「国体文化」は、大正13年2月の創刊以来苦難を乗り越え発行を継続して参りましたが、平成19年8月号で遂に通巻1000号となりました。(本誌の歴史はこちらの通り)
その際の皆様から頂きました祝辞をここに掲載致します。
各界からの祝辞 (肩書きは当時)
「国体文化」千号をお祝いして
國學院大學教授 大原康男
故里見岸雄博士が創設された「日本国体学会」の機関誌「国体文化」が創刊以来一千号という記念すべき大台に達したこと、心よりお祝い申し上げます。
里見博士が厳父田中智学師が創唱された「日本国体学」を継承し、それを飛躍的に発展させて前人未踏の体系化・総合化を成し遂げられたことは夙に知られていますが、私もその学恩を受けた一人です。
とはいえ、博士の膨大な業績のごく一部に目を通したに過ぎず、はなから大仰なことを申し述べる能力も資格もありませんが、戦後日本のひどく歪められた思想空間の中で「天皇」に関するきわめて精緻な論理を展開され、その卓説に接して文字通り「目から鱗」の思いを抱いたことが少なからずありました。
とりわけ、帝国憲法の第一条と第四条の違いを「統治実」と「統治権」という二つの概念を用いて説明されたこと、今日、天皇の〝人間宣言”という俗称で流布している昭和二十一年元旦の詔書の正しい読み方を示されたことです。もちろん、私なりの視点からさらにそれを敷術する論を工夫いたしましたが、それも博士の最初の示唆があってのことでした。
このことに関連することですが、今から三十年ほど前に河本学嗣郎さんと日本の国体について対談した際、その結びの段階で河本さんが「私は『里見国体学』の立場でいく」と発言されたのに対して、「私は神道・国学の立場から」と応じたことをふと想起します。まだ若かったこともあって、今から思えば青臭い議論であったかもしれません。
お互いにアプローチする方法に差異があるにしろ、「我カ國體ノ精華」を闡明することにおいて全く変わりがないことは、いまさら口幅ったく申すまでもありません。「日本国体学会」ならびに「国体文化」のますますのご発展を願う所以もまさにそこにあるのですから……。
真実への道標
日本文化総合研究所代表 高森明勅
近来、かつて全盛を極めた感のある左翼的言説はやうやく凋落の気配が濃い。それに代はつて所謂保守系の言論が勢ひを持つやうになつた。
まづは結構なことと云へよう。
だが所謂保守系言論なるものの内実に、一寸足を踏み入れてみるとどうか。
日本を愛すると云ひつつ、皇室に無知無関心で冷淡であつたり、皇室を敬ふと云ひながら、その実、恐るべき非礼不敬の言を平気で吐くやうなケースが、決して少なくない。
果たしてこれで「保守」系と云へるのかと首をかしげざるを得ないありさまだ。
そこに欠けているのは、端的に云つて国体への基礎的な共感と理解だ。
国体論、国体学の土台を欠く、保守を標榜したあやしげな言説が横行してゐるのが実情であらう。さうした折柄、前人未到の雄渾な国体学の体系を樹立された里見岸雄博士の創立にかかる日本国体学会の機関誌『国体文化』が、大正十五年二月の『日本文化』創刊以来、通算で千号を迎へられることは、まことに慶ばしい。
里見博士は厳格堅実なる学的体系の完成に心血を注がれる一方、世上人心の帰趨にも意を払はれ、鋭利な啓蒙的言論の展開に力を尽くされた。さうした言論の隅々にも、博士の国体学の精華が煌めいてゐたことは、云ふまでもない。
その博士の志と道統を継ぐ『国体文化』誌の存在意義は、日本の真正なる覚醒が切実に求められる時節に当たり、いよいよ重大なものとならう。似非の保守、似非の愛国の濁流渦巻く中、国体の真実を伝える道標として。
師承の学の重さ
皇學館高校教諭 三輪尚信
『国体文化』が、大正十五年二月、『日本文化』の誌名で創刊されてより、数回の改題を経て、今、千号を迎へられること、大きな驚きと強い感動を覚える。
この八十年間の日本は、未曾有の国難に遭遇し、今もなほ厳しい試練の時に際会してゐる。思想界は、ある時は極端な国家主義に走り、それが敗れると、民主・革命に狂奔し、今また、軽々しく伝統・保守を標榜し得意顔である。
このやうな思想界の醜態の根本的な要因は、日本独自の人文の学や社会科学が成熟してゐないことにあるのであらう。わが国が、シナや西洋諸国と国体を異にすること、日本歴史の特異性を明確に認識することこそが大切であり、この上に立つて、日本独自の人文の学、社会科学をもつことが急務であると痛感する。近・現代の大学の主流が、国際主義を採用し、もつぱら西洋の学問を導入することに意を用い、その翻案で事足れりとしたことはまことに遺憾であつた。
里見岸雄博士の国体学は、この弊風に敢然と立ち向ひ、日本の学としての社会科学を打ち立てられたのであり、後学の必ず学ばなければならない基準の学の一つである。
今、『国体文化』は、「師厳道尊」(河本學嗣郎氏「本誌の使命」・九八三号)の精神を堅持する御門下の人々により、二千号を目指して、故く新しき第一歩を踏み出された。
今年正月六日、安倍総理大臣は、首相としては森元総理以来六年ぶりで明治神宮に参拝した。新聞各紙は、政府筋・首相周辺の説明として、「伝統を大切にする『保守』の姿勢を明確にするのが参拝の目的だ」(朝日・七日)と報じた。私は、安倍総理の祈りが真剣なものであることを疑はないが、この説明はまことに不謹慎であり不必要である。現在の保守はかくの如く浮薄軽佻なものである。ここには、歴史を深く考えることなく、時流に流され、また歴史を勝手に理念化して怪しまない危うさがある。『国体文化』には、師承するところがある。そこには、「師厳道尊」といひ得る師承の学の重さがあり、同時にそれを継承する学徒の責任の重大さも自覚されてゐるであらう。
私どもの目指す日本の再興は決して生やさしいものとは思はれない。従つて、『国体文化』二千号への道も平坦なものではないであらう。しかし、里見岸雄博士は、昭和二十三年三月十七日、『日本国体学』の「題辞」に、「将来いづれの日にか必ず日本が更めて世界の面前で、真の意味に於ける国体を明徴にすべき時あるべきを著者は確信して疑はぬ。」と明記されたが、私どもも、再び日本が真の日本となる日が一日も早く到来すること念じ、『国体文化』とともに学び考へたいと思う。敢えて、師命を奉じ、重い責に任じ、険難の道を歩まれようとする方々に、心より感謝し、衷心より壮途を祝したいと思ふ。
大王進軍の輝かしい歩み
国柱会講師・里見岸雄先生御令姪 大橋冨士子
日本国体学会が、機関紙一千号刊行をお迎えになり、まことに慶ばしく、お祝い申し上げます。
西宮の里見日本文化学研究所時代、私がまだ小学校四、五年生のころ、里見叔父上様のご招待で、両親と弟、一家四人で伺ったことがあります。新築の大きなりっぱな建物に若い人が大ぜいおられ、大阪で借屋住まいをする子供の私にも、活き活きした道場の感覚が伝わりました。
その後、京都から武蔵野に進出されたころ、私は叔父上様の膝下で修業生活をしていました。機関誌の名称は『国体学雑誌』となり、「冨士子も校正を手伝え」と命ぜられて、編集の岡本永治様に教えられ毎月奉仕しました。
里見先生の著作は自ら校正もされます。当時は校正は、二人で向き合い、どちらかが声に出して読むのを、活字を目で追いながら検べて行くのです。ある時、先生と一対一で校正中「読め」と云われ、固くなって読むうちに緊張のあまり「兎も角」とあるのを「ウサギモトモカク」と読んでしまい、大笑いされたことを覚えています。
先生中心の願業に貫かれた、きびしい生活の中にも、楽しい集いがあり、先生の作られた歌を、みんなで威勢よく歌いました。「あゝ玉杯に花うけて」の替え歌です。
あゝ大王の進軍令 雄図の旅にのぼらばや
混沌毒酒にまろび伏す 狂へる民を警醒し
嵐を誘ひ風を呼び 臥龍なすべき使命あり
多少ちがっているかもしれませんが、今なお記憶しており、うたっていると当時の雰囲気が胸に蘇ります。
先生在世はもとより滅後三十余年、この一千号まで一貫して、大王道人の進軍が続いているのです。
先生の偉大さは申すまでもなきことながら、まわりで支えたお弟子たちの熱誠なる志によって、先生の学業が継承され、この輝かしい記念号を迎えました。これからも一層充実した活動が発揮されるよう、心からお祈り致します。
小生の読書遍歴における国体文化誌
立正大学教授・文学博士 日蓮宗大本山本圀寺歴世 伊藤瑞叡
小生は、札幌北高等学校生の時節、国史の左翼教師の影響を受け、一方で井上清のマルクス主義史観による岩波新書『日本歴史』上中下巻を読み、他方でみすず書房刊行の北一輝の超国家社会主義による『日本改造法案大綱・支那革命外史』を読み、六十年安保の年、北大全学連代々木の指導下にある友徒と安保反対運動の無名会と称する勉強会を結成するなどの行動派であった。
早大一文哲学科に入学すると同時に雄弁会に入部してベトナム問題のデモ運動等に率先し、一方で同室の仏教青年会に席を置いて二年先輩の故石川教張師と東京仏青の平和運動に歩調するも、他方で中村瑞隆博士に通い、梵語・西蔵語を習い、乃至大学・中庸を読み、清沢満之の真宗の精神主義の、更にニヒリズム、ブーバやテーリッヒ、実存主義やの書籍を貧り読みもした。又、当時の雑誌は『世界』・『中央公論』を通読し加えて津田史学の論著をも読んだ。時として『自由』をも読んだ。
しかし、福田恆存の著作を読み保守の存在の何たるかを知った。よって丸山真男の著作や都留重人の所論は直ちに幼稚で卑怯なアジテーターものと見て放下した。むしろ漱石・鴎外・露伴の小説・評論の方が上質なりと判断した。東大大学院印哲に進学し、池上の金子貫首の世話により立正高校の倫理社会の講師を勤め、中村元博士の指名により鈴木学術財団の研究員となり梵和辞典の作成に携わりもした。中共毛沢東派の大類純氏の下、共産党中央委員の日隈威徳君や当時は心情左翼であった山折哲雄氏と数年間、同席もした。
七十年安保あり、シナの文化大革命ありで、小生は常に左翼運動家の只中に身を置くも、生涯の善友湯田豊君に会いイエーリンクのローマ法の研究の何たるかを知り、法哲学の書をも読んだ。専攻研究分野である仏教古典学の書物以外に、西洋哲学でカント、へーゲル、ベルクソンのものを読み、一種のへーゲリアンになるも、クロポトキン等のアナーキズムの訳書をも読んだ。
一方で竹山道雄の『昭和の精神史』、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、英国保守主義の鼻祖エドマンド・バークの『フランス革命の省察』等の諸論により自由主義・保守主義の立場を理解し、他方で師父(大本山本囲寺中興六十三祖)の薦める『妙宗式目』五巻と里見国体学の論著を通読し 『立正文化』誌を購読したのである。
かくて対中ソ従属左翼国際派・対英米従属右傾国際派の呪縛より離脱し、結社金融カルテル支配下右翼をも冷視するに至った。
かくして師父の意趣を汲み里見博士宅を数度お訪ねし博士より親しく指南を受け、祖国日本のネーション・ステートとしての持続・発展の底力(ポテンシャル・パワー)が内発文化基盤としてのOriginality of the Japanese Civilizationのケルンであり、歴史的英知による伝統的精神の結晶としての国体にあることを会得した。
国内における歴史観念の反目紛糾や左右両陣の対立闘争やは「混乱あれば利益あり」を原理とする世界支配寡頭権力によるネーション・ステートの破壊を目途とする分断方策分割統治・植民支配文化工作を利するのみである、と現在の小生は愚考している。
「分割して統治せよ」に対して、私どもは「一同“異体同心”して対処せよ」であらねばならない、と思う。
昨今、日蓮門下にあっては、摂受を主張する放言による変節あり、立正安国論を封印せよとの私曲による蛮声ありである。妙経・祖書の文を見て意を得ざる妄語の至りである。「城者として城を破るもの」多しである。「法師は諂曲にして人倫を迷惑す」とはこのことである。祖師を裏切り自国を見捨てる道義欠如がそこにある。
一同対処国体自治をもって対応するより外に道はないのではないか。日本国と日蓮宗との二つのNへの忠誠は分断工作され同体異心となって諸事あいかなうことなしの有様となってはならない。何故に日蓮聖人の祈請所願の意趣に異体同心できないのか。変遷極まりない時代思潮の今時、世俗ファビアン主義に媚態して名聞利養を欲求するからであろう。
『国体文化』誌の刊行持続は、自叛他逼〈じほんたひつ〉を受けつつある不安定なる日本の国土・国民・国家において、国体文化による復古改新の力動性〈ダイナミズム〉のなお潜在することを明証し期待せしめるものである。
以上、本誌の永続を祈念して一千号発行達成に対する記念祝意として、一筆啓上といたします。
平成十九年六月廿四日記す
「里見特集号」は一番の誇り
一水会顧問 鈴木邦男
「国体文化」一千号、おめでとうございます。それにしても大変なご苦労だったと思います。毎号、教えられることが多く、とても勉強になっております。
私達一水会の機関誌「レコンキスタ」は337号を迎えましたが、それでも遠い遠い道のりだったと思います。それなのに「国体文化」は一千号!気が遠くなる思いです。それだけの歴史があり、大きな役割を果たしてきたと思います。
「レコンキスタ」を作る上でもその志や根気は学びたいと思ってやってきました。特に思い出すのは、「レコンキスタ」第56号(昭和55年6月号)です。「里見先生特集号」を出しました。巻頭には河本學嗣郎先生に「危機の時代に蘇る里見国体学」を書いて頂きました。又、柚原正敬氏が「里見先生に於ける思想戦争」を書いてくれ、竹中労さんが「天皇論に革命を起こした男」を書いてくれました。竹中さんは、左翼というか、アナーキストです。そんな竹中さんが里見国体学を高く評価しておりました。又、「三島由紀夫の『文化防衛論』は里見のコピーだ」と断じておりました。
でも三島は里見国体学については全く触れていない。そう疑問を呈する事で、「作家はネタ本をバラさないものです」と言ってました。今、三島の『文化防衛論』を読むと確かに竹中さんの言う通りだと思います。
この「レコンキスタ」の「里見特集号」は僕らの一番の誇りです。一番反響も大きかったです。笹井大庸氏と僕の対談も載っております。「戦闘的日蓮主義者群像に学ぶもの」というタイトルでした。未熟ながら僕も必死に里見国体学を学ぼうとしていました。
僕は三島のような大作家ではないから、はっきり言います。里見先生の思想や戦いのやり方を学び、まねさせてもらいました。特に『天皇とプロレタリア』『国体に対する疑惑』からは多くを学びました。
僕が初めて出しました本は『腹腹時計と〈狼〉』ですが、これは左翼の問いを通して、民族派の考えを訴えようとしました。又、『がんばれ!新左翼』『私たち共産党の味方です』などもあります。最後の本は元日本共産党№4の筆坂秀世さんとの対談です。勿論、里見先生には遠く及びませんが、その意気だけは学んでいるつもりです。左翼をも巻き込んでこの国のことを語り、訴えていこうとおもっております。
ただ、力不足なので誤解されることも多く、批判もされております。これからも「国体文化」を読み、僕らの誤なり、未熟な点を正していきたいと思っております。
お 祝 い
近代史研究家 田中秀雄
日本国体学会の機関紙が大正十五年の創刊以来、遂に千号となったことをお慶び申しあげます。
里見岸雄先生の名前を知ったのは記憶が定かでなく、石原莞爾将軍を研究しはじめてからです。今思えば、他の歴史研究の一環の一つであり、死亡年月日を知ってその日の新聞記事を捜して(ずれていることも考えず)みたり、新聞広告で『天皇とプロレタリア』(暁書房)を偶然見つけて、買い求めたりしていました。
私の場合、里見先生を強く意識するようになるのは、石原莞爾研究を本格的にするようになってからです。日本国体学会ともその時点からお付き合いが始まりました。研究は遅々としたものですが、石原将軍と田中智学、里見岸雄両先生は切っても切り離せない関係であり、そこのところを無視しようとする見方──たとえば石原門下生の武田邦太郎氏などはどう見てもおかしいのです。
里見先生の数々の業績を私のような素人が云々するのもおこがましいのですが、田中智学先生が幕末から明治にかけての日本民族の輝かしい勃興の時代を背景にした思想家だとするならば(「明治節」運動はその総決算でしょう)、里見先生はさらなる激動の時代を潜り抜けてこられた思想家だといえるでしょう。なぜならば、明治後期から始まる社会主義運動の嵐の中で、いかに日本国体を守るのかということが里見先生が自己に課された使命であったからです。
当時の知的青年を熱狂させていたマルキシズムといかに戦うかが先生の課題でした。そういう中で科学的国体論や生命弁証法などの用語が生れてきたのでしょう。その課題は、日本が敗戦した後になってはさらに重要、切実なものとなって行きます。”国体への懐疑”風潮は戦後自虐感とあいまって国民全体へと拡散していきかねない時代であったからです。先生はその盾とならなければなりませんでした。
まさに先生の生涯は「闘魂風雪七十年」と形容できるものでした。先生の思想を受け継ぐ門下生の皆様のご活躍を期待し、益々のご発展をお祈り申しあげます。
「国体文化」といふ、当時の時代風潮としてはいささか硬く感ぜられる題名の本誌を、自衛隊在隊時に初めて手にした記憶が蘇つてゐます。昭和四十五年のことで、いまは亡き落合秀行さん(三等陸佐)から提供してもらつたのでした。
その後、雑誌じたいを拝読したのは二、三回に過ぎませんでしたが、神田の古書店をめぐつて需めた『天皇及三笠宮問題』『万世一系の天皇』『国体学入門』『教育勅語か革命民語か』『天皇の科学的研究』など里見先生のご著書を拝読し、すこぶる啓発されました。私なりの、所謂天皇論的なものがあるとすれば、先生の論攷に負ふところ大なるものがあるのは当然の成行きでした。学恩に心から感謝してをります。
平成の御代に入つてより本部のはうへ伺ふ機縁が生れ、荻窪に住んでゐたこともあつて足繁くお尋ねすることになります。しかも「立正」誌にエッセーを、ついで和歌講座を、それぞれ拙いながら執筆させて頂きました。
省察と文章を練る恰好の機会を得たこと、うれしい思ひ出となつてゐます。
「国体文化」第一千号──ご同慶の至りであるのは勿論ながら、ここまで漕ぎ着けるには凡ならざる労苦が不可避であつたことを、まづ想像してしまふのです。そのうへ、いはば老舗にして晒習に堕するなく常に国論の最前線に立つの気概が横溢してゐるのは、近年の皇位継承にまつはる独自の論陣を張る姿勢から忽ち察しられます。問題の在処を大胆に提示し進んで歪みを剔抉しようとの意志あるところ、必ずや、より健全な国論の喚起に寄与するものと思量します。
独自色は、むろん雑誌の命です。毎号が、「すべての記事を読みうる一冊」であるやうにとの念願が、芳しからぬ一読者の胸中に兆してゐます。
千号記念特集号への御祝辞
法学博士 小森義峯
「国体文化」千号記念、誠におめでとうございます。
私は、昭和三、四十年代、京都教育大学の助教授をつとめていた頃、東京で学会等が開かれる度に、よく武蔵野市の里見岸雄先生のお宅に泊めて頂き、先生から憲法問題をはじめ、何かと親しくお話を承ることができました。
今、当時がなつかしく偲ばれます(ちなみに、小生、現在満八十四歳)。
さて、二年前、自由民主党は、結党五十年を機に新憲法草案(実体は現行占領憲法追認案)を発表し、今日、安倍首相も、「憲法改正の必要性」を熱心に説いております。また、国会の内外でも、「改憲」「護持」「加憲」、更には「創憲」と憲法論議がかまびすしくなってきました。
十数年前までは、憲法改正を論ずること自体がタブーでしたから憲法論議が自由にできるようになったこと自体はよろこばしい限りだ、と思っております。
しかし、今日の憲法論議に欠けている最大の特徴(否、欠陥というべきか)は、「国体問題への認識が全く欠けていること」であります。
現行憲法の定める「国民主権に基づく象徴天皇制で宜しい」という考えが、現在の政界、学界、マスコミ界、そして、圧倒的多数の世論の動向だが、果してこれでよいのであろうか。
現行の米国製占領憲法は、「天孫降臨」の肇国以来、皇祖天照大神と霊肉共に一系であらせられる「万世一系の天皇」を国政上の最高の権威(権力ではない)の座に仰ぎ、君民一体の姿で日本民族の歴史を貫いてきた、日本の国柄(国体)を根本的にゆがめている、と考えます。
私は、結論的に言って、現行憲法は速かに廃棄し、廃棄した後は、「不文憲法」でよい(「成文憲法」は不要)と考えております。
私見はともかく、貴「日本国体学会」と「国体文化」の存在意義が高く評価されるのは、これからだ、と存じております。
貴学会の益々の御健闘と御発展を祈念して、「お祝いの言葉」といたします。
国体護持の思想戦に不可訣
國體政治研究會代表幹事 中村信一郎
創刊一千號、洵におめでたうございます。
本誌との出會ひは平成の御代になつて間も無くの頃だつたと思ふ。國體論を專門的かつ恆常的に扱つてゐる團體のことを小堀桂一郎先生にお伺ひしたところ、先生は言下に大東塾と竝んで日本國體學會をお擧げになり、數日後、機關誌『立正』をお送り下さつた。それまで名前は聞き知つてゐたものの讀んだことのなかつた里見岸雄博士の論説に初めて接し、深い感銘を味はつたことを今でも鮮明に覺えてゐる。
その後、「昭和の日」實現運動やら純正民族派の協議機關「時局戰略懇話會」の活動やらを通して相知るところとなつた河本學嗣郎氏の、その見識と人格に魅了されてからは、ますます日本國體學會と『立正』は身近な存在となり、遂には正統國語表記に關する駄文を連載する機會に恵まれるまでになつた。有難い御縁である。それはともかく、日本國體學會とその機關誌は、國體護持の思想戰にとつて、これを先導してもらはなくてはならない絶封不可訣の存在である。
一昨年、河本氏が理事長に就任され、昨年は、出版社展転社の創立者・前社長・現會長であり國民運動の類稀なる指揮官である相澤宏明氏が機關誌の編輯長に就任された。誌名も『立正』からかつての『國體文化』に復歸改題された。本誌への期待感は彌増しに高まるばかりである。
そのやうな機關誌であればこそ、進言したいことが一つある。(皇位繼承論議に關する進言もあるが詳述を要するので今回は措く)
本誌が、國體論と共にそれを根本的に支へる日蓮主義思想を宣布恢弘する使命任務を帶びてゐるのは當然だらう。ただ、これは一般的にも言へることだが、不特定多數の有志國民を對象とする言論の場合には、特定宗教宗派特有の用語や言葉遣ひは可能な限り避けるべきである。さうでなければ、折角の言論は説得力を失つてしまふ。時には違和感を招くこともあらう。同一號の誌上であつても、さうした特有の言葉遣ひをする記事と、さうでない記事とは併存し得るし、併存して問題は無いはずだ。
幸ひ、「昭和の日」運動關連記事の立派な實績がある。その遣り方を是非とも承け繼いでいただきたい。日本國體學會のために、そして何よりも皇國の將來のために。
祝「国体文化」壹千号
錦正社々主 中藤政文
日本国体学会様、そして河本學嗣郎様をはじめ幹部の皆皆様、“機関誌「国体文化」の壹千号到達”真におめでとう存じます。
小生もその周縁にあり、「国体文化」に育てられた者として慶びにたえません。「国体文化」との出会いは、小学校時代ですから、もう五十年以上も昔のことです。最初の頃は、大孝園夏期学校や、天長節の大孝園共祝会の記事を読むのが楽しみだったと記憶しています。
そして徐々に、主筆里見岸雄博士が論争されている相手、抗議されている相手の名前が、わが脳裏に焼きついていきました。そして、それが近年になり、後学の先生方によって、再び批判の対照にされているのを読み、なるほどそうだったのか、と合点が行くことが屡々でした。占領後の、あの左翼ジャーナリストの全盛時代に、まことに貴重な言論活動の表舞台が、まさに「国体文化」誌上だったと思われます。
そう考えますと、今日そのバックナンバーの重要性に思いが及ぶのは小生ばかりではないでしょう。戦後思潮の再検証が行われつつある今、里見先生の鋭い筆鋒が那辺に向かっていたのか、がよく判ると思います。そのような号の再収録・再掲載をお願いできれば有難く存じます。今、ぱっと思い浮かぶのは、宮沢俊義、横田喜三郎、小林直樹、佐藤功、和歌森太郎といった面々です。よくぞ、此処まで休刊、廃刊なさらず、続けられました。その舞台裏はさぞ大変だったでしょう、と拝察申し上げます。大きなブレを生ずること無く刊行し続けられたそのエネルギーは、どこにあるのか?それは、美事な志の継承にあると思われます。混迷続ける現代日本にとって、いかに貴重かつ重要な機関誌であるか、を銘々が自覚して居られることに尽きるでしょう。
しっかりした日本人としての教育を受けることの無かった世代が親になり、また戦後の混乱期に育った人々が祖父母となりつつある現代、わが邦唯一の国風、国体を論ずる「国体文化」が壹千号を迎えられたことは、正に壮挙といえるでしょう。と同時に、これからこそ、その読者を拡げ、社会教育の担い手として重要な位置を占めるよう望んで居ります。
終わりに、皆様御多端とは思いますが、研究上欠かすことのできない、また資料として役立つ、壹千号総目次或いは総索引の刊行を希望して擱筆いたします。
「国体文化」創刊千号を祝して
本会正会員 竹中順一
私が国体文化を購読し始めたのは「国体戦線」という題で昭和二十年代、まだ未成年の頃であった。
とも角、里見岸雄先生が、しばしば奈良に来られて国性芸術運動を熱心にやって居られた駒井様一家が中心になり、国体学会奈良県支部を発足、開会式を橿原神宮拝殿で挙行されたことを覚えている。
当時私は、むしろ石原莞爾先生らの精華会運動に関心が深く旧制中学を中退し、兵庫県の池本農場に三年ばかり居た。
その間、隣村の林田精華会の瀬良さんから、今度林田村へ里見先生が来られ講演されるから是非、とお誘いを受け仕事を終えてから自転車で出かけた。お話は始まっていて出口近くでお聞きし、私など覚えて居られないだろうと、お話が終ると挨拶もせず帰ってしまったが、後に奈良へ帰省した時、先生が駒井さんと「竹中が来ていた」と話されたと聞き、先生の記憶力のすごさに驚くと共に、その時挨拶せず帰った失礼を改めて反省したのであった。
その後、農場が解散となり、奈良に戻って特産品である墨のメーカー墨運堂という会社に入社し、定年まで主として営業畑で働き、ほとんど全国を廻った。
ある時、茨城県高萩市で得意先を訪ねると奥さんが出てこられ「今主人は里見岸雄という先生の講演会に出かけておりますが、もう帰る頃と思うので上がってお待ち下さい」と言われ、あわてて「里見先生は私よく存じています。一寸鞄を預って下さい」と言い残して会場に向った。結局先生には汽車の出たあとでお目にかかれなかったが、ご主人が先生のファンであられることや、類纂高祖遺文録を探しているが中々手に入らないという話までされ、運良く京都の古本屋で入手して次の出張に持参し、大変喜ばれたこともある。今この稿を書くに当って年表で確かめた処、昭和四十五年、先生が七十四歳の時であり、三十七年前の事。今私は七十五歳であるから年月のたつ早さに驚く。
さて結論を急ごう。昨年日本国体学会から相次いで国体学創建史という上下二巻の大著を頂き、拝読して田中智学先生と里見岸雄先生の御主張が、いかに正しいものであるかを再認識し得た。改めて国体学会の御好意を深謝し、今後の御発展を熱望する次第です。
「世界を挙げて日本国体を研究せよ」
国柱会講師 秋場善彌
大正九年十一月三日、明治神宮の御遷座式が厳修された。この吉祥日に、田中智学先生は、天業恢弘の聖旨を実行する国体運動を大展開するために、=日本国体の研究を発表するに就いて=の大宣言を発表された。ついで先生は『日本国体の研究』を執筆され、同年九月十二日に創刊された日刊新聞『天業民報』に一年間にわたって連載され、まとめて大冊を出版された。「宣言」を拝読すると先生の世界人類のため絶対平和実現のために、何としても日本国体を明徴しなければならないという信念が伝わってくる。冒頭に「明治神宮奉鎮の吉日、我近く吾が四十年来の冷暖を経たる『日本国体の研究』を世に発表すべきことを宣言す。あゝ時は来れり!世界を挙げて日本国体を研究せよ」と力強く呼びかけられている。ついで、「惟ふに日本国体とは道也、道とは真理の実行にしてその帰趨を定むるの謂也」と述べられ、日本国体の道は「是世界の道也」と明言されている。さらに古今世界の紛争殺伐の歴史は、食を道に易〈か〉へ人を獣化したる悪解釈の反映であり、
「……今後の問題は、如何にして正しく生き安く住せん乎に存す、其の決は唯食を去て道に就くに在り、道下に食あり食下に道なし、道を離るゝ時、食は道と倶に亡し、食を舎〈す〉つるとき、道は食と倶に栄ゆ、物心内に融して争なく、秩序外に整ひて平和あり、斯の道久しく人を待つ」
と述べられ、ついで、日本国体の真理、君民道、物と心について解明。「日本には階級あれど闘争なし」と真の平和と正しき階級について明示され、最後に
「……想ふに是漸〈ようや〉く粉雑荒乱の夢より覚めんとする現代が学ぶべき、唯一の新課目なり、あゝ時は来れり!世界を挙げて日本国体を研究せよ」
と結ばれている。
里見岸雄先生は、御尊父田中智学先生の意を体して「科学をもって武装せよ」と国体科学を主張され、国内はじめ世界の思想界に向けて国体運動を展開された。先生の著書は次々とベストセラーになり国体宣揚の事業の成果は大なるものがあった。里見先生の歿後も運動は継続され機関誌が千号となった。「結前生後」新たな歴史を切り開いていくべき使命の重大性を深く自認して勇猛精進していかねばならない。
世界各地に争いが続き、地球温暖化をはじめ人類的課題が山積している。現在、一番必要なものは何か。日本国体の研究と明徴、実行である。まさに、時が到来している。世界にむかって日本国体の真理を発信していくべき決意を新たにしなければならない。
今後の鋭意継続に立ち向かう
国性文藝会拡張事務所理事長 駒井達生
合掌
この度創刊から数えて千号を発行されましたことを心からお祝い申上げます。
濁世末法に於いて日蓮聖人のお教えの国體を、明治天皇という大聖人のご出現を得た時代、さらに大正、昭和という激動の時代に田中智学先生が現代開顕されて、大正九年十一月三日「あゝ時は来たれり!、世界を挙げて日本国體を研究せよ」と宣言、日本国民の意識を改めるべく宣伝教化されました。
里見先生は恩師の教えの本にさらに宣伝を発展されてきました。時代は大東亜戦争の敗戦を機に一転します。たいがいの人はここで信念が、思想が、価値観がひっくり返ります。何の揺るぎもなくして続けて来られたことは(当たり前のことですが)何よりも何よりも大切なことであります。
さらに里見先生亡き後、平成のこの時代を、残されて、偉業を託されて、河本先生以下、よくぞ此処まで難難辛苦を乗り越えて続けてこられました。
まことに続けることは大事大事であり力力であります。今ここに、これがなければ、何の顔〈かんばせ〉あって本化の信徒と申せましょうや。
同志同行こぞってお祝い申上げますと共に、今後の鋭意継続になんとしても立ち向かわねばと心新たにする所存です。
千号記念は優曇華の花
本化妙宗聯盟理事長 高橋智經
月刊「国体文化」千号記念を心よりお慶び申し上げます。
合掌 「日本国体学会」機関誌・月刊「国体文化」が大正十五年二月に創刊号が発行されてより今月号で「千号」をむかえたことは実に驚くべき偉業であり法悦<よろこび>であります。
「日本国体学」の専門研究誌としては日本で唯一の月刊誌であります。私ども本化妙宗・純正日蓮主義の信仰者としてその千号目に遭うことが出来ましたことは優曇華の咲く機会に遭えたと同様の有難きこと感じております。
謹んで月刊「国体文化・第千号」の刊行を心よりお慶び申し上げます。
私ども日蓮聖人の信仰者は「一天四海皆帰妙法の祖猷を遂行するは、宗徒究境の願業」であります。法華経・本化妙宗をば世界に向かつて広宣流布するには先づ日本国をば知らねばなりません。
「日本国は一向に大乗の国なり、大乗の中にも法華経の国たるべし」(教機時国抄)
「日本国は殊に法華経の流布すべき処なり」(守護国家論)
と、日蓮聖人は日本国を観察されました。さらには文永十一年の十二月に図顕・顕発されました大曼茶羅本尊の中で
「南無天照八幡等諸佛」
と、日蓮聖人は日本国の天照大神、八幡大菩薩を本国土妙の霊的な代表者であるとして「諸佛」と断ぜられたのであります。「日向記」にさらに具体的に
「寿量品には、本有の霊山と説れたり。本有霊山とは、此の娑婆世界也。中にも日本国也。法華経の本国土妙は娑婆世界也。本門寿量品、未曾有の大曼荼羅建立の在所也。」
と、「生ぜんと欲すること自在」の日蓮聖人がわざわざ日本国を撰ばれて垂迹応生なされた、その理由を大恩師田中智学先生が明らかになされました。それを「日本国体学」として発表なされたのであります。智学先生の創建なされた日本国体学を、法学博士里見岸雄先生が科学的に体系的に研究発展なされたのであります。
日蓮聖人の信者であるならば本化教学を研鑽すると同時に「日本国体学」も平行して研鑚せねば なりません。
法華経・日蓮聖人の信者にとって日蓮教学と日本国体学は信行の両輪でなくてはならないものであります。
現在河本学嗣郎先生が「日本国体学」を継承なされ月刊「国体文化」誌の発行責任者であられます。私ども日蓮聖人の信者のためにも月刊「国体文化」が二・三千号と刊行され、信行の良き糧をあたえて下さいますようお願い申し上げます。
日本国体学会・月刊「国体文化」誌及び河本学嗣郎先生の充実をお祈り申し上げます。
楽〈ねが〉つて難に就いた星霜八十年
「新しい歴史教科書をつくる会」広島支部長 井上寶護
「日本国体学会」機関誌の千号達成、おめでたうございます。大正十五年二月、兵庫県西宮にあつた「里見日本文化研究所」が創刊した小冊子「日本文化」を手にとつて見た何人(なんぴと)が、このささやかな研究誌がやがて千号を数へることになると予想したでせうか。
里見岸雄博士は当時数への三十歳、偉大なる宗教家田中智学の三男と名乗らなければ、誰もその名を知らない一人の少壮学者に過ぎませんでした。
一世を風靡した智学居士の、自他ともに認める不滅の業績は、一に日蓮主義組織宗学の大成であり、二に日本国体学の創建です。前者はほぼ完成の域に達し、今日なほ『日蓮主義教学大観』(全五巻・真世界社)として日連学徒必修の書とされてゐます。
師父のやり残した第二の事業をわが使命として継続し、敗戦期をはさんで難難辛苦、つひにこれを発展・完成させたのが里見岸雄博士であります。
「…この書を公刊する所以のものは、日本再建に於ける自己原理としての国体を学的に明かにし、以て祖国無窮の将来の為に留め、且つ日本人が世界に与へた誤解をといて日本国体の真実を全人類の理性の前に公開してその批判と認識とを要請せんが為である。…将来いづれの日にか必ず日本が更めて世界の面前で、真の意味に於ける国体を明徴にすべき時あるべきを著者は確信して疑はぬ。若しこの確信が外れたら、後世予の墓をあばいて枯骨に鞭うたるるも敢て厭はない。…」(昭和二十三年完成の『日本国体学』全十三巻の「題辞」より)
吐露される確固不抜の信念もさることながら、その問題意識の、いま現在に通じる新しさに驚かざるを得ません。現下、わが国は世界の「誤解」のただ中にあり、あまつさへその誤解を増幅せんと企む内外勢力の跳梁は目に余ります。しかも戦ひの最強武器たる「自己原理としての国体」「真の意味に於ける国体」への国民の自覚は絶望的に薄い。しかし、にもかかはらず、祖国再建の道は里見博士の示した方向にしかありません。
「楽(ねが)つて難に就(つ)け」とは、田中智学居士の教へです。師父の示教のままに遭進した里見博士と「日本国体学会」八十有余年の足跡は、すべての日本人にとり、けつして他人事ではないはずです。
『国体文化』千号を迎えて
国柱会北海道地方連合局長 平野肇二
大正十三年十二月、開設された『里見日本文化学研究所』の機関誌として大正十五年二月に創刊された『日本文化』。その後昭和四年に『国体科学』と改題。昭和十一年二月『日本国体学会』創立、昭和二十六年『国体文化』と改題。昭和三十一年宗教法人『立正教団』設立に伴い、昭和三十二年に『立正文化』を創刊。それ以来『国体文化』、『立正文化』の二本立てで『日本国体』と『日蓮主義』の宣揚に励まれた。里見先生亡き後も十三回忌に当たる年までその形態を継続されたが、昭和六十年十月両者を合併『立正』と改題。以来二十年を経て、昨年『国体文化』と改められた。その意図するところは『国体』の正しい理解と宣布にあろうが、以前の、『国体文化』は敗戦という状態の中、日本人としての誇りを失い、魂を抜かれ、精神的には、放心状態の中で発行された。そんな中で『独立したよ』と言われても、独りで立ち、歩いていかれるはずがない。丁度睡眠薬を飲まされた人に眠らずにしっかり歩いていけと言っているようなものだ。そんな暗闇の中で一条の光を放ったのが最初の『国体文化』ではなかったか。
あれから半世紀が過ぎ、物の豊かさより、精神の大切さを再認識されている昨今、真の日本人を復活させるためにも『日本国体』を再認識しなければならない。我々の使命はいよいよ現実味を帯びてきた。そんな中で『国体文化』の再登板である。しかも『昭和の日』を現実化した実績をもつ田中智学先生門下の有志がこぞって編集、執筆に携わっている。何とも頼もしい限りです。今後の益々の発展を祈念するとともに、千号の達成をお祝いいたします。
至誠一貫の伝統持った機関誌
日本国体学会前理事長 溝口廣之輔
旧刊の国体文化を紐解いていた所、昭和四十九年一月号の巻頭言が目に止まりました。それは里見岸雄先生の「里見日本文化学研究所創立五十年迎春の辞」という一文でありました。その中で先生は、「一事をとってかわらざること十年なれば、その人真面目なり、と申します。その意味で私の里見日本文化学研究所は、大正十三年創立以来、昭和四十九年に至り、まさに、満五十年、この間、各種機関誌通刊六百余号、単行著作同人分も含め約二百冊、中央及び地方講演数千回、私としては文字通り不惜身命の全力投球を以て終始一貫して来ました。唯天性菲才、加うるに財力に恵まれず、もう一つ精彩を欠く憾みを残しはしたが、私としての全力を傾注し、まじめに五十年を過ごしたことだけは事実であります。来る十一月三日、旧明治節を憶念して、中野、日本閣に於て、ささやかな五十年記念の祝賀会を開きたい考えでいます。」と述べておられます。
その年の四月十八日、思いもかけず先生は溘焉として太寂に帰せられ、その念願が虚しくなるばかりでなく、実は、今後如何にして恩師先生畢生の学業を継承し護持して行くか、残された門下の等しく危惧し、苦悩するところでありました。
それから三十三年、非力菲才の門下ながら、ひたすら恩師先生の御加護を仰ぎ、ただ報恩の至念をもって、その畢生の大学業を護り、その一端を伝えるため、機関誌国体文化を継続発行して、ここに通巻千号を迎えることとなりました。これ偏に河本學嗣郎理事長はじめ、編集各位の至誠と奮闘努力の賜物と、誠に御同慶に堪えない次第であります。
世には、官民を問わず幾多の機関誌類が刊行されており、中には通巻千を超えるものもありましょうが、一民間の学者の主催する機関誌が発刊以来八十余年、有史以来の紊乱激動の時代を切り抜けて、終始一貫微動だもせず、その深遠なる学説を堅持、憂国の啓蒙覚醒に身命を賭して来られた、正に至誠一貫の伝統を持つ機関誌は稀有と言う外ないと思います。
どうか冒頭の恩師先生のお言葉通り、一事を執って十年、否五十年、否否八十余年、通巻千号の重みを決して忘れることなく、恩師先生生涯を通じて一貫唱導された「真の天皇」を上下挙って覚知せられるよう、世情に惑わず、怖れず、純一に、いよいよ顕揚せられんことを希って、通巻一千号の慶祝の辞といたします。