順調なコピーライターの仕事 でも心は満たされず

西日本新聞

放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(23)

 フリーのコピーライターだった私は、どんなに小さな仕事でも真面目に取り組みました。それが認められたのか、大きな仕事が舞い込みました。

 大学を卒業して3、4年の頃、有名企業がクライアント(顧客)になりました。東洋工業。今のマツダですね。当時爆発的にヒットした車が「ファミリア」、この大衆車のパンフレットの仕事を受けました。「てんとう虫のサンバ」で一世を風靡(ふうび)したチェリッシュがCMソングを歌いました。

 依頼されたのはコピーと商品の説明をするボディーコピーです。ここまでは喜ばしいことでしたが、後が大変です。何が大変かって? 当時の私は車の免許を持っていなくて、車のことも詳しくなかったのです。「それでも、この仕事は逃したくない」と必死で勉強しながらコピーライティングをしました。おかげで高級車「ルーチェ」の仕事も入ってきました。

 雑誌「広告批評」の編集長だった天野祐吉さんが、月刊リクルート誌上で私のコピーを評価してくれました。ゲーム会社ナムコの求人広告でした。灰皿や本なんかで散らかった机の上にあるのは「C」だらけの成績表。「『C』が多くても、いいじゃないか。」のコピーを添えました。天野さんは「最近の求人広告ではAの部類に入る」と書いていました。うれしかったですね。

 何とか家族も養えるようになりました。でも心の底から満たされる実感はありません。不動産会社の仕事を受けたときのこと。都会の新築マンションは「駅近」が売れます。駅から「徒歩10分」のところを「徒歩5分」とコピーを書いてくれないか、と広告代理店から相談されました。

 私は拒否しました。自分で歩いたら10分です。許されなかった。今なら「サニブラウンで1分ジャスト」のコピーで良かったかもしれません。

 あくまでも私の実感と持論ですが、コピーライターは基本的にクライアントを褒めないといけない。妥協も必要です。コピーの良しあしにかかわらず、大手代理店ほど大きな仕事をもらえる。だけど仕事が大きいほど矛盾も大きい。否定するわけではありません。生活のためには自分を押し殺し、我慢しないといけないこともあります。

 しかし、このマンションの仕事は自分にとってAじゃない。1981年、28歳の秋。そんなことを考えていた頃、新聞のある募集記事が目に入りました。

(聞き手は西日本新聞・山上武雄)

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 海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。

※記事・写真は2019年07月12日時点のものです

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