオタク臭い)には米軍も協力しており、作戦が開始された時点で日本への核攻撃を決定していた多国籍軍への説得も進んでいて今一つ切迫感がない。
登場人物たちは軍隊アリのように働き着実に成果を上げて、最後には見事ゴジラの冷凍に成功する。
日本人が、というか、その中から選ばれた精鋭たちが日本を守る。…美しい!と。
こうあってほしい日本人の姿。監督の願望と観客のそれとが一致したからこそ、この映画はこれほどウケてるんでしょうね。
でも僕は何か非常に気持ちの悪いものを感じるのです。
監督が理想とする世界、それは想定外のことが起こらず、日本人たちは未曾有の危機にもいつも何か気の利いた風なことを言いながらアメリカと対等に渡り合えるような、まるでアニメの中みたいな世界なのだ。
おっさんと軍人とオタクの集団が日本を救う。
アニメキャラみたいなヘンな英語を喋る小娘が内閣官房副長官にタメ口をきいたり、飄々とした「あまちゃん」のおっさんがいつの間にか問題を解決している世界。
「リアル、リアル」と言われているが、ほんとにこれは「リアル」なのか?
「日本はまだまだやれる」。
何を根拠にそんなことを言っているのか。
もちろん、それは願望だ。「こうあってほしい日本」なのだから。
ゴジラは都合よく線路にまたがっていてくれる。だから無人列車爆弾もどんどん命中する。
アメリカさんもフランスさんもドイツさんも、みんなこちらが正々堂々と正論を述べて協力を求めれば快く応じてくれる。
すべてが滞りなく進み、そこにはなんの葛藤も軋轢もない。
僕は単純に物語として退屈だったんです。だってすべてが計画通りにいくんだから(まぁそれ言ったら、初代ゴジラだって84ゴジラだって意外な展開なんてないですが)。
絶体絶命の危機からの逆転!とか復活!っていうのが何もなかったですよね?
まぁ、政府のお偉いさんたちはこれまた都合よくまとめてゴジラの熱線でお亡くなりになってましたが。
そもそも主人公たち「巨災対」は移動した立川の建物の中にいるだけで、直接ゴジラと戦うわけではないし。
この映画は直接怪獣と対峙し戦闘に従事する者ではなく、上から命令する人間たちの物語なんだよね。
最後に矢口は「責任は取る」ってキメ顔で言うんだけど、どうやって取るんだよ、作戦で自衛隊員たちが大勢死んでるのに。
仕事を辞めれば、あるいは、辞めずに日本を立て直せば、犠牲になった人たちへの償いになるのか?
そんなことを本人にいちいち言葉で言わせるなよ。どんだけ傲慢なキャラクターなんだ。
この映画は兵卒ではなく、司令官や参謀たちが主役なのだ。
実際に戦って死ぬ者たちの姿は映し出されない。
だからこそ、この映画を持て囃して熱狂している人たちに、僕は「まずは君たちが落ち着け」と言いたい。
娯楽映画なんだからドンパチを楽しめばいい。人が大勢死んだってフィクションなんだから構やしない。いちいち細かいことにこだわっていたら怪獣映画なんて楽しめない。
そんなこたぁわかってるけど、上から都民や国民を動かす立場の人間たちを主役にして、無名の自衛隊員たちを犠牲にして日本を救う彼らの話に熱狂できる人々の気持ちが僕にはよくわからないのだ。
誰の立場になってこの映画を観てるんですか?と。
あなたの代わりに誰かが犠牲になってくれるのが当たり前のように考えているのなら、ちょっとおかしくないですかね。
僕たちの立場は、ゴジラに血液凝固剤を注入していて車両ごと吹っ飛ばされる、ろくに顔も映らない名もなき自衛隊員かもしれないでしょう。
現実の世界で妙に好戦的な物言いをする人たちはなぜかみんな自分を安全な場所にいる司令官の立場に置きたがるけど、世の中のほとんどの人たちはゴジラの襲撃で家族を失い住処を奪われ避難したり、瓦礫に埋もれて絶命するような存在なんですよ。
そう、この映画でほとんど描写がない人々だ。
なんでそういう人々の目線で映画を描かずに、あるいは実際に戦闘する自衛隊員たちではなく、まるで映画監督みたいに高いところにいる人を主人公にするのだろう。
不思議じゃないですか?
直接被害に遭う当事者ではなく、ネット越しの視点、みたいな。
僕はこの映画を観ていて、宮崎駿監督の『風立ちぬ』を思い浮かべたんですよね。
あの映画は、主人公・堀越二郎の声を庵野秀明が演じていたし、二郎の「心の師」ともいえるカプローニの声を演じていたのは、『シン・ゴジラ』でゴジラのモーションキャプチャーを担当した野村萬斎だった。
偶然なのか意識してのキャスティングなのかは知りませんが(萬斎さんは樋口さんが共同監督を務めた『のぼうの城』の主演だったから、というのもあるんでしょう)、それだけじゃなくて、たとえば飛行機の設計技師である二郎や仕事仲間たちは『シン・ゴジラ』の技術者集団「巨災対」のメンバーと重なる。
『風立ちぬ』は、飛行機を作る男たちの物語だったわけで、描いていることは同じなんですよね。
『風立ちぬ』もまた僕には疑問のある映画で、二郎はけっして人殺しの兵器であるゼロ戦を作ることで葛藤しない。してるのかもしれないが、それは映画を観ていてもわからない。
ゼロ戦は人殺しの兵器だが、二郎はそれよりも「美しい飛行機」を作ることに夢中になる。そちらを優先する。だから自分たちが作ったゼロ戦で人が殺しあう、という事実に葛藤しない。悩まない。
『シン・ゴジラ』の矢口や赤坂(竹野内豊)たちも二郎とよく似ているように感じられる。矢口は何もかも台詞で説明し、逆に『風立ちぬ』の堀越二郎は自分の気持ちをほとんど言葉にしなかったという違いはあるが、どちらも人間臭さが希薄でどこか空虚に見えるキャラクターだということでは共通している。
矢口が長々と説明するのは状況についてだけだ。彼の心の中は二郎同様よくわからない。
要するに彼らはオタクの理想化された姿なのだ。
矢口や赤坂は古くて融通の利かない薄汚れた日本ではなく、彼らにとって機能的で効率的な「美しい日本」を新しく築こうとしている。また、“なんちゃって日系三世”の石原さとみがアメリカの大統領を目指していて、矢口が日本の首相になれば二人でうまくやっていけるよね、みたいなウンコみたいな会話もまたオタクが夢見る世界なわけで。
一見何やら勇ましく頼もしそうにも思えるが、僕はこういう薄っぺらい人たちが仕切る国に生きたくはない。
彼らのように、「シャツが臭います」と言われながらもまったく汚れていない真っ白なワイシャツを着て、どんなに切羽詰ってもアニメみたいなスカした台詞の応酬をしてるような、そんな「理想の政治家」などいらない。ってゆーか、いないからそんな奴ら。
ひと頃、「現実とフィクションの区別がつかない者たち」を生みだす元凶としてアニメとかゲームとかが槍玉に挙げられて、それに対して「消費者をあまりにバカにした的外れな暴論」として多くの反論がなされたけれど、僕は最近「現実とフィクションの区別がつかない者たち」は確実に存在して、しかも増え続けているなぁ、と思っています。
だって現実の戦争とフィクションのそれとの区別がついてない奴は、実際に大勢いるもの。
アニメみたいな世界を理想視して、現実もまたそのように考える人間は思いのほか多いんじゃないか。この映画を観て大はしゃぎしてる人々を見てそう思わずにはいられない。
そんな“現実とフィクションの区別がつかない人間”などに組織論など語られたくもないし、そんな人間に人の上に立ってもらいたくもない。
長谷川博己や竹野内豊みたいなイケメン政治家だって、中身がまともである保証などない。
芸能人から政治家に転身した人々を思い浮かべたら、とんでもないのが何人もいるでしょう。
オタクたちが望むような「こうあってほしい政治家」も「こうであったらいい日本人」も現実にはいない。
なのにそんな自分たちにとっての「こうあってほしい日本」に酔ってる多くの人々の恍惚とした姿に、なんともいえない気味悪さと危機感を覚える。
このあたりをすごく的確に看破されている感想があったので、リンクを張らせていただきます。
ありのままの私たち、のための映画 Yahoo!映画レビュー
ほんと、これはもしかしたら庵野監督の悪いジョークなのかもしれないんですよね。すべてが皮肉だったのではないか。
ご本人は「日本はまだまだやれる」なんて、本気で信じてるのかどうか。
この映画を観てみんなが大騒ぎしてるのを眺めながらほくそ笑んでるんじゃないか、なんて思ってしまうんですが。
この映画の中で重要な人物でありながら最後まで姿を現わすことのない牧・元教授(映画監督の岡本喜八の顔写真が使われている)というのは、庵野秀明その人だろう。
全体的に不真面目な空気、というか茶化したような雰囲気があったのは、つまりオタクというのはそうやって現実も「斜めから見てる」つもりでいるからなんでしょう。だからこの映画もそういうシリアスな題材をちょっと引いたような視点で捉えている。
まるでネット越しの視点みたい、というのもそういうこと。
そしてこの映画で描かれているのは、庵野監督が好きなものだけが存在する世界だ。
『風立ちぬ』が宮崎駿にとって好きなものだけでできていたように。
唯一「異物」として描かれているといえるのは“ゴジラ”そのものなんだけど、あのまるで深海魚とウナギイヌが合体したような姿のゴジラだって怪獣ファンならかつて庵野・樋口両監督が一緒に作った自主映画『八岐之大蛇の逆襲』のヤマタノオロチに似ているのがわかるだろうし、クライマックスは要するに巨神兵やエヴァンゲリオンがやりたかったんだろうことはいちいち説明するまでもない。
ああいうフォルムのゴジラというのが、きっと庵野さんや樋口さんにとって「これぞ」と思える究極の完全生物=“怪獣”なんでしょう。
高橋一生と松尾諭の出演は、これも樋口監督が全面的にかかわった「MM9」繋がりなんだろうし。
僕はこの映画を観ていて、石原さとみが演じるアメリカ空軍基地みたいな名前の似非日系人がほんとにウザくてしょうがなかったんだけど、他の人たちの反応を見ると予想外にこのキャラクターに違和感や抵抗がない人たちがいることが驚きだったんですよね。
「さとみちゃんの英語、上手だった」とか「カヨコ最高」とか言ってて。
僕は観終わって、このトンデモキャラはてっきり観客からは総スカンを食らうとばかり思っていたので、その反応にちょっと呆然としてしまって。
何か決定的な部分で価値観の異なる人々の中にたった独りでいるような恐怖を味わったのだった。
だって彼女の英語もジェスチャーもコントみたいだったから。
石原さとみの起用が総監督である庵野秀明の意向だったのか、樋口真嗣監督の『進撃の巨人』繋がりなのか、それともイーオンの差し金なのかは知りませんが、これを生まれも育ちもアメリカの日系三世の名家の令嬢だと言われても、それを信じるのは至難の技だ。
せめてほんとのネイティヴ・スピーカー並みの英語力の人を選んでほしかった。
そもそも40代でアメリカの大統領を目指している日系人女性、という設定自体がなんのリアリティもないわけだけど、それでも若い日系三世の女性を出したいのなら、たとえば石田純一の娘のすみれとかさ。
彼女はハワイ育ちで英語も堪能だし、背も高いから長谷川博己とも並んだら釣り合うだろうし。
演技力の方はどうなのか存じ上げませんが(でもハリウッド映画に出演している)。
いや、わかりますよ。すみれさんよりも石原さとみさんの方が日本の観客にウケるだろうことは。
でも、もしもこの映画がほんとに日本とアメリカ、異なる者同士のパートナーシップの再確認を描こうとしていたのなら、どっからどう見ても日本人でしかない“なんちゃって日系人”の石原さとみではなく、エキゾティックで日本人とは異なる文化、価値観を持っているように見える女優を選ぶべきだったでしょう。
そういう異分子を最初から排除している時点で、この映画は「リアル」でもなんでもない。あまりにも狭く閉じた世界だ。
逆にどうしても石原さとみありきなんだったら、彼女が演じるにふさわしい役柄はほかにいくらでも作れたはず。
…言っときますが、僕は石原さとみという女優さんに個人的になんの恨みもないですからね。現在再放送中のNHKの朝ドラ「てるてる家族」だって毎朝楽しく観てますし。
どんな俳優さんだろうと、適材適所でなければ宝の持ち腐れになってしまうと申し上げたいんです。
それは巨災対のメンバーで、ゴジラの体内に原子炉のような器官があることを予測した尾頭(おがしら)を演じる市川実日子も同じで、僕はもう彼女の無表情高速喋りが見ていて苦痛で。
速すぎて何言ってんのかよくわかんねーし。
この映画の大量の台詞は意味がわからなくても構わなくて、そういう“状況”を観客に感じさせればいいんだ、という解説もありますが、何言ってんのかわかんなくてイライラさせられたら観続けるのがしんどいんですよ。
彼女にず~っと無表情で通させて、任務完了の直後の「…よかった」という呟きとともにふと見せる笑顔が狙いだったのかもしれませんが、だとしてもあのキャラ作りはあまりにもデフォルメが過ぎてる。
もちろん、ああいうふうに監督に指示されて演じてるんだと思いますが、市川実日子という女優さんは顔の表情だけでかすかな感情の変化も表現できる演技力のある女優さんなのに、その彼女から顔の表情と人間的な台詞廻しを奪ってしまってまるでアニメキャラのように扱う、というのは僕は生身の人間の否定にすら感じるのです。
尾頭という女性キャラに愛着を持つ人たちも多いようですが、それって結局アニメのようにクールで感情のこもらない喋り方をする登場人物、という「キャラ付け」に萌えてるだけじゃないのか。
「リアル、リアル」というけれど、ちっともリアルなんかじゃないんだよね。
先ほどのレヴューに「全員オタクに見える」というツッコミがあったけど、僕もそう思います。
多くの人たちがこの映画については「人間ドラマなんてない方がいい」とか言ってるけど、「人間ドラマ」ってのは別にわざとらしい大芝居をしたり劇的な場面があるってことじゃないですから。
ほんのちょっとした表情の変化、目や身体の動きなどによって台詞でいちいち語らなくても伝わる感情を表現する、それこそが映画における芝居であって、そこから生まれるのが「人間ドラマ」です。
『64-ロクヨン-』の感想の時にも疑問を呈したけど、何か演技というものを勘違いしてる人々が多すぎやしないだろうか。
アニメがやりたいんならアニメ作ればいいでしょう。実写でやる必要などない。
限られた線で描かれたアニメキャラなら空白の部分が多くてもそれを見る側が想像力で埋められるけど、実写で生身の役者が同じように空白の多いキャラを演じると、ただのマネキンみたいに見えるんです。
そういうキャラクターに萌えてる人たちって、さっきも言ったように自分たちにとって都合のいい理想のキャラクターをそこに当てはめてるんでしょう。アニメ見慣れててリテラシーの高い人たちは、アニメキャラも実写の登場人物もどちらも同じレヴェルで見られるのかもしれませんが、僕は古臭い人間だからかそういう芸当はできません。
実写とアニメは明確に違うし、同じように扱われては迷惑だ。
ゴジラやミニラが怪獣島で悪い怪獣と戦ってたような昭和の子ども向けのゴジラ映画なら別ですが、この『シン・ゴジラ』は3.11の大震災と原発事故を連想させるような「リアル路線」なんでしょ?
『風立ちぬ』が戦争の時代を舞台にしながら、実はアニメスタジオ、要するにジブリでアニメを作り続けてきた宮崎駿本人を描いてみせた映画だったように、この『シン・ゴジラ』もまた庵野秀明がアニメ製作の様子をゴジラ映画の姿を借りて描いたものだということができる。
これはスタッフたちがアニメ作りに没頭してついに作品を完成させる映画なんだと思えば、大真面目に腹を立てる気すらしなくなる。
でも、15億円かけて作った(邦画としては)大作で、しかも劇中でハッキリと東日本大震災の再現をやってみせているにもかかわらず、それがアニメスタジオの話なんてのは、ちょっとどうなんだろうか。
映画っていろんな喩え、メタファーに溢れているものだから、そういうアプローチの怪獣映画だってありえると思いますが、低予算の自主映画ならともかく、これを正々堂々とゴジラでやってしまう神経って僕にはちょっと理解できないです。
それは正直『風立ちぬ』でも思ったことなんだけど。だってあの映画では戦争は背景に過ぎないんだもの。戦闘機を作る人間の話なのに。普通ならありえないでしょう。
宮崎駿や庵野秀明は、ヒューマニズムよりも機能美とかフォルムの美しさの方を愛するような、そういう共通点があって、この映画『シン・ゴジラ』では人間を“機能”に奉仕する存在として描いてるんだよね。
だから個々のキャラクターは深く描かず、みんな似たような喋り方をして同じような動きをする。
ゼロ戦は堀越二郎(=宮崎駿)という“天才”によって作り出された傑作であり、『シン・ゴジラ』の矢口(=庵野秀明)は大勢の人間を指揮して、時に犠牲者も出して、新しい日本を作ろうとする。
彼らはどちらも司令官なのだ。
だから僕は『風立ちぬ』があまり好きではないし、この『シン・ゴジラ』も好きじゃない。
そういうことです。
これまで敢えて触れませんでしたが、VFX映像に関しては正直IMAXの大画面での鑑賞に堪えるものとは思えませんでした。ゴジラの尻尾が海面から上がるところや、ゴジラの上陸によって大量のボートが流されてくる場面など、合成の粗が気になってしかたなかった。
通常のスクリーンをちょっと遠目で観てなんとか粗が目立たなくなるといった感じ。
ただ見応えある映像もいくつかあって、予告でも使われていた車窓からのゴジラを見上げた移動ショットや高層ビルの倒壊に巻き込まれるゴジラなど、ああいう画を日本のゴジラ映画で観られたことは嬉しかった。
感情の起伏といったものがまったくといっていいほど感じられない、ただひたすら巨大な物体としてのゴジラは、確かに劇場で観てこその迫力でした。
その感情がないはずのゴジラが崩れてきたビルに押されて倒れる時に一瞬見せた生物らしさ、なんか「かわいそう」な感じは非常に微妙な表現をしていてなかなか秀逸だった。
逃げ遅れた人が一人でもいれば自衛隊は攻撃はしない、という描写もよかったですね。
この映画では、これまた人気の高い『ガメラ2』に比べるとむやみに自衛隊をヒロイックに描くことはなくて、上に判断を仰ぎ迅速に行動するプロフェッショナルな姿勢は観ていて頼もしいものがあった。
まぁ、結局自衛隊の火器では歯が立たなくて米軍の手を借りることになるのですが。
撮影に自衛隊が協力したということは、劇中で戦闘機が撃ち落とされたり戦車が破壊されることはないんだろうな、と思っていたら、ゴジラに飛ばされた橋の下敷きになる場面があって、ちょっと驚きでした(死者はいない)。
アメリカの戦闘機はパイロットもろとも(パイロットは映らないが)思いっきり破壊されてたけどな。
この映画では政府関係者や自衛官が死ぬ瞬間が映されることはない。それはもう最初から最後まで徹底している。直接的に映し出されるのは、ゴジラの体当たりによってマンションごと潰される家族や瓦礫の下敷きになっている一般市民の犠牲者の足のみ。
ゴジラの光線によって首相が乗るヘリが爆発炎上する場面も、乗務員の様子は一切描かれない。
血液凝固剤を流し込む車両を運転している自衛官の顔すら一瞬も映されることはない。
そのあたりもなんだかモヤモヤが残りますが。
岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』や市川崑監督作品との関連などもっといろいろ書きたいんですが、以下、略。
「何がネタバレなのかわからない」と感想を述べてたかたがいらっしゃいましたが、ほんとにそう思う。「ネタバレ厳禁」とかいうような映画だろうか。僕もわかりませんでしたね、何がネタだったのかも。
そんなにもったいぶるような内容だったかなぁ。
長々とディスってきましたが、ギャレゴジの感想にも書いたけど、僕はこの映画の存在そのものを否定する気はないんです。
この映画は2014年のギャレス・エドワーズ監督によるハリウッド版『GODZILLA ゴジラ』に対する返歌のようになっていて、『GODZILLA ゴジラ』もまた初代ゴジラを大いに意識した作りになっていたけれど、あの映画がゴジラを「地球の守護神」のように描いていたのに対して、『シン・ゴジラ』はさらに感情移入が難しいゴジラを登場させて、徹底してそれを「異物」「自然災害と核のメタファー」として描いている。
どちらが初代ゴジラにより近いかといえば、紛れもなく『シン・ゴジラ』の方だ。
一方で、ギャレゴジの方は初代ゴジラや84年版にはまだあった、生き物としてのゴジラ、人間が「気の毒」「かわいそう」と同情できる存在としてのゴジラが描かれていた。
どちらかといえば、ギャレゴジは『ゴジラの逆襲』以降のかっこよくて頼もしい、ヒーロー的な要素が強かったけれど。
だからこの2本の映画にはこれまでのゴジラ映画の要素や魅力が詰まってもいて、2本併せて観ることで互いを補完できるんじゃないかと思います。
ギャレゴジからわずか2年という間隔でこのシンゴジが作られたことも、今回はとても効果的でした。
1998年に公開されたローランド・エメリッヒ監督の『GODZILLA』はヒットして、やはりその2年後に日本でゴジラが5年ぶりに復活、再び新しいシリーズが続いたけれど、エメゴジはファンからは「あれはゴジラじゃない」と罵られたし、2000年以降の東宝のミレニアム・ゴジラシリーズは子どもと大きなお友だちのための映画で、一般の観客には注目されることはなかった。
だからここ2年ほどのギャレゴジとシンゴジの商業的な大成功と、何よりも特定のファン以外の人々からの強い支持は「ゴジラ」というブランドをもう一度一般の人々に広く知らしめて、あらためて「観る価値のあるもの」という認識を持たせたといえます。
それは10年前には考えられなかったことで、確かにこの2本のゴジラ映画の存在意義は大きい。
「ゴジラ」がこれだけ多くの人々に認知されれば、作品の今後の可能性もさらに広がる。もっといろんなタイプの「ゴジラ」を作ることができるということ。
そのことは僕も大歓迎です。
…なんか最後は貶してるのか褒めてるのかわかんなくなってきましたが、こういう意見もあるということを知っていただければ幸いです。
『シン・ゴジラ』のシリーズ化を望む声もあるようですが、僕はシリーズ化というよりも今後はいろんな監督が今回の庵野監督と同様にこれまでの作品とは違うアプローチで新作を作ってくれたらいいな、と思います。
※大杉漣さんのご冥福をお祈りいたします。18.2.21
とても共感した論考
『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体~繰り返し発露する日本人の「儚い願望」
大いに頷いたレヴュー
踊る大捜査線×エヴァンゲリオン シン・ゴジラ シートン俗物記
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