大正天皇の病状判明「大正天皇実録」ほぼ全文を公開 小学校での様子を記した箇所も

大正天皇の47年の生涯を記録した「大正天皇実録」について、宮内庁は1日までに、個人情報保護などを理由に黒塗りにしていた部分の大半を解除し、ほぼ全文を公開した。ニュースをまとめ。

更新日: 2015年07月07日

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isaaccさん

○「大正天皇実録」についてほぼ全文を公開

大正天皇の47年の生涯を記録した「大正天皇実録」について、宮内庁は1日までに、個人情報保護などを理由に黒塗りにしていた部分の大半を解除し、ほぼ全文を公開した。

脳貧血などの病状や、元老の山県有朋ら要人と頻繁に面会していたことが新たに判明した。

これにより、幼い頃から病弱で47歳で崩御した大正天皇の病状の一部や面会者の氏名などが新たに公開された。

全85冊の本文のうち、約3%だった非公開部分が約0・5%に減った。学業成績や病気の詳細な診断書などは、引き続き黒塗りとした。

○大正天皇実録とは?

その大正天皇の日々の動静を記した公式の記録集が「大正天皇実録」です。

昭和2年から昭和12年まで10年余りかけて当時の宮内省が編さんしました。

大正天皇の47年余りの活動が年代順に日誌のような形で記されていて、本編は85巻5000ページ余りからなります。

○11年施行の公文書管理法により、公開基準を見直し

大正天皇(1879年(明治12年)8月31日 - 1926年(大正15年)12月25日)は、日本の第123代天皇。
諱は嘉仁(よしひと)。
幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。
お印は壽(じゅ)。
明治以降で初の一夫一妻制を採った天皇。

同実録は1927年から10年間かけて編さんされ、宮内庁が2002~11年に4回に分け公開したが、全体の約3%が黒塗りされた。

11年施行の公文書管理法による「時の経過」などを考慮し、公開基準を見直した結果、今回、黒塗りは全体の約0.5%に減った。

○黒塗り部分には、小学校での様子を記した箇所も

黒塗りが解除されたところは、本編だけでも1000か所以上におよびました

この中には歴代の天皇で初めて学校に通った大正天皇の小学校での様子を記した箇所もあります。

明治26年7月、学習院初等科の卒業式の記述のあとにあった、父親の明治天皇に宛てられた学校の成績などの報告書です。

これまでは21ページにわたって黒塗りにされ全文が伏せられていましたが、今回、成績の順位とみられる箇所を除きほぼすべてが公開されました。

そこでは、大正天皇は、明治20年、8歳でいまの小学2年生にあたるクラスに編入されたものの、病気で83日欠席し、進級試験も受けられなかったため留年することになったと記されています。

○逝去する前に数回脳貧血か

当時の崩御時新聞

初めて公開された記述からは、崩御の前年の大正14年に脳貧血で「一時人事不省」に陥り、3カ月以上寝たきりだったことなどが分かった。

逝去する26(大正15)年の5月11日午前2時40分と、4カ月後の9月11日午前11時25分にも突然、同様の症状が起きていた。

特に5月は「約四十分間ヲ過ギテ醒覚アラセラル」とあり、長時間、意識がなかったことが分かった。

○多忙な公務で重い病気になっていった背景

山縣 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日) - 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。
内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。

1915(大正4)年1月3日の記述は、日付以外黒塗りだったが、山県有朋と面会し、晩さんを共にしていたことが判明。

面会者の氏名が明かされ、政府や軍の要人と頻繁に面会し、第1次世界大戦の戦況報告を受けていたことも分かった。

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