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【失われた20年の原因④ 世界統一政府樹立を目指す日本の南朝・北朝の存在・大解説】

こんにちは、このシリーズは前回の③で終わらせようと思いましたが、勘違いしている読者がいましたので、大解説を書きます。

疲れるからあまり失礼な質問とか、否定の仕方はしないでください。私は短気なので。今度はブロックしますよ。

コメントするときは挨拶の一つぐらいしましょうよ、日本人なんですから。

さて、結論は日本というか、天皇家は大化の改新で藤原家に乗っ取られたということ。

私はこの目で見た訳ではないですけどね、それは皆同じですよね?

以前の記事で、元々、古い渡来人(縄文人)が住んでいた日本に、新しい渡来人(弥生人)が来て、縄文人を追いやり、古事記、日本書紀を作って、歴史を捏造したということを、一つの記事ではなく、複数の記事に渡って書いてきました。

それまでの天皇家の歴史は単なる神話(架空化)にされてしまいました。

大化の改新で有名なテロリスト、藤原鎌足(中臣鎌足)。

その息子である藤原不比等

藤原不比等の4人の息子は藤原南家・藤原北家・藤原式家・藤原京家を興しました。

長男:藤原武智麻呂(680-737) - 南家祖
次男:藤原房前(681-737) - 北家祖
三男:藤原宇合(694-737) - 式家祖
四男:藤原麻呂(695-737) - 京家祖

■藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ、天武天皇9年(680年) - 天平9年7月25日(737年8月29日))は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族・政治家。藤原不比等の長男で、藤原四兄弟の一人。藤原南家の祖。

■藤原 房前(ふじわら の ふささき、天武天皇10年(681年) - 天平9年4月17日(737年5月21日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての貴族。藤原不比等の次男。官位は正三位行参議。贈正一位、太政大臣。

■藤原 宇合(ふじわら の うまかい、持統天皇8年(694年) - 天平9年8月5日(737年9月3日))は、奈良時代の公卿。初名は馬養。右大臣・藤原不比等の三男。藤原式家の祖。官位は正三位・参議。勲二等。

■藤原 麻呂(ふじわらのまろ、持統天皇9年(695年) - 天平9年7月13日(737年8月17日))は、奈良時代の貴族。右大臣・藤原不比等の四男で、藤原四兄弟の末弟。官位は従三位・参議。藤原京家の祖。
(以上Wikipediaより)

4つに分かれた藤原家はどのような展開を見せたのか?

Wikipediaに書かれている文章の長さだけでも活躍した家とそうでなかった家がわかります。

そして、どの家が南朝になり、どの家が北朝になったのか?についてのヒント満載です。

■藤原南家(ふじわら なんけ)祖の武智麻呂は北家の房前とともに、元正朝から聖武朝にかけて長屋王と政権を争ったが、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導した(藤原四子政権)が、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

武智麻呂には4人の息子があり、孝謙朝~称徳朝にかけて、長男豊成(右大臣)・次男仲麻呂(大師)が続いて大臣となった。特に仲麻呂は淳仁天皇を擁立すると、息子3人(真先・訓儒麻呂・朝狩)を参議とし前代未聞の親子4人を公卿とするなど権力を独占したが、天平宝字8年(764年)恵美押勝の乱により失脚した。

その後も桓武朝において、武智麻呂の長男豊成の子継縄と、三男乙麻呂の子是公が続いて右大臣となり、南家は勢力を維持した。しかしながら、続く平城朝の大同2年(807年)に当時政権№2,3の座にあった、雄友(是公の子:大納言)・乙叡(継縄の子:中納言)が伊予親王の変により失脚し、仲麻呂に続き、豊成・乙麻呂の系統も中央貴族としては衰退した。なお、乙麻呂の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲の子孫は各地に広がり、工藤氏、伊東氏、伊藤氏、二階堂氏、相良氏、吉川氏、天野氏といった各氏の祖となった。

平安中期以後は、北家に押され政治的に衰退する中、武智麻呂の四男巨勢麻呂の子孫が中央貴族として続き、多くの学者を輩出した。院政期に院近臣として勢威を得た藤原通憲(信西)はその代表である。また、後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった範季の子孫からは堂上家である高倉家(室町時代末に絶家後、江戸時代に再興し藪家に改号)を出した。

■藤原北家(ふじわらほっけ)は、藤原四家の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として、藤原四家の中では最も栄えることになった。

祖の房前は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争った。聖武朝になると、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

その後奈良時代後期~平安時代初期にかけては、光仁朝で房前の子である永手・魚名が左大臣に昇るが、桓武朝では永手の嫡男・家依は早逝し、魚名は氷上川継の乱に連座して失脚したこともあり、南家・式家に押されがちの状態にあった。

しかし平城朝以後、大同2年(807年)の伊予親王の変で南家の、弘仁元年(810年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。さらに、冬嗣が文徳天皇の、その子良房が清和天皇の、そしてその養子(甥)基経が朱雀天皇と村上天皇の、それぞれの外祖父となり、北家嫡流が三代にわたって外戚の地位を保ち続けたことが、同家の優位を確固たるものにした。これが以後の、北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白、という図式を決定づけることになり、この系統による「摂関政治」が後の道長・頼通父子の時代に全盛を極める。その子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。

他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。明治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は源氏18家、菅原氏6家、平氏5家、卜部氏4家、藤原南家3家、清原氏3家、安倍氏2家、大江氏1家、丹波氏1家、大中臣氏1家)。

派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤をもった多くの氏族が武家が藤原北家の末裔と称した。

■藤原式家(ふじわらしきけ)とは、右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を兼ねたことから式家と称した。

祖の宇合は長屋王の変の後参議に昇進し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により病没してしまう。さらに直後に大宰少弐に左遷された宇合の長男広嗣は天平12年(740年)九州にて反乱を起こしたが、敗死してしまった(藤原広嗣の乱)。この為孝謙 ~ 称徳朝にかけて、南家(豊成・仲麻呂)や北家(永手)の後塵を許す時期がしばらく続いた。

広嗣の弟である良継や百川は称徳天皇の後継に光仁天皇を擁立することに成功し、道鏡・吉備真備に代わって政権の中枢に躍り出た。また、彼らはそれぞれ自分の娘(乙牟漏・旅子)を皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の妃とし後宮政策も行った。彼ら兄弟はいずれも桓武天皇の即位を見ないまま亡くなったが、乙牟漏は皇后となり平城・嵯峨の両天皇を、旅子は淳和天皇を産み、平安初期の式家繁栄の礎を築いた。桓武朝では式家一族は重用され、宇合四男の田麻呂は事実上の臣下最高位であった左大臣にまで昇進し、三男清成の子である種継は長岡京造営の事業を一任されるなどした。

百川の子で桓武天皇の義弟(姉の旅子は天皇の女御)でもあった緒嗣もわずか29歳で参議に昇進すると、長岡京の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を進言し、平城朝においては観察使制度の設置等政治改革に積極的に取り組み、嵯峨朝を経て旅子を母とする淳和天皇が即位するとその外伯父として累進し、右大臣ついで左大臣に至った。

しかし、一方で良継の一人息子である託美の事故死による、平城・嵯峨両天皇の外戚である良継系の断絶があったことや、嵯峨朝になると、種継の子で平城天皇の尚侍として権勢を握った薬子とその兄仲成が反乱を企てて断罪された薬子の変の発生に加え、嵯峨天皇・檀林皇后の信頼を受けた北家の冬嗣の台頭により、嵯峨朝以降式家は徐々に北家に圧倒されていく。

さらに、冬嗣の息子である良房が嵯峨上皇の皇女源潔姫を降嫁されるなど、父同様上皇と皇太后に深く信任されたのに対し、緒嗣は長男の家緒に先立たれる等、式家はその後有力な人材を出すことができなかった。

それでも、緒嗣は冬嗣の死後、淳和・仁明朝において15年以上も台閣の首班の座を維持し、従兄弟甥にあたる吉野も地方官として治績を挙げ、中納言に昇進した。しかしながら、吉野は承和の変で失脚し、その直後には緒嗣が亡くなる等の条件も重なり、以後は式家が再び政治の中枢に立つ事は無くなった。

その後は、藤原純友の乱を平定した忠文や、阿衡事件に関与した佐世等を輩出したものの、平安時代中期以降は儒学によって立身する家系として数家がしばらく血統を保つのみとなり、鎌倉時代まで続いた家はほとんどなかった。但し、摂津渡辺党の一つである遠藤氏は式家の後裔を称した。

■藤原京家(ふじわらきょうけ)藤原麻呂が左京大夫を兼ねたことがこの家名の由来。藤原四家の中では最もふるわなかった。麻呂が藤原四兄弟で一番年下だったこと、兄たちよりも子女の数が少なく早世者も多かったことに加え、唯一参議に昇った浜成が氷上川継の乱に連座して流罪になったことで、一族全体の政治生命が絶たれてしまったためである。

平安時代前半には、藤原貞敏(琵琶)・藤原冬緒(儒学)・藤原興風(和歌)・藤原忠房(和歌、舞楽)など、文化・芸術面で多くの人材を輩出した。その中でも特に冬緒は長命だったこともあり累進して大納言に至った。また、桓武天皇の後宮に仕えた藤原河子が天皇との間に儲けた仲野親王は宇多天皇の外祖父となったことから、京家の血脈は女系で皇室につながり、現在まで続いている。後世においては越後国の直江氏が京家の末裔を称している。

(Wikipediaより)

これで藤原京家が消えた事は確定。

平城・嵯峨天皇の確執も読み取れます。

藤原式家は平城天皇側に付いて長岡京(平城京)の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を求めた。

藤原北家は嵯峨天皇側について(文中には記載がありませんが)平安京派だった。

藤原南家に関しては平安京に関する既述が有りませんね?

つまり、藤原式家と藤原北家が仲間割れを起こしたと書いてあるのです。

藤原式家は平城京派、藤原北家は平安京派ということ。

それで結局は藤原北家が押し切って、平安京派が勝った。

この仲間割れが、最終的に源平合戦に繋がってゆき、源氏、つまり藤原北家の勝利に終わるのです。

この藤原北家(北朝・清和源氏系)が明治維新までの日本の主流だったということも、上記Wikipediaの文章で分かります。


ここで斎王制度/斎院の知識が必要になります。

(Wikipediaより)

■斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した斎王、または斎王の御所。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する[1]。

賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。その後、1953年に祭が復活したことを契機として、1956年の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。斎王代に選ばれた女性は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用し、舞台化粧と同様の化粧に加えお歯黒も施される。

斎院の起こり

賀茂斎院制度の起源は、平安時代初期に求められる。平城上皇が弟嵯峨天皇と対立して、平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は王城鎮守の神とされた賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を「阿礼少女(あれおとめ、賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)」として捧げると祈願をかけた。そして弘仁元年(810年)薬子の変で嵯峨天皇側が勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まりであると言われる。

斎院制度

伊勢神宮の斎王(斎宮)に倣い、歴代の斎王は内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入するが(角田文衞説では、斎院御所のあった場所は現在の京都市上京区櫟谷七野神社のあたりに相当するという)、この御所は地名により紫野斎院、あるいは単に紫野院とも呼ばれた。 斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に奉仕した。特に重要なのは四月酉の日の賀茂祭で、斎王はあらかじめ御禊の後上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行った。この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、清少納言が『枕草子』で祭見物の様子を書き留めており、また紫式部も『源氏物語』「葵」の巻で名高い車争いの舞台として描いている。

伊勢斎宮・賀茂斎院の二つの斎王制度が両立していた間、都に近い斎院の方が遠い伊勢の斎宮よりも重んじられていたようで、歴代斎院は斎宮に比べて女王が少なく、また生母の出自も高い例が多い。一方で斎院は天皇の代替わりがあっても退下しないことがしばしばあり、2朝以上任にあった斎院も少なくなかった。中でも、歴代最長の選子内親王は実に5朝(円融朝から後一条朝まで)56年間の長きに渡って斎院をつとめたことから“大斎院”と称された。なお、退下の後は斎宮同様殆どの斎院が生涯を独身で終えたが、天皇や貴族と結婚した斎院も少数ながらおり、院政期には数名の女院も出ている。

(Wikipediaより)

賀茂神社、伊勢神宮がでましたね?

これらがカラスということは説明しないで良いですね?

嵯峨天皇が、都を平安京から平城京へ戻そうとした平城上皇との争いに勝利した。

平城上皇と嵯峨天皇が戦っていたんですと書いてありますね?

そして嵯峨天皇が勝利した。

この嵯峨天皇に付いていたのが藤原北家。

対する平城天皇に付いていたのが藤原式家(上のWikipedia藤原式家にも記載有り)。

藤原京家、藤原南家など出て来ないのです。


ここで藤原式家(南朝・桓武平氏系)の家系図を見てみましょう。

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おや?平清盛が入ってますね?

と、わざと驚いてみましたが、平家とは藤原式家のことであり、源氏とは藤原北家のことであったのは周知の事実。

桓武平氏系って書いてありますね? 平氏って。清和源氏系って書いてありますね? 源氏って。

北朝=藤原北家(清和源氏系)であり、南朝=藤原式家(桓武平氏系)の戦いであり、京家でも南家でもないのです。

南家という名前=南朝と思っている人は素直でいいと思いますが、短絡的です。これは間違いです。

これがその後の源平合戦で、源氏が勝利し、鎌倉幕府ができるのです。

ここで北条氏に登場していただきましょう。

■北条氏

桓武平氏高望流の平直方の子孫を称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である。現在伝わる北条氏系図は、いずれも時政以前の系譜は系図により全て異なる。中には関東で成立した『源平闘諍録』に記された系譜のように、伊勢平氏の祖・平維衡の子孫とするものまであり、未だ定説が存在しない。こうした史料状況から、北条氏が自家の系譜が正確に伝わる家ではなかった事を示しているとして[1]、桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も少なくない。家紋研究家の高澤等は、同じ三つ鱗紋を用い、北条氏のように大蛇伝説を持つ九州緒方氏の祖である大和国大神氏の一族ではないかと論考している。ただし時政の祖父が時家、父が時方(または時兼)という点は諸系図でほぼ一致しており、時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とある。上横手雅敬は、土着したのはそう古い年代ではなく、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと推測している。

桓武平氏高望流の平直方の子孫を称し、とあります。

■桓武平氏

桓武平氏 50代桓武天皇の子・葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫。

葛原親王流、高棟王流、善棟王流、高望王流、万多親王流、仲野親王流、賀陽親王流とあり、その中でも高望王流に坂東平氏、伊勢平氏と平家、平家の落人と分類されています。

中でも高棟王流と高望王流の平家の落人に注目。

高棟王流
葛原親王長男の高棟王子孫。高棟王は天長2年(825年)に賜姓を受けて平高棟となった。
この流れは公家として京に残り、平安時代末期に平清盛の正室平時子(二位尼)と、その弟で清盛の威勢によって正二位権大納言にのぼった平時忠、異母妹の建春門院平滋子が出た。時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登に流され没落したが、時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は鎌倉時代以降も公家として続いた。歴史物語の今鏡に、「日記の家」と紹介されているように平記・兵範記をはじめ多くの古記録を残す。江戸時代には西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家という5家の堂上家を出した。

高望王流
葛原親王三男の高見王の子・高望王子孫。高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。
但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。(「望」と「見」は両方とも名読みで「み」と読める。)寛平元年(889年)に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望王はそのうちの一人と推定されている。
 
 坂東平氏

 高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。そして任期 が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢 力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。また、高望の側室の子良文もその後坂東に下り、良文の子孫も坂東に 散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。特に良文流の坂東平氏を坂東八平氏という。

 伊勢平氏と平家

 国香の孫維衡よりはじまる一族が伊勢平氏である。平氏の中でも伊勢平氏、特に正盛の系統(六波羅流・六波羅家)は「平家」と 呼ばれている。正盛の子忠盛が初めて昇殿を許され、忠盛の子清盛は平氏政権を樹立し栄華を誇ったが、壇ノ浦の戦いで滅亡し  た。
 維衡の子孫には他に室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏がおり、第13代将軍足利義輝の時代の政所執事・伊勢貞孝は幕政を壟断す るまでになったが、三好氏と対立して戦死した。貞孝の死後、伊勢氏は力を失ったが江戸時代には旗本として続いた。また伊勢氏 の傍流出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆・相模を平定し、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖となった。
 
 平家の落人
 
 各地に散らばって隠れ住んだ「平家の落人」の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして薩摩の種子島氏、対馬の宗  氏、尾張の織田氏などが挙げられる。しかし、これらは子孫だとしても伊勢平氏の子孫ではなく、「平家に仕えた郎党の子孫」と いうべきだろう(織田氏については藤原氏説もあり)。ただし、前述のように伊勢平氏に仕えていた郎党を他氏出身者も含めて 一括して「平家」と呼んだ用例もあるため、その意味においては「平家の落人」という言葉も全くの誤りではない。
 熊本県の五家荘や富山県の五箇山などは平家の落人の隠れ里と伝えられる。これら平家の落武者およびその家族、使用人等の隠れ 里と伝わる地を「平家谷」と通称する。
 室町時代に入ると『平家物語』が完成し、今日まで広く愛される軍記物語となった。

■織田氏

織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。

発祥地(苗字の地名)は越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)。本姓は藤原氏(のちに桓武平氏の系統と仮冒)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。甲斐氏、朝倉氏と同じく、三管領の斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。

織田氏は系図の上では平資盛の子と称する平親真を祖とする桓武平氏流と自称している。しかし、福井県越前町の法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる[1]。

この他、越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)の織田剣神社の神官の出自であるともされている[2]。

また、福井県の郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書で、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍・藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀郡の豪族藤原有仁(忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌、藤原兵庫助将広(将常)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実として織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ており、元東京帝国大学史料編纂官の博士・田中義成の研究によると、信長は実際に天文18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。

また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出目とする説もある。

(Wikipediaより)

織田信長は藤原信長であり、桓武平氏流と自称している。

信憑性が無いと注意書きが有りますが、『熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。」とあります。

ここで、破れた平家=藤原式家は、北条氏、織田氏として、逆襲のチャンスを狙っていたと仮定します。

すると、それ以降の日本の歴史が何だったのか?

戦国時代とは何だったのか? 太平洋戦争とは? 原爆とは?

水戸黄門、徳川家、大本、マスコミ、在日特権、パチンコ、K-POP、朝鮮総連、民団、統一教会、創価学会

日本全体の歴史や仕組みが芋づる式にクリアになってくるのです。

つかれたので、今回はここまで、それでは、


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コメント

維新時に欧米に利用された因縁話なのかも

おいおい分かったことですが、式家と北家の対立は、藤原薬子の変(平城太上天皇の変)のことなのですね。それで、この対立は、明治維新のときに欧米に目をつけられて、利用されたのでしょうか。式家の後裔を称した家は後世にはあまり存在せず、当の当事者が「式家」という家系意識を持っているのかは、まだ私には不明です。

また、「式家」と「北家」といっても、この場合の「式家」は桓武平氏であるわけで、清和源氏を仮称している家系とごっちゃになっていて、何が何だか判別が難しいです。ごちゃごちゃしていているのです。

昔の因縁といえば、中国の明と清の対立、朝鮮の新羅と高句麗・百済の対立まで、利用されている(利用している?)とのことですが、よくもまあ昔の因縁話をほじくるものです。明治維新時の欧米の調査が行き届いてこういうものを発掘したのか、はたまた江戸時代の朱子学・神道・国学・陽明学などが合体して発酵した際にそういう因縁話が出てきたのか、いずれにしてもあきれたものです。

薬子の変のあたりのゴタゴタは大宗教家の空海が静めて、1000年ほども都や政体を鎮護したらしいですが、現代においては、そのような偉大な大宗教家は望めそうもありませんか・・・。大宗教家というのは、500年か1000年に一度位の頻度でしか現れませんからね・・・。
このあたりは大変残念ですね。

このブログではあまり宗教家に期待していないようですが、それでも政権の安定化にはだいたい宗教家が貢献しているものです。必要悪とも必要善ともいえるのではないかと思います。

家康の真意

O’BRIANさま

『ご自身の考えを人に伝えて、陰謀論のウソ八百を暴くだけでも彼らの相当な痛手になります』とのこと、そうかもしれません。どうも慣れなくて、またパブリックスピーチや討論、ディベート、公論を起こすための文章書きなどをきちんと習っておらず、マナー知らずでお恥ずかしいばかりです。

O’BRIANさまの記事はどれも秀逸で、たいへん勉強になります。こちらこそ、これからもよろしくお願いします。応援しています。

家康の真意

とさま

まったくおっしゃる通りで、共感しています。

ですが、我々にパワーが無いというのは間違いです。

現に、この私も、名無し先生から一つのアドバイスを頂いております。

これをこのコメントだけで説明するのは困難なのですが、ご自身の考えを
人に伝えて、陰謀論のウソ八百を暴くだけでも彼らの相当な痛手になります。

これからもよろしくお願いします。

家康の真意

O’BRIANさま

家康の真意についてのヒントをありがとうございます。

以下は、私の個人的な感想です。

尾張徳川家の始祖である徳川義直にしても、水戸藩の光國にしても、宗家を「長男でない」との理由で継がず、それのみならず徳川宗家から警戒され疑われていました。いわゆる「ルサンチマン」がたまりにたまったのでしょう。
それを、学問や武道などで「正しさ」を追い求めるように、上の世代から諭され教育され、自らも励んだ結果、世代を重ねて思わぬ方向に「歪んで」「暴発してしまった」のかもしれません。なんだか、哀れなものです。
会津にしても累代、文武に励み正義を追求していました。
不幸なことにどこもかしこも(水戸藩以外は)、「タカス(高須)」されてしまいました。研究不足でうまく書くことが難しいのですが、「家系ジャック」が起こったようです。推測ですが、このことを「護持」していた勢力が当然あったのかもしれません。
そんなことが重なって、予期せぬ「暴走」が起こったわけです。(ある人たちにとっては計算どおりの「暴走」だったことでしょう。)

彼らの心底に溜まりに溜まった「ルサンチマン」というのが、まさに「西洋、ユダヤ思想」の動機に近いので引き合ったことでしょうし、他人から操作されやすくなっていました。
彼らはゼニゲバで、コミュニズムにもなじむけど、海外の共産主義などと比較すると極度の悪性はないようです。
国際的に信用を失っている状態というのは残念ですけど。

何か、よい方向に向かえるといいですね。

渡部 悌治の『ユダヤは日本に何をしたか』という本の内容で、往時の東亜連盟運動(陰謀)では、世界政府を作る一つ前の段階として、アジア連合があって、日本はそのなかにあってアメリカの一部として参加する予定だという内容がありました。(正確な引用ではありません。)
今まさに、TPPに日本が参加することで、日本が「アメリカの一部」となり、そして、日中韓EPAなどを日本が締結することでやがては「アジア連合」になり、さらには「世界政府」になるのではないかという懸念がしております。昔からのある筋の計画であろう、また日本国憲法なども既にこの計画を見込んでの仕込みを含んでいるのであろう、と思っています。
ただ、こういう方向を解除できる条項が他にもいろいろとあるわけで(偉大な先人が残してくれている)、しばらく、政治については目が離せません。(残念ながら個人的に観察するだけで、全然影響力がありません。またこの流れを変えるだけの勢力、大政治家も見当たりません。)
こういうのも「護持」している勢力というのが当然あるのでしょうね。

世の中おもしろいものです。

Re:さっそくのご回答をありがとうございます

とさん

肝心なことを忘れていました。

家康の性格です。策士ですからね。

両朝に血を残す事で将来、江戸幕府が倒されても徳川の血を残す目的です。その根拠ですが、徳川家康の九男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である徳川義直が朝廷主流支持派で尊王派であったこと。

水戸藩にもその影響を与え、國光は大日本史で南朝を正統派とした。また、義直は「王命によって催さるる事」という恐るべき一文を残している。つまり「(将軍でなく)天皇の命令によって動け」という意味であり、一歩間違えば幕府否定にもなりかねない。

違いますか?まあ、現代人でしかも一般庶民は、断定することはできませんので、仮説を立て裏付けをとり、結論付けするしか無い訳ですが・・・

さっそくのご回答をありがとうございます

O’BRIANさま

 さっそくのご回答、ありがとうございます。

 問1について、『今度、記事にする機会があれば、ちゃんと調べてみますね。 』とのこと、楽しみにしています。
 問2について、これは、近頃にわかに、式家VS北家という対立軸にて説明することがはやっているようです。O’BRIANさまにも大解説していただき、おかげさまで我が乏しい理解も少しは進歩が見え、ありがたく思っています。個人的には真の意味では納得していませんが、無理に暴き出すことを目的にしていません。(あまりしつこく聞くと、どちらさまかにご迷惑がかかるのではないかと、思っています。)
 問3について。世界征服したいからといって、国をつぶす、主権を献上・返上するという選択肢は、どうなのでしょうか。日本の支配層というのは、一国の統治者としての自覚に欠け、ゼニゲバであるだけだったのでしょうか。一庶民として、たいへん悲しいことです。

 日本の支配層が国際的に信用を失っているというご指摘、よく理解できました。陰謀論から語られることが多いなか、国内の勢力のことを今一度観察する機会が得られて、有難く思います。

Re:真面目な質問です

とさま

コメントありがとうございます。

1.南朝正統説 http://ja.wikipedia.org/wiki/南北朝正閏論 

 水戸光圀が作った大日本史は、密かに受け継がれていた南北朝正閏論と
 関係があるのではないでしょうか?家康は密かに南朝正統説を支持して
 いた? ですので、表の北朝、宗家には表の言葉。裏の水戸藩には裏の
 お言葉 だった のではないでしょうか?あくまでも勘ですよ。

 今度、記事にする機会があれば、ちゃんと調べてみますね。

2.ご質問の主旨がちょっと分かりにくいのですが、私のような者でもわかる
 ように、ご説明いただけないでしょうか?

3.日本の支配者が渡来人だからです。日本人のことは考えていません。
 ただただ、自分たちが世界征服したいだけです。ずっとそのことだけ
 を考え続けていることには、むしろ感心してしまいます。
 
 その事実をここで書いているのですが、それには名無し先生という
 協力な存在が無いと、ただの陰謀論になってしまいます。

 名無し先生の情報を元に、Wikipediaのような普通のことが書かれている
 情報を裏付けとしています。

 例えば吉田茂はジャーディンマセソン(麻薬、武器取引で有名)の日本
 法人の家系に養子にでされたとか、Wikipediaには普通に書かれています。

 これらを繋げて「信憑性」を出し、NWOは現実の計画なんですよ。

 でも、それを阻止する強大な組織が存在し、彼らが経済の崩壊や
 コミュニストの悪事を未然に防いでいるんですよ。ということを、
 多くの人に知らせたいのです。

 今の日本は世界から見捨てられるかどうかのギリギリ
 のところです。要は、復興予算が消えてみたりする国なんです。
 
 フィリピンと同じぐらい信用が無いんですね。ですので、フィリピンは
 インフラも最悪、貧困、治安の悪化といった地獄の3丁目のような状態
 なんです。このままいけば日本もそうなってしまいそうです。

 ネットで多く見られる陰謀系に取って代わるムーブメントを起こす。

 これが名無し先生と私の暗黙の契約です。
 

真面目な質問です

こんなときですが、真面目な質問があります。

問1.徳川家康は、一方では水戸家には朝廷(南朝?)をお守りするようにと言い残し、他方で徳川宗家には万一の場合には「輪王寺宮」(「輪王寺門跡」)(北朝)をお守りし東北へ落ちのびるように言い残してあったと聞き及びます。
これらは相矛盾しており、今日まで悪影響を及ぼしているのではないのでしょうか。(家康の真意はどこにあったのでしょうか。後代の者が家康の真意を誤解したのでしょうか。)

問2.一度武家となった家系の者には、武家としての誇りと矜持があります。これを公家として扱うのは無理があります。誰かのやらせではありませんでしょうか。何かの擬装でしょうか。カラスさまたちでしょうか。毛利家か島津家でしょうか。
(だいたい、最近同じ文章が幾重にもばら撒かれ、不自然で変です。お答えできる範囲で結構です。)

問3.こんな古い因縁のために、外国勢に利用され、自ら国を壊してしまうのは、どうかしているとしか言いようがありません。なんでまた、世界統一政府樹立とかコミュニズムなどにかぶれて、使嗾されないとならないのか、理解できません。何か建設的なご意見があれば、ぜひ伺いたく思います。
また、コミュニズムにかぶれたのは、いつからだったのでしょう。(まさか古代から日本はコミュニズムだった、日本の支配層はコミュニストだったとかではないのでしょうね。)

日本の未来に明るい展望をもたらすために質問しております。よきご指導をよろしくお願いいたします。

トラトラ

ヘロー

そういえば、あなたをブラックリストに入れましたからね、また来たら、また入れます、嫌なら来なければいいと思いましたので、そのような処置を施しました。

それでもここに来たいときは、住所と電話番号を教えてください。大切なお話が有りますので。

Re:もう無茶苦茶!

名前:トラトラトラ
タイトル:No title
ホスト:FLH1Acm118.kng.mesh.ad.jp
********************
卑怯者、
コメント削除したな。

ヤコブの神に呪われよ。
********************

Re:もう無茶苦茶!

トラ3さん

こんばんは

何を一人で熱くなっているのですか?

「コメント削除したな!卑怯者!ヤコブの神に呪われよ」

というコメントが来ましたが、ひどいですね・・・削除して無いじゃないですか

それが失礼だって言ってるのです。

まず、言葉遣いが日本人じゃないです。大変無礼です。

基本的に知らない人には、です。ます。で話すのが常識のある日本人です。

おめでとうございます。あなたはユダヤ原理主義者ということが確定しました。

とにかく、何の裏付け資料も無く、いいたいことだけ書き込んでくる。

あなたの主張を裏付けてみてください。根拠は?

そのスタイルは通用しないですよ、だから私はWikipediaを引き合いに出しているのです。それ以外、何が出来るのでしょうか?さも無ければ、私の書いている事さえ根拠が無くなり、あなたの駄文と同じレベルになるじゃないですか。妄想と呼ばれても仕方ない。

また、名無し先生は関係ありませんから。ひどいですね、顔が見えないからといってよくそこまで書けますね。

彼の正体を知れば、あなたなど、3日以内にアラスカ行きですよ。

あと、マヨと呼び捨てにするのもおかしいのでは?

マヨさんは名無し先生の偉大さが分かっていたからこそ、先生のお話に耳を傾けていたのですよ。

彼は先生の事を憎んでなんかいないと思います。

私が同じ目にあっても、私が悪かったのだと反省します。

これは先生と直接交信した人間しか分からないことなのです。

知ったかぶりをして、マヨさんを味方につけようとしても、マヨさんが迷惑だと思いますよ。

もう無茶苦茶!

こんばんわ。
不比等はテロリスト? はぁー。私見では大伴氏に暗殺されている。聖武天皇渡唐中に。
藤原四家の区別がきちんとできていないことから名無し氏の無知のほどが知れる。マヨは縁切りしてよかった。
藤原広嗣、この家系が藤原薬子、アテルイのこと。阿照日→アテルイ、太政天皇のこと。
斎宮の端緒も知らない。斎宮とは、天武天皇を雄略天皇が討ち取った後に姉の大伯皇女(聖武天皇実姉)と天武の息子(たぶん武智麻呂)と婚姻による新政権樹立によるいわば休戦協定の産物。正統蘇我氏の嫡流しかなれない。つまりその産んだ御子が天皇になれる。雄略天皇はこれにより失脚。後に聖武天皇として即位するまではずいぶん間が空いている。
日本の歴史を否定しながら、WIKIにたいして何の疑念も持たない。だいじょうぶですか?
平貞盛は桓武平氏。うごかない事実。清盛は白河院の子、家格は平家の棟梁。資盛の子孫が信長。
北条氏はもともと蘇我氏の系統で、新羅系つまり平氏との婚姻家系。

藤原信長とは、藤原北家の血も引いていることによる宗家への形ばかりのよいっしょのため名乗った。信長は私見では聖武天皇の血も引いている。根拠は忌部氏の家系でもあるから。かの有名な信長の肖像画の家紋五七桐紋は北家の家紋。北家が事実上の皇帝家だから。戦国期は没落していた。かげから日本を支配する力なぞなかった。それゆえの戦国。ちなみに秀吉は藤原北家の傍流。日本の歴史を否定し、辱め、国と民族との自尊心を破壊する意図。ゆるさん。

岩倉は北家の傍流。岩倉が伊藤と大久保と謀って孝明天皇暗殺。孝明天皇は孝徳天皇と同家系と思われる。司馬仲達の血脈。名は物部氏。
 
名無しとはとんだ食わせ物だ。こんな男に一年も翻弄されていたのか?マヨは。情けない。

原爆はオッペンハイマーたちが開発したものに違いないだろう。それを日本人のせいにする意図はなんなのか。いかがわしい。

裕仁は何者か。米国による原爆投下の意味は? 将来に向けて日米を離間させ、復讐させる為か? 中国人生体実験は中国に日本を占領させ、復讐の口実のためか? こいつは本当の悪魔だったのかもしれないおおもとは英国中心の欧州貴族だと思うが)。それを水際で阻止したのが、秦氏たちではないのか。秦氏は聖武天皇と一緒に仲麻呂によってパージされた。
秩序維持派? 秩序はぶっ壊されるに決まっているだろ。いまや3人に1人が貧窮世帯。これを維持するのか。ふざけるな。名無しの背後こそいかがわしい。昭和天皇を擁護するものは疑ってかかるべし。

No title

お忙しいなか、詳細な文章をありがとうございました。
本件、斉院斉王制度が絡んでいたのですね。
なるほど、と思いました。
記事に
>平家とは藤原式家のことであり、(略)は周知の事実。
とありますが、浅学な私には初めて聞くことでした。
当の桓武平氏に藤原式家の自覚があるのか、初耳の私にとってはピンときませんが、確かに・・・と思います。

三条、岩倉、西園寺などの家は確か藤原北家の流れだったと思います。ですから、南北朝といっても藤原北家内部の対立であると今までは理解していました。
今回、藤原北家と藤原式家との対立という古くからの確執もあったことが分かり、認識が改まりました。幾重にも因縁が重なるものなのですね。そういえば、蘇我氏と物部氏(石上氏)の対立も重なっているとか、どこかのブログで見ました。歴史とは深ーいものなのだと驚きあきれるとともに、本当に当事者はそんな大昔の因縁話を信じ囚われて、この現代社会を生きているものなのでしょうか、たいへん不思議に思います。

実は、私事ですが、私には北家の血も式家の血も入っているのだと思います。あっさりとそうなのです。あまりに面倒なことなので聞かなかったことにしたい気もします・・・。
(せっかくこんな長文を書いていただいたのに、これもまた失礼な言い方かもしれません。すいません。)

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