飲み会のテーブルでこういうものを見かけることはないだろうか。

 

 

おしぼりの袋や箸袋で作られた作品だ。

私はこれをアートと捉え、見かける度にコレクションしている。

 

飲み会アートは作者の無意識の産物だ。そこから勝手に作者の心情や作品のプロセスを想像するのが楽しい。

 

 

 

 

突然だが、2年前に開かれた飲み会を振り返ってみたい。

この日は「普段あまり話す機会がないライター仲間で交流しよう」という目的で開かれた飲み会だった。

みんな緊張していたからだろうか。おつまみを注文する時に、もの珍しいという理由でブリしゃぶを注文してしまった。

まだぎこちない関係の私たちにとって仲良くブリをしゃぶしゃぶするのは時期尚早だったように思う。

 

 

鍋底に沈むあまりにも小さな昆布をみんなでじっと見つめた。

お湯が沸騰するまでの間、誰が一番はじめにしゃぶしゃぶするのかお互い探り合いだ。

 

 

そんな中で生まれたのがこちらの作品だ。

箸袋を2枚に裂き、縦に細く折り、それをバネ状に編んでいる。手順の多さと丁寧な仕上がりを見るに、作者の几帳面さがよく出ている作品だと思う。

 

作者はメンバーの中で唯一の編集者という立場の人だった。私たちライターの橋渡し役として平等に話題を振り、話を聞いてくれる頼れる存在だ。

ブリしゃぶを優しく見守り、みんなの話に相づちを打つ間、きっと無意識に箸袋をこねたのだろう。

聞き上手であればあるほど、作品は丁寧にこねられるのだ。

 

 

飲み会の終盤で作品はミステリアスな進化を見せた。急にこわくて震えてしまった。

パーツが増えている。はじめに作ったバネ2本に箸袋を消費したと考えると、追加のパーツの材料はどこから調達してきたのだろうか。

いつの間にか誰かの箸袋が使われたのだろう。こわい。めちゃくちゃに聞き上手で、相手の隙をついて箸袋を奪わなければ不可能な方法だ。

 

 

 

ご本人は作ったことを覚えていなかった。

私にとって衝撃的な作品だったので印象深かったが、作者自身は無意識でつくっているので記憶に残らないらしい。飲み会アート、なんて儚い存在なのだろうか。

 

 

 

いろいろな人の飲み会アートを見て思うのは、作る際の意識レベルに段階があるということだ。

 

例えばこれはソフトドリンクを飲んでいた人の手元にあったものだ。

箸袋の裏に書かれた手順に従って折られた見事な鶴。完全に意識を集中して作っている。飲み会中に夢中で鶴を折っている姿を想像するとおもしろい。

 

 

 

箸袋を結ぶタイプの作品も鶴と同じことを言えるだろう。箸置きとして明確に役割のあるものだ。意識レベルの高さを感じられる。

こういうのはきっとどこかで折り方を学んでいるはずだ。

そう思いながら改めて箸袋を見てほしい。どことなく教養を感じないだろうか。私は箸置きタイプの作品を見かける度に想像してしまう。

さっきまでここに良家のお嬢様が座っていたのかもしれないと。

 

 

 

心のお嬢様は箸置きという形で不意にあらわれるのだ。ここでお嬢様がハイボールをジョッキでいかれたのかと想像するとぞくぞくする。

 

 

 

 

飲み会アートでよく使われる代表的な技法が折りたたみだ。 

中でも蛇腹タイプは定番である。規則的な反復行動は、アルコールでふやけた思考を整理するのにうってつけなのかもしれない。 

 

 

 

 

おなじ蛇腹でも横方向に折ったり、縦に方向に折ったり、作者の個性が出る。

 

 

 

飲み会の時間が長ければ長いほど、飲み会アートは複雑になる。

こちらは折り畳んで、広げて、くるくると丸めたのだろう。

おなかが膨れて箸を置いた時、人は複雑な飲み会アートに手を出すのかもしれない。

 

 

 

こちらも複雑な工程をふんだ飲み会アートだ。

使用済みのおしぼりを袋に入れて縛るまではきっと意識があったのだろう。

そこから結び目から先端にかけて三つ編みにする工程は、無意識でやったのではないだろうか。

さらに細かくフサフサに裂かれた先端に注目したい。執拗に裂きまくった先端を見ていると、どこか「帰りたさ」を感じずにはいられない。

時に飲み会アートには作者の心情の移り変わりを暴露してしまうのだ。

 

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