クマシロ

円堂 豆子

1話:黄色の風紋

野つ子


 狭霧さぎりにとって一番安心できる場所は、いつでも輝矢かぐやのそばだった。


 うれしいことがあれば輝矢のもとへいくし、いやなことが起きても狭霧の足は輝矢の館に向かう。


 いや、そこを輝矢の館と呼んでいるのは狭霧だけだった。たいてい人はそこを、別の名で呼んだのだから。その名は……貴人の牢屋といった。


 夏が終わったばかりの風の強い日。


 輝矢のもとへやってきたものの、その日の狭霧は、館の木壁に背を預けて黙り込むだけだった。十歳の狭霧の顔は暗く沈んでいた。


でも、言葉などなくても、そんなふうに狭霧がふさぎ込んでいる理由を見つけることくらい、輝矢にはたやすいことだった。


「かあさまのご病気、良くないんだって?」


 輝矢に尋ねられると、狭霧は唇を突き出して答えた。


「わたしね、聞いちゃったの。呪いの病なんだって。野つ子っていうのがね、かあさまを死に呼んでるんだって」


 狭霧はじわじわと膝を抱えていった。


「最近、へんなの。とうさまも安曇あずみも侍女たちもみんな機嫌が悪いし、ぴりぴりしてて……。輝矢のことも悪くいうの。ひどいよね、輝矢はここから出してもらえなくても、文句もいわずにおとなしくしてるのに。輝矢はなんにもしてないのに」


 狭霧はじんわりと涙目になる。なぜ輝矢が、この小さな館に閉じ込められているのか。幼い狭霧にそれは、えらく理不尽なことだった。


 悔しがる狭霧の耳元に届いた輝矢の声は、とても小さかった。


「きっと伊邪那いさなで、大変なことが起きたんだよ」


 そのうえ声は震えていた。輝矢はぽろぽろと涙をこぼしていた。


狭霧は首を傾げると、そばで自分以上にうなだれる同い年の少年の顔を覗き込む。


「どうしちゃったの。輝矢までへんよ」


 それから細い腕を伸ばして、抱きしめた。


 狭霧の小さな手に黒髪を撫でられながら、輝矢はぼんやりとしてつぶやいた。


「たぶん、野つ子って遠比古とおひこのことだよ。……野つ子ってなにか知ってる? 死んだ子供の霊のことだよ」


「死んだ子供?」


 狭霧はきょとんとして、輝矢の髪を撫でる手を止めてしまった。


 伊邪那という異国の出の輝矢の目は愛らしい二重で、顎は細く、出雲いずもの顔とは幾分ちがっていた。普段からどこか凛とした振る舞いをする輝矢は、狭霧が雲宮で見かける少年たちとは比べものにならないほど落ち着いて見える。いまも、輝矢は十歳にはとうてい思えない大人びた表情を浮かべて、ゆっくりと噛み締めるようないい方をした。まるで、彼の人生をすべて諦めたように。


「死っていうものを理解する前に子供が死ぬとね、死んだ後どうすればいいのかわからなくて、かあさまを探して野をさすらうんだって。それが野つ子なんだって。……きっと遠比古が、出雲に戻って来たんだよ」


 輝矢の重苦しい言葉の意味は、狭霧によくわからなかった。


「ん? んー?」


 狭霧はさんざん首をひねった。


 遠比古というのは、二つ違いの狭霧の弟だ。弟とはいえ、狭霧は顔も覚えていない。なにしろ遠比古は、五年も前に出雲を離れて輝矢の国へ移り住んだ。出雲と伊邪那、戦の絶えない二つの国が仲良くなるために、遠比古と輝矢という王子をお互いに交換することになったのだ。


「輝矢は出雲にいるのに? 遠比古が出雲に戻ってきてるなら、輝矢も伊邪那へ帰っちゃうでしょ? 輝矢と遠比古は、出雲と伊邪那とのあいだで交換されたヒトジチなんだから」


「狭霧がいうと、人質って言葉も明るく聞こえるね」


 輝矢は抱えた膝に額を乗せて、じっと床を見つめた。


「きっと遠比古は殺されたんだ。かわいそうに。異国の地で、頼る人も守ってくれる人もいないまま」


 輝矢は一息にいうと、ぐっと目をつむった。


「僕と引き換えに伊邪那にいる遠比古が死んだなら、僕だって用済みだ。僕が殺される日もそう遠くないよ」


 それから輝矢はふふっと笑った。


「お願いだよ、狭霧。僕が死ぬときはそばにいてね。きみがいてくれれば僕は、野つ子になんかならなくて済むと思うから」


「輝矢までへんなことをいってる」


 まだ意味はわからなかったが、狭霧も泣きたくなった。


「輝矢までいなくなっちゃう気? いやだよ。輝矢が死ぬなら、わたしも死んじゃうから」 


 そういって輝矢を抱きしめると、輝矢は幸せそうに笑う。それから、涙で頬を輝かせたまま、狭霧の背中を抱き返した。


 でも、そのとき。館の木戸がガタガタと揺れる。


 木戸越しに呼びかけてくる男の声もした。


「輝矢様、安曇です。開けますよ」


 丁重に断りを入れた後、木戸にすき間ができると、そこからなだれ込んできた風がビョオッと唸る。木戸を開けて中をたしかめるなり、男は肩を落とした。彼が見つめるのは、輝矢を抱きしめる狭霧だった。


「やはりここでしたか。許しなく輝矢様のもとへいくのは駄目だと、あれほど……」


「どうしてよ。輝矢はわたしの許婚なんでしょう?」


 たちまち狭霧は膝を立てて、身を乗り出した。


「前までは仲良くしなさいっていってたくせに、いきなり会っちゃ駄目だなんて……」


「いいから、宮へ戻ってください。須勢理すせり様の……かあさまのそばへ」


 安曇の顔は暗く翳っていた。


 狭霧の喉に膨れ上がっていた文句がいっせいに力を失って消えてしまうほど、安曇の顔には、死という言葉が滲んでいた。


 




 ……そのときが……かあさまの死が近いのだ。


 死というのがなにか、まだ狭霧はわからなかった。


 つかず離れずの距離を保って安曇の大きな背中を追うが、ただ目の前が暗くて、足さばきがおぼつかなくて――。輝矢の館とかあさまが臥せる奥宮は遠く離れていると思っていたのに、いつのまにか見覚えのある大屋根が目の前にそびえていたのも、狭霧はとても奇妙だった。


 水壷と清布さやぬのをかかえて慎ましく頭を下げる侍女のそばを通りぬけて渡殿へ上がると、大勢の人に踏まれて色濃くなった床の木目を追う。


 狭霧の母であり、この国、出雲の武王の妃である須勢理が伏せる臥所ふしどは、雲宮くもみやと呼ばれる王宮の奥にあった。戸口には何人もの侍女がうずくまっていて、袖で頬を覆う者もいる。やってくる狭霧の姿を見つけると、しゃくり上げて泣き咽ぶ者までいた。


 お祭りのように人が大勢集まっているのに、そこにあるのは静かな嘆きだけだった。


 臥所の戸をくぐって数歩進むと、安曇が立ち止まった。


「ここで待ちましょう」


 部屋には、庭に面した渡殿わたどのとを繋ぐ窓越しの光が入っていたが、なぜだか寂しく薄暗い。


 奥の壁には母が伏せる隣の部屋へ続く戸口があるが、そこには黄土で染められた薦がかかっている。ただの布一枚なのに、それは輝矢を閉じ込める頑丈な木戸よりなお強固に、その向こうにある部屋を閉ざしているように見えた。


「かあさまは?」


「いまは穴持なもち様が……父王がそばに」


 安曇は狭霧の目の高さまでしゃがみ込むと、ぎゅっと狭霧の肩を抱いた。


 安曇は狭霧の父、穴持の片腕だという武人で、年も父と近い。人のよさそうな丸顔をしていて目もとが優しく、彼はよく狭霧の世話を焼いてくれたので、狭霧にとっては父親のような存在だった。いや……。実のところ、狭霧にとっては安曇のほうが、父王よりよっぽど親しみやすかった。なにしろ父王、穴持は子供に構うほうではなかったのだ。いつも厳しい目をして武人を引き連れ、しょっちゅういろんな人を叱りつけていた。


 いまも、土染めの堅薦越しには、時おり父の怒鳴り声が聞こえる。


「阿呆が、いい加減にしろ! 野つ子など……おまえが見てるのはまやかしだ!」


 狭霧がびくっと震えてしまうほどの叱声。


 死に瀕している母との会話とはとうてい思えない。堅薦かたこもで閉ざされていたので中の様子はうかがえないものの、そのうち父が大仰に立ち上がる音がした。シャ……と剣を抜き放つ音まで。


「呪いなど、おれが斬ってやる。どこだ。死霊に呼ばれておまえが本当に死ぬなら、おれの剣だって死霊を斬れるはずだ。どこだ、須勢理、いえ!」


 床に臥せっているはずの須勢理が、息を飲む音が聞こえた。剣を抜き放った父に必死にすがりついているような気配も。


「やめて! そんな真似をしたら、あの子が物の怪になってしまう。今なら、わたしが助けてあげれば安らかになれるのに」


「野つ子の正体が遠比古だろうが、おまえを死に呼ぶなど、すでに物の怪だ。とっとと退治してやるわ!」


「あなたの子よ、お願いやめて!」


「子なんか要らん。おれはおまえを失いたくないんだ!」


 堅薦の向こう側。いい争う父と母の荒い息遣いが、狭霧の耳に届いた。


 ……聞きたくはなかったし、聞いてはいけないような気もした。


 でも、目を潤ませながら狭霧は聞き耳を立ててしまった。狭霧を落ち着かせようと、さらにぎゅっと肩を抱いてくる安曇の大きな手のひらの温かさを、ひしひしと感じながら。


 母の声はいつしかすすり泣いた。


「わたしは出雲のためにあの子を差し出したわ。でも、こうなってしまったんだもの。あなたの妻のわたしでもなく、王妃のわたしでもなく、母のわたしが魂で悲鳴をあげてるの。お願い……許して」


 父の声も震えはじめた。


「おれに頭なんか下げるな。どうせおれは認めん」


「……うそよ。少しずつ、あなたは諦めてるわ」


 母の声は笑った。それで狭霧はびくっと震えた。恐ろしいものを聴いてしまった気がしたのだ。


「あの子がもうそこにいる。いかなきゃ」


「おれは諦めてなんかない」


 石のように冷たく固まった身体が奇妙だった。


 涙で滲んでいく堅薦を見つめて、狭霧ははらはらと涙を流し続けた。


(止めて、とうさま、お願い。かあさまを止めて)


 狭霧の願いが届いたのか、堅薦の向こうで母といさかう父王は、再び声を荒げた。


「どこだ、どこにいやがるんだ遠比古は! 出て来い!」


 だが、次の瞬間、急に静かになった。父が息を飲む音が、大の男が脅える鼓動が聞こえた気がした。


 狭霧の目の前にあるのは、依然として臥所を閉ざす堅薦だけ。いっさいの音が消えたというのに、その異様なまでの静寂が狭霧にこう伝えた。きっと堅薦の向こうに、父王を脅えさせるほどの恐ろしいものが現れたのだ、と。……野つ子になって母を探しにきた、弟の死霊が。


 次に聞こえたのは、あまりにも温かい母の声だった。


「遠比古、おいで」


 狭霧はぶるぶると顎を振った。


(いや、かあさま……)


 でも、堅薦の向こうでは、母が誰かに優しく笑いかけている気配がする。


「ごめんね、ずっと怖い思いをさせて。とうさまとかあさまを許してね。かあさまがずっと、今までのぶんまで一緒にいるからね」


 声にもならない父の吐息が聴こえた。そして、母の美しい声。


「穴持、愛してるわ。あなたと生きて、たのしかった」


 そして……。


 狭霧は父の絶叫を聞いた。


 堅薦に遮られて、狭霧はなにも見えなかった。


 でも……その向こうでなにが起きたのかは痛いほどわかった。


 母は死霊になった弟に誘われて、死の世界へいってしまったのだ。死んでしまったのだ。


「かあさま、死んじゃったの?」


 狭霧はただ、はらはらと涙をこぼした。


「わたし、お別れもしてないのに」


 温かい手のひらで狭霧の肩を抱きしめる安曇は、狭霧と同じように頬を濡らしていた。


「ごめんね、お別れはもう少しだけ待ってあげてください。穴持様が……とうさまのお別れが……まだ済んでいないから」


 安曇の声は涙で震えていた。


 狭霧も思い切り泣きじゃくった。


 渡殿からも侍女のすすり泣きが聞こえていたし、堅薦の向こうからはまだ父の低い唸り声が聞こえていた。そこらじゅうでみんなが泣いているので、どれだけ泣いてもいい気がした。


 でも……。狭霧が父の泣き声を聴いたのは、あとにも先にもこの時だけだった。





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