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イキですてきな仲間たち―電通を創った男たちⅡ―No.21

2016/10/15

日本のテレビCM史の流れを変えた異才 ― 今村昭物語(3)

今村昭はいかにして多様なCMを生みだしていったのか

 

さて「イエイエ67」と前後して、今村昭が、レナウンの様々なブランドのCMを企画、制作していたことには前回すこし触れた。次はそれらを見てみよう。

当時レナウンの赤ちゃんから幼児用の肌着アパレル「ピッコロ」というブランドがあった。このCMは2本ある。ひとつは「息子よ」という60秒。エデンの園みたいなところに赤ちゃん(男児)がおり、両親が現れ、ナレーションがかぶる。「息子よ、おまえに贈り物をしよう。おまえの肌のために、レナウンのピッコロを…」。以下商品説明まで父親が語り、うまく訴求しているのだが全く嫌味がない。今日のイクメン・パパが見たら、落涙を禁じえないような出来栄えだ(大袈裟?)。賞はなにもとっていないのだが、実は驚くべきことがある。この演出監督は、大林宣彦なのだ(!)。

ピッコロCMのカット
ピッコロCMのカット

ここでちょっと背景を語る。大林監督は当時、一部にしか知られていない実験映画作家であった。その作品のひとつに「いつか見たドラキュラ」という高評価作がある。この映画の出演者のひとりが、なんと、「イエイエ67」のプロデューサーの喜多村寿信なのだ。

彼は、任侠のキタやん、と呼ばれたほどの熱血漢で苦み走ったマスクのいい男だった。仕事に厳しく、回りからは恐れられたようだが、後に電通新入社員となった語り手は、なぜか随分可愛がってもらった(べつに殴られたわけではない。息子のように接してくれたのである)。閑話休題。ところで、彼は自身の劇団「未来劇場」も主宰していたのだが、この映画を観ろ、とフィルムを借りてきた。観た今村昭は、(本人の言葉を借りると)「ブッタマゲタ」。すぐに大林監督に会いに行き、このCMを依頼したのである。

実はこの時、大林は既にテレビCM界へ進出し、小田桐昭とのCMなどを演出していた。このきっかけをつくったのが電通の水島寛なのだが、ここでも映画がらみの感動的裏話がある。ただ、あまりにインサイドストーリーなので、機会があればこの連載のどこかへ回そう。

さて、今村と大林はなにからなにまで双子みたいなものだった。今村は後に書いている。どちらも山羊座、B型、医者の息子(大林は漢方医の家系である、今村が歯科医の子なのは第1回に書いた)、港町育ち(大林は尾道、今村は福島小名浜)、手塚治虫漫画の熱狂的ファン、西部劇大好き、ドラキュラ大好き、鈴木清順映画の初期の理解者、どちらも、そしてCM屋 ─ この二人は気が合いすぎて、同好の士を超えて同士なのが、会ってすぐに互いにわかってしまった。では、二人が組んだCMは、さぞ多数に、というと、これが違う。この「ピッコロ」から以後10年以上、今村は大林監督に依頼をしていない。あまりにも同士過ぎるのでCMで同じのが二人いる必要もないと考えたらしい。

後に組むのは1977年のAGF(味の素ゼネラルフーヅ)「マキシム」(主演カーク・ダグラス。現在俳優でプロデューサーでもあるマイケル・ダグラスは彼の三男)からである。このCM企画、制作には語り手も参加しているので、詳細は後の連載で書こう。

ただし、この空白の10年で、二人は全く接触していないのではなく、今村は大林の映画の仕事の方でいろいろ協力をしていた。それどころか、大林監督の初の劇場用商業映画「ハウス」(東宝)で出演までしている。

「ハウス」出演シーン
「ハウス」出演シーン
 

「ハウス」は池上季実子など7人の美少女アイドルが出演したホラー・コメディーだが、今村昭は「石上三登志」でクレジットされている。役は写真屋さんでベレー帽、髭、芸術家風、しかしサイレント場面なのでセリフはない。それで文句をつけたんだそうだ。俳優ではないから、ほぼ本人のままである。

「ピッコロ」にもどる、もうひとつは「椅子」という60秒である。当時珍しい(今でも?)ワンカット撮影である。タイトル通り画面にはデカイ椅子が据えられ、そこを幼児がウロウロするだけ。ナレーションは「レナウン・ピッコロはストレッチ素材、赤ちゃんの肌を守り、自由、思い切り暴れさせてください」というような即物的なものだが、なんとなくメーカーと親の愛情を感じるCMではある。

ピッコロ―椅子編のCMより
ピッコロ―椅子編のCMより

そして、まあ、この演出監督が鈴木清順!なのである。日本映画史に欠かせない、この監督をCMに引きずりこむなんて荒技を当時、今村のほかにだれがするだろうか?このCMは1969年、ACCシルバー賞を受賞している。今村は鈴木清順に次のように頼んだらしい。「監督の力の百分の一くらい出してもらえばいいんです。赤ちゃんと、母親を暗示するようなソファだけ使って。あとはなにも使わずに」。当時、鈴木監督はあまりにアート的につくるという理由で日活をクビになっていた。今村はこのアート性がCMに使える、と考えたようだ。同時に天才肌の監督があんまり奔放にできないよう、上の条件をのんでもらったらしい。続いて、レナウンのポロシャツのブランド「ジョンブル」のCMも依頼している。

今村昭の頭の中に、映画、ひいてはエンターテインメント界の人材データベースが少年時代から形成されていたことは既に述べた。おそらくこのころ、さらに日本映画、テレビドラマ、当時非常に盛んだった海外テレビドラマ(主にアメリカ制作)、アニメ、そして同時代のテレビCMなど、のデータも蓄積され、勉強もしていたのは間違いないだろう。

さらに今村は、アメリカの劇映画に傾倒してきたわけだが、これらを生みだすアメリカの文化的背景風土と、これにのめりこむ自分自身とはなんなのか、に深い関心を持っていた。そしてこれは語り手の推測なのだが、ジグムント・フロイドの精神分析学を勉強し、ツールとしたと考えられる。

まず、石上三登志名での映画論、漫画論、ミステリー論などでの分析、批評にはこのツールが駆使されているのが濃くうかがえる。

また今村は広告論というものは、ほぼ書いてないのだが例外がある。それはアメリカのレンタカー会社エイビスが1963年に開始し、7年も続いた有名なキャンペーン「エイビスは業界2位です!」を論じたものである。

この制作はDDB、当時から広告の教科書、伝説と言われたが、今村は前述のツールを駆使し、これがなぜ大ヒットしたのか、アメリカ社会はなぜ受け入れ歓迎したかを一刀両断に解説している。(いま読んでも小気味よすぎるくらいである)。

エイビスの広告を論じた一部
エイビスの広告を論じた一部
 

今村昭は、こうしたことをベースに自分のCM方法論を模索したであろう。おそらく企画、プレゼンしながらも、そのイメージは描かれていたに違いない。今村は自身の哲学、つまりはものの考え方を、著述としては残してはいない。しかし、ある証言がある。それは今村の著作ではなく、大林監督の本の中である。このころから10年以上後になるのだが、今村は大林監督と非常に長時間にわたる対談をしている。そこから、いくつかの今村の発言に耳を傾けてみよう(抜粋です)。

大林監督とのツーショット
大林監督とのツーショット
 

─ 広告はアンハッピーなことはできない。ブラックユーモアもいけなくはないが、秒数がない。通ウケはするが、俗ウケしなかったりとかね。

─ 映像体験をテレビから出発させたたくさんのファンやマニアをどうするか、そんな具体的なコミュニケーションの出発点がテレビCMであるわけです。

─ ぼくは映画が好きだから、テレビも好きです。その逆でもある。

─(CMや映画の)視聴者や観客というのは甘くはない。

─ 映画はマニアックになれるもので、映画を論ずる人はそのマニアから出発しているから、こだわりが強い。でもマニアはマニアの気分にしかなれない。ぼくや大林さんがやってる広告創造はマニアじゃできない。だけど出発点は、これはもう「趣味性」しかない。

そして、ある核心的なことを語っている。

─ ぼくのささやかな広告哲学は、1に趣味性、2にチャンス、3、4はなくて、5に、てめぇが興奮することだと思っている。趣味性は、モノをつくる人間の原点だし、チャンスは、「現在」(チャンスとルビあり)というのをどれだけ捉えられるかという事です。

─ 同士、大林との胸襟を開く対談だからこそ今村は本音を語れたのであろう。語り手はここに、アマチュアとプロの違いと覚悟を感じてならない。趣味性に富むクリエーターというのは確かに昔も今もいるし、1、2回のヒットは出せるだろう。しかし、長年にわたりアベレージを出せるだろうか?

今村昭は、こうして確かに、趣味性から出発はしながらも、マニアでありながらも、そこにはとどまらない、プロフェッショナルのCMクリエーターとして、なおも果敢な挑戦を続けていく。そして電通にカンヌ広告賞の金賞を持ってくることになる。

(文中敬称略)


◎本連載は、電通OBの有志で構成する「グループD21」が、企画・執筆をしています。
◎次回は10月16日に掲載します。