塚本晋也監督、大林宣彦イズムを受け継ぐ…「映画はこんなにも自由」43年前から心酔

2015年7月、大林宣彦監督(右)の地元・広島県尾道市で酒を酌み交わした塚本晋也監督
2015年7月、大林宣彦監督(右)の地元・広島県尾道市で酒を酌み交わした塚本晋也監督

 10日に肺がんで死去した映画監督の大林宣彦さん(享年82)を師と仰ぐ塚本晋也監督(60)が12日、スポーツ報知の単独電話インタビューに応じた。自主製作映画出身で戦争を描いた作品でも共通点のある巨匠について「映画はこんなに自由に表現していいんだと教えてもらった。その遺志を受け継いでいきたい」と語り、大林イズムの継承を誓った。

 映画界で独自の道を切り開いた先駆者の背中を追い続けた。“大林チルドレン”とも言われた塚本監督は突然の悲報にぼう然とした。新型コロナウイルスの影響で延期となったが、最新作「海辺の映画館―キネマの玉手箱」の公開予定日だった10日に亡くなったことに「あふれる映画への情熱、執念を感じますね」と大林監督をしのんだ。

 ひとつ心残りがある。「遺作になった『海辺の映画館』は、公開されてからお金を払って見に行こうと思っていた。感想を届けられなかったことが残念で悔しい」と唇をかんだ。「コロナの終息が見えて、映画の再開期日が決まっていれば、そこまで頑張れたかもしれない。監督も『映画は公開されて、お客さんに見てもらってナンボ』と言っていた。コロナが憎いです」と力を込めた。

 “映像の魔術師”に初めて触れたのは43年前。大林監督の商業映画デビュー作「HOUSE ハウス」(1977年)を見て衝撃を受けた。「面白くて、ユニーク。こんなに自由に表現していいものなのかと圧倒されました。芸術性と娯楽性を融合させるバランス感覚が絶妙で、どの作品も詩的ですよね」。言葉を交わすようになって20年以上だが、ここ5年ほどは特に親しくなり「酒を飲みながらコマ撮りの技法について語り合ったことがありましたね」と思い出を語った。

 いつも優しく柔和な笑顔が印象に残っている。大林監督が16年8月に肺がんで「余命3か月」を言い渡された時も「こちらから病気のことは聞きづらかったけど、大林監督の方から切り出してくれて。『がんに打ち勝とうと思って、真面目に付き合っちゃだめなんだよ。ボケーッとして、共存するつもりでいれば大丈夫なんだよ』と明るい口調だった」と振り返った。

 反戦・平和の思いは共通していた。塚本監督が戦争の悲惨さを壮絶に描いた映画「野火」を完成させた時には「喜んでくれました。『戦争を描く時には悲観的になりがちだけど、そうじゃないのがいい』と言ってくれて。背中を押された気がして、うれしかった。大林監督の遺志は受け継いでいきたい」。巨匠からの励ましが、今でも心の支えになっている。(有野 博幸)

 ◆塚本 晋也(つかもと・しんや)1960年1月1日、東京都生まれ。60歳。14歳で8ミリカメラを手に映画製作を始めて89年の劇場映画デビュー作「鉄男」でローマ国際ファンタスティック映画祭グランプリ。主な監督作品は95年「東京フィスト」、03年「六月の蛇」、04年「ヴィタール」、15年「野火」、18年「斬、」など。俳優としても16年「シン・ゴジラ」(庵野秀明監督)、「沈黙―サイレンス―」(マーティン・スコセッシ監督)などに出演。ベネチア国際映画祭では2度、コンペ部門の審査員を務めている。

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