ハリーのタカの目ブログ

起業日記になりそうな予感

ウイルス生存戦争に加担するヒトたち

コメディアン・志村けんさんが亡くなられたことにより私たちの警戒段階がまたひとつ引き上げられた気がする。

特に、志村けんさんの前後の年代である、ご年配の方々の間で。

実際にご年配の方々に話を聴くと「若者撒き散らしている」ということを普通に口にされる。

僕が住んでいる所では、若者も年輩の方も出歩いているので正直どっちもどっちだとは思う。

 

ウイルスの車窓から

私たち人間はいつもヒトの観点から物事を見るし、それが当たり前だ。

主にほ乳類などの動物は感情を持つし、ヒトは高度な思考ができる。

ウイルスはどうだろうか?

感情や思考などあるはずもない。

しかし、生存本能と呼べるようなものはあるかもしれない。

コロナウイルスの世界的な拡大は、ウイルス生存戦争の様相を呈してきたのではないか、ふとそう思う。

試しに、彼(?)らの目線から物事を見てみたい。

 

インフルエンザの生涯

僕は、昨年2019年の10月末にインフルエンザにかかった。

当然40度近くまで熱が上がって苦しんだ。早期に妻と幼い娘を疎開させ、幸い二次感染は防げた。

僕に感染したひとつのインフルエンザは、1日で100万倍と超爆発的に増殖を続け、僕の中の細胞を死滅させ無秩序に生存欲求を満たしていった。

しかし、生きる場を移して増殖に成功したかに見えたインフルエンザウイルスは、その無計画さのツケを払うことになった。

身体の異常から自分の存在に気付かれ、次なる生存への道を断たれたのだ。さらに、特効薬によって無様にも無力化され、僕を戦場に選んだウイルスの生涯はあっけなく幕を閉じた。

 

一般のインフルエンザの生涯は大体がこのようなものだろう。春になる前に国境を超えて寒い地域への移住を成功させたインフルエンザウイルスは、勝ち組かもしれない。

ウイルスにとっての外敵=薬にやられずに、ヒトを死に至らしめる場合もある。これは、ウイルスにとって生きる場がなくなることを意味する。ヒトの死はウイルスにとってまったく得策ではない。

ならば、ウイルスにとっては自らが増殖するための場を適度なバランスで保つ方が良いことになる。

ウイルスから見た活動的なヒトの層は、次々に生存の場を提供してくれるありがたい存在だ。しかも、免疫力が高ければすぐには発症せず、次に移るための仮宿として利用できるのかもしれない(ここは科学の問題になるので細かくは僕にはわからない)。

 

ウイルスが好む戦場

ウイルスによっては生きやすさに好き嫌いはあるのかもしれない。インフルエンザであれば疲れたり弱ったりしているヒト。コロナの好みは持病のあるヒトなのだろうか。

遂に日本でも0歳児の感染も報告され、世界では10~20代の死亡者も出たため、一概にどうとは言えないのかもしれない。感染しても症状が出ていないヒトに共通の条件があるのか、研究が待たれる。

 

結局、老若の違いは恐らく無いのだろうが、ウイルスから見れば積極的に生きる場を提供してくれる活動的なヒトの層が好みであるのは間違いはなさそうだ。

宿主を死なせない程度でサーフィンのように移動できる環境は、ウイルスにとって最高なのだろう。

そんなパラダイスを、ご丁寧に、頼みもしないのに与えているヒトは、ウイルスの生存戦争に加担しているとしか言わざるをえない。

今の状況は、異なるウイルス間で、いかに自分たちの生きる場を獲得するか、壮絶な戦いを繰り広げているようにも見えるからだ。

 

コロナウイルス VS インフルエンザ

毎年定番のインフルエンザによる生存戦争は、昨年末から今までどのような状況だったのだろうか。

インフルエンザは、どうやら非常に苦しい戦いを強いられているようだ。

国立感染研究所のグラフからは、2019年(薄い青と四角)の年末(第50週~)にかなりの勢いで伸びつつあったのが、2020年(赤の太線と丸)の第5週(2月末)頃には猛烈な勢いで落ちている。2010年に次いで少ない(逆に2010年の少なさにも興味が引かれる)。


f:id:Harryike:20200402234408j:image

https://www.niid.go.jp/niid/ja/10/2096-weeklygraph/1644-01flu.html

 

前に書いた記事で2018年のインフルエンザによる国内死亡者数についても触れたが、統計では3,302人の方が亡くなられていた。

 https://alis.to/harry-ikd/articles/3qQdZ4boNGjM

 

厚労相は年間のインフルエンザ患者数は一千万人と推計しているので、2020年の1~3月だけを見るとかなり患者数は抑えられている勢いだ。


f:id:Harryike:20200402234621j:image


一方のコロナウイルスは拡大を続けつつあり、4月2日時点で報告数が2,306名。亡くなられた方は60名。


f:id:Harryike:20200402234843j:image


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https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

 

ここで、僕はふと不思議なことを感じる。

 

コロナウイルスの拡大によって私たちヒトの衛生観念が高まった。少なくともこの3ヵ月間だけを見ると、それでインフルエンザ感染が抑えられ、恐らくインフルエンザによる死亡者数も減ることにつながっている可能性が高い。

 

コロナウイルスは自らの生存と増加をかけて、他のウイルスに対して戦争を仕掛けていったと考えると、少なくとも報告上はインフルエンザほどの陣地を獲得できてはいないようだ。

しかし、思わぬ間接効果としてヒトの群れが例年より減っているため、それを好むインフルエンザも陣地拡大が困難になった。

なので、コロナウイルス VS インフルエンザの戦いは、今のところ日本では痛み分けの状態なのかもしれない。。

 

ウイルスにとってヒトは味方

ヒトはウイルスを憎き存在として敵視するし、大切な人の命を奪う意味では当然だと思う。

しかし、皮肉なことにウイルスからするとヒトは自分たちの生存を助けてくれる大の味方なのだと、私たちは自覚すべきだろう。

 

戦争継続か、終戦か、それが問題だ

これを書いているのが3月末なので、4月以降は国内におけるインフルエンザは終わりの時期を迎える。

コロナウイルスが仕掛けた生存戦争が、これから先どのように展開するかはもちろんわからないが、私たちヒトがその戦争にどのようなスタンスを取るかが大きなカギを握っている。

積極的に戦争継続の支援をするのか、戦争終結に向けてウイルスが好む環境をなくしていくのか。

あるいは、ウイルスにとって最大最強の敵となる特効薬やワクチンの開発まで重症者を抑えつつこのまま進むのか。

若者がどうとかそういう話ではなく、まさに今こそ、私たちヒトの態度が試されているときではないだろうか?

 

 

※ この記事はALISというブログサイトに3月31日に投稿した記事の内容を編集してはてなブログにアップしたものです。もし同じものを目にされた方がいらっしゃったらすみません。

はてなブログでソースコードの背景色変更&コードハイライトやってみた

こういうのやってみたかったんです。
<?php
$title = "「phpを学ぶ」";
echo "この文章のタイトルは".$title."<br>" ;
echo ("phpの勉強は").("楽しい(白目)");
?>

 
 

ところが最初うまく行かなくて

はてな記法」に編集方法を変えてこう(>|言語名|(内容)||<)書くといいよ…
とのことだったのですが、書いてみると白背景になんとなく、な感じで、あれ?と思いまして。

最終的に、色々調べた上で↑↑のようにできました。
 
 

お世話になったサイト

こちらの3つです。

kurokinomizuiwa.hatenablog.com

www.dreamark.tokyo

hakonebox.hatenablog.com


本当にありがとうございました。

やったこと

 
デザイン設定へ

f:id:Harryike:20200320234039p:plain
 
 
パナマーク>フッタに下記コードを追加

<script>
var codeBlocks = document.getElementsByClassName('code');
[].forEach.call(codeBlocks, function(e) {
if (!/lang/.test(e.className)) {
return;
}
var lines = e.innerHTML.split(/\n/);
var codeBlock = "";
lines.forEach(function(line){
if(line != ""){
codeBlock += '<div class="code-line">' + line + '</div>'
}
})
e.innerHTML = codeBlock;
});
</script>

 
 
デザインCSSに下記コードを追加

/*code-lineクラスの数でカウント*/
.code-line {
counter-increment: linenumber;
}
/*行番号を擬似要素として表示*/
.code-line::before {
content: counter(linenumber);
display:inline-block;
color: #ccc;
text-align: right;
width: 35px;
padding: 0 15px 0 0;
}
/*コードブロックに言語名を表示*/
pre.code:before {
content: attr(data-lang);
display: inline-block;
background: black;
color: #fff;
padding: 3px;
position: absolute;
margin-left: -10px;
margin-top: -30px;
}
pre.code {
padding-top: 30px !important;
}
.entry-content pre.code {
background-color: #2E2E2E;
color: #ffffff;
}
.synComment { color: #6272a4; }
.synConstant { color: #ffff14; }
.synIdentifier { color: #58ACFA; }
.synPreProc { color: #a199c8; }
.synSpecial { color: #c000c0; }
.synStatement { color: #50fa7b; }
.synType { color: #ff1493; }

 
 
ちなみに「言語名」は小文字で書かないと反映されません。

以上です。

福岡で起業、5年目に入りました

ご無沙汰してます、ハリーです。

インフルエンザのアーリアダプターになってしまい、最近39度超の熱でひとり苦しんでいました。


さて、今年もこの季節がやって参りまして、会社をつくってから4年が経ちましたので勝手に振り返ります。口調も変わります。

【過去記事】
harryike.hatenablog.com

harryike.hatenablog.com

harryike.hatenablog.com

あっという間だった

年齢を重ねると時が経つのが速くなるという。この一年を振り返るとがむしゃらに仕事をした気がするし、娘が産まれた現実に自分を追い付かせることが全てだったと思う。娘は日々進化しているので、自分をアップデートすることはしばらく現在進行形だろう。

昨年は三年間大口だった顧客の契約がなくなった状態からスタートし、先行きは不透明だったが、結果として前期でV字回復したままの業績が今期も横ばいで終わった。収益の構成が大きく変化しながらも数字を維持できたのは非常に大きかった。

それまでは不本意な仕事の割合が高かったが、自分と会社を繁栄させるための仕事や、取り組んでみたかった仕事が徐々に多くなっていった。

今、目の前に広がっている景色は昨年よりも前には当然見えていなかったもので、その調子で頑張ればここにたどり着けるのだと過去の自分に教えたいが、そんなことはかなわないし、同じようにこの先に何が待ち受けているかなんて、誰も教えてはくれない。自分の眼で確かめるしかないのだ。

「意志あるところに道あり」。

以前との違い

一昨年や昨年の同時期と決定的に異なることがひとつだけある。今期、つまり、この先の一年について一定程度の収益が見えていることだ。昨年までは大口だった顧客との契約がどうなるか毎年びくびくしていたし、自分の満たせるニーズなど何があるのか探り探りで進む以外なかった。

僕の人生では何度か「捨てる」ことが大きなテーマになってきたが、大口契約をある意味捨てる方向で動いていたことは正解だったのだ。周りからはおいしい話だったのにもったいなかったのでは、と言われたりもしたが、自分と会社の身を軽くする選択によって、その新たなスペースに入れられるものが現れるようになったのは偶然かもしれない。後になれば何とでも言えるものだし、都合の良いように解釈するように人間はできている。

いずれにしても、これまで勝ち得てきた実績の延長線上に自分と会社があるのは間違いないし、あの点がなければ、この線もなかったことに後で気付く。これからも謙虚と感謝を忘れずに生きていくだけだ。運は常に目の前にある。

誰と付き合うかは自分で選べる

社会に出るとそれまで自分が生きてきた世界がいかに狭かったかを思い知るが、サラリーマンを辞めるとさらに会社という世界の狭さを痛感する。

サラリーマンを辞めてから本当に色々な人と出会ってきたが、会社をやっていると自分がムカついた相手とは付き合わないという選択ができる。それが仮に顧客であっても、自分の好みにそぐわなければ関係をやめる権利がある。逆に、いくらこちらが関係を続けたいと思っていても、どうにもならないこともある。これは、将来一緒に仕事をする仲間が増えたときに大切にしないといけないことだと思う。本人が続けたくない関係と会社との関係を考量した際に、関係をやめるという選択肢も用意しておかなければならない。

仲間が増えるのはいつかな

ところで、サラリーマンをやっているときはあまり意識しなかったことだが、人を正規雇用するのに年間でいくら必要だろうか。

仮に年収額面が500万とする。
そこに、会社と個人が支払う社会保険料(健康保険と厚生年金、40歳以上は介護保険)を約30%見積もる必要がある。
つまり、500万×0.3=150万
これを個人と会社で折半するので75万ずつ

つまり、個人は500万-75万=425万がだいたいの手取りになる(所得税と市町村民税がさらにかかる)。これは給与明細にも書いてある。

ここで見落としがちなのは、会社が払う残りの75万。
さらに、交通費や活動諸経費を考えると年間で100万くらいは要る。
したがって、500万の年収で仲間に入ってもらうには少なくとも年間で
500万+175万=675万
ざっくり700万くらいは必要ってことだ。さらに会社を維持するための諸経費を考えるとあと数百万は要る。自分の給料を出そうとすればさらにさらに。

今、取り組みたいことはやれているものの、もちろん120%ではない。このまま自分の手掛ける仕事を拡充すれば、上↑↑で計算した金額も夢ではないのかもしれない(もちろんすぐには無理だが、そう思えるような所まで来れたのが奇跡みたいだ)。

要は自分の仕事の付加価値を高め、契約数を一定程度確保できれば良い。しかし、これはマンパワーに頼る労働集約型のビジネスモデルに過ぎない。

仲間が加わったときに相乗効果が現れるかもしれないし、あるいは、僕の仕事は属人的すぎるので再現性は低く、拡大再生産ができないのかもしれない。ほんと、他の色々な会社はよく人雇ってやってるなぁと感心する。

とにかく今のビジネスモデルにもやはり限界があり、何かしらの突破口を見つけなければ仲間を増やすだけの財政的基盤を構築するのは現状難しい。仮にたまたまその年にお金が確保できたとしても、その翌年はどうなのか? そんな不安定な状態で仲間を引き入れられるのか?

恐らく、ベンチャー企業やスタートアップの多くは初期の不安定な状態でも共に闘ってくれる仲間が複数いて、自分の将来や人生など顧みずに突き進めるだけの勢いとかエネルギーがあるのだろうと思う。それだけに、方向性がずれたときや対立が生じたときの不可逆性も大きいのかもしれない。

若さゆえを言い訳にするには少し年齢を重ねすぎたのだろうか。この辺の議論は数年前からぐだぐだと変わってないが、少しずつ進展しているような気もする。

同年代の経営者に刺激を受ける

共に闘ってくれる仲間はいなくても、一緒に考えてくれる仲間はいる。所詮、自分の頭だけで考えることなどたかが知れている。一緒に考えて、何の気なしの意見やアドバイスをもらえるだけで、それはとても有り難い。

今年の初め頃にひょんなことから高校時代の部活の後輩が起業して会社をやっていることを知り、コンタクトを取ったら全く雰囲気変わってないねということで懐かしくも、お互い独自の道を歩んでいることに驚きもした。

彼もほとんど同時期に起業していたが、一緒に闘う仲間がいて、紆余曲折ありながらも今は8名体制で頑張っている。彼と、彼のビジョンに共感して集まった人の出会いは僕にとっても大きく、心強い仲間を得た気持ちになった。

実際、この何をやっているか得体の知れない先輩のために何か色々と考えてくれていて、共働も生まれつつあるので今後の展開を楽しみにしたい。

副業万歳

フルタイムの仲間はまだ無理でも、部分的に共働してもらうことは可能だ。

優秀な能力を持ちながらもサラリーマンとして力を十二分に発揮できずくすぶっている人はいる。そのような方には会社という枠を超えてチャレンジしてもらうのが一番で、つい先日ようやく企画を実現までこじつけることができた。

お客さんに対して自分以外の人を前面に押し出すことが初めてだったので、僕にとってもチャレンジだった。

その方には会社に内緒で有休をわざわざ取って来てもらったので申し訳なかったが、これもまた何か歯車が動き出すきっかけのようなものになった気がする。

インターンのゆくえ

第一期生のゲイバー通いの女の子は卒業してある上場企業で働いているが、なんかチームがうまく行かないと相談してきてチームビルディングを学びたいと言ってて非常に頼もしい感じなので、色々アドバイスしといた。その後色々あってチームを引っ張る役目を与えられているらしい。たくましく成長してもらいたい。副業OKの会社なのでなんか巻き込むつもり。

第二期生5名は四年生になり、東京やら名古屋やら福岡やら、就職が決まっていて一人を除いていわゆるIT系。しかも二人は偶然同じ会社。

気付いたら最初の出会いからもう二年経過していて、最初は色々やらかして頼りなげなことも多々あったけど、いつの間にか普通に仕事がこなせるようになって、後輩も引っ張ってくれている。仕事は任せておいたら勝手に進めて忘れた頃に的確な報告が来るし、困ったらちゃんと相談してきて、そこそこのアドバイスを与えるとまた勝手に解決できる。5名ともそれぞれ個性の違いが顕れていて、もちろんまだまだこれからなんだろうけど強みを活かしてがんばってほしい。

昨年の11月に参加した第三期生は現在5名(2名が半年以内に離脱した)。一年次から参加している学生もいて、もしずっと続ければ都合3年半僕と付き合うことになるが、どうなるかとても楽しみだ。

三期生はこちらの事情で飲み会をするタイミングが遅くなったり、回数を設定できなかったりしていまいち距離感をつかめてない気がしていて、反省している。あと、先輩達が既に拓いた道を見ているのでインターンに臨む感覚もちょっと違うところもあるのかな、と思う節もある。

いずれにしても、与えられた仕事に一生懸命取り組んで、もちろん失敗はしながらもとにかく前に進もうとする姿勢には好感が持てる。どんどん失敗してほしいし、小さい成功体験を積み重ねながら彼・彼女たちがこの一年でさらにどう成長するのか見守りたい。

そしてもうすぐ第四期生の新加入時期。どんな出会いが待ってるんだろうか(というか、出会いがあるかもわからんけど)。

ちなみにこのインターンのウェブサイト制作実績は数えたら15件になっていた。今も増えつつあるが、大したもんだ。

国語力強化プログラム

ところでインターン生の一人がとある野望をもとに「小論文をまともに書けるようになりたい」と言ってきた。意志や希望を教えてもらうと何とかして応援しようというお節介の血が騒ぎ「毎週図書館に行って読んだ本の要約をブログに書け」という指令を出した。

良質なアウトプットをするには、まずはインプットの量を増やすしかない。量をこなす内に質は自ずとついてくる。多くの人がいきなり質を狙おうとするので途中でつまずくが、質を気にせずまずは量なら誰でも行ける。そして、継続することが何よりの力になる。

そんなインターン生が「早速行ってきました!」と連絡してきて、おお、と思って送られてきた写真がこちら。

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こ、こいつはヤバイ匂いがする…

詳細は割愛するが(するんかい)、その後も彼は読書をしばらく続けて数か月間ブログを書いていたが、後の方になるとかなり文章の内容に変化が現れてきて、やっぱりインプットとアウトプットの掛け合わせって大事だなと思った。

ちなみに、インターン生には「自分のために」日報代わりとしてブログを書きな、と何度も口を酸っぱくして言ってきたが、最近はあえて言ってない。先日も本当は書くべきタイミングがあったが、僕が何も言わなくても書いたのは10名中2名だった。その2名は既に反射的にか、意識的にかわからないけど手が動くが、8名は僕が言わないと動かない。それぐらい、自律的に継続するというのは難しいことなのだと思う。

よく経営者や上司をしている人から「(社員や部下が)やらないんですよねー」という愚痴を聞かされる。比較的時間のある大学生でさえ、自分のためでもやらない割合が8割。給料もらっている社会人でさえやるべきことをやらないとなると、それはもうそもそも人間ってそういうもんだと思わざるを得ない。だから、本当にやってほしかったら言い続けるしかない。言い続ける自分のことは段々嫌になるが、それでも必要だと思うならば言い続けなければならないのだ。そして、「あの人いっつも〇〇のこと言ってる」「〇〇のことしか言わない」と言われるくらいにならないと、徹底したマネジメントは難しいと思う。

僕の場合、インターン生がブログを書こうが書くまいが、はっきり言って僕には何の関係もない(もちろん、書いてくれたら楽しみに読む)。彼らのためを思って最初からしばらくは言うようにしているしルールとして課しているが、もう大人なんだし、自分でそういうことに気付ける人なのかどうか、冷静に判断している。だからいつまでも言いつづけることはしないし、自分にとって無意味だと本人が認識しているなら、強制して書かせても仕方ない。そんなところのマネジメントで消耗することこそ無意味だ。地味な蓄積ができないと長い目で見たときに厳しい部分も出て来ると思うが、それはそれ。気付いた時に修正できればいいと思う。

ただし、決められたルールをどうすれば自律的に守れるのか、そこはまだ研究の余地がある。また、パフォーマンスに影響する部分については今後も言い続ける。個人の課題と、会社の課題は別だ。

事前開示 > 事後指導

毎年インターンメンバーの育成やマネジメントについては、確たるものがあるわけではなく、試行錯誤を続けている。

「セルフマネジメントの原則」を追求しながらも、最近思っていることは仕事を進める上で自分が何を気にしているか、大枠の行動指針を先に示す方が良いだろうということだ。

僕が本業でやっている仕事は、その日その瞬間に来た案件に対応する短期的なものではなく、目標設定をし、納期を定め、プロセスを組み、創造性も働かせながらお客さんとの共働をしつつ、軌道修正も交えながらトライ&エラーで進む長期的なものだ。

これはとても当たり前だったが、よく考えてみると大学生がやっているアルバイトの仕事内容はほとんどがその場、その日に終わる超短期の仕事が多い。飲食や塾講師、小売の仕事など代表例を見て、はたと思い当たった。

そもそものスタンスの違いと仕事の性質の違いを踏まえた上で、長期的な仕事に取り組むための心構え(マインド)と仕事の進め方について、具体的なパターンを示しながら先に教えておくほうが良いと思い始めた。

前まではあえて落とし穴にはまったり、失敗することで学習も大きくなると考えていた節があったが、最近、自分の価値観や仕事の定石について明確にアウトプットできるようになってきたので、今度からは事前開示>事後指導で臨んでみようと思う。

インターングループが増えた

今年の5月に既存グループとは別の大学で、インターングループを新しく作ることになった。
こちらは仕事というよりは、大学(特定学科)の広報を真剣にやってみようということで、
ややサークルにも近い。サークルを仕事ライクに進めるとどうなるか、楽しんでやっている。

しかし、大学が異なるとやはり学生の雰囲気も異なるもので、面白いものだ。

組織のあり方について考えた

最近、会社の社名を変更した。実はそれまでの社名があんまりしっくり来てなくて、四年間ずっと悩んでいて、ようやく五年目の節目で変えるに至り、すっきりして気分も変わった。

それに先立ち、一体自分は組織としてのあり方について何を理想としているのか、明確にしてまとめることにした。お客さんに組織ビジョンと組織戦略策定を定めた方がいいですよとアドバイスして手伝う機会があり、ふと、あ、これって自分もやった方がいいなと思い、作ることにしたのだ。

それがまとまれば新しい社名も決まるかもしれないと思い、着手した。そしたら意外と面白くなって、今まで頭の中だけで考えてきたことを、望ましい組織形態や行動原則、目指すべきビジネスモデル、働き方などのカタチにして再構成しながら一気に書き出していった。

数ヵ月をかけて作成したが、ひとつの完成形として今後の展開を考える上で、考える軸になるし、原点回帰することで意思決定がブレにくくなった。思った以上の効果が得られたので、今後も洗練して周りの人に共有したいし、組織のあり方を明確にする支援を仕事にしていきたい。

この一年で変わったその他のこと

これ以上は長くなる(もう十分長い)ので、簡単に列記。

・子育てが始まった
・寝不足になった
・体調を崩しやすくなったのでこれからの一年は肉体改造に取り組む
・遂に酒量を減らすことにした
・美術館に月一で通うようになった
(VTSを知ったのでやってみようと思い、知人を誘って始めたらかなり面白かったので継続。博物館とかでもできる。思いもよらない他者の視点を学べるのは大きい)
・政治を理解し始めた(友人が選挙に出て議員になったのがきっかけ)
・キャッシュレスを始めた(インターンメンバーには交通費をLINEpayで払うとか)
・AIの勉強して資格を取った
・お世話になっている方が設立した法人の理事になった
・自分が作った社団法人は全く活動せず税金だけ払ったが、お世話になっている方に理事になってもらったのでこの一年で活動をしたい
・哲学を本格的に勉強し始めた(ソクラテスから)

変わらないこと

勉強する
人と会う

これは変わらず続ける。


以上、長々とお読みいただきありがとうございました。

インターン生が6名から13名に増えた話

ども。福岡でコンサル会社をやっているハリーでございます。

 

本業とは関係ない所で、2016年11月から始まった

「大学生をその辺のサラリーマンより仕事出来るようにするぜプロジェクト」

(あれ、そんな話だったっけ・・・)

 

スタートからいつの間にか2年が経過しました。

ゲイバー通いの2年生女子(ノンケ)がいつの間にか4年生になって立派に仕事をこなすようになり

1年前にひよこのように参加してきた7名は、驚くほど仕事ができるように成長し
(7名のうち1名は、自分の事業をやりたいからと離脱。これは当初からの予想通り)

それまでの途中経過は過去の記事をご覧いただければ… 

harryike.hatenablog.com

  

harryike.hatenablog.com

 

つらつらと現メンバーについて

昨年参加のメンバーについては、最初3か月ほどの初期教育を終えた時、何となく一区切り着いたところで話し合いの場を設けて「どうする? この先はマジな世界だけど、やる?」

みたいな感じでみんなの覚悟を聞いた。

そうすると、意外にも「やります」とみんなから答えが返ってきた。とてもいいことだと思った。

(くっくっくっ、これからがほんとうの地獄だとは知らずに・・・)

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実質6名のメンバーを、2チームに分けて仕事を持たせた。片方は地場の醤油醸造元の会社さん、もう片方は自分が所属しているサークルのウェブサイト制作を担当。

途中もブログに書いたけど、「セルフマネジメント」の原則に則って基本放置(と言いながら、もちろん手心は加えた)。

醤油チームは会社訪問したり、忙しい社長に電話かけたりメールしたり、返事なくて悶々としたり…

その間、デザイン面を強化するためにイラレとフォトショを学生が使用できるよう環境整備(金は僕が出す)。後、2回くらい飲み会したかな。月に1~2回集まって現状共有しながら、後はLINEで全てやり取り。チームと顧客とのやり取りには僕は一切入らない。後は野となれ山となれ。

確か今年の2月くらいからチームのやり取りが始まったけど、最初は何かを言わなくちゃとずっと思ってた気がする。うまく行ってないんじゃないかとか、報連相ちゃんと教えてないんじゃないか、とか。色々考えた。

でも、ぜんぶそれやめた。

セルフマネジメントを基本にしつつ、時折思い出したときに確認してみて、うまく行ってなかったら何か言う事にした。でも確か、時々かなり厳しいことを言ってたと思う。そりゃ、完全放置はダメですよ。

最近本人から聞いた話だけど、うまく案件が進まなくて僕から数回厳しく言われたことがイヤで、やめたかったそうな。でも、根性ある子だったし、やめなかった。えらいえらい。その経験、社会人で初めてだと、相当つらくなって辞める。

サークルのチームは、多少障害がありながらも何とか4月までに完成できた。醤油チームは、結局当初のスケジュールから大幅にずれて、最近ようやくほぼ完成して公開した。途中で仕様変更があった(通販機能を入れることが決まって、めちゃくちゃハードルが上がった)のと、社長が忙しかったのと、本人たちの進め方も一部原因。そのあたりはチームが一番よくわかっていると思う。

この間に、仕事がぽつぽつと増えて、メンバーの組み合わせを変えてチームで担当する。一つは埼玉県のカフェを開かれる方、一つはインターンメンバーの一人がやってる仕事を手伝うということでそのサイトづくり(結局、それはうまく行かなくてチームは解散した)、一つは飲食店、一つは政治家の卵…みたいな感じ。

途中から4年生にも加わってもらった。彼女はその間にも企業のサイトを一個任せてて立派に一人で仕事がこなせるのだけど、チームの良さも知ってほしいし、今後就職したときに協働の難しさと良さを知ってほしかったので、彼女にすべて任せた。僕は一切何も口出ししなかった。

そうしたら、カフェもかなり良い出来だと思ったけど、飲食店の出来はマジでビビるほどにいいものを作ってきた。しかも相当短期間でやったっぽい。僕がやるよりも、圧倒的に質が高いサイトが出来て、「こりゃ俺負けたわ」と思った。

後でチームがどんな動きをしていたか、具体的に聞いたけどなるほどなぁと感心させられた。こっちが何も言わなくても、チームビルディングとか温め合いとかを、勝手にやってる。大したもんだ。

(あれ、俺の専門って「組織づくり」だったよね・・・俺って要る…?)

どのチームも、時間がかかった醤油でも、他のカフェや飲食店でも、顧客からは非常に良い反応を得られていて、俺なんもやってないけどなんかいいことしたな、と思った。

 

インターン・プレゼン大会やるよ

そんなこんなで1年経ったので、2か月後にインターンの取り組みを振り返った成果発表プレゼン大会をやることにした。

デザインが得意な女子学生一人が予想通りの内容をブログに書いてくれてて草

インターン成果発表会について

一年間の活動についてアウトプットするらしい。つまりプレゼンwithパワポ…私、個人と醤油とカフェと飲食店でしょ…? 多い多い多い……めっちゃ嫌だ…どうせ頭真っ白になって失言オブ失言からの墓穴で死にたくなるんだ…めっっちゃ嫌だ…メモ先輩は心の支えにはなってくれない…未来予知じゃん………めっっっちゃ嫌だ…うっ……ほんとめっちゃいや…もう涙出そう…

他のメンバーもそれぞれ前向きな反応で(↑の子も彼女なりに前向きなのだと勝手に解釈)、就活も控えてるしちょうどいいかなと。

4年生の子は2年間の集大成ってこともあるし、楽しみですな。

ちなみに、発表会の話し合いの時にプレゼンやスライド作成の研修を簡単にして、スティーブ・ジョブズiPhone発表した時の動画を見せた。

www.youtube.com

 

新メンバーは7名

一つの節目を迎えつつあることもあるし、仕事の内容が単なる制作からその後の面倒を見るところまで仕事の幅が広がりつつあり、新メンバーを募ることにした。

お世話になっている大学の先生にご相談したところ、有難いことに快く応じてくださって、3~4名ですかね、という感じで集めていただいた。

そうしたらイキのいい1年生の男の子が前日の飲み会で誘い、こいつ誘ったらいいんじゃないかという子を誘い、なんだかんだで興味がある子がもう一人増え、ふたを開けたら結局7名になった(1年生男の子3名・2年生女の子4名)。

初回の面談を経て、みんな参加するのかなと思ったら2名から辞退の連絡があった。

ふむ。

なるほどね。

しかし、それで引き下がるほど僕は甘くない。

(地獄への片道を突っ込んだ以上、帰れないのだ…くっくっくっ)

 

辞退のメールをもらってから、あの手この手を使ってやり取りをして、2名の辞退の意思を覆し、7名全員の参加となった。どうなるんだろね。

で、先日第一回目の初期トレーニングが行われたけど、なんか新鮮だった。すごーくまじめに話を聞くし(今のメンバーも聞くけど)、熱心にメモも取るし、質問やコメントもちゃんとするし。やっぱ楽しいね。

で、4年生の子にも来てもらって、このインターンの意味とか僕との付き合い方とかをプレゼンしてもらった。

初っ端これ。

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これはもう伝説

 

新メンバーには内容もさることながら、「プレゼンのうまさ」や「スライドの洗練さ」などもかなり刺さったようだ。良い刺激になったようで何よりデスネ…

 

というわけで、僕もインターンも、現メンバーも、参加してくれた新メンバーも、それぞれ新しい局面を迎えつつあるので、今後が楽しみだなーっと。

 

福岡で起業、4年目に入りました

どうも。

ハリー@福岡の経営者です。

ウェザーニュースって会社がAI入れてわりと細かく天気予報できるようになった、というのをテレビで見ました。

今日、別の団体が作ったアプリが思いっきり予報を外しました。

なので、ウェザーニュースのアプリに入れ替えました。どうなるだろ。

 

さて、本日10月23日は、僕が作った会社の設立日です。世間では、「設立記念日」とか「会社創立記念日」とかで、お祝いとかしたりするらしいんですけど、今も一人でやっている僕にとっては日付を見た瞬間に、「あ、そうか」みたいな感じでした。今夜はビールでも飲もうと思います(いっつも飲んでるけど)。

 

それで、毎年この時期になると1年を振り返ってブログ記事を書いていて、去年、おととしと書いた記事を読んで懐かしい感じになったので、今回も書こうと思います。なぜか口調が変わりますがご愛敬。

ちなみに過去記事。

harryike.hatenablog.com

 

 

harryike.hatenablog.com

 

今年で「4年目」に入ったところ。サラリーマンを辞めたのは6年前。はぇーな。そりゃ年取るわけだ。

 

やっぱりね

今年の9月、設立のきっかけとなったクライアントから

「来年は契約更新しません」

と告げられた。

そりゃないよ。お宅が契約するなら会社作れって言っていうから作ったのに。当初の活動内容に見合った見積だしたらさんざん減らすに減らされて、担当の人と「バイト代みたいなもんですね」と笑い合ったあの日はなんだったのか。

途中で担当者が代わって、「契約ではこういう約束だったんですけど」と言ったら

「なかったものとして考えてください」

と言われたり。

それでも頑張って、身を削りながら貢献できたと思っていたけど

「やっぱりね」

という思いだった。

 

起業するならビジネスモデルが重要

やっぱりねって思ったということは、前々からそうなるだろうと思ってたということ。さすがに、永続的な関係は難しいというのはわかっていたし。

担当者が代わってから、何となく切りたそうな空気は出していたし、去年、3年目に更新できたのは正直、奇跡だったかも。

契約を切る話のときに担当者の課長の方が

「いやぁ、私はすごくよくやってくださっていると思うんですけど、会社の方針として人員配置等も含めて…」

と一生懸命弁明されていたのだが、まぁ、この人は内にも外にも自分をよく見せたがるし、周りに対する評価を落とす言動も過去にあったし、この人の器で行くとそんなもんだよな、と。担当者交代による事情変更は、「仕事あるある」のベスト3入りすると思う。担当者はガチャ。こっちが課金するわけじゃないけど。

実際、やがて来るとは分かってはいたものの、最後通牒を突き付けられるとショックはショックで、しばらくふてくされていたのは事実だ。

しかし、色々書いたけど正直なところ、別にクライアントにも担当者にも恨みも何もない。仕事のレベル感も内容も、対価も、やがては捨てないといけないものだったし、逆に、何の実績もない人間を信用してくれて3年間仕事と報酬をくださったこと、そして、会社を作るきっかけを与えてくださったことには、感謝しかない。

「足を向けて寝られない」レベルかというとそうでもないけど(笑)、何か悪感情が残っている感じでもないので、今後も当たり障りなくお付き合いできるんじゃないかと思う。

そもそも、僕が立てたビジネスモデルが甘かったのだ。それに尽きる。一人でやることの限界だろう。次に新しく事業を始めるなら、徹底的にビジネスモデルを突き詰めて考え、議論し、起こりうるリスクを踏まえた上で、事業計画を実のあるものにするしかない。経験して、その重要性が真にわかったことは、今後の僕にとっても非常に重要な意味を持ったと思う。なんてったって、やってみないとわからないことだってあるからだ。

もっと言うと、薄々僕はそれに気づいていて、会社の名前や事業内容を広く設定していたのも事実だ。この3年間の経験を踏み台にして、ようやく会社を次のステージに成長させるところに来たのだ。3年、長いようで短かった。

 

事業計画っておいしいの?

僕は去年の10月末に、事業の現況を整理し、今後の見通しをつけるために事業計画を作った。多くの場合、事業計画は起業する前に作成する。なぜなら、融資を受けたり資金調達につなげたりするためだ。

僕の場合、裸一貫、何の後ろ盾もなく、多額の設備投資もなく、人を雇うわけでもなく、見栄を張るわけでもなく、雑草が芽を出すように誰に気付かれることもなくひっそりと起業した。

だから、事業計画なんてものもなかった。でも、さすがに2年くらい経過すると色々な経験や知見が溜まり、自分でもリソースや今後の展開がわからない複雑な状況になってきたので、いったん状況を整理しようと思って作成した。

いっちょまえに業績推移と今後の計画なんてものも作ってみた。おー、これが「絵に描いた餅」ってよく経営者の人たちが言うやつか、と思った。もちろん、現実離れした数字ではなくて「こうなるといいな」みたいな。

そして、今後の展開として、可能性のある事業について詳細に記述した。今後、こうなりそう、いや、なるといいな、みたいな。

つまり、過去と現状を踏まえた内容半分、夢と希望と思いが詰まったものが半分、「おいしいほかほかの事業計画書」の出来上がり。

 

え、まじで…?

事業計画書を作って、僕は何人かの懇意にしている人に書類を渡して、僕がどうなってるのか理解してもらうことにした。

その中には僕の親友も含まれていて

「これ、そのまま銀行持っていったら融資受けられるんじゃない?」と実際に経験のあるやつからもコメントをもらった。

もう一人は、一緒に色々と考えてくれて、その後の展開について逐一状況を確認しあえるようになった。仲間は大切だなとしみじみと思った。

他の方からは「こんな大事な内容を共有してくださってありがとうございます」とお礼を言われた。

なんかすごくいいことをした気分。

そして、事業計画書を作った直後の昨年の11月から、事態は急展開する。決して、狙っていたわけではなかったが、可能性のある事業が花開いただけだ。でも、そんなに速く実現するとは思ってなかった。これも、運だね。運。実力じゃない。

また、昨年10月ごろから温めていた新クライアントとの契約も今年の4月から実現し、半年間わりと大きくて重要な仕事をいただけた。僕がやろうと思っていたことだったので、とてもありがたかった。

その仕事が9月でいったん終わったのだけど、追加提案をしていて、受け入れられればまた仕事はできそうだ。

最後に、これも4年前からお付き合いのあった方が仕事をくださって、まとまった売上が4月に立った。これもでかかった。感謝感謝。

 

V字回復

そんなわけで、会社の2期目は赤字にしてしまったのだけど、色々な方とのご縁や運のおかげで会社3期目の業績はV字回復を実現し、事業計画書の業績見込みを1期早く前倒しで実現できる結果となった。

この展開には僕も親友も驚いたし、いやー、世の中何があるかわからないもんだなと思った。

まさしく、勝ちは勝ちの不思議あり、負け負けの不思議なし。

 

安定などない

とはいえ、別に今の仕事が永遠にあるわけではないので、会社が永続的に安定するような基盤を築けているわけではない。そんなもの、あるんだろうか。

それに、やはり年間契約がなくなることは、財務的には痛い。もちろん、トレードオフとして時間と色々な厄介ごとは無くなるのは良いことだ。

なくなる契約ほどのものではないが、ご縁がご縁でつながり、この10月からは新しい仕事もできた。これもまったく偶然の出来事から生じた種なので、狙ってない。ほんと運しかない。

 

社運をかけた一大事業

ところで、僕は2018年が始まる前に、「来年は勝負の一年」にすると決めていた。いや、そうなるだろうと、何か予感していた。

そして実際、仕事をめぐって色々な展開があり、一喜一憂し、紆余曲折が今も生じているさなかだ。それだけでも、僕は十分に勝負があったなと思っていたのだけれども、年間契約が切られる話があった今年の9月以降、事態はさらに急展開を見せた。

僕は今年の春くらいから、あるテーマについてとことん深掘りしていた。そのテーマは、もちろん僕の仕事が関係することだし、僕がこれまでずっと悩んできた問題に対する一つの解決策、つまり、一筋の光明に見えた。

最初は、何気なく見つけた言葉だった。ふーん、くらいの感じで検索したら、日本ではまったくといってよいほど説明がされていなかったし、その枠組みをもとに取り組まれてもいなかった。

元々は海外の文献で見つけた言葉だったので、試しに海外の記事を調べていくと、およよ?と思った。その文献に触れられていた説明とは異なるレベルのことが書かれていて、アカデミックな研究も海外ではかなりされていることがわかった。日本での研究例は、ゼロ。

その瞬間、僕の中で何かがピンときた。

これは、僕がやるしかないんじゃないか。いや、この問題について悩んできた僕こそがやるべきだ、と。

それから、海外の第一線の人が書いた記事を読みあさり、色々な取り組みを知り、研究論文も読み、日本で水面下で展開されている事例も踏まえた上で、僕の会社のサイトに記事をアップした。とある人の集まりの場で、発表したりもした。

日本では体系的に詳しく説明されている記事が皆無なので、そのキーワードで検索すると、今のところ会社のサイトが上位にヒットする。実は、この手法は過去にこのブログで学んだことだ。誰も調べていないこと、書いていないことを、素早く日本語でまとめて公開する。そうなると波が来た時に最初に乗れる。当たり前のことだが、先読みができないと難しい。

僕はそのテーマを日本で共有していくことを考えた。色々な場で紹介していくと、時代の流れもあってか、多くの人が関心を寄せてくれることがわかった。何せ、誰も否定できない考え方だからだ。かといって、当たり障りのない、口当たりの良いだけの話でもない。きわめて実務的で、組織を革新・改善するための枠組みだ。

それに、今まで僕のやっていることをみんな理解しにくかったようだが、この枠組みを通すと、あら不思議、みんなよく理解してくれるようになった。これはつまり、経営者レベルの人にわかりやすく伝えられるということだ。

そして、記事を公開してしばらく後、色々な経緯を経てある会社のキーパーソンの目に僕の書いた記事が留まった。そこからの展開が恐ろしく早く、協働研究・開発のために勉強会が開かれ、参加者の方がクライアントに提案し、採用されるにまで至っている。

もちろん、まだなじみがない言葉ではあるし、経営者の中には理解が及ばない人もいるかもしれないし、実務的なプロセスとして確固たるものがあるわけではないから、色々な難しさはあるが、これからは時代の流れも後押しして、日本では主流になると思っている。というか、そうする。これは、僕の会社の社運をかけた取り組みなのだ。

 

展開構想

心理学者のアドラーは「人の悩みはつきつめると人間関係の悩みに行き当たる」と言った。

僕は「働く人の悩みは、組織の悩みに行き当たる」と思っている。

そこで僕は、見つけたテーマについて取り組み、紹介した人の反応を見て、考える中で、「このテーマは僕だけのものにしてはいけない」と思うようになった。

人の役に立つ良い考えであれば、それは、もっと世のため人のために共有される方がいい。それが組織をもっとより良くして、日本社会が、そして、そこで働く人たちが幸せになるのなら、そうあるべきなのだ。

そう考えた結果、僕はこのテーマを会社の手から離すべく、より公益的な社団法人を設立してそこにテーマを預けることにした。一般社団法人は、自社ビジネスにつなげるために作る我田引水型のパターンが多い。しかし、このテーマを一人では実現できないことがわかりきっているので、僕はより多くの協力者が必要だと思っているし、主旨に賛同してくれる方たちとメリットが分け合えるのならば、本望だ。

懇意にしている司法書士の方に主旨を説明して、設立の手続きをお願いしたところ

「私が手がけた中で、公益性の高い一般社団法人の例を初めて見ました。ぜひ私も応援させてください」

とありがたい言葉をいただいた。

ゆくゆくは、研究所を設立し、日本におけるアカデミックな研究を支援して、より実効性と根拠のある取り組みを公開できるようにしたいと思っている。そして、そのための布石はすでに打ってある。

 

仲間が欲しい

こうなってくると、一緒に働いてくれる仲間がいよいよ必要になってきていて、会社の取り組みと、社団法人の取り組みと、とやっていると段々と手が回らなくなってきている。それに、時間と手間をかけてやるべきことも多い。

僕の会社のインターン生や大学時代の友人に一部仕事を頼んだりしている。まじで助かっていて、ほんとに仲間って大事だなと痛感。仕事量としては、本格的になってきたらこりゃまずいな、という段階に来ているように思う。僕一人では何もできない。が、僕はとにかく一歩を踏み出す。

しかし、先立つものはやはり「お金」。

どうすっかなー、どうなるんだろうなー、というのが現状。

 

インターン生について

 現在、7名の大学生が僕の所でインターンをやっています。

harryike.hatenablog.com

 

最初に来たゲイバー通いの子は、ついに2年になりました。よくこんなおっさんに付き合ってられるわな(笑)そんな彼女もあと半年で卒業なので、今からどうやって送り出そうか、僕に染まりすぎてすぐに会社辞めたいとか言い出すんじゃないかとか、色々心配している(それはないと思うが)。正直、もうこの子はいっぱしに仕事ができる。ほっといても勝手に進められるし、進まないときは僕にちゃんと相談する。大学生でこのレベルってすごいと思う。この子を採用する会社はまじで僕に感謝してほしい(何なら教育代も受け取りたい)。

そして、去年受け入れた6名は1年が経過。振り返ると、みんなかなり仕事出来るようになったな、と思う。実際に社会の人に対して成果を出すということに責任もって取り組み、実際に評価も報酬もいただくなかで、かなり成長したと思う。やり取りをしていても、その辺のサラリーマンよりもよほどしっかりしてる。たぶん、入社したら同期からは頭一つ抜け出ると思う。もちろん、その後は本人の努力次第なんだけども。ほんと、この子たち採用する会社、僕に感謝しろ(教育代!)。僕は喉から手が出るほど彼・彼女たちが欲しいが、今はその余裕がない。

いずれにしても、彼らから得られるものは多く、彼らが望む限り続けようと思う。新しい学生の加入もありかな。タテの流れが続くと良いんだけど。

 

変わるもの、変わらないもの

さて、来年の今ごろは果たしてどうなってるんだろうか。

何にしても考えてばかりでも仕方ないので、

勉強する

人と会う

これを継続してがんばっていこう。

また来年、楽しみに。

4年間ニートだった幼なじみ@30歳が社会復帰した話-その⑥「何もかも失った僕」

こんにちは。福岡の経営者ハリーです。

まず、大阪の地震で被害に遭われ、今も不安の中過ごされている皆様に心からお見舞い申し上げます。

2005年に起きた福岡西方沖地震。たまたま東京から福岡に帰省していた僕は、見事に地震にぶち当たりました。たまたまその時間、その時に、そこにいた。もしかしたら側にあった壁が崩れていたかもしれない。その後の東日本大震災熊本地震、今回の大阪の地震。偶然が織りなす人生の無常さを思うと、胸が締め付けられる思いがします。

人生には自らが創る部分と、人知を超えた領域による影響があり、その2つに翻弄されながら生きていくことを、私たちは素直に受け入れるだけなのでしょうか。

今回、ジミーの物語を再開させるにあたり、僕たちの人生をめぐって渦巻いてきた色々な思いや感情をかみしめていました。そのような折の地震に、自分が今生きていることについて、思いを馳せざるを得ません。

 

 本題に入り、1年前にスタートさせたこの話の続きです。

harryike.hatenablog.com

 

お山から転げ落ちた僕

僕が社長になってから、何か生活が一変したかというと、特に大きな変化はなかったと思う。寝るときに枕元に置く会社携帯がいつ鳴り出すかもしれないとか、社長として周囲にどう接するか気を遣っていたとか、社外からは色々なお祝いをもらったり、業界内で注目されたり。

人を大きく変える可能性があるのは、金と権力と地位だと思う。そのことを常々見てきた僕は、自分がそうならないようにとにかく注意した。

だけど、僕の中で、やはり何かがおかしくなっていたのだと思う。そのうち、自分が自分でないように感じ始めた。

もちろん、何も無いのにそんなおかしなことにはならない。会社のトップに立つと色々な事が「見えすぎる」。会社の正体を知った思いにもなったし、オーナーがいることの意味も頭ではなく体で理解した。

僕はなぜたった4年で社長になれたのか?

簡単な話だ。僕はことごとく上司を押しのけてきたからだ。それくらい、様々な事にチャレンジして、会社経営に影響を与えた。自慢じゃないが、僕は人一倍会社経営のことを勉強したし、社内の人間関係構築に努めた。他にもいろいろな理由があるだろうが、後は「口が堅い」ことも良かったと思う。僕は社内の事を見聞きしても、余計なことは言わなかった。口が軽い人は、信頼されない。

僕は常々問題意識や目的意識を大切にして仕事に臨んできたので、それも良かったのかもしれない。後は、仕事の成果の質を上げるだけだ。

そんなこんなで、社長になると僕の上にいるのはオーナーだけになった。今まで上司とケンカしてきた僕は、遂にオーナーとケンカする羽目になったのだ。決して、勝てないケンカだったが。

「ちょっと待って、ケンカせんで良くない?」

そりゃごもっともだ。

だが僕は、若かった。その一言で済まされるかわからないが、僕とはほとんど無関係のところで起きた出来事により、「そうせざるを得ない」状況に僕は陥った。

その出来事は、会社を揺るがすような大事件だったが、それは僕が社長になる以前から進行していた話で、僕は領域外のこととして関われなかった。あのまま普通にサラリーマンをやっていたら、僕はそのまま今もあの会社にいたかもしれない。

しかし、人生そんなに甘くなかった。僕は大きな渦に、巻きこまれてしまった。そして、そこでの身の処し方を間違ったのは、僕の若さだと思う。

最終的に、ある問題をめぐってオーナーと対立してケンカを始めた僕は、やがて体を壊した。心も壊れていたと思う。これは自分じゃないなと変に冷静に思ったし。だんだん食事もできなくなり、車の運転もしない方がいいなと。食べて飲んでは戻すし、胃腸がやられてんなぁ、みたいな。

もう無理だな、社内外の人たちにはこれ以上迷惑はかけられない、早い方がいい、と思った僕は辞表を用意して経営会議に臨んだ。もう出来てしまった溝は埋まらない。オーナーからは言われもないことを散々言われ、暴言や嫌味を吐かれ、もう傷つく心もどこかへ行ってしまって冷静になっていた僕は、翌朝から会社に行くのを辞めて、人づてに辞表を出した。それで僕の会社人生は、終わった。

お山に登っていた僕は、文字通り砂上の楼閣であることに気づかず、あれよあれよという間に転げ落ちた。

他人に人生を預けると、こうなってしまう。

もう、サラリーマンなんてやりたくないな。

僕は、ろくにものも考えられない頭で、ふと思った。

 

辞めた後の話

会社に行かなくなるとどうなるだろうか?

かりにも社長が辞めるとなると、問題のレベルが半端ない。色々な人から電話もメールもあったが、僕は全て無視した。下手にかかわれば、その人にまた迷惑をかける。

会社と完全に縁を切るために所有していた株を売り、そのお金で残っていた数千万円の借金を返し、僕に関連する物を引きあげ、それで終わった。

未練は特になかった。

ただし、そこから約5年間、僕の人生における闇が始まった。思えば、長かった。

 

ジミーとの再会

会社を辞めた僕は、家に引きこもった。

何の身分も、地位も、会社の看板や名刺も、固定的な給料も無い、正真正銘ニートになった。

親を心配させたが、それもやむを得ない。僕は独身だったので、特に困ることもない。しばらく、拾ってきた猫と戯れて遊んだり、ネットサーフィンして過ごした。

そして3日が過ぎて、僕は少しずつ思考力を回復させてきた。

「これから、どうしよう」

先を決めずに会社を辞めて何もなくなった人が、誰もが思うことだろう。

最初に思ったことは、僕は「自分にはニートは向かない」だった(笑)

ニート生活に3日で飽きた僕は、近所の図書館に勉強と読書に出かけた。とりあえず体調を整えることが優先で、その間に資格勉強でもしよう、と。

そのうち、僕は浪人時代にジミーや友達と一緒に図書館で勉強したことを思い出し、ジミーに連絡を取ることにした。

近くのラーメン屋で久しぶりに再会して、僕は会社を辞めたことをジミーに伝えた。

ジミーと話をしているうちに、僕は、自分がジミーと何も変わらないな、と思った。

僕は何を偉そうにしてたんだろう、と。色々なことを申し訳なく思った。口を出すなら、自分が何かしろよ、と。

結局、何もしていなかった自分をあざ笑った。

僕はなんだか気持ちが楽になり、ジミーともまた前のような関係を続けるようになった。

 

どん底の中で、つかんだ光

僕はその後、しばらく勉強を続けて、一段落ついた時点で、以前会社の関係で仲良くなった人に連絡を取ることにした。

その人はたまたま同い年で、仕事の話をするために時々飲みに行ったり、プライベートの付き合いもあった。

僕は、会社を辞めてから思い知ったことがある。

それは、サラリーマンやサラリーマン社長をしていたときに、いかに会社の看板や名刺がモノを言っていたか、ということだった。

それでも個人的に僕の事を気にかけてくださる人がいて、それが何よりの救いだったし、今も感謝している。

久しぶりに会った彼に、僕は現状を打ち明けて、何とかしたいと伝えた。

彼は、快く応じてくれて

「ハリーさんに紹介するならこの人しかいない」

と、ある方の携帯番号を教えてくれた。

その紹介された方との出会いから、僕のこれまでの光と闇の5年間がスタートする。

そして、その間にジミーにも大きな転機が何度も訪れる。

 

次回、この物語はクライマックスに入る。