安田南の京都 5 Mと中平卓馬の出会い そして安田南との出会い

 

  前回まで、必要だと思って書いてきたのですが、

どうも Mのことばかりを長々と続けているみたいですね。

 私自身はそれがどうしても必要だと思っていましたが、

客観的に見ると、そうでもないのかも。

 それに、私がMをあまりに尊敬し過ぎており、過剰な思い入れがあるのかもしれません。

 なにしろ、Mの背中を見ながら、ああ、俺もああいう風に生きたい、とずっと思っていました。

 今でも、Mだったらどうするだろう、と考えることがたびたびあります。 

 なにしろ、ひどい時代になってますからね、今。

 あ、またクドクドと続けてしまいそうですね。

 思い切り端折っていきましょう。

 

「地下潜行」からもどったMと中平卓馬との出会い

 

 どこで何をしていたのかわかりませんが

ある日、Mは大学に戻ってきました。

 そして、Yという男と二人で、それはもう精力的に動きだしたのです。

 まず無人になってしまって機能停止していた自治会を再建しました。

 そして 無気力に沈滞していたキャンパスを活性化させたのです。

 文化系であれ学術系であれサークルや団体を、ほぼ無条件に支援して、必要とあれば大学当局と交渉してなかば強引に予算を獲得したりしながら私達学生の死にかけていた精神までもを再建していったのです。

 私達が一番驚いたのは、流派間の抗争で学内での活動も危険な状況にあった少林寺拳法部を鉄パイプやタイヤレバーで武装して守ったことです。

 当時の常識では考えられないことです。

 右翼と考えられていた武道の団体を、ウルトラ左翼の同志社自治会が守ったのです。

 Mはこのことを他のグループ(活性化したキャンパスを見て舞い戻ってきたセコイ左翼学生)に問い詰められた時、

 「左翼の仁義だ」 

 の一言で片づけてしまいました。

 おそらく、自治会傘下の団体なのだから無条件に支援するということだと思います。

 ただの左翼学生ではないな、というイメージが広まりました。

 私は、自慢じゃないが、薄々気づいていました。

 彼は「左翼」ではないのです。

 彼は、「彼個人」で存在していたのです。

  左翼学生は、左翼一般の評価や、セクトの決定を見ながら、要するに顔色をうかがいながら意見を述べていたのに対し、

Mはそういうことは気にしない、というか、むしろ軽蔑していたように思います。

 

 しまった、またMのことばかりを書いていました。

本題は中平卓馬との出会いでした。

 急いで本題に移行しましょう。

 ともかく戻ってきたMが次にやったことが、

 連続して開催したシンポジウムでした。

 そのテーマ、ジャンルは広範でなお且つハイレベルなものでした。

 そのための経費などは、Mが大学当局と交渉して、半ば強奪したといわれています。

 強奪したといっても、テーマに沿った論文を出してからの交渉だから、大学当局も認めざるをえなかったのでしょう。

 そして、中平卓馬との出会いがあったのです。

 Mの一連のシンポジウムの一つに、中平卓馬を講師として招請した回がありました。

 当時、中平卓馬はバリバリの前衛写真家で、大変な論客として、且つ理論家としてある意味恐れられていると言っても過言ではない存在だったのです。

 そのテーマは、メディア論、現代状況論、言語論、といったあたりを総合したもので、大変ハイレベルな内容のものでした。               

  どの回もそうなのですが、Mは毎回そのテーマの現代的な必要性、内容を論文として発表し、それを講師に提示して直接口説き落とす手法で招請していました。

 実は中平卓馬は、その頃、大学に呼ばれても行かない、と決めていたらしいのですが(学生の内容のなさ、低レベルさに嫌気がさしたものと思われます)、いったん決定していた方針を撤回して招請に応じることにした旨を、後の雑談のなかで語っていたそうです。 

 彼にそういう決断をさせるほどの内容の高さを証明するように、他の回でもそうですが、このシンポジウムにも、他大学の学生、助手、助教授達までもがノート片手に参加していました。

 この日以降、中平卓馬は、何度か京都の大学からの招待に応じています。

 そして、京都での仕事があるたびに、同志社大学にMに会いにきています。

 そのたびに、大学の寮のMの部屋に宿泊していたようで、

 それはもう大変な信頼関係ですね。

 当時の「アサヒカメラ」誌の彼の作品ページの中の一枚にMの姿が写っているほどです。

 勿論、顔は判別しにくいように処理してありますが、部屋の壁に彼の戦闘用のヘルメットがぶらさがっているのまでがハッキリと写り込んでいます。

  この当時の彼の恋人が安田南だったのは結構有名だったらしいのですが、彼が京都を訪れる時によく同行していたようで、同志社大学での別のシンポジウムの時に彼女を見かけたことがあります。

 このような一連の段階のどこかで

安田南とMが恋人同士になったのです。

 悪い表現をすれば、Mが奪ってしまった、あるいはMに乗り換えたということです。

 ホント、悪い表現です。ごめんなさい。

 そして、このカップルは学内では有名になりました。

 なにしろそれまでは、Mはラディカルでストイックで理論家で超武闘派だと考えられていたものですから。

 そして、安田南は、特に大学二部のサークルを中心として、無条件に人気と信頼を得てしまったのです。

 それは彼女自身が醸し出す雰囲気と、そして、Mに対する絶大な信頼があったからこその結果だとおもいます。

 Mは、さきにもかいたように、半ば死んでしまった大学を再建し、エネルギーを与え、援助を惜しまず、大学当局とわたりあって、学生の精神を再び活き活きとしたものにしたのですから、

 言ってみれば私達の精神的支柱であり、

 彼がいれば何とかなる、といった存在だったのです。

 

 このような下地があったればこそ

 伝説的な同志社大学コンサートがあったのだと思います。

 

 それが、具体的にどのように進行していったのか、

 次回に書き記したいと思います。

 伝説になるようなコンサートとは、こんな風にしてできていくんだなあ、と今になってわかってきたように思います。